第036回国会 本会議 第2号
昭和三十五年十月十八日(火曜日)
    開 会 式
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午前十時五十八分 参議院議長、衆議院参議院の副議長、常任委員長、議員、内閣総理大臣その他の国務大臣、最高裁判所長官及び会計検査院長は、式場である参議院議場に入り、所定の位置に着いた。
午前十一時 天皇陛下は、衆議院議長の前行で式場に入られ、お席に着かれた。
衆議院議長は、左の式辞を述べた。
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  天皇陛下の御臨席をいただき、第三十六回国会の開会式をあげるにあたり、衆議院及び参議院を代表して、式辞を申し述べます。さきにわが国会議事堂で開催された列国議会同盟会議は、大なる成功をもって終了し、国際平和及び国際協力の推進に貢献し得たのでありますが、現下のわが国の状況にかんがみ、われわれはこの際、諸般の態勢を整え、道義の高揚と秩序の尊重により、民主主義に基く真の平和的文化国家としての実をあげる必要を痛感いたすものであります。
  ここに開会式を行なうにあたり、われわれに負荷された使命達成のために最善を尽くし、もって国民の委託にこたえようとするものであります。
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次いで、天皇陛下から左のおことばを賜わった。
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  本日、第三十六回国会の開会式に臨み、全国民を代表する諸君と親しく一堂に会することは、わたくしの深く喜びとするところであります。
  内外の諸情勢まことに重大な今日、全国民が、遵法の精神を重んじ、互いに協和し、民主主義の本義に即しておのおの最善を尽くし、国運の伸長をはかるとともに、世界の信頼を高めることが緊要であると思います。
  ここに、国会が、国権の最高機関として、その使命を遺憾なく果たし、よく国民の信託にこたえることを切に望みます。
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衆議院議長は、おことば書をお受けした。
午前十一時六分 天皇陛下は、参議院議長の前行で式場を出られた。
次いで、諸員は式場を出た。
    午前十一時七分式を終わる
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昭和三十五年十月十八日(火曜日)
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 議事日程 第二号
  昭和三十五年十月十八日
    午後一時開議
 一 故議員淺沼稻次郎君に対し弔詞贈呈の件及び追悼演説
 二 故議員犬養健君に対する追悼演説
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○本日の会議に付した案件
 議員淺沼稻次郎君逝去につき院議をもって弔詞を贈呈することとし、その文案は議長に一任するの件(議長発議)
 池田勇人君の故議員淺沼稻次郎君に対する追悼演説河野密君の故議員犬養健君に対する追悼演説
    午後一時七分開議
○議長(清瀬一郎君) これより会議を開きます。
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○議長(清瀬一郎君) 御報告いたすことがあります。
 議員淺沼稻次郎君は、去る十月十二日、日比谷公会堂において不幸難にあい、にわかに逝去せられました。まことに哀悼痛惜の至りにたえません。
 つきましては、同君に対し、院議をもって弔詞を贈呈いたしたいと存じます。なお、この文案は議長に一任せられたいと存じます。これに御異議ございませんか。
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(清瀬一郎君) 御異議なしと認めます。よってさよう決定いたしました。
 つきましては、議長の手元において起草いたしました文案を朗読いたします。
 日本社会党中央執行委員長議員淺沼稻次郎君は不幸兇手にかかり急逝されました。
 君は初代の議院運営委員長として新国会の運営に努め多年政党幹部の重職にあたり終始民主政治の発達に尽力されましたその功績はまことに偉大であります。
 衆議院は君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます。
 この弔詞の贈呈方は議長において取り計らいます。
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○議長(清瀬一郎君) この際、弔意を表するため、池田勇人君から発言を求められております。これを許します。池田勇人君。
    〔池田勇人君登壇〕
○池田勇人君 日本社会党中央執行委員長、議員淺沼稻次郎君は、去る十二日、日比谷公会堂での演説のさなか、暴漢の凶刃に倒れられました。
 私は、皆様の御賛同を得て、議員一同を代表し、全国民の前に、つつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)
 ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに、本会議のこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行ない、また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であります。
 かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党の党大会に、また、あるときは大衆の先頭に聞いたのであります。今その人はなく、その声もやみました。私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。しかし、心を澄まして耳を傾ければ、私には、そこから一つの叫び声があるように思われてなりません。「わが身に起こったことを他の人に起こさせてはならない」、「暴力は民主政治家にとって共通の敵である」と、この声は叫んでいるのであります。(拍手)
 私は、目的のために手段を選ばぬ風潮を今後絶対に許さぬことを、皆さんとともに、はっきり誓いたいと存じます。(拍手)これこそ、故淺沼稻次郎君のみたまに供うる唯一の玉ぐしであることを信ずるからであります。(拍手)
 淺沼君は、明治三十一年十二月東京都下三宅島に生まれ、東京府立第三中学を経て早稲田大学政経学部に学ばれました。早くから早稲田の北沢新次郎教授や高校時代の河合栄治郎氏らの風貌に接し、思想的には社会主義の洗礼を受けられたようであります。
 当時、第一次大戦が終わり、ソビエトの「十月の嵐」が吹いたあとだけに、「人民の中に」の運動が思想界を風靡していました。君は、民人同盟会から建設者同盟と、思想運動の中に身をゆだね、検束と投獄の過程を経て、ごく自然に社会主義運動の戦列に加わったのであります。
 大正十二年母校を卒業するや、日本労働総同盟鉱山部、日本農民組合等に関係して、社会運動の実践に情熱を注ぎ、大正十四年の普選を機会に、政治運動に身を挺したのであります。
 すなわち、同十四年農民労働党の書記長となり、翌十五年日本労働党の中央執行委員となった後は、日労系主流のおもむくところに従い、戦時中のあの政党解消が行なわれるまで、数々の革新政党を巡礼されたのであります。
 君が初めて本院に議席を占められたのは、昭和十一年の第十九回総選挙に東京第四区から立候補してみごと当選されたときであります。以来、昭和十七年のいわゆる翼賛選挙を除いて、今日まで当選すること前後九回、在職二十年九カ月の長きに及んでおります。
 戦後、同志とともに、いち早く日本社会党の結成に努力されました。昭和二十二年四月の総選挙において同党が第一党となり、新憲法下の第一回国会が召集されますと、君は衆望をになって初代の本院議運委員長に選ばれました。書記長代理の重責にあって党務に尽瘁するかたわら、君はよく松岡議長を助けて国会の運営に努力されたのであります。幾多の国会関係法規の制定、数々の慣行の確立、あるいは総司令部との交渉等、その活躍ぶりは、与・野党を問わず、ひとしく賛嘆の的となったものであります。
 翌二十三年三月、君は、日本社会党の書記長に当選、自来、十一年間にわたってその職にあり、本年三月には選ばれて中央執行委員長となり、野党第一党の党首として、今後の活躍が期待されていたのであります。
 かくて、君は、戦前戦後の四十年間を通じ、一貫して社会主義政党の発展のために尽力され、君自身が社会党のシンボルとなるまでに成長されたのであります。淺沼君の名はわが国政治史上永久に特筆さるべきものと信じて疑いません。(拍手)
 君がかかる栄誉をになわれるのも、ひっきょう、その人となりに負うものと考えるのであります。
 淺沼君は、性明朗にして開放的であり、上長に仕えて謙虚、下僚に接して細心でありました。かくてこそ、複雑な社会主義運動の渦中、よく書記長の重職を果たして委員長の地位につかれ得たものと思うのであります。(拍手)
 君は、また、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられたのであります。
 沼は演説百姓よ
 よごれた服にボロカバン
 きょうは本所の公会堂
 あすは京都の辻の寺
これは、大正末年、日労党結成当時、淺沼君の友人がうたったものであります。委員長となってからも、この演説百姓の精神はいささかも衰えを見せませんでした。全国各地で演説を行なう君の姿は、今なお、われわれの眼底に、ほうふつたるものがあります。(拍手)
 「演説こそは大衆運動三十年の私の唯一の武器だ。これが私の党に尽くす道である」と生前君が語られたのを思い、七日前の日比谷のできごとを思うとき、君が素志のなみなみならぬを覚えて暗たんたる気持にならざるを得ません。(拍手)
 君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります。国民は、君が雄弁に耳を傾けると同時に、かかる君の庶民的な姿に限りない親しみを感じたのであります。(拍手)君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます。(拍手)
 私どもは、この国会において、各党が互いにその政策を披瀝し、国民の批判を仰ぐ覚悟でありました。君もまたその決意であったと存じます。しかるに、暴力による君が不慮の死は、この機会を永久に奪ったのであります。ひとり社会党にとどまらず、国家国民にとって最大の不幸であり、惜しみてもなお余りあるものといわなければなりません。(拍手)
 ここに、淺沼君の生前の功績をたたえ、その風格をしのび、かかる不祥事の再び起ることなきを相戒め、相誓い、もって哀悼の言葉にかえたいと存じます。(拍手)
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○議長(清瀬一郎君) また、御報告いたすことがあります。
 議員犬養健君は、去る八月二十八日逝去せられました。まことに哀悼痛惜に至りにたえません。同君に対する弔詞は、議長において贈呈いたしました。
 この際、弔意を表するため、河野密君から発言を求められております。これを許します。河野密君。
    〔河野密君登壇]
○河野密君 私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、故本院議員正三位勲一等犬養健君に対し、つつしんで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。
 私どもは、昨年来、犬養君が健康を害し御静養中と承り、御回復の一日もすみやかならんことを心から祈り上げていたのであります。しかるに、不幸にも御本復を見るに、至らなかったことは、まことに痛恨きわまりない次第であります。(拍手)
 犬養君は、わが国憲政の先覚者の一人であり、後には内閣総理大臣の重責をになわれた木堂犬養毅先生の長男でありまして明治二十九年七月、東京で出生されました。
 長じて学習院に学び、大正六年、東京大学文学部に進まれましたが、生来芸術を愛し、文筆に長じておられた君は、作家として立つべく、間もなく大学を退いて文学に専念されました。君の、格調の高い、しかも意欲的な作品は、文学の新しい領域を開拓するものとして世の注目を集め、将来を期待されるに至ったのであります。
 しかしながら、君は、父君の業を継ぐべしとの周囲の人々の勧めもだしがたく、作家生活において養われた理想主義と批判的精神とをもって、やがて政界に入られたのであります。
 すなわち、昭和五年二月の第十七回衆議院議員総選挙に東京第二区から立ってみごとに当選され、立憲政友会に所属し、少壮有為の政治家として研さんに努められたのであります。
 昭和六年十二月、犬養毅先生が内閣を組織せられるや、首相秘書官に就任し、当時のきわめて、不安な政治情勢のもとにあって、よく父首相を助け、その職責の遂行に力を尽くされたのであります。
 翌七年五月、不幸にも父君は暴徒の凶弾に倒れられたのでありますが、そのあとを継いで、次回の総選挙からは岡山県第二区より出馬されました。
 昭和十二年には、第一次近衛内閣の逓信参与官となり、通信、海運、航空行政に参画されたのであります。
 昭和二十年十月、君は、幣原内閣の外務政務次官となり、終戦直後の混乱期における総司令部との折衝に日夜肝胆を砕かれました。また、当時、わが国の政界においては、何よりもまず、政治力の結集、すなわち、政党の組織が急務とされたのでありますが、君は、同志と相はかり、時代の要請にこたえるべく努力を重ね、その結果、同年十一月、修正資本主義の旗じるしのもとに進歩党の結成を見るに至りました。同党は、二十二年三月、民主党に発展したのでありますが、翌二十三年十二月には、推されて、その総裁の重任につかれたのであります。
 また、昭和二十七年十月には、第四次吉田内閣の法務大臣となり、第五次吉田内閣にも同じく法務大臣として入閣されました。その後は自由党の総務、常任顧問となり、また、自由民主党顧問の要職にあって、政界の長老として党内外の信望を集めておられました。
 かくして、犬養君は、本院議員に当選すること実に十一回、在職二十八年七カ月に及び、去る三十二年二月には、永年在職議員として、はえある表彰を受けられたのでありまして、わが国憲政の発達、ことに終戦後の国家再建に尽くされた君の功績はきわめて大なるものがあると存じます。(拍手)
 思うに、犬養君は、父木堂先生の血を受けた国士的風格に近代的知性を加えた温厚な君子人でありました。まれに見る、明晰な、しかも緻密な頭脳の持ち主であるとともに、常にみずから高い理想を掲げ、満腔の情熱をもってあくまでこれを追求するという信念の士であったのであります。
 犬養君は、また、幼時より孫文その他中国の革命家と親しく接する機会を持ち、中国に対して深い関心と愛情を抱いておられました。ことに、日華事変中は、生命を賭して幾たびか中国に渡り、かの地の要人と会見して、両国間の平和回復のために奔走を続けられたのであります。
 昨年夏、当時の記録を残すために、原稿の作成に着手されたのでありますが、不幸にも病気にかかり、入院のやむなきに至りました。その後半歳にわたる闘病生活の間、主治医の再三の注意にもかかわらず、一意専心、原稿の完成を急がれたのであります。この文字通り骨身を削る苦心の結果、ようやくこれを脱稿されたのでありますが、いよいよ発刊される数日前に病にわかにあらたまり、八月二十八日早暁、ついに不帰の客となられたのであります。
 私どもは、犬養君のこの旺盛な精神力に心から敬服すると同時に、今この遺著「揚子江は今も流れている」を拝見するとき、行間にあふれる君の高邁な人間愛と平和主義に胸を打たれるのを覚えるのであります。(拍手)
 私が初めて犬養健君の名を知ったのは、遠く雑誌「白樺」の誌上でありましたが、君と親しく交わるに至ったのは、君が政界に入られてからでありました。戦時中君が大陸において画策されたことについては、おそらく後世史家の批判に待つべきものが多いと存じますが、君は、この間、囹圄の人となるなど、苦難の道を歩まれました。
 終戦後、日本社会党の結成にあたって、われわれは君の参加も求めたのでありますが、君は、笑って、育ちの違う私は別の道を歩みます、と断わられました。私は、むしろ、君の誠実さと率直さに尊敬の念を禁じ得なかったのであります。君は、このころから進歩的な保守政治家をもってみずから任じたようでありますが、みごとそれを貫かれたと思います。たとい党を異にしても互いに相通ずるものを感じ合える君の存在は、私にとって、かけがえのない尊いものであったのでありますが、その君は今やこの世になく、むなしく思い出のみが残っているのであります。
 現下、内外の情勢はますます多事多端であり、議会民主政治の確立と国会の権威の高揚とが従来にも増して要望せられております。従って、われわれ国会議員の責務も一段とその重きを加えたと痛感いたすものであります。このときにあたり、犬養君のごとき練達の士を失いましたことは、国家、国民にとり大なる損失でありまして、哀惜の情いよいよ尽きぬものを覚える次第であります。(拍手)
 私は、ここに、犬養君生前の事跡を回顧し、その人となりをしのび、つつしんで追悼の言葉といたします。(拍手)
     ――――◇―――――
○議長(清瀬一郎君) 本日は、これにて散会いたします。
    午後一時三十一分散会