第023回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第4号
昭和三十年十二月十五日(木曜日)
   午後一時四十三分開議
 出席委員
   委員長 原 健三郎君
   理事 臼井 莊一君 理事 木村 文男君
   理事 中馬 辰猪君 理事 中山 マサ君
   理事 戸叶 里子君
      逢澤  寛君    大橋 忠一君
      高岡 大輔君    田中 龍夫君
      田村  元君    仲川房次郎君
      保科善四郎君    眞崎 勝次君
      眞鍋 儀十君    山下 榮二君
      石野 久男君
 出席政府委員
        厚生事務官
        (引揚援護局
        長)      田邊 繁雄君
 委員外の出席者
        外務事務官
        (アジア局第二
        課長)     小川平四郎君
        厚生事務官
        (引揚援護局総
        務課長)    中村 光三君
        参  考  人
        (ソ連地区引揚
        者)      武藤 秀吉君
        参  考  人
        (ソ連地区引揚
        者)      佐々木正制君
        参  考  人
        (ソ連地区引揚
        者)      若山 祥三君
        参  考  人
        (ソ連地区引揚
        者)      逢坂 和雄君
    ―――――――――――――
十二月十五日
 委員河野正君辞任につき、その補欠として田中
 武夫君が議長の指名で委員に選任された。
同日
 理事田中龍夫君理事辞任につき、その補欠とし
 て木村文男君が理事に当選した。
    ―――――――――――――
十二月十四日
 在外未帰還同胞の帰還促進等に関する請願(井
 出一太郎君紹介)(第三八七号)
の審査を本委員会に付託された。
同月十三日
 在外未帰還同胞の帰還促進に関する陳情書外一
 件(東京都議会議長四宮久吉外一名)(第一七
 〇号)
 ソ連未帰還同胞の帰還促進に関する陳情書(東
 京都議会議長四宮久吉)(第一七一号)
 遺家族の援護強化に関する陳情書(旭川市六条
 通十丁目右一号北海道連合遺族会長国崎登)(
 第一八四号)
を本委員会に参考送付された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 理事の互選
 閉会中審査に関する件
 委員派遣に関する件
 参考人出頭に関する件
 派遣委員より報告聴取に関する件
 ソ連地区残留同胞引揚に関する件
    ―――――――――――――
○原委員長 これより会議を開きます。
 この際、理事辞任の件についてお諮りいたします。理事田中龍夫君より、理事を辞任いたしたい旨の申し出があります。これを許可するに御異議ありませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○原委員長 御異議なきものと認め、辞任を許可するに決しました。
 引き続き理事の補欠選任をいたしたいと存じますが、先例によりまして、選挙の手続を省略して、委員長において指名するに御異議ありませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○原委員長 御異議なきものと認め、木村文男君を理事に指名いたします。
    ―――――――――――――
○原委員長 本日は、海外同胞引揚に関する件について議事を進めますが、その前に、お諮りいたします。本件に関しまして、去る十一日帰国いたしました第五次ソ連地区帰還者の、武藤秀吉君、逢坂和雄君、若山祥三君及び佐々木正制君を、本委員会の参考人として、残留者の状況及び引き揚げの実情等を聴取いたしたいと思いますが、御異議はありませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○原委員長 御異議なきものと認め、さよう決定いたします。
    ―――――――――――――
○原委員長 参考人より事情を聴取する前に、過日ソ連地区引揚者の引き揚げ状況及び受け入れ援護状況調査のため舞鶴に派遣いたしました委員より、その調査報告を求めることといたします。大橋忠一君。
○大橋(忠)委員 武藤団長ほかここに来ておられますので、きわめて簡単に報告いたします。
 衆議院から参りました議員は、受田君と田村君、私の三人でありましたが、今度はすべてが非常に順序よく取り運ばれました。埠頭において、型のごとく引揚者の上陸されるのをお迎えいたしました。また上陸後も引揚者の方に面接して、いろいろ事情を聴取することができました。また援護局の内部の施設も詳しく見て参りました。私は非常に成功であったと思います。引揚者の方にも、われわれの行ったことを喜んでいただいたと私は確信しております。非常に病人が多く、四十三名のうち十三名の病人が埠頭に上陸されましたときは、全く痛々しい姿でありまして、われわれも胸が迫って、実は涙が出たのでございます。非常に中風の患者が多い。これは多分野菜不足から来る現象ではないか。現にソ連におられる方の中にも、これがためになくなった方もあり、また現に寝ておられる方もある。これはわが邦人のみならず、ロシヤ人の間にも中風が多い。一つの風土病のようなものらしいのであります。お医者さんもその原因がはっきりつかめない。まことにこれは痛々しいことだと私は感じました。それからまた向うにおられる時代のことをいろいろ拝聴してみますと、今度の引揚者の大部分の方は、つまり十年の服役期間を終えてこられた方が多いと私は了解いたしますが、その判決のごときも、ソ連の刑法の五十八条というものによって判決を受けた。ところが刑法五十八条の中には、あらゆる場合が戦犯として規定されておりまして、いわゆるポツダム宣言にいうところの平和に対する罪とか、人道に対する罪などというものとは全然別個に、ソ連で勝手にあらゆるケースを予想して、処罰し得ることになっておる。従って、ソ連がこっちへ侵入し、こっちが侵入したのではないけれども、たとえば資本主義に協力する者もやはり罰せられる、協和会に勤めておるような者も罰せられる、あるいは向うのスパイを妨害したというような者でも罰せられる。しかもその裁判もきわめて簡単なものでございまして、五分くらいで済んでしまうようなケースがある。従って、弁護士もつかなければ、抗弁の余地もないという、きわめて一方的、独断的の判決であるということがわかったのであります。また向うで拘置中における食事というものが非常に粗末でありまして、私は抑留者の方が一日も早く帰してあげないことにはいかぬということを強く感じました。しかしながら、それにもかかわらず、ハバロフスクにおられる方々の大部分の方は、われわれのために国家の大本を誤まってはいけないから、強く対ソ交渉をやってもらいたいという、少数の人を除いては決議をされたという話を私は聞いて、まことに感激をいたしたような次第であります。
 さらに、これは舞鶴の援護局の状態でございまするが、帰ってこられた方々に、いろいろな衣類であるとかその他雑品を差し上げることになっておりますが、その品物がいかにもお粗末なものでありまして、労働着等は、一般市場では売れないような品物が非常に多い。その上に、わずかに一万円だけ小づかいとして与えることになっておることを聞きましたが、われわれ一行が全部意見の一致したところによりますと、すでに十年も長く異境に若しんで、そうして内地の事情もわからない。これが上陸して再び新しい生活を始められるというときに、いかにもこれでは少な過ぎる。品物よりも、むしろお金の方でもう少し増額をされたい。そうして今までの方は非常に少かったが、長く向うにおって、日本の事情にも非常にうとく、遠ざかった方だから、私は増額する理由は十分あると思う。今後は、できるならばこれを五万円程度にまで引き上げて、そうして引揚者のためにしたらどうかということが、田村君も、受田君も私も全部一致の意見であったような次第であります。
 その他申せばいろいろありますけれども、代表者が来ておられますから、この辺で私の報告を打ち切りたいと思います。
○原委員長 これにて派遣委員の報告聴取は終りました。
    ―――――――――――――
○原委員長 それでは、これよりソ連地区残留同胞の事情につき、参考人よりその実情を承わることといたします。まず委員長より参考人各位に対し、一言ごあいさつ申し上げます。
 参考人各位には、帰国早々まだお疲れのいえない今日、御多忙中のところ御出席願い、委員長より、この機会に厚く御礼申し上げます。本委員会は、海外に残留されている同胞の引き揚げ問題の早急なる解決のため調査をいたしておりますので、その点をお含み願い、帰還に至るまでの概要並びに現地における同胞の状況等につき、実情をお話下さるようお願い申し上げます。
 では、初めに武藤秀吉君よりお願いいたします。
○武藤参考人 全般のことについて、私から御報告申し上げます。
 ただいま大橋委員から御報告がありましたのでおわかりでありましょうが、四五年組のいわゆる戦犯が今度帰って参りました。それから四五年組で、刑の重い者は、刑が明けると同時に逐次帰って参ります。しかしながら、そのほかに、御承知と思いますが、民主運動を契機として起りました政策的な裁判、この大部分が二五年で、これが残っております。その二色に分れております。私らのごとく、彼らが戦犯としてねらった――その内容は申しませんが、そのほかにわれわれを人じちにしようと思って、四八、九年ごろから検挙にかかりました戦犯が現在大部分であります。それからなお、そのほかのことは省略させていただきます。
 現在残っておる在ソ同胞が熱烈に皆様にお伝えを願いたいということは、ただいま大橋委員のおっしゃいました通りでありますが、もしこの帰還が長くなる場合には、まず重病人、老人、それから若い、まだほんとうの未成年者にひとしい者で、長い刑を受けた者がまだ残っておりますが、それを返していただきたい。その次には兵、下士の順序によっていただきたい。兵なり下士官というものは、自分の任務を実行しただけであって、決して彼が政策的な何ものも持っていたわけではない。それで、それに応じて、その点だけをよくなにして、そういう順序にお引き取りを願いたい。もし人間が制限される場合には、そうお引き取りを願いたい。
 それからなお大橋委員から御報告がありましたように、現在病人がたくさんあります。その原因は、一にビタミンBの不足だということは、向うの主任軍医の報告で、皆さんに申し上げてくれという言であります。しかしこれは「わかもと」とかなんとかいうものを薬ということで送ってこられますが、薬品という名前がつけば、一切手に入りません。みな小包から取り上げられます。それでそのほかの方法で送っていただきたい。あるいは日赤の手を経、外交関係、厚生省筆の手を経まして、そうして政府から政府に渡して、国に入るようにしていただきたい。この点につきましては、昨日厚生大臣並びに厚生次官の前でるる述べましてお願いを申し上げておきました。
 次に小包のことであります。現在一番働き盛りの人間が残っておるのであります。留守家族は働く人間を失っております。働き手がないのであります。金のもうけようがありません。それに各家庭によって貧富の差があります。そこでその貧富の差によって、各人が個人的に出すということは無理であります。私らのところにですら、金持ちと貧乏人とは送り方が違います。全く受け取らない者もあります。それなのに、ほかの者はたくさん受け取る。そういうので、かくのごとき国家の犠牲になった人間に対しては、むしろ国家の力をもって御援護を願いたい。これはドイツの例でありますが、ドイツは全力を上げて送ってこられます。これはあとから述べます。それでこの慰問品の内容につきましては、ぜいたく品はいらない。要するにわれわれ戦犯を、生きた廃人として、生命だけを引き取っていただくのではなくて、日本に帰って実際に日本の再建に尽し得るからだとして引き取っていただきたい。それがためには、現在かの地におきましては、もう十年たっております。だんだん労働能力が減っております。そうすると、収入が少い。自分で、自弁で自分のからだを養うということは不可能であります。来年の春早々に片づかなければ、これは精神的な影響もありまして、おそらくわれわれ囚人のふところに入る金は皆無になるだろう。そうすると何しろ四百六十五円というものが天引きされ、その残りの三〇%をまた天引きされて、その残りがふところに入る。だからその程度以上にならなければ、一文ももらえません。それでは困りますので、何とぞ内容品を、そういう意味において厳選せられまして、カロリー源を小包でやる。そうして帰って役立つ人間を帰してやるという工合にぜひお願いしたい。これが向うにおります人間の熱烈なる希望であります。
 ところで、向うにおります場所は、イワノボ、それから日本人ラーゲルがたくさんありますハバロフスクを中心とした日本人ラーゲル、そのほかに全く露人と一緒に露国の囚人ラーゲルにおるのもある。また十年二十年の重禁錮に処せられて、二十年も同じところにすわって、そうして何にも働かずに謹慎しておるのがあります。そういう四つの区分に分けられております。私は一番初めからカラカンダの地区の囚人ラーゲルにおりましたが、五十年からハバロフスクに参りまして、そこに二年ばかりおりました。年号は向うで西暦を使いつけておりますので、お許しを願いたいと思います。五十三年の秋になりまして、イワノボの将官ラーゲルに収容されたのであります。そうしてことし刑があけるというので、九月の十日にあちらを立って参りました。それで、私はほかの事情は詳しく存じませんし、御報告申し上げる材料を持ちません。ただイワノボの状況だけは十分承知しておりますから、その点について御報告させていただきます。
 イワノボには、日赤の方がいらっしゃいました。その次に、昨年、西村直己さん一行の代議士の方の御訪問を受けました。その次に、ことしの六月一日に、南原さんと武藤さんのお二人の御訪問を受けました。それから今度は全国会代表の方々がおいでになりました。四回受けております。それでは何ゆえにあそこだけを見せるかということは、さきの視察団の方々の御報告がありまして、御報告をされておるので御承知と思いますが、その点は若干違っておるのではないかと思います。それは、鉄のカーテンがない、取りはずされたというのが、われわれの考えでは、あれは鉄のカーテンが少し厚くなって、しかもそれが透かし入りになったカーテンではないか、こう考えております。そういう状態でありますから、もう訪ソ議員団の方々はすでに御承知のように、きれいに掃除した、いわゆる玄関から入りまして、座敷に招待をされた。私らは便所のくみ取り口から入りまして、そこで小使いをやって、そうして便所のくみ取り口から帰ってきたのです。それで裏を見ております。表だけを見られて、裏を御承知にならぬということは、全般をなにするものではないと思います。その一つとしましては、私がおりますとき、日赤からおいでになりましたことは新聞で拝見しております。ところがいつ来られるのかわからない。高良女史が来られたときには見せなかった、合わせなかった。それでおそらく今度も会わせないだろうと思っておったのです。ところがその月の初めになってから今まで窓にカーテンがありません。テーブル、これは兵隊と同じテーブルですが、それに破れた敷布をかけてあったのであります。それでカーテンをかけまして、そうしてだれがくるのだと聞いても、向うは一言も言いません。顔を見て初めてわかる、それまでに、部屋がきたないとか言います。そうしてその日、ちょうど日赤の方がおいでになったときは、零下二十九度であります。そうして食事は朝はスープとカーシャ――カーシャというのは日本の米でございます。それから昼はスープとパンであります。晩はそのほかに若干のものがつきます。米とスープであります。それにお菜がつきます。午前は、料理の都合によりまして塩辛い魚の一切れがつくことがありますが、それが主なんであります。ところがその日に限りまして、前の日に、朝、米を渡しせまん。そうして話を聞くと、都合があるから渡さないのだというので、パンを渡された。そうして、仕方がないからこれで朝食を済ました。ところがそれが済むと、米を配給されました。そうして皆さんがお見えになったときに、炊事で米をたいておる現状を見せた。それから味つけは何ですか、これは塩ですというのです。ほとんどが塩味です。そして給与の質と量からいいますと、おそらくロシヤ人からいえば満足する量であります。それから医学的、栄養学的にいえば、カロリーをはかれば、おそらく三千カロリーはあるでしょう。しかし魚も肉も野菜もすべて塩づけであります。これは収穫期の若干の間はなま野菜を食べられますけれども、あとは食べられません。それで塩づけにする。これはラーゲルだけではありません。ロシヤ人全般の生活がそうです。何しろ野菜がとれないし、冬は凍ってしまうので、そうして置いておかなければならない。そこで塩づけです。とると同時に、ニンジンでもキャベツでもすべて何トンという大きなたるに塩づけにしてあります。それを一年中の野菜の源として補給されております。それから、魚はとれますが、これは幾ら納めろというのですから、質については申しておりません。大部分がタラ、それからニシン、それから小魚です。これはすべて塩です。それから国民のうちにも、塩がいやなら何とかくん製にして食わしたらいいじゃないかという声があります。これはイズヴェスチァに書いてあったのです。これは囚人であるからというのじゃありません。これはロシヤの国民の全生活がそうであります。それから今度朝ぱっと顔を会わしたところが、どうも日本人らしいのが来ると思ったら、ここに赤十字のマークをつけておる。集まれというので、山田大将と後宮大将とクラブを作っておりますが、そこへ集めてお二人にいろいろ話をして、それから各部屋にあとからお見えになっていろいろ話をされた。それで山田大将と後宮大将の部屋の入口には、やはり通訳が立っておって、話を聞いておる。それから各部屋に入ったのですが、高良とみさんのときには、絶対見えないところへ行って、何だかんだといって、終りまで見せないで話をする。便所へ行くのにも、バラックの入口に歩哨が立っておるのです。何が来ておるのかと見ようとしますと、帰れと言われる。そういうような状態であります。おそらく詳しいことは私は話させないのだろうと思っておりましたが、若干は許された。しかしそれは一時間半くらいです。そうしてお引き揚げになりました。これが第一回であります。
 それからその次の訪ソ議員団の来られたときには、廊下にずっと服がかかっておりますが、それを全部取りはずせ、そうしてそれがためにポンプ小屋を改造しまして、その中へ入れました。ドイツ人もそのときは同様です。そうして廊下はきれいに片づけた。前のときは服がそのままですが、だんだんきれいになりました。そうやって廊下はきれいにする。そうしてベランダにいろいろの荷物を置いておるのを、一切置いてはいかぬ。何だろう。訪ソ議員団が来ているから、あるいは会わすのじゃなかろうかという希望は持っておりましたが、実際は何も言いません。そうしてある日私の部屋から見ておりましたところが、そのおいでになる日、日本人が自動車で来ました。何だろうと見ていたところが、日本人が手ぬぐいを肩にして、歯ぶらしをくわえている。これは日本人だというのでさっそく打ち合せをしました。そうして花壇のところに訪ソ議員団を寄せまして、西村さんからいろいろお話になった。こっちも自己紹介をしました。そのときに、もう時間が短かいですから、今度何か御希望はありませんかというので、山田大将は、それは希望はございます。しかし私らの希望は一々言わずとも、日本の国民は承知しておられるからということで、それで終りであります。そしてあとは写真を写したり何かしまして、お別れしたのです。
 それからその次のときの南原さんのおいでになったというここは、全然知りません。そのときは数日前から橋が落ちておりましたけれども、橋をかけさせられた。これには日本人とドイツ人の若い人が行った。そうして五月二十七日に終りました。何をするだろうと思っておったところが、今度は壁を塗るというのです。私らの部屋から始まりまして、隣りの部屋と五つばかり塗った。山田さんのおられるところは、時間がなくて塗らなかったのです。そこへ集まれというので出ると、ベランダのところに南原さんと武藤さんが立っておる。日本人です。私南原です。さっそく握手しました。そこで初めてわれわれは若干時間話をすることができたのであります。
 それからその次にいらしゃったときには――私はおいでになったときはおりませんが、八月の末に用事で所長に会いました。そうしてまた議員が来ますね、こう言ったところが、議員は来ない、何もおれは知らないと言う。ところがそのときペンキを窓ワクに塗っていたので、窓ワクにペンキを塗っているじゃないかといったら、いや、これは年度計画に基くのだと言う。これは二重窓でありますから、内部のやつも塗らなくちゃならないが、夏ですから、外側一枚になっている、それだけを塗っております。それで、八月の末ですから、議員団はお見えになっておりません。九月の二日にお入りになる予定だった。ところが私、私の留守なり知り合いの方に書面をお願いしたいと思っていろいろ書いておったら、ちょうど今が二時半だから、四時半までに荷物をまとめて本部へ来てくれ、営門まで来いというわけで、二時間の準備を与えられて出かけて参ったのです。それで、議員団の方にはお会いできませんでした。ところが二十日においでになりました。それで、ラーゲルからハバロフスクまで参るのに一カ月かかりました。全く囚人の取扱いでありました。そして、ハバロフスクで二カ月待ちました、今度帰るまでに。ところがソ連の国民は日ソ交渉の早く妥結することを欲しております。まさしくそれはその通りであります。汽車に乗りましても、もうじき片づくから、もうじき帰れるだろうということは、ロシヤ人も言うております。そして私の取扱いについては、特別にほかの今までの囚人と違った目をもって、実に愉快に、もちろん愉快とはいいましても鳥かご列車でありますから、便所へ行くのも朝、昼、晩、三回です。食事も、途中の食事は一日一キロと肉、魚ですね。生のニシン一日一匹、それから砂糖は十七グラムが一日でございますね。それだけです。それがいわゆる一日の分です。それであとは乗り降りは一日行っちゃおろされ、一日行っちゃおろされ、それで次の汽車を待って二日、三日休む、これは養うために休むわけじゃない、囚人がたくさん次から次へ輸送されますから、前から来た者、前から来た者というわけで、輸送されております。これは護送連隊というのがありまして、逐次に、逓伝で送っていくわけです。そういうわけで、直通でモスクワまで十二日かかる。それがイワノボからハバロフスクまで一カ月かかって参りました。それが十月十日に参りまして十二月。そのときいつ立つかと言ったら一カ月か二カ月待て、そうすれば立てるだろうと言う。ロシヤの言うことでありますから、いかなる責任者が言いましても、手のひらを返すようにガラッと変りますから、船に乗るまでわからぬというわけで心配しておりましたところ、ロシヤ人の方は、日本人は人が少いから受け取りに来ないだろうというような話を向うの人が言うわけですね。それだからして、われわれもほんとうに不安で、来年になるかいつになるか、刑は終ったけれども帰れるかどうかわからぬというわけです。十二月二十四日に刑の終える方が七名残っております。これもおそらく一緒に帰してもらえるだろうという希望的観測を持っておったのです。ところが七名の方は帰られず、この次の機会に残された。刑の明けた人が集まりまして、三十数名になると、一梯団を組んで帰ってくる。七名を残したということは、こんなことじゃないかと思います。それから議員団の多くの方に、不平ではない。不幸を言うておらぬと言われるのですけれども、これは将官ラーゲルは何しろ命をまとにして生きておりますし、それから年をとっております。平均年令が現在六十三歳であります。山田大将の七十五才を筆頭としまして、老齢な方ですから、決して軽はずみなことは申されません。それがために、不平はないと解釈されることは間違いであります。皆さんの御苦労なさっておりますことは十分承知しておりますから、不平は言いません。しかし内心では、ずいぶん不平を感じておられただろうと思うのです。ただカロリーにつきましては、三千カロリーと申しましたが、ハバロフスクでは、将官が二名残っておられます。私らも帰るまではその中におりまして、四名でしたが、今二名残っております。それには将官と同じ待遇をして、別格の扱いをしておる。ロシアはクレムリン族と共産党員、それから将官が、大体共産主義者に類似した生活ができるわけです。金は払わなければならぬが、欲するものは得られる。そのほかは手に入らないわけです。ところがその三つの階級は手に入るわけです。欲しいものは、金さえ払えばくれる。そういうので、階級的の彼らの観念から、自国の将官と同様な取扱いはしておりますが、これもただいま申しましたように、塩辛いものでありまして、実際日本人の口に会いません。しかしそこには三十数名おりますから、日本人の口に会うようにおのおの作っております。いかようにも家庭的の料理はできますので、それを楽しんで食っておるわけであります。
 それから新聞のことでありますが、去年の朝日新聞をもらったのが今年の春であります。これは日赤が来られたときに、新聞を見せてくださいと言ったのですが、見せてくれなかったのです。それからしばらくして、後に送って来ましたのがアカハタ若干と、日本の労働者、世界の友、農民の友でありましたが、そういうのでしたが、十部ぐらい送って来られた。それ一回であります。その後小包なんかに入っておった本で、皇太子殿下の御外遊の朝日の付録がありました。それを検閲の後、受けました。この前に訪ソ団の方が来られたときに写真を写しました。それあたりの載った朝日新聞も来ていましたが、全部記事の書いたところは紙が張ってありました。写真だけは見せていただきました。それからその後、赤十字社の御配慮によりまして、雑誌を若干送っていただきました。岩波文庫の本を十部くらいいただきました。その次を全然くれないものですから、また盛んに催促しましたら、今度は朝日新聞をくれました。去年の十一月の初め、吉田内閣の解散前後のものです。それから私、出発までは、六月二日までの新聞を見て来ましたが、その新聞は、第一回には一ぺんに三カ月くらいくれました。それからあとくれません。それから南原さんがおいでになったときに、向うの通訳の方にぜひといってお願いした。そうしたら、そこでまた二、三カ月分くれました。それから今度は訪ソ議員団が来るとき、また文句を言われたら困ると思って、訪ソ議員団が来る一週間くらい前に残りをくれました。それで十一月から六月まで読みましたが、その間に大体三回にわたってくれました。それをあそこにおる三十数名の者が奪い合いをして見ておるわけであります。それを、済んだやつはきれいに修繕して、こんなにしてためております。そんなので、これも快く見せてもらっておる。初めの間は、若干の部分はカットされておりました。その後はカットはしませんでした。
 それから辞書のことでありますが、辞書は届きました。その辞書は、赤十字が来られたときに、辞書がなくて困るからお願いすると言いましたところ、送って来ましたが、ロシヤ人の発行した辞書であります。日本から送っていただいたのは、もし送っていただいたのなら手に入っておりません。そういう状態であります。
 労働は、どういうことをしておるかというと、自活作業であります。すべて原料はくれます。家なんかに入れてもらっておりますが、だれがやるかというと、すべて入っておる人間がやる。年令に応じまして、炊事の方をやる人は炊事をやる。山田さんだけは御老年ですし、翻訳を毎日して、新聞を読まれて、そうして全部書く。二時間ないし四時間かかって世界事情をお書きになる。その関係で、山田大将にはイモの皮むきはお願いしませんでしたが、それ以外は、イモの皮むきとか便所の掃除とか、洗濯だとか、あらゆる仕事をやって、最低二時間、健康な方は六時間くらい。それからそのほかにビタミンがとれないというので、野菜の畑を作っておりまして、それによって、辛うじてもっておりました。
 それから、ドイツ人から盛んに慰問品が来ました。ドイツの方は、少くて各人に月に六個か十個、多いのは二十九個受け取っております。これはドイツの各家庭からもちろん来ます。そのほかに 各ブロックに切って、ここはだれ、ここはだれに送るというように割り当てております。それから社会団体、宗教団体、篤志家、学校関係、そういうところで持ち寄って送ってもらっている。この前ドイツ人が帰りましたが、あすこに日本のだれがおるかと言うから、山田と言うと、こういうわけで、山田さんに小包を送ってくる。それから一緒に洗たく場で働いておったドイツの若い人、名前は言えませんが、その人が帰ると、さっそくそこに小包が参ります。そういうふうに、一緒に働いておって、名前の知れた人にはどんどん来ます。毎月一個か二個、山田さんあたりは毎月一個、そういう状態であります。全部がそうなっております。
 それから収入は、もちろん将官は働きませんから一文もくれません。ただ若い人が表に出て働くと、原則として十五ルーブル、一日五十カペーク、それからハバロフスクの方では、働きに応じて、先ほどお話した金の残りをもらっております。将官は、働かぬかわりに、一文もくれません。
 このくらいで私の御報告を終らせていただきまして、あと地区ごとにやっていただきます。
○原委員長 次に、佐々木正制君にお願いいたします。
○佐々木参考人 私は、大体訪ソ議員団がハバロフスクに来られました前後の事情について、お話し申し上げたいと思います。もうすでに皆さんは、訪ソ議員団の社会党の方々から、われわれが当時どういう状態にあったかということについて、ほぼお聞きのことであろうと思います。ただ私は、あの当時ラーゲルにおった一人として、どういう感激を持って訪ソ議員団を迎えたかということを重点にして、お話を申し上げたいと思います。
 まだ記憶に新しいのでありますが、議員団を迎えたのは、九月の二十九日でありました。当時ラーゲルでは、例年の越冬準備作業に追われておりまして、外装はまだ整備されておりませんでした。ところが二十七日になりまして、ラーゲルの外装、それから営内の清掃を明日までに実施せよ、夜間作業もあえて辞せず、こういう命令があって、われわれは何のためにこの急激な大変換に到達したのか、想像することができなかったのでありますが、今までの経験から推して、これはただごとではない、モスクワからコンミッシャーが来るか、あるいは今訪ソ中の議員団がわれわれのところにおいでになるのではないかという二つの説に分れました。二十八日になりますと、われわれは、これは議員団をお迎えするのであるという結論に到達いたしました。部屋の中は急激にいろいろな形において整備され、外観は美しく飾られ、大規模な清掃が行われ、砂は何十台となく営内に持ち込まれて、玉砂利でもって営内がきれいに掃き清められました。あくれば二十九日朝、ハバロフスクでは、第一の作業現場の主体であるところの第六建築作業に出ろという命令でありました。しかし収容所からは、どなたがおいでになるのか、一言もわれわれは聞かされませんでした。高良とみさんがいらっしゃたときの例にかんがみて、われわれはもはや収容所の言うことを漫然として聞くべきではない、日曜日の作業に振りかえても、きょうは作業に出ないという、全員の決議をもって作業勧告をけって、全員休業することにきめたのであります。それに先だって、われわれはすでに訪ソ議員団を迎える準備として、坂間元少将を長とする委員会なるものを結成いたしまして、その委員会によって、各自がばらばらに発言したのではなかなか収拾がつかぬ、あらかじめ各人の意見を取りまとめようじゃないかということになって、委員が各ブリカーダ、いわゆる組ごとにいろいろ意見を聞いて、坂間元少将が意見をまとめられました。それで収容所長の方から、坂間閣下にすぐ来いという命令を受けて、一体きょう何の話をするつもりだ、しかじかかくかくの話をするという何十項目の項目を出したところ、政治的な問題に関しては関与するな、また死亡者のことについては触れるな、そういう二つの問題をもらったのでありますが、その席上居合せたのは吉田団長、鶴賀文化部長、それから皆さんも御承知のように、共産主義者と自称する浅原正基が、その席に何のためかおったのであります。そして浅原は、坂間さん、あなたが政治的な問題に関与しないなら、われわれも政治的な問題は度外視する、そういうことで坂間さんが帰ってこられました。さっそく委員が招集されて、以上の件を伝達したのでありますが、それでは、公開の席上においては政治的な問題は触れない、御案内を申し上げるときに、これらの問題を報告することにしようということで、われわれはかたずを飲んで、議員団の到着するのを待ったのであります。
 ちょうどその日は非常に暑い日でありました。間もなく議員団が来られたのでありますが、これこそわれわれが現実にこの目で見た、生々しい粗国のかおりを持ってこられた、この十年間におけるたった一度の日本人でありました。迎える者はもちろん、議員団の方々も全員涙を流しておられました。しかし迎える私たちは、今その光景を思い出しても、浅原一派の者を除いたあらゆる日本人は――戸叶さんもここにおられますが、みな泣いておりました。われわれは言葉もなく、かたずを飲んで皆さんをお迎えしたのであります。その感激は、今度舞鶴に上陸をして、皆さんのお出迎えを受けた感激以上のものでありました。そして祖国とわれわれの結びつきを、われわれはその議員団を通じてはっきりと知り取ったのであります。
 議事が進行されまして、坂間さんが一場のあいさつをされ、あとから希望事項を申し述べられました。そして尾崎元中尉が立って、われわれは人質としてここにとらわれておるのだ、われわれは自分の責任、自分の任務をよく知っている、ソ連がこの際いかなる横車を押そうとも、国策の大綱を誤まってくれるな、これがわれわれ日本人としての自覚である。そのとき万雷の拍手をもってそれが迎えられたのであります。次々と三人、五人の人たちが立って、国策の大綱を曲げてくれるな、なぜそういうことをわれわれが血の叫びとして申し上げたかというと、十年のわれわれのソ連の滞在で、ソ連がいかなるものであるかということをわれわれは身をもって体験しております。それは日本におる国民よりも、われわれの方がソ連はどういう国であるかということを知るがゆえに、われわれは血の叫びとしてそれを申し上げたのであります。もちろん十年の歳月は、短かい歳月ではございませんでした。一つの子供が十になり、大学ならば二つの科を卒業し、大学院に二年も残ることのできる貴重なわれわれの人世でありました。しかしわれわれは、帰りたいという希望を胸に抱きながらも、なぜ、国策の大義を曲げてまでわれわれの問題を考えてくれるなということを叫ばざるを得なかったかということを、皆様はよく考えていただきたいのであります。もちろんわれわれは、今日留守家族のことを思うならば、彼らと生命をともにし、彼らの苦悩を知れば知るほど、この席上から皆様に、国策の大義を曲げてまで引き取ってくれるなと、帰還した私自身はとても言うことはできません。私個人の気持なら、まず人命を救出していただきたいとお願いしたいところであります。だがわれわれの悲壮な気持は、個人的なものである。われわれの生命が国家につながっているということを、われわれは十年の体験によって知ったのであります。そのことも皆様はよく御理解を願いたいのであります。そうするとこの浅原がどうでした、訪ソ議員団を迎えて、われわれは暑いのにみんな上着を着て、ある程度の儀礼は尽しておりましたが、彼らは上着を脱ぎ、たばこを続々と吸い出し、そして立ち上って腕組みをして、わしはいささか今申し上げた人たちと意見を異にする、われわれは、ときたので、御承知のごとき万雷の怒声となって、彼らの発言を封鎖し、一言も彼らに言わすなということが期せずして起き、訪ソ議員団の人たちにとってはまことに不可思議な、奇怪なる現象が起きたのであります。なぜならば、この根源は深く広いものであります。きのう、きょうのものではありません。四七年、八年を境とする在ソ民主運動の極左的公式主義的なあの偏向、過激な運動のために、幾百の者が刑を受け、幾百の者が死に、幾千幾万の者が涙をのんでこの苦しみに耐えたということをわれわれ自身が知るがゆえに、われわれはこの行為を許すことができなかったのであります。
 そこで私は帰ってきて、あの当時の訪ソ議員団の人たちが、どういうふうにハバロフスクの状況を伝えていられるか、私は非常に興味がありました。二、三の新聞を拝見してみると、私には若干の不満がございます。しかしわれわれは、好遇されておったのでもなく、いい暮しをしておったのでもなく、抑留されておったということをよく考えていただきたいのであります。一部の君たちが、われわれは、国策はどうでも、まず帰してもらいたいという、その一部の人たちというのは、今私が申し上げた人たちであるということを御承知願いたいのであります。また訪ソ議員団の方々に、われわれの知っておるのでも、数人の人から、これを日本国民に伝えていただきたいという文書のあったことを私は記憶しております。それが果して国民の皆様に、この血の叫びが伝わっておるかどうか、私は不幸にしていまだこの報道を見ることができません。
 それが大体ハバロフスクの状況でありますが、議員団がお帰りになってから、いよいよわれわれはこの冬を迎えました。現在作業に出ている者は約千名のラーゲルで半数でございます。あとの五百名は、完全な労働能力を一部喪失した人たちであります。従って、ラーゲルの中に残って軽作業をやる、あるいは南京袋の修理をやる、あるいは営内の修理をやる、あるいは営内のいろいろな職場につく、その日々の作業休を入れると、私らが帰る時分には、大体半数の作業人員であります。
 今、大橋委員から申し述べられたのでありますが、血圧患者が非常に多くあります。百七十以上の血圧患者は、二百名を突破しております。胃酸過多、胃酸過少が五十名くらい、原因不明の発熱患者が大体三十名ほどございます。その患者についても、最初のころは一カ月半か半カ月は休みをやっておったのでありますが、レントゲンあるいは病理試験の結果、それが事実として現われてこないというので、これは精神病の一種であろう、精神作用からくるものであろうとして、この三十名の微熱患者は作業に出されておりました。もう一つの病気は、去年まではなかったのでありますが、寒さにあうと、手が凍傷にかかったように白くなる患者がことしは発生しております。その数は大体十名くらい出て、営内に残っております。もう一つは、神経系か循環系か、その表現がはっきりしないのでありますが、血液の循環が停頓する、ことに足の先、甲あるいはすねあたりが停頓して、欝血をするという奇病が、去年あたりから順次増加の一途をたどっております。このような状態が大体ハバロフスクの二十一収用所におけるわれわれの健康状態であります。
 最後にもう一つつけ加えておきたいのは、われわれは実際ラーゲルにおりますと、日本の事情にはうといのであります。日本の事情を知らせてくるものは家族からのたより、従ってこのたよりには信書の秘密はありません。来た手紙に珍しいことが書いてあれば、ラーゲル全般にその晩のうちに広がって参ります。特にダモイの話とか、あるいは日ソ交渉の問題であるとか、あるいはわれわれの直接感ずるものとか、政界の動きであるとか、そういうものがその晩のうちに敏感に伝達されます。もう一つ、われわれが祖国のことに関して聞けるのは、新聞及びソビエトのラジオを通じて聞くほかにありません。従ってわれわれは、祖国の人々がわれわれを支持してくれるのだという精神的な支持があれば、祖国はわれわれを見殺しにしていないどころか、われわれを支持しておるという観念がわれわれの中にたぎれば、私は、十年でも二十年でも待ち得るという信念を持っておりました。そのわれわれを支持しているという支持の証拠を、日本人がハバロフスクの同胞のために示していただきたいと思います。彼らは外界との文通、外界との交通を遮断されております。従って日本の人たちが君たちを支持しているのだということを、文書でもって彼らに伝えることができないのであります。トロロコンブの一グラムでも、みその一グラムでも、そういう物質的なものは、何らの検閲もなくて彼らの手に届くのであります。従って彼らが全国民から支持をされているということを聞き得る道があれば、何年でもがんばることができる、われわれは支持されているという信念を持つことができるということを、この機会に皆様に訴えたいのであります。
 これで私の報告を終ります。
○原委員長 次に若山祥三君にお願いいたします。若山祥三君。
○若山参考人 私は、一九四八年まで、チタ地区の捕虜ラーゲルにおりまして、そこで禁固刑二十五年をもらい、アレキサンドルフスク監獄に、昨年の十月までおりました。その後帰国要員の一部に加わりまして、監獄から十五名出されたときに、その中にまじって、ハバロフスクのラーゲルの方に集結して、今回までストップされておったものであります。従って私は、アレキサンドルフスク監獄の状況、並びにハバロフスク収容所におりました一年間の栄養状態について、簡単に申し上げたいと思います。アレキサンドルフスク監獄につきましては、この前帰りました昇降一氏よりの報告によりまして大体わかっておると思いますので、その後のアレキサンドルフスク監獄の状況だけを述べさしていただきます。
 今度、ソ連に抑留されておる中国、朝鮮の人々が全員、それぞれの政府に引き渡されるという命令が出まして、現在刑期のいかんを問わず、全員われわれのおりましたハバロフスク第一収容所、第二、第三収容所にそれぞれ集結してきております。その中にまじりまして、アレキサンドルフスク監獄に日本人と一緒におりました中国人、朝鮮人それぞれ一名ずつが、ハバロフスクのラーゲルにやって参りました。その人の話によりますと、彼らがアレキサンドルフスク監獄を出る一週間前に、近衛文隆氏以下十一名の日本人は、全部どこかに移動したそうであります。現在アレキサンドルフスク監獄には、一人も日本人はおりません。私たちがその報道を聞きまして想像したところによりますと、大体ウラジミル監獄とアレキサンドルフスク監獄の両方とも、ドイツ人、オーストリア人の全員が帰った現在、ほとんどがらあきになっております。それでウラジミル監獄には現在六名の日本人がおります。われわれの理想といたしましては、近衛文隆氏以下十一名も、アレキサンドルフスク監獄を閉鎖して、ウラジミル監獄一つにするためにそちらの方に移動したという説と、もう一つは、今度私たち第五次梯団が出たあと、彼らがハバロフスクのラーゲルに来るのではないかという希望的観測と、二つあります。アレキサンドルフスク監獄を出た大体の日にちは、その話からして、十一月の上旬のようであります。
 もう一つ、私はここでアレキサンドルフスク監獄の状況について言わせてもらいたいと思うのは、このアレキサンドルフスク監獄におけるあの一九五二年までの苦しい待遇のときに、吉田猛彦という日本人がわれわれのために戦ってくれたことであります。それは、私もちょうど胸を病みまして、アレキサンドルフスク監獄の病院に入院しました。それでその間に続々と日本人が五名倒れました。そこで、やはり同じく胸で入院しておりました吉田猛彦という京都出身で武専を出ました人が、それを見るに見かねて、また監獄内の日本人の待遇がロシヤ人と比較して悪いというような現状について、モスクワ政府に対して、日本人に対する待遇改善問題を出しまして、彼はハンガー・ストライキに入りました。そうしてあの苦しい条件下において、二十八日という長い期間、ハンガー・ストライキに入りました。これにはモスクワ政府も驚きまして、もうやめろやめろという勧告をたびたびやりました。しかし彼は断固として、モスクワ政府からの返答が来るまではがんばられ、結局向うはかぶとを脱ぎまして、日本のさむらいは大したものだという印象のもとに、彼らの要求をいれまして、その後日本人に対しては、当時全部悪かったものですから、みんなに対して病人食をくれたり、またたばこはそのときだれにも配給になっておりませんでしたが、日本人に対してたばこが配給になりました。その後ソ連人全部にもたばこをくれるようになりましたけれども、そのときには日本に対してだけでありました。そういうことから見まして、彼のハンガー・ストライキは奏功したのでありますが、あんな境遇のもとにおいて、吉田猛彦氏のような日本人に会えたことは、私は非常にうれしく思いました。
 それから、チタ地区の捕虜ラーゲルから刑をもらいました者の中で、私が初めて今度帰国した者でありますが、チタ地区の捕虜ラーゲルは、四七年、四八年を契機としまして、民主運動は猛烈なものがありました。お互いの策略、そしてその地区の袴田天皇と称せられました袴田陸奥男を一味とするチタ地区民主運動者の手によりまして、前歴を有する特務機関員、憲兵隊員、露語教育隊員、元満州国の高級官吏、警察官、これらが前歴だけの罪状では罪が構成しないので、これをラーゲルの中でスパイ活動をやったというでっち上げを袴田一味にやらしまして、そうして彼らの証言によって、全員裁判なしの二十五年の最高刑を受けたのであります。そのほかに前歴を全く有しない一般部隊の将校であった約三十数名の者が、帰還後相互援助をやろうという一つの会を作っておりました。この会を彼らは利用しまして、この会は帰ってからアメリカに情報を提供するスパイ国であるというでっち上げを作りまして、全然罪のない彼らが二十五年の最高刑を受け、そして五三年にありました恩赦に際しても、彼らは一名も加わっておらないのであります。それで書類から見ればものすごい犯罪になっております。
 それからウラジミルの監獄の状態につきまして、現在六名残っておりますが、この間私たちが出発する数日前、十二月下旬に刑の終る日本人が二人やって参りました。その人たちの話によりますと、残っておる日本人六名並びに朝鮮人若干の者に対して、先般帰りましたドイツ人の手によって、慰問の小包が六名に対して約三、四十個毎月参っております。それで彼らは現在監獄の給与を全然食べずに、好意あるドイツ人の手によって受けた小包で、彼らは栄養を保っておる状況です。それで、そのドイツ人のこのうるわしい話を聞きましたが、これをぜひ皆さんのお耳に入れておきたいと思います。それからハバロフスクの収容所の状況でありますが、これは佐々木さんの話で大体尽きると思います。訪ソ議員団の来られましたときの内幕とか、いろいろな状況も全く佐々木さんと同感であります。
 ここで私が一言つけ加えておきたいと思いますのは、何しろ十年の疲労によって、体力の消耗は目に見えております。一見、健康者に見えるような人でも、ちょっと無理をすればすぐひびが入り、休まなければならないという状態で、全然無理もできなく、現在佐々木さんも言われましたように、約半数の者、五百名近く休んでおるという状態であります。給与は米の飯が朝晩あり、骨つぎの肉が五十グラム、肉の形を見るのは毎日一切れくらい食えばいい方であります。米の飯二回といいますと、待遇は大した心配はないという感じを受けられると思いますが、その米の飯たるや、ばらばらで、味もそっけもない、ただ米と名のつくだけのものであります。そして中身も全然ない、味もないスープで朝昼は済ます。夜になって、てんぷらとか煮付が少しつくという状態がずっと続いております。そのほかに黒パンが三百五十グラムで、内地の皆様から送っていただく小包の中のもので、そのおいしくない米の飯に足して食ったり、金を毎月大体四十ルーブル前後もらっておりますが、それで砂糖一キロ、油若干を買って足しておる状態であります。
 ハバロスフクの収容所の状態につきましてはそれで尽きますが、最後に、私はもう一人、現在闘争しておる人のことについてお話ししたいと思います。沖繩出身の金城五郎という人は、今年の十一月革命記念日直後に、ソ連当局に対しまして、次のような声明を出したのであります。それは、私は一介の兵士である、ソ連に対して戦争的な犯罪を全然したことはない、しかるにドイツ、オーストリアのような、実際にソ連領内において暴行とかいろいろな戦争的犯罪をした者を全部帰した今日、われわれ日本人はもはや作業をする必要はない、私は今後作業は絶対にしないという声明書を出して、闘争を開始しました。それに対してソ連当局は、一ケ月くらいは黙って休ませておったらしいですが、その後呼び出しまして理由を聞き、作業をしないというので、十日間の重営倉をもらい、私たちが来る二、三日前出て参りました。そして隊員にあたたかく迎えられ、今後彼は監獄に行くと大体想像しておりますから、それに対して隊員全員が、絶対に金城をソ連当局に渡さないといってがんばっております。その後どうなっておるかわかりませんが、そんな闘争をやっております。みな日ソ交渉の成り行きに期待をかけ、もう少しのしんぼうだといって黙っておりますが、全員の労働に対する考えというのは、この金城五郎氏と同じものであります。それから、この間帰りました皆さんから聞かれたと思いますが、大堀泰という日本人が、作業現場の、ソ連当局より派遣された将校の作業督戦係の横暴に耐えかねて、それをおので殴打し、傷害せしめて、そのかどによって、現在監獄に入っておる人がおります。この人は、最近、裁判によって禁固十年の刑をもらいました。この大堀泰氏もチタ地区の一般の部隊の将校でありまして、二十五年の刑をもらっておるのですが、禁固十年をもらったので、その前の二十五年は全部帳消しになり、新たに禁固十年ですから、実際からいったら大したことではなく、前よりかえってよく、作業はせずに監獄にすわっておるということは、彼にとっては非常にいいと思います。現在の監獄の給与も悪くなくて、ラーゲルよりははるかに好条件で、ソ連当局も、この大堀泰氏も、全員帰還のときには必ず帰すと約束しておるのであります。
 以上をもって私は御報告を終りたいと思います。
○原委員長 最後に、逢坂和雄君にお願いいたします。
○逢坂参考人 私は四五年、すなわち停戦時にチタ地区にいて十年の刑を受けまして、カラカンダの炭鉱に参ったものであります。そのとき、カラカンダのラーゲルに私どもとともに入りました者は、日系が二十五名、満人が二名、こういう数でありました。炭鉱はもちろん初めてなのでありまして、労働も非常に私どもの健康に影響を与えたのでありましたけれども、その炭鉱におりました私と同郷の司祭――旧教に属する派のものを牧師と言わずに司祭と申しますが、司祭であったがために、彼はもちろんロシヤ人ではありましたけれども、日本人の私に、御援助を申し上げると言いましたので、私は炭鉱に一年おりましたが、その間健康の上でも、彼の援助によりまして、非常な利益をこうむったのであります。しかしながら、炭鉱と申しますと、今もおそらくそうでありましょうけれども、三交代、すなわち午前八時から開始しまして午後四時、四時から第二交代で十二時まで、そして十二時より八時という三交代の順序で働いておるのであります。私の参りました炭鉱は、ロシヤ人の炭鉱、すなわち囚人炭鉱であります。レヴェディナーペー地区、すなわち第十号の炭鉱、いわゆるカラカンダの市に近いところ、アクモリンスカヤ・オーブラスチー、すなわちアクモリンスク県の炭鉱であります。もちろん日系が二十五名行きましたけれども、彼らは各班に分れまして、ロシヤ人ないしカザッヒ人の班に属したのであります。私が当時属しました班は、カムジンというカザッヒ人をブリガジールすなわち班長とするところの班であります。その班に私とともに属した二人の日本人がおりましたが、今その日本人はもうすでに帰っております。一人は野原という憲兵伍長、他の一人は成田という憲兵曹長、これはまだおるかもしれませんが、はっきりした消息を知りません。それに私、この三名の者が初めて炭鉱の中に入りまして、いわゆるパトカーチクと申しますトロ押しをやったのであります。もちろんその仕事はわれわれにとってなれないものではありましたけれども、発掘作業よりも楽なものであったために、しばらくわれわれはその作業を続けておりました。炭鉱と申しますると、ロシヤにおきましては、他のラーゲルよりも給与はよいとされておるのであります。囚人ラーゲルの給与は、朝、パン三百グラムに、水と同じようなスープ、そして昼は同じく。パン三百グラム、それにボールシチーと名づけるスープ、これは、スープにはいわゆる野菜がごたごた入っておりますけれども、朝よりもましであります。そのスープにときには何かつく場合もありますけれども、大体そういったようなものであります。夜はただスープだけ。スープのほかには何もありません。初め夕飯のために来いというので行ってみたとこるが、スープ一ぱい、他に何にもありません。それが、おそらく今もそうでありましょうけれども、その当時における囚人ラーゲルの給与であったのであります。炭鉱におきましても大体そのよべでありましたけれども、炭鉱におきましては、われわれが重労働に服するというので、毎日あるいは隔日ごとに百グラムのバター、それから同じく砂糖が支給されるのであります。そして、もしも身体の弱った者があります場合には、冬期に入りまして、必ずオーペーという制度設けられておる。現在ハバロフスクのラーゲルにおきましては、カオーという制度、すなわち有給休暇、囚人ラーゲルにおいてはオーペーと申します。そういったような制度が設けられて、冬期における休息とその後におけるところの健康を回復せしめるようにしておるのであります。われわれはときどきこのオーペーに入ったこともありました。炭鉱の作業は非常に重労働視されておりますけれども、ほかのラーゲルに比べまして、炭鉱ラーゲルというものは、個人の間において、特にロシヤの囚人の間においては、非常に希望されているという状態であります。ところが一九四七年の初め、私は炭鉱におりまして非常に健康を害し、そのために他の日本人に先立って、私一人その付近のピケットと名づけるところの農場ラーゲルに移されました。そこにおりまして半年目に、どういう理由によるかわかりませんけれども、いわゆるラスカノビーロイ、すなわち普通のラーゲルで申しますところのベースカンヴォーイに当ります言葉で、作業に行きますときに看護兵なし、警戒兵なしで出る。従って地方人とも自由に話すこともでき、あるいは交際することもできるという機会が与えられたのであります。そのラスカノビーロイになって、しばらくかご編みラーゲルに転じたのであります。それゆえに私一人ロシヤ人の中に四六年からぽこっと置かれましたので、その間におけるところの日本人の状況につきましては、少しも存じておらないのであります。それからあとかご編みラーゲルから転じまして、五〇年にハバロフスクの第二分所、これは今の二分所とは違いまして、アムール海畔にあった旧二分所であります。その二分所に転じたのでありますが、そこに転ずる前におりましたラーゲル、これはいわゆるチェバヌイ――チェバヌイというのは羊を飼うラーゲルでありまして、そのラーゲルにおりましたときには私は非常に健康を回復しまして、五〇年の二月の二十七日に、現在刑が明けるまでおりましたハバロフスクのラーゲルに参ったのであります。ハバロフスクのラーゲルに参りますと、かって炭鉱におきまして別れました人々に相会することができまして、いろいろと話を聞く機会を得ました。ところが彼らの話を聞きますと、まだカラガンダには相当数の人が残っている、と申しますのは五〇年の話であります。どういった人が残っているかと申しますと、いわゆる旧軍人あるいは樺太から連れてこられた者、その他の人々が残っている。では彼らのうちに死んだ者はなかったかと申しましたところが、いわゆる落盤事件で日本人が一人死んでおります。その日本人と申しますのは、私が最後に炭鉱を出るときにしばらく親しくしておりました日本人で、田畑秀樹と申す福井県出の人であります。彼は原職は大尉であったそうでありますが、私が彼と会いましたときには、二十六才でありました。この日本人が落盤事件で死んだということを聞きまして、それ以外私はカラカンダのことにつきまして、詳細に申し上げるもとを持っておりません。と申しますのは、私は長い間カラカンダにおいてただ一人おったのでありまして、日本人に関することについて、それよりほかに申し上げることはありません。
 それから最後に申し上げますが、ハバロフスクのラーゲルのことは、佐々木氏並びに若山氏が相当詳しくお述べになりましたので、私におきましても同じことを繰り返す必要はないと思いますので、これをもって終りにいたしたいと思います。
○原委員長 これにて参考人よりの総括事情聴取は終りました。
 これより委員各位の質疑を許します。中山マサ君。
○中山(マ)委員 先ほど佐々木参考人のお話でございましたか、祖国の人たちへ伝言を頼む、この日本人の気持、いわゆる向うにいらして下さる方々、その苦衷の中にも、自己を滅して国をお思い下さいますその真情をぜひ日本に伝えてくれということをお伝えになった。しかもお帰りになって、はっきりことずけたにもかかわらず、そういうものがはっきり出ていないということを今承わりまして、まことに私は驚いたのでございます。私も実は昨年でございましたか、中共あるいはソ連へ行かれまする婦人議員団の中に、その当時の自由党の幹事長及外務大臣をしていられました岡崎大臣も行ったらどうかということを言っていただきまして、私も行きたいという希望持っておりましたけれども、私が保守党であるという建前からでございましょう、向うから拒否されて、入れていただけなかったのでございます。向うへ行って親しく皆様方の御様子も伺い、ほんとうの皆様方のお気持も聞かせていただきたいというこの気持から、山下春江女史と二人用意をしておったのでございますが、ついに拒否されて行くことができなかった。それでせっかく訪ソ議員団がおいで下さいましたし、その中には婦人方もおいでになることでございますので、きっと超党的にいろいろと皆様の心境をお伝え下さるであろうと思っておったのでございます。お帰りになってから、いろいろと御会合もあったようには聞いておりますけれども、そのいわゆることずけなるものは、はっきりと、私どもと申しますか、日本の国民の前に公表されていないように、――私が寡聞なためかしれませんけれども、思っておるのでございますが、それは確かにお伝言下さったのでございましょうね。
○佐々木参考人 それは、私の記憶では、安井君と千葉君、荒巻君だと思うのですが、その三人の人は、確かに渡したということを私は聞いておりました。帰ってきまして、それを公表されたかどうか伺ったのでありますが、日本におる非常に関心を持っておる促進会の方々も、これについては御存じないということであります。
○中山(マ)委員 それでは、ソ連においでになりました戸叶委員に、ちょっと御発言を願っておきましょうか。
○戸叶委員 ちょっと関連して申し上げます。今の問題でございますが、皆様御承知のように、私どもあそこに訪問させていただきまして、皆様が感激なさいました以上に、私どもは非常に胸の引き締まる思いでございました。そのときに何かおことずてはございませんかと私ども申し上げまして、八班に分れまして、各自が取り巻かれて、私ども両ポケットあるいはこんな大きな袋の中に六十九通預かって参りました。事務局の人みなでもって、こんな小さな紙きれも決して粗末にすまいというので、飛行機の中でも、またホテルに参りましても大事にいたしまして、しわくちゃのものをみな伸ばして、そして勘定しましたのが九百十一通ございました。それはみなあて名が書いてございまして、その方のところにそれがちゃんと届きますようにお送りしております。もしもあて名の書いてないのがございましたとすれば、事務局で一緒に行った者がどこかへ渡していると思います。それから何という本ですかはっきり知りませんけれども、山下春江さんが何か原稿の一つをもらって、そして何かの本に発表しているということも、私ちょっと聞いております。それではないかと思いますが、そういうふうにして、どんな紙きれも、皆さんの御要望の通りにお渡ししておりますから、その点誤解のないようにしていただきたいと思います。ただ皆さんがお渡しになりましたので、あて名がなかったのかどうか、それは私存じません。
○佐々木参考人 わかりました。私の聞いておるのは、安井君とか千葉君とか荒巻君あるいは六建の人たちも、私がこちらに来るにつきまして、訪ソ議員団に、私どもはわれわれの決意のほどを託したから、そのことが国民全般に伝わっているかどうか、一つ確かめてみてもらいたい、こういうお話がございましたので、促進会の方々にも聞いてみたのですが、あまりその消息を御存じないようでございましたから……。
○中山(マ)委員 それでは、今その内容を、あなたは向うから聞いてきて下さいましたでございましょうか。
○佐々木参考人 実は、あまり内容については深く聞いておらなかったのでございます。いずれ発表されておるだろうという前提であったものですから……。
○中山(マ)委員 私どもは、訪ソ議員団のお方々がソ連へ行かれて、フルシチョフ氏方にお会いになって下さいましても、議員団の全部ではございませんでしょうけれども、その中から――国内ではいろいろと御高説を私どもは拝聴いたしておるのでございますけれども、どうもわれわれ保守党の方はイエス・マンであるかのようにこれまで言われてきたのでございます。ソ連においでになると、今度はそういう方々がイエス・マンになられたということは、まことに残念と私は考えておるような次第でございます。私どもはお互いにバランスをとりまして、そして、ほんとうに私どもは、過去十年の間苦労しただろうということを引き揚げの方々がおっしゃって下さいますと、私は穴の中にも入りたいような気持がいたすのでございます。きょうのお話にもしみじみと身にこたえ、心打つものがあるのでございます。しかも国策のために、自分たちは人質になってもいい、こういうお心でございます。私はある外国の本で読んだのでございますが、ソ連との話し合いは有効なりやという題のもとに、過去アメリカ側とソ連側と三千百回話し合いをした、そうして妥結したものが五十四件あった。ところがその五十四件のお互いに決議をしたものを幾つ守ったかというと、日本に戦争をしかけるということ、それからベルリンへ物を送るということ、その二つだけであったから、その結論として、ソ連との話し合いは有効ではないというようなことを聞かされております。今の国策を曲げるなというお話、しかも外交方針におきまして、この委員会でも、過去に、園田前政務次官をお招きいたしまして、鳩山第二次内閣のときに、結局、国交を調整して懸案を妥結するというお話は、私どもとしては受け取れない。懸案を妥結して、それをやっていただいてから国交調整ということに――私どもはあなた方のお心は存じませんけれども、こういう今までの歴史上の実際の経過を見て、もし国交調整がされただけで今までの懸案が解決されていなかった場合には、ほかの国々がなめたような経験をなめさせられて、あるいは皆様方にお帰りが願えないのではないかということが一番大きな心配で、取るものを取ってから話をしようという気持で、皆様方もあるいは妥結したら早く帰されるかもしれない、こういう御意見の方もあったように思いますが、皆様方に帰っていただきたいという一念で、私どもは先に懸案を解決しようということを考えて参ったのでございます。今日のお話でますますその意をかたくして、何とかして初めに皆様方に帰っていただく方法をとらなければならないということを考えておりますのでございます。今日ソ連のやり方を見ておりますと、一方には、あのサミット会議では、これから微笑の外交をやると言ってくれておりますが、インドあたりに行って発言されておる様子では、英国と引き離そうというような御演説があることなどを見ますと、ますます私は自分たちの考え方が間違っていないのではないかというようなことも考え及ぶのでございます。ほんとうに御善男さまでございました。
 そこで私は政府に対してお伺いしたいのですが、ほんとうに何とも言えない、実に恥かしいわが国の今日の状況であると思うのでございます。ドイツが自分の国の人にも送っているほか、いわゆる外国人であるところのわが同胞に対してすらも、これほどの温情を示して下すっておりますにもかかわらず、どうして援護局はこの問題につきまして――私はここで質問したことを覚えております。小包をいささか送ったときに、何とかこれを毎月継続してもらえませんでしょうかということをやかましくお願い申し上げましたときに、あまりはっきりおっしゃって下さらなかったのでございますが、ドイツの今の経済状態と日本の経済状態とを比較いたしまして、どんなものでございましょうか。外務省の方はいわゆる対外的の省でございますから、ドイツの民生安定と日本の民生安定と比較して、どちらの方が高度であるかということをお聞きしたい。それは援護の問題と直結いたしますから、ドイツの方が経済的に今恵まれておるか――貿易なんかは向うが盛んだといわれておりますけれども、一般の状況はいかがなものですか、それを先に伺わせていただきたいと思います。
○小川説明員 私ドイツの経済状態に詳しい者ではございませんので、先生のおっしゃった御質問に正確なお答えができるかどうか自信がございませんが、私どもが平生いろいろなもので見たり聞いたりしております状態では、大体同じじゃないか、あるいはドイツの方が少し進んでいるんじゃないかという感じは持っております。
○中山(マ)委員 今お話で、大体同じようであろう。日本も非常に被害を受けたでございましょうけれども、私はドイツの方がこの戦争ではひどい目にあっているのではなかろうかと思いますが、貿易の方は向うは非常に利口にやっていますので、貿易の状態は、向うの方がいいというお話も聞いてはおりますが、外務省としては、大体同じようなレベルにおると考える。それならば、そういう国が、自分の国の捕虜に送ってやるだけでなく、外国の人にもこれほどのことをするといたしますれば、日本としてもやはりできると私は考えるのでございますが、援護局のお方は、この点どういうふうにお考えになっていらっしゃるのでしょうか。
○中村説明員 今、中山委員のお話でございますが、私の方では、慰問品の問題は前回からも問題になっておりまして、これは非常に手ぬるいかもしれませんが、御承知のように、最近では予備費を流用してでも一つ慰問品の問題を予算的に片づけたいということで、ここ一週間ぐらい前でございますが、予算を作れということを命ぜられまして、関係方面と予算を作って、折衝しようというところまでいっております。
○中山(マ)委員 どれくらい。
○中村説明員 予算は今のところまだよく話し合ってみないとわかりませんが、まず今年度で百万円ぐらいのところは政府の手でもって出せるようにしよう。これも予備費というようなことを断定的にここで申し上げましても、財務当局との関係もございます。われわれの方といたしましては、そういう予備量の流用が可能でなくても、引き揚げの経費の方を流用してでも、これを実現したいというふうに考えております。
○中山(マ)委員 手ぬるいかもしれないとおっしゃるのでございますが、ずいぶん何でございますね、実感の方が手ぬるいのじゃございませんか。今のこういう人たちのお話を聞いておりますと、私どもが聞きしにまさる御窮状のように伺うのでございます。手ぬるいかもしれないとおっしゃっては、私ちょっと手ぬる過ぎると申し上げなければならぬと思うのでございます。お互いの生活が国内でどうやら足りているということに満足なさいませんで、一つこの点――百万円といえば、今日の百万円は知れたものだと思うのでございます。いかがなものでございましょうか、せめて五百万円という声をかけていただけないでしょうか。どうせ百万円といえば、これはもうその半分もくれるかくれないか。私どもが予算折衝において、たとえば厚生省の問題でも、もう三度も四度も大蔵省に往復して、初めて私どもが申し出ましたものの四分の一ぐらいしかくれないというのが、これは大蔵省の実にけちな考え方で、私は今度は河野農林大臣が、予算局を政府に置いて編成するという、――これは私がもう二年前から唱えておることで、まことにわが意を得たりと思っておるのでございますけれども、そういう意味で私は、よほど大きくふっかけなければとても取れない、せめて千万円ぐらいにでもおっしゃっていただきたいというのが私の考えでございます。そうして今伺いますと、たとえば非常に体力の低下している人たちに最も必要なるところのビタミン、こういうものが、薬としていけば取り上げられるということでありますが、私は、たとえばあめを送ることができたならば、その中に高度のビタミンCというようなものを入れていただけないか。今のお方はそう歯はいためておられないようでありますが、非常に歯をいためている人にお出会いしたので、今日わが国の製剤業は非常に発展しておるのでございますから、そういうほうろう質を補うようなものをあめの中に入れていただく御意思はないでございましょうか。
○中村説明員 具体的に、どういうものを送るかということにつきましては、予算も今一千万円と言われましたが、金額についても、たとえば、事務的に百万くらいで本年度の三月まではいいんじゃないかということで考えておるのでありまして、具体的にこれを積み上げ、かつどういうものを送るかというようなことになりますと、予算の額につきましても、これはあるいはもっとふえるかもしれない。ここでまだはっきり申し上げられないのも遺憾でございますけれども、別にちびって、少しの金を出そうというのではなく、必要なのはどのくらいかということをもっと具体的に積み上げてみませんと、はっきりお答えはできないわけであります。しかし今のお話のビタミンC入りのあめとか、先ほどからの参考人の方々のお話を承わっておりますと、非常に食品の状況も悪いということでありますから、そういう状態が解消できるようなものを送るということに重点に置いて考えますならば、あるいはビタミンC入りのあめとか薬品類というようなものも、もちろん慰問品の中に加えて送るつもりでおります。
○中山(マ)委員 参考人に伺います。薬品は取り上げられるということをどなたでございましたか、おっしゃったようでございましたが、それはどういう理由で取り上げられるのでしょうか。
○武藤参考人 薬は送ってはいけない、書いたものはいけない、刄物はいけない。仁丹も、これは薬と書いてありますので、これもいけない。ところがビタミンだけなら通るわけです。ビタミンは薬でないというわけです。ドイツの方はどんどんビタミンを送ってこられます。ビタミンのB6ですか、ああいうものをどんどん送ってこられます。ビタミンとかブドウ糖とか、これはいいのです。これは薬でない、滋養剤であるということで通る。ところが、「わかもと」は、広告に薬と書いてあるから取り上げられる。広告でこれは何にきくとなると、これは薬品だということで取り上げられる。ところが、ビタミンはロシアでは薬と認めていない。それでドイツから各種のビタミンが来ております。私らもドイツ人からもらっておりました。私がおりましたところには、ドイツ人の将官が百八十名おりました。それは小包が来て、余ったものを私らはもらったのです。私らはアデナウアー給与で生きておったわけなのです。
○佐々木参考人 今、武藤さんからお話しになられたのはイワノボの状況であります。私どもがおりましたハバロフスクでは、薬類、ポマード、そういうものに至るまで、薬類はビタミンであろうと何であろうとそういう錠剤、粉末になっているものは、一切渡してくれません。従って今こちらで補給していただくとすれば、どうしてもあめとか、そういうものに加工して送る以外に方法はございません。
○中山(マ)委員 私はただいま援護局から御出席をいただいておりまするお方では、これは事務当局でいらっしゃいますから、大臣の……。
○原委員長 今、厚生大臣の出席を求めております。
○中山(マ)委員 どうしてもこれは政治的に動いていただかなければ、この予算の問題は解決しにくいであろうと考えますので、ぜひ一つ委員長から厚生大臣の出席を求めていただいて、厚生大臣がおいでになりましたら、またこの問題を質問したいと思います。
 その次に御質問申し上げたいのは、先ほどお帰りになりました最後から二番目のお方だと思いますが、逢坂さんは宗教家でいらっしゃるということを今伺いましたのでございますが、そのために、向うの同じ宗教の道の人に非常に援助されたというお話でございました。これは引き揚げの問題には大して関係はないかもしれませんけれども、私の知識開発のために御答弁を願いたいと思うのでございます。私はプロテスタントでございますけれども、これまで、宗教はアヘンであるというような建前で、共産主義の方々は宗教を排除なさっていらっしゃるということを片一方で聞かされておりましたが、また片一方では、いかにソ連が宗教はアヘンであるというようなことを打ち出してみても、このたびの戦争で自分の夫を失い、あるいは子供を失った人々が、どうしても承知をしない。そうしてある程度宗教というものが認められて、教会に行く人たちも出てきておるというような記事を、私は外国の雑誌か何かでちょっと見たように思うのでございます。この点、民間人とお話しになる機会を持たれたあなたとしては、どういうふうなことを向うで感じていらっしゃいましたか、またお開きになりましたか、もしそういうことをお話しになった機会があったとすれば、お話し願いたいと思います。
○逢坂参考人 向うでは、国策としましては、宗教は、ただいま中山女史の言われた通りにアヘンである、また宗教というものを自然消滅させるというような方策をとっているように思います。しかしながら、一般の人の話を、ごくわずかの数ではありますが、聞いてみますと、宗教というものは非常に重大なものである。われわれの生活の上に大きな影響を持っているものであるということをはっきり言っておりました。今ハバロフスクの市における教会は二個所あります。その一個所は駅のそばにあり、他の一個所は聞き漏らしましたけれども、他の一個所もある。教会の教派と申しますると、ハバロフスク市の駅の付近にあります教会は、いわゆるグレコ・カトリックと申しまして、昔の正教会、すなわちギリシャ正教会がカトリックに一致しました一派であります。これをロシヤではグレコ・カトリックないしウニアートと呼んでおります。このウニアートの人々は、今盛んに伝道を行っている。その伝道にも、もちろん制限がありましょうけれども、なかなか大きな信者を持っているようであります。と申しますのは、私がその教会の付近に作業に参りましたときに、相当数の信者が教会に参列しておる。しかも、その教会のそとにあふれておる状況を見ました。そうして、その信者のうちにどういった者がおるかと申しますと、ある人の、ソ連における宗教に関するところのものはおもに老年の者が多い、こういう言葉に反しまして、相当数の老若男女、特に若い人もそのうちに認めたのであります。従って現在、ハバロフスク市を私は見ましたので例にとりましたけれども、他の地方においても、同じような状況がうかがわれると思ってよろしいと思います。いつごろでありましたか、かって共産党の宗教についての方針が発表されたことがありましたが、これによりますと、ただむやみに宗教に対して反対をすることは、むしろ宗教自体に携わるところの人々の感情を悪化せしむるばかりである。決して益をもたらさないというようなことが述べてあったと思います。それで、ただ私の見ましたところにおいては、宗教に携わる者、並びに信者は、かなり自由に自分の宗教生活を行なっておるようにうかがわれます。またある所におきましては、ロシヤ人から聞いた話によりますと、党員のうちにおいても、子供を教会に連れていきまして、洗礼を授けさせる者が相当数あるということも聞きました。従って、ロシヤ政府は、この宗教をもって自分の主義を助長せしめるところの一つの道具に使っておるとも私は考えるのでありますが、ロシヤ人は、一般におきましては、宗教というものはいいものである、決して、人々が今まで言ってきたようなアヘンというようなものじゃない、宗教というものは非常にいいものであり、人々の文化生活、精神生活を向上せしめて、人々の道徳をも高めるものであるというようなことを言うております。これははっきり、私はその一信者であるロシヤ人から聞いたのであります。そういったような状態であります。
○中山(マ)委員 いわゆる共産党の政策も、どうしても人間の何かにたよりたいという自然の要求には逆らえないというようなことを伺うのでありますが、そうしたら、政府としては、今は少しやわらかくなったようでありますけれども、いろいろなる宗教に関係いたしまするバイブルだとか、あるいは賛美歌だとかいうようなものの発行でございますね、そういうものはいかがなっておりましょうか、統制されておりましょうか。それとも統制に反して、何とかして、いわゆる写したりすることによって、これが散布されているのでございましょうか。
○逢坂参考人 それにつきましては、自分の家から私のもとに小包を送って参りました。その小包のうちに聖書が入っておったんであります。ところが、その小包を渡されます際に、これは出版物であるから許可にならないというのが、収容所側の声でありました。ところが私がそれに答えまして、聖書はわれわれの、すなわち宗教に携わる者のかてである。あなた方は単にパンのみをもって人のかてと考えておられるけれども、私どもにとっては、この聖書というものは精神上のかてである。あなた方は、私の精神上のかてを奪って、それで易々としておられるかということを申しましたときに、それならばあなたには聖書というものは必要であるかという。もちろん必要である。であるからして、できるならば私にその聖書を渡していただきたい。それならば嘆願書を書け。その聖書をモスクワに送りまして検閲させる。それには少くとも半年かかると、こういうのです。しかし、それでもよろしい。私はぜひその聖書をもらいたい、あるいは日本語の聖書が悪ければ露語のでも差しつかえない、こう申したのです。それならばそのように取り計らうであろうということになりました。その後まだ返事はもらっておらないうちに、私は帰って参りましたけれども、一般の人に聞いてみますと、聖書というものは一般の書店には出しておりません。ではどこに行ったら聖書は手に入るかというと、相当限られておるようではありますけれども、教会に行けば購入できるという話を聞きました。これはただその一事でありますけれども、私が聞いた話であります。
○中山(マ)委員 それでは、大臣が来られるまで、私の質問は留保いたします。
○原委員長 戸叶君。
○戸叶委員 先ほど中山委員からフルシチョフ氏との会談の模様などのいろいろな事情や、またそのときの様子を御存じなくして、聞きかじり、耳かじりで非常な批判をされたことは、まことに遺憾だと思います。しかし討論会ではありませんから、ここではそれに対していろいろ申し上げないで、質疑だけをしていきたいと思います。
 最初に文書のことでございますが、安井さん、千葉さん、荒巻さんの文書のことですけれども、もしもお手紙の形でよこして下さったならば、お宅の方に届いていると思いますからお調べ願いたいと思いますし、今、事務局の方に連絡いたしまして、その方の手紙はだれが預かってきて、どういう形で渡されているかということを調べさせておりますから、御心配ないと思っております。
 それからまず第一にお伺いしたいのは、私どもが参りましたときに、刑を終えた人の部屋が比較的りっぱになっておりまして、そのときに十六人か刑を終えた人がいたというように伺っておりますが、その方々は、刑を終えてもなお仕事をなされておるのでしょうか、それとも、そういう方は今度帰された中には入られたのでしょうか、その点を承わりたいと思います。
○佐々木参考人 今の御質問の、刑を終えても、原則としては労働することになっております。ただ給与の点が若干違って参ります。というのは、われわれは四百五十六ルーブル引かれますが、彼らは二百七十ルーブルを引かれ、残金が手取金として自分の収入になります。われわれは今申しますように四百五十六ルーブル引かれて残余の七〇%を手取り分としてもらう。しかもその場合には、一〇〇%以上のノルマの遂行ということが絶対条件です。しかし刑のあけた者には、そのノルマの一〇〇%の遂行は条件ではありません。当時十六名おりましたが、それは追加の者も加えて全員帰っております。
○戸叶委員 そうしますと、差し引かれました残りの七〇%というのは大体どのくらいになるのでしょうか、そうしてそれでもって小づかいはどの程度まかなっていけるか。
○佐々木参考人 その問題については、すでに前回の帰還者から詳しく述べられておると思うのですが、六百七十ルーブルのかせぎ高がなければ、手取り百五十ルーブルにはなりません。というのは、六百七十ルーブルの中から四百五十六ルーブル引きますと、大体二百十ルーブル、二百十ルーブルの七〇%ですから大体百五十ルーブルで、ラーゲルで渡されるところの賃金は、百五十ルーブルが普通の労働においては限度であります。だから、あとは千ルーブル働こうが二千ルーブル働こうが、百五十ルーブルの最高限がきまっております。従ってわれわれとしては、従前から六百七十ルーブルのベース以上働くということはやりません。何のためにやらぬか、ソ同盟強化のために来ておるものでもなければ、建設に来ておるものでもない。ただ百五十ルーブルはわれわれの最低生活を維持するために働く。それだけの考えでございます。ただ現在においては、フルシチョフが例の建設問題に関する建築工業者の集会を開いて以来、ノルマが非常にきつくなって参りました。そのために、それ以降は、従前百五十ルーブル取っておった者でも、五十ルーブル、四十ルーブル、あるときはゼロ、最近において最高を取ったのが七十で、大体三十から四十ルーブルが平均です。それだけのお金があれば何を買うことができるかといいますと、御参考までに物価を申し上げますと、砂糖一キロが十一ルーブル三十カペーク、マーガリンが十六ルーブル前後、バターは二十八ルーブル八十、ジャムが十二ルーブル、たばこは一番下級の方で、シガレットの二十本入りが大体一ルーブル三、四十、パピロスになりますと二ルーブル五、六十の見当で通ります。そのような状態であります。
○戸叶委員 慰問品をもらいましたときに、一応中を見て、そして皆さんに渡されるのでしょうか。そうした場合に、もしも日本の新聞紙などに包んでいたしましたときには、そういう新聞はみんなとられてしまうでしょうか。それを伺います理由は、この前伺いましたときに、皆さん方が日本の新聞を何とかして読みたいというような御希望がございましたので、そういうふうにして包んだものでもなんでもとられてしまうかどうか。
○佐々木参考人 ハバロフスクの、ゲールにおいては、書いたものは無条件で全部引き揚げます。それは新聞であろうと、雑誌であろうと、手紙であろうと、全部引揚げております。
○戸叶委員 写真なんかはどうですか。
○佐々木参考人 写真は引き揚げておりませんが、もし裏に何か書かれてありますと、通訳がそばにおればそのまま渡す場合もありますが、一応引き揚げて点検したあとで渡すことになっております。人形などをお送りになっても、全部解剖されて、そのままの状態で渡されます。
○戸叶委員 私ども参りましたときに、第二収容所、第三収容所のことを伺ったのですが、第二収容所、第三収容所の様子は、あのときにお話願えなくて私ども帰って参りました。途中で、ほとんどでき上ったビルディングの上に四、五十人いらっしゃったであろうかということがわかったのですけれども、第二収容所、第三収容所の内容がおわかりでしたら伺いたい。
○佐々木参考人 第二、第三の収容所のできました動機は、昨年の九月から十月にかけまして、奥地の方から約四百名の人員が集まって参りました。そのとき、われわれは今年こそ一部の者の帰還があるだろうという非常なる大きな期待を持っておったのであります。とういうのは、千名しか収容できない第一収容所に四百名の人員がふえたのでありますから、場所が非常に狭く、冬に向って空気が非常に悪く、大へんな状態を呈しておったのであります。そうして十一月、十二月、一月と暮れて二月になったのでありますが、ちょうど吉田内閣の崩壊時にぶつかったために、その帰還はおくれたので、変更になったのではなかろうかと、その当時われわれはひとしく考えておりました。原因はどこにあるかわかりませんが、われわれのあの当時の考えでは、内閣の倒壊ということが非常に大きな原因である。二月に参りまして、これ以上、現在の住居の状態ではいけないというので、第二、第三分所の開設が行われました。それで第二分所の方は大体日本人が百名おりました。作業に出ておる者は大体五十名と聞いております。第三分所の方も日本人は二百名でありますが、大体の人員は、朝鮮人、支那人であります。第六分所の方の日本人の移動に際しては、あとからの追加は、大体定評のある人たちがそちらの方に移動されて、現在百名になっております。
○戸叶委員 私もう一点伺いたいのですが、帰って参りましていろいろ様子を聞かれましたときに、私どもが行きましたときには非常にきれいでありましたけれども、中で、私どもにささやいた方が、勘で、たれか来そうだという、勘で人が来そうだということは、つまり非常にお掃除がやかましかったから、来そうだということがわかったというお話がありましたが、そのことも帰って参りまして申しますのと、もう一つは共産党の教育はどうかということを聞かれましたので、その点については、共産党の教育をしても、むしろ皆さんは受け付けないようになっている。むしろそれよりも共産党の人が少しいても、ほかの人によって批判されるくらいだというふうに言っておりましたけれども、このことは事実でしょうか、伺いたいと思います。
○佐々木参考人 共産党の批判に対しては、われわれの収容所の空気は、思想の研究とか主義そのものにこだわるというような態度をとっておりません。ただ終始一貫、収容所のいわゆる生活のガンになっているその十数名の浅原一派の生活態度、彼らのやってきた根深い歴史的役割、そのために、いわば共産主義に対する考えを持っているのだろうと思う。従って、もしほかの人が社会主義あるいは共産主義を説くなら、あるいはそういう考えになっていないのではないかという点が非常に多く見られました。
○戸叶委員 私の大臣に対する質問を保留いたしまして、これで打ち切ります。
○原委員長 あとまだ六、七名の人がありますので、質疑はなるべく簡単にお願い申し上げます。木村文男君。
○木村(文)委員 私の質問は、きわめて個条的に簡単に申し上げます。質疑に入ります前に、武藤さん初め四名のお引き揚げになってこられた方々、並びに今回の全引揚者に対しまして、長い間のごくろうを心からおねぎらい申し上げます。なお私はこの言葉をささげますが、皆さんを通して、はるかに今日も収容所に呻吟せられて、祖国の将来を考えながらおられるところの戦犯の方々、抑留の方々にも、同様の気持をささげたいのであります。
 さて、私はまず第一に武藤さんにお尋ね申し上げたい。その一つは、将官でかってあられた方々の生活には、御自分でこれをまかなわなければならないという先ほどの御説明でございました。このように私はとったのでありますが、その生活費は、どこからそれではお入れになったかということを、まず第一点にお伺い申し上げたい。
○武藤参考人 先ほどの私の言葉が不備であったために今の御質問を受けましたのですが、われわれを生活さすためのものは、彼の負担であります。ただそのかわり、あとの働きということは、所内作業の者には一切出ません。金はくれません。表に行って働く若い人は、一月食べたほかに十五ルーブルの手当をいただいておる。けれども、負担と申しまするは、あとの、自分の好みに応じて何か買うというのを申し上げたのであります。どうぞそのように御了承を願います。
○木村(文)委員 第二点として、元将官の方々に対して、その他の方々がどういうような感情をお持ちになり、そうしてどういうようにして皆さんが将官の方々に接せられていたか、その内容を承わりたい。
○武藤参考人 現在イワノボに残っております将官は二十二名でありまして、そのほかの者は、将官給与以外の一般給与を受けております。ところが、わずかな人で別な炊事をやるということは、非常にむずかしいのでありますから、それで一緒にして、われわれの分を全部突っ込みまして、同じものをちょうだいしておりました。ただ、いわゆる細菌戦のことであすこに山田閣下ほか数名の将官がおられました。それで、バターなどは、将官だけに毎日四十グラムしかいただけません。その四十グラムをほかの人に分けてもほんの少しなので、山田閣下ほか数名の方は非常に御老年でありましたから、将官だけで食べておられたのであります。ところが私らが参ってだんだんふえて二十四名になりましたが、そこは普通の人が十二、三名でしたから、その人に同じ量を分けて、全部平等な食事をしておりました。ところが、昨年の暮れに、お前らは日本に帰るのだというので、将官が四名ハバロフスクに集められました。そうしたところが、 ハバロフスク・ラーゲルは労働ラーゲルでありますから、将官給与はありません。それで、前の第三次引き揚げのときに帰れると予想して、同様のものを食べて、文句を言わずそのまま甘んじておったのであります。ところが帰れなくなったので抗議を申し込みまして、給与を将官給与にせよということを申したのであります。ところがその中に一名の文官の方がおられましたが、文官は将官として認めないというのです。向うでは、その人も入れて文官が二名おりましたが、それに対しては将官の給与をしましたけれども、ハバロフスクに来ては文官は認められない。それで結局ハバロフスクでは、三人が将官給与を受けておったのであります。ところが私が今度行って、結局そこは四人になったのであります。その少し前に、将官給与を給するというモスクワからの指令がありまして、将官だけ別に扱われておったわけであります。ところが、もらいに行くときには、窓口は一緒です。そうして名前を武藤なら武藤と言うと、向うが将官の給与を出してくれるわけです。ところが、こまかく申しますが、ほしくだものがありますが、それは四人にしかくれません。人はたくさんおりますが、四人だけです。それから将官はバター四十グラム、チーズが二十グラムありますが、あとの人は一句ありません。そうして、そういうものをもらうのは、千名近くの中のたった四人ですから、はなはだ心苦しいのです。四人だけが特別給与を受けるということは、心苦しいのでお断わりしたかったのですが、何しろそういう制度になっております。また私が行ったときは、将官には特別に菓子もありました。そういうものを若い人にやりますけれども、向うも遠慮されます。しかし別にそれがために気を悪くしておられるとは思いません。イワノボの方は、むしろわれわれが皆さんに食べていただいているのですから、そちらの方は全然そういう給与上の不平は持っておりません。ただ今のように、手近くの人間の中で四名だけが特別のものをごちそうになっているということは、私ら食べる方は心苦しく思ったのであります。皆さんの感情は、そのときにハバロフスクにおられました人がここにお二人いますから、その方から直接お聞きを願えればけっこうだと思います。
○木村(文)委員 それでは、次に佐々木さんにお伺い申し上げたい。私は農林委員会の方にちょっと出ましたので、その間に、あるいは同僚の戸叶委員から、お尋ねやら釈明やらあったかもしれませんが、聞き漏らした点もあるようでありますので、重複になったときには一つお許しを得まして、私なりに尋ねさせていただきたいと思います。
 第一番は、訪ソ議員団に対して、先ほどの御説明によりますと、お手紙なりあるいは新聞に掲載して、国民大衆に、われわれのこの祖国愛の精神を伝えていただきたいということの切々たる御依頼を受けたということを聞いて、私は泣かされました。ほんとうにそこまで祖国を思い、みずからをいけにえにしても、なお日ソ交渉の大本を誤まってはならぬという、その民族百年の大計のために、はるかなる空においてなお戦おうとするその御精神には、ほんとうに敬服せざるを得ません。われわれが力なさのために、皆さんをまだああさしていることを、心からおわび申し上げたいのであります。そういう意味からして、何通ぐらいお頼みになられたのか、これをまずお聞き申し上げたいのです。
○佐々木参考人 全体として、だれが何遍ということは、千名の数でありますから、私は存じ上げておりません。ただこちらに来るときに、こういう意味の手紙を託したのだが、それが果して国民に届いているかどうか、行ったら一つ見ていただきたいと言って私に話された者は三名あります。それは安井、千葉良平、荒巻、この三名であります。
○木村(文)委員 御三名のようでございますが、その方々は、御豪族に対してのお手紙であったかどうですか。
○佐々木参考人 それは、御家族に対する手紙ではないように私は承わっておりました。
○木村(文)委員 それでは、御家族に対してでないお手紙ということなら、私は国民に対するお手紙と解しますが、差しつかえございませんか。
○佐々木参考人 そうであります。
○木村(文)委員 国民に対する手紙であるとするならば、これは少くとも日本の三大新聞に公開せられて、そして国民大衆に、われわれの同胞がいかに日ソ交渉の問題やら、国の将来を思うているかということを知らしめねばならないと思いますし、またそれが当然だと思うのですが、その調査を頼まれて参りました佐々木さんも、そうお考えでございますか。
○佐々木参考人 同様であります。
○木村(文)委員 事きわめて重大になって参りました。私は、これは将来の国会における大きな問題だと考えております。従いまして、次のことをさらに佐々木さんにお尋ね申し上げたい。その内容はどういう内容であったか、もう一回御説明願いたいのであります。
○佐々木参考人 その内容については、私は全文には接しておりません。ただ安井氏は、あの訪ソ議員団が来られた際に、青年に与うということで問題を出しておられましたから、多分その内容ではないかと推察するだけであります。
○木村(文)委員 非常なる興奮の面持と、祖国の将来を案じての先ほどの涙ぐんでの佐々木さんの御説を、私はつつしんで拝聴いたしましたが、そのお言葉の中に、浅原何がし外十二名の者の行動というようなお話がございましたが、その姓名はおわかりでございますか。
○佐々木参考人 訪ソ議員団がハバロフスクに来られたときに、彼らは発言をしましたのですが、先ほど申し上げましたように、発言は封鎖されました。その後に彼らは、自分の共同声明を食堂に発表しておりました。それがおそらく彼らの言いたい一部であったのではないかと私は思うのでありますが三三。
○木村(文)委員 十二名の姓名です。
○佐々木参考人 それは、浅原、吉岡志田、高田、原、鶴賀、牧野、佐藤、山下、林、湯津堂、前田、三村、まずそういうところでございます。
○木村(文)委員 そのただいま御発表下さいました名前の方々は、訪ソ議員団が参りました際に、どういうような言動をとられたか、その内容を御発表願いたいと思います。
○佐々木参考人 そのときは、ただいまも申し上げましたように、集会のときには彼らの言論は圧殺されてしまったのであります。黙れッ、やめやめという声によって、彼らは言論を完全に封鎖されてしまったので、彼らが何を言わんとしたのか、私どもはそのときには知ることはできませんでした。
○木村(文)委員 そのときに、国会を代表して参りました国民代表としての国会訪ソ議員団は、どういうような御態度でございましたか。
○佐々木参考人 野溝勝氏がその議場の騒然たる状態をながめられまして、遺憾の意を表明しておられました。というのは、思想は思想として、まあ君たち仲よくやりたまえ、こういう言葉を漏らしておられましたから、遺憾の意を表明しておったと私は解釈をいたしました。
○木村(文)委員 あと先になりますが、お尋ね申し上げます。訪ソ議員団の当初のごあいさつは、どういうような内容でございましたか。
○佐々木参考人 最初に野溝勝代議士が全員を紹介しました。われわれに対して、その十年の苦節に対して御苦労であるという言葉を言っておられました。その後に、穂積代議士をして、日ソ交渉の経過について報告がありました。以上であります。
○木村(文)委員 その内容について……。
○佐々木参考人 だれのですか。
○木村(文)委員 その日ソ交渉の経過についての報告があった、その内容を……。
○佐々木参考人 日ソ交渉については、五つの問題が懸案になっておる。第一が戦犯問題第二が領土問題、第三が漁業権の問題、第四が通商問題、第五は国連加入の問題である。第一の問題については、フルシチョフ党書記との会見のときに、交渉の成立によって戦犯問題を解決するというふうになっておる。領土問題については、千島、樺太問題は、これはサンフランシスコ条約を改訂するのでなければ、この問題の解決は困難であろう。歯舞、色丹についてはその可能性はある。通商及び漁業権の問題については、具体的にその内容を申しておりませんでした。第五の国連加入の問題については、ソ連側の同意を得てきたということも申し述べておられました。
○臼井委員 私も実は訪ソ議員団の一人として行ったものでありますが、ここで関連して御質問を申し上げたいのは、一がいに訪ソ議員団といいますと、非常に誤解を生ずる憂いがありますので、この際記録にはっきりいたしておきたいのであります。二十二日にモスクワを立ったのは、本隊は、北村団長以下十二名がイルクーツクへ向いまして、あそこでおそらくハバロフスク訪問の許可がおりるとわれわれは期待をいたしておったのです。ところがそれがおりないで、北京へ着いた。二十四日の日に、ポーランドを訪問した社会党の十三名のうち八人が戻ってこられたときに許可がおりた。社会党の方が八名行かれたわけですが、ところが加藤高藏君が病気で、随行の中尾君と残ってモスクワにおりましたので、これを知って北京に電報を打って、許可がおりたから、そちらの本隊も行くようにソ連の大使に交渉しろ、こういう電報を打ったのです。交渉して、本国の方へソ連の大使も交渉したが、結局北京にいる五日の間に許可がおりずに、涙をのんで、ついに帰国せざるを得なかったというのが実情のように聞いております。辻政信氏あたりも、イルクーツクにおいては、石を五十ばかり集めて持って帰った。通訳が何にするのだと聞いたところが、自分たちはハバロフスクへ行けない。手紙を托されてきて、またそのことずても手紙も持って帰ることは、まことに留守家族に申しわけない。そこでせめてこの石を持って帰って、そのおわびにするのだということを通訳に話したそうです。そこでお伺いしたいのは、ハバロフスクへたずねた。しいていえば野溝第二副団長とでも申しましょうか、その訪ソ議員団の一部の方がおいでになったときに、何か数が少いとお感じになったのではないか。あるいはまた社会党の議員だけがなぜ来たのか、こういう疑問も持たれたのじゃないかと思いますが、そのときの皆さんの御様子、お考えはどうですか。
○佐々木参考人 十二名の代議士が来られたときに、私どもはそれが社会党だけの代議士であるという想像をいたしました。というのは、社会党の方々がポーランドに回った。そのポーランドに回った人たちがおいでになるとすれば、帰路、欧州を回るのではなくて、こちらを回るということならば、野溝さんを団長とする一行とすれば、社会党の代議士であろうという期待を持っておりました。果せるかな、御紹介をいただきましたときは、野溝さん一行でありましたが、別に驚きもしませんでした。当然のことのように私どもは理解しておりました。
○臼井委員 ほかに北村団長、そのほかの方がどうして来なかったのか、社会党だけ何か特に許可を下したようにお考えになったことはございませんか。
○佐々木参考人 北村団長の方はイルクーツクを経て、北京の方に渡られたという放送をわれわれはすでにラジオで知っておったものですから、残されたのは社会党であるというふうに想像したのであります。
○戸叶委員 先ほどのお話の中で、野溝団長がみんなを紹介しまして、そのあとで日ソ交渉のお話を穂積さんがなさいました。最後の国連加盟のことは、ソ連から確約を得ておるということはおっしゃらなかったと思うのです。私、一生懸命聞いていたのですが、このことは、ぜひ国連に加盟できるように頼んできたというふうにおっしゃったと思います。私はそう聞きましたが、その辺のことをどうお聞きになりましたか。そのあと経済問題について各議員が説明し、また私どもが婦人問題を説明し、みんなそれぞれの分担をお話したと思うのです。それから野溝団長が最初のあいさつのときに、実はこの議員団は三十八名だったけれども、ソ連側からの返事がおそくなったために、社会党だけがポーランドへ行って、その人間がこっちへ来たのだということをはっきり皆さんに申し上げたはずですけれども、そのことは御記憶にございませんですか。
○石野委員 ただいまの問題の途中ですが、私は一言だけお聞きしたいと思います。皆様御苦労さまでありました。私も実はイワノボに訪ソ議員団の一員として参りまして、皆さんにいろいろお語いたしました。あとハバロフスクの方へは、いろいろな都合で参りませんでしたが、ただいまの戸叶氏の発言にあります説明のことについては、イルクーツクで別れますときに、全部分散しましたから、この分散した理由だけ皆さんにくれぐれも言うようにということを――私は労農党でありますが――言っておりますので、おそらく戸叶さんが言われるように、最初に御説明なさったろうと思いますが、一応皆さんの御記憶を呼び起してもらいたいと思います。
 なお若山さんが言われましたお話の中に、金城五郎とかいう方がおりました。この方が訪ソ議員団の方々が帰られたあと、おれはもう働かぬぞということで激高なさったというお話があり、そのあとで結局皆さんが非常に日ソ交渉の成り行きに期待しておったというお話を承わりました。私もそれはそうだろうと思いますし、イワノボに参りましたときにも、皆さんはもうことしのうちにはおそらく帰れるようになるのではなかろうかということを申しておりました。私たちも、ドイツのアデナウアーの事情なんか考えまして、場合によれば、そういう事情になるかもしれないから、できるだけそういうふうにお骨折りしようということを話したわけでございます。そこで、その日ソ交渉の成り行きに期待を持つということについて、皆さんなりにお考えになっていることについて、どういうふうな内容をお持ちになって、この日ソ交渉の成り行きを見ていたかということを一つお聞きしたいと思うのです。佐々木さんがそれに関連しておっしゃいました、われわれは人質として抑留されているのだ、国策のためには、どこまでも国策としての自覚を忘れないで、大綱を曲げないようにしてほしいと言う皆さんの見るこの国策なるもの、それは皆さんは大体どういうふうに見ておられるのか、この二つの点を、若山さんと佐々木さんからお伺いしたいと思う。
 それからなお最初にしましたあいさつの問題についても、もしこの機会に記憶が何されるようでしたら、一つお伺いいたしたいと思います。
○若山参考人 日ソ交渉の成り行きに期待を持ったのは、やはり社会党訪ソ議員団の来所からであります。それは、その前に内地からのたよりの中にやはり書いてあった人がありまして、その内容からいうと、現在暗礁に乗り上げている問題は、戦犯問題と領土問題であるということを書いておって、やはり日本も相当要求してやっているということを私らは感じておったのですが、社会党の人が来られて、穂積代議士の日ソ交渉の経過から受ける感じは、もう日ソ交渉の問題はあまり困難なものはない、今にももうできるような印象を私たちは受けましたので、そんなんだったら、ことしは帰れるぞということを言うておりました。それで期待を持っておりましたが、発表も何もないし、物別れになって越冬しなければならぬのだなということで、期待はずれをしたわけであります。経過はそれだけであります。
○佐々木参考人 まず戸叶代議士にお答えをしたいのでありますが、確かに野溝代議士は、あなたが言われたようにあいさつをされておられました。
 それともう一つ、私は簡略に申し上げたのですが、あの席上で、穗積代議士の発言のほかに、岡田代議士から、経済問題について、それは土地問題あるいは生産力の問題等について、あるいは人口問題についてお話があったことを記憶しております。またあなたからは、婦人の問題あるいは教育の問題について申し述べられたことを私は記憶しております。さらに国連加入の問題については、私どもが確約を受けたということは言い過ぎであったかもしれませんが、肯定的な結論を得た。そのことに対して、私どもはそういう印象を深めたのです。今若山参考人もその記憶を新たにされたようでありますが、肯定的な印象を受けたという感が非常に強かったのであります。それで、私はきのう、おとといにかけての新聞で、ソ連が一括云々でもって日本の国連加入をけったという記事を見て、実は意外の感に打たれたのであります。
 さらに労農党の方の御質問にお答え申し上げますが、われわれの言う国策云々ということは、ラーゲルで一般的に考えていることは、領土の問題、これは現在南樺太と千島がソ連に占領されております。一般的な考え方としては、日本は八千八百万人もあって、人口の濃度がきわめて緻密である、従ってわれわれの当然な領土的要求に対しては、あくまでもその線を守るべきであるという見解を持っておりまして、実はきのう新聞で、南樺太あるいは歯舞、色丹で折れ合うという記事を見たのでありますが、ラーゲルの中では、どの程度まで日本が要求しておるのか、それは全然わかりませんでした。というのは、ソ連の新聞はこの日ソ交渉の問題については、現在まで一言も触れておりません。従ってわれわれは、日本が何を要求し、何を望んでいるのかわからなかったのでありますが、領土問題というからには、歯舞、色丹のごとき根室行政地区に入っているものが問題になるというふうには私どもは考えてなく、当然千島と樺太が問題になると考えていたのでありますが、私どもはあのフルシチョフとの会談の新聞記事を見たときに、意外な感じに打たれました。
 もう一つ修正しなければならないことは、今、若山氏に言われて記憶を呼び戻したのでありますが、サンフランシスコ条約の改訂の問題であります。千島、樺太の問題は、サンフランシスコ条約を改訂するのでなければむずかしい、その問題は、小笠原、琉球等も含めて解決をしなければ、むずかしいということを言っておられたことを訂正いたします。
 最後に、もう一つの国策の中には、領土問題のほかに、通商とかあるいは漁業権の問題、漁業もこれは日本の死活問題でありましょう。こういう問題に対しても、有利な条件をもって条約を結ぶようにやることは、これも国策の一つであろうというふうに私どもは考えておりました。また交渉の内容については、今申し上げたように、われわれはその本体、実態については日本から来るたより、あるいは穂積代議士の言われたことによって、五つの問題がこの日ソ交渉の内容になっておるというふうに理解をいたしました。
○木村(文)委員 そこで私は最後に、先ほど戸叶委員からの御発言によりますと、佐々木参考人の御説明にありました託された手紙のことにつきましては、その三名の者については、目下事務当局において調査を進めているというお話でございましたので、私は同委員に対しまして、この機会に一つお願いを申し上げておきたいのであります。これは公式の意味において申し上げなければならない重大なことだと思います。それは何であるかといいますと、先ほど佐々木参考人が申すには、託された国民大衆に対する伝言、これは新聞発表を通じてぜひ伝えていただきたいというものですが、その中に「青年に与う」という書があったということである。私はこれはきわめて重大であると考えます。もしそれが事実だとするならば、社会党の訪ソ議員団の諸君が、これを託されて参りまして発表しなかったとするならば、私はきわめて遺憾なことであると思う。もし発表しないつもりならば、当初からこれをお預かりしないでお帰りになるべきであったと私は思う。これをお預かりしたということは、発表することの承諾であると私は考えます。従いまして、これを発表しないというのは、いかなるお考えのもとにこれを発表しないのであるか。その詳細について、当時お預かりをして参りました訪ソ議員団の方によくお聞き取りの上、当委員会においてその経過を御報告願いたいと思うのであります。
○戸叶委員 ただいまの木村委員の御発言でございますが、先ほどの御発言もありまして、私当時参りましたときに預かってきた書類をまとめております事務当局のものと連絡いたしました。そうして、はっきりいたしましたことは、北海道の荒巻さんという方は私ども全然知りませんでした。ただ名簿に出ておりますのは――荒関俊一さんからのお預かりの書類がございまして、それをお送りいたしましたところが、それは全然返ってきておりませんから、おそらくお手元に着いたと思います。それからもう一つ岩手県の千葉さんというお名前は、全然この名簿にございません。それから安井武夫さんという方は、ただ名前だけをここにお書きになったようで、その名前は載っておりますけれども、どこの住所かわからないという中に入っておりまして、クェスチョン・マークがついております。
 なお、私が預かりましたのは六十九通でありまして、これは遺書であり、遺品であり、あるいはまた個人の手紙でございましたので、これはお届けいたしました。他の議員がお預かりいたしましたのも、だれがどの方のものを預かったかということはみなしるしをしてありますから、あとでこの帳面をごらんになるとおわかりになると思います。
 それからお預かりして参りました手紙にいたしましても、書類にいたしましても、私ども参りましたときに、私は県の方の新聞社の人に全部見せましたし、またそれぞれ預かってきた人が責任を持って、それを新聞社に公表いたしましたけれども、それを載せた新聞もあれば、載せない新聞もある。中にはピック・アップして載せたものもある。こういうことを御了承願いたいと思います。
 なお、もっと御不満がございましたならば、一緒に参りました訪ソ議員団の方に次の委員会に出ていただきまして、そうしてその点をはっきりさせていただきたい、こういうふうに考えます。
○原委員長 これにて参考人よりの事情聴取を終ります。
 最後に、本委員会を代表いたしまして、委員長より、参考人の方々につつしんで厚く御礼を申し上げる次第でございます。大へん長時間にわたり、非常に貴重なお話を詳細にお話し下さいまして、本委員会として、引揚問題の解決の上に非常に参考になりました。ここに委員長として、皆さん方に重ねて御礼を申し上げる次第でございます。
    ―――――――――――――
○原委員長 この際、お諮りいたします。今国会も十六日で会期が終了いたすことになっておりますので、閉会になります場合、引き続いて本委員会に付託されております海外同胞引揚及び遺家族援護に関する件について、閉会中も継続審査を行うため、議長に対し、閉会中審査の申し出をいたしたいと思いますが、御異議ありませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○原委員長 御異議なしと認め、さよう決定いたします。
    ―――――――――――――
○原委員長 なお、ただいま閉会中の審査の件について御決定願ったのでありますが、過日の委員会において決定いたしました興安丸の入港に際して委員を派遣し調査を行う件につきましては、興安丸の舞鶴入港の予定が十八日に延期されましたので、閉会中に委員を派遣することになりますが、本委員派遣の件については、委員長に御一任願うことに御異議ありませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○原委員長 御異議なしと認め、さよう決定いたします。
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○原委員長 請願審査については、これを延期いたすことといたします。
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○原委員長 明日は、海外同胞引揚に関する件について午後一時より開会いたすこととし、本日はこれにて散会いたします。
   午後四時四十二分散会