第002回国会 治安及び地方制度委員会 第2号
昭和二十三年九月二十七日(月曜日)
   午前十時二十六分開会
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 本日の会議に付した事件
○本庄町事件に関する派遣議員の報告
○國家秩序の紊乱行動に関する件
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○委員長(吉川末次郎君) これより治安及び地方制度委員会を開会いたします。
 先ず最初に先般お決めを願いました埼玉縣の本庄町の事件に関しましての実地調査の結果の報告をいたすことにいたしたいと存じます。
 本件につきましては、鈴木委員からお申出がありまして、実地調査を本委員会においていたすことになりまして、その節鈴木委員並びに岡本委員の御両人に実地調査を願うことを大体予定いたしておつて、そうしたことの実際上の取調べもいたしておつたのでありますが、途中鈴木委員より事故のために出張いたし難いというところの申出がありましたので改めまして非公式に皆さんと御相談いたしました結果、ひとり個別的な問題に関しての調査ということでなくして、先般來我々の委員会においては警察制度の改正について特に小委員会を設けて調査研究をいたしておるのであるから、それとの関連性においてこの問題を調査すべきであるというようなお話がありまして、尚又成るべくならば各党派からそれぞれ派遣されて実地調査するように決めた方がいいだろうというようなことに大体決まりましたので、その趣旨によりまして、委員長及び理事にそれについての計画の作製を委任されまして、それで緑風会からは岡本愛祐委員、民主自由党からは黒川武雄委員、民主党からは中井委員並びに社会党からは青山正一委員の四委員に実地調査を願うことに大体決めたのでありますが、中井委員はお差支がありましてお出でを願うことができませんでしたし、又青山委員もお差支えがありましたので変わりまして私が参りまして、岡本、黒川両委員並びに私で、九月二十一日から二十二日、二十三日の三日に亘りまして同事件の実地調査をいたしましたわけであります。
 先ず九月二十一日に最初埼玉縣廳を訪れまして、そうして埼玉縣の知事、副知事並びに埼玉縣の國家地方警察の公安委員長並びに警察長その他の諸君と会談をいたしまして、本事件に関する縣側並びにそれらの集まつた人達を通じての大体の全貌を聞き、更に午後浦和の檢察廳の檢事正と会談いたしまして、大体のの実地調査の計画を作つたわけであります。更にその翌日本庄町の町会議場におきまして、本事件に関係のあるところの人の集まりを願つたわけであります。本庄町の町長は病氣のため欠席いたしましたので、その代理といたしまして町の助役並びに町会の議長それから本庄町の公安委員、本庄地区の警察署長、本庄町自治体警察の署長、それから問題になつておりまするところの本庄区檢察廳の大場副檢事並びに飯塚事務官、それから本庄町駐在の各新聞の代表者及び朝日新聞の問題になつておりまする岸記者に暴行を加えたというところの元本庄町会議員の大石某、それからその事件の発端をなしました隣縣の群馬縣の豊受村の銘仙紡織組合の代表者、それから八月二十六日の本庄町民大会の副議長をしました中田君、それからその大会を開催する、その他のことの今度の問題についての刷新運動の團体であります町政刷新期成会の代表者数名、その他に本庄町会議員、それから警察の後援團体でありまする警民協会の代表者、その他の人の集まりを願いまして多少公廳会式な形で本事件の調査をするところがあつたのであります。
 その事件につきましては、諸新聞、殊に朝日新聞が連日に亘りましていろいろと報道をしておるところがありまするし、大体において事件の内容につきましては御了承のことだろうと思うのでありますが、尚取調或いは実地調査の内容につきましては、克明に專門員がいろいろノートをして呉れておりまする調査書類も今日ここに持つて参つておりまするし、又尚それに関するいろいろな資料等も取揃えてございますから、それによつて御了承を願いたいと存ずるのであります。調査の結果につきまして、多少私見が加わりまするかも知れませんが、それらの点は、更に同行いたしました岡本委員、黒川委員より又いろいろ御報告もあることだろうと思いまするから、併せて御承知が願いたいと思うのでありますが、結局におきまして、これらの三日間の調査、三日間というのは、二十三日の行動を御報告申上げるのを忘れましたが、二十三日は二班に分れまして、私は專ら本庄町に滞留いたしまして、地元の來訪者、それは刷新同盟側に加担しておる人、又それの反対の人からのいろいろ向うからの進んでの話がありましたので、專らそれを宿舎において聞く事にいたしまして、黒川、岡本の両委員は、その事件の発端をなしました群馬縣の豊受村の方へお出でになりまして御調査を願つたわけであります。その調査につきましては、お出でになりましたお二方から、私の後に御報告があることだろうと思つておるのであります。それで話が元に戻りまして、調査の結果についてでありますが、私はその事件につきましては、個々の事件の事実について、それが黒であるとか或いは白であるとか、こう言われておるとか、その通りであるとか、或いは朝日新聞の書いてあることが虚報であるかいうようないろいろな情報があるのでありますが、そういうことについての黒白を付けるということは必ずしも私達の実地調査の目的ではなかつたと思うのであります。全般的な地方行政及び警察行政の面からその全体的なことに関する一つの個別的なこととして考えて行きたいと思うのでありますが、それは戰後におけるところの日本の地方自治体の行政及び警察行政を通じての時代感覺の相違に基く新旧思想の衝突というようなことが中心になつておるところの面を我々は大きく採上げて問題として行くべきではないかと思うのであります。專らこの事件は御承知でありますように、本庄町における朝日新聞の駐在員でありまする年齡二十四歳の東京大学の独法科を卒業した青年記者が同地方においての保守的な又封建的なこの公共行政に対する雰囲氣が濃厚であるということに対して非常に忿懣を感じておつたのがいろいろのことが切掛けになつて、多数の人の前でその人が書いた記事に関連して町会議員、殊に副議長を務めておつたことのある賭博前科三犯の経歴を持つた大石町会議員が暴行を加えたということを切掛けといたしまして、そうした封建的な悪い面の現れが非常にあるということ、町政及び警察行政がそうしたものと結び付くところの地方の保守的な勢力によつて壟断せられておるということに対する念懣と反抗的な、或いは革新運動を起こすというような意味の朝日新聞が記事を書き、又それに対して同町における青年分子が中心になつて町民大会を開いたり、或いは諸種の輿論を喚起するところの運動をして、そうして事件が段々と拡がつて來たと見るのがその本体を成しておるものであるかと考えるのであります。
 私見を以ていたしますれば、新憲法が施行されて日本の政治の民主化が行われなければならない、或いは無血民主革命が行われなければならないということが言われておるのでありますが、地方自治体の行政において然らばどこまで新憲法の精神に副うところの、そうした民主化が行われておるかということを我々が見ますときには、全國の地方自治体の行政を通じて、そうしたことは少しも行われておらんというように断言いたしてもそれ程不当でないと私は思われるのであります。これは我々の委員会におきましても大きく取上げて日本の自治体の行政の民主化の方法を考えて行かなければならんことであると思うのでありますが、たまたまそういう事件発生を切掛けといたしまして、同地方におけるところの青年を中心とする進歩的な勢力が爵然として立上つたものであるというように見るべきではないかと思うのであります。それでその運動に対して反対的な意向を持つておりますところの人からは、ここの朝日新聞を中心として取上げられておるところの事実が必ずしも新聞の報道の通りでないとか、或いは一万以上も人口二万余りの小さな町で集まつた民衆大会というものが、必ずしもその町民大会といつておるけれども、町民が集まつたのではない、余所の地方の人が非常に集まつておるのであるとか、或いは朝日新聞の記者を毆つたところの大石という町会議員は賭博の前科はあつても今日では何も悪いことをしておらんのだから朝日新聞の記者が生意氣であつたのだから殴られたのは当然であるとか、或いは問題にせられておるところの、その警察の後援團体の警民協会というものに寄附金をすることが何故悪いのか、そういう公共事業に金を寄附して警察署の廳舎を建てたり、警察の仕事を後援してやることを非難するというようなことは怪しからんじやないかというような、いろいろなこの町民刷新運動に対する反対の意向がいろいろあるのでありますが、それも一々聞きますれば、大体において間違つたことを言つておるわけではないのでありまして、そう言う人からは誠に時分のしておることが悪いことではない、正しいことである、その通りである、妥当なことであるというように感じて十分の自信を以てそれに対しておるということもうなづけるのでありまして、又客觀的に見ましても大体その通りであるかと思われるのであります。それで私がむしろさつき申しましたようにそれは時代感覺の相違から來るところのやはり意見の衝突であるということが基本になつておるのじやないかと思われるのでありまして、我々の見地からいたしまするならば、地方行政の民主化の見地からすればその青年を中心として行われた町政刷新運動というものを強く支持してやる立場に立たなければならんのではないかと考えるのであります。いろいろそうした見方の相違や、意見の相違から朝日新聞の記事そのものに対しても異説があるのでありますが、私は大体におきまして、朝日新聞の本庄町の事件に対して取つた態度というものは、政治の批判者である新聞紙の立場としては正しいものである、その新聞社が取つた立場は我々日本の地方行政の民主化を意図しなければならないところの國会の立場からも支持すべきものであるというように考えまして、私はそのようなことを新聞社の諸君にもお話申上げたような次第であります。尚又この事件につきまして、一万以上町民その他の民衆が集まりました大会等が共産党がやつておるのである、共産党が指導権を握つて共産党の党勢拡張運動としてやつたものにすべてが引掛けられておるというのだというようなことも随分聞いたのでありますが、実地調査いたしました結果の私の印象からいたしまするというと、最初は共産党がそうした積極的意思を以て加わつて來ておつたことは或る程度まで事実であると思うのでありますが、実際上のその刷新運動の主体的勢力をなしておるところの人に個人的にも会つているいろいろ話をしますると、極めて堅実な、そうして立派な見識を持つたところの進歩的な青年でありまして、その運動の展開の上においては、その筋からも注意があつたことと相俟ちまして、共産党とはその運動を峻別してやつておりまするし、それらの人も思想的にも決して共産党の影響下にやつたということはそれは全く誤まりでありまして、大体において保守主義的な、その時代感覺を欠除したところの人達が自分が正しいと思つて、そうしたそれの対する反抗運動をやつておるのでありますから、自分の考えと違うものは、これはすべて共産党であるというような無知識からく來る罵言をいたしておるのがそうした批評に対する私は原因をなしておるのではないかとこのように見て帰つたのであります。尚、この度の事件を中心といたしましての警察行政についての面につきましては、警察法を審議いたしますときにこの委員会においても問題になりました警察の後援團体、例えばこの事件における本庄町の警民協会というようなものが民間の寄附金によつてそれを経営いたしておるというようなこと、そうした民間の寄附金によつて警察行政の後援團体が組織され、運営されるということについては、これを禁止するところの條項を警察法の中に規定すべきであるという説が、その節岡本愛祐委員その他の方々からも主張され、又私はそれは年來の主張であつたのでありますが、これは適当の時期において現在の警察法を改正するときにその禁止條項を挿入するように改正しなくちやならんのではないか、特に今度の事件に関連いたしまして更にその念を強くいたしたのであります。
 それから第二番目には、これも又本委員会におきましてたびたび委員の方から問題にせられたことでもありますが、國家地方警察については國家地方警察本部という全國的な統制、指導、監督の機関があるけれども、自治体警察については強いて求めれば総理大臣であるが、実際的には國家地方警察本部に該当すべき全國の自治体警察行政に対する統制、監督、指導の全國的な機関がないということは、再檢討を要するのではないか、直ちにそういうものを今設けるべきであるということを私は今確信を以て申上げることはできませんが、少くとも我々はもう一度これを檢討して見るべき必要があるのではないか、こういうようなことを感じまして帰りましたようなわけであります。
 大体以上御報告申上げまして更に詳しいことは資料、書類等について御覧を願いたいと思うのでありますが、尚私の報告に足らざるところ、又御意見の違うところ等がありましたならば他の委員の方から御報告を願うようにいたしたいと思います。岡本さんどうでしようか……
○岡本愛祐君 私が本庄事件を見て参りましたところを御報告いたします。
 具体的の事実並びに新聞に書かれておつた事柄が間違つておつたかどうか、そういうようなことは今詳しくここで申上げませんで、私がこの事件について地方自治行政全般に通じまして感じましたところをお話いたしたいと思いますが、つまり本庄事件を通じて我が國の現在の自治行政に教訓となる点を申上げて見たいと思うのであります。今吉川さんから段々お話がございましたが、大体において私はその御意見に賛成でありますが、我が國は申上げるまでもなく、まだ民主化に徹底しておりません、民主主義化の過程にあるのでありまして、この民主化する過程にあつて、まだ社会にはその封建的の事が殘つておる、これは申すまでもなく皆さん御認識の通りであります。ところが自治体警察というような制度は甚だ理想的な民主化に徹した社会ができ上つた後の警察制度でありまして、この理想的な警察制度と民主化の過程にあるところのこの現実の社会とこれとの食い違いが今度の事件で濃厚に私は出て來ておると私はこういうように觀察して参りました。まだこの社会にはこの何とか組というようなテキ屋とか、博徒とか、そういうふうな職業を持つておるものがありまして、親分、子分の関係に立つておるそういう組織が半ば公々然とあるのであります。これが暴力團ということに確定されますとそれはどんどん警察で取締ることになつております。この間も又徹底的に取締れというようなことが國家地方警察本部から出ております。自治体警察についてもそれについて協力しろというようなことが出ておりますが、併しこれが暴力何々組が確かに暴力團ということに言えないようなところもありますからこういうのがあるのであります。本庄は上州に近いところの、群馬縣に近いところでありまして、從來からそういう博徒的な人が少からずあつたところであります。それにこれはおかしな話でありますが、政府の方でその宝くじとか、それから競馬とか、そういうものを非常に射倖的なことを獎励いたしておる。これは日本の財政の一端にするつもりで獎励しておるのでありますが、そうしまするとこの博打というようなものは自然にこの勢を得て來るのであります。そうでなくても博徒の多いようなところでありますから、本庄は博打がなかなか盛んなようであります。あすこの助役に聞いた話でありますが、町会なんかに列しておる人々にもそういうことをやる人がないではないというようなことも聞いております。そういうふうになつて來ますと、この何々組というものがはびこる余地が十分出て來るのであります。而もこの何々組の組員と言いますか、それは本庄町にたむろしておるだけではありませんので、附近の各農村に家を持ち、正業を一方には持ちながらその組に入つておるというような人もあるのであります。一般の町民、村民は彼らに対してまあ社会惡だとは思つておるけれども不感症になつておるところもある。そういうものは現在の社会の現実だとして大目に見ておるといいますが、心あるものは非常に顰蹙し口にこそ出しませんが、それを排斥しておりますけれども、一般の人はこれを見逃しておるというのが現状であるのであります。
 それからこの統制経済に連れまして、統制経済の一方には闇が出ております。統制破りが出て参ります。本庄町に例を取つて見ますとあの地方は從來から養蚕の非常に盛んなところで、或いは埼玉縣、或いは全國でも有数の養蚕地でありますが、本庄地方は殊にその中心地であります。織物も伊勢崎銘仙、これは本庄町から利根川を越しまして伊勢崎町から一里半、二里くらいのところでありまして、伊勢崎銘他の織場がこの本庄町であり、又一方で問題が起りました群馬縣の豊受村であるのであります。それでこの織物につきましては、これは第二國会の予算委員会でも商工省当局に質問をしたのでありますが、闇が非常に行われておるのであります。これはその原因は從來の隠匿物資が殘つておる分もありますが、その現在の養蚕、それから製糸、織物その過程におきまして政府が決めておるこの歩止り、專門語で出目、目が出ると申しておりますが、歩止りが非常に甘いのであります。二匹の織物だけの糸を貰いまして、そうしてその糸で織物を織りますと、二匹を出しまして、そうして一反ぐらい織屋に出目が出るのであります。つまりそれが自分の所得になります。糸で貰いまする分と、織物として出します、指定生産でありますから、政府に返します指定の織物の他に、その闇に流れる一反ができる、こういうものが皆概ね闇に流れておりまして、そうしてこれが高價で賣買されておるのが現状であります。これはひとり絹織物だけでなく、絹糸におきましても、毛織物においても同様なんであります。これを何とかそのルートに乗せてやればいいじやないか、こういうのが私の商工省当局に対する質問であつたのですが、その処置は漸く最近になりまして、採られておるのであります。この出目それから又その他に農賃と申しまして、これは養蚕をいたします各農家が自家用保有の糸を許されておる。これは自分で織りまして、又織つて貰いまして自家用にするという建前になつております。聞いて見ますと本庄地方は元は一軒の養蚕家につきまして一貫目ということであつたらしいのであります。現在は出しました糸の一割ということになつております。これはその自家用に織つて貰うだけでなく、やはりそこに大いに闇に流れるだけの分が出て來ておると、こういうのが本庄地方の織物の状況であります。そこでこの織物は皆さん御承知のように非常に高價に、今闇で賣れます。繊維品が非常に欠乏しておるのでありますから、そういうことが本庄地方じや大いに行われておつたのであります。そこでこの自治体警察、豊受村の方も自治体警察というのがあります。村でありますが、人口一万に近い。多分今は一万超えておるだろうと思います。裕福な町であります。伊勢崎より一里余のところにある村であります。織物屋が三百二十軒もある。それで自分のところで織るのでなくて、その農村の個々が糸を染めます。糸を織りますところは勿論、機屋もあります。その他に糸の染め、いろいろの分業になつております。それでそういうものが一体に出目で潤おつておるわけであります。そこで本庄附近に機屋が、これは農村各所で小さい手機でありますが、五千軒も機屋があるといつたようなわけで、豊受村の方からも農賃に出して來た糸、指定生産で貰つた糸、そういうものを五千軒の本庄地方における方へも糸を送る。その農村で織るのであります。その中には今申した指定生産の本当の、政府に指定されて出す織物の他に、自分の闇に流すものも交つておるのでありまして、出目ですから交つておるわけであります。又農賃の方もそういうふうに自分の自家用に着ますものの他に闇に流すものは交つておる、こういう状況であります。そこでこれを嚴格に取締られては非常に困るのであります。そういう地方の褒微にも関するというので、自治体警察、並びに國家地方警察に対して了解を求めようと、必然的の闇もありまして、多くは指定生産である、こういうような関係で、よく詳しく説明をして、出目までは説明をするかどうかはそいつは分りませんが、そういう了解を求めてやりましたのが、この事件の発端の、豊受村の警民の招待事件であります。そこで少し細かくなりましたが、自治体警察としてはこの町から任命されておる警察でありますから、そこの町の繁榮を害するような取締りは手控えるのが人情であります。そういう非常な、その極端な闇でなくて、まあいわば織物に附隨した必然的の闇というようなものは自治体警察では取締らない。取締れないといつた方がよいくらいでございます。そういう状態に自治体警察並びに國家警察はおかれてあるのであります。そこでこれを非常な若い純眞な方々から見、又共産党の立場から見ますと、その自治体警察は、そういう織物業者なんかとぐるになつておる。警察はそれに買收されておるというふうな見方ができるのであります。又そういう見方をしておるのであります。これはいわば我々が二合五勺の食糧配給、その中には砂糖も入つておりますし、「乾あんず」も入つております。それではどうしても暮せないので、必要上闇買いをしなければならないというのを警察で一々取締れないことくその自治体警察は、自分の地方の繁榮に関するような織物の闇、闇というのはそういう出目とかいうものの闇は取締れないというような状況にあるのが、いわば人情から止むを得ないような状況だろうと思います。そこで私は自治体警察の、初めに申しました、どうも自治体警察というものは非常に理想的な警察制度である。優秀な社会に、民主主義に徹した社会になつた後では、とてもいい制度であるかも知れませんが、今の民主化の過程にある日本の現状ではどうもこういう矛盾が起つて來る。だからこれを何とか改正をしなければならない。こいうふうに思う理由であります。
 もう一つ、その警察の方にも民衆の方にも、民主主義に関する、はき違えというものがあることはあると思います。これは靜岡の監獄の脱獄事件のときにも、私は皆さんに申上げたのでおりますがあの事件の根本は囚人側にも亦刑務官側にも民主主義の穿き違いがある。それが大きな原因であると申上げたのですが、今度の事件についても私はそれを痛切に思うのであります。この大都会の、東京の自治体警察とか、大阪の自治体警察、これは幹部の方でもしつかりした民主主義に対する理解を持つておられ、又警察の本部についてもしつかりした確信を持つておられますから、そういう間違いは出て來ませんが、ああいう人口三万以下のような小さい町の自治体警察の首腦者というものは、今の過程においては、非常に程度が低いのであります。殊に國家地方警察とか、自治体警察とかに分れまして、そのときに自治体警察側に殘つた人というものは何でも余り優秀でない人が殘つたのであります。そこでどういうふうに自治体警察側の穿き違えがあるかといいますと、署長みずからが、民主主義になつて來たのでありますから、警察も民主主義化しなければならない。それには民衆の中に入つて行かなければならない。だから民衆に対する接接は努めてやる。それで一緒に酒も飲みますれば、一緒に馬鹿騒ぎもやる。宴会があれば踊りもやる。酒に醉えば二階から小便をするということが民主主義だ、こういうふうに感じておる。小便の点は極端ですが、そういうふうになるのである。それから又民衆側におきましても、あれは我々の公僕なんだ、警察は公僕なんだというようなことで、若い巡査に対しまして、今日は俺の家に酒があるんだ、肴もあるから飲みに來ないか、職務が済んだら飲みに來ないか、よし、行こうと言つて飲むというようなことが頻々として行われたのであります。そうするとこれは又一方から見ますれば、自治体警察の署長初め署員は実にだらしがない。いつも酒良に耽つておる、こういうふうに見ますから、誹謗されるのであります。それから又署員と署長の関係におきましても、なに民主主義なんだ、署長の間違つた命令なんか聞く必要はないというようなことで、署長の威令が行われない。てんでんばらばらな傾向にある。これが元の警察でありますれば、上に警察部長があり、ぐずぐずしておると轉任させられる、又罷めさせられる。署長初め署員は一方には戰々兢々としておる面もありますが、大いに自粛をしておる面もある。ところが今度はそうでない。おのおのてんでんばらばらで今言つたような穿き違いをやつておる、こういう面も多分にあるように私は見て参りました。本庄町政刷新期成会の方からいろいろ批判をされております警察署長、これは國家警察の方も入つておりますが、それに対する惡声というものは、そういうような行き違いから出ておるような面が多いようであります。そこで先程触れられました警民協会の問題であります。これは私が第一國会におきまして警察法を審議いたしますときに、どうも自治体警察に関しては寄附金というものを取らないようにしないと、これがボスと結び付く虞れが十分にある。そのために警察がスポイルされる危険が十分あるということを皆様に申上げたのでありますが、今度の事件で見て見ましても、市町村の財政は窮乏しておる。自治体警察に対する予算はなかなか取り得ない。寄附金によらなければならない。その寄附金を集めるのに警民協会が出てやつておるのであります。その寄附金なるものが問題を起した。大石町会議員、これがまあ前身はやはり博徒的な人であつたらしいのであります。それから織物の機本、機屋仲買人、そういうような人が多く警民協会の幹部になつております。こういう人が一生懸命に金を集めまして、或る理事の人が豪語しておりましたが、この警民協会程働いた警民協会はあるか、日本で一番よくやつておる警民協会だと思う。これは寄附金をうんと集めて警察に対して大いにサービスをした、こういうことを誇つておるのであります。それが又一方から見ればボスと完全に結び付いておるのではないか、財力、ボスと結び付いておる、こういうふうな非難を受けるのであります。これはどうしても私は警察に対しては寄附金を直接に取ることは止めさせなければいかんと思います。警民協会直接じやありませんが、警察に対する直接の寄附金を集める、こういうわけでありますから、私はこれは寄附金が必要ならば町村長が集めることにしなければならない、こういうふうに思つております。それから地方のボスが暴力團を利用して私慾を図るようなことがありはしないか、これは聞いたことに過ぎないのでありまして、代議士の衆議院議員の選挙なんかに際しまして、衆議院候補者の方々で何々組というようなものと因縁が深くて、それを非常に利用されたという方もあるようであります。その方々には聞きませんけれども、これはやはり町の責任ある者もそう言つております。何とか代議士はこれは何とか組を利用された、又落選されたけれども何とか候補者は何とか組とやはり関係があつて、選挙運動に関して関係があつた、こういうふうに言つておるのであります。そういう選挙なんかのときに何とか組が利用されて選挙運動をやつておつたということは確かにあつたようであります。併し本庄町の町長が言つておりますのは、その大石という町会議員が出ており、又そういう組の活動はありますけれども、本庄町の町政がそれによつて引続られたということは全然ありません、こう申しております。この助役というのは一方の旧体制の方から言えば共産党系だと、こう言われておる人物でありまして、なかなかの民主的な方で新思想の持主であります。その人が言つておるのですから間違いないと思います。こういう暴力團的な組の力で、又それから出ておるボス的な人々によつて町政が左右されておるということはない、こういうふうに断言をしておりました。本庄町の町民は先程申上げましたように、組に対して無関心であるか、又非常にこういうことは困ると思つておつても口には出さないのでありまして、今度新聞で大々的に書きましてから段々口に出して來るようになりましたが、それでも一度話して、反対側の新聞からああいうことを話したかと聞かれると、いやそうじやなかつた、あの記事は朝日の方で自分の話したこと以外に附加えたんだというようなことで否定するというようなことで非常に遠慮しております。これは暴力團が地方の民衆を威嚇しておると、こう反対側が言うところであります。そういう状況は確かにあるように見て参りました。
 大体そういうことでありまして、この前この委員会で齋藤本部長が御答弁せられました本庄町附近の警察がこれらのボス、暴力團と提携し、又は少くとも見逃していたかどうかというと、そういうのは酷である。町政までボス勢力に乱されていたとは思われない、こういう御答弁があつたのであります。町政までボス勢力に乱されていたとは思わないということは、それは向うの助役も裏書きしておりますが、警察がこれらのボス、暴力團と提携又は見逃していたかどうかという点になりますと、私は大いに疑問に思います。これは今申述べました自治体警察の性質、又統制経済の反面に出て來る社会惡の闇の問題、これは自治体警察が必然的惡として取締つていなかつた、こう思われる節があります。これは私はそれを提携と言い、見逃していたとこう言うならば十分言えると、こういうふうに思つております。私は自治体警察の世話をする中心がない、これは吉川さんからも今御報告がありましたが、この点は早く何とかしなければならないのでありまして、自治体警察というものを手放しにする、ばらばらにしてまちまちでやらして行くというのは理想的な社会ができ上つた上であります。現在の過程におきましてはこれを中央で纏め役をし、そうして世話をするという組織がどうしても必要だと私は感じます。これに対しましては私といたしましては今思い付きで考えておりますのは、今地方財政委員会というものがありますが、これを改組しまして地方自治委員会というものに拡大をしまして、この自治体警察のこともその委員会で世話をするというふうにしたらどうかというのが一つの案。もう一つは、國家公安員というものの職責を拡大しまして自治体警察の世話をもする、連絡もするというふうにして行つたらどうか。こういうふうに考えております。國家公安委員というものが自治体警察のことをやるというのはおかしいという御意見がありますが、これは第二國会におきまして、警察事務の中には自治体警察の事務と雖も國家警察事務が沢山あるのであります。例えば被疑者の捜索、逮捕、國家公安の維持というのは國家事務でありまして、これを自治体警察に委任してあるのだということは、私の質問によりまして法務総裁がここで確言いたしました。そうなりますと自治体の警察は國家警察の委任を受けて……そうすれば國家公安委員の方でその範囲において世話をし、統合をしてもいいじやないか、こういうふうに思うのであります。これは何も内務省を再び置くとか、それから元の國家警察に還すという意味じやありません。自治体警察は自治体警察においてそういう世話役を作る、纏め役を作る。どうしてもそういうことが必要だということで兼任をする必要が起りましたし、又それが要るのじやないかという注意をしました。そういうことをする上においても必要だ。他にまだいろいろ感想がありますが、大体これだけにいたして置きして御質問に應じまして終ります。
○委員長(吉川末次郎君) 黒川さん何か……
○黒川武雄君 委員長並びに岡本委員から詳細なる御報告がありましたので、私は簡單に述べたいと思います。ただ重複する点もあると思います。先般の委員会で鈴木委員の発言で実地調査のことがありましたときに、私は早急に実地調査をすることについて反対したのであります。それは私らが、調査團が行つて却つて事件を大きくしてはいけない。ここ暫く時日を籍して、それから十分調べた方がいいとこう思つたのであります。併し情勢が変化して、調査團に加わり私も参りましたが、調査に当りましては先入觀に囚われずに成るべく白紙を以て事実を在りのままで見たいという氣持で参りましたところがお互いに反対しあつていた方々があらゆる事実仁ついて忌憚なく意見を表明せられ、そして私共が行つたことを非常に喜ばれたために、私の杞憂に過ぎなかつたということを感じたのであります。以後三点について私は申上げたいと思います。第一は新聞、第二は警察、第三は青年運動、この三つの点について簡單に申上げたいと思います。
 事実はどこにでもあることであります。併しどこにでもあることを大々的に朝日新聞が取上げられたについては、先程も委員長が申された通りこれは他に大きな目的があつて、民主政治の確立よる自治体政治の明朗化、正しく進むべき道を教えるための反省のための警告、該朝日新聞が事実を捕えて大々的に報道されたのであろうと私は感じます。九月五日のその朝日新聞の岸記者の記事を読みましても、如何にも大学を出たばかりの若い神経質な記者であるということは会わなくても分るような書き方であります。その純眞な青年の氣持を活かして、そうしてその事件を大々的に取上げて、そうして他の市町村、全國の市町村の自治体に対して反省を促したという点において、私は朝日新聞の取上げ方についてむしろ感謝している次第であります。だだ新聞の威力ということをつくづく感じたことも又事実であります。あの若い記者の記事によつて本庄町が従來にない未曾有の大事件として騒いでいるということは、如何に新聞の力が大事であるかということを私はつくづく感じましたので、実は朝日新聞の岸君に会うことができなかつたのでしたが、私はその先輩の朝日新聞記者につくづく申したのであります。私はゆつくり岸君に会つて心持を聞いて見たかつたということを、言葉を残して別れて來たのであります。
 第二は、警察については岡本委員から言われた通りいろいろな点もありますが、又警察側にすべての事件について聞いて見ますすと尤もな点も所々あるのであります。要は自治体警察の制度が甚だ弱体過ぎる。私は何とかしてこの自治体の警察に勤務する署長初め各警察官に対し、何らかの確固たる信念を持つて堂々と事務を遂行せしめるような安心感を與えるべき制度を設けるべきである。現在の自治体警察制度そのままにおいては、当然このままにおいてはいけない。幸い警察法の小委員にもなつておりますから、何とかして自治体の警察に勤務する者に対してもつと安心して勤務できるような制度にしたい。こう感じました。
 第三に青年運動でありますが、現在本庄町には青年町政刷新期成会、それから反共愛町同志会、公安委員並びに警察署長の留任を望む署名運動をしている運動、これは前二者が青年團で、第三番目の留任運動をしている人達は壯年と私は思います。ただこの人達は嬉しいことには誠に眞面目で眞剣であります。そうしてこの本庄町の事件はあらゆる政党に支配されることなく自分達の力で、町民の力で解決すべきだ、こういう熱望に燃えて運動しております。私はその熱心さで必ずこの本庄町は近い將來において明朗にして平和な町になると確信を得たのであります。尚本庄町を去るについて、明朗な本庄町の再生を望んで帰つた次第であります。
 以上につきまして、事件々々については暴力事件、或いは豊受村の宴会事件、そういうものにつきましては、自分で考えて先ず結論には達しておりますけれども現在訴訟中でありますが、ここにおいては言明することを遠慮いたします。
 以上簡單でありますが私の感想を申上げました。
○委員長(吉川末次郎君) 只今までの報告に対して御質問等がありましたらお述べを願いたいと思います。なければ次の議題に入ることにいたします。
 國家秩序の紊乱行動に關する調査につきまして、本日は外務省当局から大体次のような事項について説明を聽取したいと思つて、外務省より來て頂いておるわけであります。事項は大体中國の將來に対してどのような見解を持つておるか。第二には、中國共産党軍の現在の状態、又その共産党軍の中に旧日本軍人等が入つてやしないかどうか、その活動の有無及びその状態。第三番目には大韓民國、殊に北鮮の情勢は現在どうなつておるか。第四番目にはコミンスオルムと極東諸國及び日本共産党との關係はどうであるかというようなことについての説明、第五番目には、この間日本を訪れられた中國の張群氏の日本訪問の目的というものについていろいろ世間で批評があるが、そういうことについての説明を承わるべく、大体右のような條項を当局に示して、それに対する資料の提出を求めて置いたのでありますが、本日大体そうしたことに対する資料も御持参を願つておることだと思いますので、持つて來ておられまするならばそれの配布を願いまして、それに基いて御説明を承わることにいたしたいと思います。尚只今のようなことにつきましては、芦田総理大臣兼外務大臣等の意見をもいろいろ聽取する必要があるかと思うのでありますが、それは又他日を期したいと思つております。
 尚本日こうしたことを聞きますのは、先般の委員会において大体お決めを願いましたように、先に非日活動とでも言いますか、アメリカの非米活動委員会の仕事に類似したような仕事をすることが國会において必要なのではないかというようなことのお話から起りまして、当然いろいろな具体的なその問題についての取決め、即ちその問題についての特別委員会を組織すべきであるか、或いは又治安及び地方制度委員会がその任に当るべきであるか等の問題、又そういう活動をするならばどういう準備を行うべきであるかというようなこと等につきましては、いずれ第三國会後におきまして、第三國会において行われるところの委員会の改組問題並びにその問題の内治外交に亘る重要性に鑑みて十分の考慮と準備を要するものであるから、差当り治安及び地方制度委員会は、治安に關する問題であるという見地において、そうしたものについての準備をでき得る限り整えて置くべきであるというようなお取決めを願いましたことにつきまして、本日このような議題につきましての当局の説明を求めることになつたわけでありますから、併せて重ねて申上げて置く次第であります。
○外務政務次官(伊東隆治君) 只今の委員長のお話でよく趣旨が分りましたが、実は私本日帰京いたしまして、この参議院からの書類を拜見いたしたのでありますが、非常に外交上の機微に亘るところの我々の現在の立場においてこれらの政策を自由にこれを論議する、或いは判断をして申上げるということは多少機微を要する点もあるのでありますが、只今の委員長のお話で、先般の非日活動調査特別委員会というようなものを仮に設ける必要があるかどうかというような点に関連してのこの種の治安問題、これらの觀点からのこういう諸問題、これを知りたいというのが御趣旨のように拝承いたしましたので、その趣旨でできる限り詳しく松平調査局長が見えておりますから、その趣旨でお話申上げたいのでありますが、私といたしましては、或いはこのアジアにおきまする大体共産党の動きというようなものを又申上げた方が、或いはその方に幾分の参考にもなろうかと思いますが申上げたものでしようか、或いはこのラインで申上げましようか。
○委員長(吉川末次郎君) 結構です。それでは先に松平調査局長から御説明を願います。
○外務省調査局長(松平康東君) 只今御指名によりまして私から御説明申上げます。先程委員長からお話のございました質問の点は六つございますが、説明の便宜上その順序、それから又説明の形式等は適宜按配いたしまして御説明さして頂きます。
 第一に先ず現在の中國の政情を端的に申上げますれば、國民政府と中共との関係、これの勢力の消長の推移といつたような点につきまして御説明申上げたいと思います。説明の便宜上一應終戰の頃から今日までの中共と國民党政府との勢力関係を歴史的に簡單に振り返つて見まして、そうして現在の情勢に及びたいと思います。
 戰後の中國の政局は、先づ民主的憲政政治によつて新らしい中國を建設し、そうして孫文以來の中國の國民革命を成就しようという政綱に立つております國民党と、暴力によつて中國の政權を奪取し、これによつて共産革命を完了しようということに目標をおいておるところの中國共産党との相剖の連鎖であるのであります。この両者の間に介在いたしまして、その両者間の和平調停、これを目論見ました、いわゆる第三勢力、これの努力が結局失敗いたしまして、中國は遂に二つの世界に二分し、ここに両者の明確な対立が生じたわけであります。この情勢を大観いたしますと大体歴史的に次の三段階に分けられるように思うのであります。
 第一段階は終戰後アメリカの調停によりまして、中共を國民政府に参加させる、その中共の持つております軍隊を國軍に編入させて行く。ここに中國の統一政府によつて、統一軍によつて治めて行こうという目論見から、その両者の協議を行わせる目的でできました政治協商会議、いわゆる整軍工作に重点をおいた時期であります。これが第一段階であります。
 第二段階は中國の新憲法を制定いたしまして、この憲政による政治を実現する目的で、國民大会を召集し、この國民大会によつて中國憲政の基礎を置こうという努力があつたわけでありますが、これに対しまして結局國民党と中共との間に意見の相剋が收拾できなくなりまして、ここに両者の分裂が發程いたしました。結局國民大会には民主社会党、青年党及び無党無派これらの代表が参加いたしましただけで、中共及び中共に近い政網を持つております民主同盟、これらは反対し、参加いたしません。ここに両勢力分裂したのであります。
 第三段階は、新憲法に基きまして、國民大会が召集され、國民政府の基礎が整備され、民主政治が開始される、こういう目的であります。この三段階を中國は經過したわけであります。先ず、第一段階の時期におきましては、國共合作によつて結成された民族統一戦戰線、これは抗日戦争を継続するために、例の西安事件後できました國民党と中共との協力態勢でありますが、これは終戰と共に消滅し、ここに軍事的意味における協力関係は終止したのであります。併し戰後における新中國建設のために、ここに両者の政治的合作は尚必要とされたわけであります。そうしてその合作の形式は、小政党及び無党無派の代表が参加いたしまする連合政府、この組織であつたのでありますが、この連合政府の組織は結局当事者である各関係政党が合同して協議し、つまり合同会議でこれを決定するより他に方法がなかつたわけであります。終戰直後蒋介石及び毛澤東の両者からそれぞれ和平民主政治の実現を要望した声明が出されました、これは終戰の年の八月であります。当時在華米國大使でありましたハーレー大使の斡旋によりまして、重慶において蒋毛会談が行われたことは、皆様御記憶の通りであります。この会議の前提は要するにあらゆる政党を対等とし、これに合法性を認め、政治協商会議を開くということにあつたわけであります。然るにその後國民党及び共産党両軍の間に戰後の地盤獲得の爭いから斗爭が開始されまして、國府軍は南から華北へ進出し、中共軍は熱河省から全満へ進出しようとする形勢であります。この情勢下にありまして、米國政府におきましては、國民政府を合法政府と認め、國共の戰斗行爲の停止を要望し、政治的各党派代表の全國会議の必要を強調いたしましたトルーマン声明を発表いたしまして、ここに有名なマーシヤル使節の特派という事態が起きたわけであります。マーシヤル使節の特派の使命は、実に両者間の和平調停にあつたわけでありまして、マーシヤル特使は支那に参りまして、先ず軍事三人委員会というものを組織いたしまして、マーシヤルみずからこれに入つたわけであります。その結果一月十日停戰協定ができました。そうしてこれに並行して政治協商会議が開かれたわけであります。これはこのときまでの中國の歴史から見ますると、國共間にこういう会議が成立したということは、中國政府の歴史上画期的意義を持つものでありまして、ここにアメリカがその居中調停に立つたということは非常に國際的の性質を加味したのであります。この会議では憲法実施前の施政の基準を定めた和平建國案、國民大会を召集して憲法を制定する國民大会案、以党治國の國民党獨裁を修正する政府改組案、孫文の三民主義五権憲法を基本としました五・五憲章の修正原則を決めた憲法改正案及び軍隊國有化、軍党分立、軍民分治を実施する軍事案の五項目を採択いたしまして、いわゆる民主化の第一歩が踏み出されたわけであります。然るにその後憲法問題に関連いたしまして國民党右派がこれに不満でありました結果、その政治協商会議決定の原則を無視して、一方的に五憲法を護持しようといたしまして、三月の二中全会におきまして、その趣旨の決議を成立せしめました。これはその後の國共和平交渉に重大な支障となつたわけであります。これがため軍隊の再編成並びに中共軍の國軍への統合に関する基礎協定も、又ソ連軍の滿洲撤兵に伴つて先制入滿いたしました中共軍との衝突を制止するための國共軍の滿洲地区停戰協定も、或いは政府改造工作促進のためのスチュアート米大使を主席とする政府五人委員会も全くものになりませず、和平交渉は駈引と疑惑のうちに終始いたし、マ特使及びスチュアート両特使の共同声明におきまして、和平妥結の機会は去つたという趣旨の声明がありました。ここに全く両者間の交渉は暗礁に乗上げてしまつたわけであります。併しその後もマツカーサー特使の調停は依然続けられました、結局中共側からは最後の要求として停戰、國民党側からは中共が國民大会に参加することを要求する交渉が行われたのでありますが、この間に國府軍の張家口占領、それから國民大会の召集ということが正式に発令せられました。ここに両者の対立関係は第二段階の時期に移つたわけであります。この時期は憲政実施準備時期とも言い得るのでありますが、一面対中共武力彈圧決定時期も言い得るわけであります。こういうような事情の下に開会せられました憲法制定を目的とする國民大会は、大会には中共側は勿論これに参加いたさなかつたわけであります。これに続いていわゆる民主同盟、これも参加を拒絶いたしまして、結局國民党、青年党、民主社会党、無党無派の代表のみが参加いたしまして、新憲法の採択いたししたのが十二月の二十五日でありました。これは翌年の一九四七年一月一日に公布となりましたのでありますが、この憲法は先程申上げました政治協商会議の修正原則に基礎を置いておるのでありますが、五・五憲章を骨子といたしたものであります。いわゆる五権憲法の採択を依然として保存いたしておるのであります。中共側はかかる國民大会は非合法であるから、その大会を通過した憲法は合法性を有さないという理由から、これを否認する態度を取つたのであります。その後國民党側では中共が先ず矛を收め、その軍隊の國有化を承認するのであるならば、和文交渉に應ずる用意があるということをスチュアート大使を通じまして中共側に申入れ、更に和平使節を延安に派遣してもよろしいということを申出たのでありますが。中共側は憲法取消しを前提条件とし、且つアメリカの仲介を受入れる用意は持たないということで拒絶いたしましたために、ここに「國共の間は完全に且つ圧倒的な疑惑である」という言葉を持つたマーシヤル特使の離華声明となりました。ここに一年余に及んだ調停も遂に失敗に帰しまして、國共間の政治的解決は絶望となつたわけであります。これ以後情勢は悪化の一途を辿りまして、軍事情報はいよいよ絶望的になつたわけであります。延安はこの年の三月に國民党が占領するという状態になつたわけであります。
和平交渉決裂後の國民政府は憲法実施準備措置といたしまして、これと同調する各政党との間の過渡的の連立政権の基本政策を謳つた共同施設綱領、これは根本方針を和平建國綱領に置いたものでありますが、これを決定いたしまして、その中において中共問題は政治的解決を基本方針とする旨を謳いまして、武力解決を回避する態度を示しました。又國民参政会会議も対中共和平法案を決議いたしましたのでありますが、國共和平交渉は遂にこれによつて何らかの影響も受けないでおつたわけであります。この年の三月の第一次改組によりまして、立法、監察両院委員が拡大され、各政党代表がこれに参加いたしました。又四月の修正國民政府組織法公布に伴う第二次改組で、政府の陣容が改まり、各政党からの政府への参加が実現いたしまして、ここに初めて國民政府、國民党の一整專制という事態が終つた次第であります。この時期を通過いたしまして訓政から憲政へ移行する過渡的の時期がここから始またわけであります。この政治機構整備の最中に國共両軍の闘戰は頓に拡大いたしまして六月には滿洲及び河北におきまして國府軍の情勢は著しく不利となりました。交通線は大體麻痺状態となり、財政は困難を加えまして、ここに経済危機に見舞われ始めたのでありますが、國民政府は人的、物資資源を動員すると共に中共側のために今まで留保されておりました関係各機関の議席を取消し、中共との絡りを一切断つて武力彈圧を決意し、あらゆる施策に万全を期したわけであります。又一万中共と連繋いたしまして憲法制定國民大会をボイコットいたし、各都市において反國民党政府の宣傳をしておりました中共派でありまする民主同盟に對しましては、これをやはり非合法團体と認めまして彈圧を加え、解散を命じ、ここに憲法実施後の第三段階の時期を迎えたわけであります。
○委員長(吉川末次郎君) 丁度お話の途中ですが十二時になりましたから、これで休憩いたしまして、午後一時から再開いたします。午後一時まで休憩いたします。
   午後零時二分休憩
   ―――――・―――――
   午後一時二十一分再開
○委員長(吉川末次郎君) 休憩前に引続きまして、議事を再開いたします。引続いて外務省松平調査局長の説明を聽取することにします。
○外務省調査局長(松平康東君) それでは午前に引続きまして御説明申上げます。
 憲法実施の第三段階の時期でございますが、十二月二十五日に予定されておりました。新憲法実施時期を間近に控えまして、中國最初の國民大会代表選挙が十一月二十一日から三日間一齊に施行せられました。その結果國民党の一方的勝利に終りました。これに引続いて立法院委員、監察委員の選出もいろいろ紆余曲折があつたわけでございますが、その曲折を経まして、漸く一九四八年一月に終了したわけであります。それから憲法実施と同時に開かれる筈でありました國民大会、つまりこの大会におきまして総統、副総統を選挙するわけであつたのであります。これは内戰のために妨げられまして、又一方少数党との議席割当の問題の紛糾というようなことがありまして、三月三十九日に至つて漸く開会の運びに至つた次第であります。この選挙におきましては御存じのように國勢情勢、中共掃滅という大事業の関係もありまして、蒋介石氏を招いて他に人がないという関係から、絶對多数を以て蒋介石氏が初代総統に当選したわけであります。又副総統選挙も同時に行われまして、その結果國民党の正統派から推されておりました孫科氏が敗れまして、主流から外れておつた李宗仁が当選して、ここに政局に一つの新しい波紋を投じたわけでございます。行政院も五月三十一日の組閣完了で漸く組織せれました。こういうふうなわけで、中國の民主新政府は内戰とインフレという困難の下に一歩を踏み出したわけであります。大体こういうわけでございまして、これに対して一方中共側は次第にその自己の選挙区域を整理いたしまして、今般華北におきまして中共民主同盟、武装團体、農民、労働者、自由分子、それらの辺区政府代表者といつたようなものから組織せられました華北臨時議会を通しまして、華北政府を九月一日になつて成立せしめたわけでございます。これは毛澤東のいわゆる「中共当面の目標は、全民主勢力を結集し、蒋政権を打倒し、共産党を含む新政権樹立にある」という政策の第一歩であると見られておるわけであります。
 以上大体中國の政治情勢を御説明申上げましたわけであります。これに引続きまして中國の内戰の状態を一括御説明申上げたいと思います。
 先程簡單に御説明申上げましたように、國共間におきましてはハーレー大使、それからマーシヤル特使の斡旋の下に政治協商会議が重慶で開催せられまして、両党派の間の相剋の打開を目的として努力を続けたわけでありまするが、結局マーシヤル特使、スチュアート大使の一九四六年八月十日の共同声明で次のように申しておりまするが、結局その両者の調停ということは失敗に帰したわけであります。「マ元帥とス大使は、現在中國において拡大しつつある國共衝突を停止させ、且つ國民政府を眞の民主的形式に発展させる第一段階を導くため、相協力して可能な限りあらゆる努力を続けて來た。然るに戰火は日と共に拡大して、全中國を戰に捲込み、最早統御し難い有様となつた。現状からすると國共双方が全中國を通ずる全面的停戰命令を発し得るような解決点に到達することは不可能と見られる」こういうわけで、内戰は最早全中國を蔽いまして、妥結不可能のようになつて來たわけでありますが、この内線の発展の模様をでき得る限り簡單に申上げます。
 翻つて見ますると、終戰第一年、これは一九四五年の八月から一九四六年の七月に至る時期でございます。この時期は中共と国民党との間に政治的に事態を收拾しようとする努力を続けられた時期であります。この間にはハーレー大使の斡旋、蒋介石毛澤東の間の会談、それから続きましてマーシヤル特使の斡旋下の政治協商会議、そうしてその時期におきましては停戰協定も成立したわけであります。結局この停戰協定が実施の問題につきまして破綻を生じまして、ここに一年間を経過したあとにおきましては米國の異常な関心と努力とにも拘らず國共は再び全面衡突に入り先程読みましたようなマ元帥スチュアート大使の絶望的な声明を見るに至つたわけであります。これが終戰後第一年の情勢であります。終戰第二年一九四六年八月から一九四七年七月に亘る一年間でございますが、この時期は國共の妥協は不可能となつたのでありますが、併しこの時期には國民党の國府軍の軍力は圧倒的に優勢でありまして、当時國府軍の参謀総長陳誠將軍は中共軍を三ヶ月で撃滅すると豪語したわけあります。そうしてこの時期におきましては、例えば熱河チヤハール方面におきましてはビルマ戰線で活躍いたしました米式装備の精鋭五ヶ軍、これを熱河に進撃させまして、直城承徳を無血占領し赤峯を陥れ更に中共の第二の首都でありました張家口を占領するという戰果を挙げたわけであります。それから延安地方におきましては、四七年の三月十九日に遂に中共の首都でありました延安を占領するという状態でありました。更に山東作戰におきましては、蒋介石みずから國府軍三十万を率いまして、四十七年七月山東方面に出陣し、この地方にありました陳毅及び劉伯誠という中共の將軍の率いる中共軍を撃滅する筈であつたのでありますが、これは中共軍が巧みにこれを回避して華中に進出しました結果撃滅的の戰果を挙げるに至らなかつたわけであります。こういうわけで終戰後の第二年は國府軍の戰果の非常に挙つた時期でありまするが、併しこの一年間もその終りに近付くに連れまして、中共軍の反攻がしばしば繰返されるに至つたわけであります。そうしてこの一年の終りには四〇%の支配いたしました滿洲も遂に中共軍の反攻に耐えず漸次喪失いたしました。結局一五%くらいのところまで圧縮されるに至つたような次第であります。華北方面におきましても、山西省、陜西省等において中共軍の反攻が見られるに至つたわけであります。
 次に終戰後第三年、つまり一九四七年八月から今年の七月に至るまででありますが、この時期は終戰後第二年とは逆に、中共側の勢力が非常に優勢でありました。中共軍の戰果いよいよ華々しいというような状態で情勢は展開して行つたわけであります。
 毛澤東は一九四七年末の年末報告の中で、「人民解放軍は一九四七年七月から九月までに全國的に攻撃に轉じ……現在戰鬪は解放区内ではなく、國民党支配地域で行われている」と述べておるわけであります。即ち満洲地区におきましては、秋季攻勢と冬季攻勢を通じまして、政府軍の支配地域を先程申しました一五%から約一%のところまで圧縮いたしまして、つまり全滿洲の九九%を占領するという成果を挙げました。そうして滿洲におりました國府軍は、遼陽を中心とする南滿の数都市内に屏息せしめ、そうして中共の絶対的優勢を確立するという事態に立到つたわけであります。
 次いで華北におきましては、中共は華北中部の要衡石家莊を陥れました。太原を圧迫し、そうして各解放区の統合を計り四八年、今年の五月末には華北解放区の創設、それから華北行政合同委員会の成立というところまで持つて行つてるわけであります。
 華中におきましては、先程の蒋介石の率いて参つた國府軍の山東作戰を回避いたしました陳毅、劉伯誠の両軍は、揚子江北岸の地区まで進出いたしました。そうして農村にその地盤を漸次拡大強化いたすと共に、これを足場として渡河南進の態勢を整えるに至つたわけであります。その支配地域はすでに河南省の約五〇%、もう一遍過去年から今年までの情勢を御報告申上げます。
○委員長(吉川末次郎君) ちよつと速記を止めて。
   〔速記中止〕
○委員長(吉川末次郎君) 速記を始めて。
○外務省調査局長(松平康東君) そういうわけでありまして、滿洲地域の殆んど全部を占拠する。それから華中におきましては、揚子江の北岸にまで進出いたしまして、現在その支配地域は江南省の約五〇%、江蘇省安徽省及び湖北省の約三〇%に達したと傳えられております。
 更に江南地区におきましても、洞庭湖の北岸、及び西川省の北辺、これらの地域ではすでに橋頭堡を築くことに成功していると言われております。華北と華中の情勢につきまして地図につきまして御説明申上げます。
○委員長(吉川末次郎君) 速記を止めて。
   〔速記中止〕
○委員長(吉川末次郎君) 速記を始めて下さい。
○外務省調査局長(松平康東君) 只今御説明申上げましたように、華北は昨日の濟南の陥落という情報が來ておりましたが、これによりますと殆ど華北の要衡は悉く中共の手に入つたという状態であります。華北は御存じのように、大東亜戰爭中から中共の根拠地でありまして、日本軍はこれを占領しておりましたけれども、その占領地域は非常に狹いものでありまして、この中共の二つの辺区がこの地方にできておりまして、それの地盤を開拓いたしまして、結局今日の華北の把握という事態に立至つたわけでございます。
 次にこの華中地区でございますが、華中地区は先程お話申上げましたこの地域でありますが、この地域を除きましては、中共にとりましては殆ど処女地でありまして、その地方には國府軍の勢力は、ずつと戰争中を通じまして確立しておつたわけであります。この地域に中共が最近進出をいたしまして、そうしてその戰果は、殊にこの一年間におきまして、非常に顕著なものがあるという事態に立至つたわけであります。華中における中共軍の進出ということは、これは極めて注目すべきものでございまして、中共と國府軍の勢力関係において、特に重視しなければならん点でもあると考えられるわけであります。こういうわけでございまして、細かい点は調書によつて御了承をお願いいたすことにいたしまして、最後に中共と國府軍との兵力量の問題でありまするが、これは二十四ページを御覽頂きますとお分かりになるのじやないかと思います。現在におきましては終戰時におきましては、政府軍三百七十万、中共軍三百二十万という力の比率であつたのでありまするが、それが現在におきましては、政府軍二百十八万、中共軍百五十六万、但し中共軍にはこの他民兵約七十万というものがありまするが、大体においてその実力関係では対等のとこまで來ておるように認められるのであります。そうしてこの対等の互角の力の両軍の地域別の配置を、この二十五ページに書いてございますが、大体東北、華北に中共軍の主力がおりまして、華中はまだ政府軍の力が多少強いようでありまするが、併し次第に中共軍の勢力も増して來るものと思われるのであります。大体極く大ざつぱな御説明で恐縮でございますが、詳しいところは調書によりまして、補なつて頂くことにいたします。
○委員長(吉川末次郎君) 附属的に書いてある……
○外務省調査局長(松平康東君) 中國内戰の現状につきましては、大体この程度の御説明で終らして頂きたいと思います。
 それからこれは中共の問題とは直接関係はない問題でありまするが、内戰とは直接関係はないと思いますが、中共軍内にある旧日本軍人の状況、これはこちらの御質問に特に指摘になつた点でありますが、調べて参つたのであります。実はこの状況を詳細に調べまする情報が非常に少ないわけでございまして、そうしてその情報の信頼性も亦必ずしも多くないのでございます。集め得るだけの資料を綜合いたしまして、一應調べて見ました。中共軍内にある旧日本軍人に対しては從來種々の臆測が行われていたわけでありますが、本土中共軍中には極めて少数のものが軍医或いは重火器操法の技術者として留用乃至強制徴用されておる。その大部分は滿洲の中共軍内におるということのようであります。滿洲の中共軍中にある旧日本軍人の数に関しても、從來とかく誇大に傳えられておることでありますが、その誇大に傳えられておる理由の一つといたしまして、政府軍側が戰況不利になつた際、その原因を中共軍側にある旧日本軍人に帰しておるということであります。それから中共軍中の鮮人部隊が日人部隊と僞稱或いは僞認されておるということのようであります。以下は滿洲引揚者を言を一應綜合したものであります。そのつもりでお聞き取り願いたいのでありますが、滿洲中共地区にある邦人は約十二万、その中、中共軍中にある旧日本軍人は総数約六万が軍人軍属衛生要員看護婦でこれらは主として中共軍作戰の補助的機能を果しておるに過ぎない。極く少数の者が機械化兵器乃至重火器の操縱者として前線に使用されておる。そうして実戰に参加しておるものは非常に少ないということであります。機械化兵器、重火器部面における旧日本軍人の状況に関しましては、牡丹江、佳木斯飛行場には若干の者が日本軍飛行機二十乃至四十機を以て中共軍操縦士の養成に当つておるという話であります。
 それから日本軍の戰車隊出身者、これは約五十名程おるそうでありますが、戰車の操縦法、それから修理の教育に当つておるそうであります。それからの砲兵出身者一番実戰に参加の機会が多いわけでありますが、これも砲の操縦法、修理を中共軍に教育しておるそうであります。教育も最近完了して射撃に一部中共軍を充当し得るようになつたので、主として修理をやつておるという話であります。
 それから旧日本軍の軍医、衞生兵、看護婦、その総数は約一万六千名というのでありますが、これがやはり野戰病院、後方病院に配属せられまして、軍医は將校の相当官の待遇を與えられ、衞生兵、看護婦は中共軍の兵士待遇をうけておると言われております。それからいわゆる特科出身者以外の旧日本軍人留用者は、すべて將兵を問わず担荷隊に編入せられまして、百五十名乃至二百名が一團となつて各連隊に配属せられ、中共軍戰死者或いは死傷者の收容に当つておる。そうして担荷隊員総数は約三万四千名とも言われておるそうであります。その他約一万三千の者が自動車工場、通信隊及び軍政機関の雜役に服しておるという話であります。
○委員長(吉川末次郎君) その次に朝鮮の情勢をお話頂きたいと思います。
○外務省調査局長(松平康東君) これに引続きまして中國関係の情勢を補馬してできるだけ簡單に御説明申上げます。
 第一に中國の経済状況でありますがこれもこの調書に詳しく書いて置きましてございますから、詳細は御覧になつて頂きたいのでありますが、要するに中國経済は内戰のために非常に困難を來しておるのであります。内戰による物的破壞はインフレーシヨンに反映いたしまして、インフレーシヨンは又財政の破綻ということになりまして、非常な混乱を現出しておるわけであります。内戰の結果軍備の全歳出額に対する比率は約七〇%乃至八〇%と押えられておるわけでありまして、大体この程度の歳出額が赤字となつておるわけであります。それから本年の例えば上半期におきましては、今の赤字の比率は四九%と発表されておるわけでありますが、全経済の條件は加速度的に悪くなつておりまして、ここに中國財政の破綻を憂うる者の数が非常に多くなつたわけであります。物價の騰貴の率、それから対外貿易の輸入増加の模様、それから在外資金、國際收支の状態、こういつたようなものの中國の情勢は三、四、五で一つお読み取り頂きたいと思います。これに対しまして、米國の援があつたわけなんですが、終戰以來アメリカの中國に対する一九四七年末までの援助総額は十四億米ドル以上に上つておりますし、本年になつて四億米ドルの援助が追加されたわけであります。そうしてこれらの援助に拘わらず右の情勢が加速度に起つたわけであります。そうしてこれらの援助に拘わらず右の情勢が加速度的に起つたわけであります。そこに事態の重大性があるのであります。この情勢に対処いたしまして本年八月十九日総統令を以て幣制改革が行なわれたわけであります。そうしてこの改革によりまして通貨の信用を回復するために金円準備金をはつきりいたしまして、金銀外貨を以て四〇%、國營企業の中指定されたものの資金を以て六〇%の裏付けをすることになつて貨幣の信用を回復しようという行き方であります。そしてこれに右の措置のみならず更に第一に財政改革を行なつて少くとも支出の三分の二の收入を獲得すること、第二に民間所有金銀外貨の流通所有賣買を禁止して政府に買い上げる。第三に中國入所有在外外國爲替及び資産を登緑する。第四に賃銀物價を八月十九日の水準に凍結する。貿易爲替の統制を強化するというようないろいろ処置を併せて行つたわけであります。そして更にこの処置を強行するために檢察制度を強化いたしまして、その中心人物として蒋介石氏の子息である蒋經國氏を充てまして、違反者と目されるものは小商人から上海財界の首脳部までも檢挙してこれらの処理を強行しておるわけでありますが、今日までのところ物價は依然強含みのようでありますし、財界人の積極的な協力を得ることにはなかなか容易でないように認められますので、この幣制の改革の前途も樂観を許さないように思われるのであります。
 次に中國の対日輿論の動向を申上げます。これは御質問にはなかつたのでありますが、何らかの御参考になるのじやないかと思いましてここに書いておいたのであります。中國の輿論は日本を恐れるというような氣風がやはり依然として根強く入つておりまして、從つて日本に対しては余り有好的でないのが輿論の全体だつたのであります。殊にそれがアメリカの対日政策、例えば貿易の再開でありまけとか、日本の産業再建というような政策の轉換期にそれが強く表面に出て参りまして、そうしてその意見は政府の首脳部、それから新聞、或いは学生運動こういつたようなものに現われておるのであります。併しこれに対しまして中國の政府側におきましてはその行き過ぎを是正するという立場から、全体の空氣を緩和することに力を用いておるようであります。これらの問題は中國の対日講和に関する政府の政策にも反映しておるのでありますが、現在のところ日本復興についての杞憂の念が中國人の対日輿論の基本的な態度として消え去らず、中國政府としてもこれら輿論の過度の対日警戒を是正するため何らかの手を打たなければならない立場であつた。この際に張群前行政院長の日本訪問が実現したわけであります。東京到着と同時に発表された同氏の談話に示されたように張群氏の訪日は、個人の資格で日本の現状を視察するためであり、政府を代表して訪れたものではないと見られているが、八月二十一日着京以來同氏は直接マッカーサー元帥初め占領軍当局と会談し、日本管理方針を聽取すると共に、日本各方面の実情を視察の上、九月十三日帰國したわけであります。帰國した張群氏は近く蒋介石総統に訪日報告書を出すことになつており、外電の傳えるところによると、張群氏は報告書の中で、日本では自由、民主、平和愛好國となるには日本人の再教育が必要であり、且つ日本がよりよく中國を理解することが急務であることを強調しておると言われております。
 次に中國に関しまして、最近のアメリカの中國に対する政策を御説明申上げます。これもここに詳しく調書を作つて参りましたが、これによつて御了承をお願いいたしまして、極く簡單に申上げたいと思います。
○委員長(吉川末次郎君) まあ大体これで結構でしよう。暫く省くことにいたします。朝鮮の状況を……
○外務省調査局長(松平康東君) 戰後における朝鮮の状況でございますが、御存じのカイロ宣言、これは一九四三年十一月二十三日に、米英華の三大國がカイロで調印したものでありまするが、この宣言におきまして朝鮮人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由且つ孤立のもたらしめる決意を有するということを公約しておるのでありまするが、これが四五年七月二十六日のポツダム宣言において、カイロ宣言の條項は履行せられるべきであるとの確認を受けるに至つたわけであります。その結果日本の無條件降伏に伴いまして、朝鮮は一九一〇年の併合以來三六年振りに日本の支配から脱しまして、政治的自由性を恢復して即時完全な独立の実現を期待したわけであります。然るに朝鮮半島は北緯三八度線を以て南北に二分せらるるに至りました。北部はソ連軍、南部は米國の占領するところとなつたわけであります。即ちソ連は参戰と同時に東北鮮から侵入を開始しました。八月末までの間に各地所在の朝鮮人共産主義が組織いたしました人民委員会に行政権を接收せしめました。これに対し米軍は九月八日南鮮に上陸し十一日に京城に軍政部を設置して統治権を持つに至のであります。
 元來南北鮮の分割占領は、日本降伏を促進させるための作戰上の便宜から米ソ間の暫定協定でありまして、米軍司令官は進駐と同時に現地ソ連軍司令官との協議により南北の統一、交通の再開を図つたのでありますが、ソ連側は北鮮に対するその権限を主張してこれに應ぜず、ために統合の問題は駐屯軍司令官の局地的折衡では埓があきませんので、結局四五年十月十六日からモスクワで開かれました米英ソ三國外相会議の議題にしたわけであります。この外相会議におきまして、朝鮮の統一独立問題を討議いたしました結果、十一月二十七日に朝鮮共同信託統治案を正式に発表したわけであります。これによりますと米ソ両軍の代表者の構成する共同委員会というものを設置いたしまして、その委員会は朝鮮の民主的諸政党團体と協議して、朝鮮民主臨時政府を樹立いたしました。委員会はこの臨時政府と協議して、米英ソ華の四國による期間五ヶ年以内の朝鮮信託統治に関する諸措置を決定するというのであります。このモスクワ協定に基きまして、朝鮮米ソ両軍は、四六年一月十六日から三週間開かれておりました予備会議を経て、三月二十日より共同委員会を京城に開催したわけであります。そうして議題として一、政党團体との協議の條件及び順序、二、臨時政府及び地方行政機関の構成と組織原理、三、臨時政府の政治綱領その他適当な法案、四、臨時政府の構成人物の選定が挙げられまして、分科委員会を設けて審議を進め、四月十八日には政党團体との協議の條件として委員会が決定いたしました一つの宣言、これはモスクワ協定を支持し、共同委員会の決定を遵守し、これと協力することを約する旨の宣言であります。この宣言に政党團体が署名するよう各政党團体に要望したわけであります。然るに委員会の米ソ代表は協議の対象とすべき政党團体の範囲について意見の対立を來したのであります。すでに四五年十月二十日米國國務省当局が朝鮮に信託統治を実施いたしたいとの意向を発表いたしますや、朝鮮におきましては即時独立のみを予想しておつた朝鮮民衆は一齊にこれに反対していたが、越えてモスクワ協定の共同信託統治案が発表されたのに対しましても、南鮮の右派は反託國民総動員委員会を組織いたしまして、朝鮮的なデモを行いました。これに反対したわけであります。然るにこれに対しまして、左派は北鮮の動向に準じまして当初の態度を豹變いたし、信託統治に賛成したのであります。こういう状況の下におきましてソ連代表はモスクワ協定の規定する信託統治に反対する者は、モスクワ協定の掲げる任務を遂行すべき共同委員会との協議に参加する資格がないと主張いたしました。南鮮に絶対多数を占めておりました右派の完全な閉出しを図つたのであります。これに対して米國代表は言論自由の建前から、協議に参加すべき政党團体は委員会に協加の態度を表明すればいいのであつて、信託統治そのものはこれを支持しなくてよろしい、というまあ意見を出したわけであります。然るにこの見解の相違は遂に妥協点を見出すとこができませんで、五月六日共同委員会は無期休会に陥り、ソ連代表は直ちに平壤に引揚げてしまつたわけであります。
 こういうわけで両者の意見が阻隔いたしました結果、朝鮮の政府の樹立ということも暗礁に乗上げたわけでありますが、マーシヤル國務長官は若しソ連が委員会の再開に應じない場合には、南鮮に独自の政府を作ることは止むを得ないという考えから、四七年三月にモスクワで開かれました外相会議で、この問題をもう一遍議題に載せたいわけでありますが、漸くその結果モトロフ外相との間に了解が成立いたしました。五月二十日から再び委員会が再開される運びになつたわけであります。然るにこの間南鮮の右派の信託統治反対の態度は変ることなく、新たに反託独立鬪爭委員会を組織いたしまして、モスクワ会議にも信託統治反対の電報を打つておりますし、委員会再開直前の米國代表の忠告に対しても尚その反対の態度を改めないところがあるのであります。これに対して南鮮の中間派及び左派、それから北鮮の諸政党、團体は委員会に全面的の協力を表明したのであります。こういうような事態の間に、五月二十一日から開かれました共同委員会は前年と同様な会議で、臨時政府の樹立計画案を作成して、これに協議参加を希望する政党團体に對しまして、先程申上げました宣言に署名するかどうかを問合せました結果、南鮮四百二十五、北鮮三十八の政党團体が協議参加を申込んで來たわけであります。然るに又再びこの政党團体の範囲につきまして、米ソ間に前年と同様な意見の対立が起つたのであります。七月五日以降委員会の審議は少しも進捗を見ず、たまたま八月初め南鮮に行われました左翼の大量檢挙もこれに絡んで、共同委員会は全く暗礁に乗り上げるに至つたのであります。その間難局打開のため双方より種々の提案がが行われたのでありますが、結局ソ連側と米國側との意見の一致ができませんで、結局共同委員会による米ソ両國間の直接交渉というものは最早難局打開の道としては不適当ということになつたのであります。そこで米國は九月十六日から開かれました國連総会に朝鮮問題を提訴いたしまして、そうして十一月十四日の國連の本会議においてオーストラリヤ、カナダ、中國、サルヴァドル、フランス、インド、フイリッピン、シリヤ、及びウクライナの各國代表から構成される國連臨時朝鮮委員会の監視下に一九四八年三月末までに國民議会代議員の選挙を行い、議会は國民政府を形成し、政府は委員会と協議して、保安軍を編成すると共に、占領軍から行政権を接收し、その完全な撤退を実施可能な限り、速かに、若しできれば九十日以内に行うよう協議するということになつたのであります。國連の朝鮮委員会は、本年一月八日京城に到着いたしまして、全鮮的選挙のため活動を開始しようとしたのでありますが、ソ連政府は二十二日委員会の北鮮入りを正式に拒絶いたしました。一方この委員会の構成員の一國でありましたウグライナも亦委員会の代表派遣を重ねて拒否いたしました。このため委員会はちよつと行動に迷うような事態に立ち至つたわけでありまするが、結局國連小総会の指示を仰ぎました結果、朝鮮委員会は全鮮の選挙監視を行うべきであるかどうか、若しそれが不可能であるならば、委員会の立入り得る地域のみで、先程申上げました十一月十四日の國連総会決議を実施すべきであるという指令を出しましたので、この指令に基いて、國連の委員会は活動したわけであります。そうしてそこで國連委員会は選挙法を檢討いたしまして、朝鮮人指導者の意見を聽取いたしまして、結果選挙期日は五月十日、選出せられるべき代表数は二百名とし、米軍当局の支援の下に選挙が行われたわけでありますが、南鮮の左派、中間派、及び一部の右派は、この選挙に不参加の態度をとつたわけであります。選挙は結局九二%を超える投票を得たのであります。その結果右派の圧倒的勝利に終りました。國民議会は五月三十一日開院式を行い、七月十二日には憲法を制定し、李承晩氏を大統領に選挙いたしまして、大韓民國を樹立いたしました。八月十五日に独立式典が行われたのであります。米國、中國、フイリッピンはこれに先立つて韓國に事実上の承認を行いました。米國は大使格の駐韓特使を任命いたしました。そうして八月十六日から後は漸次軍政から韓國政府へ行政権の移譲が行われておるのであります。一方國連委員会も南鮮選挙の有劾性を承認いたしまして、現在パリで開かれております國連総会は、この國連委員会の報告を審議することになつております。これが南鮮の今までの政情であります
 これに対しまして北鮮におきましては四月十九日に平壤に南北鮮政党團体連合会議を開いて、南鮮の選挙に反対する朝鮮人の民族感情に呼びかけ、又五月十四日選挙直後の南鮮に対しましては、電力の供給を切断するというようなことで、南鮮における事態の展開を阻止するに努めたわけでありますが、七月十日には機先を制まして、先に採択いたしました朝鮮民主主義人民共和國憲法を北鮮に実施し、八月二十五日には、その最高主催機関たる最高人民会議の代議員選挙を南鮮代表の参加を得て実施するに至つたのであります。九月二日から開かれました最高人民会議は金日成を首班とする内閣を組織いたしまして、ここに北鮮人民共和國の形態は完成したわけであります。
 こういうようなわけで南北両鮮はここに二つの國家、それも政治原理と機構において全く異質的な國家が相対峠する形勢となつた次第であります。この前記南北政党社会團体連合会議は、四月二十六日に米ソ両國政府に対しまして、占領軍の同時撤退を求めるメッセージを送つたのであります。北鮮のソ連軍司令官が直ちにこれに答えて、ソ連は南鮮の米軍が撤兵すればいつでも即時撤退する準備を完了したと発表いたしました。これに対して米軍司令官は、米國は撤兵前に南鮮が北鮮の勢力に対抗できるようにしなければならんという声明をしております。九月十九日にはソ連政府は今年末までに北鮮のソ鮮軍を全部撤退すると発表いたすと共に、米國がこれに倣うことを希望いたしました。これは九月の十日に人民共和國政府が米ソ両國に発した撤兵要請に應えるのでありますが、大韓民國李承晩大統領はかねて米軍の継続駐屯を要望しておりまして、米國政府も亦國連総会における朝鮮問題の審議が終了するまでは、占領軍撤退は行われんという見解を表明しております。この眞僞は不明でありますが、新聞報によりますると、現在北鮮のソ連軍の兵力は二万五千乃至四万と言われております。この外に北鮮人民軍約六万、訓練された民兵は約二十万、警察二万五千、こういう勢力であります。これに対して南鮮は米占領軍のほか約六万の警察が組織せられるものと見られております。
 こういうわけで今回の國連の総会におきましては、大韓民國に全鮮政府としての正式承認を與えんとする米、英、中國以下の陣営と、朝鮮民主主義人民共和國が、朝鮮人民の民族意思の正当な表現であるとしておりまするソ連圏諸國との間に激しい論戰が展開されることが予想せられるのであります。撤兵の問題もこれに絡むわけでありまして、今度の総会審議の帰結を前にいたしまして、朝鮮問題は大きな問題になつておるわけであります。
○委員長(吉川末次郎君) その次の朝鮮に対するアメリカの経済的援助というようなものは一つ読んで貰つて省略していいですね。そうして主として僕らの方は治安問題に関連して共産党の活動というようなことを知りたいことが中心ですが、そこに力点を置いて、そうして日本と今の中共軍並びに北鮮を中心とする朝鮮におけるソ連の勢力等との結びつきというようなことを中心にして、一つ御説明を頂きたいと思います。最近南方諸國における共産勢力の動向はざつとゼネラルなことをお話して頂きたいと思います。
○外務省調査局長(松平康東君) それでは今の朝鮮問題の中第二の米國の対鮮援助は省略させて頂きます。それから南方諸國における共産勢力の動向はできる限り簡潔に、実は調書を作つて参つたのであります。お読み願うことといたしまして、ただ一つこれらの南方諸國における共産主義と宗教との関係を取出して簡單に御説明申上げます。フィリッピンにおきましては、現在フクバラハップという共産党の團体がありまして、これが主として中部ルソン方面において活動をしておるわけであります。ところがこのフクバラハップの團長のルイス・タルクという首領は共産党員でありまして、これを取捲く即ち中心勢力は中共系分子と密接な連繋を取つておるようであります。この中共系の戰略は、結局中共自身の基地を北部ルソンに設置することにあるようであります。それで北部ルソン各地には中國民の密入國の基地が設けられておりまして、共産党の細胞として活動しておるという趣であります。
 それからインドシナでありますが、これは御存じのようにホー・チ・ミンという越盟党の中心人物の共産党員が中心となつて活動しておるわけでありますが、そのホー・チ・ミンという共産党員は少壯時代廣東で共産主義の教育を受けた人でありまして、その後モスクワにおいて更に共産党指導者としての訓練を重ね、中共勢力とは連絡を緊密にしておるようでありまして、越盟党のハイフオン、ハノイ、シヨロン、カムボット等における地下運動には数千の中共党員が参加しているというわれております。
 次はシヤムでありますが、シヤムは元來保守的な國でありまして、組織的な左翼運動は見るに至らなかつたのでありますが、ただ在來中國人が潜行的に華橋を目的として公共團体に働きかけておつたのであります。終戰後華僑に対する法規的、社会的制約の多くが取除かれ、中共系運動員の運動が多くなるにつれまして、主として華僑をを足場とする共産主義運動が非常に盛んになつたわけであります。ピブン首相は本年七月末新聞記者に対しまして、現在にはシヤムには約三万の中共党員が潜入しておるが、シヤムの社会は王党派によつて堅実に組織されているので、共産主義に影響されることはないと確信する旨語つたが、その後官憲の檢挙する赤化運動者はすべて華僑であります。八月十二日國内主要都市において一齊に逮捕された二百余名の共産分子は大部分中國人といわれておるようでありまして、このようなことから政府は外國人の政治運動を禁止し、中共支部を解散せしめ華僑の新聞、学校の一部を禁止するというようなことであつたと傳えられております。
 次にビルマでありますが、ビルマはご承知のように共産党の活動は非常に盛んでありまして本年に至るまでにビルマの地方の農民層に不抜の勢力支配を築きました。共産主義は本年春更にラングーンその他の都会地で工場労働者の赤化を目指して英國系大工場のゼネストを指導し、首都を革命寸前の騒擾に陥入れ、政府顛覆ような事態を惹き起したのであります。そうして七月に入つてからはモールメン鉄道守備政府軍が共産党に参加し、それから八月には首都のラングーンの西方地域に大規模の赤化暴動が起こされて白人女子の避難引揚げが行なわれるというような状態を呈したのであります。それから九月には掃共補助部隊総監となつて反乱軍鎭圧に当つておりましたウ・テイン・トット前外相は、テロ團のために爆死するという突発事件が起き、政府は遂に全國に亘つて戒嚴令を布告するという状態になつたのであります。
UP・のガウルという上海特派員は中共が指導的役割を演じておる、それから又ベヴイン外相は、反乱分子及びその指導者は中國人である、ということをいつておるようであります。
 それから次はマライでありますが、マライにおける共産党の活動は非常に活発でありましてマライ共産党の活動は昨年十二月の香港で開かれた会議の結果、中國共産党華南局が最高指導者をマライに送るとの決定を見て以來、中共との連繋は一層緊密化したと言われているが、マライ総人口五百余万の半を占める華僑がマライの経済勢力の重要部分を占有する土地柄だけに、共産主義宣傳文書等はすべて華語で書かれているということであります。この事実からも中共とマライ共産党との関係が想像できる、こういうことを盛んにいわれておるわけであります。マライでは檢察当局は暴徒のことを、共産主義武装團の中國人ギヤングと呼んでおるそうでありまして、去る七月十七日にはマライ首都クオララムポ附近で警察隊に射殺された中國人暴徒の首魁は、戰争中抗日部隊を指導し、一九四六年ロンドンにおける戰勝式は参列した労禹という中國人であるということが判明しました。曾ての抗日部隊、共産党、今回の暴徒指導者の中に中共勢力との関係が入つておることが分つたわけであります。
 それから次はインドネシアでありますが、このインドネシアの共産運動で活躍しておりまする共産党の首領の一人にアリ・ミンという人がおりますが、この人は最近までマライにあつて赤化運動に参加した人物であります。ビルマ、マライ、インドネジアの赤化暴動がその間に連繋があることを知る一つの材料と見られております。インドネシアの共産党と中共との関係は現在のところは今申しました以外にははつきりした点はないのであります。インドネシアも最近は共産党の活動は非常に盛んでありまして、ソヴイエット・インドネシア・ジヤワ・ソヴィエット共和國というものもできまして、そのジヤワ・ソヴィエット共和國の首相は実はこの間までインドネシヤ共和國の首相をしておつたシヤリフデン氏が共和國というものもできまして、そのジヤワ・ソヴィエット共和國の首相になるという状態であります。これもなかなか容易ならん事態であるように思われるのであります。
○委員長(吉川末次郎君) 日本との関連性について。
○外務省調査局長(松平康東君) 日本との関係についてはですね。日本と中共との……この点は御指摘の通りコミンフォルムは極東に形成されておるかという御意見があつたのでありますが、これはコミンフオルムが極東に現在形成されておるかどうかという点、それから苦しそれが形成されておるとして、極東諸國及び日本共産党の間にどういう関係があるかという二つの点につきましては、実は私の方の資料では的確な調査ができないのでありまして、非常に申訳ないのでありまするが、現在の私等の手許に集つておる資料ではこの質問にはお答えできないのであります。その点御了承願いたいと思います。
○委員長(吉川末次郎君) 時事通信の発行しておる雜誌や記事によつてもやはり極東支部があるとかないとかはつきりしない。日本共産党のようなことははつきりしていない、やはり外務省もそのような調査でありますか。
○外務省調査局長(松平康東君) その程度であります。
○委員長(吉川末次郎君) 大体今のようなお話で一應御説明をざつとして貰つたことにしまして、更に外務省当局から提出されております資料をよくお読みを願うことといたしまして、今までの調査局長の説明を中心といたしまして御質問等がありましたらお述べを願いたいと思います。
○委員長(吉川末次郎君) 御質問ございませんか……。それでは散会いたします。
   午後三時散会
 出席者は左の通り。
   委員長     吉川末次郎君
   理事      中井 光次君
   委員
           岡田喜久治君
           大隅 憲二君
           黒川 武雄君
           奥 主一郎君
           岡本 愛祐君
           小野  哲君
           阿竹齋次郎君
           濱田 寅藏君
  政府側
   外務政務次官  伊東 隆治君
   外務事務官調査
   局長      松平 康東君