第007回国会 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第9号
昭和二十五年二月三日(金曜日)
   午前十時二十九分開会
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  本日の会議に付した事件
○証人喚問に関する件
○哈達河開拓団実情調査に関する件
 (右件に関し証人の証言あり)
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○委員長(岡元義人君) ではこれから委員会を開きます。先ずお諮りいたしたいことがございますが、前の委員会におきまして来る六日に召喚いたす証人につきましては一応種村、高橋、長命、尾ノ上、内山、板垣以上六名が決定いたしておつたのでありますが、先日の委員会におきまして、淺岡委員より及び千田委員より是非有田証人を一名加えて頂くようにと申出がございました。この際加えることに御異議ございませんき。お諮りいたしたいと思います。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員長(岡元義人君) では有田浩吉一名を加えることにいたします。
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○委員長(岡元義人君) では案件になつておりますところの藪崎順太郎証人只今出席されましたので、只今より藪崎証人の証言を聞くことにいたしたいのでありますが、今回高砂丸が入港いたしました際に、舞鶴におきましても旧満洲関係の方々が帰つて見えて、開拓団等の状況について非常に心配をされておられましたその間の事情が漸く明らかにされようとしているのでありますが、未だ外務省におきましては開拓団その他一般邦人の死亡等の状況は十分に把握されていないようであります。本日外務省からも出席を要請してございますが、まだ出席いたしておりません。間もなく出席あることと思います。先ずその問題の外にもそれに類似した問題が委員会にも参つておりますが、取敢えず只今ソ連地区收容者の数字の問題が非常にやかましく吟味されておりますので、満洲地区関係の死亡状況等は相当明らかにされなければ、最後のソ連地区関係の残留者数も明確になつて来ないわけであります。この際証人の証言等によつて、委員会の今後の資料にいたしたいと思うのであります。
 只今から証人の証言を求めますが、先ず宣誓をお願いしたいと思います。一同起立をお願いいたします。藪崎順太郎君。
   〔総員起立、証人は次のように宣誓を行なつた〕
   宣誓書
  良心に従つて真実を述べ、何事もかくさず、又、何事もつけ加えないことを誓います。
        証人 藪崎順太郎
○委員長(岡元義人君) 着席願います。この際証人に一言御注意申上げて置きますが、議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律第六條によりまして、「この法律により宣誓した証人が虚僞の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処する。」ということになつております。この点は十分御注意をお願いいたしたいと思いますが、併し民事訴訟法の第二百八十條並びに刑事訴訟法第百八十六條に該当する場合は証言を拒否できることになつております。民事訴訟法の第二百八十條、刑事訴訟法第百八十六條は内容は同じでございますので、参考までに民事訴訟法の二百八十條を朗読いたします。
 証言カ証人又ハ左ニ掲クル者ノ刑事上ノ訴追又ハ処罰ヲ招ク虞アル事項ニ関スルトキハ証人ハ証言ヲ拒ムコトヲ得証言カ此等ノ者ノ恥辱ニ帰スヘキ事項ニ関スルトキ亦同シ
 一 証人ノ配偶者、四親等内ノ血族若ハ三親等内ノ姻族又ハ証人ト此等ノ親族関係アリタル者
 二 証人ノ後見人又ハ証人ノ後見ヲ受クル者
 三 証人カ主人トシテ仕フル者
以上であります。
 尚、更に御注意申上げて置きたいと思いますことは、この国会法、並びに議院に於ける証人の宣誓及び証言等に関する法律の第六條によりまして、「この法律により宣誓した証人が虚僞の陳述をしたときは、三月以上十年以下の懲役に処する。」
 「前項の罪を犯した者が当該議院若しくは委員会又は両議院の合同審査令の審査又は調査の終る前であつて、且つ犯罪の発覚する前に自白したときは、その刑を減軽又は免除することができる。」念のため併せて御注意申上げて置きます。
 只今より証言を求めますが、できるだけ御調査になられました、その視察をした責任者等の名前等は明確に御証言が願いたいと思うのであります。藪崎証人。
○淺岡信夫君 証人の証言を求めるに際しまして、証人の持たれる資料、材料等を手許に置かれて、そうして正確なる御証言を願えるよう、委員長から特に証人にお話を願いたい。
○委員長(岡元義人君) 淺岡委員の御発言ございましたが、証人は十分資料をお持ちになつてそうして述べて頂いて差支えございません。
○証人(藪崎順太郎君) 哈達河開拓団員が北満の麻山で以て自決したということを耳にいたしましたのは昭和二十一年の十二月の中頃でございました。早速靜岡の県庁へ参りまして、その調査方をお願いいたしたのでございますが、すでに終戰後であり、県庁といたしましては手の着けようがない、こういう県の意向でございましたために、私は独自の立場でこの調査に当りました。それは私の弟の妻並びに家族六名がこの自決の仲間に入つておるということを聞きましたから、私が直接その調査に当つたのでございます。それで二十一年の十二月の二十日頃に、茨城県の県庁へ参りまして、茨城県から出身しておりました哈達河開拓団員の飯水春末という人を調査して貰いました。同県の北相馬郡大井沢村に帰られたということを聞きましたので、大井沢村へ参りまして、飯水春末氏に面談したのでございます。その当時、飯水氏は自分の家内と八歳ぐらいになる男の子を連れてこの現場から引揚げて来ておつたのであります。で、大体その飯水氏の言によりまして全貌が掴めたのでございます。それは八月の八日に日ソ開戰と同時に哈達河の開拓団が空襲された。御承知の通りに哈達河の開拓団は虎林線の沿線にございまして、密山の少し手前に東海という新らしい駅がございます。東海駅から約十分歩きますと哈達河開拓団の本部がございます。その本部を中心に約二里四万ぐらいに亘りまして各分村ができておつたのでございます。もともとこの哈達河開拓団は各県からの出身者の集合の団体でございますために、北海道或いは長野県、新潟、群馬、山形、埼玉、靜岡、広島、九州、或いは四国、宮城県、大体こういう所からの出身者がおりましたために、その各県ごとに小さい部落を作つておつたのでございます。その部落へ退避の命令を下したのは、その翌日の午後一時頃に開拓団長が各部落へ退避の命令を下したということでございます。それは鶏寧の県庁、当時の県知事は現在靜岡県の田方郡の並山村の村長である久保田豊氏、この方が鶏寧の県知事だつたのであります。その空襲、八月八日前に、多分六日頃と記憶しておりまするが、各鶏寧県の開拓団の団長を県庁へ集めまして、日ソの空気が非常に險惡である。万一の場合には如何にして退避するかということを打合せを行なつたということでございます。その打合せの結果によりまして、九日の日の午後一時頃鶏寧の県庁から電話を以て開拓団へ退避するようにという通知があつたということでございます。そこで貝沼団長は、先程申しました各村へ使いを走らせまして、そうして一同退避の仕度をせよ。それはその日の夕方になりまして各村へ漸く連絡が付いて、各団員は徹夜で退避の仕度をした。そこでその翌日団員は、満洲語でドウアウと言います、これは馬車です。荷馬車に乘りまして、団長が指揮して林口を目指して南下して行つた。ところが虎林線の沿線にありながら、すでに鉄道は爆破されたために、鉄道附近まで行けば汽車の乘れるのじやないかという希望を持つて進んでおつたのでございますが、すでに鉄道も、鶏寧も皆爆破されて汽車に乘ることができない。そこで十一日には雨に打たれながら南下した。十二日の十二時頃に林口の二つ手前の駅前の麻山というところに参つたのでございます。そのときに満洲の反乱軍が両側の山に陣取り、先にソ連の戰車がおつた。そこでソ連の戰車と戰つておつた日本の敗残兵が退却して来て団長に報告するには、到底こういう大部隊で通過することは困難である。こういう報告を受けた。で、退避するときには同勢は約一千名であつたと思いまするが、ところが十日、十一日と避難をして来る途中で、馬の優劣などによりまして約半分が相当遅れたと言います。それで四百何名かの先の部隊が麻山の山と山との間へ退避した。ところが反乱軍の機関銃も射ち出すし、或いは戰車の砲撃も受ける。こういう状態で、どうしてもこれは逃げることはできないのじやないか。そこで貝沼団長は、指揮者であるところの壯年男子十数名を集めて、どうするか、到底逃がせることはできないのだ。いつそ我我の手によつてこの婦女子を自決せしめることが一番いいのではないか。敵の手に渡して辱しめを受けるよりも我我の手によつて殺されるということは女子も満足ではないか、こういうような団長から各壯年男子に相談が持ちかけられた。そこで壯年男子も、団長の言われる通りだ、こういうことに相談が一決しまして、団長は皆のものに訓示を與えたのであります。そこで皆のものも泣く泣くもはや逃がれる途はない。殺して貰うより手がないだろう。こういうような空気ができまして、大変に皆一時動搖したということでございますが、時間が経つに従つて水杯をし、或いは婦女子は晴着を出して着替え、子供達には最後の菓子を分け與えて、そうして死出の旅路を飾るように晴れやかになつた、十数名の男子は銃劍を持ち、或いは銃で以てこれを一々射殺したこういうことに報告されております。その後射殺したこの壯年男子は突撃隊を作つて敵の中に斬込んだ、こういう報告でございますが、その中の過半数が東京或いはハルピンに落ちのびて、そうして内地へ帰つて来ておるのでございます。
 この報告は、私の調査は、先程申しました茨城県の北相馬郡大井沢村飯水春末氏、それから現在神奈川県におりますところの、神奈川県の逗子の福田町高橋庄吉氏、それから宮城県の遠田郡、南郷村の片倉惠七氏、南郷村の役場におります。この方の報告、或いは同じ開拓団員であつて、自分は応召し、それからシベリヤから帰還して調査いたしました靜岡県の浜名郡和地村の橋本美津治氏、こういう人達、それから殺した側の高橋秀雄という人が、靜岡県伊東市の在に靜岡県開拓団がございまして、ここに団員として現在開拓に従事しております。その人に私は昨年の十一月の二日に面談いたしまして惨劇を確かめたのでございます。その中で最も真相を掴み得たかと思われますのは、逗子の高橋庄吉という人の報告でございます。この人は元開拓団員であつて現在応召しまして新京附近に兵隊になつておつた。終戰と同時に兵隊から逃げ帰りまして、新京の町の中にぶらついておれば、誰か哈達河開拓団から逃がれて来る者があるだろう。そうすれば開拓団の様子も分る、そうして待ちかまえておりましたところが、宮城県の武田清太郎という人と、それから高木福次、阿部強、この三名が麻山の現地から逃げ帰つて来まして、新京で以て落合つた。そこで高橋氏がこの三名から当時の状況を詳細に書取りまして、そうしてその報告書を本人が持つておつた。その一部を私貰いましてお手許に差上げたのでございます。その後高木福次と武田清太郎は新京におきまして発疹チブスで死亡し、ただ一人阿部強か宮城県の南郷村に帰つて来ておる。大体そういうような状態でございまして、私が特にお手数を煩した趣旨は、四百何名という尊い生命が、單なる自決という名前の下にうやむやに葬り去られることは、血を分けた私共身内の者といたしましてはどうしても締めきれない。如何なる状況の下に、如何にして死んだかということを詳細に知りまして、死者の霊を慰めたい。尚私共と同じようにこと身内をなくしても、葬式のできないというものが現在尽県に散在しておるのでございます。こういう人達に一々連絡いたしたいのでございまするが、私個人といたしましては、どうしてもそれが不可能でございます。従つてこういう機関を通じまして、詳細に御報告できれば、死者は慰められることと思います。
 それから今一つは、もともと満洲の開拓団は、軍国主義者の侵略の手先に使われた観が多分にございまして、この開拓団の指導者そのものが軍国主義思想に非常に徹底しておつた観があるのでございます。私が十八年に哈達河の開拓団に参りまして、団長に面談したときに、殆んど軍人より以上の思想を持つている人である、そういうような感じたのであります。従つて団員も同じようによく訓練されておつたのではないかと思うのでございます。さればこそ麻山におきましていよいよ最後というときに、壯年男子は後鉢巻をして銃劍を持つて、僅かに三十分か四十分かの間に自分の妻子や或いは同胞を銃殺し、刺殺するというようなことは、考えただけで身の毛のよだつことでございます。こういうことをなし得たということは、人間業ではないと思う。忌むべき軍国主義思想がこれをなしたのではないかと、かように考えられるのでございます。軍国主義思想を排撃したいということも私の念願の一つでございます。
 以上大体私の調査したところでございまするが、詳細に亘りましては、御質問に応じてお答えいたしたいと思います。
○委員長(岡元義人君) 只今の御証言に対して御質問がおありかと思いますが、尚ちよつとお諮りいたしますが、只今証言中にございました遠藤という人は、帰つて来られてから藪崎証人にお手紙を出しておられるのでありますが、その手紙の内容を、簡單でございますから参考に読みましようか、如何いたしましよう。今の藪崎証人から御指名になつた、その刺殺したという人からここに手紙が参つております。簡單ですから今読上げましようか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あの〕
○委員長(岡元義人君) それでは読上げます。
 「小生元哈達河開拓団におりました遠藤です、敗戰の苦しみを身を以て、いまだ精神的の打げき去らず、この北海道に、開拓者として入り今日に及んでおります。
 御実弟御家族、いまだ、はつきりとわからずにおられ、御心配の程如何ばかりか、お察しいたします、と共に我々生残りました一人として誠に申訳無く存じおる次第です、昭和二十年八月九日夜引揚の達しを団長より受け住みなれし哈達河を出たのは十日朝でした。此の時団長より馬車を頼のまれ(五六台)用意して本部へ廻しました。其の馬車に乘り、御家族様方も一緒に林口に向つたのであります。最終の列車出た後、国境方面よりの兵隊はトラツクで先へ行く女子供の多い開拓団は置きざりを受ける様な、ごつた返し、麻山附近にさしかかつたのが八月十二日午后でした。もう此の時、国境へ通ずる道路有りソ軍が入つていて、如何ともするあたわず、此処に哈達河開拓団員の最後となつたのであります。あの時あの場合、致し方無しとは云へ、実に軍国主義の犠牲に終つた事余りに可愛相です。わしも家族五人麻山の土とし、外に六人自分の手に掛りたる人ははつきりとしてゐますが、団長以下自決の場所と一寸はなれてゐます、そして一年後ハルピンより現場へ行き、どうしても自分の手に掛りし人の遺骨を持たなければ日本へ帰る事が出来ず、とうとうそれを決定した様なわけです。幸に八日掛君りで目的を得、団長自決の現場も一年前のそれを前い、遺骨をおさめハルピンへ帰り、一年目の八月十二日ハルピン東本願寺で団長始め哈達河団員に対して、ハルピン残留者七名、そしてとなりの永安屯の団員も列席して、始めてお経を上げてもらつた様な次第です。そして団長の遺骨は上野さんに持つてもらつたのであります。
 御弟様御家族、団長自決の場所で自決なされしか私はつきりと存じませんが、当時哈達河小学校長の衞藤通夫先生の方が私よりも自決の時、現場におりし人にして、記憶してゐられる事と思います故、先生の方へも問合せ下され度お願い致します。私としては、はつきりしてゐますれば、言いにくいことでありましてもはつきりとお知らせ致しますが、ごつた返し、頭が変になつてゐまして、はつきりしたお知らせ出来ず、誠に申訳無く思いおります。只体大あまりおくれずに馬車も来たのですから、一緒ではないかと想像はされます。衞藤先生の住所は大分県玖珠郡森町大字岩室です。」
 以上の手紙が遠藤久義氏から送られております。
 尚その後当委員会に対しまして、ここに書かれておりますところの元哈達河の小学校長であられました衞藤通夫氏より通信が参つております。その通信は、終戰以来この問題について非常に自分は悩んでおる。むしろこの際国会に呼んで頂いて、実際を申上げて、そうして自分の将来を決めて行きたい。何もかも国会において申上げる決意でおる旨の手紙が衞藤通夫先生から参つておりますことを各委員にお知らせいたして置きます。
○北條秀一君 証人にお伺いしますが、先程証人は、満洲の開拓団がすべて強い軍国主義の基礎の上に立つておつたということであります。今委員長が朗読されました手紙も又軍国主義云々が出ておりますが、証人が言われるごとく、満洲にあつたところの開拓団は盡くが軍国主義の強い基調の上に立つておつたということについては、私は必ずしも賛成はしないのであります。若し証人が言われたようなことになりますと、満洲にあつた当時の開拓団諸君は、その名誉にかけてもこの問題について真相を究明しなければならんという要請が出て来ると私は考えます。殊に当時の開拓団諸君は、日本の国策に副うて、父祖伝来の本国の土地を捨てて、そうして永住の地として彼らは満洲に送られて行つた。でありますから、時には、これはみずから求めた植民でなしに、一時棄民だというふうな惡口さえも言われたのでありますが、そういうふうな大きな国家の政策の犠牲になつたのでありまして、犠牲になつたということは、即ち開拓団が軍国主義によつて一色に塗りつぶされておつたということとは違うと考えるのであります。今証人は、満洲の開拓団がすべてが強い軍国主義の基調に立つておつたということを言われましたが、これは單に証人が考えられましたといいますが、どの程度に証人がそういうことを実証し得る理由を持つておられるか。これについて私は先ず最初にお聞きしたいと思うのであります。そうしないと、こういう問題を今後本委員会において調査をする根本になつて参りますので、その点について重ねて証人の証言を改めて申述べて頂きたいと思います。
○証人(藪崎順太郎君) 私がその軍国主義に徹しておつたということを申上げたことは、或いは過言と思われるかも存じませんが、私の見た眼ではさように感じたのでございます。それは十八年に私が開拓団におる弟の家族を訪ねて行つたときに、貝沼団長にお会いしてつくづく感じたのであります。勿論普通の団員は国家のために、自己の将来のために、満洲に出掛けるときには軍国主義には徹底してはいなかつたのでございます。併しこの指導者はですね、確かに軍国主義に徹底しておつたように思われるのであります。開拓団の朝の国旗を揚げるところから、或いはいろいろの会合のときに団長が訓示をするというようなところでは、軍国主義を非常に注ぎ込んでおつたのではないかと思われるのであります。いま一つは、国境地帶におりましたため、すべて軍隊の中に入つておつた。周囲は殆んど軍隊であつた。哈達河開拓団のごときも、真中に戰闘機が着陸する飛行場ができておつたのであります。でいま一つは、これは自己防衞のためもございましようが、軍隊から鉄砲が渡されておつた。そうして常に自分の居間に鉄砲を備えておつた。こういうことから自然に軍国主義思想が各自の頭に入り込んだのではないかと、かように考えられます。
○北條秀一君 それから証人の実弟がその団に行かれたということでありますが、あなたの弟さんの場合には、あなたはどういうふうに観測されたか。
○証人(藪崎順太郎君) 私の弟もやはり軍国主義に徹底しておつたというように感じました。
○淺岡信夫君 藪崎証人にお尋ねしますが、只今北條委員からの証言を求められたことにつきましては、十分了承いたしたのでありますが、この日本の当時の国策に準じまして、そうして父祖伝来の土地を捨てて大陸に行つた。当時満洲事変の直後におきまして、百万戸五百五移住という声が非常に国内で挙つて、武裝移民団というようなことで第一次団長山崎団長、第二次団長宗団長というようなことで送られた。当時は武裝移民団と言われた。ところが満洲事変の終結によつて、そうした武裝移民団という名前も拂拭されて、満洲移住協会というような、一つの協会となつてこうしたものがなされたのであつて、私も当時満洲に行つたこともある。又佳木斯の第一次開拓団、第二次開拓団を実際に見たこともあります。勿論満洲事変中にはそういうふうに感じた。これはもうその通りでありまするが、その後においては非常に変つて來ておるということと、それから今度はこの太平洋戰争に入つた。要するに戰時の態勢に入つたという場合に、敢えてそうした開拓団のみがそういうような態勢にあつたのではないのではなかろうかと、私はこういうふうに一応思うのですけれど。そこで私はこの当時の戰争の最高潮に達した。而も敗戰した直後あらゆる面が混乱しておつたときの状態です。それが今日四年も五年も経過して、靜かに顧みていろいろなことを言われる。その証言をここで求めておるのでありますが、私共はどうしてもその指導者が武器を枕許に置いておつた、或いは朝夕国旗を揚げて遥拜しておつたということは、私は戰争中は当然のことであつたと思う。そうしてその点について、ずつと後に今日尚やるということは、これは又別でありますが、戰争の直後の大混乱時にあつたときに、そういうことがなされたということに対して、証人はいろいろそうした点について酌量される点があるかないか、状況をですね。そうした点についての証人のお考えを述べて頂きたいと思います。
○木下源吾君 議事進行について……。当初委員長が言われたように、この証人は、在外同胞の数を正確にするための一資料だと言われておるので、今のような軍国主義だろうが何主義だろうが、そういうところは敢えて問うところではないので、目的に副う点だけを証人から証言を求めたら足れりだろうと思うので、そういう点で限定されたいと思います。
○委員長(岡元義人君) 各委員にお知らせいたして置きます。今外務省より渡航課長が御出席になつておられますので、一応お知らせいたして置きます。
 尚議事進行について木下委員の御発言がありましたが、御趣旨御尤もと思いますので、各委員におかれましては、一応問題を、政府当局も見えておりますし、この問題を政府当局が記憶されておるかどうかというような点も勘案して、証人の証言を求め、そうして我々の参考資料としたいと考えておる次第であります。
○淺岡信夫君 今木下委員からの議事進行についての御意見、誠にその通りだと思うのです。併しただ問題は、先程北條委員も言いましたように、その根本の問題だけは明らかにして置かないと、如何なる証言を聞いておつても、そのよつて来る所は漠としたことになると思います。私共は先に聞きましたその結論だけを簡單に御証言を願えれば結構だと思います。その点を一つ。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○証人(藪崎順太郎君) これは結果論になりますが、麻山におきまして、いよいよ最後であるという時に、婦女子が晴着を出してそうして着替えて水杯をして、遥かに東の方を伏し拜んで万歳を三唱し君ケ代を合唱して、然る後に銃口の前に立ち、或いは銃劍の前に立つた。こういうように私は聞いております。これは一朝一夕で以てそういう観念ができるよけではないと思います。それだけ申上げます。
○天田勝正君 厚生当局は呼んでありますか。
○委員長(岡元義人君) 厚生当局は呼んでございません。
○天田勝正君 先程も委員長が言われましたように、このような重大報告が今まで我々の耳に入らなかつた。併し引揚の場合は、いろいろな調査をそれぞれの関係官庁においてする筈でありますが、外務省の方においてはこれらのことについての詳細なる資料があるならば、この機会にどの程度あつたかということだけ一つお聞かせ願いたいと存じます。
○説明員(武野義治君) 開拓団関係の、特に国境方面における開拓団関係の終戰後の状況につきましては、私共政府側の者といたしましても、又從來いろいろ満洲における各般の事情についてその発展に協力、努力をして参りました我々の立場から言つても、その成り行きについては心から憂慮を禁じ得ず、これにつきまして外務省といたしましても、只今まで非常な精一杯の努力をやつて、調査に盡力して参りました。あの二十四万、数は約二十四万と思いますが、この開拓団のどの程度の方々があの終戰後の混乱状態の下において惨澹たる辛酸を経て都市に集結し、そのうちどの程度帰り得たか。そうしてその間においてどのような状況においてなされたか。又その時の団の、例えばそういつた財産関係とかいうものも全部入りますが、そうした辛苦惨澹した結果、開拓団が築き上げたそいつた或る財宝がどのようにして掠奪或いは收奪されたかというようなことにつきまして、我々といたしましてはできるだけの努力をいたしました。只今まで調査を進めました数は、団の数で二百五十終つております。団員の終戰後の個人消息の把握につきましては約五十の開拓団の調査を終えております。併しながら今後はこの残された団についてその一つ一つについてできるだけの努力を拂つて詳らかにしたいと思つております。殊に私の担当するところにおきましては、主としてその個人消息の問題でございます。あのようにして自刄され、あのようにして踏みにじられて、そうして泣くにも泣けない状況において散り果てられた同胞を思いますれば、我々の責任のつくづくその重大なるにおののく次第であります。
○天田勝正君 ちよつと、非常に違うんです。私のお聞きしているのは、あなたが責任を痛感されるとか、そういうことではないんです。問題はその開拓団達の財宝がどうなつているかということよりも、引揚げた場合に、それらの開拓団の中から必ず何人かは引揚げておる筈なんです。余程の犠牲が出たとしても、必ず引揚げている。その引揚げた場合においては、引揚げた地において、必ず関係官庁の調査がある筈です。この調査の中に、哈達河の開拓団のこともあなたの方に記録されておるかどうかということをお聞きしておるのであります。
○説明員(武野義治君) 哈達河開拓団については調べが付いております。
○北條秀一君 先程の木下委員の議事進行についての動議をお諮り願つて、証人から、証人の知つておられる限りの詳細な証言を求めたいと思います。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員長(岡元義人君) 只今北條委員から御発言がありましたので、一応藪崎証人から御証言願いたいと思いますが、四百余名を認ためてありますけれども、その点四百余名の氏名等はお分りになつておられるのか。
○証人(藪崎順太郎君) その点につきましては、私は殆んど承知しておりません。それは四百二十一名であるということは、先程申上げました高橋庄吉が新京において麻山から逃げ帰つて来た武田清太郎外二名から報告を受けた報告書に記載しておるのであります。それで宮城県の遠田郡南郷村だけは八十一名であつて、そうしてその氏名もはつきりしておるということを承知しております。調査のできておるのは宮城県の南郷村の役場だけだと思います。あとは氏名は殆んど分つておりません。
○委員長(岡元義人君) 渡航課長に委員長からちよつとお尋ねして置きますが、今調査ができておるというお話でありましたが、四百二十一名の死亡者名、住所その他外務省では知つておられるのですか。明らかにできますか。
○説明員(武野義治君) 哈達河の全員四百二十一名となつておりますが……。
○委員長(岡元義人君) 尚ちよつと渡航課長に申上げて置きますが、その四百二十一名の詳報と共に、今証人から委員会にあつて報告されました内容等について、外務省で分つておる範囲において、できたらここで明らかにして頂きたい。
○淺岡信夫君 概略で一つお願いしたいのです。若し詳細なことであるならばあとで書面を出して頂きたいと思います。今大要を一つ説明を願いたいと思います。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○説明員(武野義治君) 只今未帰還者の数並びに人の問題につきましては資料を至急調べますから後程書面で出すことにいたします。
○天田勝正君 当委員会に集まつておりますこれらの資料は、委員長の手許から外務当局にお話合か何かありましたか。
○委員長(岡元義人君) 天田委員にお答えします。各委員会に一応プリントでお配りいたしましただけで、まだ、外務当局には一応委員長が個人的に連絡をして管理局長までお尋ねに行きました、その結果、外務省ではまだこれは調査されていないということを局長から聞きましたので、一応藪崎証人に証言を求めることに運んだのであります。
○天田勝正君 私が聞きたいのは、委員長が外務当局に内示でもしておれば、この通りのことは先ず外務省においては調査されておると思う。これを聞けば議事進行上非常に都合がよいと思うのであつて、(「異議なし」と呼ぶ者あり)この通りのことを、そうであるかどうかこれだけのことを聞きたいと思います。(「異議なし」と呼ぶ者あり)適当に委員長から……。
○委員長(岡元義人君) 今天田委員の御質問の趣旨分りましたか。
○説明員(武野義治君) 哈達河の開拓団の証人についてお尋ねになるということは、昨日御連絡がございましたけれども、具体的の問題は今朝受理したわけでございます。具体的なデータはちよつと帰つて調べないと分りません。
○淺岡信夫君 この問題は、要するに委員長がさつき言われたように、数の問題が根本となつておるのでありますから、今外務当局でもこの問題に対しては一応調査して見なければ分らんということでありますから、一応そういう件につきましては別の観点から証言を求むべきものは求めて議事進行を願いたいと思います。(「賛成」と呼ぶ者あり)
○委員長(岡元義人君) 各委員に申上げて置きますが、只今外務当局からのお話がございましたが、昨日、今日の藪崎証人の出頭の件に関しまして委員長より出向きまして、本日証人の証言がある筈だから、局長、課長出席をするようにということまで私自身行つて申入れてありますから、政府当局は今のお話は取消して頂きたい。十分御注意してあります。
 尚、それでは各委員の了解を得ますれば、委員長から証人に一、二お尋ねしたいと思いますが、異議ございませんか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり)
○委員長(岡元義人君) 異議ないようですから、先ず藪崎証人にお伺いいたしますが、靜岡県庁にあなたが調査を御依頼されたときに、調査の必要なしと答えられたという証言がございましたが、その必要なしと言われた方は一体どなたですか。
○証人(藪崎順太郎君) 必要なしではない、調査の方法がないと言われたのです。
○委員長(岡元義人君) どなたですか。
○証人(藪崎順太郎君) それは当時厚生課の金森という人と思います。名前は存じませんが。
○委員長(岡元義人君) もう一点お尋ねして置きますが、あなたのこの委員会に出されました趣旨は、自決しなくても帰れたのではないか。自決しなくても本当は生きて帰れたのではないかというようなことをお考えになつて、そういう判断の下に提出されたのですか。
○証人(藪崎順太郎君) 勿論そういう意味も含んでおります。それは麻山の現場から自決を承知しないで逃げ帰つて来ておる者が宮城県の遠田郡におります。それから殺した人達の過半数が日本に帰つております。それからいま一つは、その後組になつた約五百名が、自決の現場から約一キロ半離れた山の麓の高梁畑に溜つておつたのであります。先の連中が自決して、それから自決させた靜岡県の橋本美津治、北海道出身の高橋秀雄という人、この人の消息はまだ分らないが、この二人が血刀を持つて一キロ半離れた後組の五百何名の所に参りまして、もう先の連中は自決したのだからお前達も自決しろと、こう言つたときに、この指揮者であるところの福地康夫、この人は開拓団の医者でございますが、その人が馬鹿を言え、尊い生命を今ここでなくさないでまだ後に役に立つ時がある。お前達逃げろと言つて山の中に逃がしました。その逃げた婦女子の大部分が日本内地に帰つて来ております。この人達の代表である飯水春末という茨城県の人と私は会つております。この人は八歳ぐらいの男の子と奥さんを連れて帰つております。こういう点から想像いたしまして、自決をさせなければ、全部帰つて来られたとは思わないけれども、そのうち幾らかは日本に帰れたのではないか、かように考えられるのであります。
 それからこれは他の方面から調査したのでございますが、実際に包囲されたというふうに団長初め他の指揮者は言つておりますが、てにおつたのはソ連の戰車が一台おつたのですが、それはその後に僅か二十分かそこらで日本の砲兵のために一発の下にその戰車を打壞わしてしまつた。こう言われております。でございますからして自決をしたその後に、その現場を沢山の人達が通つて、牡丹江、哈爾賓の收容所に收容されております。そういう点から考えて見ますと、どうも自決ということは余りに早やまつたのではないかと考えられるのであります。
○委員長(岡元義人君) もう一つ伺つて置きますが、一千名の梯団で出発したという証言でございましたが、そのうち四百二十一名が自決しておる、他の者はどうなつたか、その点についてお調査なされておりますか。
○証人(藪崎順太郎君) その他の者は一キロ半後の日の麓に溜つて、そしてその人達は指揮者の福地康夫によつて自決を遮られて山の中に逃げ込んで日本に帰つて来ております。そのうち何名来ておるかは、その点は私には調査が不可能であります。併し私の所に、本件が公表されてその後いろいろ手紙が来ておるのを見ますと、大分帰つて来ておるようであります。
○北條秀一君 委員長が冐頭に述べたことは、これによつて外地に残留しておる同胞の状況を調査する一つの重要な資料にしなければならんということでありました。又本委員会もそのつもりで本日の証人を喚問しておるというふうに了承しております。ところが藪崎証人の先程からの証言の内容を聞いておりますと、自決した四百二十一名ということは、概数で知つておられるけれども、それ以上のことについては藪崎証人は的確な資料を持つておられんように私は見受けられるのであります。従つて木下議員の議事進行についての発言についても、藪崎証人からはそれに答えるような資料を私共は引出すことはできないのじやないか、こういうふうに考えます。結局冐頭に私と淺岡委員が質問いたしました何故こういうことが起きたか、即ちその基礎が軍国主義思想にあつたんだというところにどうも証人の証言の重点があるように私は考えるのであります。そういうことになりますと、これははたの方だけの問題だけでなしに、当時本土上陸に怯えておつた国内にも澎湃としてあつた問題であり、その他日本の各地域にあつた問題でありますので、これは別の機会において研究をするか、而も我々は今日まで十分この問題について研究をして参りましたので、藪崎証人から本日これ以上に残留同胞、或いは死亡したところの同胞の数について証言を得ることができなければ、我々はこの証言をここで打切らざるを得ないのであります。こういうふうに考えるのであります。お諮り願います。
○委員長(岡元義人君) 只今の北條委員の御提案に対しまして他の委員御異議ございませんか。お諮りいたします。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員長(岡元義人君) 御異議ないと認めます。それでは一応藪崎証人の証言はこれにて打切ることにいたしますが、尚今日藪崎証人から申出のありましたことに基きまして、委員会は後刻検討いたしました結果、今後の委員会としての資料蒐集の上にどのような処置をするかということを決定することになります。尚、このような問題は外にも起きておりますので、一応この委員会において明らかにされて行きましたことは、今後我々引揚げ問題に携つておる者は当然これを記録として残して行くわけでありますから、この点十分証人においても御了承願いまして、今日は一応これにて証言を打切りたいというふうに考えます。誠に御苦労様でございました。
  ―――――――――――――
○委員長(岡元義人君) 尚、引続き、只今纖維局より……。
○北條秀一君 先程委員長の方からこの問題について連絡がありましたが、本日は実に愼重な、証人を喚問して問題の証言を得たわけですから、その際に今の問題を、今委員長から話しかけられました問題をこの委員会で正式にやるということは、私は本日の証人の喚問について、いわばまあ権威を失するといいますか、そういう気がするのです。ですから一応委員会をここで閉じて、そうして政府担当者が出ておられれば、懇談の形で担当者と我々がここに懇談するというふうに扱つて頂きたいと思います。
○淺岡信夫君 委員会を閉ずる前に一つ私提案をしたいと思うのでありますが、お諮り願いたいと思います。
 実は在外公館借入金の問題でございまするが、この問題につきましては、急遽いろいろな観点から処置をしなければならんような段階に来ております。然るに中国華中方面、上海或いは南京、漢口、杭州、そうした地区から引揚げて来ました引揚者が、この人達が当時十倍の金額を出してそうして三百万円の小切手を貰つて、そこに調整資金というものが約三十万円ある。この調整資金というものはどうしたかといえば、これはもう実際は難民救済資金として当時使われた。これに対しましては、曾ての外務省の邦人引揚部長をいたしておりました矢野元上海の総領事の言葉を借りてみてもはつきりしております。又その他、その当時上海地区におりましたところの人達の言を聞いてもそうしたことははつきりしておる。で、この点については、華中方面から引揚げた三十数万の引揚者の問題でありまして、中にはこの三十三万円、総額のものを作るということに対しましては、各員が借金をしたり敗戰直後血の出るような思いをして、そうしてまとめ上げた金なんであります。これに対して今度の在外分館借入金の中にこれは含まんのだというような解釈をされる方が非常に強いのでありますが、そのよつて根本をなすところのこの調調資金というものが、救済資金として扱われていいのかどうかということを明確にいたしまするために、当時中支那の公使をしておりました土田豊君、それからそうした経済方面を担当いたしておりました岡崎参事官、並びに外務省の、内地にあつて引揚邦人部長をいたしておりました矢野征記、この三君をこの問題につきまして証人として証言を得るような機会を與えて頂きたいと思うのであります。要するに非常に急ぐ問題でございまするから、この点を特に私委員会にお諮り頂きたいと思うのであります。
○天田勝正君 只今の淺岡委員の提案に別に不賛成で発言するのではありません。ただ今日の証人喚問に関連いたしまして、その方をまだ片附けないで、そちらへ話が行つてしまつても困ると思いまして申上げるのでありますが、このことは相当、帰還者の氏名等も書いてあり、その他詳しいことをいえば限りありませんが、調査のでき得るきつかけは、少くとも相当付いておると考えられますので、今まで委員長の手許でこれらに問合せのような形で調書を提出せしむるようお取計らいになつていないとすれば、そのような取計らいをいたして、それぞれ調書が仕まつて来た結果を見て、その総合に基いて又証人を喚問する、こういうような方法に一つお取計らい願いたいということをお願い申方げて置きまして、今の淺岡委員のおつしやることに賛成をいたします。
○委員長(岡元義人君) 只今天田委員から御発言がありましたが、氏名等も明らかになつておりますので、委員会から一応調査報告を要求するということをいたすことにいたしまして御異議ございませんか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員長(岡元義人君) ではそのように決定いたします。
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○委員長(岡元義人君) 尚只今淺岡委員からの御発言の件でございますが、午後一時からこの問題については、衆参両院の打合会においても議することになつておりますので、その際打合せすることにいたしまして如何でしようか。
   〔「異議なし」「異議あり」と呼ぶ者あり〕
○淺岡信夫君 それは衆参両院の特別委員会の打合せ会でありまして、そうしてこれは正規にこの問題をどうするこうするというのではないのであります。この問題といたしましては、引揚問題に関する特別委員会といたしまして、参議院で処理される問題であります。で、一応私、先程提案いたしましたことを御審議頂きまして、でき得れば、御採択頂きたいと思います。
○北條秀一君 私は先程申しました件は、本日は特に非常に日本民族の盛衰についてのような問題について藪崎証人を呼んだ委員会であります。遠い所から藪崎証人がわざわざ上京されて来て証言されたこの際に、あとでそれに便乘していろいろな問題をやるというのは、私は賛成しないのであります。であるからここで委員会を閉じて、今淺岡委員からお話があり、天田委員からお話がありました問題を次の機会にすべて廻すことができますから、ここで一応閉じて頂きたいということを先程私申上げたのです。そういうふうにやつて頂きたい。
○淺岡信夫君 それは今北條委員が閉じて呉れと言うから、私はこの特別委員会の開催が明日になるか明後日になるか分りませんけれども、それは一日や二日延ばしてもよろしい。けれども問題は藪崎証人を証人として喚問願つていろいろ調査をしておることで、例えば今私が提案申上げましたことはいずれも重要な問題であります。そこでこの委員会が十時から開かれてまだ十二時に間があるのでありますから打合せ会とか懇談会とか、そういうようなことでなくして、いわゆる正規の委員会としてお取上げを願つて頂きたいということを私申上げたのであります。
○天田勝正君 北條委員はどうも誤解されているのじやないかと思うのだな、これは藪崎証人を呼んだ場合は、他の今までの証人を呼ぶのとはその筋道が違つておつたのだ、というのは、文書で、こうして手紙のような形で出されておるけれども、私は信憑性がない、然らば請願者を呼んで聞くという、こういう機会を作りたいが、ただ請願者を呼ぶということだけでは、露骨に言つて旅費等の関係もあつてお気の毒である、こういう結果が、いわゆる証人という形になつてきたのであつて、本来ならば北條委員のおつしやるまでもなく、証人を呼ぶということは今までの調査の最後の止めを刺すという形で証人を呼ばなければならない、そうすれば、非常に証人喚問の、要するに権威を失墜しないということになるのでありますが、今回のだけは殆んど特例のような形で、申合せの結果、そうやつたのでありますから、この結果に基いて発展しても一向差支えない、こう存じます。
○委員長(岡元義人君) 淺岡委員にお諮りいたしますが、六日の証人喚問がございますので、その冒頭までの機会にこれをお諮りするということにいたすようにしたら如何でございましようか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○淺岡信夫君 そうしますと、私重ねて申方げますが、六日に曾つての高砂丸の引揚げられた方々の証人喚問がありますが、その前に今の土田豊、岡崎参事官並びに矢野征記、これを証人として喚問するということに御採択になつたわけですか。
○天田勝正君 蒸し返して申上げるわけではありませんけれども、証人喚問でなくても、それらの諸君はできるんじやありませんか。それは若し当委員会の御便宜がありますならば、土田豊君は私の部屋へ毎日来ております。そういう事情でもありますし、岡崎参事官とても直ぐ好意的に恐らく来れ得る今の地位でありますから、そういうことで一つお聞きするという手続をとれば、淺岡委員の早くということにもむしろ適用するのじやなかろうか。こう考えるから私は申上げるのであります。
○委員長(岡元義人君) 一応本日の委員会はこれにて閉じます。閉じまして如何様にするか、一応後程御懇談申上げることにいたしては如何でしようか。
   〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員長(岡元義人君) 御異議ないと 認めます。それではこれにて委員会を閉じます。
   午前十一時四十四分散会
 出席者は左の通り。
   委員長     岡元 義人君
   理事
           天田 勝正君
           水久保甚作君
           千田  正君
   委員
           木下 源吾君
           原  虎一君
           淺岡 信夫君
          池田宇右衞門君
           草葉 隆圓君
           木内キヤウ君
           北條 秀一君
           穗積眞六郎君
  説明員
   外務事務官
   (渡航課長)  武野 義治君
   証     人
           藪崎順太郎君