第013回国会 法務委員会 第13号
昭和二十七年二月十四日(木曜日)
    午前十一時八分開議
 出席委員
   委員長 佐瀬 昌三君
   理事 押谷 富三君 理事 北川 定務君
   理事 田嶋 好文君 理事 田万 廣文君
      角田 幸吉君    鍛冶 良作君
      古島 義英君    松木  弘君
      眞鍋  勝君    山口 好一君
      田中 堯平君    加藤  充君
      猪俣 浩三君    世耕 弘一君
      佐竹 晴記君
 委員外の出席者
        参  考  人
        (元フイリツピ
        ン第十四方面軍
        司令官)    黒田 重徳君
        参  考  人
        (元第六野戰憲
        兵隊長)    菊池  覚君
        専  門  員 村  教三君
        専  門  員 小木 貞一君
    ―――――――――――――
二月十四日
 委員山手滿男君辞任につき、その補欠として大
 西正男君が議長の指名で委員に選任された。
    ―――――――――――――
二月十三日
 土地台帳法の一部改正に関する請願(松浦東介
 君紹介)(第六七五号)
 広島法務局井原出張所存置の請願(山本久雄君
 紹介)(第七一四号)
 山形地方法務局手向出張所存置の請願(上林與
 市郎君紹介)(第七一五号)
の審査を本委員会に付託された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した事件
 戰争犯罪者の刑の執行に関する件
    ―――――――――――――
○佐瀬委員長 ただいまより会議を開きます。
 戰争犯罪者の刑の執行に関する件について調査を進めます。本日は本件についてマヌス島より引揚げられた菊池覚君及びフィリピンより引揚げられた黒田重徳君の二参考人よりその意見を聴取することにいたします。
 参考人黒田重徳君、菊池覚君は、過日フィリピンと濠州からそれぞれ無事帰還されることができたのであります。かの地においては長い間御苦労されたことに対して、当委員会としても深く御同情申し上げます。
 御承知のように日本は平和條約第十一條に基いて、国際裁判及び連合各国の裁判も嚴粛に受諾し、その刑を執行するとともに、諸種の恩典については各連合国に勧告することができるようになつたのであります。これに関する国内法案も遠からず当委員会において審議されることが予想されるのでありまして、その審議に資するため、本日出席の上、かの地における受刑状況につき御報告を願うことになつた次第であります。申すまでもなく多数留守家族の方々はもちろん、国民一般も終戰後七年、いまだ帰還されない方々の身の上については、非常に心を痛め、該地における諸事情を事こまかに承知したい熱望に燃えておるのであります。と同時に一面事柄は将来善隣関係を結ぶこれらの連合各国の国民感情に影響を與えるごときわめてデリケートなるものがありますので、この点十分お含みの上に御説明願いたいと存じます。事情を明らかにするため相当つつ込んだいろいろのお話もあることと存じますが、事柄によりましては速記をとめ、あるいは新聞、ラジオ等の発表も差控えるように手配もできますので、この点御遠慮なく委員長までお申出を願います。供述の順序といたしましては、最初に参考人から各関係外地における受刑状況一般と、受刑者の近況、今後の見通し、受刑地方民の対日感情等につき、概括的に御説明を願い、それから本委員会の各委員より参考人に対して質疑を求めますので、これに対してお答えを願いたいのであります。なお各参考人は冒頭においてごく簡潔にそれぞれの経歴を一通り御説明の上、参考事項の供述に入つていただきます。
 それではまず黒田重徳君よりお始め願います。
○黒田参考人 私黒田であります。本席でいろいろな戰犯にすることを述べさせていただくことは、私のたいへん仕合せに感ずる次第でございます。私は開戰戰当時は東京にある陸軍の教育総監部の本部長をしておりました。翌年の七月にシンガポールが落ちたあとに南方総軍の寺内さんの総参謀長になつて、その幕僚長で参りました。それから十八年の五月にフィリピンの軍司令官に参りまして、十九年の九月に交代、十月に内地に帰りまして、十二月に陸軍をしりぞきました。終戰後九月に米軍に監禁されまして、四七年十月にフィリピンに連れて行かれまして、裁判を受けて、四九年の七月に終身刑を受けてただいままでおりました。昨年の十月二十三日に大統領の特赦をもらつて帰つた次第でございます。
 フイリピンの戰犯についての御了解を得るために、私はごく簡單にその当時における比島の民情を、御承知のことかと思いますが順序として申し上げたいと思います。比島は御承知のように一五〇〇年代の終りにマジエランが発見してからすぐにスペインの統治になつておりました。それから十九世紀の終り米西戰争の結果アメリカがとるまではほとんど四百年に近い間スペインの統治であります。その際のスペインの統治は、スペインの植民政策の御多分に漏れず、つまりスペインのための植民地という搾取主義でありますので、フィリピン国民はスペインの統治者及びスペインから持つて来たキリスト教の旧教の坊さんの横暴といいますか、そういう方面に相当苦しんでおつたようであります。むろん精神的な救済は非常に多く受けておりましたが、政治的、社会的な考えからいえば相当に圧制を受けておつたような次第でありまして、十九世紀の終りにはぼつぼつ反抗運動、独立運動ができておつた状態であります。そのときにちようどアメリカが米西戰争の結果比島を占領することになつた。ところで御承知の民主国アメリカは、その当時比島をとつてしまうということについて相当アメリカ内部で議論があつた。当時の大統領マツキンレーは実に困つた。そこで彼の声明によりますと、自分は一晩神様にお祈りをした、そうして誓つた。比島は比島人のためにしばらくアメリカが預かるんだという主義のもとに比島をとるのだということを声明しております。その後の経過を見ますと、これはアメリカの善政をたたえるようなかつこうになりますが、私の研究としまして、比島人の感じておることは私の申し上げることに間違いないと思います。比島というところは衛生上実に悪い所で、ペスト、チブス、そのほかの病気が絶えなかつた所だつたらしいのですが、この戰争まで四十年の統治の間にスペインの四百年の面目を一新して、当時と比較すれば実にりつぱな文化設備ができておる。物質的に申しますと、そういうような大進歩を来たしたのであります。一方政治思想から申しますと、アメリカの民主主義を普及することに非常に努力をした。そうして開戰の前一九三五年にすでに十年の試験期間を置いて独立を許した。開戰の当時はもうケソン大統領がフイリピン共和国としての大統領となつた次第であります。そういうぐあいでありまして、ただいまの選挙、この前の大統領選挙なんかを見ましても、相当にひどい選挙をやつたということは比島人自身が認めておる次第でありまして、まだまだ民主主義が徹底してないということは言えますが、開戰当時その精神においては相当に鼓吹されておるということは明瞭に見えた次第であります。アメリカ文化の輸入の結果、男女同権というよりも、私たちから見ればむしろ実にアメリカ式に女尊男卑が非常に強く響いておるというような次第でありまして、要するに開戰当時比島人の心理状態はアメリカの恩を非常に感じておつたということは争えない次第であります。ビルマ、インド、ジヤワ、スマトラ、いわゆるインドネシア、あの方面はそれぞれイギリス及びオランダの統治を受けておりましたが、やはり一種の植民政策であつて、とにかくいつまでも自分の本国のためになるような政治しかやつていない。それに反して四十年のアメリカの政治はまつたく違う。ビルマ人、インド人、インドネシア人は大体において反イギリス、反オランダであります。ところが比島人は、当時幾ら宣伝しても、内地でつや消しされてしまつて明瞭に映らなかつたのですが、比島の親日家と言われる人も反米ではない。そこが違う。アメリカがよけいすきか、日本がよけいすきかというと、日本がすきならアメリカはきらいだというわけではない。そういう国で私たちは作戰をしたのであります。私は、ただいま申しましたように南方総軍総参謀長で、七月から翌年の五月まで、フイリピンに行くまでビルマに十箇月おつたのであります。その当時ビルマはもちろんジヤバ、スマトラにもゲリラは一人もありません。マレー半島には支那人系統のものが幾分おりましたが、これも論ずるに足りません。これに反してフイリピンは、最初からゲリラが絶えない。この戰争が終りましてからアメリカが戰災復興のための金をやる、また戰争中のゲリラヘの不渡り俸給をやると言うと、それを申し出たものが百万人以上もおるというような状況であつたのであります。おまけにマツカーサーが二度目に来て以来レイテの作戰を始め、フイリピン島内で死ぬか生きるかではない、ほんとうに死にもの狂いの戰争が始まつたということをよく頭においていただきたいと思います。フイリピンの宗教は、ただいま申しましたように、スペインの四百年の布教の結果、八割以上はローマ旧教であります。あとの二割ぐらいがマホメツト教徒、今のプロテスタント、新教になつております。どこにもここにもキリス義の教会があつて、われわれとかつこうは同じですけれども、みな教会に行つておるということで、そういう点も、その当時の日本人の思想と相当な食い違いがあつたように私は感じておる次第であります。今のデモクラシーの思想は、日本の指導精神が反デモクラシーの思想で行つたその当時と、実に対照的な現象を現わしておる次第であります。
 その次は……。
○佐瀬委員長 参考人に申し上げますが、次の具体的な問題に入る前に、フイリピンの一般的説明の部において簡單でけつこうでありますが、政治情勢について、批評はできませんけれども、説明が願えればこの機会にしていただきたいと思います。
○黒田参考人 現在の政治の模様を簡單に申し上げます。十八年の五月に参りましたときに、東條さんが独立を約束して、その準備を私が命ぜられたのでありますが、それから有力な人たちに協力していただきまして憲法をつくり、ラウレルを大統領にしてずつと戰争を遂行したのであります。ところが御承知のようなぐあいになりまして、終戰後われわれと一緒に働いてもらつたそういう人たちはすつかり牢屋にぶち込まれてしまつた。ただロハスという人が一緒におりましたけれども――なまぬるい協力の仕方だつたという話ですが、マツカーサーに始終連絡して、連絡がよかつた関係上、この人はいわゆるパージにならずに第一回の大統領――アメリカが十年の試験期間を置いて一九三五年ごろ始めたやつが、終戰と同じ年、結局四五年ですから十年たつておりますので、ほんとうの独立の時期になつた一九四六年、終戰の翌年、憲法がしかれほんとうにフイリピンが独立することになりまして、そこで大統領の選挙をやつた。そのとき私たちに協力したような人はみな牢屋にぶち込まれたというような関係で、ロハスと元の大統領オスメニヤという人が競争したのですが、すつかりロハスが勝つてしまつて、大体協力組の人はナシヨナリスタですが、その派の人は凋落してしまつた。それから大統領ロハスは一九四八年急死されました。そこで副大領のキリノが大統領に昇格したわけであります。そうして四八年にラウレル以下協力組の大赦をやつて、そういう裁判は全部しないということになつて、結局大部分が無罪になつた。そこで自由になりましたので、一九四九年の大統領選挙にはナシヨナリスタ――今の政府派は自由党、政府反対党がナシヨナリスタ党ということになつておりますが、ラウレルはナシヨナリスタ党に推されて大統領候補になつて非常な接戰をいたしました。これはもうみな知れわたつた事実でありますから申し上げません。その大統領の選挙と上院議員の八名の選挙――向うは上院議員が二十四名であります。六年の任期で三分の一ずつ二年おきに選挙があるのですが、大統領と八名の上院議員、そのほか下院議員全部の選挙がそのときに行われた。票に現われた結果はラウレル氏が四十万くらいの差で破れたのであります。ナシヨナリスタ派の上院議員はみごとに破れてしまつた。但しその選挙をよく調べてみますと、まだデモクラシーのほんとうの思想は普及していないことをフイリピン人自身が認めております。政府党の選挙干渉というよりも、実に猛烈なる不正手段をやつておる。これはフイリピン人が申しておることですから言うてもさしつかえないと思う。ひどいところは、同じ投票者が何回でも行つて投票する。一番南にミンダナオという大きな島がありますが、そのラナオ州では、木も烏もさるも、みな政府党に投票したのだという。その証拠として、昨年上院議員八名、補欠一名の選挙――この間来ましたヴイラレアル氏はあと二年しかない者の補欠です。それから八名の普通の交代の選挙、地方の州知事の選挙、それから市長さんあたりの選挙があつた。昨年の選挙は、今の国防大臣が大統領に進言したという話ですが、公平な選挙をやらなければいけない、結局こういう不正なことをやつておつたのでは、世界的にはもちろん、アメリカの信用を失うというので、軍隊を出して選挙の監督をした。というと、軍隊を出して選挙干渉をしたように聞えるのですが、それは反対なんで、軍隊を出して不正なことをする者を取締つた。とにかくこの前の大統領選挙あたりでは、お前は何に投票するか、おれはラウレル派だと言つたら、ぱつとドスで突かれるか拳銃で撃たれる者がずいぶんあつたのです。だから政府反対党に投票しにも行けない。その上に鳥や木やというくらいにやつたのですから、勝つにきまつておるでしようが、今度は非常に取締つた。そこで一例を申し上げますと、ラナオ州において、この前の大統領選挙のときに投票した数が十四万数千、そこで今度有権者を調べたらそれが七万だつた。これは昨年の有権者ですから、それが全部投票したかどうかわからぬですが、有権者が七万、四十九年の大統領選挙の投票数が十四万ある。実にわれわれ考え及ばぬような珍現象を来した。それが取締りをした結果、今度現われました選挙は――ラウレル自身も最初は出たがらなかつたのです。しかしあまり勧められて出た。ところが実に私たちは予想外だと思うのですが、ナシヨナリスタの有力なるセネターあたりも予想外だつたという話です。ナシヨナリスタの総裁自身がそう思わなかつたというくらいに評判されておるのですが、九名の上院議員候補者が全部当選した。政府党は一名も入らない。今のキリノ大統領の弟さんも上院議員に出ましたけれども、とても問題にならないという状態であります。
 次に比島の戰犯裁判の状況をごく簡單に申し上げたい。先に申し上げましたように私は終戰後ここでつかまりまして、四十七年の十月に向うへ連れて行かれた。その経過をずつと調べますと、終戰後御承知の山下裁判を手始めに、アメリカ軍が裁判を始めた。それが四十六年一ぱい、七年の初めまでかかつた。そのあと四十七年からは、アメリカ軍が依然裁判をする者、つまりアメリカ軍だけにおもに関係のある者、それから比島の方に関係の深い者という二つにわけましてアメリカ軍の方は、全部巣鴨に連れて来て、横浜で裁判する。比島の方はマニラで裁判するということになりました。これは私確実なことは申し上げられませんが、大体その前のアメリカ時代の裁判を見ますと、人の意見を聞きますと、非常に著しい者、裁判のしやすい明瞭な者というようなところからアメリカ軍がおもにやつたように感ぜられます。比島の裁判は、日本の弁護士で、四十七年の八月、ごろから始めました。ところが御承知のこの裁判というのが、日本における裁判とどうも違うようであります。私は専門家ではありませんからわかりませんが、むろん証拠というものも必要ですが、裁判所における証人、それが証拠になるでしようが、証人というものが非常に重大なる役割を持つ。ところでこの証人を、たとえば検事側の証人を弁護側で即席に受取つて反駁をするというようなこと、また検事もしくは裁判官と弁護士との応酬ということは、なかなか日本の普通の弁護士だけでやつたのではむずかしいように私は聞いております。いろいろなことがありまして、四十八年の初めから、今度はフイリピンの弁護士がやるというので、日本の弁護士各位は帰られました。むろん通訳は日本人がいたしております。この弁護士になつた連中はむろん軍人であります。軍人ですが、向うにはやつぱりこつちの法務官式の者がたくさんおりまして、その若い連中が当つてくれた。弁護士各位は非常に熱心にやつてくれたと思います。それは感謝しております。そこで比島の弁護士が入つて来て、われわれの方に特に有利だつた点が一つあります。それまでは、これは比島人の悪感情もありますけれども、それよりも日本人の弁護士の人では、われわれのための比島人の証人を連れて来れない。触接ができない。ところが比島人ですから、どこでも行つて連れて来てくれる。マニラばかりでなく、比島全部にわたつて、こちらから頼んで承諾すれば連れて来れるという便利がありまして、それによつて非常に便宜を得て、裁判がうまく行つたという例があります。そういうぐあいでありまして、その点は私たちは非常によかつたと感謝しております。
○佐瀬委員長 速記をとめて。
    〔速記中止〕
○佐瀬委員長 速記を始めてください。
○黒田参考人 大体二番目はそれだけにいたします。
 次は受刑者の一般的状況であります。ただいま向うにおりますのは、死刑が約六十名、無期、有期が五十名、そのうちの無期が二十九名、有期が二十一名ということになつております。このほかに日本人だけれども、フイリピンで生れたというので、実際はアメリカの裁判にひつかかつて二人とも死刑の判決を受けたのですが、アメリカの弁護士が気の毒だというので、国籍がフイリピンになつておるのを幸いに、フイリピンの裁判にまわしてもらつて、一人は無期になり、一人は有期になつたというのがあります。これはフイリピンの裁判で、われわれの普通言う戰犯裁判の中に入りません。国籍が日本人でもあり、フイリピン人でもあるというので、戰争裁判じやない。フイリピンの国民裁判にかかつたというのが二人おります。この二人はわれわれと一緒の所におらないのです。フイリピン人と同じ所におるわけです。一般の健康状態は、まず普通と考えられます。私の来るとき、肺が悪くなつて一人入院しておりました。そのほかは元気でしようがないということはむろんないのですが、まあ病気という程度には至らないで、仕事をする者は仕事をしておるという程度であります。病気関係は、ただ歯が悪いのが相当に、おりまして、入歯が自由にできないということで悩んでおる人が多いようであります。歯の治療はできますけれども、金がないから入歯ができない。それから病気で死んだ者は一名もございません。ただ今までに死刑囚で処刑をされた人が十七名おります。昨年の一月十九日に、もう死刑はないかと思つておりましたが、突然死刑が十四名ありまして、みな驚いた次第でありますが、それを最後に十七名死刑が行われました。食事の方は、米は質は悪いのです。悪いというよりも精米が悪い。その前にちよつと申し上げますが、われわれのおつたモンテンルハの刑務所は、フイリピンの七千人の一般囚人と同じ刑務所です。そこで、話はさかのぼりますけれども、その前一九四八年の十一月一ぱいは、裁判はフイリピンでしましたが、管理はアメリカ軍でやつたのです。ところが四八年の十二月一日から、管理もフイリピンの手に移つたわけです。そこで食いものも何もすつかり違つた今の刑務所に入つたわけです。しかしその当時の局長の説明では、この局長は子供さんを日本に留学させたような人で、実によく日本を理解した人なんですが、私に申したのは、この刑務所に来てもらつていじめるつもりじやない、日本人に働いてもらつて、模範を示してもらつて、フイリピンの囚人感化の一助にもしたいのだ、皆さんは兵隊出身だからよくやつていただけるにきまつているから、というような意味で、またいろいろな仕事、機械工業とか、旋盤とか、いろいろなことをやつておる人がおるに違いないから、そういうようなことをやつてもらつて、われわれの能率をあげてもらいたい、そういう意味で私が特に政府にお願いしたというような話でした。そこで監獄へぶち込んでいじめるというつもりではないということを私は確信いたしておりますが、何しろ七千人というたくさんの囚人と一緒におるので、炊事場の設備が足りない。めしをたくかまは十くらいしかない。そこでめしをたくにしても、なかなかたいへんなんです。ところが米そのものの精米も悪いのですが、洗い方もどうもいいかげんなことをしているのではないかと思われる点もあるし、またフイリピン人の習慣として、いつでも手でつかんで食うのですから、われわれのすきな汁気のあるたき方ではつかめない、だからぽろぽろしためししかたかない。といつて日本人だけで米をたくだけのかまのゆとりがないという関係で、めしの量は多いけれども、あまりうまくない。たまにはむろんいいのがありますけれども。おかずは、材料は比島の囚人と同じ材料でありますが、これだけは日本から粉みそ、粉しようゆを送つていただいて、われわれの方で炊事当番を出して、そして百十人が炊事しております。それで味は何とかそれで間に合わしております。野菜なんかは少いのですが、昨年の夏ごろから、前には芝生だつた庭をひつくり返して野菜をつくるというようなことで、相当に野菜の収穫もあつたのですが、何しろ暑い所で、野菜を植えて二箇月もすると、すぐとつてしまつて、そのあとを遊ばせぬものですから、昨年の半年くらいの間で何年分も土地を使つたわけで、それで私が来る時分には、むろん肥料はありませんから、能率がうんと落ちて困つておるような次第でありますが、まあ今まではそういうことで、健康状態はむろん非常にいいとは申せませんが、別にどうということも認められぬような次第であります。
 労役関係は、ただいまは死刑囚が三人、まつたくこの刑務所の外で、ほかの兵営に行つて軍犬の訓練をやつております。たしか日本から軍犬を百何十頭か送つていただいておるはずでありますが、そういう軍犬の訓練をやつております。それから有期の人が二人、軍事部の方に、何かいろいろの使い番をやるのに出ております。そのほかはみな刑務所で服役しておりますが、七、八人が旋盤工場に働いておる。それから三人は電気――あそこは自家発電をやつておりますから、その方の仕事をやつておる。それだけは一日に十銭か、二十銭か、私もちよつと記憶がありませんが、金をもらうわけです。そうしてその金の半分を自分がおる間に使えるわけです。半分は刑務所を出るときにまた拂いもとしてもらえる。それから一箇月六円もらえば三円はタバコを買つたり、バターを買つたり、砂糖を買つたりしております。そのほかの者は洗濯をやり、炊事をやり、また中の掃除をやり、食事の分配、運搬をやり、また四人は局長のところの庭園のばらの栽培か何か、そういうようなことをやりに行つております。それから昨年の春から私は日本の庭園をつくつてくれということを局長に頼まれまして、去年刑務所の入口の両方に広い空場がありますから、日本の庭園をつくることにして、三人、その方をフイリピン人を使つてやつた。その方はセメントがなかなか手に入らないで、こちらよりはむずかしいですが、割合にうまくできておると私は思つております。そういうぐあいでありまして、日常の日課は死刑囚の方は一人々々の小部屋があつて二人ずつ入つている。ずつとドアをあけてみな死刑囚だけはつながつておる。朝から晩までおおむね自由に行つたり来たりできて、碁をやり、将棋をやり、麻雀をやるということでやつております。それから無期、有期は大きな部屋で一部屋にいる。そこで朝四時半ころに戸をあけに来ますから、食事をもらいに行つて、就労が始まり、晩の七時か八時ごろに点呼をとつて、戸を締める。それまでは始終ドアはあけつばなしですから、用事があれば刑務所内はあつちこつち出られるということになつております。その方は私は非常に楽にやつておるものと思つております。そういう無期、有期の方も、仕事がしまえば、碁や将棋、麻雀をやつております。
 そこで受刑者の希望でありますが、むろん死刑囚が助かるということについては、これは問題ないのですが、何しろ戰争の始まりから申しますと、十年以上たつているというような年数でありまして、最初に行つた人なんかがまだおる。戰争がしまつてからでも七年にもなるというような状態で、とにかく家を案じて早く帰りたいということは、たれもかれも念じておる次第であります。新聞、雑誌なんかも、赤十字社から送つていただくもので、内地の状況がだんだんよくわかりつつありまして、また内地の戰犯に対するいろいろな態度も終戰直後と違つていろいろ積極的に働きかけていただいておるということは、皆一同感じてありがたく思つておると私は申し上げていいと思います。
 そのほかに死刑者の遺骨というのは、死刑場で穴を掘つてそこに埋めてあります。番号をつけてこのくらいの箱に入れて、岩のところを深く掘つていけてあるのです。私も二回墓参りに行つたのですが、刑務所の下のすぐ外側にあります。
 受刑者に対する今後の見通しというものは、私の方ではよくわかりません。こちらの方で大いにやつていただきたい。しかしフイリピン人がいろいろのあいさつと申しますか、会う人は、死刑囚は大丈夫だとみな言つております。そうなりたいものだと念じておる次第であります。
 比国人の対日感情というものは、なかなかまだ納まりそうにはないと思います。しかしこれはやはり時日が来なければなかなか簡單に行かぬのではないかと思います。
 まず大体これで、あとは速記をとめていただいてもよろしいのですが……。
○佐瀬委員長 ちよつと速記をとめて。
    〔速記中止〕、
○佐瀬委員長 速記を始めて。参考人にお伺いしますが、フイリピンにおいては日本の死刑囚をなるべく宥恕して、日本に送還するというような輿論もあるやに承つておるのでありますが、参考人としてその点に対する御感想はいかがでありますか、この機会に伺つてみたいと思います。
○黒田参考人 輿論と申しますか、私はそういうようなことが、まだまだ新聞雑誌には出たのを一ぺんも見ませんでした。個人に話せばいろいろなことがありますけれども……。
○佐瀬委員長 なお軍関係以外の日本人で、引揚げのできない残留者があるかどうか、この点についての参考人の御見聞はいかがでありますか。
○黒田参考人 私はそういう人はないと思います。ただ軍ですけれども、ルバング島あたりにおりましたようなものは――終戰がわからぬでまだ隠れておる者は、ルバング島以外にはおるかどうかわかりませんが、ルバング島にはたしかいないということであります。
○佐瀬委員長 一応黒田参考人の供述はこれをもつて終りまして、時間の関係がありますから、濠州関係について引続いて菊池覚君にお願いいたします。菊池覚君。
○菊池参考人 御紹介の私が菊池覚であります。元憲兵大佐でありまして、昭和十八年二月十一日に第六野戰憲兵隊長として宇品を出港いたしまして、ラバウルに上陸いたしました。終戰後昭和二十一年三月七日にラバウルの刑務所に牧容されまして、最初死刑の宣告を受けました。次いで有期七年に減刑されまして、ラバウルからマヌス島に移りまして約三年、昨年の十二月五日に濠州側の減刑が発表されまして、その恩典によつて私は満刑となりまして、二月八日に二十四各とともに呉に入港、帰還いたしましたのであります。御質問にお答えいたします前に、まずマヌスに残つております二百十名の者にかわりまして、ここに御札とお願いを申し上げたいと存じます。
 国家再建の最も重大なる時期において、私ども戰犯者が本委員各位の格別なる御配慮を常にこうむつておりますことは、一面申訳ないことと思いますとともに、また一面その御厚情に対し深く感激いたしております。現在マヌスには二百十名(うち六十八名の台湾出身者を含みます)の戰犯者が残つております。私どもは過去六年間敗戰国民としてまた戰犯者として、忍びがたきを忍んで参りました。刑の執行から見ましても、日本人として最善の努力をもつてまじめに労務に服務し、そのため公務死亡、重大なる傷害、疾病をこうむるに至つた者も二十件余を越えるのであります。これと申しますのも、いつの日か祖国に帰り得ることを希望とし、楽しみとしての忍従でありました。今や講和発効の時期の近からんとしているとき、マヌス戰犯者の内還希望も最高点に達しています。何とぞこのマヌスの戰犯者たちがこの講和発効の機会にぜひとも内地帰還になりますようにこの上ながら本委員各位のお力添えを切願申し上げます。
 以上であります。以下お示しくださいました項につきまして報告申し上げます。
 マヌス二百十名の中で刑期は大体次のようになつております。一、二不安な点がありますので、概数として御報告申し上げます。十年以上の刑を申し上げます。無期の者が二十五名、二十五年が二名、二十年が二十八名、十八年が一名、十五年が六十一各、十四年が三省、十二年が六名、十年が六十名、九年以下は省略をいたします。
 次は食糧事情について申し上げます。食糧事情は一口に申し上げますとよろしくないということであります。一人当りのカロリーは大体二千四百か五百くらいになつております。それから食べものは主食が米で、その米はもみが非常に多くありまして、どうしても一ぺんもみをとつてのけなければ使えない。それからカン詰の米でありまして、玄米に近いもの、よくついて五分づきぐらいじやないかと思います。それをたきますと砕けましてぼろぼろになります。私ども内地の米を食つた者には適当しないような米であります。それに副食物といたしましてカン詰類、コンビーフそれからソーセージが一部あります。それからグリーン・ピース、にんじん、これもカン詰であります。それから乾燥野菜といたしましてキヤベツとか玉ねぎとかいうものがあります。そのほかに若干の調味料、大体食べものはこういうふうになつております。これが過去六年間終始一貫かわらない食べものでありまして、この食べものが六年一日の、ごとく続きますので、何としても食欲が減りまして食べようとしても十分食べられないというのが現状であります。そういうためにマヌスにおります者の体力は漸次減退いたしております。体力につきましてはあとから申し上げます。今申し述べましたほかに若干生野菜、これは戰犯者自身が農園を経営してつくつております。それが入ります。しかしこれはほんのわずかなものであります。こういうような状況になつております。それからやしの実あたりは目の前に幾らでもありますけれども、これも食べられません。古いのが落ちておつたのを拾つて食べて処罰されたというような者もおります。それから魚はもう至るところにたくさんおりますけれども、これも二週間に一回、日曜日に三十名くらいの者が出て網引きをいたしますが、その網も手製のもので魚はとれません。それでマヌスにおる者どもはやしをとつたり魚を食つたりというような内地の方のお話も聞きましたけれども、そういうものは口には入らないのが現状であります。
 健康状態は逐次悪くなりつつあります。これは前に述べました食糧事情と労務の関係とに大きな関連を持つておると思いますが、現在約三十名くらいの患者がおります。その中で私どもが一番懸念いたしますのは呼吸器患者が漸次ふえておること、ことに昨年の下半期からずつと呼吸器患者がふえたことであります。その数は、今度私どもと一緒に帰りました者が二名おります。これは重態であります。咯血もいたしますし、それから一人は腸結核とか喉頭結核でもつて、相当のひどい者だけが二名帰りまして、あと二名まだ別の部屋へ隔離されております。それからそのほか十二名血痰が出たり微熱が出たりいたしまして、症状明瞭の者がおります、なおはつきり症状は出ておりませんけれども、本人が悪いと訴らておる者が相当あります。これがマヌスの者の健康状態をはかりますバロメーターだと私は存じております。将来なおこれがふえる傾向があるように観察いたしております。そのほか腎臓結石も非常に大きいのがあつて、そして手術が困難で、いつかやつてもらうために輸血まですつかり準備いたしまして、そうして濠州側の病院に行きましたところが、麻酔がうまく行きませそのでやめております。その後本人はもう濠州では手術をしてもらわないということでもつて痛みながら現在まで耐えております。そのほかに尿道狭窄でもつて非常に苦しんでおる者があり、紫斑病でもつて薬がなくてうちから送つてもらうが薬は渡されないで困つておるというような者も相当の数があります。一般的に見ましたところの健康状態は、昔に比べますと非常に気力が衰えたことでもつてわかると思います。向うの方にも慰問品をいただきまして運動道具があります。昔は日曜あたりは野球もやつておりましたが、現在は野球なんかやる人はほとんどありません。それからバレー・ボールについても日曜の日等やつておりましたが、だんだんそれが少くなり、ことに青年あたりは一時非常に研究心が旺盛でありまして、英語の研究や数学の研究を夜照明燈の明りのもとでやつておりましたが、最近さつぱりそういうものがなくなつてしまつておるのであります。というようなことは体力、気力が一般的に衰えておる証左だと私は見ております。
 それから死亡者のことでありますが、病気で死にましたのが二名おります。それから自決をされました者で、ニユーギニア方面の最高司令官でありました安達元中将は、部下の裁判を全部片づけまして、そうしてあそこに残つておる者が全部帰されて、これでもつておれはようやく自由の身になつたと申されまして、その後に自決をされました。見事な自決でありました。そのほか部隊長あるいは台湾青年で自決した者も二、三あります。それから労務に服務しておる際に死亡した者、たとえて申しますれば大森林がありまして、樹木伐採に従事しておるときに木の下敷になつて倒れた者が二名、それから深い濠を掘つておりました。それは向うの土人便所をつくるために掘つたのでありますが、ラバウルの付近は火山灰で土がかたくありません。そのために濠の中で生埋めになりまして二人死にました。それから爆彈作業に従事しておりまして、爆彈が破裂したために即死した者が一名、重傷者が数名できました。それからトラックにひかれて死んだ者、こういうようなものがございます。
 就労内容、労務は八時間制になつております。現在マヌスには濠州海軍の基地がありまして、われわれ戰犯者はその海軍の仕事を引受けてやつております。濠州海軍では日本の戰犯を非常に重宝がつております。マヌスでは労働力といたしましては戰犯者のみといつても過言ではありません。これがなかつたならばマヌスの海軍は非常に困る。どうしてもこの戰犯者の労務がほしい、こういう状況で戰犯者の労務に期待しておるところが非常に大きいように見ておりますその仕事の種類といたしましては建築、かまぼこ屋根のまるいやつ、相当大きいものであります。それをこわす、建てる、それから古いものはそれをまた修復する、そういうような作業、それから鉄管をいけるとか、水源地をつくるとか、橋をかけるとか、棧橋を直すとかいう土工作業、それから今のような棧橋の作業だとか、重油タンクの作業だとか、いわゆる重労働が要求されております。その労務の場所には銃剣を持ちました土人兵――ポリス・マンといつておりますが、土人兵と、それから海軍の下士官、看守です。これが一名、土人兵の方は数名、それが常に監視をいたしまして、いわゆる銃創の強圧のもとに毎日作業をいたしております。危險性は、現在大けがをした者はありませんが、重傷を負つて不具癈疾等になつた者も相当あります。相当な危險のある作業に服務しております。それからこの労働問題で患者がやはり労務に使われております。向うにおります患者はノー・デユーテイーとライト・ワークの二つにわけております。ノー・デユーテイーの方はまつたく休養であります。これは作業には服務しません。ところがライト・ワークと申しますのは軽作業に服務することになつております。この軽作業の中にさきに申し上げました微熱が出る、あるいはときに血痰の出るような呼吸器患者が使われております。それから松葉杖をついて歩かねばならないような者でもやはりこの軽作業に従事しております。そういうふうで患者が軽作業労務に服しておりますが、軽作業と言葉で申しましてもむろん楽な場所もあります。けれども草刈り等を命ぜられます場合においては、これはまつたくの重作業とかおりません。炎天下におきまして終日草を刈るということは相当きつい仕事のように思います。そういうような仕事もあります。それから作業にあまり年齢を顧慮しておらない。六十歳以上を越えても若い者と同じように終日働いておるというような方もございます。
 それからここで特に申し上げたいと思いますのは、裁判を受けた者の大部分は、判決でもつて禁錮刑になつております。第二審におきましてもやはり禁錮刑というものが大部分であります。しかしながら刑の執行におきましては、今申し上げましたように、全員が重労務に服務しております。これは判決と刑の執行とが違つておりますので、私は違法のように思つております。こういうようなことをやつております。しかしソビエトのようにノルマとかいうようなものはございません。ただ休んでおるとやつて来て早くやれ、こう督促されまして何とかして所望の能率を上げたいとあせつておる傾向は見えます。それがためにあすこに海軍の大佐がおりまして、大佐自身が作業場に乗り出して督励し、その監視の下士官に対して一日にどのくらい作業をやるか、その記録をとれとか、あるいはある場所でもつて非常によくやつておると、もうここは非常によくやつておるというのでもつて、クリスマスの翌日も一日よけい休ましてやるというふうでいわゆる奨励の方法をとつたりしております。こういうところから見ると何とかして能率を上げたいという希望が相当濃厚に見受けられます。休養でありますが、日曜は休んでおります。しかしさきに申し上げましたように、日曜の日は何とかして私どもの体力を維持し、栄養を良好にしたいということでもつて、この日曜の貴重な時間をさいて三十名前後の者が魚とりに従事いたします。その時間が約二時間と制限されておりまして、しかもその網が、防蚊網という蚊を防ぐ網でございます。そういうものを継ぎ合せてつくつた網で、――もつともそうでない網もありますが、そういうものでとりますために、目の前に相当の魚がおりましてもなかなかとれません。とつて帰りますのは小指くらいのざこでありまして、そういうものを若干とつて帰るというような状態であります。日曜の日は、――内地でも同じでありますが、とにかく私どもにとりましては天国でありまして、この日は監視も何もおりませんで、ほんとうに楽しい日であります。
 それから受刑者の希望事項であります。希望事項は若干ないではありませんが、私は、いや戰犯者一同は、第一にも内地に帰していただきたい、第二にもやはり帰していただきたい、第三にも第四にもとにかく帰していただきたい。これが私どもの希望の全部であります。もうこれさえできたならばほかに何も望むところはございません。
 それから死刑受刑者の遺骨はどうなつたかということでありますが、ラバウルで死刑を執行された者が九十六名おります。それからマヌスで死刑の執行された者が五名であります。その遺骨は――もしここに遺家族のお方がおられましたならばまことに申し上げにくいことでありまするけれども、死刑を執行したならば、それをトラックに積みまして、あそこにハナブキ山という火山がございますが、そのふもとに死刑者を埋葬する場所がありまして、そこに埋葬してあります。墓標はありません。どなたの遺骨か今はおそらくわからないようになつておると思います。しかし、事故とか病気でなくならつれた者の墓標は立つております。それからお墓参りですが、盆とかあるいは特に何か機会がありましたならば、ラバウル時代は墓掃除にやつてもらいまして、そして花を供えるというようなことをやつておりましたが、私どもがたちました後の墓地はどうなつておるか見当はつきません。おそらく草深い中に埋もれてあることと推察いたします。それからマヌスで処刑された者は五名でありますが、これは水葬いたしました。私はこの水葬はどういう意味でやつたか不可解に思つております。ちようど執行される日はひどい雨でありりまして、陸上に埋葬することは多少の困難はありましたかしりませんけれども、できないということはなかつたと思います。陸で処刑した者を水葬したというような状態になつております。
 受刑者に対する今後の見通しでありますが、向うの方では午後七時から内地のニュースを十五分間聞きます。これが唯一の楽しみであり、また私どもが内地の情勢及び国際情勢を知る方法であります。これにはすべての者が神経を打込んで一言も聞きのがすまいと思つておりますが、何分にも、距離が遠い関係でほとんど聞けない晩があります。ことに雑音が多くて聞きとれない日が二晩、三晩と続きますと非常にがつかりいたします。そういう関係で、せつかくのニュースも毎日続けて聞けないというような状態であります。それから新聞、雑誌、そういうものは二箇月ないし三箇月、おそい場合には半年も遅れて着きます。それで、新聞あたりは非常に読みたいと思いますけれども、遅れて着きますので、前に聞きましたニュースと照し合せて、ああそういうことがあつたかというような状態であります。こういうために、あそこにおります者はほんとうに内地の状況も国際情勢もはつきりわかりません。まして濠州関係等は、なるべく知らすまいと思つて向うが気をつけておりますのでわかりません。英語の本は一切読むことはならないことになつております。英書は禁ぜられております。そういうふうで、まあときどきどこかのごみ捨て場に行つて新聞のはし切れを拾つて帰る、それを大事に翻訳してみる、そういうようなことで濠州関係あたりを多少何とかして知りたいと努めておりますが、結局はよくわかりません。ただ私が帰りますときに、監獄の看視をいたしております下士官が次のようなことを申しておりました。さきにこれは今村元大将に対して言つたことでありますが、この前、戰犯者は四月に帰ると言つたけれども……。これはちよつと速記をやめさせてください。
○佐瀬委員長 速記をとめてください。
    〔速記中止〕
○佐瀬委員長 速記を始めてください。
○菊池参考人 以上で私の申し上げることは終りでございます。
○佐瀬委員長 ただいま参考人の述べた言葉の中に、判決文は禁錮刑であるけれども、刑務所においてそれを執行する場合は労役刑である、従つて違法ではないかというようなお言葉がありましたが、なお他方、マヌスの経済が日本戰犯者の労務、技術に依存することが多大であるというようなことも述べられたようであります。これを相総合して判断すると、何か禁錮刑の人に対して、志願をさせて労務に服させるという制度をとつておるのではないかと想像されるのでありますが、その点はいかがですか。
○菊池参考人 それはまつたくございません。志願どころじやない、皆なるべく休みたいと思つておりますが、強制されておるようであります。
○佐瀬委員長 よくわかりました。
 以上をもつて、フイリピン及び濠州地方における日本戰犯者の受刑状態一般は明らかにされたわけであります。
 これに対して、本委員会の各委員から質疑の通告がありますから、順次これを許します。ただ一言申し上げておきたいのは、両参考人は一時から参議院に出ることになつておりまして、時間がはなはだ乏しいので、各委員は簡潔に御質疑を願いたいと思います。世耕弘一君。
○世耕委員 簡單にお尋ねいたしますが、まず菊池さんにお尋ねいたします。
 死刑の宣告を受けた理由、それからさらに減刑された理由はどこにあるかということと、もう一つは濠州の宗教は、死刑とどういう関係を持つておるか、御存じだつたら、それを承りたいと思います。
○菊池参考人 何ゆえ私が死刑から減刑されたかということについては、私自身もはつきりわかりません。が、私の死刑につきましては、ラバウルにカトリツクの大僧正がおりまして、その大僧正が私のために助命の嘆願書を濠州政庁に出してくれました。それは濠州の係の役人から、特に私にこういう嘆願書が出ておる、これを今から濠州政庁にすぐ送るんだという通知を私は受けました。そういうことが相当あずかつたのではないかと想像いたしております。
○世耕委員 黒田さんにお尋ねいたしますが、黒田さんもやや同じような状況に置かれておつたのではないかと思うのですが、いかがでありますか、その点は。
○黒田参考人 私も大赦になつた理由は、明瞭には大統領から聞かない。
○世耕委員 大赦になつた理由は今承つてわかつりました。
 そこでお尋ねいたしたいのは、旧教問題から説きますと、死刑ということは、あの宗教では認められないように考えられる。またそういう極刑は、あの宗教のほんとうの目的ではないと思う。ところが旧教の最も盛んなフイリピンにおいて、死刑囚ですでに執行された岩が十四名ないし十七名あるというのは、何かそこに割切れないものがあつた結果ではなかつたかということが、疑問の一つになるわけであります。
 もう一つは、死刑を受けた人に対しては、あるいは礼を失するかもわかりませんが、話の順序を明らかにする意味においてお尋ねいたします。
 黒田さんは、大きな責任を帯びてフイリピンにおられた方ですから、本来ならば死刑執行されなければならぬ立場におつた人であろうと私は思う。そのあなたが減刑釈放されて日本に帰られるのに、なぜ山下大将は死刑を食つたのでしようか。ある一面からいうと、山下大将は山に逃げて生きておつて、また出て来るといううわさすら出ておるのですが、もしさようなことがあれば非常にけつこうだと思います。この点なぜさようなことを私がお尋ねするかということを一言つけ加えて申しますと、もし乃木大将のような名将軍がフイリピンの将軍にあつたとしたならば、あの戰犯に死刑を宣告をするでしようか、東郷元帥のような名提督がいたなれば、はたして多数の死刑囚が現われたであろうかということを考えてみたい。日露戰争当時のステツセル将軍を遇したときの乃木大将の態度、われわれはその時分の写真を見ましたが、いかにも武将らしい態度である。いわゆる軍人のエチケツトと申しますか、戰争道徳と申しますか、非常にりつぱな態度として、敵味方ともに賞讚されたのである。はたしてわが日本軍の中にそういう点で遺憾な点がなかつたかということをわれわれは反省して見なければならないと思うのですが、その点はいかがでございますか。これは言いにくいところもあるかもしれませんが、将来の日本のあり方として、悪いことは率直にここが悪かつた、ここは向うが無理をしておる、こういうところを明らかにする必要が今日あるのではないか。ただあなたを引合いに出すことは適当でないかとも思いますが、こういう機会ですから、むしろ公の立場で御批判を願えれば非常にけつこうだと思います。
○黒田参考人 ただいまの旧教と死刑ということについては、私はそれまで深くは研究しておりません。ケソン大統領のときも、むろん死刑という刑はあつたのです。但しそれは旧教ではなくして、ケソン大統領個人の意見で死刑の執行はしなかつたのだそうであります。今の大統領がケソン大統領と同じ意見では必ずしもないということは、日本の戰犯ばかりでなく、フイリピンの戰犯者もせんだつてからぼちぼちやられておることをもつてもわかります。そこでフイリピン人の一部には、前にはこういう刑はなかつたのに今こういう刑があるのは、はなはだ遺憾であるという意見の人もあるようであります。旧教そのものに死刑を否認する教えがあるということは私は知りません。
 それから山下氏と私の刑との比較ということについては、ここで論ずる限りでありません。刑は裁判官がきめる問題であつて、私たちは何もそれについて言うことはできないのであります。ただ、指揮官責任という問題は、よくお考えをいただきたいと思う。指揮官責任についての刑罰、これはアメリカ自身ですでに相当問題になつておる。直接手を下し、もしくは命令をしたということであれば明らかであります。命令も何もしないが、部下の者が知らないうちにやつてしまつたということに対する刑法上のいわゆる指揮官責任ということについては、アメリカ自身すでに相当問題になつている。私はそのことについては何も意見は申し上げられません。
○世耕委員 こういう実例があるのです。そういうことをお尋ねする理由の一つとして申し上げたい。実は私の知り合いの者が北満に行つて、終戰後非常に早く帰つて来た。それはどういう理由であつたかというと、兵隊ですが、残飯を支那の子供がもらいに来る。兵舎の近くに残飯をもらいに来る人に兵隊はおもしろがつて水をぶつかける。そうすると逃げて行く。それを遠くの方で親が見ておる。ところがある将校がその様子を見て兵隊をたしなめて、そういうことを目撃すると同時に自分は隠れて行つて自分の弁当をわけてその子供に與えた。それを遠くの方で親が見ておつたようでありますが、たまたま日本が敗戰して引揚げなくてはならぬという混乱の状態に来たときに、その将校を突然夜たずねて来て、あなたこそわれわれの信ずる日本人であり、朋友である、今こそ恩返ししなくてはならぬというので、危險なところをずいぶん援護してくれて、早く日本に帰還できたという実例があるのです。だから罪の一端は、日本がある程度罪悪を犯しているのじやないかということを今後われわれは反省しなければならぬ。同時に勝つた勢いをもつて弱い者いじめはいけないということも、人道上世界に向つて叫ばなくてはならぬと思う。この意味でこの際あからさまにお尋ねいたしたようなわけでありますから、この点はよく御了解を願つておきたいと思います。
 それから食糧事情のことについてお話があつたのでありますが、フイリピン並びに濠州の一般民衆の食糧事情が悪いから、自然あなた方の食糧事情が悪くなつたのじやないかということも一面考えて見なくてはならぬが、そういう点はあなた方の周囲で関知することができなかつたかどうか、その点はいかがでございますか。
○佐瀬委員長 ちよつと速記をやめ……。
    〔速記中止〕
○佐瀬委員長 速記を始めて……。世耕君、時間がありませんから、なるべく簡潔に願います。
○世耕委員 黒田さんは非常に発言を御遠慮なさつていらつしやるようだが、ここの議会は結局世界に通ずる。われわれは言いたいことを言うて世界に寄與することは大いに寄與しなくてはならぬ。世界が人類に誤つた行動があれば是正するのがわれわれの義務だと思う。同時にまたわれわれといえども、自分らは不利益であるけれども、誤つていることは是正するのが今日の民主主義の政治でなくてはならぬ。この意味において率直なことを言つていただきたい。それは決してあなたの責任ではない。この議会で委員から追究を受けたから自分があたかも裁判廷において神に誓つて証言するがごとき気持で、神の命によつて言うというようなきれいな気持で言うていただけば、速記をとめなくてもいいと思う。名委員長がそばについているのだから、外交上これは言うてはならぬというときには、また相談なさるとして、御遠慮なく言うていただきたい。またそうあるべきで、そうでなく、新聞記事になつてしまつたら、この委員会というものは権威のないものになりますから、この点はひとつ十分お考えおきを願いたい。
 もう一つお尋ねします。時間がないと催促されたがら簡單にいたしますが、裁判の形式に二つある。それはわれわれの認める文化的な裁判と、それから人民的な裁判というものがある。人民的な裁判は往々にして有罪にあらざる人を極刑に処する場合がある。先ほどあなたがおつしやられたように、ずらつと並ばしておいて、一人々々これだろうあれだろうとやる、それが死刑の目標になつたり、重罪の目標になるというようなのは人民裁判と言わなくてはならぬ。ほんとうに人命が尊いという宗教的見地からの裁判であつたならば、さような軽率な処置が、いかに忙しいときといえどもやらるべきものじやない。もしこれまでさようなことがあつたとするならば、われわれは文明のために強く世界に叫ばなくてはならぬ。これは敗戰国民の一人として言うべきではなく、今後の人類文化のために、そういう事実があれば天下に明らかにすべきであろう。かように考えるのですが、その点についてあなたから答弁を求めるということは無理かもしれぬが、御所感があれば承りたい。
 もう一つは、菊池さんもむろん軍人としてりつぱな御態度をなさつた結果、カソリツクの大僧正の理解ある助命運動によつて今日無事御生還なさつたことは、私どもまことにうれしい。この菊池さんのように、無事御生遠くださるような方が続々と出ることを私は望みたい、この意味において今後宗教家の活動をあなた方必要と思いませんか。私は必要と感じたから実は言うのですが、いろいろの交渉になると角が立つが、お互いに宗教心を持つて今後フイリピンなり濠州の宗教家に頼んで、その手筋から運動を展開して、一にも二にも帰還を望まれる方々の無事帰還をお願いするということも、われわれとして一つの力じやないか、こう考えるのですが、御体験の深いあなた方御両氏から特に御所感を承われれば、それによつてあらためてわれわれは政府に要求してもよいと思うのであるが、この点はいかかですか。
○黒田参考人 悪いことがあつたらどんどんこれを直す、あるいは罰するということについては私は御同感であります。その点において戰犯裁判というものが勝つた者だけが負けた者を裁くということは、これはいかぬ。私はこつちに来るすぐ前に、そこの刑務所長が持つている本――表題は忘れましたが、フイリピン人のガランという人が書いた本を読んだ。ちようど私がフイリピンの軍司令官をしている時分に、アメリカからフイリピンに渡つて来ていろいろの牒報をマツカーサーに出しておつた。牒報を出すのはむろんかつてだが、そうして日本軍をつかまえていた。そしてうまくつかまえたやつはやはりばつさりやつたということをその先生が書いている。そういう事件がやはりある。ただ勝つたから裁判をしなかつたというだけなのです。そこにおいてわれわれが自責の念にかられて悪いことを愼むということは絶対に必要なことです。しかし悪いことは勝とうが負けようが平等に罰するということに私はしてもらいたいと思う。
 それから宗教運動とかいうようなことは、私はしろうとでむろんわかりませんが、もちろん非常にやるべきことであつて、大事なことだと私は思います。また現に宗教家、ことにアメリカの宗教関係者が日本の戰犯者に対してどのくらいフィリピンで盡してもらつているか、ことに大統領に対する嘆願書でも何でも実に熱心にやつてもらつておつた。そういう点は直接われわれは同胞に対する働きかけとして、実は私はありがたく思つておる次第であります。その点はここに御報告かたがた働いてくれている方々に私はお礼を申し上げたいと思います。
○世耕委員 最後に一点申し上げて私の質問をやめにいたしますが、アメリカの宗教関係の方々が人道的に御活躍くだすつておられるということに対しては、われわれはあらためて感謝いたしたいと思います。
 なおこの上ともの御努力を拂われたいと思う次第でありますが、最後に一点、これはあるいは私の答弁の限りではないとおつしやるかもわからないが、大統領その他にも御関係の深かつた黒田さんのことだからお尋ねするのですが、日本の今後の外交交渉によつて、さらに戰犯その他の方々が減刑されて、生還するというような何かそういう見込みはいかがでございますか、そういうことがぜひ必要であろうと同時に、何かそれについてお知恵を拝借することはありませんか。
○黒田参考人 私は個人の立場から言えば、今のキリノ大統領は一面識もない人であります。戰時中は全然知りませんでした。それからそのほか将来どういうぐあいにしていいかということは、私としてもまだ何もまとまつた意見はございません。ただ何でもいい。いいことならひとつ私らできる限り皆さんの手下になつて働きたいという念願だけであります。
○加藤(充)委員 フイリピンの対日感情の推移の御説明を聞きましたし、また濠州マヌス島関係の残留地の戰犯の方々の嘆願書の一文によりますれば、濠州の輿論が不良のために、戰犯者の内還は不能であるということは、去年ですか十月濠州総督が来た際の言葉であつて、希望は次々に裏切られて、現在においては最後の一縷の望みさえ絶たれんとしております。こういう文書で拝見了察できるのでありますが、この根本原因というものは、一体どういうものか。軍人どもが侵略して行きまして、ずいぶん野蕃なことをやつたことはわかりますが、軍人の單なる戰闘行為から来る目くそ鼻くそ的の恨みというよりも、その後日本における政治の動向というようなものに対して、フイリピンないしは濠州あたりで多大の関心を沸い、そのことによる輿論の悪化といいますか、それが積り積つて戰犯軍人の処刑ないし内地送還ということにも影響しておるのではないかと思われます。先般イギリス議会下院において、対日講和條約の批准問題がありまして、論争されました結果が、賛成が三百八十二、不賛成が三十三、そして二百人という多数の棄権があつたのであります。AFPの電報などによりまして、ベヴアン議員、シルヴアーマン議員、あるいはスタンスゲート議員というような人々が、この対日講和の問題に対する適切というよりも激烈な言葉で批判を加えて反対をしておるのであります。その一節の中には濠州やまたニユージーランドは非常に日本の再軍備、これが対日講和によつて全面的に合法化されて行くというような気持があつて、それがいわゆる太平洋集団安全保障というようなことになつて、逆手に日本の再武装ということに、従つて再侵略、それに対する非常に強い恐怖が逆手に集団安全保障という形で、イギリス本国の防衛にたよれないという気持になつて、結局それはイギリスの方針と離れて、アメリカの対日政策に同調して行つてしまう。集団安全保障條約というダレスの考え方によつて、イギリスはニユージーランドやオーストラリヤを失つたというようなこと、遂にインドも離れて、ここに歴史以来イギリス本国との政策の一致を見ないということになつてしまつたというような、まことにイギリスを本位にした考え方でありましようが、そういう反対の意見を述べているようであります。この点でお尋ねいたしたいと思うのですが、單に軍人が虐殺その他野蕃行為をやつたというだけではなしに、敗戰後とりわけこのたびあたりの対日講和の問題などで、濠州ないしはフイリピンあたりの輿論が悪化したというようなことはないか。特にナシヨナリストの選挙に勝つたということが、單に選挙の手続や選挙のやり方のいかんにかかわらず、もつと基本的なところに大きな原因はないだろうか、こういうことをひとつお伺いしたいと思います。
○黒田参考人 今のお尋ねに対して、私はフイリピンに関する範囲においては、国際的とかいろいろな意味よりも、戰時中における、私が一番最初から申しましたが、向うのデモクラシー思想に対する日本の反デモクラシー思想という大きな相対した思想の持ち主が両方対した。また米国に戰争をしかけた人間だというので、敗戰からずつといろいろな衝突があつたということは、比島人の日本人に対する悪感情の最大原因じやないか、比島に関してだけは、私はそういうぐあいに感じております。
○加藤(充)委員 時間がありませんから一点だけにとどめますが、私の弟も齢三十になつたときに、通信兵の一兵士として二度目の召集を受けまして、レイテ作戰かどこかで行方不明の戰死をしてしまつたので、黒田さんにお尋ねしたいのですが、これは前の同僚委員の質問の中にもあつたと思いますが、たとえば七千人のフイリピンの服役者の中で、比島におきましては百五十名ほどの日本戰犯が収容されておつて、えらい難儀だというお話をされましたが、私はこの御発言を黒田さんがしかも高級の軍人として、いろいろ責任の問い方の法律的な技術的な問題は預かりにいたしましても、幾多の戰犯を残してこちらに帰られた。そうして先ほど引用されましたような御発言があつたわけでありますが、日本の戰争中あるいは戰争前の数箇年というものは、日本においてもこういうぶざまな結果になる。しかもだれも喜ばないような祖国と日本の国民の大多数に対して、残虐なしかも屈辱的な結果になる戰争に反対した者、あるいはそういうイデオロギーを離れましても、戰争はかなわぬという気持で戰争に協力しなかつた者、こういう者が多数憲兵隊あるいは思想特高警察というようなものでたくさんの者が投獄されたのであります。その数は昭和八年だけでも決して百五十名とかというものに盡きることなく、一万数千名に上るのであります。その中にはひどいものになりますと、一人の哲学者でありますけれども、それは唯物論を書いたとかというような事柄でずいぶんひどい虐待を受けて、そのために疥癬の病気になり、結局栄養失調で、日本人が日本の獄中で、豚箱で殺されて行つたという事実があるのであります。そういう点で、七千人のフイリピン一般人の投獄者の中に百五十名の日本人戰犯が留置されて、ひどい目にあつたということと関一達して、軍の、特にフイリピン方面においては最高級の幹部軍人であられたあなたが今の発言をする心底に、日本にこういうような戰争の犠牲者が、日本人でありながら日本人によつて與えられておつたというような歴史的な事実――昔のことじやありません、ここ十数年をさかのぼつたことをはるかに深く思い、回顧されまして今のような発言があつたのか。まさにそういう深い反省と再出発の点に立つた発言でなければ私は遺憾だと思うのでありますが、その点を最後にお尋ねしたいと思います。
○黒田参考人 私は第一線の都隊長に行つたものでありまして、内地でどういうようなことがあつたか、それは一切わかりませんでした。しかしお伺いすればたいへんどうもお気の毒なことだと思います。それだけであります。
○加藤(充)委員 前線に出て行かれて御存じないと言われればそれまでですが、やはり大きな日本の政治を動かして行くようなかつての軍人であつたのでありますならば、こまかい裏長屋の問題までもというわけに行きませんが、そういうことまでも頭の底に入れておかれたいと思います。日本には、「リメンバー・パールハーバー」という言葉にかえて「リメンバー」あるいは「ドント・フオアゲツト・広島・長崎」という言葉すらがあります。そして原爆の犠牲の子供は「原爆の子」というようなつづり方を書いておりますし、学徒は動員されて南方で死にましたときに「聞けわだつみの声」というような声を残して行つておるのであります。それらの文章はまとまつて二冊ほどの冊子になつておりますから、どうかひとつこれらのことを、内地に帰還された後におきまして十分に吟味されて行つていただきたいことを、最後に強く希望いたしておく次第であります。
○佐瀬委員長 最後に委員長として参考人にごあいさつを申し上げます。各位は長年外地において労苦に耐え、また幸いにしてはるばる今回祖国に帰られたのでありますが、御疲労、御困憊のところ、当委員会のため長時間にわたつて、るる濠州及びフイリピン地方における同胞受刑者の近況について詳細に御報告を願つたことは、当委員会が将来、平和條約第十一條に基いて戰犯受刑者の執行についてよい立法をするために、きわめて重要な参考資料を提供してくださつたことに相なるわけでありまして、この点深く謝意を表する次第であります。
 本日は午後会議を開く予定になつておりますが、暫時休憩いたします。
    午後一時十五分休憩
     ――――◇―――――
    〔休憩後は開会に至らなかつた〕