第087回国会 内閣委員会 第10号
昭和五十四年五月二十五日(金曜日)
   午後一時一分開会
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  出席者は左のとおり。
    委員長         桧垣徳太郎君
    理 事
                岡田  広君
                林  ゆう君
                山崎  昇君
                向井 長年君
    委 員
                源田  実君
                塚田十一郎君
                西村 尚治君
                林  寛子君
                原 文兵衛君
                堀江 正夫君
                片岡 勝治君
                村田 秀三君
                和泉 照雄君
                黒柳  明君
                山中 郁子君
                森田 重郎君
                秦   豊君
   政府委員
       内閣官房内閣審
       議室長兼内閣総
       理大臣官房審議
       室長       清水  汪君
       内閣総理大臣官
       房総務審議官   大濱 忠志君
   事務局側
       常任委員会専門
       員        鈴木 源三君
   参考人
       評  論  家  松岡 英夫君
       二松学舎大学教
       授        宇野 精一君
       日本キリスト教
       団行人坂教会牧
       師        木村 知己君
       全日本労働総同
       盟政治局長    小川  泰君
       東京大学教授   高柳 信一君
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  本日の会議に付した案件
○連合審査会に関する件
○元号法案(内閣提出、衆議院送付)
    ―――――――――――――
○委員長(桧垣徳太郎君) ただいまから内閣委員会を開会いたします。
 まず、連合審査会に関する件についてお諮りいたします。
 元号法案について、地方行政委員会、法務委員会及び文教委員会からの連合審査会の申し入れを受諾することに御異議ございませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員長(桧垣徳太郎君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。
 なお、連合審査会開会の日時につきましては、これを委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○委員長(桧垣徳太郎君) 御異議ないと認め、さよう取り計らいます。
    ―――――――――――――
○委員長(桧垣徳太郎君) 元号法案について、本日及び明日の二日間にわたり、参考人の方々から御意見を聴取することといたしております。
 本日は、評論家の松岡英夫君、二松学舎大学教授の宇野精一君、日本キリスト教団行人坂教会牧師の木村知己君、全日本労働総同盟政治局長の小川泰君、東京大学教授の高柳信一君、以上五名の方々を参考人としてお招きいたしております。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日はお忙しいところを本委員会に御出席いただきましてありがとうございました。委員会を代表して厚く御礼を申し上げます。
 それでは議事の進め方について申し上げます。
 この機会に元号法案について忌憚のない御意見をお述べ願いたいと存じます。
 議事の都合上、御意見を述べていただく時間は、お一人十五分ないし二十分程度にお願いいたしたいと存じます。
 なお、参考人の意見陳述の後で、各委員から質疑がございますので、お答えいただきますようお願い申し上げます。
 それでは、まず松岡参考人からお願いいたします。松岡参考人。
○参考人(松岡英夫君) それでは、元号法制化につきまして、私の考えていることを申し上げて御参考に供したいと思います。
 年号といいますか、元号といいますか、これは歴史的に見ますと、御承知のとおり天皇の在世年間というものと全く関係のないものであったのであります。明治天皇の前の孝明天皇、この孝明天皇の在世時代、これは年号が七回変わっておりますが、この七回の年号の中には孝明という年号は全くありません。それから孝明天皇の前の仁孝天皇、これも年号が三回ほど変わっておりますけれども、もちろん仁孝という年号は全くないのであります。これ、全部の歴代の天皇の場合にそれが言えることなんですが、一々挙げるまでもないんですが、たとえば、皆さんよく御存じの後醍醐天皇、このときも年号が八回ほど変わっておりますが、後醍醐という年号は全くないんであります。このように、年号ができましたのが、七〇一年ですから、かれこれ千二百七十何年の長い歴史が日本にあるわけですけれども、この長い歴史の中で明治までは、年号あるいは元号というものは、天皇の在世というものと何の関係もないことであったのであります。ところが明治になりまして、年号のあるいは元号の性格が一変いたしました。これまた御承知のとおり、明治天皇制時代に入りまして、天皇の統治の期間というものに非常な意味を持たせまして、これを一世一元という形で表現したわけであります。年号、元号の性格をここでがらりと変えてしまったわけであります。
 明治憲法におきます天皇主権、天皇統治、天皇親政、天皇陸海軍統帥者、こういった天皇の性格の規定によって、この天皇の権威と年号というものを結びつけて一世一元ということにしたわけでありまして、長い年号、元号の歴史から見ると、非常に新しい制度であったわけであります。
 しかし戦後の、この現在の憲法の時代に入りまして国民主権ということになりますと、明治時代の天皇主権時代の一世一元制というのは、これはちょっと憲法になじまないということが言えると思うんであります。少しこれは無理ではないか。何も一世一元をすることによって天皇制の復活を考えているというようなことを私は申しませんけれども、しかし明治時代の天皇制時代の一世一元をこの国民主権の時代にそのまま適用するのは、これはなじまないのではないかということを申し上げたいのであります。
 それから、天皇は国の象徴であり、国民統合の象徴であるということから、その象徴ということに高い価値を置きまして、それほど高い地位にある人の在世を一世一元という形で表現してもいいじゃないかという言い方もあるんでありますが、しかしこれもまた繰り返しますように、国民主権のこの時代において、象徴だからといって一世一元と、それを法制化するということは、問題は別ではないかというように考えるわけであります。
 それからもう一つ、次によく言われますことは、元号はもう長い間国民生活になじんで、国民の一つの広範な一般的な社会的規範となっておる、習慣となっておる、生活になじんでおる、したがってこれを法制化して、その定着をそのままの形で延長をしても少しも差し支えないんじゃないかという意見がございます。この生活になじんでおることを定着させるということにつきましては、まあ法律で決めるという場合と、内閣告示で決めるという場合がありまして、法制化にはいろんな世論調査では、余り賛成者が多くないように見られますけれども、いずれにしろ、法制化、内閣告示両方を合わせますと、元号は存続した方がいいという数の比率の方が非常に高いということは、いろんな世論調査に出ておるのであります。しかしながら社会習慣というものは、いつでもこれは必要があれば変えてよろしいものであります。この習慣が昔からあるから、それを変えちゃいけないということはないのでありまして、一つの習慣を変えると、その変えたものがまた新しい習慣として定着していくということは、これはよくあることで、歴史的に非常に例の多いことであります。
 明治四年でしたか、日本で断髪令というものが出まして、日本人、男、男子はちょんまげをやっておったものを全部切って普通の長髪にしろということになったんですが、そのときは、この何百年かちょんまげになじんできた日本の男は、もう泣きの涙でちょんまげを切ったという話が伝わっておりますし、島津久光という薩摩の殿様などは一生涯死ぬまでちょんまげを乗っけておったというような話が伝わっております。しかしながら、一たんちょんまげを切ってしまいますと、それが、普通の長髪が新しい社会習慣となって定着して、ちょんまげなどをつけておる者はこれはもう時代おくれの旧弊人ということで軽べつされたということがあったわけであります。
 それから、髪のことを申しますと、中国では例の辮髪というのが昔あったんですが、満州族が中国を征服いたしますと、自分の国の習慣である辮髪を漢民族にも強制した。漢民族はこれまた泣きの涙で辮髪を蓄えたのであります。ところが、何百年かたって国民党による革命ができて辮髪を切れという指令が下りますと、辮髪を切るのがいやで民衆は隠れて逃げ回っていたというような事実があったのでありますが、ちょんまげ、辮髪、こういうことを見ましても、それを切るとかなんとかということになりますと、非常な抵抗がある。いま考えるとばかげたことだと思うくらい大きな抵抗が当時ある。しかし切ってみると、そこに新しい習慣が生まれて定着するというのが、これが歴史的な事実であります。
 アメリカには別に年号というものがありませんけれども、あの国はあれだけの強大国として政治的、経済的、文化的に隆々発展をしております。西ドイツにも元号などありませんけれども、国民は何の不自由も感ぜず、経済的、社会的、文化的に発展し、高い国民生活を楽しんでおります。
 こういうことを見ますと、元号があるとかないとかということは、国の政治、経済あるいは国民生活の豊かさ、そういったものとは何の関係もないものだということが私はわかるというように思うわけであります。
 それから、元号が生活になじんでおる、社会的習慣として定着しておるということは世論調査に出ておるじゃないかと、こういうことを言われますけれども、これは現在年号のもとで自分たちの生活が営まれておる、元号のない生活というものは経験していないわけです、現在の日本人は。そういう生活をしておる日本人に向かって世論調査をして元号存続賛成者が多い、そういう答えが出るのはこれはあたりまえの話であります。元号のない生活をしたことがないんですから判断のしようはないわけです、国民としては。どうしても現在のなじんでおる元号下の生活、それはいいだろうということになるのは、これはあたりまえであります。
 そこで、私は提案したいと思いますのは、元号のない生活を国民に十年か二十年実際に経験させたらどうか。その上で、元号のあるときの生活を経験し、元号のない生活を経験したという二つの経験を経た国民に対してさあどっちがいいか、元号があった方がいいかない方がいいか、こういう世論調査をするのが私は公平ではないかと思う。その元号のない生活を全然経験させないで、そうして元号賛成か反対かということを問うのは私は間違っておるんではないか、不公平じゃないかというように思うのであります。
 いずれにいたしましても、私は元号問題などというのは日本の国民にとって実にささいなことだと思う。余り問題にするに当たらないことではないかというように思うのであります。先ほど申しましたとおり、元号があってもなくとも、あるいは全くなくとも、世界の国々はそれぞれに繁栄をしておる、国民生活に何の不自由も感じていない、なぜ日本だけが元号を必要とするのかということを考えまして、元号というものはそれ自体に国民生活に余り大きな意味を持っておらぬと、端的に言えば非常にくだらない問題であるというように思うのであります。
 日本のこの国というのは一民族一言語、そして小さな島の中に何千年も一つの民族として生活してまいりましたいわば仲よし民族であるというように私は思うのであります。で、この仲よし民族の中に、元号というくだらない問題でなぜ対立や摩擦を持ち込むのか。もちろん仲よし民族でありましても、たとえば原子力発電をどうするか、これは大いに議論しなければならぬ。将来のエネルギーにかかわることですから、これは大いに議論し、あるいは摩擦がそこに生じてもやむを得ないかもしらぬ。しかしながら、元号などという国民生活にどうでもいいようなことで何でこんなにわれわれは対立し、摩擦を起こさなければならぬのか、これほどばかげたことはないと私は思うのであります。
 きょうも、私もそうですが、皆様方もこの元号法制化のために長い時間と貴重なエネルギーを費しておる、ほかのことでそのエネルギーを費したい、元号問題などというどうでもいい問題でわれわれ日本人がエネルギーを費すのは実に大きなロスであるというのが私の申し上げたい最後の結論であります。
 以上簡単でありますが、私の意見を申し上げます。
○委員長(桧垣徳太郎君) ありがとうございました。
 次に、宇野参考人にお願いをいたします。宇野参考人。
○参考人(宇野精一君) 申し上げたいことはたくさんございますけれども、元号法制化という当面の問題のために意見をお求めになっておると思いますので、その問題にしぼって意見を申し上げたいと思います。
 私は三点ばかり申し上げたいのですけれども、第一は、御承知のとおり行政官布告というものが明治元年に出ておりまして、それが有効であるとかないとかいろいろ議論があるようでございます。私はこちらの参議院の現行法令集というものの中に行政官布告というものが掲載されているというふうに伺っております。それならば、現行法令でありますので、行政官布告は現在執行されておるというふうに考えるべきではないかと私などは思うのです。私は法律の専門家じゃございませんので、文化の人間でございますから法律的なことはわかりませんけれども、私などの立場から申しますとそんなふうに思いますけれども、しかし、それはたびたびの国会における御審議で法制局長官からそれは無効であるという趣旨の御答弁があっているようでありますので、それをいまさら私がその有効説を主張しようとは思いません。
 ただちょっと、皆様御承知のことだろうとは思いますけれども、ちょっと振り返って戦争直後のことに話を戻しますけれども、昭和二十一年に現在の皇室典範の審議があったときに、憲法担当の金森徳次郎国務大臣の御答弁では、行政官布告が有効であるという旨の御答弁が繰り返し行われ、さらにそのときに、しかし今後は法律をもって定める必要があるだろうという趣旨の御答弁があったことが記録されております。それに伴ってだろうと思いますけれども、当時の法制局の第一部長であられました井手成三氏が、昭和二十一年十一月の十五日に、その前に閣議決定された――閣議決定と言っていいんでしょうか、内閣でまとめられたもとの元号法案というものを持ってGHQに出られ、打診に行かれたんだろうと思いますが、そのときにピークという担当官がその法案については異議がないと。そのときに言葉を添えて、むしろ西暦を強制するようなことは信教の自由に反することになるからそれはよろしくないだろうというような助言まであったそうであります。ただし、その後間もなく、正確な日取りは私存じませんけれども、間もなく当時法制局次長であられました佐藤達夫氏のところに、あるいは達夫氏が出られましたときに、ケーディスという大佐が、どうも元号法案は困る、あれは認めるわけにいかない、まあ日本が独立した後に決めたらいいだろう、こういう回答をしたということであります。そういうことはたびたび問題になっているようでありますけれども、いわゆる新憲法とか占領軍の意向とかいうものが元号というものを認めないとかなんとかいう議論がよくあるようでありますけれども、それはいまのいきさつをもってみても決して連合軍は元号そのものを否定しているのではないということが明らかでありますし、さらに新憲法の公布の日付はちゃんと昭和二十一年十一月三日となっておるのでありまして、これは疑いのないところであると私は思います。
 そういうことがありますんで、本来ならば独立直後、昭和二十八年でも九年でも私は元号法案を直ちにそこで通すべきであったと思うのであります。それが、どういう事情があるか存じませんけれども、そのまま延びて今日に及んでおる。で、行政官布告というものが現在執行しておるとするならば、それの補完措置としてこれを元号法案というものによって法制化するのが私は当然のことであるというふうに思うのであります。それが第一点。
 それから第二点として、それではなぜその元号というものが必要なのかということでありますが、これは私は、およそ個人にしてもそうでありますけれども、特に国として公の紀年法というものがどうしても必要である。これがなければ国の歴史というものを記録することができない。で、もしそれを統一しないでおきますと非常な混乱が起こるわけであります。これは予測のことでありますから、なってみなければわかりませんけれども、たとえば現在の昭和という年号、これは事実たる慣習にすぎないというふうなことだそうでございますけれども、このままもし法制化しないでおきますとどういうことが起こるか。そういう余り予言めいたことを申すのははなはだ私としては不謹慎だと思いますけれども、まあ率直な私の考えを申しますと、そのまま昭和を百年でも二百年でも使う人がいるかもしれない。もちろん西暦もいるでしょう。しかし、神武紀元を使う人もいるかもしれない。それから、先般明治百年ということで大分国民的に大きな反響を呼びましたけれども、いやおれは明治から使うのだと言って明治何年というのを使う人がいるかもしれない。それから仏教に非常に熱心な人は仏教暦を使うかもしれないし、日本人には非常に少ないけれどももしイスラム教の人がいればイスラム暦を使うでありましょう。そのようなことになりましたならば日本の国家としての紀年法というものがめちゃくちゃになってしまって、とても正確な事実の記載ということが不可能になります。したがって、私は紀年法としてどうしても統一したものが必要であると思うのであります。その場合にたとえば古い話でありますけれども、大宝令では、御承知のとおり初めて年号というものがつくられたときでありますけれども、そこでは、公文書には年号を記載しなければならない旨の規定がございます。これは千何百年も昔の話でありますけれども、私は国家というものはそういう統一された紀年法がなければならないと思うのであります。それで、もし西暦を使いますならば、先ほどのドクターピークの助言にもありますように、これは明らかに信教の自由の憲法違反になるというふうに私は思うのでございます。ただし、その強制力と申しましても個人としては全く自由であるべきで、それは私もさように考えます。自分のことを記す場合、あるいは時と場合に応じて西暦ももちろんお使いになるべきでありましょうし、その他の紀年法をお使いになることも全く御自由であると思いますけれども、公文書だけは私は元号を使うべきであるというふうに思うのであります。
 その元号の問題なんですけれども、大体王様というものがおられる国では、単に西暦いわゆるキリスト紀元だけを使う場合もないわけではないようでありますけれども、公的のもの、最も公式の場合は大体王様の統治何年というふうなことをあわせて記す習慣が世界的にございます。これは外務省でお調べになった書類がございますので、今日私ちょっと忘れて持ってまいりませんでしたので、具体例を申すことはできませんけれども、先生方のお手元には多分それが参っておると思いますので、それをごらんいただきたいと思います。王様の名前、たとえばイギリスでありますとエリザベス二世何年、あるいは統治何年というような表記をすると思います。しかし日本では、その天皇のお名前を申すことは避けるというのが千年以来の伝統でございます。これは多分私は支那から来た風習だと思いますので、日本も昔はそうでなかったんじゃないかと思うのですけれども、とにかくもとは外のものであっても、千年以上も伝わっているものはもうわれわれのものと考えてもよろしいのであって、そういう習慣があります以上はやはりお名前にかわる何らかの表現法が欲しいというふうに思うわけであります。これが第二点。
 第三点は、いわゆる国民主権というものと元号というものとはそぐわないというような御意見があるようでありますけれども、これも皆さんが繰り返しおっしゃるように、日本国憲法には、日本国及び国民統合の象徴であると、第二条には皇位は世襲であるという旨の規定がございます。でありますから、御代がわりのときに新たな元号を制定されるということは、これまた憲法の趣旨にもきわめてかなったことであるというふうに思うのであります。元号というもの自体も私は国民統合の象徴であられる天皇の、何と言うのでしょうか、われわれが唱える場合に非常にいいと、直接お名前を申し上げるわけにいかないから、いまの陛下の何年ということのかわりに昭和何年というふうに言うわけでありまして、これが私は最も適当な憲法にもかなったものであると思うのであります。
 なおつけ加えて申しますが、元号制度そのものは皆様御承知のように、これは当然支那から伝わったものであることは申すまでもないのでありますけれども、したがってこれは、漢民族の文化の特色と申すべきだと思います。その漢文化の影響しておる国々においてはしたがって皆元号を使っておったのであります。それがいろいろな事情で王様というものがなくなったりなんかしますと、元号というものが自然消滅するわけでありますけれども、王様がいれば使うべきであり、使っておった。よく世界じゅうで元号なんというのは日本だけだということを皆さんおっしゃるんですけれども、いわゆる漢文化のもとにありますところの国家、中華人民共和国を初めとして中華民国あるいは現在の大韓民国あるいは朝鮮――どうもちょっと正式な名前私よく覚えないのですが、要するに普通に北朝鮮と申しておる国ですね、ベトナムなんかもそうですが、そういう国々においては王様というものがなくなったために元号というものが行われないだけでありまして、日本はやはりお名前は何と申し上げようと天皇様がいらっしゃるので元号というのを建てるのが当然である。しかも特に注意すべきは、よその、日本以外の国々においてはおおむね支那の元号をそのまま使わされておったのが歴史的な事実であります。ところが日本は一番最初から日本独自の元号を建てておるのであります。これは日本独立の象徴とでも言うのでしょうか、であって、そこに私は元号というものの非常に重要な意味があるというふうに考えるのでございます。
 まだほかに申し上げたいことがたくさんございますけれども、時間が大体参りましたようですからこれで終わらせていただきます。
○委員長(桧垣徳太郎君) ありがとうございました。
 次に、木村参考人にお願いします。木村参考人。
○参考人(木村知己君) 私は、政府が今国会に提出しております元号法案には反対の意見を持っておるものでございますが、それとともにキリスト教会には過去の経験からこの元号法案にむしろ危惧の念を持っていることを少し申し述べたいと思うわけでございます。
 第一に、私どもは基本的人権である信仰の自由にかかわるものといたしまして、いままで靖国神社国営化法案の反対運動を十年余にわたっていたしてまいりました。ところが靖国神社法案が廃案になりましてからいわゆる紀元節復活、天皇の靖国神社公式参拝の要求、それから君が代の国歌化、それから教育勅語、軍人勅諭問題など次々とある意味では同一人物、同一団体の方々によって天皇主権復活を主張せられながら、この元号法案の提唱、実現推進運動が行われ始めているということに非常に重要な問題を感ずるわけでございます。それはこの法案の趣旨でございます皇位の継承があった場合改元する。すなわち一世一元の元号が天皇主権の復活とともにかつての国家神道、今日の神社神道と深いかかわりがあることを私どもは見落とすことができないわけでございます。
 実は政府が提案理由の一つとして御説明になっておられます地方自治体の請願決議、いわゆる都道府県議会で四十六の請願が決議されているからということを提案理由の一つにしておられます。しかし聞くところによりますと、この四十六という数字は余り正確ではなくて、何か総理府のPR用のようでございますけれども、実数は少し違ったとしましても、この要請をしておられる方々の内容でございますが、その一例といたしまして、実は北海道議会の場合の請願者の北海道元号法制化推進連絡会議というものは、実は札幌市宮ケ丘四七四、北海道神社社務所内に置かれているのでございます。このことが明記せられておりますので、そのほか他府県にもこれと同様のものがあるようでございます。言いかえるならば、この元号法案の請願運動、推進運動というものがいわゆる神社関係者とは全く無縁であるということはこれは言えないことではないか、こう思うわけでございます。と申しますのは、いわゆる天皇を最高の祭主とするかつての国家神道を母体とする神社神道が皇位の継承とともに一世一元の改元を切実に願うのはこれは当然のことでございまして、それは宗教上のことがあるからでございます。その点本来元号というのは単なる国民の日常性のことではなくて、天皇を祭主とする神社神道にとっては皇位継承による改元は神社神道の宗教祭祀、これは祭りでございますが、祭祀、教義にかかわっているのでございます。これは神社関係の大変大著でございます、田中初夫という方が「践祚大嘗祭」という本をあらわしていらっしゃいます。これに書いてありますところが大変重要なので以下引用させていただきます。これは繰り返して申しますが、田中初夫著の「践祚大嘗祭」という本でございます。そこに「天皇が即位したとき天神地祇を祭り、即位、践祚、大嘗の三行事が行はれなければならない。この大嘗祭は古くは「践祚大嘗祭」といわれ、天皇即位のはじめにおいて第一におかれるべく、そして不可欠であるところの祭祀、儀式である。践祚大嘗祭こそわが国上代における天皇即位の大礼の本体を意味したものであって、わが国の即位に関する諸式、諸礼祭においてこれを欠くか、あるいは皇室内の単なる私事として、国民の前からこれを去らすことはわが国の伝統と精神に即しないことである」と、実はこのように一世一元の元号が皇位の継承とともに改元されるのはその背後に国家神道の祭祀があり、国事としてなされるべきであるとする践祚大嘗祭の神道祭祀と一体であるということでございます。
 実はこの大嘗祭というのは、私ども余り日常では聞きなれない言葉なんでございますが、これは即位した天皇が天皇家の祭神である天照大神を初め天神地祇を祭って天皇が神饌、これはお供物ですが、天皇が神饌を供進して神々とともに食して皇祖神及び神武天皇以来歴代の皇霊、これは天皇の霊です、皇霊と一体化してその帰結として天皇自身が神となり、神格を有する万世一系の天皇になるということが、これが国家神道、そして今日の神社神道に継承されているいわば神道教義でございます。旧憲法で天皇は神聖にして侵すべからずとして現人神と言われましたのは、実はこの大嘗祭によって神格化せられたところにこれがあるわけでございます。
 実は大嘗祭をもって神格化された天皇はいわゆる法案にあります皇位の継承とともに政治的、宗教的カリスマを付されて一世一元の元号により民衆を政治的、宗教的に統治するというのが、これが本来の元号の精神でございました。こういたしますと、本来一世一元の元号というものは、私どもキリスト教徒にとりましては元号は単なる紀年とか年号ではなくて、皇位継承とともに宗教的統治をもって忠誠を要求されるものであるのが元号というものの性格でございました。元号により神道祭祀による時間的、空間的支配によりかつて多くの宗教団体が宗教弾圧を受けたことは、その例を挙げますれば大変な時間をかけてお話ししなければならないと思います。
 実はこの皇位継承による一世一元の元号改元は宗教弾圧の歴史であったと言ってよろしかろうと思います。その事実は、最近岩波新書から「宗教弾圧を語る」という本が出ておりまして、その体験者たちが読むにたえないほどの悲惨な体験をそこで事実として証言いたしております。私どもは政治の領域に法律として何らか宗教がかかわることは、かつて国家神道のもとに宗教団体法により激しく弾圧せられたところの宗教者たちにとっては耐えられないことでございます。ただ、国家の保護を受け、権力に便乗した当時の国家の保護を受けた宗教は別でございますけれども、自分たちの信迎の信条を持って生きようとしたところの宗教者たちが、こうした一世一元の元号、皇位の継承というところから来る宗教的支配の中でどれだけ苦しんだかということをいやと言うほど危険性を身を持って知らされておりますゆえに、元号法案の持つ危険性を私どもはここに見るわけでございます。
 第二点といたしまして、私はいただきましたこの政府の元号法案提出理由というものを篤と読んでみました。しかし、どんなに読んでみても実は私にはよく理由がわからないのでございます。書いてありますことの中に、日常生活において長年使用され、広く定着しているからということが提案理由のようでございますが、もしも日常生活に定着し、長年使用せられているならいまさら法律で強制したり拘束したりする必要はないんじゃないだろうか、もしも長年定着しているものを法律でもって強制、拘束するというのならば、これは法律はまた大変なことになるんじゃないかというふうに私たちは考えさせられるのでございます。しかしその点私は、政府も提案理由の一つとして説明しておられますように、元号法制化促進を請願していらっしゃる方々が、それぞれの地方議会に出しておられます請願理由の方がはるかによくわかるように思います。ただ、この請願は、一九七七年以降各地で、各都道府県の議会に同一趣旨の請願がまるで各地にどこかから配給されたように地方議会に請願が出されているのでございますが、先ほど述べましたようにこれらが神社神道関係者とその関係の深い団体より推進されていることはよく知られているところです。
 その請願の文書の趣旨というものは、大体読んでみますと以下の三点になっているようでございます。第一は、日本の伝統、文化を継承するためということです。第二は日常生活に便利であり歴史をひもとくのに重要なかぎになるということです。第三番目が、日本が文化国家であるため、以上三点がこの請願者たちの方々の促進の趣旨でございます。
 この主張は、多くの元号法案の支持者の方々の発言であり、また参考にいただきました衆議院内閣委員会参考人意見陳述の支持者の方々の意見もまた同様であったようでございます。私も日本国民といたしまして日本の文化、伝統を大切にしたいと考えております。ところで、私どもが本当に大切にしなければならない文化、伝統というものは、その文化、伝統自身の持つ価値によって継承されてこそ価値があるものと私たちは考えております。それは私どもの宗教者にとっても同じことでございまして、宗教の真理は真理自体の自証性によって価値づけられるべきであって、法律によって宗教とか文化とか伝統というものが保護されたり強制されたり拘束されたりして継承するとするのならば、それはもはや文化とか伝統ではなくて、むしろ伝統、文化を破壊することになると思うわけでございます。精神的文化あるいは伝統というものを法律の保護、強制によって維持、継承しようとしていることは、文化国家とは言えませんし、またそのような文化国家が世界のどこにあるのか、私は恐らくないのではないかとこう思うわけです。
 そこで、法律の強制、拘束をもって維持、継承される文化とか伝統は、輝く文化、伝統とは言えず、むしろこれは歴史に汚点を残すところの奴隷の文化だと言うより仕方がないんじゃないかと思います。また、日常性の便利さ、歴史のひもときならなおさらのこと、しばしば変わる元号は不便、不合理この上もないと言えると思います。まして、民衆の生活とは全くかかわりのない一人の人の生死によって年号がやたらに変えられるとすれば、これまた不便、不合理この上もないと言えると思うのでございます。歴史が一人の天皇によってつくられる時代は終わったのです。かつて文部省が国定教科書として客観的事実としての歴史を否定して、国史なる名前のもとに天皇のための歴史を強要するようなことが再び日本であってはならないと私は思うからでございます。
 最後に、第三番目といたしまして、この元号法案を政府が提出したことによって日本の国がアジアの近隣諸国の民衆からどのように見られているかということを知らなければなりません。私どもキリスト教会はアジアの地域のキリスト教会との間にアジアキリスト教協議会、これはクリスチャン・カウンセル・オブ・エーシアと言いますが、通称CCAと申しておりますが、こういう組織を持っております。これらの国々のキリスト教会、キリスト教団体がこの元号法案の成り行き、審議を厳しく見詰めております、と申しますのは、かつて日本が朝鮮半島、台湾を植民地として支配いたしましたとき、またその後大東亜聖戦の美名のもとに武力でアジア地域を侵略しましたとき、この国の人々、また民衆はこのことを決して忘れておりません。自分たちの愛する国土に自分たちとは何ら関係もない天皇を祭主とするところの国家神道の神社を次々に建ててその参拝を強要したという事実をこれらの人は決して忘れておりません。民族の誇りを無視して皇民化政策の名前のもとに彼らに何の関係もない元号を強要した事実を彼らはいやと言うほど知っておるのでございます。アジアの地域で使わせました教科書で、元号を教えたものの教科書を私はかつてシンガポールに参りましたときに教育関係者より見せられて、いまあなたの国では皇紀何年ですかと質問されて私は大変困ったことがございます。それは明らかにアジアの人々の私たちに対する皮肉を込めたところの怒りであったと、私たちはこう思っております。
 朝鮮半島のクリスチャンはこの皇民化政策の一環として元号、皇紀を強要せられて、民族の誇りと信仰の自由をもって拒否したために投獄され死に至った人々があります。またその家族、その屈辱を体験した人々がいまその国の指導者、知識人としていまなお多くおられます。これらの人々はA級戦犯の靖国神社合祀、そして大平首相の参拝とともに元号法案を提出した政府の態度を厳しく見詰め、私どもに警告をいたしております。
 私どもキリスト教徒は、戦時下宗教弾圧の被害者であると同時に、自分たちと何ら関係のない元号を強制された侵略された人々の被害に対し責任を果たさなければならないと考えておりますし、私どもはかつて気がつかないうちに彼らの加害者でもあったわけでございます。そのため私どもキリスト教会は、一九六七年に戦争責任の告白というものをもってアジアの人々にその責任を表明いたしております。そのことから言っても、私どもはこの元号法案を反対せざるを得ないわけでございます。
 日本が真に自由、民主の国として国際社会に貢献し、かつて犯した戦争責任を償おうとするのならば、この元号法案によって近隣アジア諸国の民衆にあの悪夢の日を思い起こさせないように日本政府が元号法案を撤回されることを、私は希望いたします。
 以上です。
○委員長(桧垣徳太郎君) ありがとうございました。
 次に小川参考人にお願いいたします。小川参考人。
○参考人(小川泰君) 座ったままで失礼いたします。時間もありませんので、いままでお三方のお話を伺いまして重複するような点はできるだけ割愛しながら、私の意見を述べさせていただきます。
 まず第一には、この元号の始まりという点についてさきに触れられておりますから割愛いたしますが、何と言っても千三百年以上続いておるという事実は私は認めていかなきゃならぬというふうに思いますし、現実に明治の法制下で制定されたというお話もございました。これも事実だと思いますし、現在の日本国の憲法という規定のもとでは確かにいろんな法的根拠あるなしの論議があるかもしれませんが、現段階では法的な根拠がないというふうに認識するのが素直な見方ではなかろうかと、これが第一の私の考えであります。
 二番目には、こういう元号というふうな問題はできるだけ事実は事実として真摯な審議を尽くして法制化すべきだと、こういう前提に立たざるを得ないんではないかなというふうに思っております。
 と申しますのは、いろんな経過はあったとは申せ、かつて日本が終戦を迎えて占領軍というGHQのもとで私ども自身も大分苦労をしましたが、そういう中でこの元号というものが今日まで放置されておった。しかも、サンフランシスコ条約で日本が独立を見たというこの経過にちなんで見まするならば、さきにも言われましたとおり、私は日本が本当に独立したその時期を契機にしてこの種のものは明確に法制化しておくべきではなかったか。そういう点の私はいままで手抜かりがあったのではなかろうかと、こういう感じを持ちます。これが二番目です。
 三番目には、この元号というものが持つ意義と申しますか、意味合いというものを私は素直に見てみたいと思うんです。
 その一つは、日本は現在独立国である、一つの国家、こういう立場に立ってみますると、国民の統合の象徴として元号というものは明確に位置づけなければならない、こういう前提に立ちます。多くの説明は必要ないかもしれませんが、一つの民族が国家を形成し、他の民族あるいは何人にも侵されないでその民族が独立して存続しようとするこの厳然たる歴史を私は大事にしていくのが本来の姿ではないか、こういう考え方に立ちます。したがいまして、独立と統合の象徴として元号というものは位置づけられなければならない、こんなふうに考えるわけであります。
 その二番目は、歴史と伝統というやつは、大変日本語抽象化されておるんでありますけれども、これは私は一つの民族として見るならば、大変大事に尊重しなければならない遺産だろうというふうに私は思います。したがいまして、よき伝統はこれを守り育てる、こういう考え方を大事にしていかなきゃならぬ。そういう結果、いろいろな解釈あるいは見方があるかもしらぬが、千三百三十年以上続いておるということは、私はその間日本の民族が英知を集めて日本人自身のものとして守り育ててきた、こういう事実ではないのかなというふうに思いますので、むしろこの種のものは何物にもかえがたい文化であるということを誇りを持って私は確認すべきではないか。したがって、このようないい歴史と伝統というものは守り育てていかなければならないというふうに考えます。もとより歴史とか文化というものの中でこんなに長い間育ってきたというこれ自体は、恐らくだめなものなら消滅しておったでしょう。その時代を担う多くの国民がよしとして合意があったればこそ今日まで続いてきた、こう素直に見るのが私は至当ではなかろうかと思います。いわゆる自然の流れは真実そのものを物語る、いかに後から理屈をつけようと、それは私はためにするための議論にすぎない、こういうふうに考える一人でございます。
 そう考えてまいりますると、元号というようなものは、それは日本人が日本人としてつくり上げた無形文化財以上の社会的文化だというふうな誇りを持ってこれを確認すべきだというふうに思います。
 次に三番目として、現在この元号というものが生活の中に溶け込んでおる、これも事実だと思いますし、慣習の中に生きて歩み続けておるというのも、これも事実だと思います。こういう事実はもとより法の大前提に立って――ただこれは日本の法律はいま慣習法やら大陸法やらごちゃまぜの法律の体系になってますから、大体どっちの方角を向いているのかというのはようわからぬみたいな傾向がありますけれども、さはさりながら私は人々の必要とした慣習の中から秩序として法律は生まれる。この鉄則に徹して考えてみまするならば元号はあってしかるべきと、直ちに法制化していないのが間違いではなかったのかな、こういう感じを持つ一人でございます。
 その次の四番目として、よくこの西暦といいますか、キリスト暦といいまするのか、まあ紀年法といいますか、年代表記を使った方がいいんではないかという御意見も承ります。しかし、私は幾つかの歴史の長い国家を世界じゅう見てまいりますると、それ相応にそれぞれの国の元号というものはいまその民族の合意として生々と生きておるという事実も見逃せない事実だと思うんです。ただこれは、いま隣に先生がおって恐縮なんだけれども、ぼくなんかは戦争被害者の一人なんですが、果たして西暦キリスト暦というものを私なりに勉強してみますると、あれはたしか五百年ぐらいたってから逆に戻りまして、実際問題としていかがなものかなというふうな内容を持っておりますけれども、これは一つの宗教暦としてその意味をなすものだとして尊重をしたい、このように思いますが、逆に昨今の植民地政策、こういう全世界が舞い戻ってはならない歴史の足跡を振り返ってみますると、この西暦というものが、純枠な発生にもかかわらず、時の為政者が植民地政策の一つとして西暦を使わしめておったような歴史的な事実を考えますると、余り芳しいものではない、こういう感じすらもいたします。したがって余り賛成はできない。これが四番目の私の考え方であります。
 さて、最後に天皇制というものをしばしば取り上げられまして、憲法第一条、これを中心にして元号とのかかわり合いというものに対して幾つかの御意見が出ておるようでありますが、私は、憲法第一条というものを、そのまま、余り頭もよくありませんが、じいっと吟味してみますると、まさに天皇というものは国民統合の象徴であって、主権は日本国民に存在するのだ、こうなっておりますから、この天皇の地位というものと主権者たる国民の自然な親しみと敬意を結ぶきずなとして、私はそのシンボルとして、元号の存在は大きな意味を持つと、仮にこれ否定なさるならば、むしろ憲法第一条を変える方が先だと、いまの憲法を擁護する立場から素直に解釈すれば、そのようにとって決して不思議ではなかろう、こういう感じでございます。
 最後に一、二、一つ何々という方式で時間がありませんから申し上げますが、その一つは、いわゆる西暦合理論というものが一面にあります。確かにその一理は私も認めて一向に差し支えないと思いますので、この法案に出ておりまするような一つの整理の上で併用されても何ら差し支えない、このように申し添えたいと思います。
 その二番目は、何か日本が西暦を使わないと世界の大勢におくれるかのごとき御意見も伺いますが、私はこれはむしろそうお思いいただいている皆さんの方が世界の大勢におくれるのではないか、こういう逆説に立つ一人であります。むしろ世界の流れに日本がどう貢献し、そして位置づけられるかという問題と元号という問題は、次元が全然違うと、こういう明確な認識を持つのが至当ではなかろうか、こう思いまして、むしろ民族の誇りというものを高々と掲げることこそ尊敬のもとである、このように考えますので、決して大勢におくれるものではない、こういうことを申し添えたいと思います。
 最後に、よく天皇制復活論とか右傾化論というものをこの元号論に結びつけてお話しされる方々がいらっしゃいますが、どうもこの種の問題、まああらゆる問題そうですが、警戒といいますか、いろいろな角度から御検討いただくということは大変私はすばらしいことであり結構なことだと思いまするけれども、必要以上の思い過ぎはむしろ私は弊害がある、素直にこれを見るべきであって、その結果はむしろみずからを卑下し、小児病的な発想に陥る可能性なしとしない、このように考えるものであります。したがって現在日本は、りっぱに平和憲法を持って、憲法九条で戦争を放棄し、非核三原則で人類悪魔の兵器は、つくらない、持たない、持ち込まないというりっぱな世界に冠たる独立民族として今日の盛世を見ておる、そういう立場で見まするならば、私はこの種の問題は、自信を持って対処していくというくらいのりっぱな審議を国会の先生方にお願い申し上げたいということを申し添えて、私の意見にかえます。
 以上であります。
○委員長(桧垣徳太郎君) ありがとうございました。
 最後に高柳参考人にお願いいたします。高柳参考人。
○参考人(高柳信一君) 高柳でございます。
 元号問題の歴史学の見地からあるいは社会科学の見地からの考察としては、これが天皇主権と密接にかかわっているものであるということは論議の余地はないと思います。しかしこの問題につきましては、多くの論議がなされておりますので、本日は規範学的な見地、まあ法学は一つの規範学でございますが、その規範学の見地から元号を法制化するということは一体どういうことなのか、この問題について考えてみたいと思います。
 それは当然思想の自由、学問の自由の見地からの考察になります。元号がそういう意味で、古来の天皇制と関係のあるということは、歴史的事実としては否定できないと思いますが、しかし元号を使う方が、どういう考えで使われるかについては、これは各人の全く自由だと思います。昔はそうだったかもしれないけれども、日本国憲法のもとで、国民がこの年号を一番いいものだと思って使っている、私もそういう意味で使うんだという方がおられれば、そういうふうに理解して使われることも自由でありますし、元号の歴史的由来にかんがみて、自分は絶対に使いたくないという方がおられるのも自由でありまして、どっちが正しいという問題ではないであろうと思います、規範学の観点から申しますと。
 また、西暦はキリストの誕生あるいはその教えと密接に関係があって、そういう意味で自分は西暦以外は絶対使わないという方もおられるでしょうし、後にも申します学問の国際化という観点から申しますと、元号で論文を書いても通じない。科学の進歩を、一般的な普遍的な国際的見地から問題にする場合には、西暦以外適当な紀年法はないというお考えで使われる方もあると思います。これらは全く自由でありまして、それが憲法の保障する思想の自由でございます。
 しかしこれを法律で定めるとなると、そう簡単ではなくなるということが気づかれなければならないと思います。私どもは学問研究者の一員でございますので、学問の自由の観点から申しましても、先ほど申しましたとおり、学問研究、これは国籍のある人間がやることではございますが、自国の関心、問題意識からなされる研究であればあるほど、国際的な観点からそれを照射して見直すということが常に伴わなければ独善に陥るわけであります。そういう観点から、学問研究をする立場の者あるいはもっと形式的に区別すれば、自然科学の関係では、恐らく元号で論文を書いて海外に発表するということは考えられないことだろうと思います。ところが私どもの法学の立場から申しますと、法学は判例や法律を対象にいたしますが、判例、法律は常に昭和何年のどういう判例、昭和何年法律第何号という形で出ますので、私どもの研究論文を、西暦で千九百何十何年の判例と申しましても、非常に伝達方法として不合理で有効性がございません。したがって、私どもは法学の論文を書く場合には、ことに実定法を分析する場合にはどうしても元号を使うわけでございます。で、それは全く自由であるわけで、それぞれの学問分野において、最も学問的研究成果を他人に伝達するにとって合理的、実効的な方法を使えばよろしい。どちらでなくちゃいかぬということを決める必要があるかどうか、そこが問題であります。
 ところで、今次の元号法案は、繰り返し、これは国民に強制するものではないというふうに説明されております。おっしゃっている方は全くそういうふうに考えておっしゃっているのだろうと思います。まあ言葉が悪いかもしれませんが、あえてうそをつくというつもりで言っておられる方はおられないと思います。しかし法学の観点から見ますと、元号を法で定める、法律の形で定めるということは一体どういうことなのか、法はそれ自身国家権力によって、国家権力のサンクションによって担保された規範であるというのが定義でございますが、そのサンクションはどういうふうに働くのか、全然サンクションがないのか、これは法学の観点からすると十分検討しなければなりません。そして、元号を国の制度として法律で定めた以上、国家機関は使いますよと、地方公共団体もこれを尊重して使ってほしいと、これまた、立法者の立場からはしばしば言明されておりました。
 ところで、現在の、つまり現代国家はかつての政府対国民の関係が非常に一元的で量が少なかった時代と違いまして、文化国家であり、福祉国家でありまして、国は、学問研究、教育、試験、それから福祉の提供等々密接に国民生活とかかわっております。それに伴いまして、国、国家公務員、地方公務員の数もふえる一方でございます。
 それから、文化国家でありますから、国は教科書検定というような重要な部面で国民の精神的成長とかかわっております。これらの国と国民との間のコミュニケーションにおいて文書の上で年月日をあらわす場合、まさに元号かどうかということが問題になります。
 で、この法律を拝見いたしますと、そこらのところは全くどうなるのかわからないわけです。で、法律とは何かというはなはだプリミティブな問題について、明治憲法の実質的にそれを起案し、その精神を説いた伊藤博文の「憲法義解」を見ますと、法律について次のように言っております。「法律は各個人の自由を保護し、又国権」つまり国家権力ですが、「国権の必要より生ずる制限に対して其の範囲を分画し、」、まあ制限と同じ意味だと思いますが、「分画し、以て両者」つまり自由と国権、「両者の間に適当の調和を為す者なり。」こういうふうに言っております。つまり、国民の自由と公益を追求する国家権力との間の限界点を画するものが法律であると、つまり、法律によって自由がどこまで公益によって制限されるのか、逆に言えば、国家権力はどこまでしか入り込み得ないのか、その限界を分画するのが法律の本質であり使命であるというのであります。
 この法律の理解は、実は日本国憲法的な法の支配の理念から考えますと、かなり消極的な意味でのマイナス点、問題点がございます。なぜかと言いますと、法律が国民の自由を保護するものだという、そういう考え方ですから、法律がいかに基本的人権を侵しているものであっても、ともかく法によってこれ以上は自由を侵害しないというふうに定めることが自由の保護だという、こういう考え方ですから、日本国憲法のもとでの法律は違憲であれば無効になるという、そういう法律観とは段が違うと、非常に低次の法律論でございます。ところがこういう日本国憲法の立場から考えると、やや問題のある法律の定義、概念にすらこの法律、元号法案は達していないのではないか。つまり先ほど申しました文化国家、福祉国家のもとで行政権と国民とがさまざまに交わり合う、その場合、元号がどこまで法によって強制され、どこまでは、一番最初に申しました国民の思想の自由として自分の欲する紀年法を公文書に書き得るのか、この点が全然はっきりしないわけでございます。現在の内閣は、国の機関は使うけれども、国民には強制しないと言っている。しかしこれは抽象的可能性、仮定の問題ですから、幾らでも状況を設定できると思いますが、仮に同じ内閣が一晩寝て、いややっぱり国民にも協力してもらおうというようになった場合、この法律のもとで思想の自由の観点から、あるいは学問の自由の観点からそれでは困る、そんなはずではなかった、立法者はそんなことは言えなかったといって、国民の自由が何らか保護される手段があるか。つまり裁判的保護が可能かと申しますと、この法案が実定法になった場合、恐らくこれではどうにもしようがない。国が元号を法制度として定めた以上、国の文書について国民が願い、届け、申請、申し立て等々を行う、あるいは住民参加、いろいろな形で公文書に関係する、そういう場合に、国の制度である以上、国が元号以外受けつけないといってもしようがないではないか、そういう判決になりかねないわけであります。
 それからさらに、内閣がかわればその点はどうなるか、わからない。自由の観点から言ってこれでは約束が違うという事態が起きた場合に裁判的保護はまずあり得ない。
 それから第二に、国の機関ということですけれども、これにも種々さまざま国立の研究所、国立の大学、国立の試験研究機関、公立の学校、公立の研究機関、さらには、私の所属しております日本学術会議という学者議会といわれるもの、すべて国の機関であるわけです。国立の研究機関が研究成果を当該機関の文書として取りまとめて刊行する場合、一体これは、国の機関は元号を使ってもらいますよというのは、それに拘束されるのか。私の所属する国立大学が公の文書を出す場合、年号を使え、元号を使えということなのか。地方公務員である教員が学校で教材をつくる、あるいは自分の教育結果について公の文書を出す場合、元号を使わないといかぬということなのか。この法律を見ても全くわからないわけであります。
 そうしますと、いい状態が事実上続けば、それは問題がありませんが、それが自由の方にとって消極の方向へ変わっていった場合、裁判的保護によってそれに歯どめをかけるということが全然不可能であります。現に、新聞で拝見いたしますと、法制局長官は、国民はこれを使うことは強制されないけれども、公務員は、服務規律として、上司が元号を使うことを職務命令によって命ずれば、これに従わなければならない、これに違反すれば懲戒処分の対象になるということを明言しておられるわけであります。私は、この法案が実定化した場合の元号の国家機関による使用についての強制は、法制局長官の言うような懲戒処分というものだけには限らないと思います。あえて言えば、勤務評定制度が重要なてこになると思います。この国立大学、この国立研究機関では、研究成果を対外的に発表する場合、内容が自然科学であるから、まさか元号で表示するわけにはいかない、西暦で表示して公の対外的文書を作成、刊行する。しかしこの国立大学、この国立研究所では一々元号に直して対外的に公表する。そういう場合、自然とどっちが上級行政機関のおほめにあずかるか、そういう問題が出てくる。同じような国立研究機関であって、あそこは元号をちゃんと遵守しているのに、この国立研究機関は内容が学問上のものだから、自然科学だからといって西暦を使っている、どうも勤務評定上まずい結果になる。つまり、事務局員、事務局長等でありますが、そういうようないろいろな問題が出てくるだろうと思われます。
 現に、実は昨年の七月に学術審議会が遺伝子組みかえ問題についての中間取りまとめを発表しております。これは一九七八年七月でありまして、元号問題がそろそろやかましくなってきているときであります。ついででございますが、元号法制化実現国民会議というのが結成されたのがちょうど同じ年の同じ月でございます。このDNA組みかえというきわめて国際的な関連のある問題についてのこの文書を見ますと、遺伝と進化についての生物学の研究は発達し、ついに昭和二十八年、遺伝に直接関与する物質として知られていたDNAの分子構造がJ・D・ワトソンとF・クリックによって解明されるに及んだ。日本に来たこともない、日本に関係もしない事柄についての事象が元号で表示されている。そしてこの問題についての科学者の安全保持についての努力が進められて、英国及び米国では国の公的機関の委嘱を受けた委員会がそれぞれ検討を開始し、昭和五十一年六月に米国ではNIHによる実験指針が発表ざれた。米国の機関が米国において米国の研究者に対して出した実験指針が昭和五十一年六月というふうに表示されている。これは最初に申しました国際性を尊重する自然科学研究においていかにも場違いな表現であるわけです。こういう文書を出す国立の――国立といいますか、国の行政機関、あるいはそれに付置される機関もある、全然そういうことにむとんちゃくで西暦を使う研究機関もある、国立研究機関もあるというような状況のもとでどういうふうな事柄が進行するであろうか。私は、元号の法制化という問題について、危惧を感ぜざるを得ないわけであります。
 そういう観点から言いまして、元号も、西暦も、紀元は天皇制あるいは宗教制というものがあるかもしれない。しかし現在、これは両方とも――両方ともといいますか、客観的な紀年法としては通用しているわけですが、そうしてどちらを使おうが自由でありますが、それぞれの国民の思想、それぞれの国民の行っている社会的な活動、使命の観点から最も適したものを使うというのが文化国家であり、福祉国家であろうと思います。それをどれか一つでなければいけないと法制化するということは、そういう観点から言って非常に問題であろう。そうして国民には強制しないのだから問題はないというその議論は、法学的観点から言って、非常に正当性を疑わざるを得ないということでございます。
 以上でございます。
○委員長(桧垣徳太郎君) ありがとうございました。
 以上で参考人の方々からの御意見の聴取は終わりました。
 これより質疑を行います。
 質疑のある方は順次御発言願います。
○向井長年君 私は、ただいま参考人の先生方から賛成の立場、反対の立場、それぞれ貴重な御高見を拝聴いたしました。
  〔委員長退席、理事林迫君着席〕
 私は法制化賛成の立場をとっておる一人でございます。そういう中で、私は、全参考人の先生方に、簡単に一言ずつ、私二点ほど質問いたしますから、これについてお答えを賜りたいと思います。
 現在、昭和という元号でございますが、これは、先生方御承知のごとく、過去においては旧憲法時代、言うならば、皇室典範で定められた昭和でございますが、これが現在、慣習的に国民の中に使われておる、あるいは生活に溶け込んでおる、こう言われておるわけであります。したがって、この慣習が一つあるわけであります。一方におきましては、いま宗教的な形で、西暦という慣習もあります。そういう状態があると同時に、今後しからばどうするかという問題について考えますならば、一つには、慣習を持続していけという問題あるいはまたもう一つは、内閣告示で決めなさいという物の考え方、もう一方は、やはりその法律根拠をつくってこの元号の法制化はやりなさい、という三つが私はあるのではないかと思います。
 そういう過程でいま本案がここで審議され、先生方の意見を承っておりますが、やはり法制化をして、そうして国民がこれを使用していく、あるいは場合によれば自由な形もとろう、こういう形でこの法案が審議されておるわけでございますが、内閣告示というのは、これは言うならば、時の政府が適宜適切に決めることになりますから、これは言いかえますならば、非民主的というか、われわれから申し上げますならば。それよりも国会において一つの基礎づくりをするという形で、現在この法案が出されておる。これは内閣告示よりも民主的であるということが明確に言えると思います。
  〔理事林ゆう君退席、委員長着席〕
 で、慣習の問題につきましては、なるほど今日まで慣習で昭和年号を使っておるわけでありますが、これは御承知のごとく、旧憲法下において一世一元という形が従来とられてまいりまして、まあ恐れ多いことでございますけれども、天皇さんが亡くなられれば年号が変わるという慣習が過去にあったわけでございます。したがって、この慣習をどう今後使っていくかという問題が、一つの疑問がここに起こるわけでありますから、私がいま申し上げましたこの一世一元も、これは旧憲下にありましたけれども、これも慣習として今日あるわけであります。しかし、つくるかつくらないかは、これは法律根拠がございませんから、いまこの法案が提起されておると思いますが、やはりこの三つの問題をどう考えることがいいのか、まあ反対、賛成いろいろ論議があると思います。あるいは歴史的な今日までの経過もあると思います。そういう中で、一つにはこの慣習をとっていくのか、内閣告示をとるのか、あるいは法制化をとるのか、こういう三つの問題について、やはり国民の中において十分検討されて、その中から法制化をすることが妥当ではないだろうか。使用の問題については、いま先生方もお話ありましたように、これは公文書の問題もあり私文書の問題もある、これについては選択の自由ということがいま言われている。これはいいか悪いかは別でございますが、言われておる。こういう問題について、まず先生方の御意見を伺いたい。
 第二点は、この元号法制化に対する反対する各冬一部の国民の中においてもいろんなことが言われておるんです。われわれはこれを素直に受けとめておることは、言うならば三年前あるいはまた四年前から国民が期せずしてこういう世論化し今日に至っている、こうわれわれは判断をいたしておるんであります。そういう中で一部の反対する人たちは、一世一元という過去の歴史、こういう中からやはり天皇制の強化になる、したがってその来るべき問題は、言うならば憲法改正に通じるだろう、あるいは再軍備に通じるだろう、あるいは徴兵制に通ずるだろうというようなことを国民の前にいろいろと宣伝している一部の反対論者があるわけであります。現にあります。これはもう先生方御承知のごとく、現行憲法の中では天皇の制度というものは国民の象徴である、象徴天皇である、象徴天皇は政治に関与しないということになっておりますから、そういう例は全くないわけでございます。にもかかわらず、それをあるかのごとく宣伝をして反対する人たちが各所におる。国民は素朴でございますから、ああそうかな、そうなるのかなあというような感じを持つ人たちも中にはないとは言えないのであります。したがって、主権在民の憲法下において、そういうことを宣伝し反対に持っていくことについては、われわれはどうも納得できない。したがって、いまこの法案を審議するさなかにおいて、十分国民の意見を聞き、いまや各都道府県と申しますか、地方公共団体の県議会あるいは市町村、こういうところでも、多くのそういう議会において法制化推進の決議をして、国会請願がなされておる、こういう状態の中で、いま言う危惧するようなことは全くないのではないか、こういう感じを私は持っておる一人でございまして、まあ先生方、反対の立場あるいは賛成の立場で、貴重なしかも歴史的今日までの経過等々を加えての御意見でございますが、いま申しました、一つには内閣告示、あるいは慣習、あるいは法制化、この三つのうちのどれをとっていくかという問題、あるいは一方においては、この国民の中での運動が起きておる天皇制に対する問題、こういう点について、私は二点お伺いいたしまして、私の質問を終わりたいと思いますが、先生方から一人ずつ端的にお答えをいただきたいと思います。
○委員長(桧垣徳太郎君) それでは、ただいまの向井委員の御質問に対しまして順次発言順序によってお答えをいただければ幸いでございます。最初に松岡参考人。
○参考人(松岡英夫君) お答えいたします。
 ただいまの御質問の第一点、習慣に任せるか、内閣告示で済ませるか、あるいは法制化がいいのかという、どれをとるかということですが、私は、国民の習慣の自然に任した方が一番理想的だと、国民の選択に任せろと、元号を使う使わないは、あるいは制定するしないは国民の自由に任せろと、そして自然的に元号と西暦の二重使用は不便だから元号はやめちまえと、やめようということに自然に流れていくのが理想的な姿ではないだろうか、それが国際社会における日本のあり方、そういうものではなかろうかというように考えます。
 それから、法律で決めることが民主的で、内閣告示は内閣が変わるたびに変わるから非民主的ではないかというお話がありましたけれども、内閣自体が非民主的であるというふうに初めから決め込むのはいかがかと思うんです。現在においては内閣そのものは非常な民主的な手段によって成立し、民主的に運営されておるものだというように思いますので、その内閣で元号を定めるということは、手段としては別にこれを非民主的であるとか、民主性が薄いとかということにはならないのではないかというように思います。それで、内閣が変わるごとに元号が変わるのは非常に不便ではないかというお話がありましたが、これは確かにそうなんで、明治以前は、先ほど最初に私が申しましたように孝明天皇の在世には七回も年号が変わっております。一年数カ月で年号が変わるというような時代だったんですが、民衆にとっては、その時代は年号というのはあんまり物を数える基準にはしていなかったようであります。そこで、何を基準にしたかといいますと、例の十干十二支というんですか、庚申の年とか壬午の年とか、こういう、たしかあれは六十年周期でワンクールできるんで、六十年続くんですから、これが一番年を数える基準になりやすい。徳川時代の書いた物など読みますと、「安政壬申の年」という、必ず何々の年というのが入っております。そういうことで代行しておったんで、年号などというものはほとんど実用になっていなかったということがはっきりしておるわけなんでありまして、そういうふうに元号が内閣が変わるたびにくるくる変わって、これが不便だからもうやめちまえということになる、これもまたいいじゃないかというように私自身は思うわけであります。別に法律にしなくてもよろしい。無理に法律にするというのは、何か別の意図を持っているんじゃないか、天皇制時代への郷愁あるいは宗教的な意味、そういう別の意図を持って年号を法律で決めて、一世一元というようなことにしようとしているんじゃないかというようなよけいな疑いを持たれるというように思うんであります。やはり年号という国民生活に密接に結びついておるものは国民の生活の便利さ、そういうものを中心にして考えていくべきじゃないかというように思います。
 それから、第二点の御質問でありますが、こういう年号法制化ということは、天皇制の復活とか天皇大権をまた呼び戻そうというような、そういう意図につながるものではないかということを、いろいろ反対理由にしておるのはどうかというお話でありますが、私も先生と全く同じ考えで、別に年号を一世一元にすることによって、これが天皇制の復活に結びつくというようには私は思わないんです。それほど日本民族の民主主義というものはやわなものじゃない、いまの憲法は天皇象徴というわけのわからぬ、宙に祭り上げておさめておる。これは明らかに主権者は国民であるんだと、これが大事なんだということを言っておるわけでありまして、この国民主権の、あるいは天皇象徴というようなわけのわからぬ宙に祭り上げて、そして何となくありがたいものだが、実体はちっともわからぬという形にしておくところに非常に深い意味があるんだと。憲法、それからわれわれの民主的な知識、努力、そういうものによって民主主義というものなり、現在の憲法の精神というものは守られていくんであって、一世一元を法律化したからこれは危ないことになる、大変だ、天皇制復活につながるというような、そういうおそれは私は持っておりません。
 以上であります。
○委員長(桧垣徳太郎君) ありがとうございました。
 大変恐縮でございますが、時間の関係がございますので、各参考人の方々にはなるべく簡略に御意見と結論をお聞かせいただきたいと存じます。
 続きまして宇野参考人にお願いします。
○参考人(宇野精一君) ただいまのお尋ねの第一点でありますけれども、私は当然法制化しなければいけないというふうに考えております。それは、つまりいまの昭和という年号は現状のままでも一応問題ないようにも思いますけれども、陛下が万一の場合のことを考えますと、その後のことをきちんとしておかないといけないと、そのためには法制化でなければいけない。
 それから、告示ではなぜいけないかといいますと、これはお名前を申してはちょっと悪いのかもしれませんが、佐藤功という先生がおられますが、あの方は元号にはむしろ反対のお立場の方ですけれども、もし存続させるならば法制化すべきであるという御意見であります。私はそうだと思いますね。ですから、元号なんかやめちまえという御意見ならば、それは法制化されちゃ困るわけですし、私どもはどうしても元号は続けたいと、続けなきゃならぬと考えておりますから、当然法制化ということになるんで、明々白々だと思います。
 それから、その次の天皇制強化云々のことは、ただいま松岡参考人もおっしゃったとおりで、別にそういうこととは関係はないと思っております。
○委員長(桧垣徳太郎君) ありがとうございました。
 それでは、次に木村参考人お願いします。
○参考人(木村知己君) 一番最初の、前の方の御質問でございますが、高柳教授が言われましたように、法律というものは自由を保障しなければならないものであるという点から、私たちの生活の時間的、空間的なところまで法律が規制することはふさわしくありません。したがいまして、私どもにとりましては元号はそれぞれの方たちが自分たちの用いるべきものを用いたらいいので、法制化せられることによって何らかの規制の行われることについては反対でございます。
 それから第二点でございますが、元号反対の人たちが改憲とか天皇制の問題を悪宣伝しているというふうなお話でございますが、むしろ私は逆に、元号法案を推進している方たちが、一世一元の法制化実現しよう、自主憲法を制定しようと言って宣伝していらっしゃるのはそちらの方でございます。私たちはその宣伝に対して反対を述べているだけでございまして、根拠のない反対ではなくして、宣伝していらっしゃることに対して反対しただけのことでございます。もしも事実がないというのならば、ここにいま資料がございますから、ごらんくださいますように。これは東北――柏葉陸将という方が建国記念日奉祝大会に出席して、参議院の内閣委員会でも問題になりました。ここにはっきりと「ゆがめられた日本歴史の名誉を回復しよう」「一世一元制の法制化を実現しよう」「自主憲法を制定しよう」といってスローガンにして宣伝をしておられます。
 以上です。
○委員長(桧垣徳太郎君) ありがとうございました。
 それでは次に小川参考人お願いします。
○参考人(小川泰君) はい。端的にお答えいたします。
 一番目の問題は、いま日本の仕組みというのは立法、行政、司法と大きく言えばそういう運営をされております。いやしくもこの種の問題は立法の府で民主的に審議を尽くして決めるべきである。この一語で慣習、告示に対する答えも同時にお答え申し上げて意見といたします。
 二番目、天皇制強化、右傾化、私も触れましたが、私はこれそのものについて向井先生おっしゃったことと全く同じなんですが、むしろそういうものを一つの題材にしながらこの種の問題を審議するということ自体に憂いを感じます。もう少し物を見る場合にはまともにしっかりと見詰めていくべきではないか。どうもいろんなものを決める場合に極から極でものをやり過ぎるものですから、国民が全然わからなくなっちゃって、一体本当のものは何だと、こういうふうなきらいすらも起きるような事の運び方というのは余り私は感心いたしません。素直に自然に取り扱うべきだと、こう考えれば何ら危惧する必要はない。
 以上です。
○委員長(桧垣徳太郎君) ありがとうございました。
 最後に高柳参考人にお願いします。
○参考人(高柳信一君) 第一点でございますが、慣習として確立しているのであれば、また国民の文化的遺産として貴重であるならば、権力的サンクションはそれに反すると思います。第一の選択肢、慣習として存続させるのが国民的文化遺産で仮にあるならば、そうあらしめるゆえんだろうと思います。
 なお、法律で定めるのが一番民主的だという点については私はそう思いません。法律で定める以上、国民に対してサンクションを背景にした制度として認めさせるわけでございます。全然サンクションのない法律というものはちょっと考えられない。仮に本当にそういう国の機関の内部で使うだけであって、国と国民との間の権利義務関係に全然関係のない定めだとするならば、法律は不適であります。行政府の長としての内閣が行政各部、つまり行政内部で使うものとして告示し、内閣訓令によって今回元号はこのように定めたから行政内部ではこれを使いなさいという訓令を発するのは適切だと思います。これは第一の慣習として存続させるのが最善といいますか本来の筋である。もしどうしても国の機関として元号を使う必要があるならば、それに即した法形式をおとりくださいという答えになります。
 それから第二点について、御質問に真っ向から答える意見は余りございませんが、日本国憲法施行後、憲法というものを初めて国民ではなくて国家権力を拘束するものとして国民は持ったわけであります。明治憲法はそういう憲法ではなかったと思います。そういう意味で為政者といいますか、国家権力を行使する立場にある機関、人は、日本国憲法施行後そういう意味での憲法の性格をいやおうなしに認識せしめられまして、ある意味で日本国憲法という本当の意味での西欧立憲制的な意味での憲法が日本にできたという感じを持たせたわけでございます。ところが、三十年余を経ますと、当時であれば日本国憲法が日本国憲法として存在を主張していた間においてはあえて言わなかったであろうような言動が権力の担い手、政府関係者から比較的、何といいますか拘束力なしに、拘束感といいますか、憲法によって拘束されたという意識なしにぽんぽんと言われるような時代になったなあという感じは、これは憲法制定時からずっと見つめてきた者としては否めない実感でございます。元号、有事立法、教育勅語、軍人勅諭、国民主権、平和主義、国民の教育権というようなことからすると、そういうことを内容にする憲法の拘束のもとにある政府権力の担い手としては、そう簡単に言えないことを比較的安易にぽんぽんと言うようになったなあという、そういう実感を拒むことができないという感想をもってお答えにかえたいと存じます。
○委員長(桧垣徳太郎君) ありがとうございました。
○西村尚治君 松岡参考人にお尋ねしたいと思います。座ったままで失礼いたします。
 松岡さんのお話では、元号というものは明治になるまでは天皇の在位とは何ら関係がなかったんだということが一つ、それから明治になって一世一花ということになって元号の性格ががらりと変わったんだというふうにおっしゃいましたですが、果たしてそうでしょうか。私はどうも、私は賛成派ですけれども、必ずしもそうでないと思うんですよ。と申しますのは、一つには、確かに例に引かれましたように孝明天皇のときには七回も変わったと、そのほかの天皇のときにも瑞祥があった、あるいは災害があったというたびに祥瑞改元だとか災異改元だとか、たびたび頻繁に行われましたね。これは確かですけれども、しかしそういう中にあってなおかつ天皇がおかわりになるたびに必ず改元というものがあったわけです。いわゆる即位改元とも言いますし、代始改元というものが必ずあった。だから、天皇がおかわりになるたびに元号が変わるんだということは、私は元号の特質であり本質であると言っていいと思うんです。そのことが一つ。
 もう一つ、明治になって一世一元が打ち立てられたと、これで性格一変とおっしゃるわけですけれども、一世一元というものは、これは明治になって初めて打ち立てられたものでは必ずしもないわけでございまして、これも御承知かと思いますけれども、平安朝初期のころ、前期のころは桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇ですか、あのころはずっと一世一元だったんですよ。一号一代とも学者先生は言っておりますけれども、そういう時代がずっと続いておるんです。それとその前後、さっき申しましたように、また先生御指摘のように頻繁に改元が行れておったことは、国民としてこれをフォローするのに煩にたえぬわけですわね。
 そこで江戸時代になりまして、これも御承知と思いますけれども、いろんな学者が、たとえば大阪の中井竹山だとか水戸の藤田幽谷だとか豊後の広瀬淡窓、こういった識者、学者がこれは一世一元でいくべきだということを盛んに強調したわけです。そういう時代がずっと続きまして、明治になってそういった私は民間の意向を吸い上げられたんだと思うんですけれども、それで一世一元というものが確立したわけですね。ですから、そこで初めて一変したというのではなくって、私は元号の本質、原理、そこに本来の姿に明治になって立ち返ったんだというふうに考えるべきものだと思うのでありますが、いかがでございましょうか。
 それともう一つ、元号なんというものは大したものじゃない、ささいな問題だと、これは一種の社会習慣みたいなもので、これは断固変えれば国民おのずからついてくるんだと言って、ちょんまげだとか辮髪を例に引かれたわけですけれども、私は元号というものを辮髪やちょんまげと一緒にされることは大変、何と申しますか困った問題だと思うのですよ。私も松岡さんのサンデー毎日の評論を愛読しておる者でございまして、大事な有力なオピニオンリーダーでいらっしゃる。その松岡さんが、そういうことで十把一からげに考えていらっしゃるということ、これは大事な問題です。だからこそ、より真剣に慎重に検討していただきたい、松岡さんだから特にそれお願いしたいと思うのです。私は、そんな簡単なものじゃない――まあ釈迦に説法のような気がしますけれども、だと思いません。これは国民の日常生活に実に緊密な密接な関係を持った重要な大事な問題だと思うわけでございます。
 ところで、国民はおのずからついてくるんだから十年ぐらい元号のない生活を国民に味わせたらどうかという御提案でした。これはおもしろいかもしれませんけれども、元号を使わないで国民が毎日毎日使わなきゃいかぬ年の表示というものを、それじゃ何を基準に使ったらいいのか、どういう方法が御提案の趣旨に沿う具体的方法として考えられるのか、その辺のところをもしアイデアがありましたらお聞かせ願えたらと思うわけでございます。
○参考人(松岡英夫君) 四点御質問があったと思いますが、一つは、以前には天皇の代がわりのときには必ず元号が変わったということでございます。確かにそういうことはあったと思いますけれども、これは天皇の代がわりに変わったというのは、ほかの天変地異のときに変わったとか、あるいは非常にどこかの国で銅が主として献上されたので和銅としたとか、あるいはどこかの国で白いキジがつかまって、それが天皇に献上されたので白雉という年号にしたとかいう、そういう非常に大きな出来事の一つとして天皇の交代、治世の交代というものを考えて年号を変えたんだというように私は解釈していいんじゃないかというように思うのです、これが一つ。
 それから昔、桓武天皇時代、その他一世一元の時代があったと、だから明治になってからはそれの復活にすぎないんだというお話なんですが、これも確かに歴史的事実としてはそうだと思うのです。私の言い方が少し、私は徳川時代を標準にして考えたものですから、そういう事実と違った表現になったことはおわびいたしますけれども、われわれがいま問題にしているのは明治時代の一世一元、あの天皇制国家の成立と同時に発足した一世一元、それと現在を考えておるのであって、また元号法制化を、一世一元という法制化をいま進めていらっしゃる人は、何も平安時代の桓武天皇時代に戻るという意味で言っていらっしゃるのではないんで、明治時代のことを基準にしておっしゃっているんだろうと私は推察いたしますので、そこで明治時代のことを申し上げた。あの天皇制国家の強力なスタートとともに一世一元というものが意味づけられたと、それをわれわれは現代において復活する場合にどう考えたらいいかという意味で私は申し上げた。
 それから、ちょんまげ云々というお話がありましたけれども、これはまあ物のたとえでして、日本人はウサギ小屋に住んでいるというような物のたとえと同じことなんで、それに余りこだわっていただきたくないんです。ただ、私の言いたいのは、一つの大きな社会的習慣が変わる場合には必ず大きな抵抗がある。しかし、その習慣を乗り越えて新しいスタイルができれば、それはまた一つの習慣として定着する。だから、そんなにあわてふためく必要はないんだという意味でちょんまげと辮髪を例にしたわけなんです。そういう意味に御理解いただきたいと思います。
 それから、最後は何でしたか。
○西村尚治君 元号を使わせない方法をやったらどうかという御提案、御提言、これはどういう方法が考えられるでしょうか。
○参考人(松岡英夫君) それは元号のない時代は、それは西歴ですよ。これは簡単明瞭です。これは非常にはっきりしたことなんです。
○西村尚治君 おっしゃいますけれどもね、いいですか、議論にわたっちゃいかぬということですから議論はしませんけれども、じゃ西暦で簡単だとおっしゃいますけれども、ほっといて国民は西暦をおのずから使うようになるでしょうか。これは非常に問題だと思うんですよ。そのためにもやはり何か年の基準なんか紀年の基準というものを国が制定しなければ、宇野先生がおっしゃったように、私は社会生活、国民生活が非常な混乱に陥ると思うんです。やはりこれはどこの国だって基準というものははっきり明記してあるわけですから、当然西暦だとおっしゃっても国民がそれについていくかどうか。これが非常に、今度の法案の一番のこれは大事なポイントだと思うわけでございまして、そうですが、いや御趣旨わかりましたから、もうこれ以上なにしますと、先ほども言ったように……。
 ありがとうございました。
○原文兵衛君 座ったまま失礼いたします。
 私は高柳参考人にちょっとお伺いしたいんですが、実は私は今度の元号法案につきましては、現在昭和という元号も西暦も両方使われておりますね。その場その場でもって必要に応じて使われている。これどちらも事実たる慣習によって使われていると思うのでございます。ところが、西暦の方はこれは事実たる慣習はいつまでも続きますけれども、元号の方は、まあいまの陛下がお亡くなりになりますと、それでもって事実たる慣習は切れちゃう。ところが国民の多くの方々はやっぱり元号はあった方がいいという世論が多い。
 そこで、いまのこの国民生活に定着したと言われているこの元号、これを事実たる慣習だけでやっておきますと、元号の方は切れちゃうものだから、いまのままで続けるためにこの元号法案というものが出されたというふうに私は理解しているわけでございます。そういうような意味で、決してこの元号法案が制定されたからといって、法律になったからといっていまの状態とひとつも変わらないじゃないかと私は思うわけです。いろいろ例も引かれましたが、たとえば大学なり、あるいは学術会議でもって出される文書あるいは論文とか、あるいは記録とかいうようなものもいままでのように国際的なもので必要があれば元号じゃなくて西暦をお使いになるでしょうし、まあ国際的なものでも元号を使った例を先ほど引かれましたが、これは日本人が読むのに便利だと思って、そういうふうな扱い方をされた例があるのかどうか、私はその記録を知りませんからわかりませんが、まあ学術会議の記録だって元号も使われているでしょうし、西暦も使われていると思います。大学でもそうだと思います。したがって、私はただほっとけば事実たる慣習がなくなっちゃうから、ただその事実たる慣習を国民の多くの方が望んでいるから、そのために法律にしておこうというのが今度の法案の趣旨だと思うわけでございます。だから、これができたからといって何ら変わるところはないんで、ましてたとえば大学でいろんなものを出すときに元号を使わないと勤務評定が悪くなるとかなんとか、そんなことはもう全然私は考えられもしないように思うわけでございますけれども、これらの点につきまして御意見をお伺いいたしたいと思います。
○参考人(高柳信一君) 最後におっしゃいました点は、原議員が総理大臣であられれば大変安心して聞けるんでございますが、国の政治は現在のような多党現象になりますと、党と党との間のいろいろな力関係、それからさらに一つの党の中でのいろいろな派閥の力関係で、一年前には予想しなかったようなことがぽんと出てくるのでございます。で、そういうことは、これは政治一般として避けがたいことでありまして、政治とは妥協であると、したがって一つの観点から見て論理一貫しないのは当然だということ、よく言われまして、一般的政治現象としては別にそうだからどうだという気は全然ございません。しかし、事国民の思想の自由や学問の自由にかかわる問題を、そういう政治的力と力との間の力関係にゆだねるにしては問題は余りに大き過ぎる。
 で、いま伺った御発言、恐らく国の政治を原議員が運営し得るお立場にあればそのとおりになって心配はないと思うんですが、先ほど申しましたような政治現象についての庶民としての受け取り方としては、裁判的保護の機会のないような形であっても安心していろということは、法学者としてはちょっとどうしてもそこまでお任せすることはできないということでございます。
 なお、前段の方で言われました点は私もわからないことはないのでございますが、もし元号を国民の大多数が使いたいということであれば、昭和が百何十年というふうに使われても決しておかしくはないのではないか。そして仮にまあ万一の場合についてどうしても特定の天皇と元号を結びつけて考えないとそれは元号ではなくなってしまうというのであると、これはやはり現在事実たる慣習として定着しているところのものとは違うものとして元号、つまり本来の意味の元号として再生しようとするもの、あるいは再確認し、再確立しようとするものというふうに考えられても仕方がないのではないか。この法案はやはり現在の状況をそのまま、何といいますか、認めるというのではなくて、やはりそういう本来の元号として再制度化しようという、そういう意図を持ったものとしか考えられないのではないかと思います。
 で、さらにまあ仮の議論として考えますれば、そういう意味で私は最初の御質問、向井議員の御質問に答えましたように、国民の文化的遺産として元号が国民によって支持されているというのであれば、その国民の支持力以外に法的なサンクションというものを考えるべきではないと。法的サンクションを加えることによってそれが変質してしまうという立場をとるものでございますが、仮にどうしても天皇と元号とを結びつけなければ困るということであれば、この法案の提案理由それからいまの原議員の御説明にありましたように国民に押しつけるのではない、行政の部内の使い方として新しい元号をつくって、それで行政関係の文書の紀年法を統一するんだというのであれば法律たる必要はない。法律は、たびたび申しますように国家と国民との間の権利義務関係を規律するものであります。公益の必要と国民の自由との分解点、伊藤博文が申しましたようにそれを明定するものであります。で、この法案を見ましてもそういうものとして機能するという可能性はない。政治の任に当たる方が全くの善意でずっとここに原議員の言われたような形で運用するならば別でございますが、一たびその政治的力学のあらわれとして違う方向に行った場合の法的な歯どめ、裁判的保護が全然欠けている。そういう意味で自由を、伊藤博文の言うように国権の必要に対して明確に区切って保護するという、そういうことにはならない。法の形をとりながら、法としてはほとんど自由の保護としての機能を持たない、そういう結果になろうというふうに思うわけでございます。
 以上でございます。
○林寛子君 木村参考人に一言お伺いしたいんですけれども、時間的なことがあるんで、一言だけ伺いまして参考意見伺いたいと思います。
 先ほどの御意見の中で、文化や伝統というものは法律によって保護されることは、むしろそれは間違いだという御意見があったんですけれども、私たち日本人というものは、日本古来の文化というもの、日本にだけしかない文化というものは、やはり戦争というものによってかなり私たちの年代、これからもっと若い人たちは日本の歴史というものを改めて勉強するという機会なり聞かされる機会がだんだん少なくなってきて、そして日本古来の文化というものを存続する上にも、何としてもこの元号法案というものを私たちの子孫にも残さなければ、日本文化の古来の再認識というものがなされなくなるんじゃないかという心配も、危惧かもしれませんけれども持っております。現実に私たちも、かなり歴史というものにうとい年代でございます。ですから法律によって保護するのは間違いではないかと、国民の自意識によって保護されるものが本来の文化であるということに対して、このまま保護されなければ日本の古来の文化、建物――奈良朝時代なら奈良朝時代の繁栄というものを知る上においては、やはり現時点、戦争というものを体験した日本にとっては大事なことではないかと思いますので、もう一度そこのところの御意見簡単に伺いたいと思います。
○参考人(木村知己君) いまの林議員の御質問の中に、二つに分けて考えていただかなきゃならないものがあると思います。文化財というものと文化というものは別でございます。その点で、文化財保護法というのがあるそうでございますが、日本の国が文化として保護しているものは、それは文化財という一つの物であって、精神的な文化というものが法律でもって強制され、拘束され、そして維持されるということになりますと、それはもはや文化という自由な形で維持されるものではなくて、強制によって維持されるにしかすぎないものではないだろうか。
 私はその意味で文化というものと文化財といまのお話がありましたように、その文化財というものについて、私は保護があって、それを長く維持し、多くの人々に日本のかつての文化の一つの貴重な財を教え示し、そしてそれを保護するということは当然のことだと思います。しかし、一人一人の精神的なものまで法律でもって維持しなければならないという何の根拠もないじゃないだろうか。その点で、元号というものは、これは書いて残すことについて、何か法律的な規定で残すなら別ですけれども、現在使うという精神的なものまで法律で規制しなければならないとなれば、これは文化とは言えない。で、後の人たちがそれを文化として受け継ぐか受け継がないかは、その人たち自身の自由な判断で受け取るところに文化があるんで、法律で規制されているから受け取ってきたとなれば、もはやそれは文化とは言えないと、こう思います。
 以上です。
○委員長(桧垣徳太郎君) 堀江君、時間がほとんどありませんから。
○堀江正夫君 もう二分あるそうですから、木村参考人に簡単に申し上げてみたいと思います。
 木村参考人がキリスト教の立場からいろいろ意見を言われたのは、それなりに私は理解できますけれども、事実認識において、神社関係者だけがいかにも中心になってやっておるようなお言葉のように私は受け取りましたけれども、実際はこの問題やっているのは神社関係者だけじゃない、仏教信者、いろんな人もいますし、学者もいますし、その最高の地位でやられたのは元最高裁判所の長官でございますし、その辺やっぱり私は正しく、幅広い国民というサイドからこういった元号なんという問題は考えるべき問題で、確かに信仰の自由ですけれども、こういった問題をキリスト教という、ただそれだけの立場から余り強く言われるのはどうかなと思うんですが、いかがでございますか。
○委員長(桧垣徳太郎君) なるべく簡潔にお願いします。
○参考人(木村知己君) いまの御質問についても、二点申し上げることができると思います。
 一つは、これは確かに元号を支持しておられる非常に広い層がございますから、それらの方々が本当に使いたいと思うのならば、法律で規制するよりも、自由に自分たちで元号をつくってお使いになればよろしいと思うんで、その点で私は、元号が必ずしもある一部の人に使われている、一部の人たちによって進められているとは申しておりません。先ほどの発言の中にも、その関係者と申し上げました。
 ただし元号というものが、明治のいわゆる一世一元以降の元号は、これは神社神道と切り離せない宗教的教義としてあったということを申し上げてその点から、元号法制化を非常に強力に進めようとしていらっしゃる方々の中に、単なる支持ではなくて、宗教的な教義としてこれを持っておられる方があるということを申し上げただけでございます。
 以上です。
○山崎昇君 私は、反対の立場をとっている一人でございますが、木村さんにお聞きをしたいと思います。
 と申しますのは、私ども社会党でありますが、この法律案はわずか二十九文字しかございません。しかしその内容たるや、日本の歴史で言えば、二千六百年ぐらいにわたりますほど内容は重要なものだと考えておりますから、なるべく慎重に私どもとしてはあらゆる角度から検討したい。わけても私は、いま出されております法律案というのは、皇位継承ということにかかわってまいりますから、いやでもおうでも天皇制というものを論じなければ、この問題の解決ができないのではないか、こう考えています。
 そこで、少しまあ思い過ごしになるかもしれませんか、今日までの日本で――私自身も兵隊に参りましたけれども、現在の天皇そのものが私、どうこうという意味でありませんが、かつての日本というのは、天皇制というのと、君が代というのと、日の丸の旗というのは、私は戦争に駆り出した三種の神器じゃないかと思っています。そういう意味で言うならば、これらの問題をどう扱うかがきわめて私はこの問題に重要な要素であろう、こう考える一人です。
 もう一つは、過ちを犯す者は、過去を知らない者である――未来は過去の中にあるという言葉もございますが、そういう意味で言えば、過ぎた日本というものをやっぱり重要視して考えにゃいかぬじゃないかというように考える一人なんです。
 そこで、先ほどあなたから、旧憲法下におきます天皇制と神社神道との関係、あるいはそれらが中心になりまして、他の宗教に対する弾圧等についていろいろお話がございました。
 したがいまして、私の理解を深めるために、第一点として、それらの点についてもう少し、簡潔で結構でありますが、ひとつ例示をして御説明をいただければというふうに思います。
 それから第二は、先ほどの公述の中に、日本がかつて朝鮮、台湾、東南アジア等と諸外国に及びまして、その現地の方々に対して思想あるいは信仰を強要する、あるいはその中の一つに元号というものもある。言うならば朝鮮民族なんかは、元号によって支配された一つの民族ではないんだろうか。そういう歴史等を考えますというと、この元号問題というのは、日本だけでこれは考えられない要素を持っているんじゃないか。そういう意味で、先ほどあなたがお話しになりましたアジア民族等との関係について、どういうふうな具体的な問題があったのか。これももう少し御説明いただければと思います。
 それから第三点は、宗教家としてアジア地域の方々と何か連絡があるそうでございますが、今日、この元号法案が提案されておるに関連をして、それらの方々がどういうふうにこの元号法案というものを見ておられるのか。先ほど少し説明がございましたけれども、できればもう少し御説明をいただければというふうに考えます。
 それから第四点は、いまの法案が通りましても従来と変わりはないんだ、こういうお話になっているわけでありますけれども、実はきのうまでの審議を通しまして、たとえば千九百何年で受け付けばする。しかし、受け付けた文書は元号に直して、後ほどその文書を何かに使うために欲しいということになると、コピーは元号で来る。届け出たものと出てくるものは違うんだと。これが、行攻事務を扱うためには統一性が必要だという意味で答弁がございました、政府側から。もしそうだとすれば、この法律を通しますというと、国家神道は復活はあり得ないと、こう言いますが、靖国神社の問題等があり、先ほど来高柳先生等のお話もございまして、大変私ども危惧をしているわけなんですが、宗教的な良心と関連をいたしまして、その点についての御意見をもう少しひとつお伺いしたいし、今日まで届け出に際しまして拒否をされたり、あるいはそうでなかったような実例等がありましたらこの際お聞きをしておきたいと、こう考えます。
 それから最後になりますが、私は、西暦というのはキリスト教に全く関係ないとは考えませんが、太陽暦に直した実情あるいはいま世界で約八十カ国近いものがこの紀年法として西暦を使っているということになれば、必ずしも、キリスト教というものから発しておったと仮定いたしましても、現状は違うのではないか。そういう意味に対して、キリスト教を信じますあなたから見て、一体西暦というものに対するどういうお考えをとるのかお聞きをしたいと思うんです。
 最後に、元号は御案内のとおり歴史的に、言えば中国から輸入されたものだと私ども考えております。しかし、そのルーツをさかのぼってみますというと、もはや中国でも紀年法としては西暦をお使いになっている。社会主義の国でありますソ連でも西暦というものをお使いになっておって、必ずしもその国で特殊な紀年法を使わなければ民族の誇りがなくなるなんというものではないのではないだろうか。そういう意味で言えば、私は、キリスト教と関係はございますけれども、西暦を使うことはあながち日本の民族の誇りを捨てるということにならぬのではないだろうか、そういう気もいたしますので、宗教家としてのあなたの見解をお聞きをしておきたい。
○参考人(木村知己君) 大変たくさんの問題で、重要なことでございますので、限られた時間では非常に困難かと思いますが、一つは、宗教弾圧のことにつきましては、これに関連するたくさんの本が出ておりますので、折がありましたらそれをお調べ、お読みいただきたいと思いますが、一つの例といたしましては、一番悲惨な例といたしましては大本教事件というのがございます。これは幾つも本が出ております。しかも、そのときの弾圧を直接こうむって留置場において本当に半死半生の生活をしました徳重高嶺という方が、そのときに自分が捕えられて弾圧された理由が、いわゆる拷問を受けた理由が初めはよくわからなかったけれども、だんだんと聞いてみたらば、それは天皇に類似した行為をしているからいかぬというだけのことであって、それによって本当に死に至るのではないかという恐怖感を感じたということを言っておられます。
 これに類したものといたしましては、ひとのみち事件というものも同じでございます。これは御木さんという方ですか、この方の場合も大体類似した、天皇にかかわるところのもの、類似するものだということがその弾圧の理由でございました。
 それから、今度は逆にキリスト教関係ではホーリネス教会というのがございます。このホーリネス教会という人たちは、当時の特高刑事から、天皇とおまえの神とどちらが偉いという、今日で言えば漫画みたいな質問を当時の特高刑事から本気になって問われた。私は、そのころ警察関係におられた議員の方もおられるはずだと思うので、警察関係の書類をお調べいただければ取り調べの内容がよくおわかりいただけると思うんでございます。そのときの、そういう一つの、天皇と信仰的な神とを、いわば次元の違うものを同じ次元の中で問うという、この事柄が私たちにとって非常に重大でございます。今度の元号問題もこれと同じような、宗教問題とこの世の生活の問題とを同じ次元に持ち込んで私たちに問われるような事柄が起きることを私たちは非常に危険と感じております。なお、宗教弾圧のことは国会図書館に幾らでもございますので、国会議員の方にぜひひとつ国会図書館でお調べいただきたいと思います。
 第二に、アジア地域におけるところの弾圧でございますが、これについての一番悲劇的なものは、今日の韓国、当時の朝鮮半島の朝鮮でございますが、ここにおいては、神社の参拝を強要されましたところの牧師たちが、神社の参拝を拒否いたしたところが、おまえたちは、天皇に対する忠誠を尽くさないということだけで、日本国民らしくない、彼らは初めから日本国民でないのに、それにもかかわらずおまえらは日本国民らしくないといって弾圧を受けたわけでございます。そのときに朝鮮の方たちが言いますのに、私は一昨年もうすでに五回ほど韓国の教会の方たちの打ち合わせ、交流のために参りましたが、そのたびごとに韓国の協会の牧師たちが、私たちはとんと日本人と思わないのに、警察からおまえらは日本人でないとしかられて、一体こっけいで仕方がなかったけれども、笑えばたたかれるから黙っていた、こういうふうなことが私たちの生活の半生でしたといって牧師たちから言われております。私たちは、日本の国がかつて犯した朝鮮、台湾、そして戦争中の東南アジアにおけるところの行為というものは、これは朝日新聞の本多さんという記者が「中国の日本軍」という本を書いておられますが、まさにあれを読んで自分の責任を問われない人、あるいはああした事実を知っていて黙っている人、私は、これはまさに戦争責任そのものを過去ではなくて現在に背負っているというふうに言えると思うんでございます。
 それから第三番目の、元号が強制されるということでございますが、私どもは、元号というものは先ほど申し上げましたように単なる年号の表示ではなくて、私たちにとっては一つの思想問題でございます。あるいは私たちにとっての信仰問題でございます。しかし、私たちは西暦とは申しておりません。私どもキリスト教会内においては、今日皆様方が使っていらっしゃるものを西暦というふうに申しておりません。これは主の年というふうに呼んでおります。西暦と通称されておりますものは、私たちが主の年としてキリスト教会で使っているものが便利なために一般社会が使っているのが西暦でございます。ですから、先ほど西暦を使うとキリスト教徒に信仰の自由が侵されるとおっしゃいましたけれども、私たちはちょっとその議論を聞いていて、どういう議論をなさっていらっしゃるんだろうか。私どもキリスト教徒は西暦というものは使っておりません。主の年というものを使っているんです。私たちが使っている主の年というものが大変便利であるという理由だけで社会一般が使って、それを西暦として使っていらっしゃるので、これを法律でもって強制したり拘束したりということはあり得ないことだと私は考えております。それで、先ほど小川参考人も言われましたように、かつて西暦というものがキリスト教暦として植民地でもってさんざんこれは侵略に用いられたわけでございます。上からの権力でもって時間、空間を制限するということがどんなに悲劇的なことかということを私たちは一番よく知っております。それだけに元号が法制化されるというのは矛盾でございます。それをおっしゃるなら、なおさら元号法制化をやめましょうとおっしゃるのが事の筋だと、私はこう考えております。
 最後に、元号を実際窓口でもって出して自由だというふうに政府が答弁されておりますが、今日は自由ではございません。法律ができる以前にすでに自由ではないんでございます。例を二つ挙げます。一つは、私自身の体験でございますから一番御理解いただけると思いますが、私は自動車の免許証の更新を前回、その前をいたしました。そのころの免許証はいまのようなプラスチックでできているものではなくて、書き込んでビニールの間にはさんで押されてつくるところのものでございます。私は品川の鮫津の試験場に参りまして、ちょうどそのときに海外に行くことがありましたのでインターナショナルライセンスをとりまして、あわせてそのところで私のライセンスの更新をいたしました。インターナショナルライセンスのところに私は西暦でもって書きまして、そのまま通りました。今度自分の国内で使うライセンスのところに西暦の誕生を書きましたところが、係官から突っ返されました、これはだめだ、昭和で書けと。私はそのときすぐインターナショナルライセンスを見せて、こちら側は西暦で書いてあるのに、なぜこれは通らないんですかと質問しましたところが、ここは日本だと言ってそれでおしまいでございました。それ以上、私はもうライセンスもらえませんと帰れませんですから、私はやむなく昭和に書きかえざるを得なくて、非常な私自身の拘束性を感じました。本来元号というものはそういうふうな拘束性を現に持っております。
 それから第二番目は、すでにこれは国会でも報告があったかと思いますが、私どもキリスト教徒のある人たちが数寄屋橋でもって元号反対のビラを配っておりましたところが、右翼の人たちに殴り込まれました。そのときに警察の方が被害届けを出せと言うものですから、築地警察署に行って被害届けを出しました。そして被害届けの場所、それから時間――ここを、すでに昭和という字が書いてありましたので、私どもの方の関係者はそれを西暦に直しましたところが、警察は受理してくれませんでした。そのときに、私たちの方の被害申請を出した者が、私たちは元号反対をやって被害を受けたんですから、元号を書いて申請するわけにいきませんと申しましたところが、警察はがんとして受け付けてくれませんでした。これが現実でございます。
 以上です。
○片岡勝治君 すでに参考人の諸先生のお話もいただき、またいま質問等に対するお答えもありましたので、すでに理解できた点は省略をいたしまして、二、三お伺いしたいと思います。
 私は高柳先生にお答えをお願いしたいと思います。この元号法案を審議する過程で私なりにいろいろ勉強させていただいたわけでありますが、一つは、すでに元号が定着をしているという、こういうことが元号法案の、元号の法制化の有力な根拠になっているわけであります。しかし私は、確かに私自身もいままで元号を使ってまいりました。私の周りを見ても、ほとんどが元号を使っている方々ばかりであります。しかし、なぜこういうことになったかといえば、先ほど松岡先生のお話があったとおり、元号しかなかった、そういう現実であったわけですね。特に元号しかなかったということだけではなくして、元号を使わなければわれわれは生きていけなかった、強大な権力の前にわれわれは昭和という年号を使わなければ社会生活ができ得なかったという、そういう戦前の生活を私たち自身経験をしているわけであります。果たしてそれが本当に民族の文化としての伝統だったかどうか、私は大変大きな疑問を感ずるわけであります。さらに、中世あるいは昔からの日本を考えてみて、本当に元号が国民の民衆に伝えられたそうした文化的な遺産だろうかということ、これまたいろいろ分析して考えたときに、つい明治に至るまでほとんど日本人は文字というものを一般庶民は知らないわけであります。しゃべり言葉はわかりますけれども、文字というものが読めなかった。昭和になってみても、昔の人は言葉はしゃべれますけれども、字を読めない人がたくさんいたわけです。したがって、そうした元号というものが果たして日本の国民の民衆の中に伝えられたかといえば、私はほとんどそれは無縁の存在ではなかったか。つまり天皇家、あるいは中世以後におきましては武家政治でありますから、そうした幕府あるいは地域においては僧侶、神官、そうしたごく一部の方々のいわば俗に言う支配の手段としてこれが使われてきた、そういう歴史が真実ではないかと思うわけでありまして、私のその見方について先生の御見解をお聞かせいただきたいと思います。
 それから二番目といたしまして、特にいままでも御意見が出ておりますとおり、元号といえばもう一世一代だ、ここに私も非常に大きな疑問を感ずるわけでありまして、いままで私自身も元号を使ってまいりましたから、これがふとなくなってしまうと心配の点も率直に言ってなきにしもありません。そこで、もし元号がなければ不便だ、困るというような方々の気持ちもわからないわけではありませんから、さてそれでは西暦以外の年号をつくるという仮に考えた場合に、いままでの元号を振り返ってみて大変不便であったということはこれはだれも認めるわけでありまして、ある日突然天皇が亡くなられた、その日から昭和がなくなる、次の元号が出てくる。過去の歴史を考えてみても大変不便でありまして、日本人の歴史意識が大変お粗末であったということは、歴史教育の中で元号が、そして皇紀が使われてきたところに私は大変大きなマイナスがあった。私自身も学生時代を振り返ってみて、小学校時代は皇紀、元号で教育をされ、しかし、西洋史あるいは東洋史を勉強するようになって西暦を併用して教えていただいたわけであります。そういう経過を考えてみると、やっぱり日本人の歴史意識が大変お粗末であったということはそうした点にも原因があるような気がするわけであります。
 そこでもとに戻りまして、元号がどうしても必要だ、何となくないとさびしいということであれば、そういう気持ちもわからないわけではありませんので、そうした不便な元号をもしつくるならば改めて一単位を百年にする。大変便利な元号、百年が長過ぎれば五十年、そういうふうにしたらどうか。もっと合理的に考えるならば、やがて西暦二〇〇〇年ということになるわけでありますから、元号が欲しいという方々については、まあ多少感情の上では問題があるかもしらぬけれども、このままずっと昭和を続けて西暦二〇〇〇年になったら大平元年というふうにしたらどうかなんていう、これはどなたかが出しておりましたね。ですから、そういう元号がないと何となくさびしい、確かにわれわれは強制されたものであったにいたしましても、そういう元号の生活になれてきたことは否定できないわけですから、もし元号をつくる場合にはそういう合理的な考え方、しかもこの天皇制とは全く関係のない非常に合理的な年号というものが生まれて国民に大変喜ばれるのではないか、そういう考えも私の心の中にあるわけでありますが、こうしたことが先生のおっしゃる――法律化ということになるとこれはもちろん私も反対でありますが、よしんば、法律化をした場合にそうした合理的な、しかも天皇と直接かかわりのないものが、全く仮定の話でありますけれどもできたという、そういうことについて先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
 それから、これ元号というとすぐ一世一代、つまり天皇制との関係に私たちもやっぱり抵抗を感ずるわけでありまして、私も象徴天皇制というものについてこれを是認しておりますし、それを含めた今日の憲法を守っていこう、私たち社会党もそうした点については人後に落ちないつもりであります。この象徴天皇制を守っていくためには一体どうしたらいいか、これは私たち国民が絶えず考えていかなければならない。それはいろいろな方法があるわけでありますけれども、やっぱり天皇を、俗に言う政治の世界は生臭いということを言われますが、こういう政治の世界に、あるいは政治の舞台に、あるいは政治の対象に持ってこないということが象徴天皇制を守っていく唯一の道だろうと思うのですね。ですから、元号というともう天皇の在任期間、そういうふうに結びつけることはやっぱり私は象徴天皇制の存在を逆に大変危険なものにしていく、象徴天皇制というものが危うくなる、そういうふうに考えざるを得ないわけであります。まあ非常に天皇制とかかわりある問題でありますが、私のそういう考え方、つまり天皇のそうした在位期間なり、天皇にかかわる問題を政治の舞台や何かに対象にしていかないことが象徴天皇制を守っていく道だと、私はそう考えておりますけれども、先生のお考えをお述べいただきたいと思います。
 最後に、この使用の問題でありますが、なるほどこの行政の側からすれば統一的にやるということが能率的だと思いますね。書類も統一、画一的に持ってくる、そのままコンピューターに入れる、国民が要求した場合にはその移しをぽんぽん出していく、この能率の面から考えれば私はわからないわけじゃないんです。しかし、それでは行政側の能率だけを考えてこの民主主義社会というものがそれでいいのかどうか、われわれ国民の側からも考えがあるわけですね。国民の側から見た統一性ということはちょっと具体的に浮かんでまいりませんが、国民の生活、国民の側から考えてみた要求というものに行政側もこたえていくということが私は民主主義社会においては必要なのではないか、このように考えるわけですね。ですから、そういう点で単なる行政は能率主義ということを考えて制限をすることについては、私はこの民主憲法の上では問題があるような気がするわけでありまして、むしろ国民の要求に、多少不便があっても、能率が落ちても、あるいは時間や暇がかかっても国民の要求、そういうものにこたえていくという行政姿勢が本当は必要なのではないかというふうに考えるわけですね。この点先生のお考えをお聞かせいただきたいと思います。
 以上です。
○参考人(高柳信一君) 私は今回は、歴史的制度としての元号そのものに関する私の意見は、まあ特に内容的に立ち入って御説明しないで、その点は、前提としまして規範学的な見地からだけの議論をしたわけでございますが、したがって、その前提そのものをここで掘り下げることは最初の発言で余りしておりませんので、御質問に対する答えという簡単さを要求されるこの機会に余り根本に立ち戻ってお話しすることは少し差し控えたいと思います。
 しかし第一点で申しますと、元号一般の問題と、本法案で問題にしている元号との間に混乱があるのではないか。元号問題を議論する場合、どういう元号を問題にしているのかはやはりはっきりさせる必要があると思います。で、歴史的存在としての元号は明治国家がつくり出した元号とは違っております。で、国民の文化的遺産という場合、明治政府がそれまでの伝統とむしろ一線を画するような形で新しくつくり出した一世一元のこの制度、これが問題なのか、あるいは千何百年、民衆の意識からすれば、果たしてどこまで意識していたかわからないけれども、日本の歴史の中で、文書としての歴史の中で連続して使われているこの元号が問題なのか、これはおっしゃるとおりはっきり区別して議論すべきであろうと思われます。そして明治政府が明確な立法上の政策でつくり出したこの元号というものに関して言えば、果たしてそういうものが国民の生活の中から国民が自主的につくり出したものかどうか、これは非常に問題であるわけです。
 で、やはり明確な為政者の政策的な立法として皇室典範という、これは憲法と同次元の最高法規だというふうに言われておりました、明治憲法下では。そういうものとしてつくり出されたもの、これをそのままここで、全く違う考え方に立つ日本国憲法のもとで、あたかも千数百年の国民遺産のごとくに、ただこれを現在のままの形で法制度化しようとしているんだというふうに言うことは、最初に申しました二つのといいますか、多義的な元号概念の意図的な混用だというふうに思います。そういう意味で、果たして何が国民の意識であり、国民は何を文化的伝統として求めているか、これはそういう大ざっぱな議論ではなくて、もう少しきめの細かい探求が必要であろうと思われます。その探求の結果、あるいはおっしゃるようなやり方が適当だということになるかもしれませんし、私はその点についてまだ十分判断材料を持っておりませんので、そういう形で第一点については私として同感するところが多い。まあ最後の、こういう形で昭和を残したらどうだろうかという、そういう点について明確にお答えする用意はございませんが、前半におっしゃった点については同感でございます。
 第二点の御提案も、そういう意味で、いまの第一点についての私のお答えでかえさせていただきたいと思います。
 第三点の、象徴天皇制であるというなら、ますます政治の対象にしないことが象徴天皇制を確保するゆえんではなかろうかという点、そのレベルの御意見としては私も同感でございます。しかし、といいますか、私の立場から考えますと、やはり象徴天皇制も国民がそれをどういうふうに受け取っているか、あるいは支持しているか、国民の憲法意識の問題であろうと思います。
 そして第四点とかかわりますが、国民の思想の自由、良心の自由というものを前提にして象徴天皇制も支えられるのでありまして、松岡参考人が言われました、元号など大した問題ではないんだということは、一つの側面としてその問題を非常に言い当てていると思うんですが、こういう元号法制化問題が意図的に推進されますと、いやでもおうでも国民は元号というものを意識する。そういうことがなければ、違う信仰を持つ者も、天皇制との関係で元号を理解している者も、まあ平和的に元号というものを、何といいますか、日本でそういう紀年法があるということをある意味ではそのまま認めているわけでございます。一たびこれを法制化しようということで問題にされますと、国民はいやでも自分の良心との関係で、信仰との関係で、思想との関係で元号というものを客観化し、対象化して見る、見詰め直して見る。そういうことによって国民と国民との間の心の亀裂というものが出てくる。事が天皇制と歴史的にはどうしてもかかわっておりますので、そこに憲法上ゆゆしい問題が出てくる。そういうふうに私は思います。
 で、御発言は象徴天皇制の観点から出されましたが、私は国民の憲法意識の観点から言って、やはりこういう法制化問題が国民の心の中に亀裂をもたらすというふうに感じているわけでございます。このことは実は逆説でございますから、なかなか起こってみないと意識できないのですが、アメリカで星条旗、国旗、これを敬礼するということを、第二次大戦直前にヨーロッパの風雲急等があってアメリカンデモクラシーの伝統を守るということからアメリカなりにナショナリズムが高揚いたしまして、そういう毎朝公立学校の朝礼の際に星条旗に対して敬礼をするという行事を各地の教育委員会がとったことがございます。これはアメリカンデモクラシーと天皇制、星条旗と元号あるいは日章旗というものを置きかえて考えますと、アメリカ人にとっては全く普通のこと、自分の国の国旗に敬礼するということは何が悪いのか。アメリカ人たる以上当然ではないかということであったわけで、アメリカの文化的伝統に沿った行事であったわけですが、ごくごく少数の宗派の信徒の子供が、自分は聖書の教えにより、偶像崇拝を拒否する。形をとったものに対して敬礼をするというのは偶像崇拝になると言って敬礼を拒否した。
 その結果、そういう信教の自由が、そういう国旗敬礼という制度化が導入されないでいる間は非常に平和的に多数の信仰が共存していたわけですが、一たび国の制度としてアメリカの歴史的伝統、デモクラシーの象徴であるものに対する尊敬を制度化いたしました結果、その少数派――これはエホバの証人派というものですけれども、に対する迫害が暴動のように起こってしまったわけであります。彼らは非アメリカ人であるということで、その本部を襲ったり集会に殴り込みをかけたりする。そういう状況が出てまいりました。で、連邦最高裁判所は、初めそれを合憲判決したのですが、そういう暴動が激化しまして、戦時中に前の判決を改めるという異例の判例変更をいたしました。その結果、そういう暴動は一切やんで、そういう少数のエホバの証人派という宗派は、地域社会で他の宗派と平和的に共存する。そういう平和が回復したという事実がございます。
 こういう良心、思想に関係する問題は、大多数の人にとっては日本人である以上当然だと思われる。民族の文化的遺産であるというふうに思われるわけで、なぜそれに反対するか、非常に特異のおかしな考え方ではないかというふうに思われるかと思いますが、それを意識させるということ、国民の間にそういう心の亀裂を生ぜしめるということ、これはやはり文化的遺産で仮にあるとするならば、その文化的遺産がそういう心の分断の効果をもたらすという最も非劇的な効果を伴うということを歴史的教訓として示しているわけで、歴史学研究会で元号法制化に反対する歴史学者が、一群の法制化推進論者に襲われまして、おまえたちは日本国民ではない、そういう者は学園から追放すべきだ、こういうことが行われ、現に行われたわけであります。
 そういう、本来個人の良心、思想の自由とされるべき問題が法の形をもって制度として押しつけられると、そういう心の亀裂をもたらし、そしてその結果は少数の者、マイノリティが多数派の敵意にさらされる。こういう結果を生ずるということ。これは象徴天皇制を国民全体の象徴として維持するということと無縁のことではない、関係する現象だと思います。御発言は象徴天皇制を安泰にするという観点からのお話でございましたが、私は同じ問題を国民の思想、意識の観点から考えまして、結論としてはおっしゃるとおりに結論そのものには同感であるというふうに存じます。
 以上でございます。
○黒柳明君 座ったままで失礼さしていただきたいと思います。
 参考人の先生方の御意見非常に御貴重な御意見でありまして、また私も知識を深くしたつもりでありますが、時間がございませんものですから二問だけお伺いしたいと思うのです。
 まず宇野先生にお伺いいたしますけれども、私ども本法案に賛成という立場でありますが、改元の時期にちょっと党の要求を出しておりまして、いわゆる踰年制、天皇がお亡くなりになったその翌年の一月一日から改元の時期を始めたらどうか。こういう趣旨なんです。政府側もそれについては前向きに検討する、こうは言っておりました。その根拠、もう御案内かと思いますが、一番卑近な例ですと大正から昭和に至る改元、大正十五年十二月の二十五日午前一時ですか、御崩御されて、十二時に昭和の改元の告示があった。このときは行政的に事務処理は混乱はなかったと政府は言っておりますが、やっぱり一生つきまとう生年月日、そのときに生まれた人は果たして大正なるや昭和なるものやらと混乱したことは間違いがない。しかも政府側も、昭和元年の六日間の時期に生まれた人数、亡くなった人数、その統計上の数すらまだつかめないという状態なんで、非常にやっぱり昭和元年の六日間というのは統計的にも混乱が残っていると、こう感じられるわけであります。そういう理由も含めまして、いろんな理由があるんですけれども、改元の時期は踰年にしたらどうか。こういう意見を持っているんですが、そこらあたり先生の御意見はいかがでしょうか。
 それからもう一点ですが、松岡先生にお伺いいたしたいのですが、確かに私どももこの法制化については昨年一年間非常にちゅうちょしました。賛成していいものやら反対していいものやら勉強しました。意見も聴取しました。ところが、やっぱり八割前後の、習慣にせよ現在の元号を維持したいという国民の世論、これにこたえるためには幾ら検討しても法制化というマイナスの点は当然あるのですが、これに賛成するよりほかないと、こういう幾多の論議の中で結論が出たわけでありまして、決して私たちも短絡に法制化賛成と言っているわけじゃありません。いま現在においても慎重審議という一部の野党の主張私たちも全面的賛成なんです。また国会提出の時期も果たして今国会、そして会期中に若干延長されましたが、それで成立させるということで果たして国民の賛否含めての理解というものは得られるのかどうか、賛成の理解を増し、反対の理解を少なくするということについて時間的にいいものなのか、こういういまもって私たちは意見も持っておるわけであります。
 しかしながら、高柳先生が先ほどおっしゃいましたように、確かに法律は学問の自由等を保障する法律でもあり、しかしながら国家の秩序も、あるいは社会の秩序もやっぱり保障するのが法律でもあるわけでありまして、そういう観点からくしくも先生が先ほど慣習のまま維持するのがいい、一番それにこしたことはないと思います。しかし反面、先生がおっしゃったいままでの社会的風習を変える場合には大きな混乱が起きる、これも確かに私たちもついせんだってまで元号なんというのは意識にはなかったわけでありまして、失礼ですけれども、国会議員の反対の立場の先生だってあの昭和、大正、明治という生年月日を書くことについて、一々先ほど木村先生がおっしゃったような免許証の更新についてのクレームをつけたことはないんじゃなかろうか。いまこの法制化を伴う国会に対しての元号の法律ができて、そしてこの審議の中で大きく意識としてクローズアップされた、当然それが国民の意識になっているとなりますと、やっぱり無難な方法、いままでの習慣なり伝統なりというものを持続できる限りにおいては相当の過半数の方の元号を使いたいという意思に沿える可能性があればその方法を見つけられればいい――私たち見つけたんです、ない知恵で、一生懸命。ところが結論としてそれはないんだという結論に達したときに、やむを得ないという言葉いま私たちとしては使えません、賛成という立場を表明したわけですから。しかしながら、やっぱり元号を存続するからには法制化よりほかにないんだ、社会の混乱を排除し、それから大きくは国家の秩序を守り、小さくは行政の事務的統一を図るということも言えるんですかね、そういう立場で私たちは法案に賛成はしたんですけれども、ひとつ先生の大きな国家、社会の秩序、統一という面と、それは個人の自由、いままでの大過なくやってきたこの習慣を維持すればいいんだと、ここらあたりのお考え、それで果たして維持できるのかできないのかということについてのお考え、そのどちらを優先するかといっても、これはやぼかと思うんですけれども、ひとつ私たちの党がそういうことを考慮しながら賛成に踏み切ったんだ、こういうことも御意見としてお聞き承るとともに、ひとつ先ほどの先生の社会的混乱があった、あるんだと、こういうことが現にごく日本の国民の賛否の中においては、非常に小さい国会の中においても二つに分裂して混乱といいますか、意見の対立を起こしているわけでありまして、そのあたりとのかねあい、どう御意見をお持ちでしょうか。
○参考人(宇野精一君) 先ほど申しましたように、この元号というものは本来支那から出たものであって、あの国では――私精密に一つ一つ調べておりませんけれども、原理的に考えて踰年改元だったと思います。それから日本でも古くは踰年改元の場合が多かったと思います。それは天子、天皇が亡くなられますとその一年間は喪に服するわけですから、改元も翌年というのが昔の人にとっては自然な考え方ですね。
 ただ、現在の段階において私の意見をお尋ねのようですけれども、私はそんなことをお答えするのははなはだ不遜な話でありまして、私はどうということは申し上げかねますけれども、つまり事が起こった時点の政府の責任、内閣の責任において決めればいいことである、つまり即日かあるいは翌日かぐらいが適当ではないかと私は思っておりますんです。で、そういうことは先ほど来法律の条文が非常に簡単だからという御不満がいろいろおありのようでしたけれども、そういう細かいことまで法律で決めてしまうのは私はどうも賛成できないんですね。細かいことはやっぱり具体的な事実、その場に即して最も適切に処理をするというのが一番いいと思いますので、その踰年改元のお説はまことにごもっともとは思いますけれども、そういうふうに決めてしまうことには私はやっぱり賛成いたしかねます。
○参考人(松岡英夫君) ただいま黒柳先生から公明党のこの問題に対する態度についてお話がありまして、非常に苦しんでおられるということがよくわかりました。
○黒柳明君 もう苦しみは終わったわけですから。
○参考人(松岡英夫君) 国民の世論八割が元号存続という現実がある、しかもこの現実に沿わないと、元号を維持しないとそこに社会的な混乱が起きる、これは何とかして防がなければならぬ、そういう政治的な責任を感ずると余りいいかげんな――いいかげんといいますか、自分だけよしというような意見には立てないと、で、いまだに公明党としては迷っているんだと。
○黒柳明君 いや、いまはもう賛成ですよ。それは過程におきまして。済みません。過程におきまして。
○参考人(松岡英夫君) そうですが、迷った末、態度を決められたということですが、確かに私もそのように思います。
 私が最初にここで意見を申しましたときに、社会的混乱――この一元号一民族の大和島根に、仲よし民族のこの国に対立、混乱を起こすことが一番悪いことなんだ、それが政治的行為として一番われわれは警戒しなければならぬのだということを申し上げたんですが、その意味では、また繰り返しになりますが、元号法案というようなものを持ち出して、そして社会的対立、政治的対立を起こして、公明党を悩ますというような事態を引き起こすその元凶は一体だれだと。ということを考えるんですが、しかしそう言ってもしようがないんで、公明党さんがそういう態度を決められた、国民の現実生活に沿った結論を出したということなんで、私もそれはやむを得ないと思います。やはり私どもは天皇のために元号を考えるとかなんとかということじゃなしに、国民生活にとってどうしたら一番いいのかということに頭を切りかえて考える必要がある。その国民生活中心の考えが元号法制化やむなしということになったら、それも一つの私は態度だと思います。ただ、憲法に国民主権、明治憲法のような天皇大権の否定ということがあるというわれわれの生きる理想というものをどうか公明党さんの方でもお忘れないようにしていただきたいということ、これは注文なんですが、これはよけいなことなんですが、それで公明党さんが非常に困っていらっしゃるというならば、一つ私の長年の政治記者の経験からしてこういうことをやったらどうかと思うんですが、この元号法案を骨抜きにするような附帯決議をつけられたらどうか、国会において。これを考えられたらどうかという一つのこれ私の提案なんですか、どこかの頭のすみに置かれてひとつお考えいただきたい。
 以上お答えいたします。
○黒柳明君 ありがとうございました。
 余分なことで、質問は終わりましたんですが、いろいろ示唆に富んだ御教訓をいただきまして――一言つけ加えますが、いま現在は悩んでおりません。それは過程において非常に悩みもしました。御意見も多般にわたって聞きました。あるいは内外の文献も調べました。それで、やっぱり踏み切った時点ではもう悩みは解消して踏み切ったわけです。ですから、いまに至っては別に附帯決議をつけて骨抜きという考えもないことをひとつ申しつけさしていただきます。
○山中郁子君 参考人の皆さんには貴重な御意見をいただきましてありがとうございました。大変限られた時間でございますので、端的にお尋ねをいたしますが、初めに宇野先生から御意見を重ねてお伺いいたしたいと思います。
 この元号法制化問題の中でたくさんの問題か論議されているんですけれども、すでにいろいろ参考人の皆さんからも、また各委員の御質問の中にもございましたけれども、その主要な中身の一つとしては、この問題を天皇元首化あるいは憲法改悪、つまり自主憲法制定、こういう推進の動きの背景に大きくそれが引き継がれて来ているということはどなたも否定できない現実の姿だと思います。それで、この点につきまして宇野先生も元号法制化実現国民会議の東京都の議長というふうなお仕事をされていらっしゃるようで、そういうお立場も含めて多くのところで御意見を開陳されていらっしゃるわけですけれども、一つは、この元号法制化実現国民会議の有識者七十名の提言という中に登場なさっていらっしゃいまして、天皇中権の問題に関して、現在の憲法においても国民統合の象徴であり、国際的には完全に日本国の元首なのであるという御意見を述べておられます。私は国際的であろうと何であろうと、いまの憲法のもとで天皇が元首であるということはないわけですけれども、この点については御認識を伺うと同時に、先生の御意見としてやはり多くの推進をされている方たちが主張していらっしゃるような、天皇を元首にしそしてそのための憲法、自主憲法制定ということをやはりお考えとしてお持ちになっていらっしゃるのかどうか、そこの点についてまず第一点御意見をお伺いしたいと思います。
 それからもう一つは、やはり法制化の問題の論議の中の主要な点の一つでございますけれども、強制使用の問題がございます。この点につきましても先ほど来お話があったところですけれども、これもたとえば四月のこれは十五日ですね、この「ジュリスト」の中で、先生座談会にお出になりまして、さまざまな面で強制をしなければ意味がないというように理解できる多くの御意見を述べておられます。特に、その中で公文書については自治体も含めて全部それは元号使用すべきだと、窓口においては全部元号以外は受け付けるべきではないんだと、政府が余りそういうことをよけいなことをごちゃごちゃ言うなと、こういう御意見も述べていらっしゃるわけで、また教科書につきましても、日本の国のことを記述する場合には元号をまず先に書くべきなのだという強い御主張を述べておられます。一方、政府は強制使用はさせないと、自由であると。もちろんこの問題は戸籍問題その他で委員会の質疑の中でもかなりいろいろ詰めた論議がありまして、私もその問題については政府の言葉どおりに理解するということではなくて、意見は持っておりますけれども、きょうは参考人の皆さんの御意見を伺う機会でございますのでそれはおきまして、その強制の問題につきまして、政府がいま現在まで答えているつまり強制はしないんだと、中に強制的な本質があるということを横に置いても、そういう態度で来られておりますけれども、先生の御主張とは大分そういう意味では違ってきているという面もございますし、その点についての御認識と、それから教科書については、一層積極的に文部省などに元号を先に使用すべきだというような御主張を引き続き要求されるような、そういう強い範疇での御意見かどうかということをお伺いしたいと思います。
 最後に、西暦使用は憲法違反だと、政教問題についてもですね、そういう御主張がございました。それもそれがキリスト紀元かあるいは慣習としての実際の紀年法かということについては御議論がありますけれども、これも横に置きまして、そうしますと、キリストとの関係で生まれてくれば聖書の関係の中での七曜あるいは日曜日は安息日とすると、そういうような現在の慣習もやはり憲法違反だというようにお考えになっていらっしゃるかどうか。
 その三点について初めにまず宇野先生にお伺いいたします。
○委員長(桧垣徳太郎君) 速記とめて。
  〔速記中止〕
○委員長(桧垣徳太郎君) それじゃ速記起こして。
○参考人(宇野精一君) 三つお尋ねでございました。
 最初の天皇元首化とか改憲、憲法改悪というお話でしたけれども、私はおよそ国家には元首というものがなければならないというふうに考えております。繰り返し申しておりますように、私は法学者じゃございませんから法律的にどうこうということは説明できませんけれども、一人の日本人として考えます場合に、いかなる国といえども元首のない国はないのではないか。もし、元首が必ずあるということになりますと、日本では天皇が元首である以外に元首たるべきお方はないと。これは国際的にと申します理由は、皆さんにそんなことを申したらはなはだ恐縮ですけれども、外国使臣が日本に赴任されますと、必ずその国の元首の信任状というものを御持参になりますね。そしてそれをどこに差し出すかというと、必ずこれは天皇に差し出されるわけであります。元首から元首へ渡されるわけでありますから、それからまた日本から逆に外国に行かれる場合には、天皇の信任状というものを御持参になっておいでになると思うんです。ですから、そういう意味で国際慣例として天皇は元首である。日本ではそれをただ象徴と、憲法では象徴と言っておるけれども、日本国及び日本国民統合の象徴という言葉は、これは私は元首以外にはないと思っております。元首というとすぐ皆さんは昔の帝国憲法時代の万世一系の天皇これを統治すと、統治しなければ元首でないと、こう思っておられる方があるやに私はうかがうんですけれども、イギリスの女王様というのは君臨すれども統治せずという意味だそうで、君臨しておられるわけ。イギリスでは女王様が私は元首だと思います。ですから、それと同じような意味で天皇は元首であると、こう思っているわけであります。
 それで、改憲云々の話が出ましたが、これは本日の問題とは違いますけれども、お話が出ましたから私の意見を申し上げますが、私は現在の憲法はすでに非常に、歴史的に明らかになりましたようにアメリカ占領軍の押し着せである、だからそんなものをいつまでも、三十年間も着ているのはまことに日本国民として私は恥であると思っております。ですから、一日も速やかに私は憲法は改めていただきたい。私は内容は問いません。とにかく与えられた憲法をありがたがっているような根性では日本の独立というものはない。だから日本人が、百歩譲っていまの憲法と同じ文句であってもいいから日本人の意思によって憲法を改めていただきたい、そういうことは考えております。しかし、これはいまの元号問題とは関係がない、私自身にはございません。
 それから第二の強制の問題ですが、これはいまお引きになりました「ジュリスト」の座談会でも私確かに申しましたし、先ほどもちょっとそのことを私申しましたのですが、公文書ですね、つまり相手が国家また自治体であろうとも公との問題に関しては私は元号というものを使わなければならないというふうに考えております。先ほどそれは信仰の問題と絡んで非常に不満であるというような御意見もあったようでございますが、私は公文書あるいは国家の組織、制度というものはそういうものなんであって、たとえば早い話がわれわれがアメリカに行ってアメリカの何かの届けをする場合に、昭和何年と書いたら受け付けてくれないだろうと思いますね。ですから、それは郷に入ったら郷に従えて向こうに行けばいわゆる  先ほどキリスト紀元とおっしゃった、私もキリスト紀元と言うのが正しいと思いますが、キリスト、主の年というのが本来の言葉ですから――キリスト紀元でそのときは書かなきゃならない。公的な場合には私はそうであると確信しております。そうしなければならない。そうしなければ法制化の意味がないと私は思っておるんです。ただ、繰り返し申しますが、個人としては自由でなければならないと思います。逆に。個人の使用にまで立ち入って元号を強制するということは、それは私といえども反対をいたします。
 それから、その次の西暦は違憲であるとさっき私申しましたことですね、これは西暦を強制するようなことになるとそれは違憲であると申しておるのであります。それはいろいろの方から御意見が出ましたけれども、たとえば元号の場合には、これが天皇絶対の、何ですか、象徴ですか、とか、時間、空間を支配した者だとかということをしきりにおっしゃる。もし元号の問題をそこまでさかのぼってせんさくをなさるんなら、いわゆる西暦もこれは主の年であってキリスト紀元である。だからそれを強制するのはいけない。先ほど来繰り返し皆さんおっしゃっているように、西暦というものは別にそうではない。いま一般に、ことにヨーロッパ諸国、これは大体キリスト教がほとんど、何というのですか、実際上ほとんどキリスト教国でありますから、ですから、そういうところではいわゆるキリスト紀元というものが何らの抵抗なく受け入れられていると思います。西欧のいわゆる文明国というのが近代文明の先進国でありましたから、したがってそれが世界的に普及したのであって、私はただそれだけのことだと思っております。
 それで、何か話がちょっとごたごたしたかもしれませんが、私は逆に元号というものを使う場合に、先ほど社会党の片岡先生ですか――いらっしゃいますね、さっきおっしゃっていましたように、余りいままでは「昭和」と書いたって別に何とも思わなかったと、こうおっしゃる。これが本当に正直な私は実感だと思うのですね。別に「昭和」と書いて、あるいは「大正」と書いたからといって、一々おれはいまの天皇に支配されていて、縛られているんだなあということを、そんな……
○山中郁子君 わかりました。時間がちょっと足りないもので、恐れ入ります。
○参考人(宇野精一君) ああそうですか。
 そういうわけで、大体おわかりでございますね。
○山中郁子君 大変ありがとうございました。
 日曜日や何かも憲法違反というお考えかというお尋ねをしたのですが……
○参考人(宇野精一君) ああそうです、それを言わなくちゃいけない。
○山中郁子君 結構です。もう時間が足りなくなりましたので。
 あと木村先生と高柳先生に一言ずつ御意見を聞かせていただきたいと思います。
 先ほど木村先生が大嘗祭の問題に関連して、宗教者のお立場で御意見をお述べになりました。私はこれは大変重要な問題で、天皇の葬儀とか、あるいは即位とか、こういう問題に関連して、たとえば昭和の改元をとってみましても、六十に近い儀式が国事として行われてきたわけですね。私は、先ほど大嘗祭のお話でございましたけれども、それだけでなくて、こうした三年から四年にかけて全国的にこういう憲法にかかわる大きな問題、憲法違反の問題を含む大キャンペーンが行われるというような事態を宗教者のお立場としてどのように御認識されていらっしゃるかということを、大嘗祭だけの問題でなくての御意見をお尋ねをいたします。
 それから高柳先生には、先生は学術会議のお仕事をしていらして、またその中で学問・思想の自由委員会の責任者をされていらっしゃるというふうに認識しておりますので、先日の学術会議で、これは五月の十一日の新聞ですけれども、こういう見出しですね。たまたま私が持っている新聞の見出しですが、「さわらぬ元号にたたりなし」、というようなことで声明案が葬り去られるというふうな趣旨の報道がされているのですけれども、学術会議での御議論ないしは学問・思想の自由委員会での元号問題に対する御見解、これは一九五〇年に行われました学術会議での問題に、声明ないし決議に触れて御見解を伺えれば幸いでございます。
 以上です。
○参考人(木村知己君) いま御質問のありましたように、天皇家の問題というのは、これは宗教ということを抜きにしては天皇家を考えることができないのが今日の現実でございます。しかし、私どもは宗教というものは個人にとって侵すことのできない最も重要なことでございますから、私どもはその意味で天皇家の宗教が天皇家として重んじられるべきであって、それが国家とか国政とか、そういうところにまで波及してくることは、それは逆に天皇家にとっても一番不幸なことだと、こう考えております。それが、御存じのとおり、せんさくではなくて、過去においてその事実が宗教弾圧という形において繰り返し繰り返し行われてきたというこの事実からして、私たちは再び天皇家の宗教が何らかの形でもって国民の間に強制されたり、関係させられることのないようにしなければならないと、こう考えております。
 で、先ほど公明党の黒柳議員が言われましたように、社会の混乱というものをなくすことが政治家の責任であるということ、私もそう思いますし、またそうあってほしいと思うわけです。したがって、社会的な混乱を引き起こさないことの一番大切なことは、少数者の権利が守られるということでございます。その少数者の権利の中でも信教に関する問題が侵されるということは、これはまさにそのこと自体が混乱ということ自体になってくるわけです。一番最初に申し上げましたように、元号というものがただ単なる紀年ではなくて、いわゆる天皇家の宗教と一体化しているものであり、そしてその元号が使用されることにおいていつか裁判的な保護の受けられない状態になったときには、戦前の治安維持法における宗教弾圧と同じ問題が繰り返される危険があるというふうに申し上げておきたいと、こう思います。
○参考人(高柳信一君) 学術会議の元号法制化についての賛否の議論について紹介せよということでございますので、ごくかいつまんで御報告いたします。
 学術会議は、一九五〇年の第六回総会で、西暦一本化すべきであるということを決議いたしまして、内閣総理大臣及び国会の両院議長に申し入れております。
 その際非常にホットな議論がございまして、実はその決議は六十六対六十二という僅差で可決されたのでございます。その際、この決議の提案者になられましたのは、元最高裁長官の横田喜三郎会員でございます。そしてそれに反対された方の中で最も有力な議論を展開されましたのは、亡くなられましたが、憲法の大家である宮澤俊義会員でございました。そこで、そういう反対があって僅差で可決された学術会議の二十九年前の決議は、それなりにかなり問題があったのではないかということが現時点での学術会議で示唆されました。
 そこで、私は当時の議事録をしさいに読ませていただいたわけですが、宮澤教授の反対は実はこういう見地からであるということがはっきりいたしました。それは当時参議院で元号を廃止するかどうかについて今日と似たような公聴会が行われまして、宮澤教授は、そこでは元号廃止、西暦一本化に賛成の意見を述べておられます。そして学術会議でなぜ反対されたかと言いますと、こういうふうに述べておられるのであります。学術研究上元号が不便だから使わないということは自由であって、学者は多く西暦を使っている。別に西暦を使っても悪いことはないのであります。つまり、宮澤教授は、学術研究上は便利な方を使うことは自由で、その自由は現在保障されている。いまのままでもすぐに研究に差しつかえるという状態ではない。しかるに、元号をやめるという問題は、結局国民全般に関係する問題でありまして、一つの具体的な政治問題である。だから学術会議がそういう国民全体にかかわる問題について西暦一本化が科学的に合理的で正しいというふうに決議することは問題であろう。こういうふうに言っておられます。つまり、学問の自由の観点からはいまは自由である。科学者としては何ら自由を制限されていない。しかるに、西暦一本化ということを学術会議として政府に勧告するならば国民全体に関係してしまうと。だからそういう申し入れには反対であるという、こういう御意見であったのであります。
 それからもう一つの有力な意見は、どういう方かははっきりは存じませんけれども、第六部、農学関係の吉田会員という方が、文字どおり御紹介いたしますと、もし、現在の天皇が亡くなられれば昭和の元号は自然消滅する。それから先は元号はなくなるだろうということは法律的に明らかなのでありますから、いま元号を消してしまうということを学術会議でとりたてて問題にする必要はないと。つまり、いずれ元号はなくなるであろうから、いまあえて学術会議として元号をなくして西暦一本化にしろという必要はないという、こういう反対意見でございました。
 ですから、六十六対六十二で元号廃止、西暦一本化についての多数ということは必ずしも明確でないというのが、現学術会議でこの一九五〇年決議をそのまま踏襲するかどうかについて出された疑義でありますが、実は、当時の反対というのは現在どちらかを、元号を使わなくちゃならないという強制がないからあえて西暦だけにすべきだというのには反対である。またいずれ元号はなくなるであろうから、いまそれに先立って元号をやめて西暦にすべきだというようなことを言う必要はないと、こういう反対であったわけでございます。
 つまり、当時の考え方としましては、元号の使用を法的制度として確立して、それなりの形で強制される。強制という意味は非常に最初の発言で申したように限定しておりますが、つまり使わないと処罰するというようなことではない。ともかく国の制度だからという程度の強制でありますが、そういうことがないということを前提にして、それ以上言うべきではないというわけでございます。ですから、当時の大多数の意見が元号一本化、それを法制度化するということに反対であったということは明らかであるわけでございます。
 なお宮澤教授が、国民全体にどっちか一つ、つまり西暦だけ使えというようなことを政府がするように申し入れるということに反対だというふうに述べられたことに対して、提案者である横田喜三郎会員は、問題は科学的に言って元号と西暦と、つまりこの西暦というのは国際暦という意味でございますけれども、どちらが科学性があるかという問題であると。で、そういう判断というものは政治的なものではない。つまり学問上の判断である。学術会議は科学の普及、科学精神の普及を国民に対する使命として法によって与えられている。そういう観点から言ってどちらが学問の発達にとってプラスであるか。これは純粋に学問上の判断として言えることであって、たまたま元号問題が国会で取り上げられたというようなことで、そういう問題について発言しないというのは学術会議として使命を裏切ることになるという趣旨のことを述べておられます。
 で、横田喜三郎会員は、その後最高裁の長官になられましたし、その御意見、御判決は厳密に法と政治を峻別するという、そういう立場でございます。横田教授は終始その点は一貫されました。そういう点では非常に厳しい立場をとられた方でございますが、当時において元号問題について科学者が発言するということは決して政治的な発言ではなくて、科学に忠実な立場であるということを強調されたということは、私ども当時の議事録を読んで非常に感銘を受けたわけでございます。
 そういうことで、私は、この一九五〇年決議を前提にしますれば、現在そこで通った決議と違う事態が生じようとしている場合に、学術会議はあの時はあの時、いまはいま。当時は発言した、いまは口をつぐんで何も言わないというのは、機関の一貫性としておかしいのではないか。また当時は朝鮮戦争前でありまして、日本国憲法の精神を国民が何らのかげりもなく積極的に認めていた。つまり憲法廃棄とか憲法改正というような動きはほとんどなかったわけでございます。で、その当時において学術会議がこういうかなりはっきりした発言をする。現在においては保守の回帰というふうに一般に言われておりますような状況のもとで、二十九年前の決議と違うような事態が生じようとしているときに、今度は口をつぐむというのは、それこそ学術会議として政治的な態度ではないかということを指摘したのでございますけれども、新聞にありますようなことで、科学的にそういうことであっても、こういうデリケートな事態においては発言をしない方がよろしいというそういう動議――審議をここて打ち切って賛成、反対の決定をしないという動議が出まして、そういうふうに決まったわけでございます。
 で、学問・思想の自由委員会としては、学問的に言うべきことははっきり言うのが、学術会議が法によって国民に対する使命として負っているところのものであるというふうに思っておりまして、当時の横田喜三郎会員の発言などにも忠実の立場で元号法制化に関する展開というものを取りまとめて発表しております。その内容はすでに公表されておりますので、ここであえて時間の関係もありまして繰り返しませんが、以上のような次第でございます。
○山中郁子君 ありがとうございました。
○森田重郎君 きょうは参考人の諸先生には、御多忙のところ特にお差し繰り御出席を賜りまして大変貴重な御意見を拝聴いたしました。ありがとうございました。
 私は、元号法制化賛成論者の一人といたしまして、木村さん、それから高柳先生、御両者にお伺いを申し上げたいと思います。
 まず第一に、実は木村さんにお伺いを申し上げたいのでございますけれども、先ほど林委員の方から文化の問題がちょっと御説明あったようでございますが、その折に木村さんがおっしゃいますのは、文化と有形文化とは違うというような意味合いの御発言があったように実はお伺いしたわけでございますけれども、若干私その点につきましていささか異論がありますことを冒頭申し上げてみたいと思います。
 実は、これは一夜づけの勉強なんでございますけれども、私、昨日何冊かの辞典をひもといてみましたら、文化の定義というのはこう書いてあるんですね。人間が学習によって社会から習得した生活の仕方の総称である。そうしてこれは、「衣食住を初め技術・学問・芸術」、この辺からが大事なところですが、「道徳・宗教など物心両面にわたる生活形成の様式と内容」、これが文化の定義、デフィニションになっているわけでございますね。これは広辞苑でございますけれども、新言海あたりを見ましても大体同じような説明があるわけでございます。したがいまして、文化というのは物質文化もそれから精神的な面のいわゆる精神文化というのも含めたものが文化の総称であるというふうに私は解釈をいたしておるわけでございます。仮に一歩譲りまして、先ほど文化財というお話が出ましたけれども、文化財保護法の中にもこれは有形文化財と無形文化財が入っておるわけでございますね。四種類ほどございます。民俗史料の問題もこれも文化でございましょうし、史跡名勝、そういったようなものも文化であろうかと思うんです。したがいまして私は、いわゆる文化というのは、物質文化と精神文化とを合わせ総称して初めて文化ということをあえて冒頭申し上げておきたいと、かように思っておるわけでございます。
 そこで、先ほど木村先生のお話の中で、いろいろ宗教弾圧にかかわるような問題提起もございました。それからCCAでございましょうか、そういったアジアのキリスト協会でございましょうか、そういう国々が日本の元号法制化の問題について静かに経過、模様を見守っておるというようなお話があったようでございますが、木村さんのお話を総括的に私静かに伺っておりまして、帰するところは、一世一元の法制化、これは要するに天皇制の復活につながる問題であるという、言うなれば旧憲法原理が木村さんの御趣旨の根底にあるやに実は拝聴いたしておったわけでございますが、日本国の現在の憲法、この前文にこううたってあるんですね。「日本国民は、みづから進んで」云々、最後に要するに「永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたのである。」と、言うなれば民定憲法の精神がここにうたわれておるわけだと、私はかように思うわけでございます。
 そこで、先ほど来お話の出ました一世一元の法制化の問題は、これが天皇制の復活につながるというふうな考え方につきましていささか反論を申し上げたい、もう一度その辺を御説明賜りたい、これが第一点でございます。第一点と申しましょうか、木村さんに対する質問でございます。
 次に、高柳先生にお伺いを申し上げたいのでございますけれども、大変これは卑近な例を出しまして恐縮なんでございますけれども、実は私、きのうでございます、大学へ通っております十九歳の青年と、高校生十六歳でございますが、その者に向かいまして、君はいつ生まれたのと、こう聞いてみたんです。年は幾つですかと。たまたま十九歳、十六歳という話がはね返ってきたのでございますけれども、西暦で答えられなかったんですね。昭和三十四年だと、あるいはぼくは昭和三十七年だと、きわめてそれが自然に出てくるわけです。
 それから実は、こういうことを申し上げていいかどうかいささかちょっとちゅうちょするんでございますけれども、私たちが議員会館等で食事をいたしておりまして、反対論者の急先峰に立たれておられるような方々とたまたま会食などをいたしておりまして、雑談の中で、少々おつむが薄いようだけれども非常に血色もいいじゃないか、どうだろうか私とどっこいどっこいぐらいかなと、いや先生のお年知っておりますよ、大正二けたでしょう、私は昭和初期ですよと。反対論を述べられる方が実はこういうようなお話が出てくる。こういうケースを二、三回私は経験したことがございます。
 先ほど来先生のお話の中で、いろいろ非常に次元の高い、歴史学上あるいは社会科学上の見地から見た場合には、これは元号法制化というものはまずは当然反対だというふうなきわめて断定的な実は論断をされたように伺っでおりますし、同時にまた規範学の見地から見て、思想の自由あるいは学問の自由というような観点からいろいろ御議論があったようでございますけれども、私たちはそういうむずかしい理論武装はなかなかできないんですが、先ほど申し上げましたような非常に卑近な例の中で国民に非常に定着しておる部分がある、若い方々にも定着しておる部分がある、その辺と、いま先生にちょっと申し上げました、言うなれば非常にロジックの積み重ねのような学問的な原理とのその辺の幅をどういうふうな形でお考えになっておられるか、以上をそれぞれ木村さん、高柳先生にお伺いを申し上げて私の質問を終わらせていただきます。
 以上です。
○参考人(木村知己君) いま御質問の趣旨の中に、最初の点は、文化には精神文化と物質文化があるんじゃないかと、そのとおりだと私も思いますし、私もそうだと思っております。ただ、この文化というものを文化そのものとして継承していくのにどうすることが一番いいかということが問題の論点でございます。したがいまして私は、文化財とか無形文化財と言いましても、それは技術だとかあるいは踊りだとかという一つの型に表現せられるものが喪失することのないように維持しようとするものだと、こう思っております。したがいまして、文化財、無形文化財と言われるものができるだけそのまま保存されるように、それを破壊することのないように法的に規制なさるということは、私は大変適切なことだと、こう考えております。ただし、精神文化というものは、それは精神的なものとして維持していく人にとって価値があり、意味があるのでございまして、精神的文化として維持すべきでないと思っている人に向かって法律的に強制したり拘束したりして維持させようとするのならば、それはもはや文化とは言えないと、私はこう申し上げているわけでございます。したがいまして、文化というものを、ここで文化論を論ずるのは余り意味がないと思いますが、要するに一体元号というものを文化と見るか何かということになってくるわけでございます。すでに元号が文化であるということを盛んに強くおっしゃるのならば、私はむしろ、いま申し上げましたように、それを文化と思わないところの人々もおるわけでございます。それは少数者として、その輝かしい文化ではなくて、それが被害をこうむるものだということを判断する人にとって、それは文化として強制されることははなはだ迷惑なことでございます。したがって、先ほど話がありましたように、社会的混乱を引き起こさないように政治家の方たちが政治を行っていくためには、少数者の権利が守られるということ、それが最も大切なことであって、私は本来逆に、天皇が本当に象徴天皇として保護なさろうとなさる方たちは、その天皇に関連する元号を国民に強制するということは、逆に天皇を象徴化させないことになる危険性を持っているのではないかと、私はこう思います。
 それから、第二点でございますが、旧憲法の復活になるんじゃないかという不安を持っているかというんですが、私は元号が使われているから旧憲法の復活になるなんと毛頭考えておりません。それが元号を法制化しようとして猛然と運動なさった方たちの中に、自主憲法、それから一つの参考資料としてこういう文章がございます。大嘗祭を国事化し、新天皇を半帝とすることのないようにしなければならないと。この半帝というのは天皇が半分になるということの意味なんですね。これはこういう意味なんです。実は、天皇を即位、践祚、大嘗祭、そして一世一元の元号を確立することによって日本の天皇は天皇になるのである、これが万世一系の天皇である。ところが、その中で即位だけしてしまって践祚も大嘗祭も改元ができなかった場合には次の天皇は半帝である、半分の帝である、だから大嘗祭、践祚、それから元号の改正をしなければなならないと言っていらっしゃるのは私たちではなくて、元号を推進なさろうとしていらっしゃる方が必死になって叫んでいらっしゃる言葉でございます。ですから、私たちはこれは一世一元の元号をつくろうとしていらっしゃる方たちは旧憲法の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という神聖論をとろうとしていらっしゃると考えざるを得ないというだけのことでございます。
 以上です。
○参考人(高柳信一君) 私の説明が非常にまずかったのかと思います。私は元号に反対しているのではないのでございます。元号の法制化に反対しております。それから元号を多数の人々が、何といいますか、慣行的にといいますか、ほうっておくと自然に元号を使うということを、第一点と関係しますが、いけないことであって、西暦を大多数が使うようにしたいという、そういう立場でも全然ございません。元号に反対しているわけでは全然ないのでございます。一番最初の発言で申しましたとおり、それぞれの使われる状況によって、繰り返しになりますので結論だけ申しますが、自然科学者が国際的に普遍的な物理上の知識なり何なりについて書く場合に、それに適した紀年法があろうと。法学者としては、判例や日本の法律を問題にする以上、一九六九年のあの判例と言ってもだれも正しく私の言わんとしたことをまた迅速に伝達として受け取ってくれないわけでございまして、昭和何年の判例とか昭和何年の法律第何号というふうな形で私の言わんとすることを伝達いたします。それぞれその伝達の目的にのっとって合理的、適切な紀年法があろうと。また信念に基づいて一方を使う、他方は絶対使わないという方もあろうし、なるべく元号で紀年表示をすべきであるという方もおると思われます。それらについて決して評価をしているわけではない。西暦を使わないのはどうだというようなそういう評価は全然いたしません。自由にそれに適した使い方をすべきである。多数の人が自主的におのずから元号を使う、あるいは元号で思想を伝達するということと、だから法制化すべきだということの間には非常に大きなギャップがある。それは決して法制化を根拠づける根拠にはならないということを申しているわけです。
 そして、したがって、先ほど御発言くださいました非常に次元の高い見地の問題と、卑近なと申しますか、日常の問題との間にギャップがあるではないかということでございますが、まさにそういう現実を前提にしまして法制化というのが正しい結論なのかどうか、それを私は問うているわけでございます。そして、多数がおのずから、あるいは当然のごとく元号を使うということは即それを法制化していいという問題ではないんだということを申しているわけで、卑近なというふうにお言葉を使われましたが、それに従って言えばそういう卑近な事実を無視しているのではなくて、そういう事実を前提にして、しかしそのことと法制化ということとは違うんだということを申しております。
 その理由は何か、それは最初の発言とそれから先ほどの発言で申しましたので繰り返しませんが、結論的に申しますれば法で定めるという以上、法は国と国民との間の権利義務関係を定めるわけでございまして、その法で定めたところに違反する事実が生じた場合には、法規範の道徳規範や習俗規範との確定的な違いといたしまして、国家権力のバックアップのあるサンクションによって法の定めたところを実現すると、これが法の法規範としての基本的特色でございますから、元号をそういうものにすることになるんだということでございます。
 それからそのことによって大多数の人が当然に使う元号、これをあくまでそういう意味でのサンクションによって裏打ちされた法制度化することは、少数者の思想、信条の自由に対して直接、間接の何らかの威迫を伴わざるを得ない。これも多少蛇足でございますけれども、法律自体は元号を使わないと処罰するぞというようなことは何も書いていない。また明治憲法下の天皇主権時代においても、そういう法律をつくることはおよそプラクティカルには考えられなかったところだと思います。しかるにかかわらずなおそれをするということ、それはある意味では国家は何も強制しないよということでございますが、そのもとで木村参考人が言われたような元号を自分の信仰の問題として使わないという信念の人に対して、社会的な、何といいますか、攻撃といいますか、非難が事実上出てくるということ、これは杞憂に終われば幸いですけれども、そういう地盤が醸成されるということは否定できない。その場合別に国家がそういう少数者をいじめているわけではない。そういう西暦一本化の教授を追放しろと言って押しかけるのは学生じゃないかと、国家とは無関係だというのでありますけれども、そういうことのきっかけになるようなことを醸成するという、そこに本来権利義務の問題ではない元号を権利義務に関する定めに最も適した法規範である法律という形によって制度化することのある意味で避けることのできない効果があるんだということを申したわけでございます。
○秦豊君 きょうは長い時間にわたりまして御協力をありがとう存じます。私の持ち時間十五分で終わりますから、後しばらく御協力を願いたいと思います。
 私は、社会民主連合の秦豊でございますが、もちろん法制化には強く反対をするという前提で十五分たっぷり伺ってみたいと思います。
 実は、私にとりましては松岡参考人は媒体こそ違え言論界の私の大先輩、しかも尊敬する大先輩に当たります。松岡さんには、元号法案といわゆる世論というものの関係をまず伺っておいて、時間がもしございましたら、木村参考人に一つ伺っておきたいことがあります。
 で、私自身の考え方、とらえ方は、やがて政府側を相手にした質疑の中で展開をするわけでありますけれども、松岡さんね、今度の元号法制化で、私が一番がまんがなりませんのは、法三章という言葉はあるけれども、たった三行のこの法案ですね。これは非常に奸智にたけたテクノクラートが知恵をしぼりにしぼった結末であって、それも悪知恵なんだけれども、そしてすきを見せない細い穴をいかにしてくぐり抜けるかという点で、いわゆる悪知恵を結集した珠玉の作品でありまして、なかなか油断がならない。法三章というのはかねがね聞かされているが、法三行なんていうのは初めて聞いた。ああいう表現でしか法案の形に形成できなかったという欠陥を同時に内包したものだと私は思うんです。
 それで、もう一つがまんができないと申し上げましたのは、たとえば三原総務長官なり、あるいは政府側のいろんな答弁を衆議院の議事録全部読んでみましたけれども、いわゆる世論というものを金科玉条にし、同時に錦の御旗にしていると。ところが、政府側の言う世論というのはすりかえられた世論ではないのかという点を伺いたいんです。つまり、いま手元にありますのは共同通信のデータなんですが、たまたま調査が実施された時期が三月十七日と三月十八日で、つまりいわゆる公表されている資料では一番新しいので、あえて引用したいと思いますが、元号問題調査結果、サンプル数は、無作意抽出の三千であります。その中で、元号を法律で決めることに賛成、これは二三・三%、いわゆる二割台であります。法律では決めなくとも存続をすればよいではないかというお答えが五五・一%、これはもちろん過半数でしょう。それから、元号そのものに反対なんだというお答えが四・二%、どちらでもよいよというややさめた、しらけた御回答が一一・五%、無関心が三・七、その他無回答二・二と、こういうわけでありまして、御賢察のとおり、存続の希望は確かにこれから見れば全体の八割には達しています。しかし法制化に賛成の者は、たまたま一番新しい共同通信調べが二三・三%、その他の媒体の調査では二一%とか、二〇・五%が並んでいることも、松岡さん御存じのとおりだと思うんです。つまり、政府が言っている世論というのは一体何だと。いままで総理府は四回ほど調査をされたそうです、君が代や日の丸の問題を含めて。ところが、なぜか法制化を焦点にした世論の動向からはあえて目をそらそうとしている。しかも、一般的な元号存続に対する圧倒的な支持ですね、ないし支持率を金科玉条にして振りかざしてやまない。この点が何とも私はがまんができないんです。
 それで、松岡参考人に伺いたいんですけれども、このような政府・与党の態度、特に政府側の基本的な姿勢、これは世論をむしろ冒涜し、世論をすりかえているものじゃないかと極言できると思うんですけれども、どんなお考えお持ちでしょうか。
○参考人(松岡英夫君) 私、最初に意見を申しましたときに、元号を存続賛成の率は非常に高いけれども、しかし、法制化賛成はそれほどではないと、むしろ内閣告示か何かでやったらどうかという意見の方が世論調査では多いようだということを申し上げたんですが、いま秦さんの御指摘によりますと、法制化賛成が非常に少ない、まあ何らかの形で存続したらいいじゃないかというのが圧倒的に多い、半ば以上を超しているというところ、ここに私は国民の非常なこの法案に対する不安があると思うんです。強制化とか、届け出しても受け付けないとか、いろんなことで国民は不安を感じておる、それが法制化賛成というのが少ないという現象の裏返しの状態ではなかろうかというふうに思うんです。
 日本の国民は、戦後はまあわりあいに自由な生活を楽しんできましたけれども、戦前はこれは申し上げるまでもない、先ほど木村さんがおっしゃったように、もうむちゃくちゃなことをやってたわけですね。その恐怖感を私を含め多くの国民がまだ持っておる、経験として持っておる。それで法制化ということになると、そこに政府権力のほしいままな圧迫、そういうことをもう本能的に想像してしまう。
 それから、さっきおっしゃった、法三章じゃなしに法三行だという点。まあこれは、政府の意図を好意的に解釈しますと、それぐらい元号法案というのは簡単なことなんだというあらわれと言えるかもしれませんけれども、逆に言うと、法律は簡単だけれども、後、規則とか何かで非常に政府に都合――この法律を施行する場合に政府に都合のいいようなものを盛り込むと、そのためには法律をできるだけ簡単にした方がいいという意図のあらわれとも解釈される。
 まあ、いずれにしても、このように元号の法律化に賛成の者が二三・三%というような通信社の調査がごく最近出ているということに対しまして、今度の国会でこの元号法案が何だかスムーズに通ってしまう、頼みにしていた公明党までも向こう側にくっついてしまうというような状態になりますと、これはちょっと私、実際の国民の不守を国会が代表してない、それでいいのかと、国民に批判を受けるんじゃないか、国会自体が。そういうことを実は感ずるわけです。
 以上。
○秦豊君 どうもありがとうございました。
 確かに、なぜ急ぐのか。たとえば、どんな法案の提出形式でも、法案の目的、趣旨、これがかなり詳述をされているという定型を持っている。この法案は全くその対極にあるものでありまして、だからこそ松岡さんも触れられたような、きわめて油断のならない魂胆がこの簡潔な表現の奥底にあるという、私はきわめて率直な感じを持っております。
 で、実は、この法案の審議が衆議院で始まりましてから、主として右の翼の方々が大変元気なんだけれども、国会の審議で非常にノイジーで質疑の細かいディテールが聞き取れないというふうなほどお元気なんですがね。この人々からいろいろ印刷物を送ってもらっています、頼んだわけじゃないが。その中にこんなことがありましてね、どういうふうな頭脳の構造であるか、価値観がわからないんだけれども、これを引用して、それに対する木村さんのぜひ反論を伺っておきたいんですよ。こういう表現なんですけれども。
 これは、積極的な推進団体の一つである生長の家政治連合という組織でありますが、こんなことを言っております。タイトルは「内閣告示か法制化か」というものでありますが、そのところを引用してみますと、元号というものは、国民の心へのすぐれた統合力を持っているものであるから、天皇制を永遠不滅の制度にするためには、われわれは、内閣による告示のようなものではだめであり、元号の法制化を何としてでも絶対に実現しなくてはならない。もしもわれわれが真実に憲法の改正、正統憲法への復帰を願うならば、あしたに一城を抜き、夕べにさらに一城を抜くがごとく、じりじりと敵の牙城に迫るべきである、こういう表現があるんですね。どうもこれ、考えるまでもなく、「敵」というのはわれわれのことではないかと思うわけですけれども、これは非常に率直なまあ表現ですね、日本語の表現としては。決して政府の閣僚答弁の、あるいは政府委員の答弁のように、持って回っていてエンドレスだというふうなところがありませんからね、大変わかりやすい。しかもこれは必ずしも私は誇張された表現ではなくて、この方々の属する陣営にとっては信念ではないかとさえ私は思うんですが、木村さんの場合、どういうふうにこれに対して反論されますか。
○参考人(木村知己君) 大変大切な問題でございますが、私はこの元号法制化の問題で一つ、ちょっと間違って考えていらっしゃる点があると思うんですが、先ほど高柳参考人も、いまの天皇がもしも亡くなられた場合に元号がなくなるとおっしゃってるんですが、私はそんなことはないと思っております。
 それからまた黒柳議員が、もしものことがあった場合には社会混乱が起きるとおっしゃるんですが、これもまたおかしいと思うのでございます。と申しますのは、元号というものをもしも自民党それから公明党、民社党、新自由クラブという方たちが支持していらっしゃるのならば、もしも天皇が亡くなられた後に自分たちでこれを次の元号にするといって、法律に強制しなくても、これが次の元号だといってそれを大いに宣伝なさって、それからまた元号を精神文化と考えていらっしゃる方の中には有力な方々もおられるのですから、それを国民に使え使えと言って支持されて使われれば、それで元号は残るのじゃないでしょうか。ところが、それにもかかわらず、法制化しろ法制化しろということを強硬におっしゃるということは、実は天皇の名前と元号とがつながっているところにあるわけでございます。その点で、いまおっしゃったとおり、秦議員が私どもにいま出してくださった資料のように、元号というのはただ単に人々が便利だから使っているということではなくて、その背後には天皇との関係というものが完全に密着しているのです。しかもこれを法律的に強制しなければ意味がないという問題点があるわけでございます。それで天皇との関係が法律的に国民を規制しなくて済むことならば、有力な政党が四つも支持していらっしゃるんですから、何も法律になさらずに、天皇が亡くなった後、さあ私たちは次の天皇のためにこういう元号を使ってみんなで使おうじゃないかとおっしゃって、国民の支持を得てお使いになればなくなるわけはないんですし、またなくなるということを断定することはかえって危険だと私は思います。それにもかかわらず、そうでなくて法制化して強制しようとするところに問題のかぎがあることを私はぜひ御理解いただきたいと思います。
 以上です。
○秦豊君 まだちょっと時間がございますが、私はいま許され得る最大のあり方というのは、日刊ジャーナリズムが見出しの頭のところで西暦と昭和を並記していますね。一九七九年と書いて、こっち側には、新聞によって逆のもあるけれども、昭和と書いてある。あれが許し得るいわゆる民衆的な知恵というか、市民感覚というか、あれずるいじゃないかという突きつめじゃなくて、ぼくはあれが許し得る最大であると、法制化などは言語道断という結論なんですけれども、きょうは参考人の皆さんにこれ以上伺っておりますと時間の超過ということになりますので、まだ一分少々ございますけれども、一応この辺で控えておきたいと思います。どうもありがとうございました。
○委員長(桧垣徳太郎君) 以上で参考人に対する本日の質疑は終了いたしました。
 参考人の方々に一言御礼を申し上げます。
 本日は長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただきましてまことにありがとうございました。
 本日はこれにて散会いたします。
   午後五時十三分散会