第024回国会 法務委員会公聴会 第2号
昭和三十一年五月十日(木曜日)
   午前十時四十七分開会
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 出席者は左の通り。
   委員長     高田なほ子君
   理事      宮城タマヨ君
   委員
           小柳 牧衞君
           中山 壽彦君
           赤松 常子君
           亀田 得治君
           小林 亦治君
           中山 福藏君
           羽仁 五郎君
           市川 房枝君
  事務局側
   常任委員会専門
   員       西村 高兄君
  公述人
   評  論  家 中島 健蔵君
   最高裁判所判事 垂水 克己君
   最高検察庁検事 安平 政吉君
   広島大学名誉教
   授       長田  新君
   弁  護  士 小野清一郎君
   東京大学教授  花山 信勝君
   日本キリスト教
   協議会議長   小崎 道雄君
   弁  護  士 磯部 常治君
           吉田  晶君
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  本日の会議に付した案件
○刑法等の一部を改正する法律案(高
 田なほ子君外六名発議)
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○委員長(高田なほ子君) これより法務委員会公聴会を開会いたします。
 刑法等の一部を改正する法律案を議題に供します。
 公聴会の問題は死刑廃止の是非についてでございます。
 公述人の方々に一言ごあいさつを申し述べます。本日は公述人の皆様には非常に御多忙のところを御出席下さいまして、まことにありがたく心からお礼を申し上げます。ただいま法務委員会におきましては、刑法等の一部を改正する法律案を審議中でございますが、本日の公聴会は、この法律案について死刑を存置するか、廃止するか、その是非について承わることを趣旨といたしております。皆様にはもはや法案の内容は御承知のことと存じますが、その内容は刑法その他の刑罰法から死刑の文字を削りまして、それに伴い、法文に技術的な整理を加えたものでございますので、形式的には割合に簡明な内容の改正案となっております。けれども問題はさような形式的、技術的な検討によって解決される性質のものではございません。死刑存廃の問題は、真剣な法律問題として、また一般的な人間性の問題として、洋の東西を問わず、古くから論じられてきているものでありまして、刑罰制度の根本に触れるきわめて重要な問題でございます。すでに死刑存廃の問題につきましては二百年の昔、ルソーやベッカリーア以来今日に至るまで多くの人々によって論議せられ、またこれを実行に移した死刑廃止国もできておるわけでございます。あたかも先般イギリスの下院においては、殺人罪に対する死刑を廃止する決議がなされ、世界の世論またこの問題をめぐって非常な関心を高めつつあるわけでございます。けれどもなお今日論議の跡を断たないのはいかなるゆえんによるものでございましょうか。それは死刑論の基盤となっているいろいろの要素、つまり私ども人間の持つ正義感、良心、思想とか社会生活におけるいろいろな条件といったものが、その時代のその国民感情との関連において価値判断されるべき性質によるものと存ぜられるのであります。ここに死刑存廃の問題が、学者の言葉をかりて言えば、今日において決定されるべきものとされるゆえんのものでございます。私はこの法案の発議者の一人として、今日死刑の廃止すべき時期であると確信しているものでございます。けれども、もちろんこれには大いに異論のあるところでございますし、とにかく今日的問題といたしましても、なおかつただいま申し述べましたもろもろの要素について、さらにあらゆる角度から深く検討を加える必要のあることは申すまでもございません。従いまして、わが国民の皆様がこの法案の持つ重要な意義に注目せられ、正しい方向づけを与えられることを衷心より願ってやまないものでございますが、わが法務委員会におきましても、本問題をきわめて重要視し、二日間にわたって公聴会を開くわけでございますが、本日はその一環として公聴会を持つことができましたことはまことに喜びにたえないところでございます。
 以上申し述べましたようなことで、公述人の皆様にはこの機会に平素の豊かな学識経験に基いて十二分に御意見を述べられ、法案審議のよりよい参考資料を提供していただきますことを衷心よりお願い申し上げ、かつ御期待を申し上げる次第でございます。
 はなはだ恐縮でございますが、時間は一人約三十分以内というところにめどを置いて、どうかよろしくお願いを申し上げます。
 まことに簡単でございますが、一言お礼を申し述べます。
 委員の方に申し上げますが、公述人に対する御質疑は、午前午後にそれぞれまとめまして、公述が終りましてからお願いをしたいと存じます。御了承をお願いいたします。
 それではまず第一に中島健蔵さんに公述をお願いいたします。
○公述人(中島健蔵君) 刑法等の一部を改正する法律案、すなわち日本の法律から死刑を取り除くというこの今回の法案につきまして、私は全面的に賛成いたします。
 この死刑廃止がきわめて必要であり、かつまた急いでこれを実行しなければならぬという理由につきまして、私の経験とそれからまあいろいろ考えましたことについて簡単に申し上げます。
 この死刑廃止ということを私が考え出しましたのは、実はこれは戦争の体験であります。私は太平洋戦争に徴用されまして、マレー派遣軍の司令部に所属いたしておりました。私がちょうどシンガポールに参りましたときは、すでに戦闘は終っていたのであります。そうして大よそ町は静かになっていたんでありますが、その前、あるいはそれ以後にも、戦争中に、私は死刑というものがどのように行われるかということを体験したわけであります。もちろんこれは戦争中でありますから、一般の日常的な、平常的な場合の死刑とは違うかもしれませんが、これはおそるべきものです。戦争は、もちろんこれは公然と許された殺人でありまして、これに対しても私は賛成いたしかねるのでありますが、それ以上に、全然無抵抗な人間を非常に多量に殺戮する――多量でなくても、全然抵抗のできない形にしておいて人間を殺すということが、どのようにひどいものであるか。あるいは今日の死刑廃止ということを真剣に考えておられる方々、この中の何割かは、そういう残虐さというものを実際にごらんになったか、あるいはお聞きになったのじゃないかというくらいに考えるのであります。
 結局何と申しますか、何よりもわれわれの文化なり、特に私は法秩序についてもそう思うのでありますが、根本的に考えなければならぬことは、生命の尊重なんです。ことに殺人の罪というものについては、私はそういう犯罪に対してはこれを憎むことにおいて人後に落ちるものではございません。しかし死刑を存置して国家が国家権力によって合法的に人を殺すということになりますと、これはどうなるか、これは感傷的な議論ではなくて、きわめて実際的な議論であります、生命の尊重ということが根本から脅かされるのであります。その証拠は幾つもあるのでありますが、私は何度も殺人犯人の心境であるとか、あるいはその行為というものを調べたことがあるのであります。非常に多く見当るのは、実際に殺人をやったあとで自殺をはかっているという事実、犯人が、殺しておいて、あとで自殺をはかるということが非常に多い。これは根本的にもうすでに殺人という犯罪の中に人命の尊重という考えがないわけです。
 特に戦後の日本におきまして、そういう犯罪が多いからその予防のために死刑を存潰すべきであるというような議論に対しては、私は全くこれを承認するこれができません。
 その理由は、非常に不幸な事実でありますが、戦争のときにこれはやむを得ず、自分が殺されるか殺すかという立場におかれた関係上、大ぜいの人間が大ぜいの人間を殺し合っている、従って生命の尊重というような考え方は平生からも重要な問題でありますが、現在の日本においてこれは特に強調しなければならないわけだと思うのであります。結局これは自分が死ねばいい、いざとなれば自分が死ねばいいというような考えがどうも頭の中にこびりついている、人を殺しそうしてあと自分も死ねばいいだろうというようなことを、しばしば私は実際に調べて推察しているのであります。で、そういうような理由でもって、どうしても生命の尊重ということを基礎にしなければこれは立て直しはできない。
 またこの存置論がいろいろございますが、その存置論について私はほとんど全面的にどの意見に対しても賛成できかねる。まず第一は応報の考え方でございましょうが、かたき討ちというのがその次に出て参りましょう。さらにその次は犯罪の予防ということが出てくるだろうと思いますが、まず第一に応報という考えは非常に古いのであります。応報の思想というのは、悪いことに対してだけ考えられているのではないのでありまして、一般に宗教的な思想でありますが、いいことに対していい報いがあるということも当然含まれております。ところがこの応報というのは、もともとは人間が意識的にある行為をして報いをするというのではなくて、天であるとか神であるとか、そういうような超自然的なものが、何か人間の力の及ばないところで報いを与えるというのが応報の思想であります。裁判などにつきましても、もとはそういうふうに考えていたかもしれませんが、結局そういう応報の手助けをするのが裁判官であって、最後の決定をするものは実は神というようなものであるという考えが、今日も存在していると思うのであります。まあそういうような応報の思想というものを維持できるならばよろしゅうございますが、われわれは現在そういうような、神によっておのずから罰が下される。それを裁判官が助けるというような考えは、これは納得しかねるのであります。それからまたかたき討ちの思想でありますが、これは申すまでもないのでありまして、かたき討ちというものを直接に許すならば、これは現在の法秩序はくずれる、つまり法がかたき討ちの代行をするという思想もあるのでありますが、そこで、結局人を殺した者は殺せというようなことになりますと、これはやはりそう簡単には参らないのであります。こういうことについて、この議論につきましては私は申すまでもないのでありますが、ここで死刑廃止論を通じまして私が一番深刻に悩み、かつまた実際問題として考えておりますのは、そういう被害を受けた人、あるいはその関係者のつまりくやしいという気持、残念だという気持なのであります。これに対しては、当然国家が死をもってこの犯人を罰して報いるべきであるという考えが一般的に広まっております。おそらくそういう気持は私も否定するものではないし、最近でも新聞記事なんかで、そういう事件が起った場合に死刑の廃止なんというのは思いもよらないといって被害者の遺族が嘆いたという事実も知っております。しかしここに問題があります。それはまことに言いにくいことでありますが、そういう犯人を殺してどうなるものかということがある。おそらくかたき討ちの気持というものは全うされるかもしれないけれども、それでどうにもなろものでもない。しかも死刑を存置することによって、どうせ死ねばいいのだろうといって、ますます凶悪犯罪が減るどころか、私はふえるとは申しませんが、死刑の存置というものがむしろ心即的には殺人というものを是認するというところにくるのではないかということをつくづく感じるわけであります。
 それからもう一つ犯罪の予防ということに今ちょっと触れましたが、この問題についてもこれはあまり根拠がないというふうに感じるのであります。これはただ自分の感情で申しているのではなくて、実際にその殺人その他の犯罪を犯す場合には、ほとんど発作的なのであります。死刑があるからそんなことはよそうというような心理はないのであります。もっとわれわれがやらなければならぬことは、この死刑によって、つまりそういう犯罪を予防するというような考えではなくて、つまり殺人事件というようなものが起らないように何とかするという防禦の仕事が必要だと思うのであります。そんなことはできないというふうにまた言う論者もあると思いますが、そんなことはできないということはやってみなければわからないことでありまして、どうしてもこれはやらなければならぬことだと思うのであります。一方で何か凶悪な事件があったら、その犯人を殺してしまえばいいというような目の子勘定では、この社会をよくすることはとうていできないと思うのであります。
 それからまたさらに死刑を、死刑という刑罰を一応存置しておいてそれを執行しなければいい、あるいはその執行において非常に慎重にすればいいだろうというようなことが言われるのでありますが、これまたはなはだ実際上はむずかしいことだと思うのであります。法があってそれを適用しないということを前提とするというのは、これは無理なんであります。法があればどうしても適用される。特に戦後には死刑の宣告がかなり多いのであります。そして結局存置しても執行しなければいいだろうというようなことは一種の空論でありまして、やはりこれは根本的に死刑そのものを除いてしまうことが必要だろうと思います。のみならず、もう一ついつもこの死刑問題につきまして議論になりますのは、それならばどうする気だと、凶悪な犯罪を犯した人間をどう処罰するかということでありますが、これについては私は明瞭に終身刑、自由刑を課すべきである。これはよく死刑が残虐であるかどうかというときに、そんなことを言っても終身刑の方がもっと残虐ではないかということがありまして、もとに戻りまして、あくまでも生命の尊重を基調とするということが大事であります。
 私はもともと死刑廃止論者でありますが、死刑廃止すべからずと言う方々の議論もいろいろ承わっております。その中にいろいろなことがございますが、法があるではないか、現に死刑というものがあるから、それを執行するのは当然だというような、いわば法解釈学から一歩も出ないような議論もありますが、この考えは法解釈学からはどうにも結論が出ない。生命の尊重を基調とするという新しい考え方、しかもこれは正しいと思うのでありますが、そういう考え方を徹底させるところに問題があるのでありまして、そのように現に死刑があるから当然だというような考え方は、全くとるに足らないものだと思うのであります。
 それからさらに理論は、いろいろ法学関係の方もおいででございますし、私が申すまでもないと思うのでありますが、殺人犯人が一番こたえるのはやはりあとでそれを思い出し、たとえば現場に行っていろいろ検証を受けるときに違いないのです。死刑につきましてもこれは死刑囚の心理とか、あるいは死刑執行というものはどういうものであるか。これについてはやはり体験者がいろいろ言ったことを私は聞くべきであると思うのであります。要するに全然無抵抗状態に拘禁しておいて、そうしてこれを殺す、国家が公然と合法的に殺人を行うことを許すということは、これは生命の尊重とどう考えても相いれない、このような議論は非常に感傷的のように聞えるかも知れませんが、私としては感傷的ではないと思う。というのは、先ほど申しました通り、不幸な太平洋戦争の間における実験その他によって、いかにこの殺人というものを憎まなければならぬか。殺人を憎むにはもちろん殺人という犯罪を憎まなければならぬけれども、同時に国が国の権力によって人を殺し得るということ、これもまた除かなければならぬ。これに対してはそれにかわるに長期の、長期というより私は終身を主張するのでありますが、終身の自由刑を課するようなことで目的は十分に遂げられるというように考えるのです。これはかなり長らくの私のいわば信念でありまして、理論的には皆さんのおっしゃるのにいささかも違いはないと思いますが、これはこの死刑廃止の法律案が国会に出されたことに対して、非常に嬉しく思うと同時に、このことは生命の尊重というものを根本的に考えるというところにたち戻らなければ、実に上すべりのした賛成論、反対論になるだろう。たとえば誤判の問題がありますが、これも私は死刑廃止に賛成する一つの理由であります。誤判というものはめったにないのでありますが、実は戦後に御承知の通りしばしば重大な誤判事件が起っているのであります。一たん殺してしまえばどうにもならぬというような事情もございます。そういう誤判に対して、死刑というものは取り返しがつかないということも一つの理由であろうと思います。しかし誤判でなければ、正しい裁判ならばいいかというと、私はそこで正しい裁判でも死刑は廃止すべきであるというふうに主張したい。この一番早わかりがするのは、要するに誤判に対する予防でありますが、それはむしろ生命の尊重ということの次に当然出てくる問題だと、これはやはり現実問題としてわれわれは考えなければならぬことだろうとまあ思うわけであります。
 その他この死刑廃止に賛成するという理由は幾らでも出てくるのでありますが、根本問題としては、つまりそれを何か感傷的な現実にあり得ないもののように考えることが間違いなんです。現に死刑というこの法律があるから、死刑があっても不思議はないと思っている方が多いのじゃないかと思う。死刑を廃止し得る、死刑を廃止した国もたくさんあるということを頭に入れて、今回の刑法等の一部改正案というものをよく見て参りますと、この中に出てくるこの死刑という文字が非常に特殊なおそろしい、いまわしい字としてだんだん出てくるはずなんであります。これは感情にも訴えなければならないけれども、それ以上に倫理の問題である。この問題を倫理問題として考えなかったならば、おそらくいつまでたっても賛否両論は尽きないと思いますが、私は特にその倫理問題、あるいは社会秩序の根本問題として、徹底的に生命の尊重を基礎にすべきであるというところから、現在でも、また将来も死刑廃止にあくまで努力したいと思っている次第であります。(拍手)
○委員長(高田なほ子君) ありがとうございました。
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○委員長(高田なほ子君) 次に最高裁判所判事垂水克己さんにお願いいたします。
○参考人(垂水克己君) 垂水でございます。
 私はむしろ法律万能、刑罰万能ということを信じません。またその刑罰は厳格であればあるほど将来の犯罪予防に役立つとも思いません。人間が動物と同じようにいじめられ通しで育てられるならば、ひねくれた反社会的な人になる。人道的な取扱いを受ければよい性質の人になるというのは、これは古今東西を通じた真理だと思うのです。それで、私は死刑を廃止してこれにかえるに無期自由刑をもってしても、急に極悪犯罪がふえるとほ思いません。現に死刑廃止国がそういう体験をしたということは証明されないと思います。もっとも、この死刑制度を廃止してから犯罪がふえた減ったということの証明というものばなかなかつかないので、死刑の可否について統計を取ってくるということは、なかなかむずかしい問題じゃないかと思うのです。というのは、犯罪がふえたということと犯罪の検挙がふえたということが混同される場合が非常に多いのです。今年度は犯罪がなかったという統計が出ておっても、その年度に行方不明になった人が数年たってから、実は殺されておったんだというふうなことがわかる場合は相当考えられると思うのです。とにかく犯罪の増減ということは死刑による威赫ということでなく、別の原因から起ってくる、すなわち本人の精神状態なり性格なりあるいは健康状態あるいは遺伝、生い立ち境遇あるいはその犯罪の当時の社会環境、仲間の考え、そういったようないろいろなものがあって犯罪が起るので、それでそういう犯罪の個人的及び社会的の原因を除去するという方策をとらない限りは、犯罪の発生あるいは増加というものは食いとめられないと思います。とにかく極悪犯罪を犯すような人は、そういう犯罪人は一日にしてでき上るものじゃないと思うのです。でありますから私は死刑廃止ということには根本的には賛成であります。ただ今日本年すぐさま死刑を廃止することにしてよいかということについては無条件に賛成はできない。
 それは第一には、一般的に社会がもっと人命輔車の精神に目ざめてこなければいけない。もう少し人命尊重ということをお互いに考えるようにならなければいけない。そうして人命尊重のための社会政策がいろいろととられなければならない。私は洞爺丸、あるいは紫雲丸の事件あるいは神社参拝とかあるいは橋の上の大混雑のときにたくさんのあやまちのないような人が死ぬのを見まして、こういうことこそまっ先に極力予防する政策がとられなければならないと考えるのです。洪水だとか、火災とかあるいは船の沈没あるいは山くずれあるいは交通事故ことに殺人、傷害致死、過失致死というような犯罪によって人が死ぬということを、少しでも減らすような社会政策を今以上にとってもらわなければいけない。また学校教育なり社会教育の面でそういうことをなくすように、人命を尊重するということの政策が樹立されなければいけないと思うのです。たとえば遭難の予防とかあるいは迅速に人命を救助するという設備ももっと完備されるということが必要だ、このことの方が理念的には死刑廃止よりも急務であるはずだと思います。もっともそういうことは非常に長い歳月とたゆまざる努力をもって膨大なる予算をもって行わなければならないことであって、十年、二十年でできるかどうかということはわかりませんけれども、今日もう少し人間尊重の精神からの政策がとられないことには、直ちに死刑を廃止して、それで一方においては理由のない人の死んでいくことが一そう多く繰り返される、これは死刑を廃止するがためにふえるということでなくても、人命を軽んずる精神が一般に流布しておるために、そういうことも防ぎ得ないということになる、そういうことでは困ると思うのです。で、私は犯罪人の生命、人を殺した人の生命、それを尊重することは大切なことだと思います。しかしまた何のあやまちもない女、子供、年寄りその他の人々が死ぬようなことをもっと防止する立法その他の政策がとられてほしいと思うのです。
 第二に、今直ちに死刑廃止をすることについてどうかと思いますことは、死刑のかわりに無期自由刑を課することであります。で今までの実情では無期自由刑に課せられた人はだびたびの恩赦によって案外早く社会に出ることが割合に多いのであります。私が検察官から死刑の求刑があったのに対して、合議の結果無期懲役に処した人があります。この人はその後恩赦等によりまして社会に出てきて、私の住居にたずねてきてくれたりして、社会に有用な人とたっておりますが、これはまあしかるべき理由があるから恩赦になったわけでありましょうが、死刑を宣告するか、無期自由刑にするかということを考える場合には、無期自由刑が実際上あまりに早く受刑者を釈放するという結果になると、裁判官としては相当犯罪の予防のために考えなければならぬことが多いのじゃないかとも思うのです。そこで、本人の反社会性が減退して、社会に出しても安全だという場合はよろしいのでありますが、刑務所から出してはならない状態の人を出すことのないように確保されなければならないと思うのです。と同時に、無期自由刑に処せられた人が全然出獄の希望も持たない、刑務所の中でも人間らしい生活ができないということでは、これは非常に絶望的なただ人類学上の人間として、生物として、生きているというだけであって、いわば悪い言葉でいえば、飼い殺しのようなことにして、その人を刑務所で一生を送らせ死なせてしまうということになるので、これまた人間尊重の精神からいうと、よほど遠いものになろうと思うのです。そうなってくると、若い人をたとえ犯罪を犯したとしても、そういう目にあわせないように、やはり人間に値いする生活を刑務所の中でも生活させるような方法を確保して、しかしながら社会からは隔離して、犯罪を再び犯すことのないようにする、そういう道がやはり確保されてなければならないと思います。
 次にある論者は、死刑というものは存置しておいて、実際具体的に適当な場合には、必要な場合には、裁判官が死刑を宣告するということにしたらよいのではないか、そうして死刑を宣告する実際の場合を極力しぼればいいんじゃないか、そういうふうに考えるようでもありますが、その場合でもやはり個々の裁判官、個々の合議体で宣告した裁判が客観的に妥当かどうかという問題は、すこぶるむずかしい問題でありまして、それでさえ、やはり問題になる場合はいろいろあると思うので、この考えばちょっと支持することができないんじゃないかと思います。私は旧刑訴の時代に、裁判官が死刑にするかどうかということを考える場合に、三人の裁判官のうち一人でも死刑反対の意見があったならば、私自身は死刑にはしない。自分の死刑の意見を変えても、死刑にはしないでおこうという自分だけの心の中の標準を持っておったのでありますが、今日の実情を見ると、死刑の宣告もまだ相当にあるようであり、これはまた戦争後の日本の特別の道義の水準が下ったこと、その他犯罪の原因が増加したということにも原因するのじゃないかと思います。
 それから最後に、私はこの死刑廃止の問題については、戦争犯罪人とかあるいは政治犯人については同様に論ずべきかどうかという問題があるだろうと思います。また殺人革命を肯定しつつ死刑廃止を主張するということも人命尊重論として是認さるべきかどうかという問題もあると思いますが、この問題は私は今日は論じません。
 ただこんなことも考えられるのではないかと思います。たとえば今後は原水爆乱用罪といったような犯罪が規定されて、それについては死刑が定められるかもしれないということ、また現行刑法の八十一条、いわゆる外患誘致罪では「外国二通謀シテ日本ニ対シ武力ヲ行使スルニ至ラシメタル者ハ死刑ニ処ス」と書いてあります。必ず死刑に処すということになっておりますから、酌量減軽をしない限りは死刑を課さなければならないのであります。ところが外国に通謀して日本に爆撃を加えしめて日本国の一部を焦土と化せしめ、無事の良民数万人、数百万人を死に至らしめたという場合に、死刑に処しなくてもいいんだということは、国民多数の感情が是認するかどうか、つまりそういう感情を離れて立法が先走りをすることができるかどうかということも問題になると思います。けれども全体としまして、根本においては死刑廃止には賛成である、時期の問題としては今日はなお考慮せらるべきじゃないかと考えるわけであります。
○委員長(高田なほ子君) ありがとうございました。
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○委員長(高田なほ子君) 次に最高検察庁検事安平政吉さん。
○公述人(安平政吉君) 死刑は刑法とその起源を同じくするところと言われておりますが、近代の文化の発達は時代時代にこの生命、身体に対する残虐刑の適用範囲を縮小して参りました。今日わが刑法の規定等におきまして死刑というものが認められておりますのは、きわめて少数の場合に限られておるので、そうしてこの少数の場合にありましても実際において死刑という判決が裁判所によって下されますのは、これまた特殊、悪質の場合に限られておるのであります。たとえば人殺しをした者は死刑ということになっておりますけれども、その人殺しのうちでも特別の憎むべき犯罪、そういう場合に限って死刑を宣告しておるというのが実情であるのであります。問題はかくのごとく死刑を課すべき場合が非常に縮小されておって、なおかつその適用面が著しくせばめられておるにもかかわらず、なおこの限度の死刑さえも今日許すことはできぬ、認めることはできぬかどうかという点に、実際問題として死刑存廃論の意義と問題の争点があるのじゃなかろうかと思うのであります。申し上げるまでもなく、死刑廃止可否の問題は、要するに時代思潮なり時代文化の発達程度いかんによって決定せらるべき相対的の問題であります。時代文化が高度に発達をいたしまして、宗教それから道徳、法則等によって社会の秩序なり法律規範一般の確保が可能とされる時代が到来いたしますれば、死刑のごときは存置の要を見ないでありましょうが、かような時代の出現を見ない限り、この制度は容易に全面的に廃止せらるべきではなかろうと私は考えておるのであります。死刑制度がかくのごとく先ほどから申しました通り歴史的発達の沿革をたどれば、おそかれ早かれ、ある理想の文化状態に到達すれば、廃止されなければならないといたしましても、この点は何人も疑いをはさまないのでありますが、ともかくも今日の時代の様相、なかんずく最近わが国におけるところの犯罪の状況でありますが、そのうちにはどうしても死刑という一つの制度を最小限度に認めていなければ、まず第一に国家の基本的秩序はどうしても保たれないという場面があるのであります。それからして、いかに人命の尊重それから文化々々と申しましても、極悪非道の天人ともに許さざるある種の犯罪に対しまして、死刑というやむを得ぬところの一つの制裁を加えるということは、正義観念から申しまして当然である。おそらく社会におきまして良識を備えておる人は、この制裁を是認するのじゃなかろうかと私は思うのです。その意味におきまして、今日人命の尊重ということは、これは何ぴとも考えなければならぬ問題でありますが、それは被告人――受刑者の人命の導車も大事ならば、社会におけるところの平和に暮らしておる人の人命の尊重ということも考えてもいいのじゃないか、被害者の立場ということも考えてもいいのじゃないか。そういう点におきましては、これは治安保持ということの最後の一線の正義、人道という観念からいたしまして、特殊極悪しかも改悛の見込みが容易に立たない犯罪人に対しましては、今日死刑を認めるということは当然のことであると思っておるのであります。議論を進めていきます前に、どうもこの世の中で死刑存廃の議論をなさっておる方々の御意見、話を伺ってみますと、これははなはだ私の曲解かも存じませんで恐縮でありますが、どうもわれわれのごとく実際に殺人の場面を見ております者にとりましてはぴんとこないのであります。議論がどうやら書物の上、思想の上にとどまっておりまして、赤い血がにじんでいる、鮮血りんりとしております殺人の凶行現場、凶悪犯罪の現場、被害者のみじめな状況、その点に少しでも思いをいたしておられるかどうか、はなはだ疑いなきを得ないのであります。
 議論を進めていく前に、論より証拠、実際今日裁判所におきましてどういう被告人の行為に対しまして死刑を言い渡しているか一つ紹介いたしたいと思うのであります。事件は宇都宮地方裁判所の判決が確定いたしておりますから、これは名前も具体的な内容もこの席で申してもいいと思うのでありますが、被告は栗田源蔵と言うのであります。大正十五年十一月三日の生まれでありまして、罪名は強盗強姦殺人、判決が確定いたしましたのは、昭和二十八年の十二月二十一日死刑が確定いたしております。ただしまだ執行いたしておりません。本人から再審という申し立てをいたしておるからであります。大体犯行は第一、第二、第三と、三つに分れておりますが、そのうちで一番日時の進行の過程で近い方の、昭和二十六年の十月十日の午後十一時に起りましたことからちょっと紹介しますが、判決文そのままでありますから事実隠蔽その他少しもないのであります。判決の認定しておりますところによれば、被告人は自転車に乗って千葉県の興津町地内国有鉄道興津駅待合室付近にさしかかった際に、同県の勝浦町から天津町方面へ向って三人の子供を連れて徒歩でおもむく途中同所で休憩しておりました小林ふよの、これは婦人の方です。生まれは大正十一年四月二十一日生まれのこの婦人の方を見て、被告人は劣情を催し、行く先を尋ねた上、自分も同じ方向へ行くところだから、子供を自転車に乗せて送ってやろう、こう申し出た。同女の長男幸男、これは六才でありますが、これを自転車に乗っけまして、ともに連れ立って国道を同県安房郡小湊町方面に向って歩行し、途中執拗にその婦人に対し情交をしいたが、同女は、家に帰れば主人も旅に出ているんだし、家に帰ってからにしてくれと答えるのみで、被告人の要求に応じようとしないので、遂に被告人は同女の言うことはその場のがれの方便であって、同女には被告人の要求に応ずる意思が全くないものと判断し、この上は邪魔になる子供たちを殺害した上、しいて同女を姦淫し、さらに同女をも殺害しようと決意するに至り、翌十一日午前一時ころ、真夜中でありますが、右小湊町内浦撫島三千二百三十三番地先の通称おせんころがし、――この事件もおせんころがしの事件と申しておりますが――通称おせんころがしと呼ばれる海に面した断崖上の国道にさしかかった際、突然右幸男を乗せていた自転車を道路上に押し倒し、鞍倒した同人の頸部を右手で強扼し、げんこつやそれから石で頭部を殴打した上、道路南方の海岸に面した崖下目がけて投げ落してしまった。さらに驚いて母親にしがみついた長女の幸子、これは昭和十八年生まれでありますから十幾つの子供さんでありますが、その子供の手をつかんで母親から引き離そうとしたところ、同女は路上にしやがみ込んだので、その腕と足を持って道ばたまで引きずるようにして運び、同じく雄下目がけて投げ落してしまい、次いで路上にうずくまっている右ふよのに対し、どうした、頭にきてしまったからもうやらせなくてもよい。お前たちを皆殺しにしてやると告げ、右の光景をまのあたり見た上、このように脅迫されたため全く反抗する気力を失って、あなたのよいようにするから、生命だけは助けてくれと懇願する同女を、右断崖上の草むらの中に連れ込み、それからむしろの上に寝かせてしいて姦淫中、同女の所持品中から細長い布きれを取り出し、同女の頸部に巻きつけてこれを締めつけた上、炭下目がけて同女を押し落し、最後に右の草むらの中に寝かせておいた同女の二番目の女の幸江、これの頸部を右手で締めつけながら、その頭の部分を左手げんこつで殴打した後、同じく右崖下に転落させ、さらに右四名の死亡を確実にするため自転車用電灯を持って右崖下に下り、崖の中腹に転落していた右ふよの、幸男及び幸江の各頭部を石ころで殴打し、よって右三名をそのころいずれも窒息死亡せしめて殺害したが、たまたま足にかすり傷を負ったのみで崖の中腹の草むらに隠れてい右幸子を探し当てることができず、ために同女に対する殺害の目的を達することができなかった。
 三人、四人、かくのごときむざんなる殺害方法をとっておるのであります。これは第一だけであります。この被告人はそのほか第二として原判決が掲げておりますところによりますと、同年すなわち昭和二十六年八月八日夜であります。窃盗の目的で、ある被害者の宅に入ったのでありますが、たまたまかやの中で一人で寝ているその被害者宅の妻文子、当時二十四才でありますが、その姿を見て劣情を催し、これまた判決のるると説明しておるところで、省略をいたしますが、強姦を遂げた上、首をしめて殺害いたしておるのであります。これが第二の事実であります。
 それからさらにさかのぼりまして、この被告人は昭和二十二年にもこれまた千葉県におきまして婦人を二名強姦中に殺害いたしておるのであります。かくのごとく、この種の犯罪になりますると、ひんぴんとしてかくのごとき犯行を繰り返すのであります。その繰り返すに至りました動機につきましては、原判決がこういうことを申しております。つまり、婦人と情交を結ぶには相手の首を絞めた際に最も強い快感を覚えるということで、これをどこかで習って、その悪らつなるところの犯罪手段というものを反復いたして、かくのごとく数名の婦人というものをむざんに姦淫した上首を絞めて、それからしてその死骸の跡始末までも、実に残虐をきわめる方法をとっているのであります。これは一つの例でありますが、かくのごとき事件は、裁判の上におきましては相当に出ておるのでありまして、われわれ記録を見ましただけても実に憤慨にたえない。これが果して人間であろうかと思うような人間もいるのであります。
 私のこれから申し上げる死刑に関する議論は、こういうような特殊の極悪人の犯罪が世の中にあるんだということを一つ前提といたしまして、議論を進めていきたいと思うのであります。
 そこで死刑廃止論でありますが、その廃止論として一番大きい、それからして何人もなるほどだと思わしめる論点は、主張の点は、死刑は残酷であると、こういう主張であります。死刑は何といっても自然の命、寿命というものを待たずして、人為をもって人の生命を断つことは、これは人道上とうてい許しがたい。いわんや、いかに犯罪を理由とするとはいえ、国家自身がかような者を刑罰の名において制度として存置せしめることは、今日の人類文化上とうてい許しがたい、こういう主張であります。しかしながらこの死刑を廃すべきかどうかの問題は、単に受刑者というほんの一方のみを見て直ちに論断せらるべきものでありましょうかどうか。現下におきまする法律国家としての刑罰体系中、死刑というものは、法文の上に、あるいは裁判の上に、あるいは執行の上において、相当に複雑な働きの場面を持っておるのでありますからして、いわゆる死刑制度というものの存廃論ということを議論する段階になりますれば、刑罰制度を置くその理由並びに裁判の宣告によって特に被告人、犯罪人あるいは社会一般人に与える影響の点それから執行の点、こういうふうに少くとも刑罰制度、死刑制度の社会に実際に働いております各段階を通じて議論せんければならぬ筋合いではないか、こう思うのでありますが、従いまして、感傷的に死刑というものを、いい意味で人道的にのみ考えようとする立場と、それからして事を主として、国家、社会秩序の維持ないし法律政策的に奪えようとする立場とは、その間おのずから趣きを異にせざるを得ないのであります。事態をもっぱら感傷的に、受刑者本位の人道主義より観測いたしますならば、死刑のごときは残酷としてすみやかに廃止さるべきを当然の要請といたしましょう。しかしながら先ほど申します通り、単に感傷的にのみ刑罰をながむるにおきましては、ひとり死刑のみならず、およそ今日の戒悪刑というものは総じて酷ならざるはないのであります。それで、事はいきおい法律政策的に考えられなければならないのでありまして、この見地よりするとき、死刑廃止の可否は言うまでもなく一面におきましては社会公共の福祉に応じ、これの手段方法として、一体この現実の社会文化が果していかなる程度の方向に立っているか、この点を洞察することによりまして、初めて妥当な判断を下し得べきものではないか、かように存じておるのであります。
 なお、この点につきまして一言。死刑というものは、受刑者の方面でごらんになっておりますけれども、これは案外に考えてみれば複雑性を持っておる。その点について一言いたしておきまするが、死刑制度の多面的性格について一言いたしておきまするが、今日の国家刑としての刑罰制度一般は、相当に複雑な機能と性格とを備えているやに思うのであります。従いましてその最も重いものとされる死刑制度のごときも、単に現実的な執行という場面のほかに、あるいは法文上の刑罰予告として法律秩序の維持に重要な役割を演じておる。それからまた刑事裁判における極悪な犯行に対する責任ないし価値判断として、社会道徳律の保持上重要な機能を持つものと考えられるのであります。ゆえに死刑存置論のごとき問題としても、先ほど繰り返して申し上げましたごとく、単に受刑者の立場のみよりして論断せらるべき限りでなく、すべからく時代文化ないし一国のもとにおける刑政全般との関係、特に安寧秩序及び公共の福祉の保持並びに社会道徳、なかんずく性道徳、そういうような点を考えまして、世道人心に与えるところの影響の点、それからもう一つ特にこの席において強調したいのでありますが、被害者というものに与える印象の点、これまたおよそ一切がっさい諸般の事情をよく適正に判断した上で論断を下さなければならないじゃないか、かように考えておるのであります。
 そこで治安の維持という見地からして、果して今日死刑のごときものを必要とするかどうかということに参りますので、その次に最近におけるわが国の犯罪上特に凶悪犯の横行という点について一言いたしておきますが、この点について、今日われわれが大いに考えてみなければなりません一点は、わが国におきましては皆さん御承知の通り終戦後凶悪なる犯罪というものが横行いたしまして、この傾向は最近におきましても容易に衰退を示していないのであります。いな、かえってますます増加する傾向を示しておるという一事であります。今試みにこれらのうちでかりに殺人罪、この犯罪のみについて考察いたしますと、次のような増加率を示しているのであります。すなわち昭和二十一年度は千七百九十一件、二十二年度は千九百三十八件、二十三年度は二千四百九十五件、二十四年度は二千七百十六件、二十五年度は二千八百九十二件、二十六年度は二千八百六十五件、二十七年度は二千八百七十一件、二十八年度は二千九百四十四件、二十九年度は三千八十一件、三十年度は三千六十六件、さらに最近昭和二十九年度の警察庁の犯罪統計書等によりまして、戦後九年間の犯罪現象の一貫している特徴並びに犯罪現象上における昭和二十九年の地位を要約いたしますならば、一種のA、凶悪性の強い殺人罪、放火罪及び凶悪性がきわめて強いとともに、性的犯罪でもある強姦罪、これが対比的にすなわち昭和二十五年を境に増加率は若干鈍化したとはいえ、なお依然として減少の傾向を見せない。しかも二十九年度はこの三つの罪種は戦後最高の発生件数を記録しているのであって、それからB、粗暴性の強い傷害罪及び暴行罪は逐年増加し、二十九年は最高発生件数を記録しております。C、インフレ期を境に減少し、その後横ばい状況を呈した窃盗罪及び残忍の傾向を示した強盗罪は、二十九年には再び増加したことなどを知るのであります。事態はすでにかくのごときでありますゆえに、今急にこの際にわが刑罰制度の全領域からして、死刑を全面的に排除して、よく社会の基本的秩序の、とりわけ凶悪犯の侵害により、社会一般人の領域を十全に確保し得るかはなはだ疑いなしとしないのであります。もちろんわれわれも刑罰制度として死刑を存置せしむることのみによって直ちに凶悪犯罪を防止し得べきものとも考えておりません。死刑というものの一般的予防効果につきましては、一定の限界があることは認めます。しかしながら単に凶悪犯罪に限らず、犯罪一般は、多分に境遇によって支配され、経済的、本能的な原因によって行われるものでありまして、人間は由来本能的に生を欲し、死をおそれるものであります以上、死刑のとにかく法律的存在というものは、何といっても罪を犯そうとする者に対し、心理的に大きな抑制力を与えるものであるということは疑いの余地はなかろうと思うのであります。なるほどこの点を統計によって立証することはできませんが、統計によって立証することができない事実は、存在しないということにはならない、この意義とそれから見地よりいたしまして、死刑制度に対しての一般予防主義的の考え、なかんずく法的に定める死刑の主たる機能というものは、法律においてあらかじめ一定の犯罪に対しては刑罰を伴うべきことを国民に知らしめ、この赤信号、戒告によって、一般人をして犯罪より遠ざからしめんとする点にあるとする思想は、古くはアンセルム・フォイエルバッハのシュトラーフドローウングス・テオリーと称しまして、威嚇主義と称せられておる議論でありますが、この説は古いとして、今日多くの識者から一掃せられておるのでありますが、古いということは真理じゃないということじゃないのであります。人あまりに真理なるがゆえにとかくこれを忘れがちであります。私などはこれは永久不変の真理を教えてくれた尊敬すべき刑法理論である、この点は現在においてもとうてい価値はなくなるものじゃないと考えておりますので、死刑は少くとも最小限度に、法文の上では最後の一線を示しておる、こういうふうに考えておるのであります。
 その次に、死刑のかわりに無期刑、無期懲役というものを認めておればもうそれでいいじゃないか、何もことさら死刑というものを課さないでも、それにかわるべき無期懲役というものさえあれば足りるのじゃないかという議論が相当にあるのであります。この点について私の見解を次に述べますが、しかしこれは私の考えによれば案外皮相な考え方ではないかと思うのであります。
 まず第一に、このような考え方は、無期刑というものの現実の認識においていささか不十分なるものがあるやに思われるのであります。なるほどこの無期刑ということは、終身つないでおくということになっておりますけれども、しかしながら実際問題として、いかに極悪な犯罪人でありましても、終身間その自由を拘束するがごときことは、特別の事情がない限り、なかなかできるものではありません。もしこのようなことが絶対の法則であるということでありますならば、まず何よりもこの受刑者が刑務所にあって日々の作業に勉励していく希望というものを全然喪失せしめることになるのであります。でありますからして、無期刑の受刑者にも、これもやがて、いつか成績のいかんによってはこの世の中に出してもらえるのだという希望がなければならぬのであります。さればこそ、わが刑法はその第二十八条におきまして、無期刑といえども十年を経過すれば仮釈放の条件を備えることにしておるのでありまして、実際といたしましても、相当数この規定に従って仮出獄を見ておるのであります。こういうふうに実際の場面に立って無期刑というものを観察して参りますと、無期刑すなわち一種の有期刑なんです。無期刑を言い渡すということは、多くの場合において有期の懲役を言い渡すと同じことになるのではないか。さようにいたしますれば、殺人その他の極悪な犯罪人に対して、実質上結局有期刑を言い渡す。死刑と二者いずれかの選択問題ということになるのであります。なるほど受刑者といたしましては、軽い方の有期刑にした方がいいでありましょうが、先ほどからるる申し述べますごとく、少くとも極悪なる犯罪人でありまして、改悛の見込の容易に立たない犯罪人に対しましては、死刑ということにしなければ、今日の社会観念というものがありますから、正義観念というものが許さないのじゃないか、かように存ずるのであります。
 それからその次に、死刑と誤判問題であります。いや、死刑というものはそういうふうにして、置かなければならぬかもしれないが、誤判があった場合にどうするか。取り返しがつかないじゃないかという点であります。この点について一言触れておきますが、もちろん裁判は人間のすることでありますからして、誤判が絶対にないとは保証できないのであります。しかし少くともわが国の明治以降におきます死刑の宣告を受けたものに関する限り、誤判であったという例は聞かないのであります。ほかの事件ならともかくも、死刑を宣告したその事件で、これは誤判であったとはっきりとあとで証拠があった事件はあまり聞かないのであります。死刑にかかわる事件は、ほとんど一審、二審、三審を経ておりまして、かつ死刑事件については、判決確定後も法務当局におきまして、十分詳細に記録を検討した上、法務大臣の慎重なる考慮があって初めて死刑執行命令が下されることになっておるのであります。ときによっては、恩赦にかける場合なきにしもあらずであります。また実際として、判決は確定いたしましても、被告人、受刑者の方から再審ということを申し立てる。法律上再審には一回、二回の制限がありませんので、先ほど紹介いたしました極悪犯人でも、判決確定後再審を申し立てている、そうしてまたまたポケットに再審の申し立てを用意しておる。かくのごとくして、なかなか死刑の執行というものは現実においてはいたしていないのであります。現に私の手元において六十何名ぐらい死刑の執行をしなければならない者がありますが、これは死刑を執行せずに手元にとめている、さような実情でありますからして、繰り返して申し上げますが、私少くとも死刑囚に関する限りにおきましては、わが国としては、外国は知りませんが、明治維新この方、死刑囚については誤判であったというようなことはあまり聞かないのであります。
 それでその死刑存廃の問題につきまして特にこの席で一つ指摘したく思います点は、被害者への顧慮ということを今少しわれわれは深刻に考えていかなければならぬのではないか。死刑制度ということを問題といたしますとき、人はとかく受刑者の方面のみをどういうものかながめ、これに同情する場合が多いのでありますけれども、しかし他方被害者というものの立場に立って議論する者は比較的少いようであります。一体わが刑罰制度一般におきまして……。
○委員長(高田なほ子君) ちょっと発言中ですが、まだだいぶありますか。
○公述人(安平政吉君) あと五分です、十二時までですから……。
○委員長(高田なほ子君) あとにまだ残っておりますから……。
○公述人(安平政吉君) 特にこの被害者への顧慮ということは著しく閑却されているわけであります。極悪非道な犯罪人として死刑が問題とされる犯罪におきまして、一そうこの傾向が強いように思われるのであります。もちろん犯罪による被害者は、不法行為に基き民事賠償を求めておりますけれども、しかし実際問題として、加害者の多くは無産者であります。民事賠償等の能力を持っていないのが常であります。最近に私の手元に一つ届いておりますが、被害者の方面から手紙が着いておりまして、新聞をつらつら見るというと、最近死刑廃止論になっているが、自分の姉が殺された、この姉が殺されたというだけでも、新聞で見ている死刑廃止論にたえられない、もしそういうことが実現するならば、自分は一切がっさいなげうって最後の決断をするんだというような深刻な手紙が届いておりますが、これなどを見ますというと、実際この殺人なんかの凶悪犯について被害者の受けるところの苦痛というものは深刻であります。それはせめて法律通りの制裁を受けていただきたいという希望に過ぎないのであります。そういう点を考えますというと、制度としての死刑を全面的に廃止するということは相当に疑問ではなかろうか、こう存じますので、私は遺憾ながら死刑制度というものをこの際全面的に廃止するという意見には賛成できない次第であります。
 はなはだ長くなりましたが、これをもって終ります。
○委員長(高田なほ子君) ありがとうございました。速記をとめて下さい。
  〔速記中止〕
○委員長(高田なほ子君) 速記をつけて下さい。
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○委員長(高田なほ子君) それでは文学博士広島大学名誉教授長田新さんにお願いいたします。
○参考人(長田新君) 死刑廃止の是非について、何か私にも考えを述べるようにということで喜んで参りました。
 結論を先に一言申し上げますと、私はこの死刑というものは一日も早く廃止すべきものである、かような信念を久しく持っておるのであります。この死刑廃止の理論的根拠とでも申しますものは、すでに相当出ておりますので、私は死刑廃止の理論的根拠というものはおおむねもはや結論が出ておると信じております。のみならず、すでに世界の三十六ものたくさんの国が死刑というものをあるいは廃止し、あるいは停止してみたところ、これはむしろ廃止した方が、停止した方が結果がいいというふうな意味の、いわば実証的に一つの結論も出ておる、寡聞ながら私はさようにこの問題を了解します。理論的根拠もおおむねはっきりしておる、実証的にも廃止の根拠というものがおおむねはっきりしておる、かような観点から、一日も早く死刑というものは廃止してもらいたいということを、国民の一人としても熱願いたしておるのであります。イギリスのような、この文明国の中でも最も保守的な国、あの文明国の中で最も保守的な国でさえと私は申すのでありますが、やはり世界の歴史の必然というものにおそまきながら追従をして、最近死刑を廃止したということは、人のよく知るところであります。たしかこの五月一日の報道でありまするが、あのニュージランドという、まあそう言っては何でありますが、まことに未開と申しましょうか、後進国と申しましょうか、ああいう国でさえ、この五月一日に下院で死刑廃止を国民投票に訴えるという決議をいたしたということを新聞報道で伺いましたが、さもあるべきだと思うのであります。私は、どろぼうしても三分の理があると言えるわけで、廃止反対論というものも何ほどかの論もあろうと思うのです。ただ大所高所に立ち、世界歴史の動向というものを見るときに、ただいま申し上げましたような結論を主張せざるを得ないのであります。変な話ですが、一つの国が文明国かそれとも未開国かということを判定する最も客観的な根拠のある基準というものは、その国に死刑というふうな未開社会の遺物がまだあるかないかというその一点で、一つの国が果して文明国かそれとも未開国かということを判定することができやしないか、私は文明国としてのわが祖国日本の名誉のために、権威のために、この際断固として死刑を廃止されることを国民の一人として熱願せざるを得ません。論拠はただいま申したようなわけで、もはや知る人ぞ知る、わからずやはいつもわからぬものです。知る人ぞ知るということで、あまり私は論ずる勇気がありません。むしろ二十世紀の五十年台、日本の国会で今ごろ面々集まって死刑廃止是か非かとこういうことを論ずることが私は日本の国民の一つの恥である、国辱であるとさえつい叫ばざるにはおれない、この問題は一日も早く国の名のために、名誉のために廃止してもらいたい、かように私は考えております。
 ところで私は全くのしろうとでありまして、およそ刑法とか行刑とかいうことについてはほんとうのしろうとであります。私のようなほんとうのしろうとをどういう理由でこんな席に引きずり出したのか、一度高田さんにもお目にかかってお話を聞こうと思って、まだお目にかかりません。そこでしろうとというものの演ずる役割などをつい私も学者の驥尾に付しておるものだから、考えざるを得なかったのです。しろうとというものが、これもピンからキリまであるが、存外物を単純に、だから純粋に物を考える、こういうことがあり得る。ところが専門家になるというと、一定特殊のはなはだ狭隘なる地域に立てこもるがゆえに、専門の白痴なんという言葉がある。専門の白痴というような言葉も言われておるように、専門家というものは、自分では知ったかぶりだが白痴であるということが存外あるということです。ものにはもちろん例外はありますが、たしかイギリスのジョン・スチアート・ミルという人が自由論の中に書いておったと思いますが、経済学ばかり研究しておる学者には経済学さえわからなくなってしまうものである、けだし至言というべしと思ったりなどするわけです。どうも専門家というものは、狭い地域に立てこもるために、だんだん視野が狭くなって展望がきかなくなる、私は文化の開拓運動は専門家の畑からおおむね出ないものであるとの歴史を読んだりなどしております。結局視野が狭くなって、いわば一種の職人みたようになって、技術屋のようなものになってしまって、つい広い視野の上に立って展望を遠く走らせるということができなくなる、むしろへたな専門家よりほしろうとの方がものを単純に、だから純粋に見るということもありはしないか、そんなどうもうぬぼれも一方持ちつつ、みずからしろうを知りつつ、きょう参りました。
 ところで実は今から四十年ばかり昔のことですが、私は大学時代、京都大学で、スイスの教育学者のペスタロッッィという人がおりまして、この人の書いた「立法と嬰児殺し」――ユーバー・ゲゼッツゲーブング・ウント・キンデルモルトという本を読んで、非常に感激しました。この書物はペスタロッツィという有名な教育者が大学生の時代に、スイスのいなかの娘さんが二人父なし子を産んで、これを絞め殺して死刑に処せられた、こういうことをペスタロッツィは新聞で読んで知って非常に興味を持った。鳩の流す血を見てもおそれおののくような可憐な少女、キリスト教国の名に恥しくないヨーロッパの十八世紀のスイスの国で、子殺しをして死刑に処せられた、これは実にえらいことだ、何とかしてこういう悲しむべき事柄がこの地上にわき起らないようにというので、彼は十八年の間、そればかり研究したわけじゃありませんが、嬰児殺しの問題を研究して、それが一七八三年、今から百七、八十年前に「立法と嬰児殺し」という本になりました。それを読んでみて、そのとき以来私は死刑というものは害ありて益なきものだ、ソフィスト的な理屈をつけたり、三百代言的な理屈をつけるかもしれないけれども、大所高所から見ると、死刑というものは害ありて益なきものなり、こういうふうなことをそんな書物で知ったものですから、自来四十年間、全くのしろうとですけれども、刑法においては、私は死刑というものは、これはあってはならないというふうな考えを持つに至ったのであります。私はその意味で、そういう昔話をきょうは少しさせていただきたい。
 一七八三年にペスタロッチィの書いた昔、昔またその昔の百七、八十年前の昔話をあえてここで御報告する方が私のようなしろうとにはよいではないか、そんなつもりで実は参ったのであります。時間もあまりありませんから、ごく簡単にその筋を申します。
 ペスタロッツィに言わせますと、罪悪というふうなものをなくす方法はない、率面に言ってない。少くとも処罰という仕方でなくそうと思えば、連鎖反応――今日の言葉で申せば連鎖反応で、処罰は犯罪というものの連鎖反応を惹起するものであるというのがこの人の考えであります。つまり罪というものを、悪をなくする方法は、罰とは全く別に考えるべきものである、こういうふうな筋になるのであります。それはどういうことであるかと申しますと、まあ悪いことをした者を罰する、罰せられた者にどういう反応が起ってくるかということから入る。そうすると、一般に悲惨な目にあうと、人間の心臓が固くなってしまう。硬化してしまう、化石のように。これがおそるべきことである。処罰すると、罪を犯した者を、悪を働いた者を罰するというと、罰せられた者の心臓が固くなってしまうという、わかりやすく申せば、そういうことなんであります。というのは、罰するということは、まず第一、その罪を犯した人を公々然と社会の表に引っ張り出して、そうして罪を犯した人間のその罪を公々然と社会の矢面に引きずり出すということが、引きずり出された罪人にどういう一体影響を及ぼすかということを、これをむしろ考えなきゃならぬ。処罰ということは、公々然と恥辱を与えることである。侮辱する、嘲笑する、どうしてもこういうふうなことになる。この公然と罪人に恥をかかせ、かつまた侮辱するというようなことが、これが連鎖反能を起していくという心理学的根拠になってくる。そういうことではその罪はなくなるものではない。むしろ悪いことをしたら、できるだけ隠して、隠して、どこまでも隠してやる、庇護する、愛護する、身の上相談にのる、そういう行き方でなければ地上から罪というものは決して消えるものでない。論より証拠、見たらわかるじゃないか。そうしてそういう角度から処罰というものに対して非常に消極的な考えを持つのであります。下級生のとき上級生にいじめられた子供は、自分が上級生になると今度は下級生をいじめる。お嫁さんのときにしゅうとめさんにいじめられたお嫁さんは、自分がおしゅうとめさんになると、今度は嫁さんをいじめる。一種の連鎖反能、これはたしかルソーがエミールの中に書いておりましたが、世の中で医者と坊主というものは大体無感覚で残忍的なものである、冷酷なものである。僕はびっくりして読んでみたら、ルソーは天才だから一体人間が苦しみもだえて死んでいくところ、苦しみ、悩み、死というものに、一番再々出っくわすのは人類の中でお医者さんと坊さんだ、そういうふうなお医者さんと坊さんが人類の中で一番無感覚で冷たい感じを持っておって、しばしば冷淡であり、冷酷でさえあるというふうなことをルソーはエミールの中に書いてあるが、天才の一つの直感として、これもまあおもしろいのではないかというふうなことなども私どもよく考えるのであります。ペスタロッッィはそんなような道行きでこの論を進めるのですが、もう少しお話をしたいのです。ともかく悪をなくし、罰をなくすためにば、どうしてもむしろ感謝の気持、信頼の気持、そういうふうなものを触発していかないと国の制度からいってもだめだ。公然と恥辱して、嘲笑するというふうな行き方よりは、むしろ国の制度の上からも、悪いことをした者も、むしろ感謝して信頼をしていく、こういうふうなことが非常に大事である。あるいはまた悔い改めるというふうな情は非常に大事なものだが、人が善人になる、悔い改めるという改悛の情はどうして起るか。処罰することによって改悛の情の起るためしがあるだろうか。むしろ原則としては処罰ということでは罪を犯した者に改悛の情はなかなか起りずらい。罪を犯した者にこそほんとうに国のおきてが、親心というか、あるいは同情というか、愛情というか、そういう寛容の態度に出たら、きっと感謝の念も起り、国に対する信頼の念も起り、改悛の情も起って、さてこそ犯罪というものはだんだんなくなるが、その逆を使うと、いわば罰すると、かえって恨んだり反抗心を起す。これが人情ある。そういうつまり罪を犯した者、犯すかもしれないような者に与えるところの処罰は、刑法としてそれが与える心理状態というもののほんとうに具体的な分析というものを知らぬで、ソフィスト的な理屈である正義のために、罪には罪をというふうな、そういう旧世紀の遣物的な考えでおったならば、とんでもないことになる。というようなのがあらましペスタロッツィの考えですが、時間がありませんからごく簡単にいたします。そういう点からペスタロッツィは、犯罪を防ぐ方法はただ一つ、それはやはり人間そのものを何とかするほかに、この悪を、罪をこの地上から少くする秘訣も、秘伝も何もない。教育というものは犯罪にとっては予防医学のようなもので、予防医学としての教育によって人間の心そのものをりっぱにしていくほかに、もう犯罪をなくする方法というものはない、こういうふうな結論です。そういう結論に対して、ペスタロッツィはあげておりませんが、教育政策と社会政策、もう衣食足って礼節を知るのか、倉廩満ちて栄辱を知るのか、罪を犯すなんということはだれだって嫌だ。ことに人を殺すなんということは実に嫌だ。せっぱ詰まって絶対絶命どどのつまり殺すのでしょう。ということは一方から言うと住みよくない世界。この社会がほんとうに住みよい世界になり、幸福な世界になったら、だれが罪を犯すか、だれが人を殺すか。罪を犯し、人を殺すということは、むしろ全く社会的な問題である。そういうふうに考えますというと、私は教育政策とそうして社会政策というものを推進していく以外に、犯罪を少くするとかあるいは悪を少くするという方法は、きっと絶対になかろうと思う。
 私は最後に申し上げます。日本という国は政治家に聞くというと、何かというと予算がない。ない袖は振れない。これが日本の政治家のおきまり文句です。ところが死刑廃止というのは、予算がなければできないものか。私、しろうとでわかりませんが、死刑廃止などは予算はなくても廃止だからむしろ楽になる。日本という国は、まあない袖は振れないそうだから、袖はなくてもできるようなことを一つずつやってもらいたい。私は最後にこの文明国日本の名誉のために、権威のために、一刻も早く死刑を廃止されることを、一人の日本人として熱願いたします。終ります。(拍手)
○委員長(高田なほ子君) ありがとうございました。
  ―――――――――――――
○委員長(高田なほ子君) 次に法学博士弁護士小野清一郎さん。
○公述人(小野清一郎君) 簡単に私見を申し述べます。今回の刑法等の一部を改正する法律案は、刑法から死刑の規定を全部削除するという趣旨のものであるようでありますが、私は遺憾ながらこの法律案に賛成のできない一人でございます。死刑は人道上好ましい刑罰ではない。できれば死刑のない社会になりたい。そういう希望は何ぴとも持っているのでありまして、その点ではおそらく異論がないと思います。ただ現実の法律問題としてはそう簡単には参らぬと思うのであります。これは総体的な問題でありまして、私は現在の歴史的、社会的な状況のもとにおいては、これを全廃することに疑問を持つのであります。申すまでもなく、死刑の問題は法律だけの問題ではありません。むしろ倫理、道徳及び政治の根本に触れる思想的な問題であります。同時に事柄が非常に重大でありますから、慎重な社会科学的認識を必要とする問題であると思います。今回の提案において、果してそれらの点について十分の御考慮が払われているのでありましょうか。たとえば提案の理由に、死刑廃止の結果として、殺人罪の永続的増加を証明した例はありませんとありますが、その資料として用いられている統計の類は、はなはだ不十分なものであります。犯罪ば社会科学的に見ますると、複雑な原因と条件とによって生ずるものであります。死刑の存在は犯罪を抑制する一つの契機であるにすぎないのであります。でありますから、これを廃止したからといって、直ちに殺人その他の犯罪が増加を見ないことは、むしろ当然のことであります。十年や十五年の粗末な統計を材料にして、数字の魔術にかかるようでは科学的なものということができないと思うのであります。さらに提案理由に、「人の生命は、法以上のものであります。」これも思想的に問題であると思います。生命の尊重すべきことはもちろんでありまして、何人も異論がございません。しかし法というのは、その生命を保護するものであり、少くとも八千万国民の生命身体、自由、財産を保護するものである。そういうものとして法は個々の生命を越える意味を持つものであると私は信じております。新憲法は「すべて国民は、個人として尊重される。」ことを明らかにしておりますが、しかし同時に個人の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、」「最大の尊重を必要とする。」旨を規定しておるのであります。個人の権利は公共の福祉を限界としているのであります。誤判によって人の生命を奪うということがいかにおそろしいことであるかは申すまでもありません。あらゆる力を尽して誤判を避けなければならないのであります。しかしそれは裁判の問題でありまして、立法の問題とはおのずから区別して考えなければならない。誤判が可能であるという理由で刑法から死刑の規定を除くべしという議論は、問題の核心に触れておりません。死刑廃止を要求するのはヒューマニズムであります。しかしヒューマニズムそのものを実現する上において、やはり歴史的、社会的な状況というものを考えなければならないのではありますまいか。たとえばわが国におきまして、古く平安朝三百数十年の間、死刑を停廃したという歴史的な事実がございます。それは仏教によって指導された古代ヒューマニズムの現われであります。しかしそれはヒューマニズム的な思想のみによって実現されたのではありません。平安朝の最盛期には、一応政治的安定があり、文化の栄えた時代であります。そういう歴史的状況のもとに初めて死刑の停廃も可能であったのであります。だから平安朝末期に至り、社会的矛府が激しくなり、反乱が相次ぐようになりますと、死刑は復活されなければならなかったのであります。ヨーロッパにおいて死刑廃止論は、第十八世紀の末から始まっております。それば近世初頭における絶対主義の専断、残酷な刑事裁判に対する抗議でありました。よく死刑は野蛮な社会のものだという御議論があるようでありますが、そうではなく、むしろある程度の文化的な社会において残酷な死刑が行われたのであります。しかし今日まで死刑を廃止している国は、まだ総体的に少数であります。そして一度廃止しても、また復活した国も少くないのであります。何ゆえでありましょうか。一つはヨーロッパにおいてタリオ的な応報思想が強いからでありますが、それだけではありません。現在の歴史的、社会的状況において、死刑の廃止を許さないものがあるからであります。国際関係がいつも緊張した状態にあるということ、また国内においても、政治的、経済的な矛盾があるということが、死刑を廃止させないのであります。つまり平和な文化社会を前提として初めて死刑廃止が可能となり、死刑を廃止することによって平和な文化社会を作るということはできないのである。それが証拠には、死刑を廃止している国はおおむね小国でありまして、国際的に緊張する必要もなく、また国内的にも比較的に矛盾の少い社会であるのであります。わが国は敗戦後小国となり、かつての帝国主義的な制度はもはや必要なくなった。その点で死刑廃止の可能性が大きくなって参っておることは否定できません。国内的矛盾もある面では減少したといえましょう。皇室に対する罪の規定などはすでに削除されております。しかし国際的な対立は決してなくなったわけではないことは、御承知の通りであります。国内における矛盾相剋もむしろ大きくなっていると私は思う。戦後における犯罪の波は一応おさまったようでありますが、しかし道徳教育の欠乏は、経済的矛盾と相待って、犯罪は量的にも質的にも減退していないのであります。提案理由は終りの方に、死刑の制度はすでに刑事政策上これを存続させる根拠に乏しく、わが国の文化の現状もその存続を否定する方向に進んでおり、国民感情も、また十分熟していることが察せられますので云々とありますが、これはいささか失礼ながら甘い現実認識ではないかと思います。わが国の文化の現状は、それほど楽観すべきものでありましょうか。私はこれを疑うものであります。(拍手)死刑存置の倫理的根拠は、法秩序の維持ということにあるのであります。法秩序は全国民の生命、身体、自由、財産を保護するものであり、かつ民族の生存と文化とを可能にする基本条件であります。それは個人的法益を保護するだけではない。民族生存と文化とは、法秩序なくして維持できないのであります。ヒューマニズムも法秩序によらずしてはその最小限度の実現さえも不可能になるでありましょう。その意味で法秩序の存在は超個人的な存在理由を持つものであると思います。しかるに法秩序は一つの強制的な秩序であります。私は法秩序の基礎はあくまで倫理的、道義的なものであると思っています。しかし現実の社会において 政治的な力による強制の要素なしに法秩序は成り立たない。その意味で結局強制的な秩序であると言わざるを得ない。しかもそれは倫理的でなければならない。反倫理的、反道義的な行為は、刑罰的制裁をもって報いられるほかないのである。その制裁は、行為の道義的価値に相当するものでなければならない。そういう意味で道義的責任と応報とは、人間性に基く倫理的要求であります。この人間的、倫理的要求は刑法の中枢神経であるとともに、法秩序一般の背骨でもあります。近代の刑罰組織は自由刑をもって主要のものといたしております。死刑はもはや主要な刑罰ではありません。しかし内乱、外患、殺人等について死刑の規定を削除し、いかなる場合にも自己の生命についてだけは絶対の安全を保障されつつ犯罪に着手することができるというのでは、現実の政治的社会的秩序は相当の危惧を感ぜざるを得ないでありましょう。死刑の威嚇力を過重に評価してはなりません。しかし死をおそれない政治犯人や、絶望的な強盗犯人に対して死刑が無意味であるからといって、その威嚇力または一般予防の作用を否定することはできないと思います。死刑の存在が社会一般に対して抑制の作用を持つことは明らかな心理的事実であります。これを否定されるならば全刑法の組織を否定するほかないのであります。刑法は応報的な社会教育の機構であります。死刑の存在するということが意識下の意識として、いわば無意識的な抑制作用を営むことを、私は心理学的な事実として十分立証することができると思います。死刑を廃止した国における若干の刑事統計によって、死刑に予防作用がないということを立証しようとすることは、その方法自体に疑問があるのであります。私はもっと深い心理学的な研究を必要とすると思っているものであります。以上。(拍手)
○委員長(高田なほ子君) ありがとうございました。
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○委員長(高田なほ子君) 以上で午前中の公述は終りました。ただいま時間が十二時四十分でありますが、公述人の方々にはほとんど午前中でこれを済ませて、午後に所用をお持ちになっている方々ばかりであります。重要な参考の御意見を聞かしていただいて、十分に委員会側としても質疑があることと存じますが、以上の事情を勘案いたしまして、次のことを委員の方にお諮りいたします。大体三十分くらいのめどで、要領よく質疑をいただき、またあとの残った問題等は、御迷惑でも、公述人の方々から、文書等でいろいろ御便宜をおはかりいただけるようにお願いすることとして、運び方をこのようにしたいと存じますが、いかがでございましょうか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員長(高田なほ子君) 御異議ないものと認めます。
 まことに公述人の方には貴重な御意見を拝聴いたし、十分な質疑の時間をとることができないのは残念でございますが、大体三十分くらい、それぞれ質疑をさしていただきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
○小林亦治君 お一人で三十分でなく、全部で三十分ですか。
○委員長(高田なほ子君) そうです。
 質疑のおありの方はどうぞ。
○小林亦治君 まず、安平検事に伺いたいのですが、あなたは、日本の刑罰法ができて以来、事、死刑に関する問題で、誤判のあったということはないというような意味のことを申されましたが、果してその通りあなたから伺ってよろしいかどうか。もしもあなたの感覚が、そういうことは絶対なかったというような御認識であるならば、何をかいわんや。私どもが本件を問題にして今論議しているのは、はっきり誤判ということが有権的な、確定したものは、なるほどこれはないかもしれません。しかしながら、あれも誤判であった。無理であった。無実であったではないかというものが、これはもう数え切れないほど多くある。そこで、最高の検察府にあるあなたがそんな考え方を持っておられるということは、これは一大事なんです。そこをはっきり一つおっしゃっていただいて、なおその上に御教示願いたいと思う点が二、三ございますが、まずその点を伺いたいと思います。
○公述人(安平政吉君) お答えいたします。先ほど申し述べました通り、実は、こちらへ参ります前に、死刑の判決を受けて、確定して執行するまでの間に、これが誤判であったというケースがないか。多少不完全でありますが、調べてみたのでありますが、その点、有権的にはっきりとしたものは見当らなかったのであります。(「それはその通りでしょう」と呼ぶ者あり)それで、ただし今御質問にありました通り、それでは過去において、少くとも明治維新以来今日まで、死刑の判決を受けて、確定して、執行されていった者の犯罪は、それは裁判所の認定通り、絶対間違いないものであるかどうか。天の神様から御覧になりましたときの真実性ということについては、これは私は何とも申されないのでありますけれども、という意味は、有権的に誤判だという判断を受けた場合は、あるいはそうじゃないかもしれませんが、さっき申し上げました通り、ここには最高裁判所の裁判官もおられることでありますが、人間のいたすことでありますから、いくら最高裁判所でも、何度お調べになっても間違いがあることはいたし方がないと思います。思いますが、今、死刑の存廃ということを、この誤判を理由として審判いたすのは、これはちょっと……、誤判があるからして死刑はという、その間のつなぎ合せについては、いささか御無理じゃないかと、こう申しているのでありますが、あるいは真実の方面からいろいろな点、実費上そういう点は誤まりの裁判であったということがありましたら、むしろこの席で承わりまして、私帰ってから、大いにそれを検討いたしたいと、こう思っておる次第であります。ただ、申す意味は、有権的にはないのであります。英国なんかで、死刑廃止論が起ってきましたのは、これは実に無理はないと思います。とにかく陪審国でありますし、それからあそこは、もう皆さん御承知の通り、人殺しをすれば、裁判は一応、これは重罪でありますから、言い渡しとしては死刑を言い渡していたようでありますが、しかし、実際としてあとで恩赦その他の方法で死一等を減じて、たとえば植民地流刑というようなことをいたす。つまり法律の建前としては、人を殺せばとにかく裁判としては死刑だ。それから、その裁判が何と言っても陪審である。こういうことになりますれば、陪審で、人を殺すと原則的に死刑ということになる。これは実に危いものでありますから、そういう国家のもとにおきまして、死刑廃止論が起ってくるというものは、これはもう当り前のことで、ドイツなんかでも、最近西ドイツで死刑廃止の何が通りましたが、これもいろいろ政治上の理由がありますから、これはまた、その社会を前提としているのであります。
 それから、もう一つつけ加えておきますが、英国にしろ、ドイツにしろ、永い間の歴史を持っております。ことにキリスト教というありがたい教えが子供のときから以心伝心にヨーロッパの人々に入っておりますから、死刑を廃止しましても、法律より以上に道徳、ことに宗教の力でみんな鍛えられておりますから、それで私はいいと思います。いいと思いますけれども、日本は必ずしもそれと同じように考えるわけにゆかないものがある。そういう意味の例証の引き合せで、明治以後のわが国の裁判のあれがきたのであります。別に深い意味はないのであります。
○小林亦治君 あなたの結論は理路整然としておってけっこうなんですが、ただ、食い下るようですが、明治以来一つも誤判がなかったということを確心をもって仰せられたので、その点を念を押したかったのであります。
 そうしますというと、有権的に誤判であったということは一つもなかったが、まああるいはあったかもしれないというようなお考えはお持ちなんでしょうね。それはつまり、政治的な思想犯については、無罪を死刑にしたような事実が現に私はあると思う。たくさんあると思う。まあ数え切れないほどはないでしょうが、有名なものが三つ、四つほどあると思うのであります。そういうことについて、あなたが実務家として疑いをもっておりませんか。その点……。
○公述人(安平政吉君) 私の考え方といたしまして、日本の裁判については、実は信頼いたしております。ことに、明治天皇の名において出された一審、二審、大審院などの裁判におきましては、格別の信頼と、それから尊敬の念を持っておりまして、信仰といたしましても、ことに一審、二審、三審を経た、旧大審院当時に下されたかくのごとき重大なる犯罪に対して、誤判があったとは私は信じたくない。
 それから、ちょっと何でありますが、旧大審院当時における、たしか横田裁判長でありましたか、ゆえあるからして、その当時におきましては、よほど裁判所は、死刑の宣告には慎重な態度をとられまして、実際として被告人が大体認めていることであって、しかも、ほかに傍証、証拠というものがはっきりとわかっていなければ、まあ有名な、一流の裁判官としては死刑が宣告されない。これは法律に書いてありませんが、そういうような精神で、死刑に関する限りは宣告いたしているということを、何かの機会に承わっておりますが、これは私は、横田裁判長、全くその通りであったと思いまして……。少くとも人殺しをしたというので死刑を言い渡す場合に、本人が争っている。争っているにかかわらず、ただ形式的な証拠をつきつけて、お前さん人を殺したのだから死刑だということは、常識から考えて許されない。であるから、そういうふうな心がまえで、過去の大裁判官が死刑者に対して死刑宣告をいたしておりましたので、むべたるかな……。その結論として誤判はなかったものと私は今でも信じております。
○赤松常子君 関連してちょっと一つ……。
 先ほど、いろいろ実例をおっしゃいまして、ことに私ども、身の毛のよだつ残忍さを知らされた次第ですが、いろいろ伺ってみますと、そういうことをする人は、私、一種の病人ではないかと思うのです。そういう病人をただ死刑にしていいものかどうか、もっと別の角度から、あるいは病院に入れるとかということの方法が、もっと広く考えられていいのではないかと思うのです。極悪犯人であるから死刑ということよりも、もっと広く考えられると私は思うのですが、そういう点に思いをいたされたことがございましょうか。
 それからもう一つ、いろいろ実務家としてお扱いになった場合に、今申しますように、精神的に変であるとか、医学的に問題があるとかいう場合もありはしないかと思うのですが、そういう点をちょっとお話して下さい。
○公述人(安平政吉君) お答えいたします。ただいま委員の方から御指摘がありましたごとく、あるいは頭その他心理状態に、通常人と異なる異常のものがありはせぬか、私は、その点はまことに不安であります。さればこそ、本件に関する限り、まだ死刑は執行いたしておりません。これは今再審中であります。実際この犯罪人と申しますものは、ぶち当ってみますると、多くは大なり小なり精神的に常者と変るものがありまして、その程度のひどいのは、責任能力に影響があるとして無罪の言い渡しを受けております。しかし無罪の言い渡しを受けなくても、神経衰弱とか、大なり小なり、少くとも犯罪行為を犯す瞬間におきましては、精神がある程度において通常人と異なる状態を呈している、これは御指摘の通りであります。そういうような犯罪人に対して、死刑をもって臨むということは、少くとも受刑者、犯罪人に対しては、その制裁はあてはまらぬじゃないか。これは、事受刑者に関しまする限り、お説の通りだと思います。ただし、先ほどから私の指摘しました通り、法律制度と申しますものは、はなはだおそれ入りますが、これは天下の大綱、法律、秩序、社会共同生活の秩序というものを維持するために存在しておるのでありまして、刑法について申しますれば、先ほど小野先生がるる御指摘になりましたが、刑法の存在理由、ことに死刑の存在理由は、私は執行の場面というものを実は認めたくない。相なるべくは、死刑の執行というものは避けたい。そういうものよりも、死刑制度の本当の存在理由とまた価値は、犯罪行為にいでない場合に、法文として、かくかくの不良なる行為をなした者は、これこれの刑罰に処するという一種の秩序維持の見地からいたします強い道徳的一つの批判性というものを、法律の条文の上において表わされておる。事はそれで足りるのです。事はそれで足りるのでありますが、さればといって、それでは現実に殺人罪を犯かした場合に、法文があれば足りるから、死刑を執行しないということでは、せっかくこさえました法文というものはからになってしまう。そこで、からにならないように、法律というものは約束はたがわないのだという意味で、一般的のときにおける死刑の重点というものを私は説いております。そういう見地から、法律の基本的秩序の堅持というものを、一般大衆並びに被害者、受刑者に対しましても、これまたやむを得ずして示さなければならぬ。さような意味におきまして、少しばかり神経衰弱なんかを起しておったといたしましても、その社会一般、国家一般の秩序維持としての刑罰法規維持のために、現実に罪を犯した意味で、しかも極悪非道で、天下万人何人が考えましても、それははなはだしく非人道的である。いかに神経衰弱といいながら、さようなことは、どうしても法律の手前許すわけにいかない。そういう最小限度の悪性の人間に対しまして、ここにやむなく涙をふるって死刑を執行する、これはいたし方ない。天国の法律と人間世界の法律とは、私は残念ながらその点におきましていささか隔たりがある。これは現実であります。われわれ生きている世界におけるところの刑法の宿命だと思います。それをさえも廃止ということになりますれば、また私何事か害わんや、すべて宗教の方、道徳の方にまかせます。そういうふうにお答え申し上げます。
○羽仁五郎君 安平さんに二点伺いたい。いろいろ教えていただいて、大へんありがたかったのですが、二点ちょっと、どういう意味でおっしゃるのかというのがわからない点があります。第一点は、あなたは、裁判関係においては日本のレベルは非常に高い。しかし、国民のレベルは非常に低いというようなお考えでおいででしょうか。
 第二点は、明治憲法時代の日本の裁判に対しては、絶対に信頼をお持ちになるということは、今日の現在の日本国憲法における裁判というものよりも、明治憲法時代の裁判の方が信頼できるという考えをお持ちでございましょうか。その二点を、そのことについてだけお答え願いたい。
○公述人(安平政吉君) 第一点でありますが、私の申す意味と考える意味は、一般に日本の国民の文化の水準というものがヨーロッパのそれに劣るという意味じゃない。そうではございません。少くとも死刑という制度の見地から見まして、ヨーロッパにおきましては、かりに、死刑が廃止されましても、なかなかあの国は、大体われわれ常識から申しまして、小さいころからして教会というものにみな行く。われわれ留学しておりましても、日曜ということになれば、つい教会に出席しておるのであります。そういうように出席いたしておりますと、宗教的影響というもので、何としても週一日は清められて参る。ところが、私はキリスト教の方面を見たので、ほかの、仏教とか、そういう方面は深く存じませんでしたが、私常識人でありますから、深いキリスト教のことは存じませんが、日本の社会一般は、ヨーロッパにおけるほどキリスト教の影響というものは十分ではないのであります。
 かように考えて参りますと、死刑という法律制度よりかも、宗教上の制裁あるいは訓練、教育という点については、どうも残念ながら、日本のレベルは低いのじゃないか、こう申したのであります。
 それから第二点は、旧大審院当時の裁判の方が現在の裁判より権威があるというのではないのでありまして、事少くとも死刑の宣告ということに関しまず以上、先ほど申しました、よほど証拠との関係上、慎重な態度をとっておられるということを聞いておりますので、そういう意味におきまして、つまり自白のほかに、傍証その他の客観的証拠がなければ、軽々に死刑などを宣告されないという、その立場におきましては、非常に慎重にやったという意味におきまして、私は特に敬意を表しておる、こう言うのであります。一般じゃございません。死刑の宣告については、特にそういうような伝統があった。その点におきまして、私は非常に厳選主義である、そういう意味であります。ちょっと説明が不完全かもしれませんが、そういう意味であります。
○亀田得治君 簡単にお答え願いたいのですが、先ほど凶悪犯増加の傾向について、昭和二十一年から三十年までの統計をお示しいただいたのですが、こういうふうに、数字がずっとふえてきている理由ですね。これをどういうふうにごらんになっているか、もし死刑というものがなければ、これがもっとふえるというふうにお考えか、その二つの点について、わけて。
○公述人(安平政吉君) お答えいたします。先ほどの読みました統計、これは警察庁の統計等によってお話し申し上げたわけですが、このふえている理由については、私はまだしさいに検討いたしておりません。ただ、一つ考えられますことは、わが国は、終戦後外地を失いまして、今まで内地に居住していない者が外地から相当数引き揚げて参りまして、端的に申しますれば、人口それ自体が既往に比較して増加しておるという事実は否定することができない。ですから、もしその人口増加の率と犯罪増加の率の相対関係の比例を調査しますれば、これは結局犯罪が必ずしもふえたのではないのだ、人口がふえたということになるかもしれません。その点は、まだ詳細に検討いたしておりませんが、ただ常識的に申しまして、ともかくも犯罪数がふえたということを御紹介申し上げておるのであります。それからして、その次の点は何でございましたか、もう一ぺん……。
○亀田得治君 死刑との関係ですね。
○公述人(安平政吉君) 私は、先ほど申しました通り、死刑という刑罰を置いたからして、直ちにその翌日からして、そのために犯罪の減というものをきたすものだという、その科学的、合理的根拠に対しては、はっきりした信念は持っておりません。ただ、という意味は、常識的に申しまして、ことに心理観察、ことに私の心理観察、経験法則に徴した人間社会常識の点から申し上げておるのでありますが、やはり人間は、本能的に死というものをおそれますからして、これこれこれのことをすれば死刑になるのだというような、そういう死刑の制裁としての法律があるのと、かようなものが全然ないと、通常人にとりましては、何らかの行動、ことに犯罪の傾向を持っておるものに対しまして、相当の心理的影響を与えることは否定することはできないが、これはお互いの条理の問題、常識の問題です。ただ統計的に、刑罰法規を置いたからどれだけふえるの、それを抹殺したからどれだけ減るのという立証はできないのでありますけれども、しかし、いずれにいたしましたところが、私は、国民を法の威圧によってそれを計算していくのかというお叱りを受けるかもしれませんが、そういう意味ではないのでありまして、常識的に申しますと、刑罰法規の上に死刑というような非常に重い制裁がある場合と、それがない場合と、それはたしかに影響するということは、私としても経験法則上およそ言うことができる、と申しますのは……。
○亀田得治君 わかりました。それで結論はわかりました。
○小林亦治君 ちょっと小野先生に簡単に……。
○委員長(高田なほ子君) 中山さんは安平さんにですか。
○中山福藏君 私は、中島さんと広島大学の名誉教授の方に。
○委員長(高田なほ子君) それでは中山さんに。
○中山福藏君 中島公述人に一つお尋ねしたい。あなたの理想論はつつしんで拝聴いたしました。そこでお尋ねするのですが、大体法律、道徳、宗教というものは、そのよってきたる経路を種々検討してみまするというと、社会公共の福祉一般、たとえば日本におきましては、一般国民の全体の福祉ということは、やはり狙いとして、お互いに強盗、窃盗、殺人等をなさない社会というものを建設するために、おのずからこれはでき上ったものと私は考えます。そこで、あなたにお尋ねいたしますが、人間の心理的威嚇と申しますか、その人間の放らつな行動を抑制する最も力強いものは何だとお考えになっておりますか。これは命という問題じゃないか。私がお尋ねしますのはここなんです。命というものをなくされるというおそれを懐くときにおいて、初めて人間というものは、最大の自己の行動を制限せられるのじゃないか、こういうことを私ども考えてみるのですが、あなたはそういうことをどうお考えですか。
○公述人(中島健蔵君) その点は、そういうことも言えると思いますが、しかし犯罪の場合、凶悪な犯罪の場合なんかには、おそらく自分の命がその結果失うような意識なしに、まあ先ほどお話しがありましたが、一種の異常神経で行うといふように感じるのであります。従って、死刑があるから、だからおそろしいというような意識がある人間は、犯罪は犯さない。実際の凶悪な犯罪を犯す人間の心理状態を調べてみますと、おそらく、確証を持って申し上げるわけではありませんが、また同時に、全然架空で申し上げるわけではありませんけれども、やはり自分がどういう運命になるかということを察する力がない。これは非常に驚くべき事実があるのでありまして、たとえば殺人事件のあとで、ゆうゆうと自分で新聞社の写真の前にポーズをつくる。そうしてもって、まさか裁判で死刑になるとは思わない。やがて気がつくというようなことが多いのです。その逆に、今度は意識が、そういうことを気がつくやいなや、自殺をはかるようなこともある。これは死刑をなくなしても、やはり確かに命を奪われることは重大な脅威ではありますけれども、やはり実際の効果には関係がない。事実命をとられるからよそうというだけの常識のある人間だったらば、かりに死刑がなくても、やはりもっとわかるわけです。私は、法律家でございませんで、よくわかりませんが、恩赦の問題なんかがいろいろあるようでありますが、外国では、容易なことでは、恩赦その他によって重罪の人は出られない。特に現在の法律で、日本の現在の法律で、死刑になるような犯人に対しては、まあいろいろ方法があって、十分に監視するというふうな制度もあると聞いております。どうも私は、命を奪うと言って恐喝することは、逆に言えば、相手が相手の命を奪う。つまりもし何かそういうことをすれば命をとられるぞという、反面命をとるという恐喝をそこにその余地を残しておくような気がするのです。
 それからもう一つ申し上げますが、よろしゅうございますか。
○委員長(高田なほ子君) どうぞ。
○公述人(中島健蔵君) これはいろいろ、今のお話に関連するのでありますが、刑罰の順序といたしまして、罰金とかいろいろありましょうが、自由刑、それから死刑とあって、これがいわば段階のようにお考えでありますが、これは専門の学者の意見に対して、まことに申訳ない次第でありますが、死刑というものは、全然違う刑罰だというふうに考えるのです。そうして、これは自由刑の上に重いものという意味じゃなくて、自由刑以下のあらゆる刑罰と、それから権力によって命を奪うというこれは死刑とは、本質的に性質が違うということを私は非常に感じている。従ってこれを存置して、その脅威によって犯罪を防止するということは、一見非常に有効なようでありますが、実はその中に、思想的に非常に危険なものを含んでいるというふうに考えるわけであります。それからまた、法律は当然変らなきゃならぬ、いろいろ。法は当然社会現象の要求によって生れたものでありましょうが、その法秩序というものは、公共の福祉のために生れたものでありましょうが、法は必ず進化するというふうに私は考えるのであります。それから犯罪をなくすためには、これは、一方に死刑をもって脅かすというようなことを考えるよりも前に、やはりどうしても私は、教育なりあるいは生命の尊重ということを先に押し立てる、つまり死刑はやらないということは、それは非常に大きな旗じるしであります事実その死刑という法律があるから、死刑をしなきゃならぬというような議論に対しては、私ははっきり申し上げますが、非常な、ふんまんを覚えるのです。
○中山福藏君 大体すべての刑罰は教育並びに犯罪防止、それから応報というような三つの性格を含んでおるということはあなたの御存じの通り。そこでお尋ねしたいのは、あなたは死刑というこの懲罰規定があることが犯罪を防止するにきわめて有効であるか、あるいはこれを全然廃止したときの方が犯罪防止に有効なものか。その比率はどういうふうにお考えになりますか。
○公述人(中島健蔵君) これはまあ先のことでございますから、比率について予想はできませんけれども、死刑を存置することが犯罪の予防に役立つという前提が一つある。仮定が一つある。それに対して、死刑を廃止した方が凶悪犯罪の予防に役立つということは、一見非常に無理なようでありますが、実際には、これほおそらく公判の記録その他いろいろお調べになればわかると思いますが、人命の尊重ということについて、全然そういうことが頭にないという人間が残念ながら非常に多いのです。それに対して、人命の尊重ということを非常に強く教えられて、また、そういうものが国民全体の常識になるためには、とっぴかもしれないが、死刑という刑罰をなくなした方がおそらく近道であろうと考えます。
○中山福藏君 あなたのお考え方、よくわかりました。意見の相違の点については一切申し上げません。そこで、ただ一つお尊ねしておきます。人間の生命の尊いことは、これはもう基本的人権とか、いろいろな憲法上の規定によって明らかであります。また、世界共通の普遍的な考え方からして、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカその他、憲法の基本的人権の流れて行った姿から見ましても、これは何人もこれを否定することはできない。ところが、ここで一つお尋ねしたいのですが、殺された者の人間の価値は、生命の価値というものは、一応お考えになって、この死刑廃止論をお唱えになるわけなんですか。
○公述人(中島健蔵君) もちろん。これは非常にはっきり申し上げます。これは私は、殺人を憎むことは、これはたとえば死刑を今廃止するという問題以上に、社会から殺人なんという犯罪がなくなればいいと思います。しかしなかなか困難でありましょう。しかし、もう少しはつきり考えなければならぬのは、むしろ殺人の事件があった。その犯人をつかまえて死刑にするということによって、一体その犯行はもとへ帰るものかどうかという問題です。もっと深刻な問題、私自身はそういう経験はございませんけれども、とにかくそれでもってただ気が晴れるということだけであって、気が晴れるかどうかも私は疑問だと思う。自分のたとえば何か近しい者が殺された場合に、その犯人が殺された、これで成仏するというような考えは、非常に私は誤まりだと思う。もっとそれよりも、そういう犯罪を全然なくなすというように努力しなければならない。そういう努力は、残念ながら今の日本なんかでは行われていないというふうに考えるので、もちろん殺人の犯罪についてこれを憎む。人命の尊重については、今御説の通り、最も強く考えております。
○中山福藏君 けっこうです。
 それじゃもう一点、広島大学の方に一点だけ簡単にお伺いしたい。
 あなたの結論としてお出しになったものは、教育政策、社会政策によって、いわゆる殺人等の起る根本というものを芟除する、そうすればその方が大事だ、こういう規定を云々するよりも、その方が大事だという御意見だと私は拝承いたしました。そこでお尋ねしますが、ずいぶんあなたの御理想は、極楽浄土の建設という目標なんですね。いわばすべての犯罪に対しては、刑罰なんかは一切要らないような社会を作り上げなければいかんというふうに私ども受けとるわけです。そこで、私がお尋ねしたいと思いますのは、現在のその生活苦に悩んでおる社会、ことに歴史的な観点から申しまして、社会に果して犯罪などというようなものが、その姿を没するときがくるかどうかということは、これば学者として、あなたどう見ておられるかということを私一つの疑問に思う。それから今日世界というものを、お互いに国境というものを厳守しておりまする情勢下において、一国、ことに日本のような人口の大へん多い所では、島の小さい所で、あなたのような理想というものが実現することができるのでしょうか。それ一つ端的に承わっておきたい。これは、教育をなさる立場におられる人ですから、あなたの一言一句というものは、生徒の脳裏に浸透していくと考えますから、一応お聞きしておきたい。現実の社会経済問題というものを抜きにして、そういう理想論で社会がうまくおさまると思われるかどうかという点です。
○公述人(長田新君) 大ていの場合は、現状がこうだから、そういうことは時期が早いとか、こういうふうな論が普通の論であると思うのです。死刑廃止の論のみならず、もう少し一般に、多くの人は、現実のこの状況では、とうていそういうふうなことはできないというふうな論が非常に多いと思う。時期尚早というか。私はそこが違うと思う。なるほど理想の実現ということは、容易ならない努力でもあり、また、かすに年月をもってしなければならないことは私も知っておりますけれども、その方向に向ってこそ最善を尽していくということでなければいけないのであって、現状がどうも人心が腐敗しているから、これはどうしてもひどくやっつけなければならぬというふうな意味の現状論は、私はいけないと思う。私は、理想がなかなか実現できないという困難も知っています。だが、その方向に向って最善を尽すという以外に、私は、われわれの今日の生活も民族の生活もない、こういうふうに、大まかの論ですが、大体の考え方はそういうふうに私は考えています。
○中山福藏君 けっこうです。
○委員長(高田なほ子君) いかがですか、小林さん。
○小林亦治君 簡単でいいですが、小野先生に。
○委員長(高田なほ子君) それでは、これ一問で午前中は終ります。どうぞ。
○小林亦治君 私は小野先生の教え子なんですが、にもかかわらず、先生とは反対なんです。(公述人小野清一郎君「けっこうです」と述ぶ、笑声)私の刑法認識というものは、ひとえに牧野先生、小野先生、両先生の教義、著書あるいは論文、こういうものによって占められておるのであります。いわば刑法認識の母なんでありますが、なぜそれでは廃止論になっておるかと申しますると、一片の感情論とか、あるいは無罰諭に近いようなヒューマニズムをもじったような議論からではないのであります。むろんこれば宗教論からでもございません。それは、あすの社会、将来の世界というものを考えると同時に、われわれの生存の約束ということには、進歩というものがなくてはならない。先生の御議論からすれば、道義的責任をとっておられる先生としては、応報刑よりは、むしろ一般予防の方にお考えの重点を置かれているのではないかと思うのです。
 そこで、先生から念のために伺いたい点は、人間の個の価値よりも法というものは重いのだ、こういう先生の講義内容です。そこで、最高裁の裁判官、これはどなたでしたか、人間一個の生命は死刑よりも重いのだということで、判断のポイントをごく最近に示されているのであります。こういう最高裁のものの考え方というものは、いわば先生からすれば、大いに行き過ぎているように先生はお考えじゃないかと思われる。そこで、前に戻りますが、人間の個の価値というものは法よりもはるかに軽い。法を守る上においては、個の生命が犠牲にせられなければならない。それが道義的責任であり、一般予防への道で、やむを得ない、こういう考えが先生の御思想ではないかと思うのですが、先生のお考えと同時に、この最高裁の、先生から見れば大いに行き過ぎているであろうと思われるような考えに対して、先生の一つ御批判を簡単に願えれば幸いだと思います。
○公述人(小野清一郎君) 個人の生命は地球よりも重い。これはおそらく、それでもなお個人の生命を絶対視する考えであるかどうかは、私は疑問にしております。一体そういう物理的な重さと価値の問題と、これは比喩的にしか受け取れないことでして、一体最高裁がああいう比喩的な言葉を判決の中に入れていいかどうか、私は疑問としておりますが、かりにそれを比喩として、地球というものは、宇宙の質量からいったらほんとうに微小なものです。絶対的なものだったら、全宇宙といわなくちゃならない。だから比喩というものはいい加減に聞いておかなければだめですよ。(笑声)
○亀田得治君 小野さんの方では、誤判ということはどういうふうにお考えになっておるか。私は、誤判だけで死刑廃止の理由に直ちにもっていくということは、もちろん問題だと思うのです。誤判というものはあり得ることだというふうにお考えになっているかどうか。というのは、先ほど安平さんのお話を聞いていると、非常に実際よりも違った高い評価をするというのはかえって間違いのもとだという……。
○公述人(小野清一郎君) 私さっき申したのですが、あなたと意見は一致していると思う。誤判の問題で死刑を廃止すべしということは問題の核心をはずれている。こう申しただけであって、幾らかの理由にはなる。
○亀田得治君 誤判ということはあり得ることですか。
○公述人(小野清一郎君) それはあり綴ることです。人間の裁判ですから。
○亀田得治君 先ほどのお話中で、私若干ニュアンスの聞き方が違ったかもしれませんが、死刑という刑罰を取ってしまうと、刑法の全体が否定されかねないというようなことをちょっとおっしゃったのですが、これは、先ほどの比喩じゃないですがね。少し行き過ぎじゃないかと思いますが……。
○公述人(小野清一郎君) もし速記録を調べてみて、その点があるいは私が言い過ぎておれば、取り消してもよろしゅうございますが、それはたとえば、幾らでも死刑のない刑法がございますから、しかし、何といいますか、刑法というものは、社会教育の私は一つの手段だと考えていいと思う。そういう意味で、教育刑でけっこうだと思いますが、その場合に、さっき安井検事ですか、おっしゃったように、犯人の教育ということもさることながら、社会全体を教育していくという機能を考えなければならぬ。そういう場合に、やはり刑法の全組織というものが役立っておると、こういう信念に立っているわけですね。それをその中に、もしそういう意味で、いわば応報的な苦痛を与えることがいけないというならば、もう教育上はそういうことはかえって人間の心を固くするばかりだというのは、これは人間の心理学的な考察だと思う。それでは刑法をやめなければならぬじゃないか、私は、これは討論会でないから、前の論者に当てるつもりはなかったのですが、多少言葉がそこにわたったのかもしれません。もし行き過ぎたら取り消します。
○委員長(高田なほ子君) どうも貴重な、またまことに惜しい時間でございますが、午前中はこれで終ります。休憩いたします。
   午後一時二十五分休憩
   ――――・――――
   午後二時二十六分開会
○委員長(高田なほ子君) これより公聴会を再開いたします。
 休憩前に引き続きまして、死刑廃止の是非について、公述人の方々から御意見を承わりたいと存じます。
 まず、文学博士東大教授花山信勝さんにお願いをいたします。
○公述人(花山信勝君) このたび、この参議院におきまして、死刑廃止の問題をとり上げられて、これを初めて問題にされるようになりましたことを、まず心から敬意を表しておきます。
 午前中から、それぞれの専門の先生たちが、あるいは法律の立場から、あるいは実際の裁判の立場から、またはこのヒューマニズムの立場からのいろいろの意見が出ましたので、もう私ごとき、法律におきまして全くしろうとの者が申し上げる余地は全くないのであります。このたびここに、公述人といたしまして紹介を受けましたときも、御辞退を申し上げたのでありますが、一般人としてということで、初めてここにお受けをして参った次第でございます。私自身は、専門といたしております宗教と申しますか、仏教の立場から、私なりの意見を一言申し上げておくことが何らかの御参考になればという気持で申し上げる次第でありますが、申すまでもなく、仏教の立場におきましては、仏心というものは大慈悲であるということが説明をしておりますように、いかなる生命、人間はもとよりのこと、小さな一匹の虫に至るまでも、生命を尊重するということは、これは昔からの仏教の立場としておるのであります。従って、私たちの立場からは、当然死刑というような、人間が人間を殺すというような事柄については、全面的にこれを否定するのが、これが当り前であるのであります。わが日本の国に伝教が伝わりましてから、すでに一千三百数十年を経過しておりますが、この日本の仏教の立場から申しましても、インド並びにシナ、中央アジア等には、いろいろの仏教が行われたこともございますけれども、少くともわが日本におきましては、聖徳太子以来終始一貫して、一乗をもってその旨とした仏教であったのであります。一乗ということは一つの乗るものと善きますが、このことはすべての人間、すべての衆生、すべての生命あるものが、ことごとくみなが救われる、仏となるという平等の精神に立脚した教えであるのであります。ところが、同じ仏教の中にも、インドにはこれに対する一つの反対の立場――説も行われたのであります。わが日本におきましても、奈良時代には一つの宗旨として、それを建前とした仏教も伝わりました。術語で申しますならば五性各別と申しますが、五つの性がそれぞれおのおの別々である。こういう意味のことを申しますが、人間は本来生れながら、生れる以前からの自己の本性といいますか、いわゆる生れつきと申しますか、仏教ではそれを業であるとか、あるいは阿頼耶識であるとか、いろいろの言葉で説明をいたしますが、個人々々は生れる以前から本性というものを持っておる。その本性がそれぞれ五通りに分れておるというのがこの五性各別のセオリーであるのであります。そういうことはともかく、このあるいは声聞あるいは縁覚あるいは菩薩というような三通りの定まった、決定された性格のものもあれば、そのいずれにも決定されない不決定の人間もある。さらには、これらの人たちは、何らかの方法によって、後天的な努力修業の結果、悟りへと向うことができるけれども、絶対的に不可能な、その悟りというところへいき得ないところの悪人というものが存在する。これは人間以下の、たとえば仏教の説に従いますれば、地獄とか餓鬼とか畜生とかいう悪の世界にのみしか落ち得ない、そういう根本的な性格を持った一部の人たちがある。そういう無性有情と名づけられる人たちを加えて、ここに五通りのものを人類の中に区別したセオリーであるのでありますが、こういう考え方がどこから発生してきたかと申しますと、それは言うまでもなく、いわゆる人間の現実というものから起ってきた問題であろうと考えられるのであります。いかなる教育方法によりましても、いかなる宗教的感化によりましても、一部の限られた連中は、絶対に善へと向けることができないものがある、こういう考え方であるのでありまして、こういう人類を差別的に考える考え方がインドにおいてすでに起っている。それがシナに伝わり、日本にも伝わったのでありますけれども、そこで、わが日本の奈良時代には、そういう学説が相半大きな力をもって行われたのであります。いわゆる法相宗というような宗は、もっぱらその学説によったのでありますが、ところがその後、平安朝以後の日本の仏教のいき方というものは、すべて一乗という立場をとったのであります。伝教大師にしても弘法大師にしましても、とにかく人類全体が同じ水準の上に一乗でなければならぬ。一人もそこには除外例なく、すべての全人類はことごとく平等にすべて仏となり程なければならないという、術語で申しますれば、仏性とか衆生清浄身とか、そういう言葉で申しますが、そういう立場において、その時代における奈良時代から平安時代に移りまする思想的な、根本に大きな論争が展開されました。ここに新しい日本の仏教宗としてでき上ったのが天台宗なり真言宗であったのでありまして、それが伝教大師や弘法大師によって打ち立てられたのであります。自来鎌倉に興りましたいわゆるいろいろな現在の仏教各宗を見ましても、すべての日本の仏教というものは、ことごとく一切の衆生に対し除外例なく、平等にこれを救うという立場をとっておるのであります。従って、一部のこの五性各別と申します差別的な、人類人間をもともとから差別をして考えるというような、そういう仏教の一部の説は行われずに今日に及んでおるのであります。従って、私たちのこの日本の仏教の立場から申しましても、また、それが仏教本来の立場から申しましても、死刑というような、こういったようなことに対して反対をするというのが、これが理論的な立場から当然であるのであります。
 ところが、いわゆる理想論というものは、死刑の廃止にあるのであります。今日ここに、参議院における一部の人たちによって死刑廃止の問題が公けに取り上げられたということも、この理想論という立場からであろうと思うのでありますが、ただ問題は、この現実をいかに見るかという問題であろうと思うのであります。そういうことは、けさほどからもいろいろとお話がありましたように、今日の社会情勢が、それがすぐさま死刑を廃止して、それでよいか悪いかというようなことになりますと、これはなかなかむずかしい問題になるのでありまして、現在の日本の社会情勢あるいは文化、教育その他道徳等あらゆる面におきまして、それに適当しておるかどうかということは、ここにいろいろ議論の余地があり得るであろうと思うのであります。
 数日前でありましたか、あの新聞に出ておりました記事を見ましても、アメリカのデンバーにおいて、五月の五日にAPから通信された記事でありましたが、定期便航空機においてダイナマイトをしかけて、それを墜落させて、自分の母親とともに、何の罪もない四十三人の乗客を死亡させた。そういう若き二十四才の青年があった。これに対する裁判は、結局第一級殺人罪として、有罪ということであったのでありますが、これに対する陪審員の判決は、死刑を答申したという記録を見ましても、もちろんアメリカの文化水準と現在の日本の文化水準と、これを比較してどうこう申すわけではないのでありますが、ともかくこういったような凶悪犯人というものを世の中からこれを絶無にするということは、やはりなかなか困難なことであろうと思うのであります。
 ここに先般、参議院から回送されましたいろいろの膨大な資料があるのでありますが、私はできるだけ全部の資料に目を通してみたのでございますが、その二十二番目の資料を見ましても、わが国の死刑という問題において、死刑の対象は、主としてそれは強盗殺人犯、いわゆる凶悪犯人である。しかも、実際に死刑をされたのはその半数足らずであるという結論が出ておる。昭和二十年には、大審院の判決において十八人であったのが、いよいよ実際執行されたのが六人、あるいは昭和二十四年に七十五人大審院の判決であったのが、実際に執行されたのが三十二人であるというようなわけで、先ほどからこの判決に、最高裁の検事の安平さんの説にも見えておりましたように、実際死刑の執行というものはそうたくさんはないのだというようなことも申しておられたのでありますが、私自身の個人的な立場からの結論を申し上げますならば、死刑に関する条文というものは、今にわかにこれを削除する必要はないのではなかろうか。ということは、条文を置くことによって、それが凶悪犯の抑制力となるということは、確かにこれは一般の人たちが認めるところであろうと思うのであります。ただ、その死刑の条文を残して置くから、それをそのまま実際に適用しなければならないという道理はないのでありまして、その適用は、きわめて慎重にこれを用いていく、こういうところにおきまして、現在は、理想的にはもちろん死刑は廃止すべきであるけれども、実際問題として考えたときに慎重にものを考えたときに、条文は残すけれども、なるべくこの死刑の執行、これを減少せしめていく。いよいよわが日本の文化、社会の全体が死刑の必要がなくなったときにおいて、この法文は空文になってしまう。そのときになくしてもいいんじゃないか。従って、私たちの今日における努力は、条文の廃止ということよりも、むしろこの死刑をする必要のない文化社会の建設、そういうところへお互いが努めていくというところがむしろ急務であるのでなかろうか。ここに、いわゆる先ほどからのこのヒューマニズムの立場から死刑の廃止を主張しておられる人たちの意見も大いに聞くべき意見があろう、こういうことを私個人として考えておるのであります。
 以上、意見を申し上げまして、責任を果したいと思います。
○委員長(高田なほ子君) ありがとうございました。
  ―――――――――――――
○委員長(高田なほ子君) 次に、日本キリスト教協議会議長小崎道雄さんにお願いをいたします。
○公述人(小崎道雄君) 私も、この法律に関しては、全くのしろうとでありますけれども、わざわざ招待されましたわけは、私のようなものの意見を聞きたいという皆さん方の御希望であったと思いますので、私の考えておることを簡単でございますが、率直に申し上げたいと思います。
 まず第一に考えたいのは、死刑というものが罪悪に対する罰であるという考え方でありますが、これはまあ因果応報というような言葉もありますように、悪いことをすれば必ず悪い結果がある。そして殺人のごとき極悪なことをした者は死刑にされるのであるという、いわゆる原因があって結果があるという意味における死刑の存続でございますが、これは現在、国家の権力において死刑を執行するわけでございます。しかるに私は、この考え方を社会の立場から考えますと、今日の新憲法によりますならば、主権は在民でありますから、国家は私どもにかわって、国民にかわって人を処刑するということになるのであります。そういう意味において、私ども国民すべてが責任をとらなければならない問題になります。それでありますから、死刑のごとき人を殺すというようなことは、基本的な最も道徳の重大な問題でありますので、それを国家の名において行うということに私は非常な疑問を持っております。それで、これは国民の教育上決して効果的でないと思っております。
 先ほどもいろいろとお話がありましたが、死刑というものがなくなれば、犯罪がふえるかどうかということは、これは非常にむずかしい問題ですが、私の考えは、そういうことで増減はしないと思います。いずれでありましても、ほかに原因があるのであって、そのことだけでは犯罪の増減ということにならないと私は思いますので、この際これを廃止することを私は賛成しておるものでございます。
 次のことは、刑罰は一般の社会道徳維持のために行われるという説でございますが、広い意味の社会教育上死刑が必要であるというこの考えでございますが、これは、私は先ほども申しましたように、たとえ国家の名においても、最大の罪悪である人を殺すということを是認するということそれ自身がすでに大きな問題でありますので、社会教育上も死刑を廃止した方がいいのであって、死刑を継続し、存続しておくということは、社会教育上も望ましいことでないと信ずるのであります。
 そういうふうな二つの理由から、この死刑廃止に賛成するものでございますが、私が最後に申し上げたいのは、国民生活というものは、非常に多岐にわたった複雑な生活でありまして、申し上げるまでもなく、法律だけで律せられるものではありません。でありますから、私が申し上げることは、政治家とか、あるいは法律家とかいう局限された人々のことを申すのでなく、国民全般に、いわゆる良心教育と申しましょうか、私どものキリスト教からいえば宗教教育、そういうことが国家全体にもう少し徹底的に行われることがこの死刑廃止を実現して有効ならしめる基礎的の問題であると思います。人は見ておらなくても、神様は見ていらっしゃる。人が知らなくても、悪いことをすれば悪い結果があるというこの基本的な信念、信仰でございますが、これは私自身正しいと思いますし、また大多数の人類はそれを信じておると思いますが、このことを、私の希望は、もう小学校から大学に至るまで、国家の教育機関において、良心というものは背後に一つの信念を伴わなければその機能を発揮することができないという、今日宗教学あるいは心理学で明らかになっておりますようなことを実行したいのであります。この点、先ほどもお話がありましたが、欧米でもキリスト教の教育が相当普及しておるために、日本ほどこの問題について心配がないというお話がありましたが、まことに私は遺憾なことであると思うのは、日本では、ただに良心教育の意味における宗教教育を認めないばかりでない。むしろこれを無視して、そうしてこれを嘲笑に付するような唯物的な考え方が今大多数の国民を支配しておるのであります。でありますから、これを逆に申せば、死刑されるような重罪を犯す人が起ってくる原因は、むしろこの無神無霊魂、良心の存在を認めないばかりでなく、良心の背後にある、これは、本能という言葉はよくありませんが、本能たらしめる存在を否定しておるところに問題があるのであって、いかに刑法を変えましても、この問題について何らかの処置、方法がとられない限り、私はこの死刑廃止ということもその目的を達しないと思うのであります。それでありますから、これはこの委員会だけの問題ではなく、特に文教委員会その他、経済問題ももちろん伴いますが、特に文教及び法務委員会の非常に研究しなければならない重大な問題であると思います。
 今日、法律の上では、人権尊重というようなことを申しますけれども、なぜ人権を尊重しなければならないかという根本的な真理に対する解明というものが十分に行われておらないと思います。社会教育的に行われておらないばかりでなく、基本的な国民教育の中にもただいま申しましたような問題を取り扱っておりません。これは、私の聞きましたところでは、日本には宗教がたくさんあるので、宗教というものを取り扱うことができないのだという今までの立場でありますけれども、私はまあそれはそう思いません。私の意見は違います。宗教がたとい多数あっても、これはむしろ宗教のためにも、良心の機能を発揮させるがごとき宗教でなければ、社会風教上その布教そのものが問題になるのでありますから、私はむしろこれは広い意味の宗教という意味において、目に見えない存在者がおられるために、どんな小さいことでも、悪いことをすれば悪い結果があるのだという基本的な人生の真理ですから、この真理を明らかにすることが非常に重大な問題になってくると、こう思いますので、何らかの処置がとられなければならない。これは、今日のこの委員会の直接の問題ではないと思いますけれども、私は、最後の意見としてそれをつけ加えておきたいのです。
 もう一つのことは、これも同じような関係でありますが、今日、先ほど申した通り、主権在民でありまして、国民共同の責任において刑法を維持していくんでありますから、犯罪者があるなら、それは私自身の問題である。国民全体の問題である。その人だけの問題でないという連帯責任の教育と申しますか、共存共栄の人生観と申しますか、そういうものがやはり国民の間に徹底してこないならば、この問題を根本的に解決できない。すなわち自分の家庭の一人として犯罪者を少くとも見るようになってきて、犯罪者が出ることは自分自身の及ばないためであり、あるいはいろいろなあやまちの結果であるということに気がついて、そして反省するというふうなことになってこなければ、この犯罪の問題、ことに死刑に処せられるような重犯罪者はその跡を断たない。たといこのようなものが普及しても、欧米の諸国でも死刑に処せられるような人が起るぐらいでありますから、そういうものを全然無視しておるような現状において、幾ら法律を改正いたしましても、そう簡単に日本のこの犯罪状態が改善されるというようなことは、私はとうてい期待できないと思うのであります。そういうわけでありますから、この問題非常にむずかしくなるのだと思います。国民全体の問題であり、国民全体の教養と申しますか、その人生に対する考え方及び人権の存在に対する連帯責任、そういうような問題がもう少し一般国民に普及するように指導していただかなければ、このせっかくの死刑廃止という希望すべき現状が現われましても、十分にその効果をあげることができないように思います。そのことを私は確信して疑いません。
 大へん簡単でございますけれども、私の感じておりますことで、死刑廃止は速刻行うべきであるが、これに付随すべきさまざまな施設、方法を軽んじておっては、せっかくのいいことも、その実現はむずかしいということをつけ加えて、おしまいにいたします。(拍手)
○委員長(高田なほ子君) ありがとうございました。
  ―――――――――――――
○委員長(高田なほ子君) 次に磯部さんにお願いいたします。
 ちょっとお発言に先立ちまして、特に磯部さんにごあいさつ申し上げます。先には、去る一月の十八日心ない者の手にかかり、一時に最愛の奥様と御令嬢を失われまして、家庭の光を失われ、まことに御傷心のほどお察しするに余りあるものがございます。こうした御傷心のあなたをこの席上にお呼び申し上げることは、まことに心ないわざとお考えになるかもしれませんが、磯部さんには、恩讐をこえられて、人命尊重のためにあくまでも戦い抜くという固い御決意があられることに、われわれ委員会としては深く敬意を表するとともに、本問題について御体験を通されて、るる御意見を拝聴したいという考えがございまして、お願いを申し上げた次第でございます。
 私は、委員会を代表いたしまして、時宜を得ないかも存じませんが、御家族の御冥福をお祈り申し上げるとともに、この犠牲が大きく日本の前進のために役立たれますことを衷心よりお祈りいたしまして、御発言をお願い申し上げたいと存じます。
○公述人(磯部常治君) ただいま委員長から、まことに厚いお言葉をたまわりまして、ただ感無量、ありがたく拝聴いたしました。ただ、その被害者の地位を忘れて、死刑廃止賛否の問題について所感を申し上げようと思います。
 この問題につきましては、午前中からただいままで、各皆様が意見を申されたのでありますが、私その要旨を鉛筆でとりますのに、ほとんど私の言わんとするところは、もうりっぱに言い尽されておるので、私は今さらこれをちょうちょうと申し上げるまでもないと思っております。抽象的に申しますならば、私はやはり死刑廃止に賛成なんであります。廃止論者なのであります。これは、先ほど委員長のおっしゃった一月の妻子の、私の被害者の立場、現実に被害者の立場になった、その身になっても、なお私は死刑は廃止すべきだという論なんであります。
 なるべく重複を避けまして、所感を簡単に、一言申し上げたいと思います。
 私は、そもそもこの死刑廃止賛否の問題は、人の生命とは何ぞやと、しこうして人の生命はいかに高貴、尊く、尊厳である、この認識が深ければ、人の生命を断つということは起らない。もしもそれを犯す人があるのならば、それは精神上異常のある欠缺者であると、私はこう思うのであります。今さらその生命の何たるや、尊厳さについては私は申すまでもないと思いますが、私は言葉をかえて申しますと、私自身がここにこうして息をして生きているという、この生命の本質は、何とかして生きていこうという力がこの体内に存在しておる。この力が生命である。そしてその力はどうかというと、いうまでもなく、私の父母、祖先から受け伝えられておる。同時にまた、同じ子孫を私は生み育てる力を私自身が持っている。同時に横の面においては、これは社会の一員として、国家の一員として、人類の一員として、いかなることもなし得る力を私は持っている。これは決して他人が持っているのじゃない。私自身が持っているのであって、また同時に、私でなければその力は持っていないのだ。いかにその尊いかということは、身みずから反省して考え得られると思うのであります。同時にこの私自身の力は、生命は、社会、国家、大きくいうならば人類の一員としての資格も、社会的生命、いわゆる他動的力とでも申しますか、そういう力を自分は持っているのだ。これまた、いかに尊きかが自覚できると思うのであります。同時にこれは、老若男女、善悪、その人種のいかんを問わない。いずれもその人として平等に共有しておる力、すなわち命であると思うのであります。かく考えていきますと、簡単に人命は尊い、尊重すべきだと申しますが、とうていよく。みずから反省して、自分の生きておることの力、姿を見ますと、言葉をもって尽し得ない。高裁の判例には、人の生命は全地球よりも重しという言葉を使われておりました。その判例がありますが、私はそれどころではない。宇宙を小さく縮図した生命がすなわちおのれであり、自分の姿である。ここまで考えていいではないかと思うのであります。たとえていうならば、太陽の縮図は自分であるとも考えられると思うのであります。私が洗濯をして干しておけば、太陽は一生懸命かわかしてくれるなどと考えますと、むしろ太陽即自分である。これは少し一面から、宗教的にもったいない言葉かもしらんけれども、そういう言葉はただ考えられる。ゆえに人間、生命、生きる力、生きんとする力の尊さは、とうてい筆舌をもって尽し得ない尊厳さがあると思うのであります。こういうことから考えてみますと、人の命を殺すということは、もとよりなしてはならぬことはいうまでもないことなんであります。私は、自分みずからが自分を殺す自殺でさえも、これはしちゃいかんじゃないかと思うのであります。ゆえに刑法上におきましても、自殺を幇助したものについては、処罰の規定さえあるくらいであります。この尊い生命は、自殺といえどもしてはならない。なぜならば、自分の生命を断てば、その子孫に生命を伝えることができなくなるのであります。これを考えた場合に、自己の絶滅、人類の絶滅という工合に考えていくと、自殺といえどもしてはならないという尊さがあると思うのであります。いわんや他人の生命を奪うにおいておや。そこで問題となるのは、国家の権力、法律をこしらえて、法律によって人の命を殺害する死刑ということについて、しからばどうかということがすなわち死刑廃止の是非論だと思うのでありますが、これは、国家の権力といえども、各個人々々の集まった社会、国家というものが権力的に法律というものをこしらえて、法律で処罰するのであって、もとをただせば、やはり各個の意見が主となるのであります。私は、これを区別する必要はない。国家の権力といえども、今申し上げました高貴、尊厳であるところの人の生命はどこまでも殺してはならぬというのがほんとうの人類であると思うのであります。
 もう一つ、そこで私の廃止の理由は、人が人の生命を断つということは、唯物的に考えれば、肉体という存在があるわけです。精神的には、中に見えない力というものがそこに生きて働いておるのであります。これを二つに区別して考えましても、すべてその力によって現われてくるところの行為、動作については、必ずこれは反射作用がある。先ほど来聞いていますと、反能という言葉を前のどなたかおっしゃったのでありますが、そういう言葉がいいか、私の申し上げる反射作用という言葉がいいか、これは私は、どの説が適切か、まあ著書によってこれを知ったのじゃありませんが、私はよく研究し考えますと、必ず反射作用がある。これは、物理的には反射作用があることは、今さら私がここでちょうちょうと申し上げるまでもないことであります。そのもののうちに潜在するところの目に見えない一種の力、いわゆる基本的な生命、基本的な動かす力、これを他動的に殺害した場合に、精神的な反射作用があるや否やという問題、これは私は、私の経験その他から見れば、必ずあると思うのであります。どういう作用になって現われてくるかというと、人を殺せば、殺された者はもちろん恨みます。残りの被害者も恨み、生命を断たれたその形は、息が絶えて、死というものになって動きませんが、そこから離れたところの一種の力、人間の力をもって見えない――私はこれを見えると称するのでありますが、一応見えない生命の基本的な力、生命というものに対しても、やはり反射作用が起るということが、今まで申ししげられた方とちょっと私の理由が違っておるのであります。それは、どうしてそういう作用が起るかと申しますと、人が人を殺す、殺した方からいいますと、殺したことについていいか悪いかということを判断する良心があれば、残虐性の行為をもって殺すべからざるものを殺した場合に、必ずそこに反省するという反射作用がこの殺した人にすでに起っておるのであります。これを被害者の立場から申しますと、漢文では九族とか申しますが、殺された方の親族あるいは知己その他の社会に対しては、殺されたことによって怨恨とかあるいは利害関係があるならば、殺した人を恨むという、こういう反射作用が起っていくのであります。そこで、そういう反射作用を起すことを国家の権力、死刑によるといえども、殺した場合には、さらにその反射作用によって起る反対の力というものは、さらに殺した人を恨む。不愉快に思う、あるいはもう一歩進んではあだ討ちするという反射作用が、かたき討ちとか復讐とかいうことになってくる。これをさらに繰り返し繰り返ししていくと、ついにはそれが集団的になれば戦国時代を惹起するようになる。同族同士で戦国時代を惹起するようにもなれば、その国家的な、国家と国家でそういう恨みというものを持つようになれば、ついに戦争というものに飛躍することになると思うのであります。これはある著書には、そういう反応が集団的な精神作用、魂とでも申しますか、繰り返されるのがすなわち戦争というものになって現われてきておるのだということを実証した著書も見たことがありますが、私は実は精神方面の動きについては霊媒関係の研究を医学博士その他とやったことがあるし、またその実験もしたこともありますが、これは一種不可解な力があるのであります。動きがあるのであります。反射作用があるのであります。と申しますのは、こう説明したらばおわかりじゃないかと思うのであります。今、ここに見えない声、見えない影が存在しておることば、これは何人も否定はなさるまいと思うのであります。たとえば、ラジオ、ラジオが放送されてあるならば、すでにここに見えない声があるのであります。テレビが放送されているならば、ここにその姿が飛び回っておるのであります。ただ、その受信機のいかんによって聞えるか、見えるかというに過ぎないのであって、その受信機さえ、スイッチさえ入れれば聞え、かつ見える。すでに科学はそこまで進歩しておる。科学がそこまで進歩しておるということをはっきり皆さんが是認されれば、幽霊というものも人間の魂、声というものも必ずわれわれの肉眼をもって見えない以外に潜在しておるということは、はっきり立証できると思うのであります。あるいはこの力を細分していけば、原水爆の元素がすなわちそれなんだということも私は言い得るのじゃないかと思うのであります。そういうものの反射作用があるということを考えた場合に、生きていきたいという人間の命を、いかに国家の権力といえども、これは殺害してはならないということは是認するのが当然だと私は思うのであります。こういう意味から、私は生命の本質を分解していけば、そのおそろしい反射作用によって、決して人の生命は国家の権力による法律というものによってもこれを殺害してはならぬということが是認されるわけであります。ただ論じられるのは、その基本的な力によって現われる人間の行為、この行為というものと生命、基本的な力、私はそう言いたいのでありますが、生きんとする力というものを混同して考えると、その現われてくる行為が残虐であるがゆえに、残虐な行為は社会秩序を乱し、社会の公共福祉にも反するから、これは法律をもって死刑にすべきだと、こういう論があるのでありますが、私はそれは大きな誤まりだと論断するものであります。なぜならば、従来各員から論じられた通り、人間にはそれぞれの現われてくる行為がある。その行為は基本的な生命というものの力から出てくるのであって、その行為は自主的に出てくる場合もあれば、社会文化がこの程度進歩しておる今日においては、むしろ社会意思、社会的方面から人間の行為というものは現われてくる。同時にまた自然的な環境からもその人間の行為というものは現われてくる。行為に現われてくる。その行為として現われてくる行為のもとであるところのもとの生命というものは、私は厳然と区別して考うべきだと思うのであります。そこで現われてくる行為が残虐行為であるとか、あるいは善なる行為であるとかいうことによって、基本の力、基本的人権、基本的生命を抹殺するということは、あたかも人類が自分たちを自殺、滅ぼしてしまう結果になると私は思うのであります。その行為の、善なる行然をなすものがあれば、あるいは悪なる行為をなすものもあるのでありますが、その残虐な行為は、これはこれこそお互い人類の力、ともに生き、生かし合っていく相反した人の力、それを大きく言うならば、国家社会の力、それこそ国家の権力をもっていかようでも処置できると思うのであります。その処置できることを忘れて、ただ残虐によって人を殺した者を殺してしまえばそれでいいんだというような考えは、その言葉は少し言い過ぎかもわからぬが、高貴なる人命、人権の高貴、尊重しなければならないということを忘れた考え方であると私は思うのであります。ゆえに残虐的な行為は、それこそ先ほど来申された通り、宗教、教育、社会施設その他の環境によってこれは防止することが十分できる。そういう犯罪は、そういう環境その他他動的行為によって犯罪というものは生ずるのだということは、今までのお説きになったことでよくおわかりであろうと思うので、私はもう申しませんが、全くその通りだと私は思うのであります。
 次に、この法律というものが、威嚇的な、予防的な効果があるものである。ゆえに人を殺した者は死刑に処すという法律を存置しておかなければいかぬ。こういう説があるのでありますが、私は、少しこの点は極端に論じてみたいと思うのであります。法律効果がいかにしてあるか、議会で立法して、それを公布すればそのまま法律効果が一体あるのか。言うまでもない、法律を作って、六法全書を作っておいたって、何ら効果はありやしない。その法律を遵法する精神があることによって、初めて法律効果が出てくるのであります。かく論じますと、どうしても法律はどこまでも尊重しなければならぬという人間の倫理、道徳観念を高揚せしむる環境、施設、あるいはこれに関する法律というものを、私は宗教、演劇、映画、そういう方面に力を用いて、国家がその育成に努めたならば、必ずや法律効果は自然に出てくるのであります。また逆にそれをやらない限り、幾ら法律を作っておったって犯罪は幾らでも出てくる。私は法律というものをかく考えるのであります。これが弁護士を数十年やっておりまして、まことに実際体験することが多々あるのであります。今においても、民事事件といえども、刑事事件といえども、法律があるのにかかわらず、腹が減ったから盗む、盗むということと、盗まないということは、法律があるがゆえに盗まないのじゃないのです。生きていかれないからつい盗む。生きていかれないから払うべき金を払わない。こういう行為、そのもとには生きていかなければならぬという基本的な生命の維持ということが、それが維持されるかされないかということが基本的になっておる、そこへ力をいたさない限り法律効果は私はないと思います。むしろ私は死刑に処するという法律あるがゆえに、証拠があれば有罪だが証拠がなければ無罪だ、この法律あるがゆえに逆効果を生じて、この頃の残虐犯人は、人を殺す前からいかにしたらば証拠があがらないだろうかということを考えて行われている犯罪がむしろ多いのじゃないでしょうか。自動車の運転手の強盗殺人のごとき、運転手を殺してしまえば何ら証拠はあがらない、だから運転手を殺して金をとる、五百円か千円と生命と交換して平気でやる、同時に人を殺したり、自分を知った者がなければ自分は殺人の罪に問われないから、証拠隠滅のためにまた人を殺す、むしろこれは法律あるがゆえにだと思うのであります。そういう工合に考え論じていきますと、法律の存否によって必ずしも残虐行為が行われるかいなかということは、決してきまらないと私は思うのであります。同時に誤判による死刑執行が取り返しのつかない不正義な、国家的罪悪行為であることはこれはもう言うまでもないことで、先ほど来誤判があったかなかったかということは論じられておるのでありますが、今の法律のような証拠さえあれば常に有罪である、証拠さえなければ無罪になるんだという法律制度の下においては、かえって法律によって法律に合うように証拠を作り上げるというような人権侵害行為が起らぬとも限らない。いな、むしろ新聞紙上でもそういうあやまちがあるのではないでしょうか。私は考えられるのであります。その他被害者の立場から、被害者擁護の意味においてということが考えられるのでありますが、私は少し人間が変っておるかしれませんが、私はこの被害者として、一月、本当に苦しい心痛な立場に立ちまして、さらに犯人が過去を悪かったとみずから本当に反省するのならば、死刑にする必要はない、死刑にするということはむしろ反射作用を起すぞと、私はこう言いたいのであります。と申しますのは、もしもあの犯人が死刑にされた場合には、これはもとより本人は生きていきたいということを前提とするのでありますが、みずから死にたいというやつは、これは自殺しようとどうしようと自分の生命を自分で処理するのでありますからこれはまあいいとしまして、本当に生きていたいというのに国家の権力、法律をもって死刑にするという死刑の言い渡しをした場合には、さらに彼にも両親があるはずであります。兄弟もあるはずです。なお同時に九族もあるはずです。同時に彼には彼としてまた仲のよかった共犯者も、昔の兄弟分もいるかもしれません。これらの者が私と同じような苦しみをさらに抱くであろうと考えた場合に、そういう苦しみを私は人に与えるという気にはどうしてもなれません。別に喜ばせる気持はありませんが、殺されたその被告の、死刑にされたその被告の両親の気持は私と同じであろうと思うのであります。悪いことをしたから殺されるのだから私はいいですと、快く彼が自殺するのならばそれは私はあえてとがめませんが、被害者であればあるほどこういううき目を二度と繰り返すということは、私はしてはならぬ、したくない。こういうことが繰り返されてついには戦争というようなものが起きるようになる。原水爆を人を殺すために使うというようなことが起るような、反射作用が米粒万倍で大きくなった場合には一体どうなるでしょうか。米ソ戦争が起ったらどうなるでありましようか。日本の九千万人が窮地に立たされるのじゃないかと、何かしらぬが連鎖的に即座に私の頭に浮んでくるのであります。かく考えた場合に、この生命を軽んずるということが、他動的に人の生命を断つということは決して人類はしてはならない、いわんやわが民族においておやということを私は痛感するのであります。こういう意味から考えましても死刑はしてはならぬ。
 もう一つ私は考えるのであります。今や私の生命は私あるがゆえにあるのではなく、国家、社会、日本民族とともに私はあると思うのであります。これからの人間の生命は自分だけの生命だというふうに考えるのは大きなあやまちだと思うのであります。自分の生命は即妻の生命であり親子間の生命であり親族の生命であり社会の生命であり国家の生命である。もっと大きくは世界人類ともに生きる生命でなければならぬと考えなければいかぬと思うのであります。かく考えた場合に生命を軽んずる日本民族であるということになった場合に一体どうなるかということを考えますと、少くも国際間においては各国が日本民族は非常に人の生命を軽んずる民族で、殺せば殺すというような、自分の命を賭けて戦ってくる民族だという認識を得た場合に、日本民族の国際場裡における国交関係その他を考えて一体生きていく道がありましょうか。日本民族が日本民族だけで生きていくということは絶対にないのであります。今の自動車といえどもガソリンがなかったら動けなくなるじゃありませんか。かく考えた場合に、人類はともに生きる。こう考えると、私は日本民族は人間の生命というものは決して断たない、いかようなことがあろうとも生かし合う、生かしていく思想を持ったりっぱな民族であるという襟度をここに示さない限り、私自身の生命もなくなるという結果になると私は大きく考えたいのであります。かつ個人的な小さい生命の高貴尊重ということから考え、その生命は断ってはいかぬということから考え、法律をもってしても死刑にしてはいかぬということを考えますと、私はどこまでも日本民族は一日も早くいかなる残虐の行為をなすも生きていきたいという被告に対しては、死刑にしてはならぬというこの法律改正が先決問題だと私は思うのであります。行為に対する善導の道は、私は府中の刑務所を一カ月以前に見学してきたのでありますが、今の殺人犯行のごときを少くするのは、やはり強盗殺人のごときでありますが、一体行刑制度はこれでいいのか。むしろ行刑制度が悪いために殺人犯を門から外にばらまき、ばらまかれた悪性の人間が実は殺人犯を繰り返している。私はこの点を詳しく実は述べたいくらいであります。私の行刑制度を見た実感から、これが違うかどうかは別でありますが、一言に申しますと四千人からいる刑務所のうちで、裁判所は二年とか三年とか十年とかという刑を言い渡すわけであります。いやしくも、本当にその人間が基本的生命から現れてくる自分の行いを悪性の残虐行為をなす性格を持った者が刑務所へ預けて直りっこないと言っているのであります。私は実際そうだと思う。二年たったからそれですっと善人になって門から外へ出ていくということは考えられない。ほんとうの例外に過ぎない。そうすると、悪性の者を二年なら二年、三年なら三年の刑が終えたら出さなければならないから、所長が刑務所の門から外へ出す。出した場合にどうなるか。すぐかみつくより方法がないのです。まるで動物園のヒョウかトラを動物のおりから出すも同じようなことです。この行刑制度、同時に刑を終った後の、いわゆる救済制度というものがないために、銀座のまわりにうろうろして前科者が歩き回る。これが生きていかれないから人の命なぞはかまわずにかぶりつくというのがすなわち銀座の殺人行為になって現われてきておると私ははっきり言えると思うのであります。もとよりただ強盗殺人のみが死刑廃止の根本のみではありません。国家を転覆する行為とかいうようなもっと大きな問題もありますが、それにしても国家の権力が強いというならば、国家の政治というものがよろしきを得ればそういう事件は起らないはずなんだと私は思うのであります。ここに反省する必要が大いにあると思うのであります。
 結言を申しますと、ただいま申し上げましたような理由によって、人として生きたい者は、これは必ず生かしてやらなければいかぬ。決して殺してはいかぬ。人の生命はそう他動的に殺さなくても自然と死ぬようにできておるのであります。というようなことから、文化的国際人とならなければ私初め日本民族は生きていかれないということをかんがみた場合に、早く人の命を断つというような死刑制度は範を示して廃止すべきだということを痛感するものであります。また同時に、基本的な生きる生命力から現われてくるところの人間の行いがいいとか悪いとか申しますが、それが悪い邪性の行為であるのならば、それを指導するところの善人は、それがそういう行為をなさないように導いてやる。すなわち善人は悪人を悪い行為をなさないように導くし、知者はおろかな者の足りない知識を補って事なからしめるというところに初めて善人の善人たるゆえんがあり、知者の知者たるゆえんがあると私は思うのであります。かく論じますと、むしろ残虐な行為をなして人の生命を断つような行為をなさしめるのは、善人の、知者の責任だと私は言いたいくらいであります。
 実は事私の事件について私は研究し、考えたのでありますが、もとより犯人別府は悪い、悪いがあの行為をなさなければ生きていかれないというあの犯人を作り上げたのは一体どうしてであろうかと考えた場合に、十年前、十七、八ころに日本が戦争をして、彼に殺すことを一生懸命教育し、ほんとうの生きる道を教育しなかったところに誤まりがあると思うのであります。同時に一体あの両親はほんとうの親としての愛を彼に注いだかどうかということを私は疑うものであります。社会はもとより彼が就職して金をもうけて生きていきたいと思っても、いわゆる就職させてくれなかった、前科者であるがゆえに。こういうところに多く原因があり、いわばあらゆる生きんとする愛に捨てられたということが彼があの犯行をなした原因であると私は何度考えても思うのであります。こんなような意味から、殺されてしまった今日においてこれを論じますと、私は、生きていきたいという犯人は、これは法律の力といえども、国家の権力といえども、その命を断ってはいかぬ。反射作用が起るからということが私の死刑廃止の理由なんであります。はなはだ簡単でございますが。
○委員長(高田なほ子君) ありがとうございました。
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○委員長(高田なほ子君) それでは最後に一般から募集されておいでになりました吉田晶さんにお願いいたします。
○公述人(吉田晶君) 私は一会社員でありまして法律にはしろうとでありますが、先日新聞紙上でこの公聴会の記事を見まして、しろうとの私ではありますが、何か死刑廃止是否の問題は法律を越えた根本的な問題があるし、国民としてある程度の意思表示をする責任があるんじゃないかというような考えから、もっとも出席することまでは考えていなかったのですが、意見を書きまして提出しましたところ、しゃべるようにということで、しばらくの間意見を申し上げてみたいと思います。
 私、最初ほばく然と反対の感じをもって机に向ったのでありますが、書いていきますうちにいろいろの思索をめぐらして進んでいきますと、でき上った文章は死刑廃止であるというふうになってしまったのであります。結局国民はこの考えを真剣に進めていけば今、死刑廃止を反対であるという人も、もう一歩進んで考えると賛成意見になってくるし、それがほんとうではないかと考えております。それからいただいた参考資料を読みまして、その中に憲法第二十六条で残虐刑を絶対禁止しておりますが、死刑は残虐刑であるというふうな控訴に対して、最高裁判所で死刑は残虐刑ではないという結論を出した判例を見たのでありますが、その判決理由の中に国民感情が死刑が残虐であるというところまでいっていないということでありまして、国民感情として死刑というものが残虐であるというふうになれば、当然この刑法その他の死刑の問題もまた再検討さるべきであるという文章を見ましたので、私も納得がいったのでありますが、従って私の申し上げることは、要するに法律を知らない一般国民の感情というふうなつもりで述べてみたいと思います。法律解釈は専門家がすべきでありますが、私たちのしろうとでも死刑の問題を考えますときは、一応憲法や刑法などは目を通してみる必要があるので、初めてそういうものを見ましたが、それについて私のしろうととしての考えもあるから御参考になればと思い申し上げます。
 大体犯罪のない社会というのは人類最高目標の一つであると思いますが、この死刑廃止是否の問題がこれに連なるものであるし、また長い間世界の各国で論争されているのも、これがその一国の刑事政策の一大改革であると同時に、社会政策として社会改革として大きな影響を持っておるからであると思います。死刑は古く原始社会に発生したところの復讐的な追放的な思想を含んだ刑罰であると思うのであります。それは権力と独断が横行した社会に発生した刑罰であると思います。一国の王様がかわった場合、前の王様が死刑になるというふうな、いわゆる権力と独断が横行した時代に発生した刑罰であると思いますし、それを今日まで用いているという点、しかもわが国では、犯罪者に対していわゆる刑務所、少年院というものを建てて、一応教育刑主義の考え方からこれに矯正教育というものを施している、そうして一人でも多くの更生者を出して、社会に復帰させようという政策を国としてとっておるのでありますが、死刑を執行することによって、その犯罪者の更生の道を、その生命の剥奪によって断ち切ってしまうという刑罰、原始社会以来の報復的刑罰を実施採用しているということは、片方では教育刑主義の政策をとりながら、これはわが国の刑事政策上の大きな矛盾ではないかと思います。それからまた現行刑法とかその他の刑海法を見ますと、死刑をもって処断される犯罪は、同時に無期刑をも規定されております。このことは、すなわち同一内容の犯罪に対して、犯行当時の情状などによって、死刑を課せられるときもあるし、無期を課せられるときもあるということであると思うのですが、生命の剥奪を内容とする刑罰と自由の剥奪を内容とする刑罰とが、同列に論ぜられておるということ自体が、重大な誤まりであると思いますし、また情状によってどちらかに判決されるということは、すなわち死刑制度の持つ残虐性と危険性をうたっているものと解釈するのであります。すでに少年法においては、死刑をもって処断すべき犯罪はこれを無期とする、また今回提出されておる少年法の改正案は、その下をいっておりますが、このようにして同じ残虐の犯罪に対して、その実行者が少年の場合は無期による、いわゆる教育刑主義による刑事政策を実施し、成人の場合は原始社会以来の死刑を課するという制度には納得がいかないのであります。死刑制度の全面的廃止によって矯正教育を施して、少しでも多くの社会適応性を持たして受刑者を社会に復帰させていく方向に、強力に押し進めていくべきだと思うのであります。
 一部しかし死刑廃止反対の論者の言うことは、結局その結果、凶悪な犯罪の発生を懸念する人が多いのにあると思います。終戦当時の混乱期ならともかく、今では一応社会が安定の上に立って生活していると思いますし、また不可抗力による犯罪というものがあるとすれば、これは死刑制度の存廃には無関係だと思いますし、あるいはまた、生まれながらの生来性犯人という考え方を持ってきましても、私は死刑制度の存廃には無関係だと思います。それにもまして、死刑廃止による社会的影響は、文字通り生命の絶対尊重として、人々の心に強く深く刻まれるのであって、命を粗末にする考え方と犯罪を、次第にこの社会から駆逐ができるものと考えております。
 死刑の廃止が一日早ければ、それだけ早く人類最高目標への一歩を踏み出すものであり、また生命絶対尊重の思想が、民族として残虐なものへの忌避となり、それから戦争を捨てた強い平和へのあこがれを、一そう確固たるものとすることができる点において、また日本民族の平和精神を海外に実証することができる点において、死刑の廃止に絶大な賛意を表明するものであります。終り。
○委員長(高田なほ子君) ありがとうございました。
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○委員長(高田なほ子君) 以上で公述人からの御意見を終りますが、御質疑がございましたなら、御発言をお願いいたします。――ございませんか。
○羽仁五郎君 最初に小崎さんにお尋ねしたいと思いますが。
○委員長(高田なほ子君) 小崎さん、どうぞお願いいたします。
○羽仁五郎君 大へん申しおけないのですが、私、遅刻して参りましたので、最初の御論旨をよく伺っておりませんでしたので、その点、なんでございますが、午前中の皆さんの御意見を伺っておりましても、絶えず法律というものと宗教というものとは密接な関係に置かれておる、御意見の中でもそう思う。それで、その点に関して、どうも厳密にどういうふうに考えていったらいいのかということがあるのでありますが、法律なり刑罰なりというものが宗教的な意味を持つということが、宗教家として好ましいというふうにお考えにおなりになりますのでしょうか。それとも、そうではない、つまり刑法というふうなもの、それから宗教というものとは、場所が違うのであるというようにお考えになりますのでしょうか。その点がどうも私自身にもよくわかりませんので、お教えを願いたいと思うのですが、私のお尋ねする趣旨が、あるいははっきり御了解がいただけないかとも思うのですが、どうも私は刑法学者が倫理道徳をお説きになるかと思うと、倫理学者が刑事政策をお説きになるという御意見を伺っておると、どっちの御意見なんだかということがはっきりしなくなってくる。もちろん専門的な意見ばかりになると、長田さんのおっしゃったように、専門白痴になるおそれもあるのでしょうけれども、問題は、死刑という問題を刑法の上に置いていくかどうかという問題になる。そうしますと、何か私が絶えず戦前から感じますことは、また、きょう午前中の御意見を伺っても感じますことは、検事が世の中を救うというような、どうしても印象を持っておるのです。また社会も、検事や警察が犯罪人を何とかして罰してくれるということを非常に強く要求する。従って警察なり検事なりが、何とかしてその社会の憎んでおる犯罪人をつかまえようというようにする結果、なかなか人力では見つかるものではない場合が多いのですから、どこかその辺にいる似ているような者を連れてきてやるというように、つかまらないのでは申しわけないから、何かつかまえてくるというようなことが起ってくる。私は刑法というものにあまり多くのことを期待するということは危険じゃないか。刑法に宗教的な意味を持たせるよりは、宗教において、宗教家の御活動というものに待つべきものじゃないかというように思うのでありますが、御意見、その点、終りの方を拝聴しておりましたために、あるいは私は伺い違いがあるのじゃないかと思いまして、御意見を、おそれ入りますがその点についてお示し願いたい。
○公述人(小崎道雄君) 大へん大切な問題でありまして、私の御答弁、御満足を与えるかどうか存じませんが、私は人間の生活に、便宜上法律の生活、あるいは社会生法、経済生活、宗教生活と区別してこれを解釈いたしますけれども、実際はやはり一個の人間として判断していくのであって、従ってその人の判断が刑法によるものであるか、あるいは宗教上の信念によるものであるか、いろいろそこに複雑な結果が現われてくると思うのです。でありまして、結論を申せば私は宗教的な判断が最高のものだと思います。つまりたとえ刑法できめておっても、宗教的な立場からこの刑法に従うことができないという場合があり得ると思います。著しい例は、アメリカの南北戦争の場合に、奴隷を解放して奴隷が南から逃げてきて、その当時の刑法によってそれを逮捕して警察へ出すのが国法なんでありますが、多くの熱心なクリスチャンはわざわざ保護して、法律的な犯罪の者な一生涯世話するというような話がありました。これなどは一つの例ですが、今日でもおそらくその大多数の宗教家は死刑ということに反対でありますけれども、遺憾ながらこれを廃止する、世論に訴える以外に廃止するものがないのだから、やむを得ず従っておるような状態ではないかと思います。それでもう少し実際問題を言えば、宗教家なるものがもっと積極的に世論に訴えて、この問題だけでない、あらゆる社会の問題について、高い宗教の立場から、全人類の立場、あるいは全国民の立場から、善と信ずることを一般に知らしめるということをすべきだと思います。私どもいたしておるつもりですけれども、非常に微力であるために全くしておらないように世間で思うかもしれませんが、今の世論というものはこれはちょっと余談になりますが、新聞が非常に有力です。ところが遺憾ながら率直に申しますと、日本の新聞はそういう高い宗教的な立場で記事が書かれておりませんですから、これは欧米とは違います。欧米の新聞の世論というものは非常に高い世論です。でありまするから、宗教の意味をよほど含んでいるのですが、私先ほど申しましたが、日本は遺憾ながらそういう点では非常に唯物的で、小学校から大学まで唯物教育ですから、人間以上の存在を否定するのみならず、むしろ嘲笑するような現状でありますから、とうていそういうことを望めない。これも私は強く言えば日本の非常に大問題だと思います。危機だといっていいくらいの問題であると、思います。良心が働かないようにできておる、悪く言えば。だからこれは責任者はだれかといえば国民全体ですが、特に宗教家が責任者であるから、私は非常に自分の無力な責任を感じて始終反省をしておりますけれども、羽仁さんの御質問に答えましたかどうか、私はそういうようにものを考えております。それだから今後ともたとえ死刑廃止が不成功に終っても、私はいつまでも死刑廃止を主張しますし、あらゆる機会に一般の人にも訴えたい、こういうふうに思っておりまして、法律以上に宗教信念を重んずる立場です。
○羽仁五郎君 ありがとうございました。その点で重ねてお尋ねを申し上げるのは失礼なんでありますが、結論的には、よく世間にあります議論では、日本の道徳的水準、宗教的な水準が社会にもっと高まらなければ死刑を廃止することはできないという議論がかなり強力でございます。今朝もそういうことで御議論が多かったのでありますので、先生のお考えはやはりそういうようなことでございましょうか。それと違うのでございますか。
○公述人(小崎道雄君) 私は高まらなくても今のままでおいても廃止した方が高めることになると思います。そういう意味においてベターだと思います。たとえ廃止したからといって犯罪が減るとは思いませんけれども、ベターだと思います。そういう意味において廃止を主張しております。
○羽仁五郎君 ありがとうございました。
○宮城タマヨ君 小崎先生と磯部先生に一点ずつお伺い申し上げます。小崎先生は先ほど悪いことをすれば悪い結果があると、この考えでおっしゃったのでございますが、これは刑法で言いますと応報刑の結果になるのじゃないか。人を殺せば殺されるぞという、あの私の受け取り方がまずいのでございましょうけれども、その悪いことをすれば必ず悪い結果になるぞということから、死刑廃止のその途中のところ、要点だけちょっと教えていただきたいと思います。
○公述人(小崎道雄君) 私の申し上げましたのは、むしろ宗教的の意味の因果応報でありまして、物質的に悪いことをすれば、窮すれば貧すという物質的の影響があるというよりは、その犯罪を犯した人の精神生活なり家庭環境その他において自分自身がまいたものを刈っておると思います。これは一種の信念ですから、そういうものを濃厚に持たない人もあるし、非常にそういうものを濃厚に持っている人もある。そこで私はそういうものを濃厚に持つような国民生活ができたときに初めて国民生活が向上しておると、こう思うのですね。どんなことをしても、つかまりさえしなければ差しつかえないという考えを大多数の国民が持っているならば、非常にこれは危険な国家生活で、現在はそれほどひどくいかぬかもしれないけれども、よほどそれに近い状態だと思います。そういう意味において、これはむしろ宗教の信仰ですから、そしておそらくこれはキリスト教もそうですが、仏教その他の宗教もその点は神様の存在、神は神を信ずる人なら、神はキリスト教で愛の神と申しますけれども、愛の神というのは何もしていいというのでなくて、基本的に、やはり物理的な現象に厳格な法則があるごとく、霊界にも精神界にも厳然たる法則がある。そういう宇宙に生存を許されておって、それを越えて怖い改める者は許される。反省する者は立ち上ることができるというところの愛の神ですから、そういう意味においてやはりさっき簡単に因果応報という言葉を使いましたけれども、基本的にはどんな人でも自分のすること発言することすべてが、宇宙の法則の中においてそのよしあしにかかわらず結果が生まれるのだという信念ですね。それを私は非常に必要だと思うのです。それを私は一番希望するのは、小学校くらいの小さいときからずっとそういうものを教えていきますと、御承知だと思いますが、イギリスではそれを実行しております。イギリスが非常に犯罪が少い理由は、やはりそういうところから発生しているのでありまして、つまり聖書を教えるとともに、この世の中において神は絶対であるけれども人間はまことに無力な存在であるということと同時に、今のような基本的な道徳の基本になるようなことを一通り教えているのですね。これが何とかして日本の文部省の中に取り入れられて、日本の小学校からずっと教えられるようになったら、それこそ犯罪はうんと減ると思います。死刑廃止よりも、もっと早く減ると思います。しかしそれが今、これまた私たちの微力というか、世論がそこを支持していないためにそういうところにいっていませんけれども、そこまでいかなければ日本の将来のことはうまくいかぬと、こういうふうに思っております。
○宮城タマヨ君 わかりました。磯部先生に。
○羽仁五郎君 続いて小崎先生に伺いたいと思いますが、もう一点伺いたいのは、さっきの誤判の問題に関係してなんでありますが、敗戦まで、つまり戦争中に日本で宗教上の理由で戦争に反対し、または軍務につくことに反対をされて死刑にせられた方があったのでございましょうか、なかったのでございましょうか。その点についてもし教えていただければありがたいと思います。
○公述人(小崎道雄君) 私詳しい実情を存じませんが、いわゆる刑法の罪で死刑になったというのは承知しておらないと思います。ただ宗教上の理由によって不法、今からいえば不法の監禁を受けて獄中で死んだ人は相当あります。十名以内ぐらいありましょう。だからある意味では死刑みたいなものですね、結果において。そういうことはありましたけれども、死刑の判決を受けたということはちょっと存じません。軍部の方にあるかもしれません。軍のことは御承知のように秘密でありますから。そういう相談を私受けたことはあります。ある青年が徴兵に応じたくない、そして死刑になるかもしれない。けれどもその人が果してそういうことをしたかどうかそこを存じません。まあその程度です。
○宮城タマヨ君 磯部先生に一点だけお伺いいたしたいのでございますが、その前に一言お礼を申し上げたいと思うのです。死刑廃止の論を唱えます者にとって一番苦手でございます論は、いつもお前の夫が、お前の子供がほんとうに殺されたときに、それでも死刑廃止を言うかということを言われますときに、経験がございません私にとりましては、なるほどやっぱりそういう場合にはほんとうに復讐したいという気持になるだろうと、今まで一番弱い点でございました。その点についてまだ傷もなまなましくいらっしゃる先生は、あのようにほんとうに人間の愛、それからその個人の愛をそれこそ世界人類に及ぼして、そうしてほんとうに世界の平和のために、ことに文化的国際人として日本人が伸びなければならないというところまで及ぼしてお話をして下さいましたことは、私ども非常に心強く感じましたことでございます。私どもが今後この死刑廃止について戦います上に非常な示唆を受けましたことをまずお礼を申し上げます。
 それで私が先生にお伺いしたいという点は、これはこの死刑廃止の立法の問題ではございませんけれども、先生がそこまで寛大に危害を加えました犯人にお対しになるということは、先生みずからたびたびその加害者にお会いになった結果でございましょう。そうではないと思いますけれども、それも一つ手伝っておりましょうかどうでございましょうか、その点をちょっと伺ってみたいと思います。
○公述人(磯部常治君) 私は犯行後一度も会っておりません。
○宮城タマヨ君 ああそうでございますか。それでよろしゅうございます。
○羽仁五郎君 私から一点伺わしていただきたいのですが、長く弁護士として御苦労をいただいたことであると思いますが、その間の御体験で一点だけ教えていただきたいと思うのですが、犯罪を犯すような状況に置かれ、そして犯罪を犯したようなそういう気の毒なわれわれの兄弟姉妹という人々でありますが、そういう人々に対して寛大な措置をとることによって、その人々が改善される場合が実際に多いのでありますか、それともかなり厳格な措置をとることによって改善されることが多いのでありましょうか。一般に言われる議論は、ことに現在のような日本の状況で寛大な措置をとるということは何らの効果がない、やはり厳格にやることによって初めて一面においては犯罪を防止し得る、他面においてはその人も改善の決意をするだろうというような御議論が多いのでありますが、その点について御体験から教えていただきたいと思います。
○公述人(磯部常治君) 私はやはり寛大な処置の方が善化する方が、善導する方が多いと思いますね。もっともそれは簡単な論ですけれども、前科のない者、その被告のいかんにもよりますが、もう前科何犯か重ねた者は非常にそこはむずかしい。その場合はそれは犯人を区別してもちろん考えないと一概には言えませんけれども、私の体験から考えれば、もうほんとうの悪性が固まって固定してしまった者を裁判とか判決とか量刑で直そうたって私は直らないと思うのです。死刑を廃止したところが、厳罰制を廃止したところが、日本九千万のうちでほんとうに悪性な者はこれはきまっちまっているのです。それは法律によって少くしたり減らしたりすることは不可能です。しからば磯部君はどうするかとおっしゃれば、これから育つ人間、まだ未完成な人間を、先ほど来論じられた通り、いわゆる私の言うのは胎教からでなければだめだ、いわゆる幼稚園及び少年教育、家庭とともにこれをほんとうに倫理、道徳観念、もとより宗教の力をかりて、ほんとうにいいものに育てあげる。今でき上っている悪い人間はどんどん死んでしまって、その次にりっぱな社会ができる。いわゆる犯罪をなくする社会ができる。それでも完全になくすることができるかどうか、これはなくならない。それを今短兵急に死刑を廃止したらすぐ犯人がふえるの減るの、私はそんな問題じゃないと思う。だからそうなってくると、法律論よりも政治論になってくるのですが、一体今の日本の政治は私に言わせると、先ほど来お話のあった通り、つい蛇足になるかしりませんが、私は中央大学に属しておりますけれども、今の日本の法律教育にしろ、在朝在野の法律家が法律を作り、判検事、弁護士が法律を扱っている思想は、ほんとうの思想、ほんとうに生きる力、宗教、倫理、道徳の観念を主としないで、単に理屈と証拠ばかりで法律を解釈しているところに大きな誤まりがある。また、立法者の中でも法律を作っておけば米がふえたり減ったりするというような考えばかりで、形式的な法律に依存しているところに大きな日本民族の誤まりがあると思うのです。
○羽仁五郎君 もう一点関連して教えていただきたいと思いますが、けさの公述せられた方々の御意見を伺っておりましてもそういう疑問を生ずるので、やはり長年弁護士で御苦労になった御体験から教えていただきたいのですが、裁判所に行って接せられました多くの裁判官並びに検察官、これらの方々が法を運用する上に、常に慈悲の心をもって運用しておられます方が多いのでございましょうか、それとも現実においては、その法に慈悲を加えてそうして正義に立つという意識を全く欠乏しておられる方が多いのでございましょうか。多年法廷において御体験あったことと拝察いたしますので、その点教えていただきたいのです。
○公述人(磯部常治君) 私としては非常に言いにくいことですけれども、こんなことを裁判官、検事、弁護士が聞けば怒りますでしょうけれども、率直なことを言えば、ほんとうに法の観念がないと、私はいつでも刑事の弁論で言うのですけれども、律のみを知って法の観念がないところに日本の法律家の誤まりがある、立法者においてもそうですが、もちろんできた法律を扱うところの在朝在野の法曹人のそこに大きな誤まりがある。法とはそれじゃ何ぞや。私の解釈では、これは私は一つの宗教を持っておりますが、法とは生きることであり、しかも生かすことである。生かせば必ず自分が生きる、生かさなければ必ず自分は生きない。精神力において物質力において、この反射弁証法の論理は疑いないと私は思う。そうしてそれを宗教というならば宗教けっこう、倫理というならば倫理けっこう、これを根本においたところの法律でなければ私は法律国家はないと思う。そういうふうな意味において、私は今の法律家は在朝在野ともに、今の愛というのか、慈悲というのか、法という観念、生き生かすという観念をもった思想が非常に少い。ここに大きな誤まりがある。行刑制度またしかり、形式的に二年なら二年懲役に入れて、それで出せばいいということをやっている、それはだめだと思います。
○羽仁五郎君 ありがとうございます。
○赤松常子君 ちょっと一つ磯部先生に。私、大へん遅刻して参って申訳ないと思っておりまして、ほんとうに立派なお話伺いまして、私どもも大へん教えられるところ多うございました。私遅く参りましたものでこの点について一点お教えいただきたいのでございます。それは午前中の公述人の方の中に、生命よりも国家が重い、国の秩序すなわち公共の福祉というものが先行するという御意見がございましたのですけれども、私どもはやはりそこにちょっと迷うておるわけなんでございますが、こういうことについて先生の後半お伺いしました点では、生命は絶対だということはほぼ私わかるのでございますけれども、そういう公共の福祉及び国の秩序というものとの関連性において、もう一ぺんそこらを御解明いただきたいと思います。
○公述人(磯部常治君) 私は極端な見方かしれませんが、大宇宙を小さくしたものが僕らだと私は思っております。大宇宙に存在しておるものは私の体の中に全部存在しておると思うのであります。それが基本的な力であり生命である。それでその動かし方は自分のいわゆる教養、学問、努力のいかんによってできるんだ。これは私の信ずるのは、すでに原水爆の元素がどうして発見されたかということを書物を読んでみますと、とにかくアメリカの学者です。どうしてあの太陽はあの熱があるだろうかなということがそもそも初めで、研究した結果あそこまで発見していってるんだから、人間の一人の力というものはかくのごとき偉大な力を持っているのであります。だから私は地球を生かそうと殺そうと、人間を生かそうと殺そうと、米をふやそうと減らそうと、みんな人間一人の体の中に存在しておる。これが尊い、すなわち生命である。それは罪人であろうと、人が罪人だとか悪人だとか申しますけれども、それは行為の現われで、私は罪人をもっと善意に解釈するのであります。たとえば私のところに殺人犯人、彼は、これを生かして考えますと、銀座、日本の青年はあの二十七、八ころの青年の思想の代表だということも考えられるのであります。こういう青年はどうして育ったということをあの事件が教えてるんであります。二人の生命をなくしたことについては、実際それはもう皆さんの御想像にまかせますが、三人が三人とも愛を注いでいるにかかわらず、反対に逆に命をとるということは考えられますけれども、さらにこれをもっと大きく広く考えてみますと、日本の現状、彼を育てたのは日本民族なんです。あんな戦争やったから悪いんだということが言われるのでありますが、それは悪の中にもちゃんと善があるのです。善が善から出るということは私はどうしても是認できません。善は悪からでなきゃ出ないのであります。悪人が善人を教えておる。悪人は、善人があるが故にこれを悪いとか、非社会性とか残虐性とか申しますが、やる者の身になってみれば残虐性でもなんでもない、二人の命を首を絞めて殺さなければ自分は生きていかれないということを考えたところに彼はあわれむべきだと思う。そんな幼稚な愚かな考えを持っておる。私のうちに五、六十万金があればということを考えるということは実際かわいそうですよ。こういう工合に反社会的にすべて物を考えますと、罪人はみんな善人に罪があるのです。善人がああいう事件を起させるということを、これを究極論じまするとみんな僕が悪かったということに気がつくのであります。僕が悪かったということに気がついたならばこの次にああいう事件を起すまい、同時に日本民族、国際的にも立派な人間であるということを、あの事件によって九千万が覚醒してよりよき民族になれば、それがほんとうに二人に対する供養だと私は思っております。だからその自分の持てる生命というものは尊いものだということに実際になる。別府といえどもどんな立派な人間を産まんとも限らない。同時に私の子供といえども殺人をやらないとは限らない、またどんなことをやるかわからない。それはその人、一人が持つ力です。こう考えた場合に過去、多くは将来もともに生き生かし合うところの思慮に、いいことも悪いことも生かしていい方へ生かすように生かすように考えてゆくことがほんとうの智者であり指導者である。それがまたほんとうだと思うのです。わかりにくうございますかしら。
○羽仁五郎君 最後に公述して下すった吉田さんに伺いたいのですが、吉田さんがお出し下すった御趣旨の中に少年法では最高を無期として非行少年に更生の道を与えておる。これによって多くの少年が立派に更生して社会に復帰してゆく姿をこの目で見て参りましたというようにお述べになっておられましたが、これは具体的な事実がおありになるのでございましたら、その点を一つお伺わせしていただきたい。
○公述人(吉田晶君) 昭和二十二年から三年間少年院の職業補導において、職業補導の教官として大体三百人くらいの非行少年の職業補導を一緒にやってきた経験がございまして、そのときの結果を申し上げました。
○羽仁五郎君 どうもありがとうござ.いました。
○委員長(高田なほ子君) 他に御発言がなければ、本日の公聴会はこれをもって終了いたすわけでございますが、終了に際しまして公述人の方々にお礼を申し上げます。
 本日はまことに長時間にわたりまして、われわれ法務委員会のために、また重要な問題として提起されております本問題のために、また日本の前進のために貴重な御意見をお漏らしいただきまして、私どもは衷心よりお礼を申し上げたいと存じます。本日の貴重な御意見を私どもは十分に生かして、本日の御厚情に沿いたいと心から思うものでございます。本日は大へん委員の数も少く、せっかくはるばるお見えになりましたのに、はなはだしく御不満の点もあろうかと思いますが、当委員会の委員のメンバーの方々は、二つの委員を兼ねている方々もきわめて多いために、会期末に及んで審議もせかれるままに出席されるお顔が少なかったのでありますが、いずれも各党を代表せられて午後の公聴会にお見えになっており、この御出席の委員の方々も、必ず本日の御意見は御反映下さることを信じるものでございます。まことにどうもありがとうございました。(拍手)
 明日は午前十時から公聴会の第二日目を行います。これで公聴会を終ります。
   午後四時十九分散会