第151回国会 文教科学委員会 第14号
平成十三年六月二十五日(月曜日)
   午後一時開会
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   委員の異動
 六月二十二日
    辞任         補欠選任
     阿南 一成君     長谷川道郎君
     松 あきら君     山下 栄一君
 六月二十五日
    辞任         補欠選任
     佐藤 泰三君     海老原義彦君
     長谷川道郎君     阿南 一成君
     石田 美栄君     広中和歌子君
     阿部 幸代君     橋本  敦君
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  出席者は左のとおり。
    委員長         市川 一朗君
    理 事
                亀井 郁夫君
                松村 龍二君
                佐藤 泰介君
                内藤 正光君
                荒木 清寛君
    委 員
                阿南 一成君
                有馬 朗人君
                海老原義彦君
                中曽根弘文君
                水島  裕君
                柳川 覺治君
                広中和歌子君
                本岡 昭次君
                山下 栄一君
                橋本  敦君
                畑野 君枝君
               日下部禧代子君
                山本 正和君
                高橋紀世子君
   事務局側
       常任委員会専門
       員        巻端 俊兒君
   参考人
       大学評価・学位
       授与機構長    木村  孟君
       中央大学経済学
       部教授      小林 道正君
       弁護士
       川西市子どもの
       人権オンブズパ
       ーソン代表代行  瀬戸 則夫君
       法政大学文学部
       教授       佐貫  浩君
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  本日の会議に付した案件
○地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一
 部を改正する法律案(内閣提出、衆議院送付)
○学校教育法の一部を改正する法律案(内閣提出
 、衆議院送付)
○社会教育法の一部を改正する法律案(内閣提出
 、衆議院送付)

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○委員長(市川一朗君) ただいまから文教科学委員会を開会いたします。
 委員の異動について御報告いたします。
 去る二十二日、松あきら君が委員を辞任され、その補欠として山下栄一君が選任されました。
 また、本日、佐藤泰三君、石田美栄君及び阿部幸代君が委員を辞任され、その補欠として海老原義彦君、広中和歌子君及び橋本敦君が選任されました。
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○委員長(市川一朗君) 地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律案、学校教育法の一部を改正する法律案及び社会教育法の一部を改正する法律案の三案を一括して議題といたします。
 本日は、三案の審査のため、参考人として大学評価・学位授与機構長木村孟君、中央大学経済学部教授小林道正君、弁護士・川西市子どもの人権オンブズパーソン代表代行瀬戸則夫君及び法政大学文学部教授佐貫浩君の四名の方々に御出席をいただいております。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつ申し上げます。
 本日は、大変御多忙のところ当委員会に御出席いただきまして、まことにありがとうございました。
 参考人の皆様から忌憚のない御意見をお述べいただきまして、三案の審査の参考にさせていただきたいと存じますので、よろしくお願い申し上げます。
 次に、議事の進め方でございますが、まず木村参考人、小林参考人、瀬戸参考人、佐貫参考人の順序でそれぞれ十五分程度で御意見をお述べいただいた後、委員からの質疑にお答えいただきたいと思います。
 なお、御発言は、意見、質疑及び答弁とも着席のままで結構でございます。
 それでは、まず木村参考人から御意見をお述べいただきます。木村参考人。
○参考人(木村孟君) 私、ただいま御紹介賜りました大学評価・学位授与機構の木村でございます。参考人として意見を述べさせていただきます。よろしくお願い申し上げます。
 まず、全体についてでありますが、私も委員として参加いたしました教育改革国民会議は、今後の教育のあり方について幅広く議論を行い、「教育を変える十七の提案」として報告を取りまとめたところであります。この提言等を踏まえ、教育改革関連三法案が国会に提出されるなど、政府において教育改革の推進のための取り組みがなされていることについて高く評価いたしますとともに、一刻も早く法案が成立することを期待するものでございます。
 まず、学校教育法について意見を述べます。
 最初は、体験活動であります。
 今日の子供たちの状況を見ますと、都市化や少子化、地域社会における人間関係の希薄化などのために健全な成長に必要なさまざまな体験を行う機会が不足し、社会性や人間性が十分身についていないという点が強く懸念されております。また、若者の間で無業者が急増するなど、職業観や勤労観をいかにして育成するかということも我が国の教育の大きな課題となっております。その意味で、学校の内外を通じて体験活動の推進を図ろうとする本改正の趣旨はまことに時宜にかなうものであると考えます。
 特に、社会や自然とのかかわりを重視し、ボランティア活動などの社会奉仕体験活動、自然体験活動を明示する意味は大きいと考えます。また、今回の法改正によりインターンシップの推進も図られるものと大いに期待しております。
 この法改正が義務化あるいは強制につながるのではないかとの見方もありますが、どのように具体的な教育活動を展開するかはそれぞれの学校が主体的に検討し決めていくべきものであり、本法律の趣旨もそこにあると理解しておりまして、義務化、強制にはつながらないと考えております。法改正を契機に体験活動の推進を図るためには、例えば傷害保険等についても新たな仕組みをつくるなど、国や自治体などが積極的な役割を果たしていく必要があろうかと思います。
 次に、出席停止についてであります。
 学校は子供にとって安全で楽しい学びの場でなければなりません。このことは、つい先日、大阪の池田小学校で起きたまことに悲しい、痛ましい事件によって全国民が再認識させられたところでございます。学校の秩序を維持すること、いじめや暴力から子供たちを守り安全を確保することは学校の基本的責務であります。
 児童生徒の問題行動への対応に当たっては、日ごろの生徒指導の充実に努めることが重要でありますが、学校による指導にはおのずと限界があります。いじめや暴力行為など児童生徒の問題行動が深刻化している状況を踏まえますと、他の児童生徒の教育を受ける権利を保障するため、出席停止措置を適切に制度化することが必要であろうと思います。
 イギリスでは、義務教育段階でも、法律上、退学、停学が認められております。最近では、教育技能省が、他の児童生徒や教師に暴力を振るって退学となった者について復学を認めないなど、極めて厳しい姿勢を示した例が報告されております。
 この問題につきましては、出席停止期間中の支援が規定されましたが、その点の一層の充実が期待されます。殊に、問題行動の背景には家庭の保護監督能力に問題がある例が少なくないと言われておりまして、指導を実効あるものにするためにはさまざまな支援策を講ずる必要があると思います。
 次に、飛び入学についてであります。
 飛び入学につきましては、私が主査を務めました教育改革国民会議の第三分科会において議論いたしました。これまで、特に戦後の我が国の社会は平等ということを過度に重視してまいりましたため、教育の分野においても、優秀であること、あるいはできること等に対する評価が正当になされなくなってしまったのではないかと考えております。
 しかし、激しいグローバライゼーションの流れの中で我が国が他の先進諸国に伍していくためには、独創性、創造性に富んだ人材を育てていくことが焦眉の急であり、その意味でも、一人一人がそれぞれのやり方、生き方、個性、能力に合った教育を選択できるシステムに転換していく必要があろうかと思います。
 平成九年の中央教育審議会の議論において、飛び入学の導入に関し、それを懸念する声もありましたが、子供たちの未来を開くためにその導入が適当であるとの提言が行われております。今のところ数学と物理の二分野に限定されておりますが、私はこれ以外の分野においても飛び入学を実施できるようにすることが適当であろうかと考えております。
 次に、社会教育法についてであります。
 昨今、学校、家庭及び地域の教育力の低下が指摘されております。そのため、学校教育の改革のみならず、家庭の教育力、地域の教育力の向上を図るため、社会教育行政としても積極的な支援を行っていくことが必要であると考えます。
 家庭教育の充実についてであります。
 申し上げるまでもなく、家庭教育はすべての教育の出発点であり、基本的倫理観、社会的なマナー、自制心や自立心などを育成する上で重要な役割を果たすものであります。
 しかしながら、近年の都市化現象、核家族化や少子化傾向等の出来に伴い、無責任な放任や過保護、過干渉、子育てやしつけに関する親の不安の増大等、家庭の教育力低下が我が国社会の大きな問題として指摘されております。
 平成十年の中央教育審議会答申におきましても、行政による家庭教育の支援の充実の必要性が指摘されておりますが、今後はより多くの親が家庭での教育のあり方やしつけについての理解を深めるように支援することが重要であり、そのためには、親に対して家庭教育に関する学習機会の拡充など、家庭教育に対する支援の強化が必要と考えます。
 今回の社会教育法の改正案において、教育委員会の事務として家庭教育に関する講座の実施を規定することにより、今後、各教育委員会で家庭教育関係の取り組みの充実が図られるものと大いに期待しております。
 次に、体験活動についてであります。
 社会教育にあっては、現在、学校が休みになる週末や長期休暇中における活動の機会の提供を行っておりますが、この活動は保護者や地域の大人と子供たちが一緒になって活動に取り組むところに特色があります。また、各社会教育団体には、これらの活動に関して相当のノウハウの蓄積があり、すぐれた指導者も数多く抱えております。社会教育において行う体験活動は、学習者の希望に応じて多彩な活動の展開が可能であり、学校教育における体験活動と相まって、青少年に対して充実した体験活動の機会を提供することができます。その意味で、教育委員会の事務として社会奉仕体験活動等のさまざまな体験活動の機会の提供と社会教育関係団体等が行う事業の奨励を明示することの意義は極めて大きいものと考えます。
 今後は、学校教育と社会教育との密接な連携体制を構築し、さまざまな体験活動を推進していただくことを強く希望する次第であります。
 次に、地方教育行政の組織及び運営に関する法律のうち、教育委員会の活性化についてであります。
 教育改革を実現するためには、それぞれの地域で独自のアイデアを出し、住民の理解を得ながら、特色ある取り組みを進めることが必要であると考えます。教育委員会が中心となって生涯学習を基礎とした町づくりを行うなど、地域に根差した施策を展開することも有効な方法であると考えます。
 教育改革国民会議では、教育委員会の活性化について組織マネジメントの発想を取り入れるという観点から提言を行いましたが、今回その内容を盛り込んだ法案化が行われたことについては高く評価する次第であります。これを受けて、各教育委員会において教育改革の実現という観点から活発な議論が行われることを期待したいと思います。
 次に、指導の不適切な教員に関する件であります。
 教育研究の評価が決してたやすいことでないことは事実であろうかと思いますが、評価を行いそれを被評価者にフィードバックすることによって教育研究の質を高めることもまた重要であろうかと思います。
 大学に関しましては、平成三年に自己点検、自己評価が努力義務として導入され、一昨年にはこれが義務化され、各大学においても学生による授業評価等さまざまな評価の取り組みが進んでおります。平成十五年からは、私の勤務いたしております大学評価・学位授与機構による全国立大学の教育研究に対する評価、いわゆる第三者評価が本格開始されます。
 小中高等学校の先生方も、教育の対象が十八歳以下の子供たちということで大変難しい面もあろうかと思いますが、評価とそのフィードバックによって指導方法、指導体制等の改善を図ることが必要であろうかと思います。多くの先生方は教育に大変熱心に取り組まれているということは私も存じ上げておりますが、一部には子供たちの教育に向いていない先生方によって教育に支障が生じていることも事実であり、このような場合には何らかの対応を行うべきであると考えます。
 教育改革国民会議におきましても、教員の評価を実施し、その評価の結果を待遇面に反映させること、また評価の結果によっては他職種への配置がえや免職措置をとることなどについての提言がなされており、今回の改正案の児童または生徒に対する指導が不適切な教員に対する転職の措置も子供たちを正しく伸ばしていくために必要なことであろうと考えます。
 以上で、参考人としての意見の申し立てを終わります。ありがとうございました。
○委員長(市川一朗君) ありがとうございました。
 次に、小林参考人にお願いいたします。小林参考人。
○参考人(小林道正君) 中央大学の小林道正です。
 初めにちょっと自己紹介しておきたいと思いますが、私は、十数年前にイギリスのケンブリッジ教育研究所、国立の機関ですが、そこで二年間研究しまして、イギリスの小中高大のいろんなことも調べてきましたし、見てもまいりました。また、数年前に、今度はアメリカのカリフォルニア州立大学の一つのところで、数学・理科教育研究所で一年間アメリカの小中高をいろいろ見てまいりました。ハーバード大学にも何回か足を運んで、いろいろ先生方や事務の方にもお聞きしてまいりました。そんなことが参考になればと思って、きょうお招きいただいたので伺った次第です。
 私は、この二十年間、小中高の先生たちと数学教育の問題でいろいろ研究会で議論してきまして、小中高でいろんな問題があるということも十分理解しているつもりです。また、高等学校の数学の教科書を二十数年間編集・著作していまして、数学について高校と大学の関連もよくわかっているつもりではおります。
 三つの法案が提案されているわけですが、それぞれ意見はありますけれども、時間の制約もありますので、きょうは学校教育法の一部を改正する法律案について、しかもその中で特に飛び入学の問題点に限って意見を述べたいと思います。
 今回提案されているのは、高校二年から大学へ入学させることを法律として認めようということになっているわけですけれども、ぜひ日本の高校のシステムというのは御理解いただきたいと思うんですね。
 何を言いたいかといいますと、日本の高校は、一年生ではこういう科目、二年ではこういう科目、三年ではこういう科目というふうに学年別に一応きちんとされているのが普通なんですね、もちろん多少の選択とか飛び越すことはありますけれども。数学でいえば、一年生に数学T、数学A、二年に数学U、数学B、三年で数学V、数学Cというふうに学年でかなりきちっと固定されているのが日本の高等学校の教育のシステムなんですけれども、これが二年から大学に入れるということになりますとどういうことになるか。どなたもお考えいただければすぐわかることで、つまり三年で学習する内容は全部どこかへ飛んじゃうわけです。つまり、三年で学ぶ内容を全然学ばないで大学に入るということになるわけです。この点、どういうふうに皆さんお考えなんでしょうかということなんですね。
 例えば、今、数学と物理で例外的に認められていますけれども、数学がよくできるから大学に入れましょうというので、千葉大学は物理でしたか、名城大学でことし四名ですけれども、それは数学ですけれども、数学ができるから入れようというと、三年でやる数学C、数学Vはやってこない。大体、二年から入れるというときに、審議するのは一年ちょっとなんですね。一年ちょっとした段階で、それまで数学が幾らできたからといって高校三年の数学もやらないで大学に入って、一体どうなっているんでしょうね。千葉大学はどうやっているのかということをこの委員会でもぜひ調査していただきたいんですけれども。
 数学だけちょっとできたからといって、大学で数学だけ勉強しているわけでは決してないわけです。数学の研究者にお聞きしていただけばわかるわけですが、狭い数学だけ研究していて立派な数学の研究ができるかというと、そんなことは決してないんですね。特に最近は、数学といいましても、物理学やほかの科学との連携を密にして、ほかの分野から新しい要素をたくさん取り入れて新しい数学が発展してきているわけです、これは数学の長い歴史を見てもらえばすぐわかることなんですけれども。数学のノーベル賞といわれますフィールズ賞というのがありますけれども、これも最近は物理学者が受賞しちゃっているんです。純粋に数学をやっている人じゃなくて、物理学者が数学のノーベル賞と言われるフィールズ賞を受賞している、こういう事態になってきていまして、数学だけできるから大学へ二年から入れちゃおうというのは、こういう幅広い知識とか幅広い分野の勉強が必要なのにこれをさせないということですから、非常に問題が多いと思うんですね。
 では、二年から大学に入れちゃった場合、三年で学ぶ内容をどうするおつもりなんでしょう。御提案者にお聞きしたいんです。千葉大学でどうやっているんでしょうね。大学で面倒を見ているんでしょうか。高校三年でやるいろんな科目がありますね。数学や物理だけじゃなくて、社会科学も語学もいろいろありますけれども、これを大学で全部面倒を見ようというんでしょうか。
 これは何か趣旨が違うわけで、例えば戦前もこの飛び入学というのが日本にあったそうですね。私は戦後の生まれですので知らないんですが、同僚の方にいろいろお聞きしてきますと、その方のお父さんは中学、高校で飛び入学して二年飛んだんだそうです。それで、東大の経済学部に入って首席で卒業されたというんですよ。だから相当すばらしい能力の持ち主だったと思われるんです。ですが、その方が一生涯この二年飛んだことを非常に後悔しておられたというんですね。それはなぜかというと、その二年間できちっと学ぶべきことを大学卒業してから何とか埋めようと努力したというんですよ。しかし、一生埋められなかったというわけですね。こういう後悔の念で、もうその方は亡くなられたということですけれども、そういう方を一人でもつくってはいけないと思うんです。三人や四、五人だからいいだろうということはないわけで、やっぱりどこか抜けてしまうわけですね。きちっと三年間やって初めて高校卒業の学力が認定されて大学に入るのに、それが三分の一抜けちゃうわけですから、これは非常に大きな問題だと思うんですね。
 今、日本のお話をしましたけれども、アメリカではどうなっているのか。いただいた資料に、世界的に見るとみんな飛び級をやっているよ、飛び入学をやっているというようなことが書かれています。確かに、アメリカの大学の入学した学生の年齢を調べてみますと、十八歳だけじゃありません。十七歳、十六歳なんというのもたまにはいます。だけれども、これは日本とアメリカの小中高のシステムが根本的に違うところから来ているわけです。
 例えば高校は、先ほど日本では学年で学ぶ内容がほとんど決まっていると言いましたけれども、アメリカの高校はまず四年なんです。三年だとなかなか融通がききませんけれども、四年だと結構融通がきくわけです。どういう融通をきかしているかといいますと、例えば数学についても、いろんな段階の数学を設けておいて、進んだ子は一年であろうが三段階目の数学を勉強できるわけです。つまり、アメリカの高校の科目というのは、その科目ができる、大丈夫だと先生が認めれば、幾ら上の進んだ段階の科目でもとれるわけです。二年生はこれ、三年生になってからじゃなきゃこれはだめなんというような日本のシステムとは違うわけです。ですから、一科目一科目ごとクラスは全部違うわけです。一年生のクラスとかいって同じ授業を一年生全員がやるというのとは大違いなんですね。ですから、アメリカでは、高校は四年間が普通ですけれども、三年間で高校の決まった科目は全部履修することができるわけですね。
 しかも、アメリカでは大学レベルの授業が高校にたくさん導入されています。これはアドバンストプレースメントといいまして、略してAPテストとここでは言わせてもらいますけれども、大学レベルの授業がたくさん高校にありますので、高校の数学だけでは足りないのは、もちろん数学だけでもありませんけれども、どんどんAPの進んだ大学レベルの授業を進んで受けられるんです。ですから、高校三年で早く大学に行きたいとか、そういうことはアメリカではないんです。
 アメリカで、この資料で紹介されていますように、年齢に差はありますよ。だけれども、大学に入るのに高校三年からどんどん入れましょうということにはなっていないんですね。大学に入る年齢の制限はありませんよ。だけれども、高校の全部の、高校卒業の証書はアメリカでディプロマと言いますけれども、ディプロマをちゃんと取って初めて大学に入学させているんですね。そこが日本とは非常に違うわけで、ただ年齢がアメリカは十八歳以下もいっぱい大学に入学しているじゃないかということだけをとって、日本でそれを形式的にまねして、二年からどうぞ大学にいらっしゃいなんという、これは実情が全然違いますので、同一には論じられないということをぜひお考えいただきたいと思うんです。
 例えば、具体的な例でハーバード大学の例を見ますと、入学資格に、四年間きちんと英語を全部勉強しなさい、四年間数学をきちんと勉強してきなさい、歴史については三年間きちんと勉強してきなさいと、こういうふうにちゃんと規定されているんですね。ところが、ここに九一年のカタログがありますけれども、ここには例外的に、高校四年が普通だけれども、どうしてもというなら三年からでもいいよということが若干書かれているんです。でも余りお勧めしませんよという感じで書かれているんです。実際にはほとんど入学していないわけです。ところが、これもぐあい悪いということで、ハーバード大学はやめちゃっているんです、既に。十年前はやっていましたよ。ここに一九九五年から六年のカタログがありますけれども、このカタログにはそれは一切なくなってしまっているんです。つまり、アメリカの大学でも、ハーバードでも、やはり三年から、中途から高校を全部やらないで入れてもほとんど意味はないということでやめてしまっているんです。
 アメリカのこういう現状も見ないで、ただ形式的に、年齢がアメリカではいろいろあるんだから日本も二年から入れよう、こういうことはやめていただきたいと思うんです。
 何でアメリカでこううまくいっている、うまくいっているというと語弊ですけれども、いろんな年齢がいるかといいますと、大体入学のシステムが全然違うわけですね。日本はやっぱりペーパーテスト、学力の試験が非常に重きをなしているわけです。ところが、アメリカの大学は、そこに書いておきましたように、高校の学習と内容、特に先ほど言いましたAPの成績とか、高校の先生の複数の推薦状、それから大学から面接しますし、それから課題を与えて論文を書かせますし、それから勉強した以外にどういうすばらしい課外活動をやったかとか、どういうすぐれた能力を持っているか、こういうことを全部総合的に検討して、そうして入学者を決めているんです。ですから、これにアメリカは四カ月かけています、専門のスタッフを置いて。ハーバードの場合、千六百人の定員ですけれども、一万人ぐらい応募するわけですけれども、これを三カ月、四カ月かけて一人一人全部書類を見て、丁寧に見て、これは大丈夫だということで入学させるんですね。ですから、この点でうまくいっていることがあるわけです。
 だから、基本的な問題としては、日本で二年から入れますと、高校卒業の資格がないわけです。アメリカはちゃんと高校卒業の資格がないとだめと言っていますけれども、これもどうされるんでしょうか。実質的に各大学に二年からどんどん入れさせるということになりますと、個別の大学が実際問題として高校の卒業を認定するような形になってしまうわけです。高校卒業の免状がないのに個々の大学がそれを認めてしまうという、何か制度的におかしなことになってしまうわけですね。
 それから、各大学では少子化で入学生、受験生が少なくなっていますし、もし野放しに二年から各大学が自由に入学させていいよなんということになりますと、各大学ともどんどん二年からいらっしゃい、いらっしゃいというので、全国の高校を回って、うちの大学は二年から大学へ来ても十分やっていけますよということ、いわゆる青田買いという競争になりかねないと思うんです。高校の方でもそれを自慢するようなことになったりして、高校はもう大混乱するわけですね。ですから、無制限に野放しにこれを認めるような法案というのにはどうしても賛成できないわけです。
 それから、今度は大学院の飛び級ですけれども、日本の大学も数年前から例外的に学部三年から大学院への入学を認めているわけですけれども、今度それを法律できちんとしようということなわけですね。
 学部三年から大学院に入れるというわけですけれども、一体学部の、大学の教育というのをどういうふうにお考えなのでしょうか。大学の学習というのは、単に専門の特定の分野だけすぐれていればそれで大学卒業の資格を与えるよ、大学院へ行って専門的な勉強だけしていればいいよ、こんなことが大学教育の本来の目的ではないわけです。大学教育の目的というのは、やっぱり社会に貢献できる幅広い教養と豊かな感性とすぐれた人格を磨いて社会のリーダーとして働けるようにということがあるわけですから、狭い分野の専門だけやっていていいというのは大学の教育の理念ではないわけですね。
 アメリカだってやっているじゃないかという話ですけれども、先ほど言いましたように、ここにアメリカのハーバード大学の大学院の入試案内がありますけれども、ここにはっきり書かれているのは、きちっと大学卒業のバチェラー、アメリカではバチェラーと言いますけれども、大学卒の学位をちゃんと持っていなきゃだめですとはっきり書かれているわけです。これ以外は認めないわけですよ。日本で今回提案されているのは、大学の卒業の学位、日本では学士ですか、こんなものは要りませんよというわけです。これはどう考えても、大学院の目的からしても大学の目的からしてもおかしいわけですね。
 あと、時間が過ぎているようですから、教育改革国民会議、中央教育審議会でたくさん議論されているわけですが、そこに資料を添付しておいたのでごらんになっていただければわかりますが、江崎先生も、二年から大学に上げるのは問題が多過ぎるということを教育改革国民会議の中で、主査の木村先生がおられる中で発言されているわけです。ここに資料がありますのでぜひごらんください。それから、クラーク先生も、高校では三年間きちんと勉強した方がいいということを述べられているわけです。そして、ことし新しい中央教育審議会、木村先生も副会長で活躍されているわけですけれども、二月一日に総会が初めて開かれました。そこに資料添付してありますように、そこで非常に疑問が述べられているわけです。これは前の中教審からの議論を引き継いで、こんなに問題があるじゃないかということが中教審の中で議論になっているわけです。
 こういう議論を、総括というと変ですけれども、まとめられないで法案を提出された、しかも決められようとしているということに私は非常な危惧を感じるわけです。ですから、ぜひとももう一度よくお考えいただいて、その最後の方の、時間がありませんからやめますが、ぜひ私の提案した内容を御検討いただければありがたいと思います。
 どうもありがとうございました。
○委員長(市川一朗君) ありがとうございました。
 次に、瀬戸参考人にお願いいたします。瀬戸参考人。
○参考人(瀬戸則夫君) 私は、一九八五年ごろから弁護士として関西で、いじめ、体罰、懲戒処分、内申書開示など、学校での子供の人権侵害案件にかかわってきました。その中では、子供の問題をきっかけにして、保護者と教員、学校との相互不信がのっぴきならないまでに増幅したケースも相当見てきました。
 子供の人権が侵害されるような問題が学校で生じたときに、本来は子供と教員と保護者と、その三者が建設的な対話に努めて、相互理解を深め、信頼を回復して、そして問題を解決していくことが最も望ましいわけです。そういうふうに動いている学校も少なからずあることはそのとおりでございます。しかし、そういった具体的な取り組みが特に学校という枠組みの中ではかなり困難な現状があるというふうに私には見えてきました。他方で、学校の外には問題解決のシステムがあるかと申しますと、子供の立場に立ちながら、関係する学校や行政とも適切な意思疎通のできる相談や支援の機関となれば、残念ながらこれも、少なくとも身近で手軽に利用できる範囲ではほとんど存在しておりません。
 私は、一九九九年に川西市子どもの人権オンブズパーソン条例発効以来、そのメンバーの一人となって三年目に入っております。その経験を振り返りますと、今申しましたように、そういった問題については、市レベルでございますけれども、子どものオンブズパーソン制度というのは十分にこたえ得る制度だと感じております。
 本日は、教育三法の討議に際しまして、私のつたない子どもの人権オンブズパーソンの経験から、子供の救済制度一般やら、それから子どものオンブズパーソン制度とその実情、それから教育三法に関する意見という、三方向の意見を申し述べたいと思います。
 まず最初に、子供の救済にかかわる現状でございますが、本来、教育委員会制度というのは学校トラブル解決の役割をも担うものと言えるかもしれません。しかし、例えばいじめや体罰の被害を受けた子供や保護者が学校の対応に不信感を持っているような場合、少なくともその当事者の子供や親からすれば、教育委員会は必ずしも公平な機関とは見えません。むしろ、学校を擁護する存在だと見える場合も多いわけであります。実際、裁判にでもなれば教育委員会は学校側に立つのは当然でございます。
 そうすると、学校に不満を持つ保護者や子供は、現状では法務局や弁護士会の人権救済システムを利用するか、簡易裁判所の調停を申し立てるか、裁判所に訴えを提起するか、そういった方法、手段しかないわけであります。しかし、法務局や弁護士会はそういった問題での調査権限を持っておりません。そこに大きな限界があります。それから、簡易裁判所の調停では、手続費用はそれほどかかりませんけれども、それは相互の譲歩を求めることに本質がありますから、よほど事実関係が明らかになっていて学校側の責任が明確なケースならともかく、通例からいえば、子供の人権問題に対する専門的な解決を期待することは困難だと言えます。では、訴訟はどうでしょうか。これは最終解決のための国家制度でございます。しかし、訴え提起と訴訟遂行には大きな手間と暇がかかります。個人には負担が重過ぎます。
 さらに、私の経験からも、裁判となれば大人同士の感情的な利害対立が高じて、その過程では肝心の子供の最善の利益がややもすると見失われがちな側面もあります。保護者が仮に勝訴したとしましても、真に当事者である子供の最善の利益につながったかというと、やや私の経験からすると複雑な思いにとらわれます。
 このようなことから、私は、一九九七年に川西市で子どもの人権オンブズパーソン条例検討委員会への参加を要請されましたときに、まさにそれは必要な制度だというふうに心から賛同して参加したわけであります。
 それでは、この川西市の子ども人権オンブズパーソン制度の特徴を申し述べますが、お配りしておりますハンドブックに概要がございますし、条例自体はその四枚目の表から二、三枚にわたって出ております。この制度の特徴は四点ぐらいに集約できると思います。
 一つは、子どもの権利条約に基づいて、あくまでも子供の最善の利益を図ることを目的としているということであります。そのために、オンブズパーソンは既存の相談窓口と異なり、一定独立した公的第三者機関として市長の附属機関に位置づけられています。
 第二は、子供や保護者にとってまず身近に、かつ手軽に利用できる制度であるということであります。川西市は人口十五万、十八歳未満の子供は二万人弱です。そのニーズを三人のオンブズパーソンと五人のスタッフで受けとめています。子供の教育、福祉、法律、医療にかかわる各分野の専門家の助力が電話一本で、もちろん無料で得られるわけであります。
 三番目ですが、オンブズパーソンは単に相談対応で終わるわけではありません。学校を含む市の機関に対する調査権、行為是正を求める勧告権、制度改善等を求める意見表明権、措置報告請求権、さらに案件の公表権などを条例により付与されております。
 そして四番目、最後には、こういった権限を前提としつつも、オンブズパーソンは子供の利益の擁護者、代弁者、さらに公的良心の喚起者として、必要ならば学校や行政への建設的な批判に当たりますが、いたずらに対決や対峙をするものではなくて、あくまでも建設的な対話に徹して学校や行政が真に子供のために働くことができるように促していく、支援していく機関であります。言いかえれば、子供、保護者、学校あるいは行政が互いに対立し合う関係でなく、子供の最善の利益を共通の目的に、互いに助け合い、支え合える関係になれるよう、ソーシャルワーク的な活動も展開するわけであります。
 次に、オンブズパーソンの行う相談活動と調査活動につきましては、これはお配りしております「子どもオンブズ・レポート二〇〇〇」、これは二年目の報告集でございますが、これもまた後でごらんいただけたらと思いますが、相談活動につきましては、相談、申し立て受け付けを開始した九九年六月から一年間で見ますと、相談は四百四十九回、件数で百五十九件でありました。二年目も大体同様な件数でございます。保護者からの相談が最も多いわけですが、その次に小中学生、高校生などの子供、そして教員や保育士などの職員となっております。これは年次報告を御参照いただきたいと思います。
 相談事項としては、やはり学校に関係する事項が高い割合を占めております。ただし、現象としては、学校で起こった問題でも、家庭や地域での問題が背景要因になっているケースが少なくありません。また、一人の相談者が複数の相談事項を持っているケースも多くあります。例えば、子供同士のいじめに関する相談でも、背景には家族との関係、先生との関係で傷ついていたり、それがいじめの被害や加害の現象につながっているというケースもまれではありません。個々の子供が抱えている問題は極めて複合的、重層的で、とりわけ多様な人間関係での傷つきが認められます。
 この相談活動では、私たちはまずじっくりと話を聞きます。もちろん、親からの相談でも、当事者の子供からも話を聞きます。そして次に、相談者と一緒に課題を整理していきます。さらに、打開に向けての選択肢を検討していきます。こういったプロセスを通して、相談者自身が子供であれ親であれ、問題の打開や解決に取り組み始めるケースが相談の約八割です。残りの二割は、相談者の希望を受けて教員などの関係者に私どもが直接お会いして、その関係者の話にも十分に耳を傾け、関係調整に入っていきます。これまでには、体罰、いじめ、学級崩壊、その他学校の指導上の問題などでこういった調整活動を実施しております。過去二年間では、ほとんどのケースで一定の打開や解決が図られています。
 これらの経験からはっきりと言えますことは、これは今回の法案審議の参考にぜひしていただきたいことなのでありますが、当事者である子供に寄り添って、その心情を受容しながら話をじっくり聞いていけば、多くの場合、打開や解決の道筋が開かれるということであります。だれよりも子供自身が打開や解決の願いを持っているわけですから、その願いを本当に受けとめていくならば、実は子供自身が打開力、解決力を発揮し得ます。それをどう支援していくかということが課題であります。
 大人同士で決着をつけて子供に解決をあてがうようなことは、子供自身の力を奪うことになる場合はあっても、子供の自尊心や問題解決力を高めることにはつながりません。ですから、オンブズパーソンは基本的に子供や保護者の要求を単に代行することはしません。当事者の子供とその関係者が自分たちで打開、解決していけるようにエンパワーメントしていくということが常々心がけていることであります。
 それから、我々が行う調査活動と勧告、意見表明ですが、これもまた「子どもオンブズ・レポート二〇〇〇」に出ておりますが、こういった相談とは別に、条例は、子供でも大人でも子供の人権の擁護、救済の申し立てをパーソンに行うことができると定めております。この申し立てを受ければ、パーソンは条例上の権限をもって原則として調査実施します。そしてまた、申し立てがなくとも、必要な場合にはオンブズパーソンが独自に自己発意で調査実施するケースもございます。この調査結果に基づいて、必要な場合は関係する市の機関に勧告や意見表明を行います。
 調査案件では、相対的に深刻な事態となっているケースがやはり相談と比べて多いと言えます。例えば、既に公表した案件では、中学校の夏季休業中の部活動で熱中症によって子供が死亡する事故がありました。こういった問題は、過去の学校災害の死亡事故の多くの事例では、被害者側が我慢や泣き寝入りを強いられたり、あるいは裁判に訴えざるを得ないか、いずれかだったとも申せます。当事者間での解決が困難で、しかも救済の道は国の制度である裁判しかない。しかし、裁判で争っても、事故原因の究明や再発防止策の確立は必ずしも十分な結果が得られておりません。それらは教育行政の先決事項として、司法では深く立ち入らない傾向があるからでありまして、それに関してこのオンブズパーソン制度というのは、再発防止、事故原因の究明について一定の役割を担えたというふうに私は思っております。
 それから最後に、教育三法について、こういった経験をもとにして若干の意見を申し述べさせていただきます。
 五点に絞ります。
 まず一は、児童生徒の出席停止についてであります。それに関するのは二つございますが、一つは子供の意見表明の機会の保障の問題であります。
 子供にかかわる問題の解決には、子供自身の意見表明を十分に尊重することが不可欠であります。子どもの権利条約の規定から申しましても、その意見は、一定整理された見解や主張だけでなく、子供の気持ちや思い、そして願いといった心情も含むものであります。とりわけ、子供の心情を共感的に受けとめることは問題解決に不可欠な大前提であります。
 実際に私どもが扱った例えばいじめなどの調整案件でも、被害と加害双方の子供から十分に意見を聞き、対話を積み重ねていくことで、加害行為が解消した事例もあります。加害者の子供の意見を聞く中で、その子供自身が抱えている課題が教員などにも理解できるようになれば、その子供の心情受容を初め、新たな関係づくりが可能となった事例であります。つまり、問題解決の基本は排除ではなく関係修復こそにあると考えるべきだと考えております。
 ところで、今回の法案を見ますと、親の意見聴取さえすれば出席停止ができるというふうに第二項にはなっております。なぜここに子供の意見も聞くというふうになっていないのか、私は非常に疑問を持っております。もちろん、運用ではそうされるんだろうというふうには信じておりますけれども、明らかに親とともに当該の子供自身の意見をきちんと聞いていくということが不可欠であります。こういったことを無視したのでは、関係修復というのは最初から期待できないわけであります。他方、日本も批准しております子どもの権利条約にも明らかに反することになると思います。
 それから、出席停止に関する二番目でございますけれども、この法案の第二十六条の第四項には停止処分期間中の支援ということが盛られております。もちろんこれは非常に重要なことでありますが、しかし、それと同時に、停止処分に至る過程の子供と保護者の支援というのが不可欠でございます。これがなぜ入っていないのか、私は全く理解できません。
 ほかに、出席停止というものが、課題を抱えた子供と親にとってその問題を見直す非常に大きなきっかけになるわけです。その手続こそがまさに非常に重要な課題であるわけです。処分したことではなく、処分に至る過程こそが非常に重要なことなわけであります。例えば、処分にわたる審査、審議をどのようにして行うのかというようなことですね。
 それから、その過程で対象の子供と保護者を代弁したり支援したりするというふうな人を確実に手当てするということが必要であります。少年法については非常に批判もあるわけですけれども、他方、少年保護事件で少年と保護者のために付添人をつけるというふうな制度もございます。停止処分の対象になった子供と保護者にこそ、無料で費用のかからない付添人が寄り添って代弁していく。代弁していく中で、当該の子供と保護者自身が問題に気づいて整理していく。これがなければ学校教員の過重はもう目を覆うばかりです。
 私どもの制度がどれだけできるかわかりませんけれども、少なくとも、先ほど申し上げましたような制度と実情からしましたら、川西市では、この出席停止というふうなことがクローズアップされたときには、一定程度そういった役割は担えるというふうな自信は持っております。
 いずれにしても、こういった条件整備が整いませんと、出席停止によっていわゆる問題児といったレッテルを子供に張りつけ、その子供や家族を学校や地域から排除する結果となりはしませんでしょうか。また、その子供や家族の学校不信を増幅させ、関係修復をますます困難にしないか、ということは対応する学校教員の負担がますますふえるということでありますが、大きな懸念が持たれるところであります。
 次に、教員の転職についてであります。
 私どもはあくまでも子供の人権にかかわる機関であります。直接に教員の云々ということについて発言権があるとは思っておりません。しかし、川西市の相談の事例では、相談、調整、調査の過程で学校教員との事情聴取やら意見交換を多数重ねてきております。そういった観点から、教員の転職問題についても一定の参考意見が申し述べられると思っております。
 こういった問題について、その以前に子供と保護者と教員、学校が真に助け合って、支える関係をつくり出すためのシステムが重要であると考えます。既に申しましたように、現状では学校の中にも外にも、そういった信頼関係回復の取り組みを適切に支援できるシステムはいまだ構築されておりません。教員自身も職場や地域で孤立しがちでありますし、子供や保護者との関係でも、何か問題が起こると過剰に防衛的になったり、逆に過剰に攻撃的になったり、あるいは逃避的になったりもしています。
 そういった状況は単に研修を行うだけで解消できるとは思えません。教員の転職も、排除の論理でなく、相互支援と信頼回復の関係づくりを基本に据えて、処分決定までの手続的課題の検討と対策が重要な問題であると考えております。
 それから、教育行政の相談体制でありますけれども、これにつきましても、教育行政の執行機関だけで担うことは実情としては非常に困難ではないかと感じております。何よりも子供の最善の利益を優先して、子供や保護者の信頼が得られる相談窓口を設置しようとするならば、私どもの経験からは、明らかに一定の独立性を保持する公的第三者機関が必要と言えます。
 子供に関係する問題では、教育だけでなく福祉からの支援も不可欠であります。私どもの経験からも、その両者を結びつける役割が公的第三者機関には果たし得ると言えます。もちろん執行機関でも、特にその説明責任や情報公開、学校教育の補完的役割などの観点から一定の相談窓口が必要なものと言えます。そこで、執行機関の相談窓口と第三者機関とが連携して、またチェック・アンド・バランスの関係をつくり、相互の機能を高め、子供や保護者のニーズにこたえていくことが望ましいと考えます。
 第四に、総論的に言いますと、子供が日々生活する学校や地域社会において子どもの権利条約が今後どのように生かされていくのか、これが最大の課題だと私ども思っております。
 今回の法改正についても、子どもの権利条約を生かす視点と方策が重要であります。条約を生かすということは、突き詰めれば、自分の権利が尊重されていると実感できる子供を育てることです。自分の人権が尊重されていると感じられない子供が他者の人権を尊重することは困難だからです。自分の権利を肯定的に自覚することから自他への責任の自覚も育ちます。例えば、ボランティア活動はそのような視点があってこそ真にボランタリーな、すなわち自発的な活動になり得ると思います。
 最後に、学校や家庭を含め、久しく地域社会の教育力の低下が叫ばれています。今回の改正もそのような視点があるものとも理解できます。それだけに、国においては、子供たちの生活の場である地域社会の実情に根差した、それぞれの自治体独自の問題、課題解決の取り組みを支援していく施策がこれまでにも増して重要であります。
 その一環として、例えば各自治体で子供のための公的第三者機関が設置できるような支援を国で検討したり、さらに自治体では取り組めない課題に対応する公的第三者機関を国に設置するなどが考えられます。
 そのようなことも視野に入れて、今回の教育三法については、特に自治体において子供の教育と福祉とを総合的に推進できるよう、運用面を含めた十分な検討が求められていると考える次第であります。
 以上です。
○委員長(市川一朗君) ありがとうございました。
 次に、佐貫参考人にお願いいたします。佐貫参考人。
○参考人(佐貫浩君) 法政大学文学部に勤めております佐貫と申します。大学では教育改革論、教育課程論等を担当しております。
 この三つの法案の改定に反対する立場から、私の意見を述べさせていただきます。
 まず、指導の不適切な教員の免職、配転に関してですが、この法案で、処遇の対象となる指導の不適切な教員の例として三点が挙げられています。しかし、これは率直に言って非常に主観的なものだと思われます。このような主観的な指標で、評価者の思惑で該当範囲が決められますと、評価される教師は評価者の意向に敏感にならざるを得ません。そして、校長や教育委員会の要求に対して従順に従うという力学がそこから生み出され、これは結局評価者の専制というものを生み出さざるを得ません。
 日本の教育行政が上意下達の中央統制型であることは政府の教育行政の規制緩和の方針からもうかがえるとおりであり、このような法案が成立するならば、より一層管理者の意向に忠実な自主性のない教師を生み出すシステムとして機能するのではないかと危惧をいたします。
 重要なことは、教師の指導力を高める方法とは何かということです。確かに指導力不足の教員が存在することは事実です。しかし、ベテランの教師すらもが学級崩壊に陥って悩むということも今日では見られます。今ではだれでもそういう指導力不足に陥る不安の中におります。ですから、このような教師をどう支援するかということこそが一番重要なことです。
 そのためには、三十人学級というだれが見ても最も効果の上がる措置をこそ最優先にするべきです。疲れ切って心の余裕を失った教師は子供の心を読み取る余裕を失ってしまいます。昼食も休憩もとれないで生徒指導や提出文書の作成に追われている多くの熱心な教師が実際にいます。しかし、そういう教師は互いに同僚を支え、援助する余裕や、そしてみずからの健康を奪われていきます。教師の指導力不足を克服する最大の、最も効果ある力は、職場の同僚がお互いに助け合える余裕と自由をつくり出すことです。
 さらに、率直に言えば、日本は校長先生の教育指導の力量が非常に貧しいと言わざるを得ません。その最大の原因は、学校の自由、校長の自由が保障されていないことです。校長の最大の職務は教育委員会の意向を各学校に具体化することであると言ってよいような現状がございます。それは、官僚的管理にばかり頼って、本当に教師の指導力を援助し励ますことのできない校長が生み出されるという、そして教師の自由を奪う制度的欠陥というべきものだというふうに私は考えております。
 イギリスの学校は、私は一年間イギリスで研修をしてまいりましたが、学校理事会への教師、親、地域の参加があります。その理事会は大幅な権限を持ち、校長を決定し採用し、その校長は親、地域に対して学校向上計画を提出し、その実現のために全力を挙げるようなシステムになっております。教育委員会の意向を忠実に実行する教師ばかりを管理職に吸い上げる日本の管理職登用システムとは大きく違っております。私は、日本のこのような仕組みが学校の教育力を奪い、教師を支え援助する仕組みを貧しくし、指導力不足教員を生み出す大きな原因であると考えております。
 もう一つの教師の力量を高める有効な方法は、教室を開くことです。教師は絶えずその力量を高めなければなりませんが、そのためには同僚の間でお互いに議論し合い、また親に対して公開授業を行うなど、授業の内容や生徒指導のあり方を一緒に考え、そのことを通して学校をどのようにしようとしているかという広い合意をつくり出していくことです。そういう地域的な親たちを含んだ合意ができるならば、教師はその合意を発展させることに大きなエネルギーを発揮するに違いありません。
 第二点は、生徒の出席停止措置の問題です。
 指導困難な生徒を一時的に出席停止にすることがあることは、単純に否定できないことです。そして、それは現行法のもとで既に実施されていますが、その実態は、文部科学省の調査で、一九九九年度は二十一日以上の出席停止措置は六件、その期間の主たる居場所はすべて本人の家庭という状態のようです。ここに問題が示されています。
 この現行措置の最大の不備は、それがより丁寧で専門的な教育指導過程であることが明確にされていないことです。したがって、出席停止措置の法的整備ということを言うならば、何よりもそれを子供の立ち直りを保障する手厚い専門的な教育指導を保障するための機会へとつくり変えるものでなければなりません。
 そのために、第一に、出席停止措置を決める手続の公正性と教育性がまず必要です。公正性のためには、学校の密室の中で決めるのではだめだと思います。教育委員会、親の代表、学校が参加する機関で判断し、親もそしてその当該する子供も自分の意見表明ができることが必要です。学校だけで決めちゃなぜだめかといいますと、そのことを通してこの学校をどうしていったらいいかをみんなで考える、そしてその中で生徒へのあるべき措置を考える、そういう機会にしなければならないということです。また、当該生徒がその場で意見表明をすることは、みずから自分の行為を認識し、どのようにすればいいかを自分で考えていく重要な教育的機会です。そういうものをきちんと組み込む必要があります。
 第二に、出席停止期間の指導を行う制度的な人員保障をしっかりと規定するものでなければなりません。当該生徒はある期間が過ぎれば学校に戻るわけです。その戻ってきた生徒が同じことを繰り返すのではだめなわけです。そういう点では、排除の論理ではなしに、どうやったら子供がその期間に立ち直れるかという制度と専門的な配慮等を考えるということなしにこの法案が通されるならば、それは排除と管理を強めるものとして機能すると思われます。
 第三点ですが、高校の通学区設置規定の削除と大学への飛び入学の問題です。これについては、その前提を少し述べたいと思うんです。
 日本の子供の学力は、国際比較から見て高学力状態にあるとはいえ、創造力がないなどの欠点を指摘され、とりわけ学習嫌いが大量に生み出されていることが特徴です。このままでは高学力状態が早晩崩れるのではないかと危惧する声も強くあります。その困難が生み出されるメカニズムを私は次のように把握しております。
 第一に、競争が一点を争う学力偏差値、学力順位競争として存在しているために、即効的に学力を上げる方法として暗記と詰め込みが主流になります。しかし、詰め込みと暗記、そしてテストでその記憶度を試す学習は、学習の本当のおもしろさを味わう余裕がありません。テストの点数が高い生徒も学習を苦役と感じ、学習嫌いがふえていくことになります。
 第二に、学習内容の詰め込み、丁寧な指導に手が回らない教育政策の貧しさが大量の落ちこぼれを生み出し、にもかかわらず人生競争から脱落することの恐怖で暗記学習に追いやられるために、わからない、おもしろくないにもかかわらず競争の恐怖で勉強に追いやられるという悲惨な状況に子供は置かれます。
 第三に、こういう中で、競争それ自体が学習意欲を支えるといういびつな子供の意欲の構造が、私はこれを意欲のバイパスが形成されると呼んでおりますが、生み出され、競争のないところでは何もする気が起こらないという目的喪失症候群現象が拡大します。大学に入ってきた学生が最初に直面するのはこれです。また、競争から脱落すると、学習意欲が完全に奪われ、人生からの脱落として子供を打ちのめすことになります。
 第四に、私立小中学校受験のような形でより幼いころから過度の競争にさらされますと、より純粋な競争それ自体を目的とした学習スタイル、競争以外に目的や生きがいを持たないといういわば空洞を人格の中に抱えさせられる。そして、今日の少年事件の背景にもそれがなっていると思われます。
 一九六〇年代以来、日本はすべての中学生が格差化された高校を競争で選ぶ、まさに全員参加の大衆的学力競争に突入し、既に四十年近くがたちました。過度の競争がどのような人格をつくり出すのかという、私はこれを無謀な実験と呼んでおりますが、これを日本は世界に先駆けて続けてきたと言わざるを得ません。こういう中で、今日の競争の現状を、適度な競争は必要だと合理化することは決してできません。少なくとも高校入学までの競争は大幅に緩和するべきだと考えます。イギリス社会では、わずか一〇%が選抜のある中等学校に入学しているにすぎません。
 競争で子供を学習に追いやる方法を強めることになる学区の規定廃止や飛び入学制度はこういう点で今日あるべき教育改革の基本方向に反するものであると考えます。
 第四点目ですが、奉仕活動に関する問題です。
 奉仕体験活動については、今回の法案は、それをほとんど義務に近い形ですべての学校と生徒に強制する文部科学省の指導を可能にするものだというふうに思われます。その背景には、この奉仕活動で、他人のために生きる人間の共同的資質を育てたいというねらいがあるようにうかがわれますが、私はそれは異なった効果しか生み出さないと考えております。
 第一に、既に今まで、中学校などでボランティア活動を行えば高校への内申点がふえる、あるいは同じ動機で生徒会役員へ立候補するという非常にゆがんだ事態が出てきました。これは自発性や協同的精神を育てるのではなく、競争の一環となり、また逆に命令や指示に従うという従順性を訓練する方法となってしまいます。
 第二に、自発的な社会的精神を育てるには、自治と自発性に基づいて子供たちを社会のさまざまな施設や制度、現実と出会わせなければなりません。そして、子供たちが自分の興味や関心に沿って社会活動やボランティアに参加し、そこから他人の思いや願いに共感しつつ他者のために生きること、他者に期待される人間として生きることのすばらしさを学んでいくことは大きな意味を持っています。また、そういう中で大人の正義というものを発見することができると思うんです。そして、大人社会への信頼も回復されていきます。そこでは、大人は命令し管理する人間ではなく、社会の問題と取り組み、他者の願いに生きることに自分の生きがいを見出しているすばらしい先輩として接することで、子供への教育力を発揮し、回復できるんです。この活動の義務化と評価による管理化はこのような本当の教育力をむしろ奪ってしまうでしょう。
 重要なことは、社会活動に義務だから参加するのではなく、参加する中で自分の本質的な意味での役割を発見していくことが必要なんです。それは人間的価値の発見であり、人間の生き方への共感であり、他者の値打ち、人間の尊厳の発見だと思います。あるいは、人間の値打ちが否定され放置されている事態への憤りであり、課題の発見であるわけです。義務として強制した途端にそれらの発見は失われ、管理し評価し強制しなければだれも参加しない義務へと変質し、我慢して嫌な訓練に耐える義務へと変質するのです。
 この点で、この法案は社会参加活動を義務と強制に変質させる可能性が非常に強く、賛成できません。
 以上のような理由で、私はこれらの改定に反対の意見を表明したいと思います。
 以上です。
○委員長(市川一朗君) どうもありがとうございました。
 以上で参考人の方々からの意見の聴取は終わりました。
 これより参考人に対する質疑を行います。
 なお、各参考人にお願い申し上げます。
 御答弁の際は、委員長の指名を受けてから御発言いただくようお願い申し上げます。
 また、時間が限られておりますので、できるだけ簡潔におまとめいただきたいと思います。
 質疑のある方は順次御発言願います。
○松村龍二君 自由民主党の松村でございます。
 ただいま四先生から大変貴重な御意見をいただきまして、大変参考になりまして、ありがとうございました。
 教育の問題というのは非常に幅が広い、きょう今四人の参考人の意見もそれぞれまちまちでありますように。みんながそれぞれの人生において義務教育を初め教育を通過してきたという観点からだれもが発言するんですけれども、では問題がどこにあるのかということで押さえようとしますと、これは皆さん自分の範囲でしか押さえられないということで、非常に難しい問題だというふうに認識いたします。私も昨年は文部政務次官を半年ほどさせていただいたんですが、本当に半年では、いたというだけで、足跡を残すというようなことには及ばないことだったかと思います。
 このたびの教育三法の改正というのは、昨年の教育改革国民会議等で審議された内容の中で、現状において法案化できるようなものをまとめて政府が提出したというふうに私も認識するわけですけれども、従来、学校の現場においては、各市町村の教育委員会の下に小中学校があって、その中で学校の先生が社会をつくっておる、それぞれに大変な御苦労をいただいて努力しておられるわけですが、やっぱり視野が狭くなっているということはあろうかと思います。
 また、文部省も中教審というものを最後の後光の差す、ある意味で紋どころにいたしまして取り組んでいるわけですけれども、中教審のメンバーもやっぱり教育大学の学長とか教育にかかわってきた人が多いわけで、社会全体の立場からすると、日本の教育がどういうふうにあるべきかという点において視野が不足しているという点もあったかと思います。
 そういう点において、昨年、教育改革国民会議でいろんな面から審議がされたということで、どちらかといえば、よく言えば骨太な感触が入ったのかなというふうに思っております。
 そこで、私は質問する立場ですからあれですけれども、今の教育の問題というのは、教室の中において秩序が非常に乱れている。きょうこの場におきましても、質問する人あるいは聞く人、お互い耳を傾け、静かにして話を聞くということがあるからこそこの委員会が成り立っているわけですが、今の教育の現場においては、先生は先生で言いっ放し、生徒は生徒でよそ見しながらあれしている、こういうような状態が戦後長い間続いて出てきた。この原因が何かといえば、こういう難しい社会の中において生徒自体が難しくなっているという点もあると思います。また、親がうるさいといいますか難しいという問題もあろうかと、しかし一面、先生にも問題があるということがあろうと思います。
 そういう中において、今の制度で指導する能力を失い、あるいはやむを得なく失ったかと思いますけれども、そういうような方に戦後の長い間の宿題であったものを対応しようという最低限の道を開いている、あるいは生徒についても最低限の出席停止というふうな道を開いたという意味において、今回のいろんな観点の教育三法は意義があるんではないかというふうに私自身は思っておるわけであります。
 そこで、御質問をさせていただきますが、ちょっと具体的な質問からさせていただきます。
 初めに飛び入学の話が出たわけですが、小林先生から、飛び入学は確かに高校二年生であるのに三年の教育を経ないで道を開くという点は大きな問題がある、アメリカ等に比較しても問題がある、こういう御指摘があったわけですが、私は、ここにおられる有馬先生等大変御熱心にこの制度の道を開かれたわけですが、やはり世界のいろいろな科学の進みぐあいからすると、数学とか物理については、日本も、皆さん仲よく六三三制度で伸びてきた人を大学で教育するということだけでは、幾ら均質的な民族といえどもちょっとおくれをとるということから、まず数学、物理に道を開いたかと思います。
 そういうことからしますと、今度は芸術とか、これもやっぱり早期に才能が発育するピアノにしましても絵にしましても、早期に才能があれされるという点もあろうかと思います。そして、数学においても、そういう早期飛び入学するような方はもう自分で、自習で一年生、二年生の間に三年生の高校の数学までマスターしている、あるいは指導者を得てマスターしている、そういう人だけが道を開かれるんではないかなというふうにも思うんですけれども、そういう観点でやはり今の日本の全体、世界の中の発展ということを考えたときに、飛び入学は、全体がそういうことになって広い門になってはいかぬと思いますが、狭い門であれば差し支えないのではないかなというふうに私は思いますが、小林先生のお考えをお聞きしたい。
 それからあわせて、木村先生は今のような小林先生の御意見も踏まえてどのようにお考えなのか、お聞かせいただきたいと思います。
○参考人(小林道正君) 数学の場合、一、二年で三年のも自分でやっちゃっているんだろう、多分、千葉大学とか名城大学に入っている学生はそうだろうと思いますけれども、先ほど私が言いましたように、数学だけでいいのかということがあるわけですよ。今、数学者に聞いてごらんになるとわかりますけれども、将来、物理をやっていなかったから僕の数学は限界があるんだよということを言われるすばらしい数学者がたくさんおられるわけですね。やっぱり高校、大学ときちっと物理もやっておけばよかったなという、こういう思いで数学の研究に携わっている方がたくさんおられるわけです。ですから、数学だけでしたら一、二年で三年のを自分でやるとか可能でしょうけれども、物理もやらなくちゃいけないわけです。そのほか、やはり社会に目を開いていただく、単に数学だけじゃなくて歴史とか人間性とか、そういう点で高校のカリキュラムを十分こなしていただくという方が私はいいと思うんですね。
 それからもう一つ、スポーツとか芸術の分野ですけれども、これも、例えばバイオリンとかピアノを小さいときからやっていらっしゃる方、たくさんいますよね。スズキ・メソードとか、バイオリンを二、三歳からやって世界ですぐれた演奏者になっている方もおられますけれども、そういう人が高校二年から、あるいはもっと前から、例えば大学院のある大学ということですから、音楽大学なんか当然あるわけで、音大に進学することを認めよということでしょうけれども、やっぱり同じ理由で、すばらしい演奏活動をやるのにほかのことを何も知らなくていいかという、実は私もバイオリンやるんですけれども、最後は豊かな感性といいますか、本当に美しいものを見て美しいと感じる、あるいは論理的に考える、数学と音楽は似たところがあるとよく言われますけれども、音楽をやるのに演奏活動だけやっていて音大へ行っても大成は私はしないと思いますね。
 いろんなすぐれたほかの面、人格的な面、性格の面、あるいは文学を読んだり美しいものを見たりという、こういう能力を高校で多面的につけて、そして大学へ行ってさらに伸ばしていただく、私は全然構わないと思うんですね。何でそんなに急ぐのか。何でそんなに急ぐの、人生長いんだよということが私の意見なんです。
○参考人(木村孟君) 私が個人的に飛び入学等を支持いたしますには二つの理由があります。
 一つは、やはり今、戦後五十年、日本がここに至って非常に年齢にこだわる社会になっているという点であります。これが若者の閉塞感を猛烈に助長しているというふうに考えます。そういうことで、少しでも風穴があけばいいのではないかという点が一点。
 それから二点、これは大事な点でありますけれども、私、日本の社会から異能者でありますとか異才者、そういうものを見つけ出す、あるいは育てるメカニズムがなくなってしまっていると思います。異能者、異才者には二つの種類が私はあると思っておりまして、一つは、学校の課程を全部やる、それで非常に広範な知識を持つ、そういう広範な知識をもとに、その知識を総合化して人の考えないようなことを考えて世の中に貢献するというタイプ。それからもう一つありますのは、そういうものをきちんとそれほどやらなくても非常にイノベーティブなことを考え出す能力のある人がいるはずです。そういう人を少しでも日本の社会のメカニズムとして見つけ出す必要があろうということで、この飛び入学を私は個人的にサポートいたしている次第であります。
 先ほどから参考人の方から競争社会になるとかあるいは人格的云々が出ておりますが、日本はたしか生涯学習社会になるということを標榜したはずですね。ですから、それは仮にどの時点でもそういうことが足りなければ、また自分の意思さえあれば勉強できるはずですから、私はその辺については問題がないと考えております。
 また、これが一般化するということについては考えておりませんで、冒頭申し上げましたように、私は非常に希有な才能の若者だけをこういうもので見つけ出す努力を国としてすべきではないかと。先ほどアメリカ、イギリスの例が紹介されましたけれども、アメリカ、イギリスの社会は確かに日本とやり方が違いますけれども、巧みにその辺を社会の中のメカニズムとして持っておりまして、私個人は、日本もそういう点についてやはり国として何らか考える必要があるのではないか、そういうふうに考えております。
○松村龍二君 日本の社会が隣の人と絶えず競争するという意識が強過ぎて、おくれることも平気である、急ぐ人は急がせればいいというふうな社会であればいいんですけれども、皆さんが主体的でなくて、ただただ隣におくれまい、隣と競うというふうな社会であるということが今のお話を妨げる部分があろうかと思いますが、ぜひ社会全体が教育の何たるかを考えて、ゆったりと取り組むようになるといいなというふうに思うんです。
 それから、佐貫先生にお伺いするんですが、佐貫先生がおっしゃる、今度の法改正をしますと指導不適切な教員が排除できるということになると、そのことばかりみんな先生が気にするようになるよというようなお話ですけれども、今回の措置は教育委員会が教職から外すということだけなんですね。教職から外してどこのポストにつけるかといえば、教職が持っているポストは、私も先般、質問する前に先生をやっていた方にちょっと電話で聞いたんですけれども、教育委員会が所管している職員のいるところといえば、自然の家とかあるいは何とか研究センターとかそんなところしかないんじゃないでしょうかねという話で、そんな大々的に指導不適切な教員が排除され転換されていくというふうな心配は全くないと思うんです。
 それから、飛び入学の問題にしましても、ただいまの木村先生のような、極めて例外的な考えなんだと、こういうことでこの法律がとらえられるとすればさほど心配にならないんじゃないかと。
 それで、先般来この委員会でもいろんな審議を聞いていますと、やっぱり今の学校の現場において競争させて差をつけるのはいかぬというような、現実に行われている競争の激しさと反対に、今度は表面的には競争させまい、皆さん、運動会で百メーター走ったらみんな手をつないで一緒にゴールインして、みんな一等賞というふうにしようということがあながち冗談でないようにも聞こえるような学校の現場があるのではないか。
 したがって、先生のお話を聞いていると、何か過度にそういうことを心配し過ぎて、そのことがかえって日本人の精神を、子供の精神を弱くするというようなことにならないかというふうに感想を持つんですが、いかがでしょうか。
○参考人(佐貫浩君) 論点が幾つかございますが、最後の点をお答えいたします。
 私は、過度の競争というふうに申しまして、競争そのものを否定する立場ではありません。そして、この場合重要なことは、その競争が、まだ何を学習したいかという自分の興味や関心というものが十分形成できていない段階で、競争それ自体のために勉強するという、そういう事態が進行していくならば、競争に勝っているといいますか、ついているうちはいいんですが、何らかの機会に勉強ができなくなってしまうとかつまずいたときに、勉強の成果が高く評価されることで励まされていた、そういう構造が消えてしまうということなんです。
 それから、私は、人間の意欲というものはいろんな段階がありまして、その中でも最も重要なのは、青年期において何を学習するかという目的を人生目的とつなげながら形成していくという時期が非常に重要であると思います。例えば就職ですとか社会や世界に対する自分の責任ですとか、それは世界観や思想というものを媒介にして自分の学習目的、生きる目的を発見し、そしてそれに従って、ある意味でいろんな基準がありますから、それを超えるために全力を挙げて競争し、勉強するということは重要なことだと思うんです。
 ところが、今重要なのは、競争のためだけに学習してきて、そして競争が終わったら学習する目的は何もないというふうな日本の青年の中に青年期が組み込まれていないということが本当の意味での青年の学習する能力を高めるようなシステムを奪っている、ここを転換しなければいけないというふうに考えているわけです。そのためには、小学校や中学校や高校までの段階での競争は徹底的に緩和しなければいけないというふうに私は考えているわけです。
○松村龍二君 非常に教育の問題は範囲が広過ぎてあれなんですが、最後にもう一点、木村先生に御質問しますが、今回、私が冒頭に申し上げましたように、文部省に権威のある審議会があるのに、教育改革国民会議で出た結論をこういう法案化するのは拙速ではないかというような御意見がこの委員会の審議の中でもあったんですが、それについてはどのようにお考えでしょうか。
○参考人(木村孟君) 確かにそういう意見があるようで、私自身もちょっと驚いたんですが、私自身は、一個人として中教審の委員でもあり、また教育改革国民会議の委員でありますから、一つの土俵でずっと議論してきたつもりでありますから、私はそういう御意見に対して正直申し上げて余り理解できない、とにかく日本をよくするためだったらどういうことでもいいではないかというのが私の意見であります。
○松村龍二君 私も、先ほど申し上げましたように、例えば今いろいろ刑事事件等があって世の中を騒がせるんですが、法務省にだけ任せていると、法制審議会だっていつ、二年後に結論が出るかわからない。もう世の中が超スピードで動いている時代に対応できない。そういう中で、私も実はストーカー法案という法案を去年まとめて対応したんですけれども、そういう意味におきまして、この教育の問題も中教審だけに頼らないで、やっぱりスピーディーに事を運んでいくという意味において今回の法案の提案は大変に意味があることであるというふうに思います。
 以上、意見を申し上げまして、私の持ち時間を終わらせていただきます。
○内藤正光君 民主党・新緑風会の内藤正光でございます。
 きょうは、四人の参考人の皆様、貴重な御意見をいただきまして、本当にありがとうございます。
 私は、時間の関係もあり、また私自身飛び入学というものに興味を持っている、関心を持っている関係上、その点に絞って質問させていただきたいと思います。したがって、質問させていただく方がかなり偏ってしまうかと思いますが、まず冒頭、御容赦いただきたいと思います。
 まず、飛び入学の制度、これは私は制度としてはあってもいいんだろうと。しかし、先行導入をいたしました千葉大学の結果についても、まだその検討なり検証が十分になされているとは思えません。さらにまた、物理、そして数学に限った飛び入学についてもまだいろいろな意見があるというのがこれはまた事実でございます。今回の法改正によって、飛び入学制度を全教科、そしてまた条件つきながらも全大学にわたって拡大していこうというものでございますが、私は、やはり拙速は避けなければならない、こんな立場からいろいろ質問させていただきたいんです。
 まず、木村先生にお尋ねしたいんですが、意見陳述の中で先生は、数学、物理以外にも飛び入学の対象を広げていくのが妥当だという御意見をおっしゃいました。お尋ねしたいのは、そのように考える理由は何なのか、そしてまた対象を広げるに当たって条件があろうかと思いますが、その条件についてお考えをお聞かせいただきたいと思います。
○参考人(木村孟君) 数学、物理以外の分野に広げるべきだという私の意見は、先ほども申し上げましたように、やはり各分野で異能者、異才者を日本の国として出していくべきであろうという考えに基づくものであります。
 ただし、これはまだ議論されておりませんけれども、この飛び入学は非常に慎重にやらなければいけないことは確かでありまして、つまり受け入れる大学に十分準備があるということ、それからさらに送り出す高等学校できちんと判断する、つまり大学と高等学校での接続といいますかコミュニケーションといいますか、そういうものが前提になりますので、数学、物理以外の各分野に広げるといっても、なかなか高等学校のレベルで判断がつかない分野がありますね。そういうものについては私は慎重にすべきだと思いますが、高等学校の時点である程度判断がつく分野については広げてもよろしかろうというのが私の意見であります。
○内藤正光君 ありがとうございます。
 次に、小林先生にお尋ねしたいんですが、冒頭、小林先生は、イギリス、そしてまた米国で研究をされてきた、欧米の高等教育に関する実情についても大変お詳しいと思います。そこでちょっとお尋ねしたいんですが、今回の文部科学省のスタンスはと考えてみますと、飛び入学制度の枠組みだけはとりあえずつくる、しかしその運用に当たってはそれぞれの大学の自主性に任せるといったものではないかなと思います。しかし、私が知るところでは、欧米では飛び入学制度というものを導入するに当たって長い時間をかけていろいろ準備をされてきたというふうに聞いております。
 そこで、先生にお尋ねをしたいのは、欧米がこの制度を導入するに当たって具体的にどんな準備を進めてきたのか、教えていただけますでしょうか。
○参考人(小林道正君) アメリカでは、アドバンストプレースメントと言いまして、さっき説明したんですが、高校で大学レベルの授業をやるということが全国的に行われるようになっています。これはもう数十年の歴史がありまして、この制度をつくるのには、高等学校と大学の密接な協議のもとに、ザ・カレッジ・ボードと言いまして、日本語で言いますと大学委員会でしょうか、こういうところで長い協議を重ねてやってきていることなんです。共通テストも全部ここでやります。これは国の機関ではありませんで、民間の団体ですけれども、これを受け入れてやっている大学は九割以上に上っていますから、日本の国でやっているのとほとんど同じ効果があるわけですね。
 ここで十分審議して、高等学校から進んだ能力を示している学生をどう指導しようかということで、各高等学校の中に大学レベルの授業を置けるようにしてきているわけです。ですから、アメリカで大学へ飛び入学するというのは実際にほとんどないんです。先ほど言いましたように、ハーバードでももう数年前にこういうのはやめているわけですね。
 しかし、アメリカの実情というのは、大学に入るときには高等学校は飛んでいきませんけれども、それ以前に小中で飛び級というのは行われていますから、高等学校から大学へ入るときは飛びませんけれども、年齢は十七歳、十六歳というのも少しいるわけですね。これは高校で飛ぶわけでは決してないんです。ですから、ちょっと誤解されている方が多いわけで、アメリカでは高等学校を全部やらないで大学へ入るという例は一般化していません。ハーバードでもやめちゃっています。
 そのかわり高等学校で大学レベルのをやっていますから、それは大学に入ったとき逆に単位になるんです。高等学校で十単位以上AP、大学レベルの科目を取得していますと、大学に入ったとき、それで一年分になっちゃうんですね。結果的に大学四年間のところを三年間で済ませることができるわけです。ですから、実質飛び入学のようになっているわけですが、それは今ここで法律案で示されているような高校二年から入れるということでは決してないわけです。それは配付してありますこの資料に江崎玲於奈先生もそのことを指摘されているわけです。
 それから、大学に入ったとき、例えばハーバード大学でいいますと、千六百人の一学年の定員に対して、十単位以上、つまり三年で卒業できる資格を持って来る学生は五百人以上いるんです。三分の一は三年で卒業できる資格を持ってハーバード大学に入ってくるんですよ。だけれども、実際に三年で卒業する学生がいるかといいますと、これはほとんど毎年ゼロに近いんです。
 なぜ三年で卒業しないか。彼らの言い分は、このすばらしい大学に入って、すばらしい先生たちにめぐり会えて、全寮ですから朝から晩まで友達と議論して、いろんな分野を学んで、芸術やスポーツや文化やいろんなことを学べるこのすばらしい大学に入って、何で三年で卒業するの、君という、こういう雰囲気ですから、三年で卒業できる学生は三分の一、五百人以上いますけれども、ほとんどいないわけです。大学というのはそういうところじゃないよということを大学も入った学生も十分わかっているわけですね。
○内藤正光君 ありがとうございます。
 特にアメリカは飛び入学という制度、枠組みがあっても実際にはほとんどそれを使っている人はいないということなんですが、それでも若干いたと仮定しての話なんですが、その飛び入学制度に対する評価はどんなものなんでしょうか。そして、もし問題点があるというのであれば、具体的な問題点を教えていただけますでしょうか。
○参考人(小林道正君) アメリカは、さっき言いましたように、飛び級というのは小中高あるわけです。ですから、大学へ入るとき十七歳、十六歳、極端な場合は十五歳というのもたまにいます。ですけれども、アメリカの社会の一般的な評価としては、飛び入学で早く入ってきた学生あるいは卒業生はどこか精神的におかしいという評判が一般的でして、各地の教育団体も小中の段階で飛び級してきて十五歳や十六歳で大学へ入るということを決して奨励していません、できることはできますけれども。各家庭でもちゃんとした思慮のある家庭では子供たちを飛び級させるなんということは決してしていませんので、評価はアメリカでは高くありません。
 例えばハーバード大学でも、数学でフィールズ賞を授与された廣中先生も、ハーバードの卒業生たちを見て、飛び級してきたのはろくなことはないということをはっきり言われまして、彼もここにいらっしゃれば、飛び級はよくないよ、アメリカでは評判悪いよということをはっきり申されると思います。
○内藤正光君 次に、木村先生もしくは小林先生、両先生にお尋ねしたいんですが、今回の飛び入学制度、希有な才能をより開花させよう、そういう目的で実施されるということなんですが、そこで、ちょっと興味があってお伺いさせていただくんですが、数学界のノーベル賞とも言われるフィールズ賞ですとかあるいはノーベル賞そのもの、この受賞者は実際飛び入学を経験されている方というのは多いんでしょうか。
○参考人(木村孟君) ただいま小林参考人の方から廣中先生のお話が出ましたが、私が伺っている話は違いまして、両方です。要するに全然違います。若くて飛び級した人でフィールズ賞をとった人も非常にたくさんいます。それから逆に、大器晩成でとった人もおります。ですから、今の御意見は私は偏った御意見だと思います。私、直接伺いましたが、両方おります。
○参考人(小林道正君) ノーベル賞って最高の賞ですけれども、日本でノーベル賞を授与されている方がたくさんおられますけれども、例えば利根川進教授ですね、MIT教授ですけれども、彼は、もちろん日本では飛び級はありませんから普通に入るわけですけれども、彼は普通にも入っていないわけですよね。つまり、大学に入るときに、彼は日比谷高校の卒業ですけれども、日比谷高校から京都大学に入るときに、彼は最初の年は失敗しているんですね。つまり、浪人しているわけです。そこで彼は一年間むだな勉強をしたかというと、決してむだな勉強はしていないわけですね。
 彼は、ああいう分野ですから、数学や物理や生物学やいろんな分野の知識なり能力を必要としているわけです。ですから、大学へ入るだけがノーベル賞じゃないんですね。一年おくれて大学へ入ったってノーベル賞をもらえるわけですよ。立派な才能は開花するんですね。すばらしい才能は一年早く入ろうが入るまいがちゃんと開花するんです。
○内藤正光君 次に、同じく木村先生と小林先生、その順番でお尋ねしたいと思いますが、平成二年度でしたか、フィールズ賞を受賞されております京大の森教授、この方がこうおっしゃっていたかと思うんですが、数学、物理は感性が大切だ、一年間早く入ったところで果たして成功するかどうか保証はないという、そういったことをおっしゃっていたかと思います。
 小林先生も意見陳述の中で、やはり数学だけじゃなくてそれ以外のことも幅広く学ぶことによってその一つの才能がより大きく開花していくものだということをおっしゃったわけなんですが、私がここで質問をさせていただきたいのは、例えば数学の才能がすごくある、そしてその才能ゆえに、高校時代その才能を認められたがゆえに、それゆえに飛び入学させることが果たして本当にその後その数学の才能をより開花させていくことにつながるのかどうか。私自身ちょっとはっきりした答えを持ち合わせていないんですが、両先生のお考えを改めてお尋ねしたいと思います。
○参考人(木村孟君) 確かにその点は非常に難しいところだと思います。しかしながら、私のスタンスは、とにかく今、私の同級生にも高等学校のときにおりましたが、物すごくできて、数学が特にできて、もう普通の授業など全く必要がないという男がおりまして、彼はもう飽きに飽きて、危うく高等学校生活から脱落しそうになりました。その後きちんと大成して大数学者になっておりますけれども、そういう例を見ておりまして、やはりそういうできる人にはできるだけのパスを準備させてやるべきではないかというのが私の信ずるところでございます。
 確かに結果についてはわからない面があろうかと思いますけれども、私のスタンスは、さっきからアメリカ、イギリスの例が出ておりますけれども、アメリカ、イギリスというのは開かれた社会だからよろしいんです。日本は非常に閉塞感がある社会ですから、そこのところを何とか打破していかなければいけないというスタンスを私は持っております。
○参考人(小林道正君) 先ほど最初に説明しましたように、数学をやるのに、数学だけやっていて決してすばらしい研究はできないんですね。これはどの数学者にお聞きになっても言われると思います。物理学の幅広い知識なり考え方なりのことがないと新しい数学の分野はつくれないんですね。それは今あるところをちょこっと演習問題をやる程度の問題はできますけれども、フィールズ賞をもらうとか、後世に名を残すような分野を新しく開拓するためには、ほかの数学以外の分野からの考え方なり内容を導入してこなけりゃだめなんですね。ですから、高等学校の二年ぐらいの段階で数学ができたからといって、将来、数学のすばらしい新しい分野を開拓できるほどの能力が開花するかというと、これは全く保証の限りではないわけです。
 それから、今、木村先生の紹介されたような、高等学校ですばらしい能力を発揮している学生を私は放置していいとは決して言っていないわけです。これはアメリカでもそうなんですね。アメリカは、さっきAPのことを言いましたけれども、もう一つ、アメリカではそういう学生はどんどん個別に大学の授業を受けられるようになっているんですね。隣の大学、近くに大学があれば、そこへ数学だけ受けに行くことができるわけです。もう二年からでも三年からでも受けられるんですね。日本でも最近ようやく少し始まりましたけれども、まだ非常に不十分です。あるいは、各大学で公開講座というようなのをやっていまして、ここではすばらしい大学の先生が高校生相手に授業をやったりしています。こういうところへ参加する道を拡大することは私は大賛成で、非常にそれを期待しているわけです。
 ですから、高等学校ですばらしい能力がある学生を受け入れる受け皿を本当に用意していただきたいと木村先生がおっしゃるんでしたら、この制度こそもっと充実して拡大してほしいんですね。それをやらないで、単に二年から大学に入れることで、こんなことでそういう能力のある学生を伸ばすということには決してならないわけです。
○内藤正光君 ありがとうございます。
 続きまして、小林先生そして木村先生の順番でお尋ねしたいんですが、小林先生の御主張とはちょっとずれるかもしれませんが、仮に飛び入学制度を導入するということを前提としてお尋ねさせていただきたいと思います。
 例えば飛び入学でもって大学に入学できた、しかしその後やりたいことが変わるということも十分考えられるだろうと思います。そしてまた、一般的に長い時間をかけて本当に自分がやりたいのは何なのかというものが見つかる場合もあろうかと思います。しかし、翻って今の千葉大学あるいはまた名城大学を見てみますと、千葉大学については転部は認められる、名城大学は認められていないというふうに理解していますが、果たしてどちらがいいのかということも一つあります。
 そしてまた、少子化がこれからどんどん進んでいくわけです。そういった中、各大学が今回の飛び入学制度の趣旨を曲げて青田買いに走るようなことがあってはならない。ですから、私は一定の歯どめが必要だろうと思います。
 そんな中、衆議院の方で修正案が出されて、二つの条件が課されたと。一つは「当該分野に関する教育研究が行われている大学院が置かれていること。」、そして二つ目は「当該分野における特に優れた資質を有する者の育成を図るのにふさわしい教育研究上の実績及び指導体制を有すること。」とあるんですが、果たしてこれで十分なんだろうかとか、いろいろ問題点を挙げれば切りがありませんが。
 そこでお尋ねしたいのは、飛び入学制度を導入するとして、少なくともどういう留意点に気をつけるべきなのか、お尋ねしたいと思います。
○参考人(小林道正君) 最初の点ですけれども、大学に入ってから、大学に入るといろんな分野をいろんな先生たち、いろんな友達と議論しながら深めていくわけですから、途中で、数学をやりたくて入ったんだけれども、卒業するときはやっぱり生物学の方に転向したいなんということは幾らでも起こることなんですね。
 私のことで恐縮ですけれども、私が京都大学に入るときには、物理学をやろうと思って、湯川秀樹先生にあこがれて京都大学に入ったんですよ。ところが、京都大学は二年後に専攻を決めるようになっていまして、その二年間で、教わった先生の物理の授業が非常につまらなくて、物理ってこんなつまらないのかというので、二年たったときに、湯川先生にはあこがれていたんですが、やっぱり数学の方が自分はいいかなというので、数学に転向と言うと変ですけれども、最初の目的と違って分野を変えました。その後ずっと数学をやっていますけれども、こういうことは幾らでもあるわけですよね、大学四年間で。それが当たり前といえば当たり前なんですね。
 ですから、名城大学ですか、入ったときに決めた分野をそのまま大学院まで全部やれというのは、私はその学生の伸ばす力といいますか、人権と言うほどのこともないかもしれませんけれども、その学生の能力を本当に伸ばすことにはならないと思いますね。数学オリンピックなんかで優勝した人なんというのは数学者を目指すだろうなんと思っていますと、そうではありませんで、カナダの女子学生などは数学オリンピックで優秀な成績を上げても大学では生物学をやるんだと、こう言っているわけですね。こういうのでいいと思うんですね。ですから、大学に入るときに飛び入学で入った学生を私は縛らないでほしいと思います。
 それから、二番目の点の、もしこれをやるとして、今のところ野放しですよね、衆議院で今紹介されたように多少枠ははめられていますけれども。私は、もしやるとしても、もっと枠をはめていただきたいと思うんですね。できますれば、枠をはめる前に、これは先ほど木村先生が言われましたけれども、中央教育審議会というのがことしから新しくなったわけですね、今までの大学審議会とか全部ひっくるめて。ここで審議されないような法案がここへ出てくるというのは私は信じられないわけですね。法体系、政府の体系からして、中教審で合意されないようなものを持ってくるのは、私は今後の審議の仕方についてもお願いしたいんですが、そういうことはぜひやめていただきたいという気がするわけです。大学、大学関係者との間での意見の集約とか、あるいは教育関係の各界での検討とか意見の集約とか、こういうことをぜひやっていただきたいと思うんです。
 ぜひこれで通すんだということになれば、何らかの歯どめをかけざるを得ないと思うんですね。私は、今のままですと、法案にどんな分野もいいようになっていますよね。スポーツ、芸術、あるいは社会科学の分野でも、外国語の分野でもみんないいようになっていますけれども、これはやっぱりおかしいと思うんですね。趣旨に反すると思うんです。数学、物理でやっていたのですから、多少広げるとすれば科学とか情報という、せいぜいこのぐらいに限定していただきたいと思います。
 それから、これも大学で勝手に決めるんじゃなくて、やっぱり中教審の中の、どこかの審議会なりをつくって、その審議会で、この大学でこういう計画はいいよ、悪いよというようなことを審議するような機関をぜひともつくっていただきたいと思います。
○参考人(木村孟君) 先ほど申し上げましたように、こういう飛び級をさせる学生は、私の定義によりますと非常に希有な才能を持った若者でありますから、やはりこれをむだにすることは国にとって大変な損失であるということで、仮に数学で入ったとしても、その子が将来物理をやりたい、あるいは生物をやりたいという場合には、やはり分野を変えられるようにしておくことが必要だと思います。
 それからもう一つ大事なのは、仮に高二で入ったとしますと十七歳ですから、いろいろ足りないところがあろうかと思いますが、大学できちんとケアをするシステムをつくること、これはもう必ずやらなければならないことではないかと思います。
 それから、青田買いの件なんですが、私はこれは全く心配する必要がないと。というのは、もう日本の大学は今国際競争にさらされておりまして、もしこの制度を利用して青田買いするような学校があったら私はつぶれると思います。もうそれだけ大学の国際競争というのは進んでおりますから、若者が、余り知られておりませんけれども、アメリカはともかく、最近は非常にたくさんの学生が英国へ学部の段階から行っております、リクルートされて。私は統計を持っておりますが、年々非常な数でふえております。そういうことで日本の大学はもう大変な危機にさらされているわけで、私はこういうことは多分起こらないだろうと。
 それから、情報公開の時代ですから、こういう優秀な子供を入れた結果どうなったかということは当然大学から情報発信すべきでありまして、それによって、いかにばかなことをしているかという、もしばかなことをしているとすれば、そういうことは国民の目にはすぐ明らかになる。私は心配しておりません。
○内藤正光君 ありがとうございました。
○山下栄一君 各参考人、お忙しいところをきょうはありがとうございます。わずか十五分の陳述で本当に申しわけない。日ごろの多くのお訴えしたいことがあったと思いますけれども、申しわけない状況だなということを感じながら質問させていただきたいと思います。
 今回、学校教育法を中心に教育三法の審議中でございます。教育という人間の行為、営為といいますか、非常に根源が問われているような状況になってまいりました。
 そんな中での今回の法案審議でございますが、私は、この前ある本を読んでいまして、大人が一センチ変われば、それもよく変われば子供は一メートルよく変わるという、そういう言葉に出会いました。私も子供が三人おります。そして、教育現場でも、中学生、高校生と格闘していっぱい失敗しまして、今そのことが非常に教訓になっております。大人は子供の時代が必ずあったわけですけれども、すっかり忘れてしまう。子供のころのことを忘れてしまって、完成品みたいな気持ちになって子供に接する場合があるわけです。自分の子供なんかを見ていまして、子供の成長というのは物すごいなと。大人が親としてついていけない、ついていけないから権力的に対応してしまうというふうな面もあるなと。大人が一センチよく変われば子供は一メートルも変わるんだ、それほど敏感なんだと、子供は。そういうことをもう一度大事にしていかなきゃいかぬのではないかということを感じておるわけです。
 そんな中で、きょうは、子供とお父さん、お母さん、学校の先生、その直接的触れ合いがどんどん世の中から少なくなっていく中で、現場で格闘していただいております瀬戸参考人に特に、今のお二方は質問されませんでしたもので、私はお聞きしたいわけでございます。
   〔委員長退席、理事松村龍二君着席〕
 子供の立場に立った公的な機関というのはそんなに多くないなと。そんな中で、川西市で平成十一年に設置された子どもの人権オンブズパーソン条例、そして制度、これは私は画期的な制度であるなということを感じておりまして、将来、少しずつこの意義が大きくなっていくのではないかと自分自身評価させていただいております。
 私も関西出身でございまして、川西市の取り組みは非常に評価させていただいておるわけでございますけれども、相談、調査、調整活動を通していろんなかかわりを、子供にもかかわるし保護者にもかかわる、教員にもかかわる、そして行政の機関、警察も含めたいろんな行政機関にもかかわっておられて、さまざまな社会のひずみをもろに感じておられるのではないか。象徴的に、子供が、保護者が電話をかけてきたりしてパーソンに訴えるわけですけれども、その背景は非常に複雑であり、社会のいろんな問題点を集中して感じられてきたと思うわけです。
 一年数カ月の取り組みの中でいろんなことを感じられたと思いますけれども、現場でいろんな経験をされた中で、先ほどソーシャルワーク的な活動とおっしゃいましたし、実際、問題解決に当たっていくと、自分たちがコーディネートしたりサポートしてあげると、八割がもう自分たちで解決していくんだというような言葉が先ほどたしかあったと思うんですけれども、その辺のことをもう少し経験を通してお話しいただければありがたいと思っております。
   〔理事松村龍二君退席、委員長着席〕
○参考人(瀬戸則夫君) これは初期のころの相談ですけれども、母親と子供が二人いたのかな、それであと母親のおじいちゃん、おばあちゃんと一緒に住んでいる人が相談に来られて、申し立てしたいと。小学生の話だったと思うんですけれども、教員が暴言をして、うちの子ばかり排除するというような訴えがあって、申し立てして、調査して意見を言ってほしいというような案件がありました。
 しかし、それからしばらくして、おばあちゃんが来ました。ちょっと待ってほしいと言うんですね。その後もう一度お母さんにも聞くし、それから子供自身にも聞くということになる。それから、そのお二人の了解を得て教員にも実は話を聞きました。そうすると、やはり教員自体にもその子供に対する十分な理解がなくて、ややちょっと一面的な対応になってしまったということがあったようです。
 それと、その母親自身におじいちゃん、おばあちゃんとの関係があって非常にいろんな悩みを抱えているということ。実は教員と一度も話したことがないというようなことがわかりました。ですから、その子供自身もそういった母親のいろんな不安定なことから、子供自身がやや少しとっぴな行動がクラスの中であったということでなったということがわかりました。
 それをそれぞれ聞いていくと、やはり親自身がいろんな問題を抱えていて、子供自身もそのことについて気にしているということ。それで、教員の方がそのことがわかった時点で子供の動きというのがよく見えてきた。どなり散らす必要もないというようなことですね。というようなことがありまして、申し立てはやめて、あと直接保護者と教員が話ができるというようなことができたケースがありました。
 事ほどさように、私ども十五万都市ですけれども、私どもが見た範囲でも、とにかく、同じ日本人という言い方はちょっと問題がありますけれども、同じ日本語は通ずるのに現実に意思疎通が全くできないというような感じを持ちます。それは子供と教員との関係にもありますけれども、特に親と教員との間にほとんど日本語が通じないかのごとき現状が出ているというような感じがしまして、何か通訳的な人間が要るんじゃないか。それが、ソーシャルワーク的な活動が学校現場において、特に保護者と教員との間で必要なんじゃないか。そこのときには、それぞれの立場、思いもあるんだけれども、子供にとってよりよい関係をどうするかという観点でいま一度保護者と教員にそれぞれ問題を整理してもらうというようなことによって、子供が非常に楽になる、子供自身が力を発揮できるというようなことをたくさん経験しています。
 それで、親はやはり自分の過去のことにとらわれております。自分の一定のイメージでもって、学校のあるべき姿その他、子供のあるべき姿を持っております。しかし、現実に子供自身は現にその学校、クラスで生きているわけですね。ですから、親が非常に怒っていて、もうまさに自分の全存在をかけて怒っているというときでも、その子供自身はいろいろ苦しみやら課題はあるんだけれども、やはりそこの学校、クラスで楽しく通っていきたい、先生ときちんと話がしたいという思いがあるわけですね。
 そういう意味で、子供の最善の利益に立ちつつ、子供、保護者に寄り添って話を聞く、それから教員にも話をするということを続けることでほとんど、七、八割それぞれの当該の方々が問題の解決の起点に立ち得るというようなことで、そういった機関が今までなかったなと私はこの二年半の経験で思っているわけです。
○山下栄一君 川西市の場合は、三人のパーソンというのは、きょうお見えの瀬戸さんは弁護士で、あとは大学の先生、児童福祉、保育等の専門の先生、もう一人の方は障害児教育の専門家という三人の方がパーソンだと。それ以外に、条例なんかを見ますと、それを補佐する五人の調査相談専門員がいらっしゃる。五人の方の選ばれ方ですが、専門的な分野、教育とか福祉とかいろいろあると思うんですけれども、こういう活動をするのにふさわしい専門性を持った人はどういう専門分野なのかということ、このパーソンの方とそれを補佐する役割というのも非常に重要だと思うんですけれども、そのことをお聞きしたいことと、それからこの条例のパーソンの制度は行政機関の中でどこに位置づけられるか、市長の附属機関というふうにここに書いてありますけれども、市長の附属機関がいいのか教育委員会の附属機関がいいのかということ、これも大きな観点だと思うんですが、その二点、ちょっと教えていただけたらと思います。
○参考人(瀬戸則夫君) 専門員は週四日詰めておりまして、基本的に電話相談をとりあえず彼らがやるわけですが、大学修士課程卒業以上ということ、それとかそれ同等の国際的な子供にかかわったとか、そういったような一定の基準を設けておりまして、公募して試験で選ぶというようなことになっております。今までは小児科の医師と、それから教育学の非常勤講師と、それから国際子ども権利関係のNGOの専門家というような方が選ばれております。最近、一人、小児科の方がアメリカへ留学されて、女性一人だけ、別の方に変わっております。
 それから、二つ目ですけれども、市長の附属機関か教育委員会の附属機関かということですが、私は条例の検討委員会のメンバーでありまして、当初、実は教育委員会の附属機関ということで条例の案としてはつくっております。それは、私自身とかほかの皆さんもそうですけれども、いじめ問題を契機にして、そういった機関が必要だという問題発想から条例案として提起されたわけですね。ところが、市議会の中で、教育委員会、学校だけなのかというような素朴な疑問も議員の中にあったんだろうと思います。結果的に市長部局に置いて、教育委員会の方は教育委員会の規則でこの条例について最大限尊重するという形でブリッジして、教育委員会も一定程度拘束を受けるというようなことでできております。
 それの功罪ですけれども、今この二年半やって、案件が多いのは、当然というか学校問題、教育委員会の関係でございます。それで、それについては私どもも結構一定の効果を発揮しているというふうに思っております。
 ただ、子供の問題は常に、先ほども申し上げましたように、医療の問題、それからもう今は絶えず児童相談所との絡みが特に小中の場合には非常に多くかかわっております。そちらについてどれだけ十分なことがというようなことは、課題は私どもも抱えておりますけれども、子供の問題について私どもは逃げずに全部やります、可能な範囲で対応しますという姿勢が例えば多くある学校の問題についても一定の力を発揮するんじゃないかということで、結論的には、結果的に教育委員会のことが中心であるけれども、場面を限定せずに全領域というふうに条例づくりをしたという議会の決定は私は非常によかったと思っております。
○山下栄一君 ありがとうございました。
 あと二つ質問させていただきたいと思いますけれども、私は、教育の世界、学校の世界には権力的措置は基本的になじまないというふうに思います、権力というのは外から押しつけるわけですから。教育というのはやっぱり、太陽と北風じゃないんですけれども、内から解放していくという、そういう考え方が子供の内発性を大事にするというか、そういうことが大事だというふうに思うわけです。
 理想どおりなかなかうまくいかない場合もあるわけですけれども、基本的に学校現場では権力的措置はなじまない。しかし、非常事態、先ほど木村参考人もおっしゃっておりましたけれども、非常事態のときにはやはり秩序をしっかり守らにゃいかぬ、子供の命を守らなきゃならないという、そういう観点はどうしても必要なわけで、それを忘れてしまうと教育それ自身が崩れてしまうという面もあるわけです。
 したがって、例えば出席停止処分というのは、特にこれは義務教育においては、学校に行かなきゃいかぬという一方で学校に来るなという処分ですから、これは非常に慎重でなきゃならないという、そういう議論が成り立つわけだと思いますし、私は、問題行動を起こす子供、これはどんな子供も起こし得る、自分の子供も起こし得るということを忘れてはならないというふうに思いまして、別の何か特定の方、特定の子供だけが起こすものでも何でもない、今はそんな時代環境だというふうな中で、この出席停止処分というのは発動するまでが勝負だと。それも、学校現場だけで努力するのではなくて、地域の総力を挙げて取り組む仕組みが大事だと。それほど今教員自身も苦しんでいる、学校任せにされてもたまらないという、そういう状況だと。みんなの、地域の、警察も含めた、児童相談所も含めた、また地域の工場の経営者の方も含めた、それこそさまざまなサポート体制、それが、文部省でも学校サポート委員会、サポート体制というようなことが今一生懸命言われていると思うんです。
 そんな中で、実際、学校現場で教員が子供をいじめたり体罰をしたり、そんなことも起こるけれども、受けた方の子供はそれを訴えていく場所がない。学校は行政機関という面は少ないわけですけれども、行政不服審査の仕組みも教育現場にはない。処分の仕組みだけは学校教育法二十六条にある。それを今回、二十六条の改正で手続のことが規定されたことは私はすばらしいことだというふうに思いますが、子供の意見を聞くということは法律では明記されていない。それは教育委員会規則なんかでこれから運用面でと先ほどもおっしゃっていましたが、検討され、そうなっていくというふうに私は信じておるわけです。
 そんな中で、私は、この川西市の子供とか保護者が持っていきようがなかったその受け皿として極めて大事な部署ができたなという意味で、非常にユニークだというふうに評価しておるわけでございます。そんな意味で、私ども推薦させていただいて、きょうは川西市の方から来ていただいたということでございますので、ちょっとお話しさせていただきました。
 木村参考人にお聞きしたいと思います。
 先ほど体験学習のお話をされました。また、健全な職業観、勤労観の養成は特に今の日本の教育システムでは極めて重要だということを前から木村参考人はおっしゃっておりますし、私も同感でございます。しかし、来年から学校五日制が始まって、学校現場は知的系統学習中心ですから、そこに体験学習というようなことが入ってくると、それは両立する面もあるんでしょうけれども、何か知的部分が、どんどん系統立てて教えることが減っていくようなことになってしまうわけです。それが学力低下というような議論に結びついてしまうという、私はそうではないとは信じておるんですけれども、本当の知的学習というのは学力低下に結びつかない、時間の問題、授業が少なくなったら学力低下が起こるという問題では私はないと思うんです。
 だけれども、知的学習と体験学習を両方しっかりやることが物すごく大事だというふうに思いまして、それはどこでやるんだと。もちろん学校現場でもやるけれども、社会の中でそういうものを、なかなかコミュニティーが崩れていますから難しいわけですけれども、それをつくり上げていくことがお父さん、お母さんをサポートすることになっていくし、教員もサポートすることになっていくというふうに思うんですね。
 この議論はこれから物すごく重要になってくると。それを単に義務化みたいなことだけで言っていくと非常に反発ばかり呼んでいくのではないか。これは国民大運動として社会体験学習を工夫をしながら広げていくという試みが極めて大事だ、職業観の養成、勤労観の養成も学問の生活化という観点から物すごく大事だというふうに思っておりまして、そういう議論も国民会議でなされたというふうに思いますけれども、こういう観点からの木村参考人の御所見をお伺いしたいと思います。
○参考人(木村孟君) 私も、今、山下議員の御指摘の点は大変重要だと思います。
 やはり日本の社会で欠けておりますのは、今、例えば一つ体験学習をとりますと、そういう体験学習を子供たちにさせる社会の仕組みが非常に乏しいということだと思います。
 私も前後四年ほど英国に住みましたけれども、あの社会は非常にうまくできておりまして、何万という子供たちにさまざまな体験学習をさせるNPOが存在しております。私の友人も大変大きなNPOの長をしておりますが、その活動状況を見ておりますと本当に頭が下がる思いで、実に細かく社会を見て、社会の各層あるいは各地域、そういうものに訴えかけて、子供たちを引っ張り出して、家庭で十分指導できなかった部分を社会の中でやろうという仕組みができておりまして、我が国でもやはりそういうふうな方向へ全体のメカニズムを持っていかなきゃいけないのではないか、そういうふうに私は考えております。
○山下栄一君 ありがとうございました。
○畑野君枝君 日本共産党の畑野君枝でございます。
 きょうは、四人の参考人の皆様、本当にありがとうございます。
 まず初めに、私は学区の規定廃止の問題と出席停止の問題について伺いたいと思います。
 子どもの権利条約あるいはそれに基づく国連子どもの権利委員会の勧告の中では、日本における教育制度が極度に競争的な制度だと、この是正を述べております。私は今度の学区の規定廃止というものは日本の競争教育を一層激化させるものではないかというふうに思っているわけです。この委員会では、文部科学省からは、今回の学区の規定廃止は子どもの権利委員会の勧告に基づくものではない、こういうふうにも答弁されております。
 そういう点から一層私は危惧の念を持つわけですけれども、この点に触れられていらした佐貫先生は競争教育の激化という点との関係で学区の規定廃止をどのようにお考えか、その点をまず伺いたいと思います。
○参考人(佐貫浩君) 先ほど私は、子供たちの学習のありよう、今論争になっております学力の低下等について、これがむしろ競争を強化するというシステムの中で起こっているというふうに述べさせていただきました。
 そういう点では、そもそもこの学区というものが決められた背景を見てみますと、それは三つの点に根拠があったというふうに考えております。一つは教育の機会均等。それからもう一つは、過度の競争をなくし学校格差をなくする、入学競争の弊害を排除するという点です。それから第三点目は、地域発展との関連というものがあったというふうに思います。
 この入学競争の弊害を排除するという視点から学区を設定して、そしてその地域にすべての生徒の将来への成長あるいは職業選択を保障するような総合的な高校を置くということが戦後の新制高校の出発理念であったというふうに思います。しかし、これが一九六〇年代の競争システムの中で、今日、日本の学校は高校が高校の数だけランク化されるという状況になってきました。
 実はこれは世界的に例がないというふうに言っていいと思います。イギリスの場合は、先ほど言いましたように、わずか一〇%の生徒が競争的な入試のある中等学校に進学をしておりますし、それからドイツやフランスにおいても、もちろん三類型的な区分はありますけれども、すべての学校がランク化されるというふうなことはございません。それから、お隣の国韓国におきましても、数年前に高校への進学競争を廃止するという、今日競争を強めるシステムが改めて出てきているという問題はございますが、基本的にいわゆる日本的に言えば普通高校においては学区がありまして、競争がございません。
 そういう中で、日本の中ではわずか一点や二点でどの学校に入るかが人間の値打ちを決めるような、こういう形になっております。ある高校生は、この制服を着て町を歩くことが恥ずかしくて仕方ない、どうして私はこんな制服を着てこの町を歩かなきゃいけないのかというふうな状況がございます。
 大人になってみればあんな高校でもよかったというふうに思うことができるかもしれませんが、十五歳や十六歳という年齢にとっては、一点違う高校に行くことがまるで人生がすべて破滅したかのような、そういう評価の中で三年間を過ごさなければいけないという、このしんどさがやっぱり人間としての誇りを奪い、そしてまたこういう競争の中で、先ほど言いましたように、自分の目的は何かということを発見できないで過ごさざるを得ないという状況が今日日本の中にはあるわけで、こういう点を克服するという点からすれば、しかも今日少子化の中で希望者全員が高校に入れるという可能性があるわけです。
 では、そういう高校に行けば、学力のある者は退屈だし、学力のない者はついていけないというふうになるじゃないかと。いや、そうではないと思うんです。そうではなしに、むしろそういう高校の中でそれぞれの個性に応じた丁寧な指導をする条件を学校の中につくるという形で、どの学校に行くかで差別されないでなおかつ自分の力量に合った指導が受けられるという、最も経済大国と言われる日本でそういう高校制度を実現するということができなければ本当の豊かさは生まれてこないというふうに私は考えております。
○畑野君枝君 二つ目に、出席停止の問題ですけれども、現行法でできるというお話もございました。そして、基準を明確にするということなどを含めて、この厳罰化で排除を強めることになるんじゃないか。この点では、子どもの権利条約で言われている意見表明権も保障されていないということもお話がありました。
 そこで、瀬戸先生と佐貫先生に伺いたいんですけれども、お二人とも出席停止に至るまでの支援そのものが大事なんだという話もされていたと思うんですね。瀬戸先生はいろいろ御相談にも乗られていると思いますが、いろいろな問題を起こす悲鳴を上げている子供たちというのはなぜ出席停止に至るような行動を行うのか、それを解決するためにはどうしたらいいのかという、そんな具体例もあればあわせてお伺いしたいと思います。
○参考人(瀬戸則夫君) 今の御質問の関係で、二つポイントがありまして、出席停止以前の課題というのがもちろん深く家庭と教員の側に両方あるわけですけれども、そのために日々私どもは関西の地でやっているわけですけれども、その課題と、いわゆる出席停止というんですか、一定程度のかなり重い問題行動を学校の現場で起こしたときにどうするかという対処の課題があると思うんですね。
 私は、ずっと体罰問題から十五年前入っておりますので、やはり小中学校についてそういう一定の重い規律違反をしたときにどういう対処をするかが教員の裁量の中に全部任されているということ、これ自体はいいことだとは思うんです。ただ、現実に中学校なんかの現場を見たときに、それで対応できないのじゃないかというようなこともあって、特に課題を抱えた子供、課題を抱えた家庭にどういった形でケアするのかというときに、こういった出席停止という制度が、いわゆる罪を憎んで人を憎まず、先ほどの太陽と北風政策とも同じ意味なんですけれども、結局、問題を起こしたときに、その問題がよくないということはきっちり理解してもらう必要があるわけですけれども、それに対してその人の気持ちに寄り添いつつ、問題を起こした人、問題を起こした子供を抱える家庭こそ、そこにきっちりしたケアが必要であるというふうな思いなんです。
 ですから、私としては、出席停止についてきちんとしていただくということはいいことですし、なおかつそのことを排除じゃなくて課題を抱えた子供、家庭に対するケアのきっかけとして位置づけていただきたい。そのためには、今のこの法律の決め方、決めた後の云々では全く不十分で、排除にしかならないということを危惧しているわけでございます。
○参考人(佐貫浩君) 私は、その前提として、今日の子供の問題をどうとらえるかということから少しお答えしたいと思うんですが、今日の子供事件の特質として、この子供たちは何か目的があって人を傷つけたりしているのではない、むしろ自分自身を破滅させたい、あるいは世界が破滅してほしい、そういう思いでこの行為に至っているということが指摘されています。
 例えば、人を殺してはいけない理由というものが議論になりました。この子供たちも、ペーパーテストでこのことは正しいかどうかといえば、丸をすると思います。でも、いろんな状況の中で、おまえなんかこの世に生まれてこなければよかったんだというメッセージを日々受けている中では、こんな世界は破滅してしまえといったときには、そういう当然の道徳律というものを、社会的にはあるとしても、何で僕がその道徳律を引き受けなきゃいけないんだという、そこのところが今日子供たちとして引き受けられないということが最大の問題だというふうに思うんです。
 現場ではどういう実践をしているかといいますと、ある教師は、そういう子供たちに毎日日記を書かせたりしながら、その子供たちが心を動かしている場面を見つけ出し、そしてその心が動いている部分に教師が、ああそんなことがあったの、そんな苦しいことがあったの、そんな楽しいことがあったのというふうに、自分の心を寄せながら人間として共感をしている部分をどんどん広げ、そして自分で意識できるようにし、周りの子供も、ああ何々ちゃんはそんなことを考えているの、親もうちの子供はこんなことを考えていたのかという、そういう心の共感を次第に広げることを通してクラスの中でその子供の位置をみんなで見出し、やっぱり生きていてよかった、みんなが自分を支えてくれるというふうにして頑張って生きようという気持ちをつくり出す、そういうことを通して、社会の中で一緒に生きていくためには人のことも大事にしなきゃいけないという、先ほど言った社会的道徳律を引き受ける勇気といいますか、生きる意欲を回復することでその子供がしっかりみんなと一緒にやろうというふうになってくる。
 ただ、今日の子供たちの困難は、道徳律をやっていないから、そういう人間としての思いを引き出すことで人とつながるという意欲をどう出せるか、ここが基本だと思いますから、そういう点では、管理し、ある基準でやるんだということではなしに、子供たちを人間として大事にする、これが基本だと。そういう点から、法案については先ほど述べたような考えを述べさせていただいたわけです。
○畑野君枝君 次に、三つ目の問題として社会奉仕体験活動なんですが、衆議院で修正されまして、「ボランティア活動など社会奉仕体験活動」というふうになりました。この社会奉仕体験活動は評価の対象になるという衆議院の議論、答弁もございました。私はボランティア活動というのはまさに自発的に、評価の対象にならずに行われるべきだというふうに思います。そういう点で、どのように子供たちの成長にとって見ていく必要があるのかということについて佐貫先生に伺いたいと思います。
 あと、小林先生に伺っていないので、その点、御意見がなければ結構ですが、もしあればお願いいたします。
○参考人(佐貫浩君) 私自身は、子供たちが社会に参加し、社会のさまざまな大人の営みに参加しながら、そしてそこの中で何が問題になっているか、大人たちはどうやって生きようとしているのか、どういう努力をしているのか、先ほど言いましたが、大人の正義というものを発見するということが非常に大事だと思うんです。しかし、それは、子供たちがそこに自分で興味を持っていく、そして自分で課題を発見したり、大人のそういう正義を発見していく自主的なものでなければいけないと思うんです。
 私は、そういう点で、日本社会は残念ながら子供たちの自発的ボランティアを組織しにくい社会だと思うんです。率直に言えば、大人がボランティアをやっていないわけですね、日本は。そして、そういう中で子供にボランティアをやらせるために、子供はやりたいと思っていないのに、結局、義務でやらせるしかないという矛盾をそのままにしておいてボランティアを子供だけに強制するというのは、これは逆転していると思うんです。
 だから、そういう意味で、学校の教師たちが大人と一緒になってどうやって子供たちに今の大人の正義を見せるか、そういう工夫をそれぞれのところでまず自発的にやって、そういうことをどう制度化していったらいいかを考えるべきだと思うんです。そういう点では、今の発想は逆転しているというふうに考えております。
○参考人(小林道正君) 私も今の佐貫先生の御意見に賛成で、先ほど木村先生はイギリスの話をされましたけれども、アメリカでもそうでして、地域ぐるみでのボランティア活動というのは当たり前なんです。それが日本では今言われたように一般化していない。ボランティアというのは、今、畑野先生も言われたように、全く自発的な行為なわけです。自発的な行為を法律でやりなさいと勧める、あるいは強制するということは全く矛盾しているわけです。自発的なことをやれと言われたら、これは自発的じゃなくなってしまうわけです。
 ですから、こんなボランティア活動を、社会奉仕を法律の中に入れるということは論理として私はおかしいと思います。
○畑野君枝君 四番目に伺いたいのは、指導が不適切な教員の問題です。
 これについてはいろんな心配が出されております。特に今回、本人同意なしで免職、転職になる。委員会の中では、転職先は本人に合うところがなければ結局免職だ、こういう話でありました。こういう問題を含めて、排除でなく相互支援が必要である、あるいは職場の同僚の援助が必要であるという参考人からのお話もございました。
 そこで、この点に触れられた瀬戸先生と佐貫先生、それから発言されていない小林先生からももし御意見があれば伺いたいと思います。
○参考人(瀬戸則夫君) 先ほど申し上げましたように、私自身、直接余り教員の云々と言う資格があるとは思っていないんです。ただ、私ども、教育現場について八割が学校教育の関係だと申し上げましたけれども、それについて必ず当該の教員がどうだということは常に出てくるわけです、攻撃を受ける場合も含めて。
 そうすると、この前も実はマスコミ報道された事件がありますけれども、ある小学校での体罰なり作文の問題で全国報道されたわけですけれども、そのときに教員とお話ししたときに、私どもを援助してくれるところはないんですかと言うんです。私ども、別に攻撃しているわけじゃなくて、事情を聞いてそれなりの理由は認めつつも、やっぱりこの点は問題ですねというふうにやるわけですけれども、いみじくもそうおっしゃいました。それと、例えば学級崩壊なんかも、結構そういう相談も来ます。
 確かに、教員にもいろいろな方がおられる。問題教員と多分言われる、レッテルが張られやすい方でも、やはりきちんと周りの教員集団、それからいわゆる校長なりとの関係がうまく機能すれば十分力量を発揮する方もたくさんおられます。その辺がなしに、何か変わったというふうなレッテル張りの中で不適切教員というようなことを張られるということを非常に危惧するわけです。
 きちんと力の発揮できる教員もたくさんおられて、それに対して、子供と家庭に対する援助ということを私どもは強調していますけれども、教員に対してもきちんとしたそういったものがあれば、今以上に十分力を発揮できる教員が大部分だと思います。その点を配慮していただきたいと思うわけです。
○参考人(佐貫浩君) 私は、ある時点で指導力をある意味で失ったといいますか、そういう教員が生まれることに対してどう対処するかということは真剣に考えなきゃいけないと思うんです。その際に、私は教員を評価することは必要だと思っています。ところが、今この評価はいわば縦の評価になっています。そうしますと、これは校長や教育委員会というものに対してその命令に忠実に従うことで、私は何とかやる力量がありますよということを証明する形になります。でも、これは、先ほど言いましたように、今日の管理的な学校のシステムをむしろ強める形になります。
 そうではなしに、私は横の評価でもってそれを克服していくことが必要だと思うんです。横の評価とは何か。それは、教員の間で議論をする、そしてここがおかしいじゃないかということを批判し合うということです。そのためには教師の自由がないといけないです。そして、批判されたら皆で援助するという余裕がないとだめです。それから、横は、親も含んで、親も参加して、いや、やっぱり先生ここがまずいんじゃないか、だめならこういう援助をしますよと。その横の評価でもって克服していく。
 縦の評価ではない、横。評価が要らないのではない、そのことを強調したいと思います。
○参考人(小林道正君) 私は、数学教育をやっていて非常にこの件で危惧をしていますのは、数学の教え方で、タイルといいまして、正方形のものですけれども、これを使った授業というのが非常にわかりいいということで、遠山啓先生初め、戦後普及したんです。でも、教育委員会はこのタイルを使うのは赤だということで、非常にわかりやすい教え方に対してそういうレッテルを張ってきたわけですよ、長年。今でも学校ぐるみでそういうことをやりますと教育委員会が文句を言ってくるわけですね。
 ですから、教育委員会の一存で、不適切だというときに、そういうものまで入れられる心配はないのかなということを私は非常に危惧しております。
○畑野君枝君 時間が参ってしまいました。
 木村先生に飛び入学の問題について伺おうと思っていたんですが、先ほどいろいろと詳しくお話を承りました。小林先生、佐貫先生からもその問題がありましたので、先ほど活発な議論を拝聴させていただきました。
 どうもありがとうございました。
○日下部禧代子君 きょうは、四人の参考人の皆様、大変興味深い示唆に富むお話を本当にありがとうございました。
 さて、今回の法改正は、御承知のとおり、内閣総理大臣の私的諮問機関である教育改革国民会議の最終報告に基づいたものでございます。
 まず最初にお聞きしたいのは、これは四人の参考人の皆様にお聞きしたいのでございますが、そこで十七の提案がなされております。きょうはこの国民会議の提案そのものの審議ではございませんけれども、この法案のもとになりましたこの十七の提案につきましての御感想を四人の参考人にまずお述べいただきたいと存じます。
○参考人(木村孟君) 先ほども教育改革国民会議の議論の性質についての問題点の指摘がありましたが、繰り返すことになるかもしれませんが、私自身はとにかく日本の教育をよくするためならどんな場でもよろしいということで議論に参画をいたしました。
 十七の提案をよく見ていただきますと、確かに具体的な提案として出ておりますが、その伏線は、いろんな審議会、主に旧文部省の審議会でありますけれども、そういうところで議論がされたものの具体化だというふうに申し上げることができるかと思いますし、私はそういうふうに解釈いたしております。
○参考人(小林道正君) 中に書かれていること、貴重な提言もたくさんあると私は思いますけれども、性格として教育改革国民会議というのは首相の私的諮問機関ということです。やはりこれを直ちに法律案にするということは私は賛成できないんですね。
 何のために一月に法改正をして、今まで大学審議会とかいろいろあったのを新しい中教審に再編成したのか。すべて教育の問題はここで議論して、合意を得て、それで法案にするものはするという手続が私は必要だと思うんですね。何のために中教審があるのかと。ここを抜かして今回提案されていることに、私は法案のつくり方について非常に疑義を抱いておるわけです。
○参考人(瀬戸則夫君) 私は総論的に余り意見を申し述べる立場にはないとは思っているんですけれども、日本社会の改革のためにさまざまな御提案を行っておりまして、それ自体についてすばらしい提案もかなりあるんじゃないかと思います。
 ただ、ちょっと感じているのは、三枚目の裏にある、問題を起こす子供への教育の問題なんですけれども、私は少年法とか児童福祉とかそちらの方の分野でございます。少数者、問題を抱える人たちにどう対応していくかという視点で私は活動していますから特に思うんですけれども、いわゆるすぐれた、希有な才能をどう伸ばしていって日本社会に資するかという視点は非常に重要なことだと思いますが、他方、それによって、それが十分に発揮できない、課題を抱えた子供とか親に対してどうするのか、その視点が私はちょっとないような気がします。ちょっと外れたやつは全部問題児じゃないかということに、特にこの表現はどうも非常に寂しいというか、不十分じゃないかなという感じがします。
 そういったすぐれたことと、それに対してやっぱりいろんな、少数かもしれませんが、課題を抱えている子供たちに対してどう配慮していくかという視点もあわせてやらないと、教育現場としては非常にアンバランスなものというような感じになるんじゃないかと思っています。
○参考人(佐貫浩君) 包括的に見ますと、率直に言いまして管理主義と競争主義という問題が全面に出ているというふうに思います。今、教師が困難を抱えている中で、どうして教師にもっと自由と時間的余裕、そして三十人学級というふうなものが書いていないのか、これは理解に苦しむところであります。
 それから、世界の教育改革を見ますと、参加ということが当然の動向になっております。しかし、この中では参加ということがほとんど触れられていません。そういう点では、世界の教育改革の動向からしてもこれは大きな疑問があるというふうに私は思っております。
○日下部禧代子君 ありがとうございました。
 ところで、今私どもが審議しております三法案というのは、国民会議の最終報告に基づきまして文部科学省の二十一世紀教育新生プランの第一ステージ、その中で緊急に対応すべき事項という形でこの三つの法案が上程されたわけでございます。
 そこで、お伺いしたいのでございますが、果たして今回この三法案に盛られましたこと、特にきょうの参考人の皆様の一番焦点にもなっております飛び入学、あるいは社会奉仕の問題、あるいは問題を抱える子供の出席停止の問題、さらに指導力のない教師の配置がえというような、これらのことが果たして日本の教育改革にとって今最もしなければならない、最も緊急に対応すべきことであって、それを法制化しなければならないという、そこに意義を見出されるかどうかということに関しまして、木村先生と小林先生にお伺いしたいと思います。
○参考人(木村孟君) 確かに御指摘のとおり、このほかにも日本の教育をよくするためにやらなければいけないことはたくさんあると思いますが、私は今、議員がお挙げになった点を具体化するだけでも随分よくなるのではないかというふうに考えます。これを単独にお挙げになりましたけれども、実際は全部が関係していることでありまして、そういう意味からいうとやっぱりシステムでやっていかなきゃいけないんですが、提案としてはどうしてもこういうアイテムごとになってしまうということはやむを得ないのではないかと思っております。私はこれを実質化すればかなり日本の教育というのは変わるのではないかと信じたいと思います。
○参考人(小林道正君) 私は、こんなことを緊急にやるぐらいでしたら、もっともっとやってほしいことはたくさんあると思うんですね。教育というのは何をもっても自由ということがないといけないと思うんです。先生方がどうやって教えたらわかるんだろうという研究する自由、だからもっと議論する自由、これがなければ、何を教えようかという自由がなければ発展しないと思うんですね。
 アメリカでもイギリスでも、国で教育内容を決めているなんということはないんですね。つまり、学習指導要領というのはイギリスにもアメリカにもないんです。これをまず外していただきたい。それから、もちろんそれに基づく教科書検定制度なんというのはないわけです、アメリカにもイギリスにも。全く自由に、先生たちが立派な教科書、こんな分厚い教科書を、カラー入りのきれいな、生徒、学生にわかりやすい教科書をたくさんつくっていらっしゃるわけですね。日本ではこういうことが許されていないわけですよ。
 ですから、緊急に私がぜひやっていただきたいことといえば、まずこれを外して教育に自由を、教育改革とか規制緩和ということを言われるんでしたら、まずこの規制、強制をやめていただきたい、もっと各都道府県、各教育委員会、各学校、各先生に自由を与えていただきたい、これが緊急にやっていただきたいことだと私は強く思っております。
○日下部禧代子君 今の問題でございますが、佐貫先生、いかがでございますか、これこそ緊急だと先生がお思いになるもの。
○参考人(佐貫浩君) この中で書いてあることがそうだと言えばそうなんですが、第一は、今子供をどう育てるかということは日本社会が抱えている非常に緊急な課題だと思います。すべての親が今、子供を育てることが恐ろしいと、そういう気持ちを抱いて子育てに臨まざるを得ない。学校が力を持ち教師が力を持つということは本当に切実な願いです。そのために必要なこととしては、教師の数をもっとふやすということです。そして、教師が子供のことを考えるためには余裕がないとだめです。
 ところが、私の妻も教師をしておりますが、中学の教師ですが、本当に熱心にやろうと思いますと、夜八時、九時、普通に帰ってくる。そして、給食が食べられない、昼間生徒指導で走り回っていた、家に帰っておなかが減ってしようがないという、こういうのが現状ですね。ですから、そういう中で優秀な頑張っている教師がいても、あの先生のまねをしていたらつぶれちゃうという形で、すぐれた教師がみんなのお手本にならない、そういう形になっています。
 そうではなしに、すぐれた教師がいたらみんなでその人を中心にしながらこれをやっていこうじゃないかというふうに言うためには、余裕がないとだめです。私も大学で学生を教えておりますが、余裕があってよく準備できたときには本当に自信を持って授業できます。でも、今の先生方はそれができないと思うんです。だから管理だとか点数で子供を勉強に向けるということしかできない、それが結局指導力不足の教員を生み出す根底的な原因だというふうに思います。
 そこの部分を変えていく、そしてそういう教師を校長先生が支援し、そしてみずからもどうやったら授業がよくなるのだというので一緒になって協力をしていく、こういう状況をつくり出す。そして、困難ではあるけれどもそういう教師をみんなが支える、そういう意味で学校をオープンにしていく、こういうことがまず第一に取り組まれるべき基本ではないかというふうに思います。
○日下部禧代子君 ありがとうございます。
 今、非常にさまざまな問題を御指摘いただきましたけれども、その中でも飛び入学の問題がございます。その飛び入学の導入といいましょうか、その目的というのが一人一人の才能を伸ばし創造性に富む人間の育成のためであると、そしてそれが個性を伸ばす教育システムの一つであるという形で位置づけられているわけでございます。
 御承知のとおり、教育というのは英語で言えばエデュケーションでございますが、その語源はエデュース、引き出すという意味であります。引き出すということであるにもかかわらず、日本の場合、教育というのはどうも与えるということ、逆さまの形で教育というものがとらえられてきたような気がするわけであります。
 もともと教育というのは引き出す、つまり一人一人の才能をいかにして引き出すかと。もうわざわざ言わなくても、教育そのものの目的というのは一人一人の才能を伸ばすことであるべきだと思うんですね。ところが、日本の場合には非常にそれが今までどういうわけか、教育という日本語の漢字にもございますように、何か教育を教え込む、与えることということに錯覚をされてきたのでございましょうか。そういうことから考えますと、今こそ、先生方がおっしゃいましたように、教育の原点、つまり教育というのは一人一人の才能をいかにして引き出し伸ばすことかという、そこに戻るべきだというふうに思います。
 そう思いますと、一人一人の才能を伸ばす、その創造性に富む人間を育成するということで飛び入学というのがあたかも今最も緊急に必要であるというふうに挙げられているのに対して、私はやはり疑問を持つのであります。いかにしてその一人一人の才能を伸ばすための仕組みをつくるかと。
 例えば、小学校なんかにおきまして日本で見なれた風景、一斉授業といいましょうか、そういう風景。それからまた大学におきましては、私もイギリスで教育を受けた人間の一人でございますけれども、やはり一対一、スーパーバイズとかチュートリアルとかいう、そういう形で一人一人を大切にするという形で教育がございます。
 そういう仕組みを日本で今導入するということ、それを可能にするシステムをつくり上げる、そのための発想の転換とシステムの転換こそ必要だというふうに私は考えているのでございますけれども、そういうことを含めまして、もう一度飛び入学の問題に関しまして、木村先生、小林先生に御意見を承りたいと存じます。
○参考人(木村孟君) 現在議論されておりますのは、飛び入学という、先ほどもちょっと話が出ましたが、早く行くことだけが議論されている嫌いがありますけれども、中央教育審議会の答申を読んでいただきますと、発達段階が子供にとって違うわけですから、ゆっくり進む子に対しても十分配慮するというふうなことが詳しく書いてございます。今回、教育改革国民会議ではそこのところは出ませんでしたけれども、私のスタンスはそういうことでありまして、それぞれ発達段階に応じた教育を与えるということだというふうに考えております。
 ただ、今、議員がおっしゃった英国のシステムを日本でやるためには、膨大な予算措置といいますかお金が要るわけですね。御承知のとおり、日本は、有馬先生がよくおっしゃっていますけれども、高等教育への支出はGDPに対して〇・六%か〇・七%と先進国の中でも実に惨めな数字である。それから、先ほど御質問で、今提案されているようなアイテムを実行したら日本の教育はよくなるかということで、申し忘れましたけれども、やはり教育にはお金をかけるということがどうしても私は必要だと思います。
 そういう意味でいいますと、日本は教育大国と言われていますけれども、実はそうではなくて大変貧困な国に成り下がってしまっているということを痛切に感じておりまして、やはりその辺でお金をかけて一人一人の個性、能力に応じた教育を展開するべきだと、これは理想論かもしれませんが、私はそういうふうに考えております。
○参考人(小林道正君) 私は憲法とか教育基本法で教育の平等とか機会均等と言われているのはそのとおりだと思うんですね。だけれども一方で、みんな個人個人違うわけですから、持っている能力も違うわけですから、それを最大限伸ばしてやる、これこそ先生も言われたような教育の本来の目的だと思うんですね。ここをどうやって折衷させるかということで、国民として必要な基本的な事柄というのはやっぱりあると思うんですよね、これは全員がやってもらいたいわけですけれども。その上は本当に個人の自由、各大学、各小学校、中学校、高校の自由でやっていただく、ここのところをはっきり分けてやっていただきたいと思うんですね。
 特に、イギリスの場合ですと、小学校で英語の授業、国語の授業をやってますよね。ところが、バイオリンの先生が外部から来て教えるということになりますときに、それをやりたいという子はその授業を抜けていってやっていいんですね。こういう自由があるわけです。そこで学校の中でも能力を十分伸ばしていける、そういうシステムはもう小学校からずっとあるわけですね。日本ではそういうことを認めていない、さっき言われた一斉授業ですから。イギリスの小学校では一斉授業は基本的にありません。先生もそうなんでしょうか。それから、二十人以下ですよね。三十人なんというクラスはイギリスにはありません。みんな二十人以下です。しかも、その中を四グループぐらいに分けて、それぞれみんなそれに合った内容、合った進度でやっているんですね。ですから、伸ばせる子は幾らでも伸ばせるようになっている。
 日本でこういうことを小学校から順番にやれるところをやって、もちろん皆さん議論して合意された上でですけれども、やって、その上で飛び級、飛び入学というのがあり得るということだと思うんです。
○日下部禧代子君 ありがとうございました。
○高橋紀世子君 高橋紀世子でございます。
 参考人の皆様のお話、本当にありがとうございます。
 今、登校拒否児の数がだんだんふえて、学校に行きたくなくなっているお子さんが多いんですけれども、それはやっぱり学校のあり方に何か子供たちの成長に合わないものがあるのではないかと思います。
 そして、今度の三法案の改革なんですけれども、非常に画一的な授業をずっとやってきまして、そして現場の先生方が授業の内容を決めるというよりも、六法全書にも書いてありますけれども、文部大臣が責任を持って科目を決めるというような条項がありますし、今、沖縄から北海道まで文部省で決められた同じ授業をしていますけれども、子供たちを見ている教師の方々と子供たちとが一体となって、もう少し画一的じゃない、それぞれの地域や子供たちに合った勉強を始めることが必要ではないかと思うんです。
 今度の三法案ですけれども、やはり画一性からいうと、文部省が法律で決めるわけですから、どうしてもそれがまた画一性につながってくると私は思うんです。ボランティアの授業にしても、それから飛び級にしても、それから先生方の進退問題にしても、国で法律として全国に進めるわけですから、どうしてもその場所に合った、先生方がこうしよう、ああしようという思いで始めるのではないから画一的になって、やはりそこにいきますと、先生方もどうしても自主性よりも人から言われたことをすると。
 現場の生徒と先生方の活性化というのですか、主体性というんですか、これから私たちで何かつくるということが置き去りにされるように思うんですけれども、この三法案と画一性のことについて、先生方お一人お一人の感想を伺いたいと思います。
○参考人(木村孟君) 画一性の問題は、確かに非常に我が国の社会で重要といいますか、深刻な問題だと私は考えております。
 戦前の社会がどうであったか私よくわかりませんけれども、多分、日本人の画一性というのは戦後非常に顕著になったのではないかというふうに思います。それはよく言われておりますけれども、戦争で全部なくしてしまって、とにかく欧米に追いつき追い越せということで、平均的なものから外れるものは全部切り捨ててきたということで日本人の画一性が非常に増したのではないかというふうに思います。
 そういう意味でいうと、議員御指摘のとおり、文部科学省でその法律を決める、そうするとますます画一性が増すのではないかと思いますが、そういうところがあると思いますが、しかしそういうものが現実になければ動かないような状況に日本はなっているのではないかと思います。そういうことで、もちろん百年ぐらい待てば日本人にもあるいは独自性が出てくるのかもわかりませんけれども、やはり教育の問題は現在大変深刻な問題でございますので、法律によってきっかけを与えるといいますか、体制を準備するといいますか、そういうことは私は必要ではないかというふうに考えております。
 アメリカが急速に景気回復いたしましたのも、よく言われますが、そういう環境をつくった、雰囲気をつくった、法律で雰囲気をつくったということがよく言われておりますので、やはり私は、教育の分野においてもこれだけ深刻な問題を抱えておりますから、雰囲気なり環境なりをつくることを法律の形でやるのはやむを得ないのではないかというふうに思います。
○参考人(小林道正君) 今、先生御指摘のように、本当に画一的なのは日本だけだと思います。
 アメリカやイギリスを見ても、本当に教育は自由にやっています。教える内容についても、アメリカですと各州で全部やっていますし、その州で決めたのも各学校でかなり自由に変えられるというふうになっていますので、日本国全部で、さっきも言われたように、沖縄から北海道まで全部同じ年に、同じ月に、同じ内容を教えているなんて、こんなことはおかしいわけですよね。その県なり学校なりの実情に合った進度なり、教え方なり、内容が当然あるわけですよね。
 イギリスに行っているときに、これをイギリスの方に説明しましたら、そんなことがよくできるね、何か全体主義の国じゃないの、日本は、というふうに皮肉を言われまして、教育は自由なんだよと言われて、本当にかちんときた記憶があるんですけれども。
 それから、画一的ということで、ただいま発言する機会がなかったんですが、児童の出席停止なんというのも、今あるのでこれで十分なわけですよね。あとは市町村なり教育委員会なりが具体的にやればいいことで、これをさらにこんなに細かく規定する必要がどうしてあるんでしょうね。こんなことをやらなければ今どうしてできないんでしょう。この三行だけじゃどうしてできないんでしょうね。これが私は理解できないんです。出席を停止するなんというのは教育としておかしいと思うんですよね、現行でも私は疑問を持っていますけれども。
 教育というのは、学校に来て勉強して、何かおかしいことをしたらそれをどうしようかというので、学校へ来なくていいよと言ったら、これは教育のもう外になっちゃうじゃないですか。教育というのは、そういう子も含めてどうやっていくか、もちろん学校だけじゃだめかもしれませんけれども、先ほどありましたように、地域、市町村、いろいろ含めてですけれども、これを抱え込んでどうやっていくかという新しい法案がつくられるならともかく、出席停止の条件を細々と新たにたくさん規定するなんというのは私は本当に理解できないんです。
○参考人(瀬戸則夫君) 画一性の問題ですけれども、ただこれは外から見ているとそう見えるわけでありまして、子供は実はかなり画一性の面も持ちつつも、今の大人よりはもっとより独自性、個性が強まっていると見るべきだと思うんですね。ですから、私は子どもの権利条約のことを申し上げていますけれども、この後半のところでも、画一性ではない、子供にもうちょっと焦点を当ててやるべきだと思います。子どもの権利条約が言っているように、子供の自主性、自立性の尊重ということをもうちょっと正面からとらえてやっていけば、いろんな意味で子供たちにとっても生きやすいし、もっと生き生き伸ばすようなことになるんじゃないかと思うんですね。
 もちろん、自主性の尊重が自由放題で学校がむちゃくちゃになっちゃうというふうに、現場を知らない方はそう思う。しかし、そうじゃないんですね。子供の方は現実を見ております。そこのところがやはりこの三法案の審議と、それから出た後の運用のところでぜひもっときちんと見据えてやっていただきたいと思います。子供の自主性というのは、単に自由気ままじゃなくて、自分と他人の権利尊重ということですから、そこには当然規範も重要な問題としてあるわけですね。そこのところをぜひ正面からとらえていただきたいと思っています。
○参考人(佐貫浩君) 画一性の原因については、私は四つあるというふうに思っています。
 第一点は、日本の場合は学校のありよう全体が非常に法的に細かく規定されていて、学校でそれぞれ自主的に行うことが非常に難しいという点です。
 二つ目は、競争それ自身です。例えば、受験を直前にしてきますと、どうしても試験に受からなきゃいけない。ところが、日本の試験は記憶だけを試すような面がありますから、暗記と記憶に頼る勉強をどうしても最後はやることになります。そうしますと、本当に知識を身につけて、それで自分の力を多様に発展させながら物事に取り組むという、そういう創造的な能力が非常に育ちにくくなります。そして、個性を伸ばすために競争を多様化するということがいろいろ言われますが、これは実はそう機能していなくて、私の言葉で言えば、多様な画一性が進むだけになっているというふうに思います。そういう点では、小さいときの競争それ自身が人間を画一化している。
 三つ目は、その多様性をつくり出すためのゆとりがないということですね。教師の指導がゆとりがあって、教師がたくさんいて、子供が問題を起こせばそこに行って個別の指導ができるということがなければ、この画一性は打ち破れません。四十人を一遍にまとめてやるというふうになるから画一性が生まれるんです。
 最後は自由ですね。これは教師の自由ということもありますが、子供の自由という問題も非常に重要です。
 例えば、国旗・国歌法が通過いたしましたが、それに基づいて今全国で行われていることは、卒業式等に国旗・国歌を基本的に実施して、そして国歌を歌うとか、そういうことがある意味で強制に近い状況になっています。しかし、子供の中にはこういう内容だと歌いたくないという気持ちがあります。そうしますと、たとえ教育的にそれが望ましいという考えがあっても、子供の内心の自由は守らなきゃいけない。それをこうするべきだというふうに教師がやったら、子供の思いを教師は封殺してしまう。そうすると、子供は心を教師に対して開くということがなくなってしまう。
 そういう点では、こういう子供の自由を奪う、それは教師の子供の内面に寄り添って指導する力量を奪ってしまう。こういうことが画一性を強める。そういう点で、私は、日本の教育のまさに特質であるこの画一性を打ち破るために、今の四つの点を改善することが非常に重要だというふうに思います。
○高橋紀世子君 ありがとうございました。
 今、本当に校内暴力だとか登校拒否児だとか、いろんなことが曲がり角に来ています。それを本当に解決したいんですけれども、それがどうもあの三法案で決めて、画一的にそれこそ北海道から沖縄まで飛び級のこと、それから三つのことを決めてしたら解決するというふうにはどうしても私は思えないんです。
 今、佐貫先生がおっしゃったように、いつでも相談できるようにするということは先生方の数をふやすことだと思いますし、それからきめ細かい教育をするということはマン・ツー・マンの時間が長くなるということですし、お金では解決できないかもしれませんけれども、私はもう少し勉強しなきゃいけないと思いますが、教育のところにお金を使っていないように思えて仕方がありません。
 私もアメリカの片田舎で子供を教育したことがあるんですけれども、本当に名もない公立でも十五人のクラスだったり、先生方が一人一人に声をかけたり、それから科目の選択制度がたくさんあって生徒たちが選べたり、何か先ほどおっしゃった自由とか自主性とかというのは、どう考えても法律で三つ決めてああいうことででき上がってくるものではないような気がしてなりません。
 やはり違うやり方で日本の教育を変えるというか、学級が小さいのもそうですし、文部省が全部カリキュラムのことに指示を出すのも余りいいとは思わないし、今、子供たちのあれを変えるということは何かもう一つ違う、もっときめ細かい先生方と子供たちとの接触というか、何か違うように思うんですけれども、その辺、もう一言ずつ御意見を伺えるでしょうか。
○参考人(木村孟君) 先月だか今月だかちょっとはっきり覚えておりませんが、IDEという雑誌で、変わる高等学校という特集をしております。それを見ますと、研究者がかなり地道な研究をやった結果が発表されておりまして、大体二十年前と二、三年前の高校生の意識調査、先生方の意識調査が出ておりますが、確かに若者の行動なり考え方が大きく変化しております。
 そういうことでいいますと、どうしても我々教育界にいる者は今までやってきたシステムがいいというふうに思いがちでありますけれども、そういう現状を見ておりますと、やっぱり教育のシステムそのものを多様化した子供たちに合わせる必要があるのではないかと。そういうことからいうと、もっと大きな資金を国として教育につぎ込むことが必要であろうと思います。
 一つ、非常に最近、目からうろこが落ちたことがございます。それは、私、中教審にずっと関係しておりまして、ヒアリングをしたときに、少年犯罪の専門家から、一九九八年に向かって未成年の犯罪が猛烈にふえているということで、一九九九年ぐらいには爆発的にふえるだろうということで私ども心配しておりましたが、最近、統計を見ますと、九九年にシャープに下がっております。これは、中教審初めと申し上げるとちょっと言い過ぎかもしれませんけれども、日本の教育界全体がこういうことに取り組んできたために非常に好ましい傾向が出てきたのではないかと思いますが、やはりこういう取り組みというのは今後積極的にやっていく必要があろうかと思うのが私の印象でございます。
○参考人(小林道正君) 政府が規制緩和とか構造改革とか自由化ということを言われているわけですよね。その中身はいいのと悪いのとあるわけです。教育の中身でも、基本的に私は自由化していただきたいとさっき申し上げましたけれども、私、発言する機会がなくて言わなかったんですが、例えば学区の問題でも、自由とはどこの学区でも行っていいよという、これは私は自由じゃないと思うんですね。
 イギリスでもアメリカでも、小中高、公立ですと、それは自分の行く学校は決まっているわけですよ。地域に密着した、その地域が全体になってすばらしい高校にしていこう、すばらしい小学校、中学にしていこうということで、みんなでつくってきているわけですよね。あっちにも行けますよ、こっち行けますよ、これは私は自由じゃないと思うんです。こんな自由を私は言っているわけじゃないわけですよ。
 教育で自由というのはやっぱり教育内容ですよね。その学校なりその地域なり、その県なり市町村に合った内容、あるいはもっといえばその個々の生徒たちに合った内容ですね。それを先生たちが工夫して、どうやればこの子にはわかるだろう、どうすればこのクラスではわかるだろうという創意工夫をするその気構え、こういう力をつけなくちゃいけないんですよ。
 こうやりなさい、こうやりなさいと決められていては、先生の能力は決して伸びないんですね。ですから、前にも言いましたように、指導要領の拘束をやめていただければどれほど先生たちの能力が伸びるか、これはもう明らかなことです。自由がなかったら決して先生の能力は伸びません。
○参考人(瀬戸則夫君) 簡単に申し上げますけれども、私は今、多様化している子供と申し上げましたけれども、まさに子供は多様化しているわけですけれども、もう親自身が、既に今、学齢期に達している子供の親が多様化しているわけですね。さまざまな考えを持った親がいる、その中で子供より親と教員との関係について非常にぎくしゃくしているということが気になるところであります。
 きめ細かな先生と子供の接触のためには教員をふやしてほしい、それから地方にもっと任せてほしい、それから多様化した子供の自主性を尊重してそれを援助する、それから親も援助する、それから教員へも援助するというようなシステムを地方単位でつくっていただきたいと思います。
○参考人(佐貫浩君) 私は学校の自由というものが非常に重要だと思います。
 小林参考人が述べられましたことで、二点だけちょっと訂正したいと思うんですが、イギリスでは学校選択が非常に広まっております。それから、ナショナルカリキュラムがございますので、ちょっと事情が違うかと思いますが、しかし学校は非常に自由です。
 先ほど言いましたように、学校理事会というものがございまして、ここで校長を選びます。したがって、校長はその学校理事会、すなわち地域や親や教育委員会に責任を持って、教師に責任を持って、そして学校計画を出して、これだけのことは実現する、だからほかの先生も協力してほしい、そして全体は規制緩和で学校は自由になっていますから、どういうふうに教育をするかということはまさに校長が中心になって学校で自由に決められるわけですね。日本はそこが全然違います。そういうシステムをつくらないと、地域が学校に何とかなってほしいと思っても、みんなが参加してどうすればいいかという議論をする余地がないんです。そこを変えるということが私は非常に重要だというふうに思います。
○高橋紀世子君 ありがとうございました。
 地域性とおっしゃいましたけれども、地域が主体になるには地域がやっぱり発言する力を持たないと変わらないと思いますし、教育のことは本当に緊急に大変なことなので、私も一生懸命やりたいと思いますし、またいろいろ御指導願いたいと思います。
○委員長(市川一朗君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつ申し上げます。
 本日は、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただきましてまことにありがとうございました。委員会を代表いたしまして御礼を申し上げる次第でございます。
 どうもありがとうございました。(拍手)
 次回は明二十六日午前十時から開会することとし、本日はこれにて散会いたします。
   午後三時五十九分散会