第025回国会 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第4号
昭和三十一年十二月三日(月曜日)
    午前十一時四十二分開議
 出席委員
   委員長 原 健三郎君
   理事 臼井 莊一君 理事 堀内 一雄君
   理事 櫻井 奎夫君
      逢澤  寛君    田中 龍夫君
      仲川房次郎君    保科善四郎君
      眞崎 勝次君    眞鍋 儀十君
      井岡 大治君    受田 新吉君
      下川儀太郎君    三鍋 義三君
 出席国務大臣
        厚 生 大 臣 小林 英三君
 出席政府委員
        厚生事務官
        (引揚援護局
        長)      田邊 繁雄君
 委員外の出席者
        厚生事務官
        (引揚援護局未
        帰還調査部長) 吉田 元久君
        参  考  人
        (山西地区引揚
        者)      澄田らい四郎君
        参 考 人
        (山西地区引揚
        者)      山岡 道武君
        参  考  人
        (山西地区引揚
        者)      百百  和君
        参  考  人
        (山西地区引揚
        者)      早坂 ]蔵君
        参  考  人
        (山西地区引揚
        者)      小羽根建治君
    ―――――――――――――
十一月二十九日
 在ソ抑留同胞完全帰還に関する陳情書外一件(
 静岡県議会議長塚口勇作外一名)(第四〇三
 号)
 海外抑留同胞引揚促進等に関する陳情書外一件
 (鳥取県会議長木島公之外一名)(第四〇五
 号)
 海外抑留同胞引揚促進に関する陳情書(相馬市
 議会議長佐藤清照)(第四四七号)
を本委員会に参考送付された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 遺家族援護に関する件(無名戦没者の墓に関す
 る問題)
 山西地区残留同胞の現地復員処理に関する件
 閉会中審査申出に関する件
    ―――――――――――――
○原委員長 これより会議を開きます。
 初めに、遺家族援護に関する件について調査を進めます。
 この際、厚生大臣より無名戦没者の墓の問題について発言を求められておりますので、これを許します。小林厚生大臣。
○小林国務大臣 委員長のお許しを得まして、この際、無名戦没者の墓の問題につきまして、私から御報告を申し上げたいと思います。
 御承知のように、無名戦没者の墓の問題につきましては、昭和二十八年の十二月十一日の閣議決定によりまして、できるだけ早くこれらの遺骨をお納め申し上げたいということで、今日まで参ったのであります。もちろん、これらの関係諸団体にも、これはたしか二十九年の六月と思いますが、おいでを願いまして、いろいろ御意見も拝聴いたしたのであります。その当時の御意見といたしましては、墓の規模でありますとか、あるいは構造でありますとかいうことは、これは別の問題といたしまして、とりあえず早く場所をきめてもらいたい。しかも、その場所はできる限り千代田区の区内の三宅坂付近が望ましい、こういうふうな御希望もあったのであります。厚生省といたしましては、これに基きまして、各地の候補地を検討いたしておったのであります。いろいろ経過もございましたが、ちょうど去る十一月二十八日の閣議の際に、今、厚生省では八万何千体、約九万体近くのこれらの無名戦没者の遺骨をお預かりしてあるわけでありますが、早くこの問題を解決しなくては申しわけないということで、一日も早くこれを決定してしまおう、こういう各閣僚からも御要望がございまして、それに基きまして、厚生省と宮内庁との間においていろいろ打ち合せをいたしたのであります。と申しますのは、私どもといたしましていろいろな候補地を検分いたしました結果、現在半蔵門から九段の方に向って電車道を参りますと、ちょうど三番町のところを右に切れまして、千鳥ヶ渕の元賀陽宮の屋敷がありましたあの地であります。あそこが一番景観上もよろしいし、非常にいい場所ではないか。かたがたそういう関係団体の御希望もありますので、あそこが一番よろしいということに考えまして、宮内庁と交渉を続けましたが、宮内庁においても、そういうことにお使い下さるのであれば、宮内庁としても異議はないということでありました。ただ、かえ地の問題等は宮内庁からもいろいろ御希望がございますが、交換問題等でなしに、とりあえずそれをお使い下さるということに異議はない、こういうことでございましたので、実は本日それらの無名戦没者の墓につきましての関係団体にもお寄りを願いまして、私からもそのことを申し上げましたところ、満場異議なくそこでけっこうだということに決定いたしましたので、明日の閣議におきましてそこに決定いたしまして、そうして、でき得れば近く、できるだけ早い機会に地鎮祭だけでもやらしてもらったらどうか、こういうふうに考えている次第であります。このことをこの機会に御報告申し上げたいと思います。
○原委員長 逢澤寛君。
○逢澤委員 ただいま厚生大臣から、無名戦没者の墓、無名戦士の墓の建立につきまして御説明がありました。私的には、先ほど大臣から仰ぜになりましたように、先刻の会議におきまして了承をいたしたのであります。もとよりこれは日本遺族会が非常に深い関心を持っておりますので、その意見を伝えまして、大臣の御答弁をいただいておるのでありますが、しかしながら、これはいやしくも戦没者二百万人の英霊のその精神にも影響のある問題でありますから、ここにこの会議の会議録に残しておく必要があると思いますので、重複になるかもしれませんが、ここにお尋ねを申し上げておきたいと存じます。
 二百万の英霊の遺族、すなわち八百万の御遺族は、この問題に対して非常に大きな関心を持っております。その一点は、無名戦没者の墓の建立に対しては、これは反対するものではありません、むろん賛成をするものです。いわんや市ヶ谷のあの部屋に八万数千体の御遺骨が二年も三年も続いて奉安されておるということのこの実情をよく承知しておる者といたしましては、これは一刻もすみやかに何とか処理せねばならぬという気持は持っております。しかし、今まで伝えられておりますこの墓の性格につきましては、幾多の疑義があるのです。その疑義と申しますのは、靖国神社に対する信仰の対象が二分化するのではないか。二百万の戦死者の英魂は、今度帰る折は九段の森で会おう、こういう気持で戦死しておる。しかるに、御承知のように、現下の靖国神社に対しては、国家が精神的、経済的にあたたかい手を延べる措置は何らとられていない。しかるに、八万数千体の無名戦没者の墓に対しては、国家がこれに国費を投じ、さらに国の力によってこれを護持していこう、こういうことになります。そこで、前提に申し上げましたように、これにりんきをしたり、うらやむのではないが、片一方のごくわずかのものに対しては、国費を出して精神的なあたたかい手が伸ばされるのに、本体である靖国神社に対して何らの措置が講ぜられない前にこの措置が講ぜられるということに対しては、非常に不安を持っておる。そこで、大臣に明確にしておきたいことは、戦没者の英霊に対する国民的の信仰の対象は、これは靖国神社にあるということは、何人も否定することはできぬ。そこで、今度できまする無名戦士の墓によって信仰が二分化される、こういうことになってはいかぬと思います。そこで、これは決して二分化するものでない。ただ八万数千の今、市ヶ谷の奉安室に奉安してある御遺骨の埋葬、そうしてさらに今後海外から集骨する予定のあるお骨の収納所である。そうしてその収納所に対する墓標としてこれを建設して、決して靖国神社と対立するものでないというお考え方であると拝承するが、それに違いはありませんでしょうか、いかがでしょうか。
○小林国務大臣 靖国神社にお祭りしてありまするみたまというものは、今、逢澤さんの仰せになりましたように、国民全体の崇敬の的でございます。これはみたまがお祭りしてあるわけでございます。今私が申し上げました無名戦没者の墓というのは、あくまでも今、引き取り手のない、俗に申しますならば、無縁仏の遺骨であります。その遺骨をそのままにほうっておきますることはいかにも申しわけない。こういうようなわけで、政府といたしましてもさきの閣議で相談いたしまして、すでに閣議決定になっておる事項であります。この閣議決定事項を遂行いたしますために、その遺骨をお納めする墓を作る、こういうことでございますから、今、逢澤さんのおっしゃいましたように、靖国神社のあのみたまを二分するとか、そういうことは毛頭考えておらないことを、明らかに申し上げておきたいと思います。
○逢澤委員 もう一点お尋ねして、ここに記録に残しておきたいと思いますのは、今、厚生大臣からお話のありましたように、決して信仰の対象を二分化するものじゃない、あくまでも全戦没者の英霊の対象は靖国神社である、こういうお話であったと了承するのであります。従いまして、そういうようなお気持で建設されるお墓であるとするならば、たとえていいますと、外国の代表者、外国使臣などが日本を訪問した際に、儀礼的に無名戦士の墓に対しては参拝するという国際慣例があります。そうすると、二百万の霊はここに泣く。八万数千の霊に対しては国賓として参拝をするが、本家である二百万の英霊に対しては参拝していただけぬ、こういうことを遺族の者は非常に心配しているのです。そこで、これに対しては私どもも非常に言いにくいことでありますが、靖国神社が、将来何とか国会におきましても皆様の御協力をいただいて――ほんまに腹の中では、靖国神社は何とかしてやらなければいかぬというお気持はあるのであります。それを実現していただきますまでは、それは国家の代表的な機関じゃない、代表的の取り扱いじゃないという意味合いにおきまして、当分の間は――もし外国の使臣などが個人的に参拝なさることは、これは阻止することはできません。けれども、政府みずからが案内をして、あるいは招待をして、これに参拝をするというようなことはないようにお願いしたい。もとより、先ほどの大臣のお話を総合すると、そういうように聞えるのでありますけれども、これはきわめて重大なことでありますから、この機会にお尋ねして、将来に残しておかなければならぬと思いますので、一つ御明確な御答弁を願います。
○小林国務大臣 先ほどから御報告申し上げております無名戦没者の墓は、あくまでも無名戦没者の墓でございまして、今逢澤さんから外国使臣云々というような問題もございましたが、もし外国の使臣がおいでになりまして、あれはどういうものであるかというような話があった場合におきましては、あれは引き取り手のない、いわゆる無縁仏の骨をお祭りしてあるのだ、無名戦没者の墓であるということは、当然御説明を申し上げなくちゃならぬと思います。それにもかかわらず外国使臣が、それでもいいからお参りしたいということでありますれば、これまた差しとめる筋合いのものでもないと思います。ただ私は、逢澤さんにいろいろ御心配を願っております靖国神社の英霊というものは、いわゆる九千万国民の崇敬の的でございますから――今日宗教法人というものになっておりまして、憲法上どうだこうだといえば問題はございますけれども、これは今日の国民全体があれを崇敬しているわけでございますから、今後何らかの形におきまして、それぞれあれを崇敬する国民感情に対して、あるいは政府、国会等におきましても、今後適当な処置が講ぜられるべきものだ、こういうように私は考えます。
○逢澤委員 大体御答弁の趣旨はよく了承したのでありますが、しからば、今のお答えは、政府としても今度できるお墓が、決して全戦没者の英霊の対象じゃない。従って、これを代表としての取扱いはしない。もし外人などが参ると言えばこれは御勝手のことだが、これを代表として政府がこれに案内し、これに招待はせぬ、こう仰せになったと了承してよろしいでしょうか。
○小林国務大臣 その通りでございます。
○逢澤委員 私の質問は終りました。
○堀内委員 関連質問。ただいま逢澤委員からの御質疑の御心配も、要するに靖国神社が国家の管理になっていないということに心配の点があると思うのでございますが、この靖国神社を国家管理に移すということにつきましては、当委員会におきましても、前国会においても非常な熱意を持ってわれわれは検討いたしておるのでございまして、この国家管理に移すことは、いずれかの方法においてやらなければならぬと思っておるのでございますので、この点につきましては、政府におかれましても、今後ともいろいろ研究をしておいていただきたいと思うのでございます。
 第二に申し上げますことは、この無縁戦没者の合祀の範囲でございます。現在のところでは、靖国神社にお祭りしておる英霊の引き取り手のない遺骨ということになっておるのでございますが、現実において、その中には英霊以外の遺骨も入っておることを承知いたしておるのでございます。今度の大東亜戦に際しまして犠牲となられた方方は、旧軍人以外におきましても、産業戦士であるとか学徒動員でなくなった方とか、そのほか一般の原爆などでなくなられた方と、範囲が大きいのでございまして、国家としては、いずれかの時期に、これらの方々のみたまもお慰めしなければならないということを、私は考えておるのでございます。そこで、現在のところは、どの範囲になっておるか。将来、産業戦士並びに学徒動員というような方々のみたまも、いずれかの方法によってお祭りしてもらいたいことを希望しておるのでございますが、これについて厚生大臣の御意見をお聞かせ願います。
○小林国務大臣 無名戦没者の墓につきまして、遺骨はどういうふうな内容のものであるかということにつきましては、田邊引揚援護局長から答弁さす方が適当と思いますから……。
○田邊政府委員 昭和二十八年十二月十一日に無名戦没者の墓に関する閣議決定が行われておるのでございまして、その中に、この墓に納める遺骨のことを書いてございます。第一項に『遺族に引き渡すことができない戦没者の遺骨を納めるため、国は、「無名戦没者の墓」(仮称、以下「墓」という。)を建立する。』第二項に、『「墓」に納める遺骨は、政府において収集する戦没者の遺骨及び現に行政機関において仮安置中の戦没者の遺骨であって遺族に引き渡すことのできないものとする。』こうなっております この戦没者の遺骨の中には、つまり南方等に政府が遺骨収集に行ってとってきた遺骨の中には、軍人軍属だけでなしに、一般邦人の遺骨もあるかと思われます。と申しますのは、これはだれの遺骨であるかわからない、しかもそこで戦没された方の中には一般邦人もおるのでございますから、当然に一般邦人の遺骨も入っておるものと解釈をいたしております。
○堀内委員 厚生大臣にお伺いしますが、産業戦士、学徒動員等の、遺霊のことについては、どういうふうにお考えになっておりますか。
○小林国務大臣 今回のこの墓の問題につきましては、今、御報告申し上げましたように取りきめておりまして、お尋ねのような点につきましては、将来の問題として十分検討していくべきものと思っております。
○堀内委員 現在のところは、今度の問題については先般の閣議決定の線ということでありますが、将来はこの産業戦士並びに学徒動員等で倒れた方の遺霊を慰める。さらに申しますれば、終戦直後、天皇陛下が新宿御苑において全国戦没者の遺霊というお祭をされておるのでございますが、この心持を具現しまして、そして戦争に倒れた多くの人たちを全部お慰めをするということがぜひとも必要じゃないかと私は思うのでございまして、将来あるいは合祀というような方法なり、そのほかしかるべき方法をとってやってもらいたいと思うのでございます。幸い、今度の遺骨の中には、ただいま援護局長の申されたように、一般の遺骨も入っておるのでございますから、私は今度の無名戦士の墓におきましても、そういう意味も十分含んで合祀されると思うのでございます。そこで、厚生大臣に、その将来に対する考えについてお伺いしたいと思います。
○小林国務大臣 今度の無名戦没者の墓は、先ほどから申し上げておりますように、引き取り手のないいわゆる無縁仏の方々の遺骨をお納めする墓でございますから、今お聞きのような産業戦士等においてお引き取り手のない人人の遺骨をどうするかというような問題等につきましては、私は、将来の問題として、直ちにここでこうこうするということを具体的に申し上げるわけには参らないと思います。
○堀内委員 私は重ねて申し上げますが、今度の戦争で犠牲になられた人たち、換言すれば、終戦直後、天皇陛下が新宿御苑においてお祭りされた全国の戦没者の遺霊といったような意味におきまして、政府におかれましても十分検討の上、しかるべく処置を講ずることを希望いたしまして、私の質問を終ります。
○保科委員 関連して、援護局長にちょっとお伺いしたい。先ほどの閣議決定の、遺族の引き取り手のないというのは、全然わからないという意味ですか。
○田邊政府委員 引き取り手のない遺骨と申します中に二通りございまして、遺骨の氏名が全然わからないというのが大部分でございます。中には、氏名はわかっておるけれども、その人の遺族がどうしても見つからないというものもございます。これは目下遺族をできるだけ調査してお渡しするように努力いたしております。大部分はだれの遺骨かわからないというのが実態でございます。
○保科委員 先ほど逢澤委員の質問に答えられた厚生大臣の御答弁から見ますと、靖国神社は、これは外国にはアンノウン・ソールジャーズ・セミタリイというものがあるから、無名戦士の墓というものは、それと対照して、非常にアンビギァスになるのだと思う。日本のアンノウン・ソールジャーズ・セミタリーは靖国神社である。今度の無名戦士の墓というものは、援護局長からはっきりと申されましたように、無縁仏の、ほんとうに引き取り手のない人たちだ、こうはっきりしているように思うのです。先ほど堀内委員から質問されたような性質のものは、戦争の性質が昔とは非常に変ってきたんですから、当然靖国神社に合祀さるべき性質のものだと思う。そういうようなところをはっきりされて、この無名戦士の墓と靖国神社の限界をはっきりさせておかれる必要があるのじゃないか、かように私は、この質問並びに応答を通じて、特に痛感いたすのでございます。遺霊がどちらにいくのかわからぬというようなことになりますことは、遺族としてもまことに本望でないことと考えられますので、その辺のところを厚生省においてもはっきりされることを、特に希望いたしたいと思います。
○原委員長 櫻井君。
○櫻井委員 今回政府の措置によりまして、約九万体の御遺骨のお墓ができる。こういうことは、私どもも双手をあげて賛成するところであります。しかし、この際聞いておきたいことがございますので、援護局長から御答弁願います。この九万体近くの御遺骨があるということですが、これの内訳がおわかりになりますか。軍人とか軍属とか、あるいはそのほかのものがあるかどうか。この内訳をちょっとお知らせいただきたい。
○田邊政府委員 現在厚生省に安置されております遺骨の数は、約八万三千と推定されます。と申しますのは、あとでその推定ということは御説明申し上げますが、そのうちで約七万三千というものは、満州及び中国における遺骨でございます。詳しく申し上げますと、満州に忠霊塔というのがございまして、忠霊塔に遺骨が納めてあったわけであります。終戦後その遺骨を内地に持って帰ったものが約三万七千余でございます。これはそれぞれ本骨は遺族に渡っておりまして、その分骨でございます。それから中国関係におきましては、上海の本願寺に安置されておりました遺骨が約三千五百余ございます。これが日本内地に送還されております。これも本骨は御遺族に渡してございまして、その分骨でございます。分骨でございますが、その大部分は氏名が判明いたしておりません。従って、八万三千のうちで七万三千くらいが満州、中国関係でございます。残りの約一万体というものが、南方等において政府の遺骨収拾をした際に持ち帰ったものでございます。正式に申しますと、何体分かということすらはっきりわからないものがあるわけでございます。従って、先ほど申し上げました一万体というのは推定でございます。これは大部分が、どなたの遺骨であるかわからない。その中には、軍人、軍属以外の一般邦人の遺骨も入っていると推定されるわけでございます。
○櫻井委員 御遺骨の内容はわかりましたが、これが明日の閣議で決定すると、これは大臣にお聞きいたしますが、どこから予算をお出しになるおつもりですか。
○小林国務大臣 これは明日の閣議あたりで敷地の決定をいたしまして、そして地鎮祭あるいはその他の付随いたします問題については、とりあえず予備費から支出することになっております。将来この建設をどういう設計によって、どういう構造によってやるかという問題につきましては、また別途の費用から出さなければならぬと思います。
○田邊政府委員 墓の建設につきましては、すでに閣議の決定があるわけであります。これはこまかい設計等がきまりますれば、予備金で要求することに大体大蔵省と話をいたしておるわけであります。敷地がきまらない、また敷地の大きさがきまりませんと、規模、構造等もきまらない、従って、設計もできない。従って経費もきまらない、こういう状態でございますが、今後敷地を御決定いただきますれば、至急その線に従いまして、その規模、構造、設計等も進めて参らなければならぬと思います。これにつきましてもできるだけ関係方面の意見を広く聞きまして、いいものにいたしたい。従って、具体的にどういう設計になり、どのくらいの金額になるかということは、若干日にちを要するかと思います。きまりますれば、大蔵省に金を要求いたしまして、来年度予算に間に合いませんければ、予備金から支出いたしたいということで、大体大蔵省の主計局と話をして、内諾を得ておるような次第でございます。
○櫻井委員 とりあえず敷地や規模というのは、そう急にきまらないと思いますが、その場合は、予備費から流用してそういう経費を支出してやる。その計画がはっきりきまると、これは来年度予算に正式に御要求になると思いますが、大体どの程度のものを考えておられるのか。この委員会としてもこれはやはり重要な問題でありますので、規模がどのくらいのものであるか。それは敷地によって、敷地の地価や何かの問題もあるでしょうが、建物自身としてはどの程度のものを厚生省としては一体考えておられるか。その点こまかい点はいりませんから、構想の大約をお示しを願いたい。
○田邊政府委員 一応今私の方で予定しておりまする敷地の大きさだけについて申し上げます。敷地は、すでに御承知の通り、三番町の千鳥ヶ渕のところにあります宮内庁用地の一部でございます。予定は四千七百坪でございますが、そのうちで、道路に千三百坪、それから純粋の敷地が三千三百坪、こう予定いたしております。その三千三百坪の中に無名戦没者の墓が建設されるわけでございます。どのくらいの経費になるかという問題でございますが、まだその詳細な設計をいたしておりません。しかし国が建てるのでございますから、あんまり粗末なものでもいけないし、そうかといって、こういう際でもございまするので、あまり壮大華麗なものでもいけない。簡素にして、しかも厳粛な墓を建てたい、こう考えておるわけでございます。
○櫻井委員 費用の点は大体それくらいで、こまかい点はもちろんまだ計画中でございましょうから――。墓が建ったあとにおいて、この墓に対する何といいますか行事というようなもの、こういうものも考えておられるのかどうか。たとえば、今まででありましたら、靖国神社の祭礼のようなものを行うのか、墓を建てっぱなしにしておかれるのか、その墓に付随する何らかの行事というものを考えておられるのか、その点の構想を承わりたい。
○小林国務大臣 墓ができました場合におきましては、維持管理ということは国でいたしますが、行事をするとかなんとかいうことは考えておりません。
○櫻井委員 この点が非常に微妙なことになりますので、これは、ぜひとも慎重を期していただきたい。先ほどから問題になっております靖国神社の行事とこの行事というものが、今後非常に微妙な関連を持っていくと思いますので、この点は一つ十分今後御研究をいただきたい。なお先ほど御発言がありました産業戦士及び学徒動員等による犠牲者の御慰霊をこの際どうするかという問題、この点は靖国神社の今後の管理というような点にもからんで参りますけれども、私たち特別委員会では、前の国会で、靖国神社の問題を取り上げたときに、相当突っ込んでこれは研究してみたのですけれども、なかなか問題が複雑です。しかし、これは複雑であるからといって、このまま放置しておくわけにいかない問題でありますので、厚生省としては、これらの人々の慰霊をどのように扱うかというような点について、幸いこのような無名戦没者の墓ができることでありますから、この際一つ慎重に御研究をしていただきたいことを要望いたしまして、私の質問を終了いたします。
○原委員長 受田新吉君。
○受田委員 今度の無名戦士の墓に関連して、全国的に無名戦士の墓を建設する動きが各所において行われておる。小林厚生大臣の御出身の埼玉県でも、無名戦士万国忠霊塔という形ですか、何かの形で建造されているということがある。私の郷里である山口県にも、無名戦士の墓あるいは万国忠霊塔というような形で、世界のすべての戦争の犠牲になった人を含めた性格のものの計画が随所に行われていることは、政府は御存じでございましょうか。
○小林国務大臣 私の出身県でありまする埼玉県の越生には、御承知と思いますが、世界無名戦士の墓というものがりっぱにできております。これは、その土地の人格のある県会議員の方等が発起人になられまして、県でも多少の分担金を出しましたり、あるいは各方面の有力な方たちの寄付金等によりまして、相当の費用をもってりっぱな墓ができております。これは世界無名戦士の墓でありますから、単に日本人のみを対象としてはおらないのであります。これはよく承知いたしております。
○受田委員 そうした全国各地に行われておる運動、世界無名戦士の墓あるいは万国忠霊塔というような形の建設運動に対して、政府は今度計画されるわれわれの国の、いわゆる無縁仏の立場にある方たちを祭る無名戦士の墓との関連は、どういうことになるのでございましょうか。
○小林国務大臣 これは終戦直後今日までの間におきまして、今回のようないわゆる政府が管理をいたしまする無名戦没者の墓ができまする以上は、そういうふうに、各地にできるようなことはなくなると思うのです。今日までの間におきましては、各地に無縁仏の方をお祭りするというようなものが有志を中心といたしましてできたと思いますが、こういうものができました以上は、今後は各地にそういうものがどんどんできていくことはなくなるものと考えております。
○受田委員 現に進行中の、そうした各地に行われている同類型の運動に対して、たとえば寄付金を集めて建設計画中のもの、発起人会を作って趣意書を頒布した程度のものとかいうようなものが相当数に上っておることは、今お認めいただいておると思うのでありますが、それらに対して今、大臣は今後の計画は国が企画する、これにみな統合していくというところで押えられる御決意であるのか、あるいは、そういう運動も、国が今度考える無名戦士の墓に対して協力させる形にするのか、そこを一つ……。
○小林国務大臣 今、御質問の御趣旨にありましたような問題につきましては、これから発見されました各地の無名戦没者の骨は、統合してこれに持っていくような方針にいたしたいと考えております。
○受田委員 政府の意図が明らかにされたわけであすりまが、これらの運動は、国のこの無名戦士の墓の計画に協力させ、官民一体の実をあげせしめる形にするということの御意思があると認めてよろしいですね――しからばもう一つ、この無名戦士の墓を国が作ることは、憲法八十九条に「公金その他の公の財産」云々とある。その宗教上の組織もしくは団体の中で、靖国神社がどういう立場に置かれているかが今まで議論されてきたのです。この靖国神社の取扱いを、憲法八十九条に基く宗教上の組織もしくは団体のこの項目に照らして、どういうお取扱いをされようとするのか、無名戦士の墓が建設されると同時に、靖国神社の取扱いに対する政府の見解が表明されるべき段階にきていると思うのでありますが、御所見を承わりたいと思います。
○小林国務大臣 今お尋ねになりましたような靖国神社のみたまに対する今後の取扱いというような問題につきましては、私見といたしましては、これは国民崇敬の的になるべきものであるので、今後慎重に検討いたしまして、国民全体の感情に合うように進めていくべきものであろう、こういうふうに考えております。
○受田委員 そうしますと、憲法八十九条によるところの宗教上の組織もしくは団体に対する制限の取扱いは、今後いかなる形で解決をされることになるわけでございましょうか。
○小林国務大臣 この問題は、私が簡単にここで御答弁申し上げるほど簡単なものではない、これは慎重に検討していくべき問題であると考えております。先ほども、こういう席上で申し上げるのはどうかと思いますが、この無名戦没者の英霊、無名戦没者の遺骨を収集する墓を作る問題につきまして、関係諸団体あるいは国会のこの方面の関係者にお集まりを願いまして、御高見を拝聴いたしたのでありますが、皆さん異議なく賛成するということであったのであります。たまたまその席でも、今お聞きになりましたような問題につきましてのいろいろの御意見もございました。中には、靖国神社であるとか、あるいは明治神宮であるとか、伊勢神宮であるとか、あるいは各地にありまする護国神社とかいいまするものは、これは宗教法人というような問題で一列に扱うべき問題じゃなくて、日本人全体の崇敬の的であるから、これは宗教法人でなく別個に扱うべきものである、それ以上の各宗派を超越した扱いにすべき問題であるという傾聴すべき御意見もありましたが、いずれにいたしましても、私は、靖国神社のような国民全体の崇敬の的になっておる神社に対する扱い方の問題につきましては、今後慎重に国民感情とあわせて解決する、これにはやはり国会あるいは政府等も十分慎重に検討すべき問題だと思います。
○堀内委員 関連して。先ほどから逢潔委員その他から御発表になられましたこの問題と、靖国神社並びに遺族会等が非常に御心配になっておられる問題は、結局私は、名前が実質と違っておるからじゃないかと思うのであります。当局の説明のごとくならば、これは納骨堂でございます。それならば各地におきましても護国神社というものと納骨堂というものがある。そこで、これが無名戦士の墓というような名前で、外国のアンノウン・ソールジャーズ・セミタリーというような名前とくっつくものだから、いろいろな誤解が出てくると思うわけであります。名前が必ずしも適当でないと思うのであります。そこで今日、納骨堂というような名前を用いずに、無名戦士の墓というような名前にしたその経緯を、援護局長からお伺いしたいと思います。
○田邊政府委員 名称の問題につきましては、先ほども私御説明申し上げました通り、閣議決定におきましては一応仮称ということになっております。御承知の通り二十九年の六月に、この墓の建設等に関する各方面の御意見を拝聴する打合会におきまして、実はいろいろな案を出しまして、皆様の御意見を拝聴したのでございます。それは、無名戦没者の墓、無名戦士の墓、海外戦没者の墓、無縁戦没者の墓、こういったいろいろの名称を出しまして、皆様の御意見を拝聴いたしましたところ、やはり無名戦没者の墓というのが一番いいだろう、最終決定ではございませんが、大方の御意見がそうでございました。ことに無名戦士となりますと、外国のアンノウン・ソールジャーズというのがこれに相当しまして、全くそれと混同されてしまうことになる、海外戦没者の墓というと、海外とはどこからどこまでなんだという議論も出る。無縁戦没者の墓というのも、どうも無縁というのは適さないということから、一応無名戦没者の墓というのが、出された案の中では一番適当じゃなかろうか、こういう御意見が多かったようであります。
○堀内委員 これは靖国神社の性格との関係もございますが、常識的に考えますれば、先ほどからの御説明のごとくんば、靖国神社の納骨堂というのが日本の昔の観念からいえば一番合っているのじゃないかと思うのでございます。がこの点につきまして、政府におきましても、一つ検討していただきたいと思います。
○受田委員 無名戦没者の墓ということになるということでありますが、有名戦没者、つまり祭神が明らかにされて記録にとどめられておるところの靖国神社の神様方、この方々を、厚生省は、厚生省の費用をどういう形かにおいて使って、靖国神社に調査を依頼している事実がございますか。
○田邊政府委員 靖国神社に対して、厚生省から調査を依頼しているという事実はございません。厚生省が靖国神社からの照会によりまして、調査をして回答しているという事実はございます。逆でございます。これは靖国神社で戦死者のいわゆる神格を決定してお祭りをするためには、戦没者の氏名、本籍地、戦没当時の階級その他いろいろのこと等及び遺族の氏名、住所というものを正確に把握しなければならぬわけであります。これは、靖国神社が単独で郡道府県等と連絡をとってやっているわけでございますが、なかなか能率が上らない、しかも、経費がたくさんかかるわけでございます。そこで、靖国神社が非常にお困りになっておるし、そのために合祀がおくれておるわけでございますので、私の方で都道府県と緊密な連絡をとりまして、戦没者及び当該遺族に関する氏名その他いろいろの資料を作ってあげまして、靖国神社から問い合せのあるものに対して回答しているわけでございます。私の方では、どこから問い合せがございましょうとも、そういうことについては、照会があったら調査をして回答申し上げなければならぬ立場でございます。たまたま靖国神社の場合は数が膨大であり、それを組織的にやることによって能率的になり、短期間にできますので、そういう立場から、三カ年計画でやろうということで経費を若干計上いたしまして、都道府と緊密な連絡をとって調べた名簿を、靖国神社にやっているわけでございます。靖国神社は、それに基きまして、この人は合祀すべきかどうかということを決定し、そうして合祀の手続をとって、御遺族に通知しているような状態であります。
○受田委員 その間の経緯が明らかにされてきておるが、調査の依頼に対しては、一般国民の依頼に対しても答えているというようなわけである。靖国神社の場合は、たまたま多量に要求された関係上、特別の経費をその調査のために使っておる。まあ同接には靖国神社の事業に協力する予算が計上されているともいえるわけなのですが、さように心得ていいですね。
○田邊政府委員 靖国神社の合祀手続がおくれていることは、各方面から非常に遺憾とされていることであります。国としても、法の許す範囲内において、できるだけ合祀を促進するように考慮したいと思っておったのでございます。都道府県の実情等を見ましても、いろいろ非能率的になっている点がございます。経費もむだでございますので、国がそういう措置をとってやったのでございます。法の許す範囲内において、できるだけ合祀を促進したいということから、こういうふうにやったわけであります。
○受田委員 靖国神社にお祭りしている方々は、厚生省では、公務死でないと認めた人々も合祀されておると思いますが、あなたはその間の事情を知っておられると思いますので……。
○田邊政府委員 靖国神社は、国家に功績のあった方をお祭りするということでございますので、軍人軍属以外の方であってもお祭りされている例があるということは私承知いたしております。個別ケースとして、現在でもその建前は変ってはおらないと思いますが、しかし、大部分は、公務で倒れた軍人軍属がおもであると思っております。
○受田委員 学徒動員、徴用工、従軍記者、こういう方々はいかがでございましょうか。
○田邊政府委員 靖国神社の詳細のことはあまり詳しく知りませんので、また適当な機会に所管のところからお答えするように委員長にお願い申し上げます。
○受田委員 所管厚生省が、靖国神社に対しては、その依頼された調査に対しての協力だけで、ほかのことは知らないというのでは、やはり厚生省としては不勉強と思うのです。厚生省は厚生省で、所管された問題に関しては、できるだけ知らなければならぬ、これは私なぜお尋ねしているかというと、今度無名機没者の墓の中には、前線に従軍された人々の骨が、軍人であるか軍属であるかあるいは報道記者であるかわからない、そういう形のものが入って、いわゆる公務死の戦死者でない立場の方々のお骨が入っているということが想像できると思うのですが、いかがでしょう。
○田邊政府委員 先ほど櫻井委員の御質問及び堀内委員の御質問にお答え申しましたように、名前がわからないということでございます。しかも、その遺骨をとってきた場所での戦闘状況からして、軍人軍属以外の一般邦人の方の戦死者もあるわけでございますので、そういう一般邦人の御遺骨も、名前のわからない遺骨の中には一部含まれていると私の方では推定をいたしております。
○受田委員 こういうことに関連すると、結局戦闘に従事した人々は、法規的に軍人でありあるいは準軍人あるいは軍属であってほかの一般邦人とは区別されても、実際の戦争の状況からいったならば、ひとしく苛烈なる戦闘に参加した立場においては、これを同等に見るべき性格のものであるというのが、今度の無名戦没者の墓をお作りになる場合でも起ってきておるのでしょう。そういうことを考えると、この際、靖国神社の祭神として祭られておるような方々に対して、厚生省としてはなお公務死の範囲のらち外にあるものとして、これを除外している祭神があるということは、これは厚生省のやり方として、片手落ちではないか、かように考えるのでありますが、今後の御方針を伺いたいと思います。
○田邊政府委員 御質問の趣旨は、この墓の問題よりも、遺族援護の問題であると思います。先ほど申し上げましたように、靖国神社の祭神それ自体におきましても、必ずしも恩給法上の公務死没者と一致していないのじゃないかと思います。従って、そういう問題は昔からあったと思うのであります。しかし、それとは別問題といたしまして、戦闘に参加して死亡した人に対しては、遺族援護の手を差し伸べるべきではないか、こういう御意見でございます。ごもっともでございます。戦闘に参加した人にいろいろございまして、たまたま自分の住んでいる町が戦場になったために死没されたという方もおありになると思います。たとえば、沖繩等がそうでございます。内地でも一種の戦場でございまして、一般邦人でなくなられた方がたくさんあるわけであります。また軍の要請に積極的に協力して死没された方もおありになるわけであります。たとえば、満州の開拓団の一部の方々、及び内地におきましても学徒動員であるとか、徴用工等は、作戦ではございませんが、広い意味の戦争に積極的に協力した方々であります。ただ、援護の仕方に差等がございまして、公務扶助料ないしは年金を差し上げて援護する方と、それから弔慰金という一時金を差し上げて援護する方と、二つに分けてあります。お気持は全く同感であります。財政の許す限り手厚くいたしたいと考えておりますが、何分にもいろいろの広い対象でございますので、戦争以前において年金ということが約束されておった方々には年金を支給するという考え方と、そうでなかった方には一時金を差し上げるという一応建前をとっておるのが現状でございます。
○受田委員 最後に一言。各府県の世話課に、引き取り手のない方々の御遺骨をそのまま存置してあるようなところもあるわけです。そういう遺族が引き取らない英霊、引き取り手のない英霊というのは、その範囲がなかなかむずかしいと思うのでありまして、その遺族がもうみないなくなっておる。それで、だれも引き取り手のない方の場合は、どういう取扱いになるのですか。
○田邊政府委員 他に都道府県の世話課で引き取り手のない遺骨を保管しておるのがございます。それは一応こういうふうにいたしております。氏名と出身県がはっきりわかっておる場合は、その出身県に遺骨を渡して都道府県で保管していただく。それで、その当該府県で管理しておる納骨施設、戦没者のお墓にそれを納めていただいておるわけであります。各都道府県ごとにおおむね慰霊塔なり忠霊塔なり、あるいは戦没者の墓というものができておるようであります。先ほど御質問になった遺骨も、そこに納めてあるわけであります。それから、国としてまた一つ別に作ろうというのが今度の墓でありまして、遺族の引き取り手のないものであっても、少数ではありますが、都道府県の世話課で安置して、そういった慰霊塔のようなものに保管してあるものも現実にあります。
○受田委員 そうすると、無名戦没者の中には、有名戦没者が少数入ってくることになるわけでしょう。その場合に、府県の世話課などで、そのままお骨を安置してあるような形でいつまでも置いておくことは、どうも英霊に冒涜を与えるようなことになると思うのですね。地方の世話課の取扱いなどを、英霊をいつまでもそこに置かないような形でやらぬと、これは大変おそれ多いと思うのですがね。何とかこの際、そういう御英霊のお取扱いを厳重にしていただいて、尊厳を傷つけないように、骨を納めるところに納めるように命令を出すか、何か措置をなさる御用意がございますまいか。
○田邊政府委員 何と申しましても、氏名が判明している遺骨の場合は、できるだけ御遺族をお探しして、御遺族に渡すということをやっておるわけであります。たまたま張簿を調べたが、なかったというだけであきらめずに、遺族の調査ということをやっておるわけであります。どうしても引き取り手がないということが確定いたしますれば、都道府県単位にありますお墓に納めますのがもちろん至当でございますが、そこに納めるまでの間にいろいろ調査もしなければならぬという、調査中のものも、都道府県の世話課で持っておるのではないかと思います。調査に時間がかかるということでございますれば、一応慰霊塔の中に納めておいて、調査するということも、一向差しつかえないわけでありますから、都道府県に、失礼にならぬように、丁重に措置するように一そう注意したいと思います。
○原委員長 午前の会議はこの程度にし、午後は二時より再開し、山西地区残留同胞の現地復員処理に関する件について、参考人より事情を聴取することとし、暫時休憩いたします。
   午後零時四十六分休憩
     ――――◇―――――
   午後二時四十三分開議
○原委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。
 山西地区残留同胞の現地復員処理に関する件について、調査を進めます。
 この際、お手元に配付いたしてあります厚生省提出の山西軍参加者関係の資料について、末帰還調査部長より発言を求められておりますので、これを許します。吉田未帰還調査部長。
○吉田説明員 前回の本委員会で御要求がありました、山西地区において、終戦後において残留をいたしました者の調査の状況につきましては、今日まで、多数の帰還者の方々、これは幹部の方はもちろん、下士官、兵の方々あたりからたくさんの資料を私の方は持っております。それを要約いたしまして、ただいまお手元に提出をしております「山西軍参加者の行動の概況について」という表題のもとに集録いたした次第でございます。表紙の裏に目次がございますが、一応それについて補足説明をさせていただきます。
 報告書の内容としましては、第一としまして、終戦から中国山西軍の山西省進出までの状況、このときにはまだ現地残留という問題はあまり濃厚に出ておらなかった時期でございます。第二項の山西軍の日本軍将兵に対する参加勧誘の開始とその影響、これが問題になります山西軍側の動きでございます。第三は、第一軍司令官以下の指導、これは第二項に報告いたしました山西軍側の勧誘に基く軍首脳部以下の対策指導であります。第四は、支那派遣軍総司令官、中国国民政府陸軍総司令官及び駐支米軍司令官の第一軍帰還の指導並びにその内地帰還、これはいわゆる蒋介石あるいは支那派遣軍の方で、山西におりまする第一軍の状況を知りまして、この帰還方についていろいろ努力しましたその状況でございます。その結果、第一軍の主力というものが帰還を見たのであります。第五は、さようにいたしましたけれども、かなりの方々が山西に残留せられたのでございますが、それらの方に対して、第一軍はどういう取扱いをしましたか、あるいはまたその残された方はどういう状況であったかという工合に経過を追いまして御報告した次第でございます。最後に、事務的に急ぎました関係で、印刷に誤まりがございますので、恐縮でありますが、訂正させていただきます。七ページでございますが、中央付近に「昭和二十一年一月二十日命令(誠字第二九一号)」とございますが、これは「第二一九号」の誤まりでございます。なお、その下に「を以て、残留を希望しない技術者」という文章がございますが、「残留」の上に次の六字を挿入さしていただきます。その六字は、「日本軍人及び」という六字でございます。そうして「残留を希望しない技術者」という工合に続きます。急ぎましたので、手落ちいたしました。おわびをいたします。以上でございます。
○原委員長 それでは、本件について参考人より事情を聴取することといたしますが、その前に委員長より参考人各位に対し一言ごあいさつを申し上げます。参考人各位には、大へん御多忙中、本委員会に御出席いただきまして、委員長よりつつしんでお礼申し上げます。
 本委員会は、海外同胞引き揚げ及び遺家族援護に関する各般の問題を調査いたしておりますが、今回、終戦後、閻錫山軍に加わる等特殊な事情で残留され、現地復員として処理されておる方の問題について、その実情を調査いたすことになりましたので、本日皆さんより事情をお聞きいたし、その参考にいたしたいと思います。ついては、終戦後、山西地区に残留された当時の事情等を忌憚なく、なるべく簡単明瞭に、十五分程度でお話し下さるようにお願い申上げます。
 では、初めに澄田参考人より事情を伺うことにいたしますが、他の参考人の方々には、それぞれの立場より、あまり重複しないようにお話し願いたいのであります。初めに、澄田参考人からお話をお願いいたします。
○澄田参考人 私は、終戦当時、第一軍司令官として、山西省の太原におりました。日本軍降伏の命令を受けまして、閻錫山の第二戦区に降伏をすることになりました。降伏をすると同時に、私どもの任務といたしましては、当時張家口がソビエト軍のために占領されておりましたために、大同方面の後方連絡線が断たれましたので、この部隊が私の軍の指揮下に入りました。従って、総計軍約六万、これに居留民約三万ぐらい、これらの人数をなるべく多数、できたならば完全に日本内地に帰還せしめるのが、私の任務であると思いまして、できるだけの努力をしました。また私どもといたしましては、特別の事情がない限り、山西側のいろいろ要求、希望があるにもかかわらず、できるだけの人数を完全に復員させるために、あらゆる努力をしたつもりでおります。ただ、私は、十一月になりまして、戦犯の容疑者として、軟禁状態に移されました。自後は、参謀長を当時しておられました山岡君が、私にかわりまして、前述の方針に基いていろいろ苦心指導をされました。その後いろいろのこの問題に関する流言飛語が伝わりますし、当時、本来ならば軍は即刻武装解除しまして、一地に集結して復員時期を待つべき状態なのが自然でありまするが、中共軍の勢力が強く、しかも山西軍が劣弱であるために、軍自体、あるいは居留民の復員のための輸送を確保しなければならぬ、言いかえれば、鉄道を中共軍の妨害から守らなければならぬ、これを守らぬ以上は、全員の復員ができないという立場に立たされまして、また閻側からも希望がありましたので、しばらくの間、日本軍は旧来の配置を収縮をしながら、その配置に基いて警備を担当しておったのであります。それで、そういう状態にあります関係上、中共軍に随所攻撃を受けまして、多少の損害もでき、また将来も起きるという懸念をしておりました。現に軍の参謀を大同に派遣する途中、中共軍の砲撃のために成田中佐が戦死するという状況も起きましたので、この間の説明に部隊に対して十分しなければならぬし、またいろいろの流言飛語に対する軍の指導者としての真の意図を各部隊を伝える必要があるということを痛切に感じまして、山岡君の勧めもあって、閻錫山に特別に願い出て、十二月下旬から一月一ぱいかかりましたと思うのですが、大同地区を初めとして、各部隊の現場を回りまして、なるべく多数の将兵を集めて、なぜ軍が降伏後も武器をとって中共軍に対して警備をしなければならぬのか、また内地帰還は全員するのである、ただ、特別の希望があって、特殊の事情で残る人はこれはあるいはやむを得ぬかもしれないが、それでない限り、軍としてはできるだけの人数を連れて帰らなければならぬし、また帰るべきだということを、各部隊のおもなる駐屯地は残らず回りまして、説明をして歩いたのであります。この出発に当って、私の乗りました列車が爆破を受けまして、私は無事でありましたが、負傷者もできるし、護衛中隊の客車がひっくり返って、負傷者もできるという事態が起きるほど、警備をやる必要が現実にあったのであります。
 そういう状態で、十一月末期まで部隊を回りました。自後、前申しましたように、私自身は戦犯容疑者でありますから、直接の指導は山岡君をわずらわしたのでありますが、私は時々報告を受けまして、あくまで帰還をするのである、帰還をさせるのであるという方針は堅持をしておった次第であります。自後、二十三年五月に山岡少将が帰還をいたしました。私はなお戦犯容疑者として残ったのでありまして、私の帰りましたのは、太原の落ちます――二十四年の四月に落ちたのでありますが、私は二十四年の二月十二日――ちょっとさかのぼりますが、当時中国関係の戦犯者は、岡村元大将初め、一同一月二十六日に上海を立って日本に送還をされております。従って、中国の戦犯容疑者として当時残りますのは私一人という状態になりました。閻は私のそういう状況を見まして、私だけ残しておくわけにいかない、全責任を負うから、変名でお帰りなさいという指示を受けて、変名をして――たまたま太原は完全包囲を受けている、飛行場は砲弾がくるのでありますが、当時食糧等を米軍の援助で補給をしておりました飛行機が、エンジンに故障を生じて不時着をしました。その不時着した飛行機の部品を持ってくる飛行機が強行着陸をするので、その飛行機に乗れという指示を受けまして、二月二十六日の朝未明に、この飛行機に乗って帰還をしたのであります。
 この間、二十三年の七月、いわゆる晋中作戦と申しますか、残留日本人部隊が多数の損害を受けました作戦で、山西軍が完全に敗退をしまして、太原城近くが包囲を受けて、完全包囲の状態になった。そのときに閻側から再三使者を受けまして、ぜひ助けてくれという、窮鳥ふところに入るというような気分になりまして、手伝ってやろう、ただし、山西側としては、私に軍隊の指揮をしろということを執拗に申し込んできたのでありますが、私は戦犯容疑者でもあり、また、たとい日本人部隊を指揮するにしても、いやしくも軍司令官をした者で、五百や六百、一千くらいの兵隊を指揮するには、なくなられました今村大佐もおりますので、その上に私がすることは屋上屋を架するにすぎないので、意味がないという考えから断わりました。が、総顧問という名前だけはとうとう受けざるを得なくなりました。それまで戦犯容疑者であるけれども、かばってくれました関係もありまして、それは受けて作戦の指導をいたしましたが、軍隊の指揮は一ぺんもとったことはありません。陰の顧問といたしまして、いろいろアドヴァイスはしておりました。そういう状態でありますうちに、マーシャル元帥が参りまして、国共戦停のあっせんをしたのであります。戦争は一時中断の形になりましたときに、私は飛行機に乗って帰ったのであります。こういう状態でありまして、山西側の残留に対する介入がしきりと行われ、またこの問題が紛糾をしました時期は、ちょうど軟禁状態にありましたので、この間の事情は私が直接申し上げるよりも、山岡君にお話を願った方が適切であると考えますので、同君の御説明に譲りたい。以上であります。
○原委員長 次に、山岡参考人よりお願いします。
○山岡参考人 最初に、終戦後における閻錫山と軍との関係について申し上げたいと思います。山西地区だけは、おそらく全日本軍のおりました地域内で最も特徴のあった形をとりました。それは閻錫山がすでに終戦前から軍と特殊の関係にありました。これは昭和十五年からの密約がありまして、お互いに侵さないという密約でございます。それによってやっておりましたので、何にもしておりませんでした。向うの連絡者もあって、連絡がよくついておりました。終戦とともに私は閻錫山のところに派遣を命ぜられまして、彼が降伏を受ける指揮官であるという通知によりまして参りました。その際に、彼に私は会ったことはありませんが、前から電報で始終いろいろ話をしておりましたので、一体日本軍が去った後にどうするか、こう聞きましたところが、日本軍の援助によってお互いにやろうということを言っております。引き続いてさらに彼はロ安地区――と申しますと山西の東南方地区であります。それから山西の東方の孟県地区、これは最も地味の豊富な地域ではございますが、共産軍の力の強い、交通の不便なところでございます。この二つの地区に日本軍が隠れたならば、おそらく世界の世論を刺激することなく、日本の再建ができるだろうということを私に申しました。これを伝えてくれという話でございました。その件は帰ってから伝えましたし、また居留民の方にもその件はお伝えしてあります。そういう関係で、彼としては、共産軍に対して、日本軍の援助がなければ、とうてい存在ができないのでございます。このために、彼は最初から日本に対して自分が勝った国だという態度をとりませず、懐柔策に出て参りました。閻錫山が十月に、早く入ってくれないと軍の責任が重くなりますので、早く入ってくれと電報を打って、日本軍が援助いたしまして太原に入ってきましてからも、全く戦勝国とかあるいは降伏を受けるという態度をやめまして、日本軍の手にすがりつくという態度でございます。表向きは受降指揮官でございましたが、彼のやることは一切日本軍の気にもとるようなことのないように、しかし受降指揮官としての権限があり、また私ども軍は閻錫山に降伏しろという命令を受けておりましたので、その命令に応じまして、彼にいろいろやってくれということを要求しましても、武装解除も何もしない。それから軍隊をなるべく中心地域に引き揚げてくれということを申しましても、まあ待ってくれ、まあ待ってくれ、あるいは中国軍を出してくれと言っても、言うことを聞かない。しかも、居留民及び日本軍に対しましては、物資が不足ならば何でも出してやる、それから、居留民に対しましても、残りたいものは残れということを最初から言いまして、全く敗戦の感じというものを持ち得なかったのでございます。ここが今度のいろいろの問題が起る一番の根源であったろうと思います。あとはここに書いてございまする通りに、十一月ころから、何とか日本人を残そうという感じを持って工作いたしました。この際も、閻錫山の考えは、あとから考えてみますと、初めから何でもかんでも数を残せばいい、質はどうでもいい、何でもいいから数を残せという考えでおったようでございます。それは、いい人ばかり集めるということが、わけがわからなかった関係もありましょうが、共産軍に対して、日本人がおるというだけで一つの威圧を与え、また山西軍に安心感を与えるために必要だったんだろう、これはあとから想像したわけでございます。これがために、その勧誘工作というのもいろいろ手を変え品を変えまして、暮夜ひそかに菓子折りを持って個人々々を訪ねていって、残らないかというようなことをやることも珍しくないように聞いておりました。なお、これには、最初に終戦とともに現地の人で召集をいたしました方が相当ございます。そういう方を、家族が現地におられますので、すぐ召集解除せよという命令がありましたので、召集解除をいたしました。こういう方、あるいは終戦後、軍の規律というものが戦前とやはり違いまして、一部に飛び出してこられた方もある。そういうような日本人の勧誘と、それから中国人と一緒になっての勧誘が行われておったわけでございます。十一月ごろからこれが盛んになりまして、十二月末になりまして、軍の帰還の状況がさっぱりわかりません。閻錫山に聞きましても、たまに一列車、二列車と居留民をまず帰すだけのことで、そのほかは出してくれず、計画等も、まあゆっくりしろ、早く帰ったってしょうがないではないか、海が詰まっているのだから、こういう話でもって、さっぱり計画がわかりませんので、北京に連絡に行きたいと思って頼みましたが、その名義ではどうしても許してくれません。残留者について、一体方面軍がどういう考えを持っておるか、それも聞きたいということを申しましたら、それならばやろうといって、人を一人つけて私を北京まで送ってくれました。そこで、北京の方面軍司令官に会いまして、輸送のことを聞きましたところが、輸送の状況はさっぱりわからない。それから米軍に参りまして聞きましたが、米軍の方もまだわからない、そのうち早くやるからというお話でございました。残留の問題につきましては、これは米軍司令官としてもまことに迷惑な話で、その権限がないのでございます。中国側が残留させてよろしいという命令を出したものですから、権限がないのでございますが、私はこの残留者の多数というものが、一体国際関係にどう影響するか、ことに米ソの関係がありましたので、その関係を見て、あとで国際問題の起るようなことがあったならば、残られた方に不利だ、こう思いまして、その点を聞きましたら、まあ千五百人ぐらいだけであったら大したことはないだろう、これももとよりまとまった御意見とか、責任ある御意見とかいうわけでなく、御自分の考えだけであったろうと思います。それぐらいまでのところなら、大した問題はないだろうということを帰って報告をいたしました。一時その後非常にふえまして、一万人に達するような状態になったという話も聞きましたが、その後全員帰還させよという命令がまた来まして、またこれを伝えまして、それによって残られた方が結局二千六百名ということになっております。この間に戦犯が十三名軍内でできました。これをあの北京付近に送ってくれということを申しましたが、それは損だ、そんなところへ送ったらあとでもってどうしても罰を食うようになる、ここで時期を待った方がいいだろうという閻錫山の意見でございまして、シナ全体におきまして南京と上海と北京と太原、これだけに戦犯が残るようになったのでございます。戦犯の残るところに対して、連絡班というものを残してもいい。この連絡班というものは、日本のもとの軍人が残りまして、その名前は中国側のつけたものでございます。日本軍といたしましては、残してもあと給与その他のことは一切何もできませんものですから、もちろん強制的に残れという命令はありませんでしたが、私は残られた戦犯の弁護とかあるいは差し入れ、それから釈放後の帰るまでの引き受けということでもって残ることにいたしまして、約二十名ばかりの人を、これは私が直接その人たちには一々聞きまして、差しつかえないということで、二十名ばかりの人が一緒に残りました。この戦犯の問題も、中国側はなかなか早くやってくれません。早くやったら損だ、どうしても、国民感情上、早く処置できないというので、やってくれませんでしたが、昭和二十三年の四月に澄田司令官だけを残しまして、そのほかの人は判決が終りまして、いずれも上海に送るということになりました。澄田司令官の方は、これは早くやっちゃできないから、もう少し時期を待たなければどうにもならぬ、こういう閻錫山の話で、そこでひとまず澄田司令官以外の方の戦犯が片づいたというところで、私は一緒に残った二十名ばかりの人とともに帰って参りました。
 この間、残留しております際に、軍から、軍が引き揚げるときに、持っておりました金を、途中で使うもの以外は、全部もらったのであります。額が幾らだったか忘れましたが……。ところが日本軍が引き揚げてから後に、がぜんインフレがどんどん出て参りまして、一年分くらいは十分食えると思っておったのが、実は二ヵ月くらいでもう底をついてきたのであります。もうこの上は閻錫山に頼んで食べさしてもらうよりしょうがないというので、閻錫山の方から教育をやってくれということがありましたので、私は教育を担任し、それによってみんなも月給をもらいまして、食いつなぎをしておったわけでございます。
 大体私の申し上げることは、そんな状況でございます。
○原委員長 次に、百百参考人にお願いいたします。百百参考人。
○百百参考人 私は当時、日本人が終戦しましたときには、北支派遣軍の第一軍は百十四師八十四旅団三百八十四大隊の本部付将校をしておりました。先ほど二人の参考人の方から、当時における閻軍並びに第一軍の軍司令部内における状況について発言がありましたが、私は自分の所属しておりました大隊並びに百十四師団における当時の状況について申し述べたいと思います。
 当時私は、しばらくの間、大隊の副官代理をしておったことがあります。そのときの大隊の副官の主要な業務内容として、復員業務と残留業務、この二つを取り扱っておりました。当時の状況として、先ほど復員がおもな任務であるというふうに言われましたが、それと同時に、過去においては残留業務も行われておったということが実際であります。その残留業務といたしましては、司令部の方から回されてきますところの残留に関するいろんな通達あるいは宣伝の書類、こういったものを受け取り、それをやはり隊内に伝達をしておりました。その主要なものとしては、「日本人の立場」というパンフレットが、司令部から隷下指揮系統を通じて回ってきております。これをいろいろ各隊に伝達するという行為を行なっております。また閻軍から出されました「留用者の待遇弁法」、こういったものも回ってきております。このようにして指揮系統を通じていろいろな残留業務が行われたというのが、当時の実際であります。そういうことは、大体昭和二十五年の末ごろまで行われておりました。
 そして、年が明けて、二十六年の初めになりますと、今度は師団で大隊長合同などが行われて、大隊長が帰ってきてからのいろいろな話の中に、どうしてもこれは少しは建制で残らなくてはならなくなるのじゃないかという話が伝わってきました。また当時特にそういったような旅団、師団等と接触のある主計、軍医あるいは大隊長の口から、どうしても山西の日本軍は、一部が残らなければ復員できないのではないか、こういった話も自分たちは聞いておりました。またそういった宣伝文書の中に、そういった状況も述べられてきており、また軍が発行しておりました「新生」という終戦してからのパンフレットがありますが、その中で、残留か復員か、こういった討論が行われ、こういった状況の中で、部隊の中においては、残留ということに対しての考え方に、どうしても一部残らなければ日本軍は全部復員できない、あるいはまた建制で残されるかもしれない、こういった状況が生まれてきておりました。自分は残留業務を取り扱っておりましたが、あるときに、師団に連絡に行ったことがあります。そのときに、師団司令部中に特務団編成室、こういう部門ができておりまして、そこで師団の高級参謀をやっておりました太田黒参謀、この人がそこの主任になっ特務団の編成をやっており、すでにそのときは特務団の編成図表までできておりました。私はそれを見せていただきましたが、特務団の司令部から七個団にわたる団の編成、そうしてそれをどこの部隊をもってその団を編成していくか――私の属しておりました百十四師団は、特務団二個団を編成する。二個旅団ありましたから、八十三旅団では十四特務団、八十四旅団では第三特務団を編成する、こういったような編成表ができておりました。そうして、部隊に帰ってから、そういったいろいろな話で、大隊長が、これは一個中隊ぐらい残さなければいかぬかもわからない、じゃどの部隊を建制で残そうか、あるいは建制で残した方がいいのか、それとも抽出で残した方がいいのかという話も出ました。一番年の若い中隊であった第一中隊を建制で残すとか、そういうふうな話も出たりしておりました。
 そういうふうな状況にあったときに、師団の太田黒参謀から大隊長に電話がかかってきて、百百に一つ特務団に残る者の編成をやらすように、こういったような電話通達があり、そうして、自分が、部隊内において残る者の編成を始め、中隊長に連絡をとり、またいろいろなパンフレットを回し、あるいはまた自分で出かけていって、師団から回ってきておるところのそういった通牒あるいは宣伝文を伝達する、そのようにして、部隊の編成を行いました。自分たちの師団の中には二個旅団ありましたが、近所におったところの三百八十三大隊、三百八十一大隊、これにおいてはすでに早くからそういった編成が行われて、三百八十三大隊においては、三百名の者がすでに特務団に派遣を命ぜられ、そのまま日本軍の編成で、日本軍の武器を持って、そうして特務団に派遣になった。あるいは三百八十一大隊においても同じような状況がありました。その場合、こういったような残留者の特務団に行く人間の処置というものを、部隊内においてどのようにしたかと申しますと、復員業務上のいろいろな手続があるから、復員書類上においては現地除隊にするように、実際は、特務団に派遣を命ず、こういう大隊の日命をもちまして、そうして大隊長に軍装を整えて申告を行い、また旅団に行っては旅団長からいろいろな軍装検査まで受け、また申告を行い、そうして、君たちは祖国の復興のために、また第一軍の後衛尖兵として残るのだから、しっかりやるように、このような訓辞を受けて、特務団に参加しております。私が部下を連れて参加いたしますときに、大隊長から言われましたことは、おれは大隊の主力を連れて日本に帰る。この人たちは天皇の命によって出てきた人たちであり、また日本には親、兄弟、そういったような人たちが待っておる。だから自分は主力を連れて帰らなくちゃならない。しかし、ここに一部の人間を残していく、だからお前がその責任者となってそうして任務を果したならば帰ってくるように、このように言われて自分は残りました。今申しましたような状況のもとにおいて、私たちは、日本軍の復員というものを促進するために、また当時言われておりましたところの、山西に日本軍を温存し、ここに拠点を作り、そうしてまた日本の再興をはかろう、こういったようないろいろな考え方、こういったものを持って私たちは特務団に参加していったのであります。これは個々に自願で残留した問題ではありません。そこに計画を立てられておった。そういったものの中に、私たちが派遣をされ、参加していったのであります。先ほど二人の参考人の方から述べられましたように、当時の状況というものは、非常に複雑であります。また閻錫山軍の要請というものもあり、いろいろな状況、こういったものがからみ合って残ったものであります。そうして、私と一緒に残った者の中においては、八名の者が死んでおります。全部の人々を合せれば、四百名近くの人々が、中共軍との作戦、あるいはまたその他の病死、こういったものによって死んでおります。私たちは帰って参りまして、自分たちの身分が現地除隊、自願残留ということになりまして、復員軍人として扱ってもらっておらない、またそういったような戦死者の遺家族の方に対しても、ほかの戦死者と同じような待遇を受けておらない、こういったような状況に対しまして、私の当時の状況を申し上げて、善処方をお願いしたいものであります。
○原委員長 次に、早坂参考人にお願いいたします。早坂参考人。
○早坂参考人 私は、山西に当時駐屯しておりました第一軍の独立混成第三旅団の第十大隊の大尉中隊長をやっておりました。ただいま澄田あるいは山岡参考人から当時の特殊の状況について一部述べられました。しかし私は、このような問題を処理するにおいて、さらにその特殊な状況にどのように左右されておったかという問題から入ります。
 それは、ただいま二人の参考人から、受降軍であるところの山西軍が日本軍にたよりきっておるという状況であると述べられましたが、それはまさしくその通りであります。これを裏返しにして言うならば、山西におったところの第一軍の日本の軍隊は、敗戦感というものがなかったのであります。結局、武装解除をされませんでした。私は残留まで自分の軍刀、拳銃、あるいは兵隊の小銃、機関銃というものを山西軍に引き渡したことはございません。私の兵団は全部このようにして武装解除を受けませんでした。そして引き続き、以前の陣地、以前の拠点において警備を続行しておりました。なぜこのようなことを申し上げるかといいますと、結局、山西に残っておった日本の軍隊というものは、日本の敗戦という現実に左右されないで、旧軍そのままで残っておりました。それは考え方もそうでありました。それから日々の行動もそうでありました。命令系統もそうでありました。また上級の方からも、日本の土地に上陸をするまでは、復員を完結するまでは、われわれは皇軍であるというふうに教えられました。またその通り実行しました。そのことの典型的な事実として、独立混成第三旅団におきましては、敗戦した次の年、昭和二十一年の二月に、兵団内において戦技武技競技会というふうなものをやっております。銃剣術、斥候競技、あるいは射撃というふうなものを、敗戦した後においても、日本の軍隊が戦争を継続しておった当時におけると同様に、引き続いて実行しておったのであります。またそのことのために、兵団で各大隊の対抗の競技会まで催されました。このようなことは、結局われわれが山西に残留したのは命令であった、命令でなかったという問題において、あるいは自願で残った、あるいは逃亡したというようなことを言うことに対する一つの反証になると思います。日本軍そのままの機構で、そのような機構を持っておるものが、果して勝手に自願で残留することができるでしょうか。これは絶対になし得なかったものであります。確かに今百百参考人から申し述べられましたように、援護会から出たパンフレットの中に、軍司令官並びに軍首脳が極力完全に内地に帰還させる方針をとられたというふうに述べられておりますが、このような事実はありません。軍司令官は私は知りませんが、私の兵団長は、私に対して、私の残留というものを命令しました。お前は兵団の命令で、残留に必要な人間だから残るようにというふうに命ぜられて、私は残留しました。そしてまた私以下の将校六人に対して、当時の兵団長元、少将山田三郎は、われわれの主力は日本に帰って再興をはかる、貴官らは、現地のこのような好条件を利用して、外地に拠点を確保しておりながら、内外呼応して再び日本の海外進出の機会を作ろうというふうな訓辞を受けております。これは単に独立混成第三旅団だけではなしに、そのほかの師団長あるいは兵団長も同様に、将校、下士官、兵隊の残留による派遣に対して、必ずこのような訓辞をしております。さっき澄田参考人の方から述べられましたように、確かに元澄田氏軍司令官は、戦犯容疑者として残っておりました。しかしながら、ここにおられる山岡元参謀長にしても、あるいは澄田元軍司令官にしても、戦犯容疑者として残った、あるいは連絡班として残った、このことは事実であります。それは間違いありません。しかしながら、名目は何であろうが、何をやられておったかという点を言うならば、実際上はお二人とも閻軍の最高顧問でありました。われわれもそのように呼んでおりました。事実そうでありました。東山作戦を指導し、晋中作戦を指導し、また閻錫山軍の教育のために、山岡参考人は当時閻錫山軍の新軍団の総督官、私はその下で指揮官をやりました。このような状況は、われわれが一つの組織系統を持って残留し、活動しておったというように感ぜられます。決して自願でもなければ、逃亡でもありません。私はそのように信じております。また、私と一緒にこのような指導のもとに中共軍と戦闘して、不具廃疾あるいは戦死した多くの人たちも、そのように信じておりました。われわれは日章旗を振って、当時の日本軍の服を着、武器を持って、それが上司の命令、あるいは意図であり、これが日本軍として正しいことである、日本人として正しいことであると信じて、戦争を継続しました。
 それから復員者と残留者が不和を生じ、残留者が復員者と接触することによって、さらに残留者が多くなることをおそれて別居させたと、このパンフレットには述べられておりますが、実際は反対であります。独立混成第三旅団の残留者が集結したのは山西省の原平鎮でありましたが、当時残留者の長であった元高級参謀今村方策並びに当時の旅団長であった少将山田三郎、この二人の人は、むしろ残留者が復員者と一緒におることによって、残留の意思を翻意して帰国するようになっては困る、だから残留を決心した者は早く帰国者から離して、翻意しないように別居さした。これは私だけでなく、多くの人がそのような事実を知っております。
 なおこのパンフレットでは、主として元泉、岩田といういわゆる首脳者がやっているような印象で書かれております。しかし、実際は、塁兵団については兵団長元泉馨が残留の指導をしている、また独立混成第三旅団高級参謀今村方策も残留の指導をしている、それから歩兵大隊では松原大尉という部隊長が指導している、第百十四師団では高級参謀の太田黒大佐が指導している、要するに、各部隊の兵団長にあらずんば、その次にあるところの高級参謀というような人のどちらかが残留の旗頭になって残留の扇動をした、この残留を命じたり、残留の宣伝をしたという事実は、単なる個人的な元泉あるいは岩田という個人的な運動では決してなかった。その証拠には、われわれは決して自願でも逃亡でもなく、初めから組織されておりました。もしばらばらに残ったものだとすれば、ばらばらに山西軍の中に入って、その後、日本人は日本人同士でまとまるという方向をたどったと思います。このような中において特に元泉、岩田というふうな者は非常に強力に動いておったのであります。
 しかし、ここで考えていただきたいことは、もちろん元泉、岩田は、派遣軍の総司令部によって罷免されたかもしれません。しかしながら、その罷免された現実というものは、きのうまで兵団長であった、きのうまで参謀であったということだけで、宿舎もそのまま、業務もそのまま遂行していて、何一つ変っておりません。私はここにおいて、当時の軍司令官澄田参考人やあるいは山岡参考人がこのような軍法違反をし、国際法規違反をして、残留を継続させるような者を単に罷免しただけで、自分のおひざ元で毎日顔を合せておりながら、それをそのまま放置してよかったものか。また私は今村高級参謀の当時腹心で、今村元高級参謀から絶えず当時太原の軍司令部におった山岡元参謀長に連絡をとっているというふうなことを考えると、この残留というものは、軍司令部が完全にこれを阻止しようとしているものでは決してないというふうな印象を受けたのは、私だけではなかった。これは積極的にわれわれを帰国させるという工作を進めるよりは、むしろ当時の特殊状況ももちろんありました。もちろんその大部分のものは特殊状況であったかもしれません。要するに、閻錫山が、ある若干の兵隊を残さないならば、主力の復員を引き延ばす、そのことによって、いやが応でも一部の兵力を残留させるために、積極的にこれを支持する、あるいはそうでなければこれを黙許容認するというような方向に動いておったと私は考えます。
 さっき述べられました戦犯世話部は、当時山西軍に拘禁をされておった戦犯の世話をいたしました。その世話部の編成人員やその毎日の業務、その後変化した状況というものは、むしろ山西軍の指導であり、ここがいわゆる山西軍の教育総監部というふうな形であったことも、また事実であります。このような点から、われわれはこのような組織につながって残留してきた。これは自願で残ったという気持よりも、軍司令官も参謀長も、それらの人たちがまたわれわれと同じような仕事をやっている事実、そのほかに残留の理念――さっき申し上げたような、いわゆる皇国を再度復活させるという理念と実際の行動というものから、これを信じてわれわれは残っておりました。またそのように信ぜしめるようにやりました。軍の作命も出ました。この「残留の理念」というパンフレットは、単に外部から――山西軍の工作員が部隊の中に流したのではなく、これは軍司令部から旅団司令部、旅団司令部から各独立大隊、独立大隊から各中隊というふうに、当時の日軍の組織系統を通じて、このようなパンフレットあるいは宣伝活動が行われておりました。
 またこのパンフレットにあるように、太原において、閻錫山も参加していわゆる残留将兵の会同が行われました。これも事実であります。この会同の行われた場所は、軍司令部の中であります。これには成田参謀あるいは岩田参謀というような人たちも参加されております。そのような人たちがまた主要な役者でありました。このようなことは、当然軍の一つの命令あるいは軍の一つの任務として行われておるというふうに当時われわれは信じておりました。もちろん山岡参考人が述べられましたように、このような一つの工作が行われたという点から、このような工作の中において進んで残留するというごく少数の人たちがあって、確かに部隊から離隊した者もあります。逃亡した人もあります。そのような人が全然なかったというのではありません。このような人ももちろんありました。しかしながら、さっき申し上げたような山西の特殊状況は、なおかつ敗戦の後においても厳然たる軍規、法規を持った日軍がそのまま存続しておったという事実の裏づけからして、このような人たちが飛び出してきて残るというまでに、だれが一体このような宣伝活動を行なったのであろうかという点を考慮願いたいと思うのであります。これは軍が指示して、軍がこれをやっているという点から、人よりもいち早く残留して、そのことによって自分の地位をより上にし、また有利な条件をかせごう、そういう考えからやったという者が大部分でありました。部隊から飛び出して離隊した人は、ほんとうにわずかの人たちで、大部分の人たちは、それぞれ、命令という点において、直接に命令を受けた人もあります。また説得を受けた人もあります。またいろいろ欺瞞をされた人もあります。いずれにしても、このような軍隊の組織系統を通じて行われたという事実からして、われわれも身分の問題として現地除隊をし、あるいは勝手に残留した、あるいは逃亡したというような事実ではなかったというふうに考えるのであります。私がこのような事実をこのように述べることは、事実に反していないというふうに感じております。このような問題について、さらに事実と違っているというふうな問題がありましたならば、単に国会の発言だけでなしに、さらにまた援護局あるいは委員会の方から詳細に調査をしていただいて、それでこの問題をすみやかに、また正当に処理していただきたい、このように考えます。終ります。
○原委員長 最後に、小羽根参考人にお願いいたします。小羽根参考人。
○小羽根参考人 私は終戦前、駐蒙軍関係におりました。その後、蒙古政府におり、終戦後ここにおられる山岡参考人が北京の方面軍司令部に太原の特務団残留問題についての連絡に行かれましたときに、北京において、山西には第一軍も残るから、山西に行って残るように指示をされ、そして山西に残った者であります。そして、部隊の編成については、岩田清一軍参謀少佐が責任者になって部隊を編成しているから、これとよく連絡をとるようにというふうに言われ、そして残留部隊を、五台工程隊部隊を編成する、その大別として、当時の残留責任者岩田参謀またはそのもとで残留工作を進めていた城野宏、これらと密接な関係をとり――その当時の残留状況について、私の知っているところについて申し上げます。
 この残留当時の状況からいいまして、残留は決してただ一時的な、また個別的な個人々々の意思から行われたものでは決してありません。それは、岩田清一参謀が軍代表として、閻錫山の代表と、終戦直後において、すでに太原の東の洞窟の中において秘密会談を開いて、そして、日本軍を残留させるということを協議をしたということを、はっきり言っております。またこの協議の結果において、日本軍部隊と一方地方人を武装部隊として残留させるために、その編成機構として、日本軍と閻錫山との共同をしたところの合謀社を昭和二十年の九月にすでに設立をしております。そしてこの合謀社は、社長は閻錫山の秘書長がなり、常任として軍参謀岩田少佐がこれに当り、総務部長としては第一軍の主計大尉加藤嘉之助が当り、これの宣伝関係には軍報道班長の長野賢中尉がこれに当っております。このようにしてできた編成のために、日閻軍が一緒になって合謀社を設立し、そして大々的な残留工作を行なっております。そしてまた一面軍におきましても、十一月にはここにおられる山岡参考人が主体となって、青年将校にものを聞く会というのを軍司令部に開いて、そして各兵団の青年将校を集めて、ここにおいて残留の意義を強調し、また城野宏等をしてここで祖国の復興のために残留せよというふうに宣伝をし、残留を指示しております。また第一軍と方面軍との関係につきましても、山岡参考人は、二十一年の一月に北京に出向しております。そして、そのときにも第一軍が特務団を残すということを、残留部隊を残すということを了解を得た。初めは、方面軍は反対をしたけれども、太原の特殊事情を了解するに伴なって、やるだけやってみろというふうに了解を得たから、公然と太原の部隊の残留ができるようになったということを、はっきりと当時の岩田清一軍参謀が言っております。このような基礎のもとに、二十二年の二月に特務団編成についての編成名簿、編成表が下達されております。そしてこれは、当時、岩田軍参謀は、これを作命甲第〇号として出す、このように言っておりました。この編成に基いて各兵団に差し当て人員等が配付されて、このために山西の五個兵団に対して特務団の七個団を編成する指令が一斉に出ております。このために、ただいま早坂参考人、百百参考人等が――各兵団において行われた特務団割当要員が下達をされ、軍の組織的な残留が行われております。そして、各兵団は、たとえば独立三旅団または独立第十四旅団のごときは、この残留部隊が三年間ないし五年間使用するだけの兵器、弾薬、糧秣等を持って、そして優秀なる装備を持って、そのまま残っておるというような状態でありした。また一般邦人に対しても、この合謀社の秘書長及び岩田参謀は、軍人を残すためには一般邦人も残さなければならない、軍人に腰を落ちつけさせて、永久残留を、長く残留をさせていくためには、女、子供、商人ら、そのような者を残さなければならないというふうに言って、ここに対しても宣伝活動を行なっております。そうして独立第三旅団においては、今村高級参謀は、隷下部隊に対しても、軍人を残すほかに、地方民をも獲得せよという指令を出しております。そうして、その輩下に二個中隊の一般邦人部隊が編成されました。この残留した部隊は、全部がただいま山岡参考人が言われましたような戦犯の世話をする連絡班の要員である高級現役将校によって指揮されております。たとえば、日本人の主要残留部隊であった独立暫編第十総隊においては、高級参謀今村大佐が司令となって指揮しておられますし、また山岡参考人が閻錫山に建議をして組織をした機甲隊には、赤星少佐が司令となっております。また大同の総隊には林高級参謀が司令として残っております。このようにして、残留部隊は現役高級将校によって全部を指揮されております。またただいま早坂参考人から反駁意見が出ましたように、山西に残りました高級戦犯はどのような状態にあったかと申しますと、形は確かに戦犯ではありましたけれども、事実上においてはやはり軍事に参加しております。第百十四師の師団長の三浦中将は、戦犯という名前ではありましたけれども、太原の東方の楡次というところにおいて軍事研究所を作り、事実上において、ここにおった残留部隊第三団と閻錫山の第八総隊の指導に当っております。また山岡参考人は戦犯の世話のためであり、また金がなくなったから閻錫山に食うために会った、このように言っておりますが、この連絡班に残った主要な者は現役将校であり、教育能力のある者であり、閻錫山の中枢部隊十一隊に対して教官を派遣し、その教官は残留部隊から大量に抽出してその指揮のもとに教育を行なっております。また澄田参考人は、部隊の指揮は事実上はしていなかったと言ってはおります。しかし、事実上において、残留した者はみな軍司令官が残っておられるのだということは中心にして残っております。そうして、ただいま申しました東山の作戦においては、残留部隊は第一線に立たされ、装備の優秀になった中国の解放軍の矢面に立たされ、砲火を雨のように浴びて死闘を続けておりました。この作戦においても、現場にやはり当時の軍司令官が現地の視察に行っております。このような事柄から見ましても、これは明らかに、ただ単に何もしなかったというものではなく、また今村十総隊司令が閻錫山に対して、敗戦の結果辞表を提出するに当りましても、軍事最高顧問であった澄田参考人を経由して提出をしており、また澄田参考人を経由して、この十総隊をこの東山作戦後において砲兵隊に改編をするという経過をとっております。このような状態の事実の面から見て、残留部隊は全部現地除隊または逃亡者、このようにされてはおりますけれども、その実質は、やはり日本軍隊の籍がなお現存しておった現役将校の指揮のもとに行われており、現地除隊ということはただ単なる名目にすぎないということが、この事実からはっきり言えると思います。
 また未帰還調査部の報告によりますと、元泉、岩田は退職したというふうにあります。なるほどそうかもわかりませんけれども、事実上において岩田参謀は軍参謀としての仕事を続行しておりますし、軍命に違反をして残留工作をやった。このようなことをやったものであるならば、当時なぜこれを逮捕し、全軍に対して岩田が逃亡したものであるということを布告しなかったか。このようなことが全然行われておらず、岩田とも一緒のところに住んでいるというような状態であった点から見て、これも一つの表面上の手であるということが言えると思います。また軍は極力帰還を勧めた、そうしてその後において全員帰還をするように言ったというふうに山岡参考人は言っておられますが、これはなるほど途中でアメリカと中共軍と国民党軍の軍事三人調停ができまして、そうしてあまりにも公然と行われているところの太原の残留問題について干渉をしたのであります。このときに、やむを得ず、この特務団司令部の解散ということについては、口達で言ったということはありますが、この命令は下級部隊には伝わっておりませんし、また事実上、このときに太原の城内または周辺におりました三個団の部隊を、岩田軍参謀の指示によって、太原の三人組から隠すために、一個団に太原の東の山の中の洞窟の中に、他の二個団は太原の西方の汾河の向う岸の農村の中にそれぞれ移させて、隠蔽をさせております。そうして太原の町の中は、日本人は日本人の服を着て歩くなというような命令が出て、ここに隠蔽策を講じて残しております。また軍は最後まで現地除隊ではなくして帰還を勧めたというふうに言っておりますが、私の知る範囲内においては、現地除隊になっている者の日付は二十一年の三月であります。しかし軍司令部または軍が太原から動いたというのは五月になってからであります。この点から見ても、まだ太原に全部隊がおる間にすでに他の者を現地除隊として処理をしておる点から見ましても、現地除隊にして残すということは、八月の末に岩田軍参謀と閻軍の代表の趙瑞代表との会談において、このようにして残そうということにきめたものであって、あくまでもこれは計画的な書類上の処理であるということが、この点からもはっきり言うことができます。
 以上のような状態において太原に約五千の者が残り、現役の将校に指揮されて十回余の戦闘にかり立てられております。たとえば晋中作戦といって、太原の南の地区において、中国共産軍の反攻に対してこの日本人残留部隊の主力を第一線に立たせる。そしてここへ全中国共産軍の主力を集中さして、他の地区におる閻錫山の子飼い部隊を太原の城内に入れるというこの閻錫山の策にあやつられて、残留日本人部隊はほんとうに解放軍の全火力を集中した中において、百九十名が一挙に戦死をし、他の者も傷つくという壊滅的な死闘を続けたのであります。東山においてもまた先ほどの通りであります。
 しかし残留者は、これが日本の復興のためになるのだ、日本の復興のためにこの山西地区の拠点を確保しなければならない、これがわれわれの任務だというまでに信じ込まされて、死闘に死闘を続けていったのであります。そして全部で、先ほど百百参考人が言われましたように、四百名近くの者がこの残留期間において戦死をしております。このかばねもいまだ収容することができず、大部分は山西の広野にさらされております。これらの戦死者の身分も、現地除隊として計画的に処理されてありますために、勝手に山西に残って勝手に戦争に参加して死んだ者であるというふうに銘打たれて、この遺家族の人たちは何ら保障もされておらず、うちのむすこは犬死にをしてしまったと悲しみ嘆いております。またそのほかの多くの者も、この侵略戦争、そしてさらに続いて山西に残されたところの、この戦争の責任を負って、ほんとうに閻錫山時代の戦犯の軟禁生活ではなく、当時の日本軍の作った監獄の中で、数年間罪のつぐないの生活をしてきております。しかしこれらの者もすでに現地除隊として処理されておりますために、何らの保障も受けることなく、一般邦人として取り扱われております。このために遺族の方々には、自分のむすこが犬死にをしてしまったということに対して悲しみ嘆き、私たち十一年目にこのような生活を経て帰ってきた者にとって、このような取扱いを受けておることに対して深い矛盾を感じ、そしてまた悲しみと不安とを感じております。どうかこのような山西の残留の実情を日本の皆様によく了解をしていただいて、正当な身分を与えていただきたいということをお願いをいたします。
○原委員長 これにて参考人よりの陳述は終りました。
 これより本問題について参考人及び政府当局に対する質疑を許します。眞崎勝次君。
○眞崎委員 皆さんどうも御苦労様でした。この問題を正しく解決するために、皆さんの腹蔵なき御意見を二、三伺いたいと思います。むろん日本歴史にない、世界の歴史にもない、無条件降伏をして、二重降伏をするというような惨たんたる状況において、誤解や錯誤あるいは上下の意思の不疎通、いろいろなことがあって、いろいろ皆さんがおっしゃるようなことが起り得るだろうということは想像にかたくないのでありますけれども、一、二伺ってみたいと思います。大体澄田参考人はいつどういう通信方法で、日本軍が降伏したということを、どういう電文でどういうふうに受け取られたのでございますか。
○澄田参考人 お答えします。十五日の天皇陛下の放送を聞きました。それが最初であります。現地におきまして、重要な放送があるから聞けという知らせがありました。
○眞崎委員 その当時ラジオで聞かれたわけですね。皆さん方もお聞きになったわけですか。
○百百参考人 私は聞きません。
○早坂参考人 私も聞きません。
○眞崎委員 それでそういうときの幹部の決心もいろいろ確定せぬところがあるだろうと私ども思いますが、そのときとられた処置について、覚えておられたら伺いたいと思います。
○澄田参考人 そのときは、これは重大な事態である。何とかしてこの中国で、最前線の山西におきまして、いろいろ誤解等のために不測のことが各部隊に起きないようにしなければならぬ。それがためには、日本軍が降伏をして、われわれは喜んで陛下の決心に沿うように処置をしなければならぬということをまず第一に考えました。すぐ主要団体長会議を開きまして、その趣旨を団体長を通じて伝達をいたしました。
○眞崎委員 団体長全部集まったのですか。
○澄田参考人 独立団体長は全部集まりました。独立団体長ですから、師団長、独立旅団長、軍直轄の部隊長、これだけであります。
○眞崎委員 次に、山岡参考人に伺いますが、この三人の参考人の方々の陳述を聞かれての所見を、一々反駁的なことではなく、そういう間違いも誤解もあったろう、あるいは中間の者が自分の意思でもって命令を下したこともあるかもしれぬというふうな、いろいろな想像もつくと思いますから、そういう点を一つ伺いたい。
○山岡参考人 ものにはいろいろ考えようがあるものだということを感じました。なお、時期と実際とがいろいろ前後撞着しておるところがあるようにも思いますので、時期を合せて一つ観察していただきたいということを感じました。
○眞崎委員 時の相違があるわけですね。
○山岡参考人 はあ。
○眞崎委員 時期の隔たりがあるのを、一緒にして見ておる……。
○山岡参考人 考えておる点があるように思いました。
○眞崎委員 今お二人の参考人のお言葉を聞かれてあなた方の所感を伺いたい。どちらでも……。
○小羽根参考人 ただいまの山岡参考人の、ものにはいろいろの考え方もあるものだという点につきましては、私たちは納得がいかないのであります。私たちは事実に基いて言っておるのであります。指揮官と指揮された者、この立場は二つあると思います。しかし、そこに行われたところの事実というものは、あくまでも一つであるというふうに考えます。以上でございます。
○百百参考人 私のまず感じましたのは、閻錫山軍の要請ということに重視をされて発言をされました。私たちは日本軍の中において行なっております。閻錫山軍とは直接そういったような交渉はありませんでした。その日本軍の中で、日本軍から、日本軍の系統を通じてのいろいろな指示、宣伝、こういったものによって、自分の考え方あるいは行動というものを律してきておるのであります。だから、その立場が違うというふうに言われるならば、そのような閻錫山軍に接触された方と、そうでなしに、日本軍の直属の指揮系統の中におった人間との考え方の相違というものと、またそのようにいろいろな状況というものを知っておられる人と、またそうでなしに、過去において直接上官の大隊長あるいは師団長、こういったものの指示を受けて、そのままそれを率直に信じてやってきた人間の差というものがあるというふうに自分は考えます。
 またもう一つ違うというふうに言うならば、私はやはりそのように大隊長と話をして、責任をもって残ったその人たちがやはり死んだ、そうしてまだわからない人もある、こういったような人に対して、やはり何とかしてあげなければならない、こういったような考え方を私は強く持っております。そこにやはり若干の立場の違いがあるのではないか、そういったような点について、私は感想を持っております。
○早坂参考人 自分もまた日本軍隊の下級幹部としての経歴を持っています。そういう点から、自分は責任ということについて考えます。私は実際上において、紙に書いた命令を出したか出さないか、あるいはそのようにありのまま言ったか言わないかといったふうな問題ではありません。たとえば、私たちが戦争する場合において、単に目くばせをするというだけにおいて、多くの兵隊に突撃をさせることができます。あるいは私がせきばらいをすることによって、兵隊は着剣をします。このようにして、指揮官の身ぶりあるいは一眼一笑というものに対して、部下はみな注目をして、その意図を奉ずるように日本の軍隊はしつけております。だから、そのような意見から言いまして、もちろんわれわれが述べた多くの事実に対して、必ずしも山岡参考人あるいは澄田参考人は、おれはそのようにやらない、言わないというふうな問題も、私は全然ないとは言えないと思います。これはあり得ると思います。しかし私は、過去の地位が高ければ高いほど、そのような人たちが、単に何げなく言ったようなことが、その人が偉ければ偉いほどに、それを有利に解釈したり、あるいは勝手な解釈をすることによって、多くの間違った行動が生まれることは当然だと思います。しかし、そのような場合に、だれに責任があるかという場合において、私はこの人が当然責任を負うべきだと思います。私は、単に釈明がどうだったというような問題も、以前の場合において問題になったようでありますが、実際上においては、この残留というものが間違っておるというのであれば、何でこれを極力とめなかったかということが問題になるのじゃないか。むしろそのような事実が発生をしておりながら、それに対して極力それを阻止しなかったということは、われわれから見るならば、これを容許しておった、黙認しておった、あるいは発動しておったというふうにとれます。また、事実私はそうだったと思う。たとえば元泉あるいは岩田が残留工作を進めておるというのであって、そうして実際上において軍の司令官あるいは軍の参謀長、あるいは第一軍司令部そのものがこういうことを阻止しようとするのであったならば、なぜそのようなものを軍法に照らして処断をしないのか、あるいは少くともこのようなものに対して全般に布告をしないのか。要するに、これはやっていけない、これはやるべきである、軍隊はこの二つしかありません。それを、やってもいいが、しかしそのように長引いても仕方がないというようなものではないのです。われわれの過去において行なってきた戦争の中においては、右か左しかありません。またこのように私たちはみな教育されてきたのです。だから、それをやってはいけないというならば、なぜそのようにやってはならないという厳然たる命令ができなかったか。私はこういう点を考えます。ものの考えようはいろいろあります。しかし私は事実は一つだと思う。どのようなことが事実かというならば、多くの人が見て、これは道理であると多くの人が信じたものが道理である。個人と個人がそれを言い争うことにおいて、そのどちらが上手に表現するか、どちらが多くしゃべるか、こういうことによって問題の善悪というものは決定されないと、このように考えます。
○眞崎委員 私は終ります。
○原委員長 櫻井奎夫君。
○櫻井委員 質問をいたします。まず政府に質問いたしますが、援護局の調査部から出されましたこの調査につきまして、先ほどあなたは、これは十分なる資料により、あるいは多数の投書と申しますか、そういうものを参酌して、できる限り詳細なるものを概括をしてここに提出した、このようにおっしゃったわけでありますが、本日参考人各位の御意見を聞きますと、特にあとの百百、早坂、小羽根、そういう方々の御意見を聞きますと、これらのものは何らこの資料には載っていない。このことは、もし今の陳述が真実だとするならば、これは非常に重大です。この調査に基いて、あなた方が復員を処理したとおっしゃるならば、現実に今のような事態の中で戦死をしたり、そして長い間抑留されて今帰ってきておられる人が、現地除隊という一つのでっち上げによって、正当な待遇を受けておられない、また政府のこの点に対する調査の怠慢を意味するものだ、従ってこの調査は、いつまで、どのような人に基いて調査をしたか、この点を明らかにしてもらいたい。
○吉田説明員 ただいま櫻井先生から御指摘の点でございますが、この報告書は要約をいたしましたので、細部については必ずしも書いてございませんが、御指摘の事柄、たとえて申しますと、この報告書の第二項の「山西軍の日本軍将兵に対する参加勧誘の開始とその影響」、この項の中には、ただいま参考人の述べられたようなことは十分私ども承知して書いてございます。また残留者の方が国共の戦闘によって多数の死亡者を出されて、まことにお気の毒である、それらの事情も十分承知いたしまして、最後の五の、山西に残留した残留者の状況というところに書いてございます。要約いたしましたので、文面上は必ずしも載っておりません。この機会に、ただいま軍幹部のお二人の参考人、下級指揮官以下の三人の参考人の方の陳述がいかにも違っておるように御観察ではないかと思います。私どもこの問題については、櫻井先生のおっしゃる通り、重大な問題になりますので、これは非常な日子をもって相当な調査をいたしております。従って、今日まで私どもの方としては、この報告書にありますことは、私、ほんとうに現在ではその通りであると感じております。そして先ほどの参考人のお話の間の相違は、どこに問題の食い違う点があるかということを一言付言させていただきたいと思います。
 早坂参考人以下お三人の申し立てておられること、これは次の点においては私は事実であったと思います。それは、この報告書の第二項、山西軍が――もちろんその中には軍の幹部であった将校等で残留を決意したものが含まれている、これらの人たちが残留の猛烈なる勧誘運動をやった、その事態は早坂参考人以下お述べになったような事態があったと私は思っております。それからまた、日本の将兵その他の方が山西に残されてから、これを日本人だけの部隊を作って、そうしてこれを中共との戦闘の矢面に使った、そのためにたくさんの犠牲者が出たという事実も、この最後の項にございます。この文面には詳細に出ておりませんが、ここらでもそういう事実が十分あったと私どもは承知しております。ただ、この委員会でも一番まだ論議が尽されておりませんところは、第三項、特に第四項でございます。山西におりましたこの第一軍関係の残留問題を扱いますときに、時期が大体三つに分れております。二十一年の一月から二月ころまで、終戦後、閻錫山が山西に進出してきました十一月末から十二月、二十一年の一月から二月ころまでの残留工作の非常に盛んな時期、それが一つの時期でございます。それから、先ほど澄田参考人、山岡参考人等からも御説明がありましたように、一般の情勢がわからなかった、第一軍としてだんだんと帰還等の見通し、あるいは支那派遣軍全般の内地復員の方針等がはっきりしてきて、それらの指導を行なって、どうしても残るという者以外は帰るんだという指導が行われた時期、そして軍の主力が帰りました二十一年の五月に至る時期、これが第二時期でございます。その帰還までに帰られなくて、最後まで山西に残られた方が、自後、閻錫山軍に入ってさまざまな困難な境遇を経て今日に至るまで、あるいはその間に戦没された、この三つの時期があると思います。この第二番目の時期について、必ずしも論議が尽されておらないのではないか。私はこの点を重視しまして、今まで調査をしたのでございますが、先ほど参考人の方からも御発言がありましたが、早坂参考人のおいででありました独立混成第三旅団、それから百百参考人のおいででありました百十四師団、この師団に例をとってみますと、私どもは軍、ことにシナにおりました支那派遣軍全般の方針が、必ずしも末端に徹底しておらなかったとような節はなかったように観察するのであります。なぜそういうことを申し上げるかと申し上げますと、今お二人の参考人がおられた部隊の数的な例をとってみますと、早坂参考人の所属しておられた独立混成第三旅団は、編成時の人員が大体九千人であります。それが残留工作の一番盛んだった末期と申しますか、第一軍の方で残留者の人員氏名をとりましたときに千六十八名でございます。その後なるべく帰るんだ、残ると言う者には、もうどうしても帰るんだという指導をされて、軍主力が帰還するときまで部隊に復帰されてこない、すなわち最後まで残られた方は、この旅団においては百三十四名でございます。これをまた百百参考人のおられた百十四師団の例をとってみますと、この総人員は一万四千人でございまして、残留工作の一番盛んだった最終期と申しますか、二十一年の三月十日、これは軍司令部で調べましたところの調査の報告では、千五百六名となっております。この人員がその後軍その他の指導で帰還を勧めて、軍が山西を撤退します二十一年の五月、そのときまでに大隊に帰らないで、山西に残られた者が五百七十五名である。私どもは今のような状況を見まして、第一期の時期には確かに軍も、あるいは一般将兵の方も、いろいろな情勢が混乱をしておった。そこで、山西軍の強力なる残留運動があった。従って、個人々々の立場から見ますと、いろいろ迷われる点もある。ことにこの残留というものが、他の戦場における単なる、軍にいるのをいやがっての離隊逃亡というような、そういう不純な破廉恥なものでなくして、先ほど来参考人のお話がありましたような、日本の再建というような大きな意味で残る気持になられた点も、これはもう確かに私たちうなずけるのであります。ただ、第二時期になりまして、方針は特別の者以外は帰るんだ、どうしても残りたい者以外は帰るんだという工作がこういう数的な観察から見てかなり徹底しておる、それにもかかわらず、第三次すなわち山西軍に残られてからは、これはまことにお気の毒な状況で、かつ死亡者はでき、かつ傷病者ができて、これは私どもお気の毒だと存じます。
 なお最後でございますけれども、お名前を出して失礼でございますけれども、百百参考人の御説明がございましたが、この百百参考人から、身分についての異議申し立ての書類が出て参りました。その中にも明瞭に、自分は帰還命令は聞いたということを証言しておられます。参考のためにちょっと付言をしておきます。
○櫻井委員 詳細具体的なお話を承わりましたが、それでは、早坂、百百両参考人に直接お聞きいたします。最終的に早坂参考人のところに百三十四名、百百参考人の方は五百七十五名ですか、こういう方々は全く自分の自発的な意思で残られたのかどうか、あるいは先ほど百百、早坂参考人の陳述にありましたように、どうしてもこれはわれわれが残らなければ閻錫山が主力を日本に帰してくれないのだ、従って、われわれは日本再建のために犠牲となって現地にとどまって、そうして主力を日本に帰すんだ、こういう宣伝なりあるいは御本人の覚悟なり、また軍のいろいろな組織を通じての宣伝なり、そういうもののために残られたのか、あるいはあくまでも自分の自由意思で残られたのか、その点を一つ明瞭にしてもらいたい。
○百百参考人 今の御質問に対して答えます。私が残りましたのは太田黒参謀から大隊長にそういったような電話がありました。これに基いて隊内において編成をしろ、その時期というのはもう大体末期であります。今言われましたところの最高潮が済んで、宮崎参謀が南京からやって参りまして、そういったようなうわさを聞いて、そうしていろいろ動揺が起ってきたそのような時期であります。このときに太田黒参謀のところから電話があって、編成をするようにと言われて編成をやっております。またその後においても、太田黒参謀自身が各隊を回って、私の大隊にも来ております。そこで残るようにという宣伝を行い、また三浦三郎中将も、私たちの当時の師団長でありますが、残るから残るように、このような伝達を聞きました。そして部下を連れて残ったのであります。残ってからの状況としましては、そういったような帰還命令あるいは特務団の解散がある、こういったようなことは知っております。しかし、そういったようなことを知ると同時にやりました措置としては、今言われましたように、いなかにその編成して部隊が入っていく。私たちの参加したところの第三特務団は、太原から川を渡って、離れた彭村に部隊で移動して待避しております。これは特務団の命令によって行われておる。こういったような状況のもとにおいて、当時また部隊に帰るといったようなことはできなかったのであります。これが最終末期――いわゆる今言われたように、初め部隊に残る、あるいは派遣要員と指定されておった者も取り消した。しかし、そのような部隊におる者は取り消せましたけれども、そのときすでに派遣されて特務団に入っておった者は、そのような団全体としての行動によって帰れなかった者もおる。私たち当時においては帰れかったのが実際であります。大体このようなことであります。
○早坂参考人 当時のいわゆる日本の世界征覇というような問題を考えて、実際にまじめに戦争してきた自分たちが、敗戦という現実を見て、そうして日本がどのような状態にあるかということを考え、自分の肉親が現在どのような状態に置かれておるかというようなことを考えた場合に、志願して山西に残るような気持は、人間としての良心があるようなら、だれもないと私は考えます。また私も事実そうでした。自分の家庭の事情を調査になれば明瞭なんでありますが、私は八人兄弟の長男であります。しかも、昭和十六年に出征したきり、一回も帰らなかった。しかも、うちには動産も不動産もありません。また弟が非常に幼かった。間がみんな女であります。このような家庭の状況から、当然一番先に帰ることを希望しました。もちろん全部の兵隊が帰国を希望しておりました。しかしながら、この山西の特殊状況というものから、やはりだれかが残らなければ帰れないというようなうわさあるいは話が上級の方から伝わってくるに従って、残留運動が進められてきて、しかも、それまで私は兵隊にもだれ一人残ってはならない、みんな帰ろうというふうに言っておったのでありますが、昭和二十一年の三月に山西省の太原県の彭村という駅に、当時の旅団高級参謀であった今村大佐に呼ばれて、そしてお前は残るようにきまった、このように言われました。それは困る、私はもう長い間勤めておるし、今度だけはぜひ返してもらいたいというふうに言ったが、しかしだれかが残らなければみなが帰れない、しかも、その残る者はだれでも彼でもいいというわけではない、残る部隊の編成、今後の任務からいってぜも残ってくれ、これは兵站の命令だから、お前は残すというふうに言われました。当時私は大隊の先任中隊長でもありましたし、またそのとき言われた言葉としては、決して長い間残るのではない、一年間だ、部隊の主力が帰還していって、とにかくこれは一年契約なんだから、帰りたければ一年で返すつもりでいるんだからとそのときは言われました。そのようなところから、私は全体のために、また多くの部下を殺し、多くの人を傷つけた自分が、そのような部下が眠っておる土地、あるいは傷ついた部下がその後においてどのようになったかわからないという状態なのに、自分だけが健康のまま一番早く帰るということは、仁義的にも済まない、どうせここまで来たからには、尖兵として残るべきだというふうな気持で残りました。
 さっき援護局の方が千六十八名から百三十四名になったではないかという点をもって一つの判断をなされておりますが、しかし、このような数字の計算だけではなくして、このような残留運動そのものがすでにたくさんの人を発動して、わっとわき立たせて多くの人を残るようにさせておる。しかし、いろいろな状況の変化によっては、それが非常に減ることもあるだろう、大体千名くらい残ると言い出せば、このくらい残るだろうという目安はつけて発動しておるように思います。だから、この千六十八名のうち百三十四名残ったという中の、これらの残留活動を指揮しておったあの人たちが帰ったでありましょうか。これは全然帰っていない。どんなに少くなっても、高級幹部は依然として残っておる。あるいは上位にあるところの将校は、厳然としてそのまま残っておるというふうな状況なのであります。このような数字を初めから見越して、このような運動をやって、一時わき立った場合にはこのようになる、しかしこのような状況で、ある状況の変化がきても、ある程度これだけの人員は残るという目算を持って行われたものであるということを承知していただきたいと思います。ところが、これは当時日本軍そのままであって、何人残れと言われたら何人残る、何人にしようと言ったら何人になるというふうなものではございません。もちろんこの中には、お前の自由意思は全然働かなかったかといえば、私がさっき申し上げたように、命令でもある、道理でもある、自分としての責任もあるというような気持から、その命令を受諾したというふうなものであります。
○臼井委員 澄田、山岡さんにお伺いしますが、逃亡をしたという中に、残留をいやがって逃亡した者があるのじゃないかと思うのですが、その点いかがでしょう。どうも、帰国するにしても、集団の方が安全なのに逃亡したということがちょっと理解されないのですが、その点はそういう者があったのかどうか。
○山岡参考人 これは、たとえば朝鮮人の隊長あるいは朝鮮人の兵は、国に帰るために逃亡されました。それからいろいろの方があったと思います。全部の方が全部というわけじゃない、純真な気持で残ろうという気持でもって逃亡といいますか、結局離隊されたわけであります。それから、中には離隊すると、そのときに復員規定によりましていろいろ物がもらえます。その物を持って外に出ると、閻錫山の方でうまい給与をしてくれる、女の子とも遊べるというような関係から離隊された方もないとはいえないと思います。それから、もうおってもしょうがない、早く出かけていけ、残ろうというので離隊された方もあると思います。それから、これに対して軍が何も処置しなかったか、実は処置できなかったのでございます。懲罰令及び陸軍刑法、これは中国側の命令で、逃亡とかああいう軍刑法に関するものはもう適用できなくなりました。それから、憲兵はみな戦犯をおそれた関係か何か無力化しまして、またこれを救うために早く出して帰せというので、居留民にして早く出してしまいました。従いまして、どろぼうした者に対しての軍法会議というようなものは残っておりましたが、逃亡というような処置に対しての手当はできません。しかも、私どもは閻錫山側に投降しろという命令でございます。すべて閻錫山側の命令に従って行動しなければならぬ立場になったわけでございます。その際に、逃亡者は閻錫山側の同意を得る人間でございます。従いまして、逃亡者を逮捕するとかいうことも何もできないわけでございます。また、先ほどから、岩田、元泉氏が、逃亡したのになぜ断固たる手段をとらないか、こう言われますが、実際断固たる手段をとるだけの権限が軍にないわけでございます。ことに岩田参謀は、参謀として行動しますと影響が非常に強い。誤解を起させるというので、十二月に参謀をやめさせたのでございます。他の職に転ずるということは、私どもの権限ではできません。参謀をやめさせました。そこで、二月だったか三月だったか忘れましたが、軍司令部付にしてもらったわけであります。これも電報は、暗号電報は一切取り締られておりましたし、普通の電報は打とうにも打てない。参謀の肩章をはずさせまして、そして参謀ではなくなったという命令は、軍の各兵団に通達せられたはずでございます。そういう情勢でございます。
○臼井委員 今の参考人の陳述をいろ
 いろ伺っていまして、果してそれが純然たる命令であったか、単なる干渉であったかということは、むずかしい点があろうと思うのですが、ただ、軍とすると、部下は上官の言ったことはすぐ命令というふうに考えて行動しがちなんであります。そこで政府の方に伺うのですが、終戦後のこういうような状態で、こういう環境の際に、軍がかりに命令をした、それによって行動を起して死傷も生じた、こういう場合には、軍人恩給なり援護法なりでどういう解釈をされておりましょうか。きょうは恩給局長はいらっしゃいませんけれども、そういう方面についての御解釈を承わりたい。
○田邊政府委員 終戦後山西におられた第一軍が、二十一年の五月に、現地除隊、復員の手続をとってお引き揚げになったわけであります。われわれ援護業務なり復員業務なりをやる者が、終戦後、二十三、四年になってから、いろいろ調べて現地除隊の手続をとったのでございますが、われわれが受け取った現実は、現地除隊をしたという形ですべて処理がされてきているわけであります。そこで、現地除隊をしたことが正しかったか、正しくなかったか、遺漏があったかなかったかということが、われわれとして調査をしなければならぬポイントになるわけであります。これは、全般と同時に、一人一人の方について実情を調べるようにいたしております。私はそういうふうに未帰還調査部長に命じてあるわけであります。従いまして、一人々々についてどういう状態であったかということは、別に調査があるわけでございます。ただ、これは簡単にしてございますが、さらに詳細なものができておりますので、御希望に応じまして差し上げたいと思います。従って、遺族援護法なりあるいは恩給法も、そのときに軍人の身分が切れておる、こういう建前に相なっておりますので、従って、恩給法、援護法は適用にならない、こういう筋に相なっておると思います。
○臼井委員 そこでお伺いするのですが、手続としては、軍の高級の方でそういう手続をされてきたのですが、万一そういう手続が実際においては完了していなかったというような場合には、またこれは少し違ってくるのだろうと思うのですが、その通りでございますか。
○田邊政府委員 私どもの方針といたしましては、この前も申し上げましたが、軍の首脳部が第一線の将兵に対して残留しろということを正式に命令するということは、われわれはあり得ないことであるというように考えておるわけであります。事実そうであったと思いますが、しかしながら、帰還をするのだという大方針が決定した後においては、極力その方針を各人末端まで周知徹底せしめるために、必要な措置を講じたかどうか。その趣旨が徹底していなかったために、またそれにもかかわらず復員の手続をとられたのではないかというような場合におきましては、知らずに現地に残った、十分趣旨が徹底しなかったために現地に残留をしたという場合におきまして、その後の現地除隊ということは適当でない、さようなものが発見された場合には、直ちに取り消したい、こういう考えで事務的には進めているわけであります。もちろん援護の問題になりますれば、いろいろ御意見はあろうと思います。しかし、現在の法律の体系下におきましては、御承知の通りになっておりますので、あくまでも事務的に筋を立てて調査をいたしているわけでございますが、今までのところ、命令が徹底しないために現地で除隊の手続をとったものというのは、今まで調査した人の範囲では、まだ正式には見当らないようでございます。なお、この点につきましては、今後とも調査を進めて参るつもりでおります。
○臼井委員 それでは、私は、時間がないようですから、この程度にしておきますが、ただこの問題は、いろいろ陳述を伺っても、非常に複雑しているようで、またそのときの状態がいろいろ変られたようで、軍としての不満、居留民をできるだけ安全に帰国せしめるためには、何か残留部隊を作らざるを得ないような情勢もやはりあったようにも推測されるのです。そのほか、上官において実際にそこに将来の日本の何か反抗の、日本の復興の拠点をそこに作ろうというような、その当時のあれとしてはそういうような考えも場合によってはないではなかったと思うのですが、いずれにしても、下の方の受けたあれと上部の方の命令指導というものが、相当誤解を生じていた点もあるように考えます。一つこれは慎重によく御調査を願って、実際にお気の毒な方がたくさんあるようなことであってはならぬと思いますので、一つ慎重にお願いしたいと思います。
○櫻井委員 実は、私は、澄田当時の軍司令官、あるいは山岡参謀長のいろいろな当時の行為についても、資料がありまして、これについて質問を申し上げたいと思うわけですが、時間もありませんし、私どもは今日あなた方の責任をここで退及しようという気持はない。ただ、しかし、当時の状況をあくまでこの委員会で明確にしてもらって――これは非常に大きな混乱がありましたし、なおまた閻錫山軍という仲介物があったわけでありますから、異例の事態が山西省のところにできているわけです。この事態を徹底的に究明して、しかも、その後における援護局のそういう方たちに対する処遇が不当であるならば、その不合理を是正していただきたい、こういうのが今日の参考人をお呼びしたところの趣旨なんです。従って、私は司令官の当時の責任をいたずらにここで追及したり、そういうことは避けるわけでありますが、今までるる参考人から述べられた通り――援護局長は少しおくれておいでになったようで、事情は一つこの速記録によってよく御調査願いたいと思うのでありますが、やはりこの問題は、軍が一度帰還命令を出したのだから、そこで軍の責任は終ったのだ、こういう表面的な解釈でなく、やはり当時の実情としては、先ほど参考人が言われた通り、この部隊は何ら武装解除もしていないで、日本軍の形のままで残っている。そこにやはり日本軍の伝統的な組織もあったでしょうし、いろいろな形態がそのまま引き継がれているわけです。そういった状態の中で、この帰還命令がどこまで徹底したのか、あるいは犠牲となってやはり残ろう、こういう悲壮な決意をなさった人もあるでしょう。そういうものを、これはもう軍が一応手続をとって現地除隊をしたものであるから、そういう人たちは現地除隊で、軍人ではないのだというような公式的な手続は、やはり不合理なものとして、今後の援護局の問題として、十分御研究していただく、個々にお調べになることはけっこうです。しかし、いたずらに時間をかけておったのでは、多数の人から非常に訴えが来ておるし、特に戦死をなさった方々の遺家族の、死亡者の身分に関する陳情書、これはおそらく援護局の方にも行っておると思うのですが、こういう方々は、自分の子弟なり夫なりを同じように歓呼の声で国から送り出して、そしてシナの大陸で戦死をした、戦死した状況は、あるいはシナの閻錫山と中共の内戦に参加したということかもしれませんが、しかし遺族としては、向うで戦死した人を何ら国家が処遇しない、勝手にそこで逃亡してシナの内戦に関与して、お前は勝手に死んだんだ、こういうことでははなはだ不満に思われることと思うし、国としてもはなはだ無責任なことだと思う。従って、ここに発生した特殊な状況を一つ十分御研究下さいまして、そして、こういう遺族の方々に不平不満がないように、その取扱い方に非常な不均衡がないようにしてこういうことをやっていくのが、やはり今後のこの委員会の責務であるし、同時に援護局の今後の大きな問題だと思う。従って、この問題は、今非常に関心を呼んでおる問題でありますし、援護局としては、これらの遺家族あるいは帰ってこられた人人の処遇に対して、適切なる御処置を早急にとられるように、私は強く要望するものでございます。これに対して御答弁をお願いしたい。
○田邊政府委員 櫻井委員の御要望、私もごもっともな点があると思うのであります。いわゆる戦没者の処遇の問題につきましては、すでによく御承知の通り、現在の恩給法、遺家族援護法では、一定の建前をとっておるわけであります。お気の毒だからこれはこうする、あれはああするという自由は、われわれ事務当局としては許されない。軍人は年金で処置する、軍属は弔慰金で処置する、こういう法律体系がきまっておるわけであります。これに対して、いい悪いは別にあるわけであります。従って、復員という手続をとったことがもしそのまま正しいものとすれば、問題はまた別途の考慮になってくるわけであります。従って、大きな、いわゆる準軍属と称せられて現在弔慰金だけの対象になっている人の問題になってくると思います。これは当委員会においてもいろいろ意見の分れているところでありますが、そういう問題になってくると思います。私どもは、山西組の方々で戦死した人がまことにお気の毒であるから、この遺族を援護するために身分をどうこうしようということも実は考えないわけではありませんが、こういうことをいたしますと、他に幾らでも波及してくるわけであります。こういう身分上の取扱いによって、援護法なり恩給法をいかようにも左右することができるということになりますと、またそれで一つの弊害が出てくるわけであります。そこで、たとえば満州国の警察官であるとか満州国の軍人等で戦死をしている方も、現在は援護法の対象になっておりませんが、彼らも召集手続をとれば何でもないことであります。こういうことも勝手にやるということになっては、法律の精神を踏みにじることになりますので、その点については慎重にしていかなければならぬと思っております。
 しかし、山西の特殊事情ということをお述べになりました点は、われわれもよくわかるのでございますし、やはり一般的な問題は、個別的なケースを積み重ねることによって全体が正確に掌握できるというかね合いになりますので、抽象的に全体をつかむことと同時に、個々のケースを掘り下げてみることも大事ではないかと思って、未帰還調査部長に対しましては、大へん手数ではございますが、陳情のありました方々に対して、一々その同じところに勤めておった同僚その他にも通信照会をして、当時の状況はどうだったんだということで、いろいろ資料をとって調査を進めさせているわけであります。先ほど臼井委員からも御要望がありましたので、この点については今後も御要望に沿うた趣旨で、十分調査を進めて参りたいと思っております。
○井岡委員 援護局の問題は、今、櫻井さんの方からお話がありましたが、私は山岡参考人を中心に一つだけ聞きたいと思うのであります。先ほど百百参考人、早坂参考人、小羽根参考人から陳述をされたことについて、眞崎委員からお聞きになられたのに、ものの見方はいろんなものがあるものだな、こういう御答弁だったと思うのです。そこで私はお尋ねいたしたいのですが、当時敗戦から敗戦直後の軍は混乱しておったかどうか、この点を一点聞きたい。
 それから第二点は、三人の参考人が言われたように、各高級参謀あるいは軍の指揮命令系統に所属されておられる方々が、閻錫山軍に残留する、残っておられたということが事実であるかどうか、この点をまずお聞きをいたしたいと思います。
○山岡参考人 混乱と申しましても、軍全般といたしましては、最初の時期を通じまして、そうえらい混乱というほどじゃなかったと思います。ただ個個に残留しようという人と残留したくないという人との間の争い等があったということは事実でございますが、軍全般として収拾がつかないような、ハンガリーのような問題じゃございませんでした。
 それから高級参謀等も残ったということでございますが、これは具体的に申し上げますと、今村参謀は残られました。それから大同の高級参謀も残られました。それから兵団長は塁兵団の元泉少将が残られました。これは残っておられましたが、たとえば百十四師団の参謀で、三人の参考人が言われました太田黒参謀は帰っております。それから大隊長クラスでは砲兵の大隊長が二人、それからもう一人あったと思いますが、まだあったかもしれません。私が今思い出します範囲では三人くらい残られて、あとは帰られました。三人残られまして、あとは全部帰っておられます。
○井岡委員 そうしますと、いわゆる軍そのものはあまり混乱をしてない、こういうことでございますが、この調査部の報告書の中にも「他面、支那派遣軍(総司令官岡村寧次大将)は、かねて山西における第一軍の真相が不明であることを憂慮したが、支那派遣軍」云々ということを書いてある限りにおいては、直接これはお前残れとか、あるいはこれは軍の命令であるとかいう格好で残留を命令するということはないにしても、かなり今述べられたような実情のあったことに対して、当時の参謀長としての御見解はどうですか。
○山岡参考人 今述べられました各参考人の述べられましたことの中で、事実もありますし、私の知らないこともございますし、また事実間違っておるという点も、これは私の見方だけでございますが、あります。その一つ二つを申せと言われれば申し上げますが、総軍で御心配になって、宮崎中佐を派遣してこられたのは、たくさんの人が残るということについて心配をせられたわけでございます。帰還の命令が出ているのに、一向その処置をとらないというので、連絡にこられたものと私は記憶しております。
○井岡委員 今お聞きしまして、大体の当時の軍の行動なり指揮系統、こういうものは、たといしばらくでも軍に籍を置いた者としては、一応の推測は立つわけなんです。そこで、櫻井委員がお話になったように、この問題はかなり複雑な様相を呈しておるとわれわれは思うわけなんです。従って、単に法律の建前としては、現地命令で現地除隊ということで、援護はやらない、あるいは打ち切っておる、こういうような点があろうかと考えます。田邊局長もさらに具体的に調べて、そうして、何らかの方法を講じたい、こういうお話のようでありますから、私は一段の方途を講じていただくようにお願いをいたしておきます。
○田邊政府委員 言葉が足りないために、あるいは誤解された点があるかと思いますが、現在の法律の運用でどうこうという問題は、結局復員の手続をとったかどうかという問題に帰着するわけであります。これをそのままにしておいて、何らか適当な援護の方策をとるということは、現在の法律である以上できないわけでございますので、その点くどいようでございますが、申し上げておきます。
○井岡委員 ですから、その問題については事情が複雑でございますから、私は答弁をいただこうとは思いませんが、事情等の許す範囲内、あるいはその客観的な事情、こういうものを勘案して、何らかの方途を講じてもらいたいという希望を申し上げておるわけでございます。
○田邊政府委員 現地除隊の当時とった手続をわれわれの方でどうするかという問題につきましては、なお今後も十分に慎重に検討いたしたい、こう申し上げているわけでございます。
○原委員長 これにて参考人よりの事情聴取を終ります。
 参考人各位には、御多忙中のところ、長時間にわたり詳細に事情をお述べ下さいまして、本委員会として、調査上非常に参考になりました、ここに、委員長より、つつしんで厚く御礼申し上げます。どうぞお引き取り下さい。
    ―――――――――――――
○原委員長 この際、閉会中審査に関してお諮りいたします。
 今国会もあと三日をもって終了することになりますので、閉会になりましたならば、閉会中も引き続き、国会法第四十七条の二項の規定により、継続して審査を行いたいと存じますので、その旨を議長に申し出たいと思います。つきましては、閉会中審査すべき案件として、各般の諸問題も包括し、海外同胞引揚及び遺家族援護に関する件につき、閉会中の審査を議長に申し出ることに御異議ございませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○原委員長 御異議なきものと認め、さよう決定いたします。
 なお、日ソ共同宣言批准後の年内引き揚げも予想されますので、ただいまの閉会中審査の件に基き、その実地調査を必要とする場合におきましては、委員を派遣いたし、調査を行いたいと思いますが、その際における委員派遣の手続等に関しましては、委員長に御一任願うことに御異議ございませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○原委員長 御異議なきものと認め、さよう決定いたします。
 次会は公報をもってお知らせすることとし、本日はこれにて散会いたします。
   午後五時四分散会