第042回国会 本会議 第1号
昭和三十七年十二月八日(土曜日)
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 議事日程 第一号
  昭和三十七年十二月八日
   午前十時開議
 第一 議席の指定
 第二 会期の件
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○本日の会議に付した案件
 日程第一 議席の指定
 日程第二 会期の件
 議員請暇の件
 災害対策を樹立するため委員四十人よりなる特
  別委員会、公職選挙法改正に関する調査をな
  すため委員二十五人よりなる特別委員会、科
  学技術振興の対策を樹立するため委員二十五
  人よりなる特別委員会、石炭に関する対策を
  樹立するため委員二十五人よりなる特別委員
  会、オリンピック東京大会の準備促進のため
  委員二十五人よりなる特別委員会を設置する
  の件(議長発議)
 裁判官訴追委員の選挙
 首都圏整備審議会委員の選挙
 日本ユネスコ国内委員会委員の選挙
 日本放送協会経営委員会委員任命につき事後の
  同意を求めるの件
 運輸審議会委員任命につき事後の承認を求める
  の件
 公共企業体等労働委員会委員任命につき事後の
  承認を求めるの件
 中央更生保護審査会委員任命につき事後の承認
  を求めるの件
 社会保険審査会委員長及び同審査会委員任命に
  つき事後の承認を求めるの件
 中村高一君の故議員細田義安君に対する追悼演
  説
 山村新治郎君の故議員小川豊明君に対する追悼
  演説
 山崎始男君の故議員橋本龍伍君に対する追悼演
  説
   午後一時四十四分開議
○議長(清瀬一郎君) 諸君、第四十二回国会は本日をもって召集せられました。
 これより会議を開きます。
     ――――◇―――――
 日程第一 議席の指定
○議長(清瀬一郎君) 衆議院規則第十四条によりまして、諸君の議席は、議長において、ただいま御着席の通りに指定いたします。
     ――――◇―――――
 日程第二 会期の件
○議長(清瀬一郎君) 日程第二、会期の件につきお諮りいたします。
 今回の臨時会の会期は、召集日から十二月十九日まで十二日間といたしたいと思います。これに御異議ございませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(清瀬一郎君) 御異議ないと認めます。よって、会期は十二日間とするに決しました。
     ――――◇―――――
 議員請暇の件
○議長(清瀬一郎君) さらにお諮りいたします。
 議員岸信介君及び同安倍晋太郎君から、海外旅行のため、十二月九日から本会期中請暇の申し出があります。これを許すに御異議ありませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(清瀬一郎君) 御異議なしと認めます。よって、許可するに決しました。
     ――――◇―――――
 災害対策を樹立するため委員四十人よりなる特別委員会、公職選挙法改正に関する調査をなすため委員二十五人よりなる特別委員会、科学技術振興の対策を樹立するため委員二十五人よりなる特別委員会、石炭に関する対策を樹立するため委員二十五人よりなる特別委員会、オリンピック東京大会の準備促進のた め委員二十五人よりなる特別委員会を設置するの件(議長発議)
○議長(清瀬一郎君) 特別委員会の設置につきお諮りいたします。
 災害対策を樹立するため委員四十名よりなる特別委員会、公職選挙法改正に関する調査をなすため委員二十五名よりなる特別委員会、科学技術振興の対策を樹立するため委員二十五名よりなる特別委員会、石炭に関する対策を樹立するため委員二十五名よりなる特別委員会及びオリンピック東京大会の準備促進のため委員二十五名よりなる特別委員会を設置いたしたいと思います。これに御異議ございませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(清瀬一郎君) 御異議なしと認めます。よって、その通り決しました。
 ただいま議決せられました五つの特別委員会の委員は追って指名いたします。
     ――――◇―――――
 裁判官訴追委員の選挙
 首都圏整備審議会委員の選挙
 日本ユネスコ国内委員会委員の選挙
○議長(清瀬一郎君) 裁判官訴追委員、首都圏整備審議会委員、日本ユネスコ国内委員会委員がいずれも一名ずつ欠員になっておりますので、この際、その選挙を行ないます。
○草野一郎平君 裁判官訴追委員の選挙、首都圏整備審議会委員の選挙及び日本ユネスコ国内委員会委員の選挙は、その手続を省略して、議長において指名されんことを望みます。
○議長(清瀬一郎君) 草野一郎平君の動議に御異議ありませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(清瀬一郎君) 御異議なしと認めます。
 議長は、裁判官訴追委員に瀬戸山三男君、首都圏整備審議会委員に丹羽喬四郎君、日本ユネスコ国内委員会委員に竹下登君をそれぞれ指名いたします。
     ――――◇―――――
 日本放送協会経営委員会委員任命につき事後の同意を求めるの件
 運輸審議会委員任命につき事後の承認を求めるの件
 公共企業体等労働委員会委員任命につき事後の承認を求めるの件
 中央更生保護審査会委員任命につき事後の承認を求めるの件
 社会保険審査会委員長及び同審査会委員任命につき事後の承認を求めるの件
○議長(清瀬一郎君) さらにお諮りいたします。
 内閣から、日本放送協会経営委員会委員に楠山義太郎君、千葉雄次郎君、平塚泰蔵君、松本軍治君、また運輸審議会委員に中大路俊安君、公共企業体等労働委員会委員に金子美雄君、中央更生保護審査会委員に尾崎士郎君、一木ゆう太郎君、社会保険審査会委員長に川上和吉君、同審査会委員に細田徳壽君を任命したので、それぞれその事後の同意または承認を得たいとの申し出があります。右各件はいずれもその申し出の通り決するに御異議ありませんか。
  〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(清瀬一郎君) 御異議なしと認めます。よって、その通り決しました。
     ――――◇―――――
○議長(清瀬一郎君) 御報告いたすことがございます。
 元本院副議長井上知治君は、去る九月十九日逝去されました。
 議員細田義安君は、去る九月二十八日逝去されました。
 永年在職議員として表彰された元議員高見之通君は、去る十月三十日逝去されました。
 議員小川豊明君は、去る十一月十七日逝去されました。
 議員橋本龍伍君は、去る十一月二十一日逝去されました。
 永年在職議員として表彰された元本院副議長植原悦二郎君は、去る十二月二日逝去されました。
 まことに哀惜痛恨の至りにたえません。
 六君に対する弔詞は、それぞれ先例により議長において贈呈いたしました。今これを朗読いたします。
  〔総員起立〕
   井上知治君に対する弔詞
 衆議院は多年憲政のため尽力しかつて本院副議長の要職につきまたさきに国務大臣の重任にあたられた従三位勲一等井上知治君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます
    …………………………………
   細田義安君に対する弔詞
 衆議院は議員従四位勲三等細田義安君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます
    …………………………………
   高見之通君に対する弔詞
 衆議院は多年憲政のため尽力し特に院議をもってその功労を表彰された従三位勲一等高見之通君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます
    …………………………………
   小川豊明君に対する弔詞
 衆議院は多年憲政のため尽力された議員従四位勲二等小川豊明君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます
    …………………………………
   橋本龍伍君に対する弔詞
 衆議院は多年憲政のため尽力し再度国務大臣の重任にあたられた議員正三位勲一等橋木龍伍君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます
    …………………………………
   植原悦二郎君に対する弔詞
 衆議院は多年憲政のため尽力し特に院議をもってその功労を表彰されかつて本院副議長予算委員長外務委員長日ソ共同宣言特別委員長の要職につき再度国務大臣の重任にあたられた正三位勲一等相原悦二郎君の長逝を哀悼しつつしんで弔詞をささげます
     ――――◇―――――
 中村高二君の故議員細田義安君に対する追悼演説
 山村新治郎君の故議員小川豊明君に対する追悼演説
 山崎始男君の故議員橋本龍伍君に対する追悼演説
○議長(清瀬一郎君) この際、細田義安君、小川豊明君及び橋本龍伍君に対し、弔意を表するため、中村高一君、山村新治郎君及び山崎始男君からそれぞれ発言を求められております。よって、順次これを許します。中村高一君。
  〔中村高一君登壇〕
○中村高一君 ただいま議長から御報告のありました通り、本院議員細田義安君は、去る九月二十八日、都立大久保病院において逝去せられました。まことに哀悼にたえません。
 私は、諸君の御同意を得て、議員一同を代表し、つつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)
 細田君は、明治三十六年、東京都小平市の旧家に生まれました。長じて中央大学法学部に学び、在学中に司法試験に合格し、昭和九年卒業の後、東京市に就職せられました。自来二十五年の長きにわたって市役所及び都庁に在職し、ひたすら首都東京の発展と都民の福祉増進とに力を尽くしてこられたのであります。特に君は、昭和二十四年以来、財務局主税部長、総務局長、財務局長等の要職を歴任され、戦後の困難な経済事情の中で、東京都の復興とその財政の確立に献身されたのであります。
 また、昭和二十八年には欧米各国の行政、財政事情を調査視察してその識見を深め、さらに三十一年にはフランスに渡って、東京都の仏貨公債の処理交渉に当たり、多年の懸案解決の糸口をつけられたのであります。
 昭和三十三年東京都庁を退き、第二十八回衆議院議員総選挙に際し、東京都第七区から初出馬してみごと当選の栄を得られ、引き続き三十五年の第二十九回総選挙にも当選せられました。
 本院における君の活動はきわめて多方面にわたっておりましたが、とりわけ、大蔵委員会の委員あるいは理事としての活躍は実に目ざましいものがありました。君は、常に骨身を惜しまず、誠意に満ちた態度をもって話し合いを続けられたのでありまして、大蔵委員会の運営上なくてはならない人物として、与党はもとより、野党の委員諸君からも絶大なる信頼を博しておられたのであります。ことに、今春の通常国会においては、物品税の軽減問題について、国民の立場と国家財政の立場とが両立するよう、他の委員とともに日夜奮闘されたことは私どもの記憶に新しいところであります。
 また、君は、選ばれて首都圏整備審議会委員に任ぜられ、三多摩地方の開発には特に努力しておられました。
 自由民主党にあっては、全国組織委員会社会保障部長、国民生活局公衆衛生部長等として幾多の業績を残されましたが、特に政務調査会の財政部会においては、副部長として、その広い知識と豊かな経験を生かして縦横の活躍を示されたのであります。
 かくて、君の本院在職期間は四年五カ月でありましたが、その間、国会議員の本務に精励し、著しい功績を残されたのであります。
 君は、また、郷党のためにも終始意を用い、道路、学校、中小企業等の諸問題について、都民のよき相談相手となっておられました。
 細田君は、このように各方面にわたってすぐれた手腕を発揮せられましたが、さらに、財政、税制に関する造詣がきわめて深く、学者としてもまた一家をなしておられました。すなわち、激務のかたわら「欧米各国における租税制度」「事業税講義」「財政学講義案」等多数の著書を公にし、また、母校中央大学の経理研究所、都立商科短期大学等に講師として招かれ、後進の教育指導に当たっておられたのであります。
 思うに、細田君は、まれに見る努力家であるとともに、かたい信念の士でありました。権威に屈せず、利害を顧みず、みずからの信ずる道を邁進するという人柄であったのであります。君は、また、豪放らいらくな性格の反面、非常に緻密な頭脳ときわめてこまやかな人情の持ち主であり、事に処するにあたっては細心、他人のためをはかっては誠実そのものでありました、その私生活は実に質素で、いたずらに辺幅を飾らず、寸暇を得れば社会、経済に関する書物を開いて新しい知識の吸収に努めておられたのであります。これは、だれしもが君に信頼を寄せ、君を敬慕してやまなかったゆえんであると信じます。
 前国会の終了後、君はEECの実情を詳細に視察して日本の財政経済の発展に寄与すべく、ヨーロッパに行く計画を立てておられました。しかるに、出発直前、にわかに発病し、残念にも中止するのやむなきに立ち至りました。その後、ひたすら静養に努められましたが、ついに御回復を見なかったのであります。自己を顧みず、ひたすら世のため人のために働いてこられた長年の過労がこの不幸を招いたものでありまして、痛恨きわまりないところと存じます。知識、経験ともに豊かな細田君が、政治家としてなお春秋に富む五十九才の身をもって突如世を去られたことは、本院にとっても、国家にとっても、まことに大きな損失であると申さなければなりません。(拍手)
 細田君御自身におかれても、いよいよ政治家としてその本領を発揮せんとしたやさきに雄図むなしくなったことは、さぞかしお心残りであったと拝察するとき、哀惜の情ますます深まるのを覚える次第であります。
 ここに、細田君の生前の業績を回顧し、その人となりをしのび、もって追悼の言葉といたす次第であります。(拍手)
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○議長(清瀬一郎君) 山村新治郎君。
  〔山村新治郎君登壇〕
○山村新治郎君 先ほど議長から御報告のありました通り、本院議員小川豊明君は、去る十一月十七日、千葉市の自宅において逝去せられました。
 私は、ここに皆様方のお許しを得て、議員一同を代表し、つつしんで哀悼の言葉を申し述べます。
 先国会までは厳然たる態度で議席に着いておられる小川君の元気なお姿が見られました。しかし、本日はすでにその姿なく、千葉県第二区選出議員の氏名標がむなしく横たわっておるのみでありまして、まことに痛恨うたた無量なるものがあるのであります。(拍手)
 小川君は、明治三十一年三月、千葉県多古町に生まれ、長じて県立多古農学校に学ばれ、大正四年、同校を優秀な成績で御卒業になりました。
 君は、当時から農村の体質改善を志し、みずから農業に従事しつつ、周囲の青年に呼びかけてその指導と啓発に努め、農民の生活を向上させるために挺身しておられました。君の薫陶を受けた多くの人たちが現在郷土の各方面において活躍をしております。
 君はまた、若くして多古町会議員に選ばれ、町政のため少なからぬ寄与をいたされましたが、昭和二十三年には衆望をになって公選による初代の多古町長となり、以後二年有余にわたって町の発展と町民の福祉に尽くされました。
 君は、町長としての激務を遂行される一方において、千葉県購買農業協同組合連合会会長あるいは全国購買農業協同組合連合会専務理事に就任し、農業協同組合の育成と運営に指導的な役割を果たされたのであります。
 小川君は、昭和二十二年、日本社会党に入党し、やがて千葉県連合会の顧問につかれましたが、その誠実な人柄と高邁な識見は、同志諸君の高く評価するところとなり、昭和二十七年の第二十五回衆議院議員総選挙に際して、千葉県第二区から立候補し、みごと当選されたのであります。自来、連続して当選すること五回、在職十年二カ月に及んでおります。
 本院においては、各種の常任委員として常に熱心に国政の審議に当たられましたが、とりわけ、決算委員会の委員として、また理事として、すぐれた手腕力量を遺憾なく発揮され、その精励ぶりは、与野党の別なく同僚委員諸君がひとしく敬服していたところであります。(拍手)
 小川君は、予算が誤りなく運用され、民主的な行政が確立されることこそ、政治が真に国民のためのものとなるとの信念のもとに、常に先頭に立って発言し、識見あふれる論議を展開されました。かくて、衆議院決算委員会に小川豊明ありとの名声をいやが上にも高からしめたのであります。(拍手)
 日本社会党にあっては、財務委員会副委員長、政策審議会決算部会部長として活躍され、さらに千葉県連の長老として後進の指導に当たり、多大の信望を集めておられました。
 かくのごとく、小川君は、本院議員として、国政の審議に尽瘁されるとともに、この間、湿田単作地域農業改良促進対策審議会委員あるいは全国農村電化協会会長、日本農民組合千葉県連合会会長等として、わが国農村の発展のために、たゆまざる活動を続けられました。
 去る昭和三十年には、日本農業代表団団長として、中国、ソ連並びにフランス、イギリス等の西欧諸国及び東南アジアの農業事情を視察して見聞を広め、これに基づいて、わが国の新しい村づくりを企図し、その実現に肝胆を砕いておられたのであります。
 かくして、君は、本院議員に当選以来、その政治生活はいよいよ繁忙を加えたのでありますが、自己の一身を顧みず職務の遂行に当たり、数々の輝かしい業績を残されたのでありまして、その功績はまことに偉大なるものがあるのであります。(拍手)
 小川君は、文字通り温厚篤実の方でありまして、かつ、だれしもが君に対しては信をおくという幅の広い人格者であり、みずからの利害を顧慮することなく、人のためをはかるという人情味あふれる人柄でありました。(拍手)
 君が政党政派をこえてあらゆる人々から深く敬慕されていたのは、けだし当然であったのであります。
 また、きわめて旺盛な責任感と、これにあわせてすぐれた洞察力を有し、常に大所高所から判断を下して実行に移されました。しかも自己の考えを相手に押しつけることなく、どこまでも相手の立場を尊重しつつ、物事の解決をはかられたのであります。(拍手)
 かつて小川君が私に、いかに鋭い見解の対立があっても、与野党はあくまでも話し合いによってその解決をはかるべきであるという意味のことをしみじみと語られたことを私は思い出します。小川君の議会人としての真の姿をそこに見出し、私は非常に感激をしたのであります。君の政治家としての信条、議会人としての基本的態度はまさにここにあったとかたく信ずるものであります。(拍手)
 思えば、小川君が御逝去になる一週間ほど前のことであります。私は君と同席して語り合う機会を持ったのでありますが、その際、君が吐露された郷土に対する、また農民に対する熱烈な愛情に触れ、君の生涯の悲願のなみなみならぬことにあらためて深く心を打たれたのであります。今、との壇上に立って、そのときの君の温容を思い起こし、哀惜の情いよいよ切なるものを覚えるものでございます。
 今や、わが国の農業はまさに重大な転換期に立っております。このときにあたり、小川君のような、農業問題について豊かな経験と高い識見を有するまことにりっぱな議会人を失いましたことは、本院にとり、国家にとり、返す返すも残念なことであります。(拍手)
 ここに小川君生前の事績をたたえ、その遺徳をしのび、心から御冥福をお祈りして追悼の言葉といたします。(拍手)
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○議長(清瀬一郎君) 山崎始男君。
  〔山崎始男君登壇〕
○山崎始男君 ただいま議長から御報告のありました通り、本院議員橋本龍伍先生は、去る十一月の二十一日朝、東京の自宅において逝去せられました。昭和二十四年以来本院議員に在職せられ、戦後のわが国政に大きな足跡を残された功労者を失いましたことはまことに悲しみにたえません。
 私は、皆様のお許しを得まして、議員一同を代表し、つつしんで哀悼の言葉を申し述べたいと存じます。(拍手)
 橋本先生は、明治三十九年、東京目黒区三田にお生まれになりました。長じて鎌倉中学より開成中学に転じ、第一高等学校から東京帝国大学法学部に進み、昭和九年卒業、直ちに大蔵省に入り、広島税務署長、興亜院事務官等を歴任し、後に内閣参事官、経済安定本部員を経て退官をされ、昭和二十三年第二次吉田内閣の官房次長に任ぜられました。
 昭和二十四年一月、第二十四回衆議院議員総選挙に岡山県第二区から初出馬し、強豪に伍してみごと当選の栄を得られました。その後衆望をになって連続当選をすること六回、十三年十カ月にわたって本院議員に在職せられました。
 本院議員になるや、財政政策に明るい若手の議員として断然頭角を現わし、予算委員会において目ざましい活躍をされました。
 昭和二十六年、第三次吉田内閣のもとで、その識見と手腕を認められて、厚生大臣兼行政管理庁長官に任ぜられたのであります。その後、三十三年に至り、第二次岸内閣において再び厚生大臣に推され、三十四年には文部大臣に就任せられました。
 先生は、閣僚としてその才幹を存分に発揮して、大方の期待によくこたえられたのでありますが、特に厚生行政における先生の業績は私どもの忘れ得ないところであります。(拍手)すなわち、終戦後の重要問題であった戦傷病者、戦没者遺家族の援護、社会保障制度の拡充などに解決の糸口を見出すために、職を賭して励み、さらにわが国社会保障を近代的な制度の軌道に乗せるため、国民健康保険、国民年金制度の改善に骨身を削る努力をし、輝かしい足跡を残されました。(拍手)
 党にあっては、副幹事長、総務、政務調査会の副会長等の要職を歴任されましたが、社会保障制度に関する調査会が設置されるたびに、その知識、経験を買われて、委員長あるいは会長などとして指導的な役割を果たされ、また、外交調査会の有力なメンバーとして著しい貢献をされました。
 昭和二十八年には、アジア各地を訪問し、インドのネール首相と会見し、ライの特効薬プロミン二万人分を贈ったり、また三十四年には、欧米、アフリカ各国を訪問し、親善を深められたのであります。
 先生は、また、ボーイスカウト日本連盟、日本肢体不自由児協会を育ててその理事となり、その他日本体育会監事、日本遺族厚生連盟顧問、財団法人全国国民健康保険団体中央会理事などに就任され、厚生関係諸団体の指導育成に渾身の力を傾け、多大の功績を残されたのであります。(拍手)社会保障制度の確立、社会福祉の増進に果たされた役割、残された功績はまことに偉大なりと申さねばなりません。(拍手)
 橋本先生のお人柄は、まさに不撓不屈の闘志そのものでありました。先生は、中学一年のとき骨膜炎を病み、病床に身を横たえること実に六年間、通信教育により、あるいは御兄弟のあたたかい教えにより、検定試験に合格して一高に入られ、東大を卒業なさったのであります。世に出られたあとも、さらに努力を積み重ねて、人格を練り、識見を養い、政治家となって数々の功績を残されたのであります。これは先生の負けじ魂が、闘病生活を経て精神的な支柱となっておったからとも申せましょう。御不自由なからだを顧みず、ひたすら国家、国民のため東奔西走されましたのも、この所信を貫く強固なる精神の現われでありました。(拍手)
 また、激しい政治活動の中にありながら、スポーツに親しみ、若者たちの先頭に立って、あの不自由なからだで日本アルプスを踏破し、あるいは神伝流三段のみごとな抜き手を都内のプールに、郷里の高梁川に見せるなど、その盛んな闘志と意気とは、ただただ驚嘆感服のほかなかったのであります。
 このような先生のお人柄、また、若くして大成されました原因を思うにつけ、私は、子供のときよく聞かされた、なき父の言葉を思い出すのであります。
 先生のお父様の御生家と私の父の生家は、高梁川に沿って上下七百メートルの隣部落でした。橋本先生のお父様橋本宇太郎氏は、明治、大正期における郷土出身の立志伝中の一人であります。総社市秦の旧家に生まれられましたが、たびたびの高梁川の洪水に見舞われ、家は流され、田畑は荒れ、非常に貧乏なおうちでありました。向学の精神に燃えた宇太郎氏は、わらじをつくって旅費をかせぎ、明治の二十年、ちょうど二十才のとき、男子一たび郷関をいず、功ならずんば二度と郷土にまみえずと意を決し、東京へ出られたのであります。以来、苦学力行、新聞を配達したり牛乳を配ったり、雪をかんで空腹をいやし、新聞のふとんで寒さをしのぐなど、まことに血の出るような苦労をされまして、ついに蔵前の東京高等工業学校機械科を卒業されたのであります。卒業の年、あたかも馬越恭平先生がエビスビールの社長として工場創設の年に当たり入社され、ついに後年技術重役として大成をされたのであります。
 龍伍先生はその五男であり、長兄宇一氏は科学技術庁金属材料研究所長として、次兄宙二氏は仙台高検検事長、三兄乾三氏は寿電業社長、末弟虎六氏は東北大学教授として現在御活躍されておるのであります。
 俗にいう、この親にしてこの子供あり、橋本先生の負けじ魂も反骨精神もまことにゆえなしとしないのであります。(拍手)偉大なる自立、反骨の精神は、ついには吉田内閣においては戦没者遺家族の心情を思うの余り、みずから大臣をおやめになり、また第一高等学校在学中は、思想問題で官憲の追究を受けている友人を下宿にかくまい、ために本富士署に二回も留置されるなど、まことに親譲りの負けじ魂といわざるを得ません。
 先生が文部大臣在職中、私も文教委員の一人でした。たまたま私的にお目にかかったとき、「山崎君、日本の将来の教育は青少年に夢と希望を与えることが一番大切だと思うよ」と人づくりの信念を漏らされた言葉がいまだに私の耳の底に残っております。(拍手)後進子弟の教育には、先生は終始意を注いでこられたところでありまして、岡山県の倉敷市内には青年塾を興し、東京においては郷土出身の恵まれざる学徒のために学生寮備中館を、あの敗戦の灰の中から再興し、みずから理事長となり、物心両面のあたたかい援助の手を差し伸べておられたのも、橋本家二代に及ぶ苦学力行の体験を通じ、青少年に夢と希望をとの教育信条から出たことは疑う余地がありません。(拍手)
 橋本先生と私とは、その政治的立場は異にしておりますが、同じ町がともに本籍地であり、日ごろ何かと御懇意に願っており、郷土の先輩として先生の御人格には深く敬服いたしておりました。先生には、昨年九月発病されて以来、あるいは病院で、あるいは転地して、ひたすら再起の日を目ざして療養に努めておられました。最近では快方に向かっていると聞いておりましたのに、私どもは今回の突然の悲報に接し、ただただぼう然とするはかなかったのであります。
 橋本先生は五十六才という、まだまだ前途あるお年であって、今やわが国の内外の政治情勢は、多事多端であります。このときにあたり、先生のごとき練達有望の士を失いましたことは、国家国民にとり、まことに大きな不幸といわなければなりません。(拍手)
 もうこれからは先生のお姿を国会においてお見受けすることができません。私は心からのさびしさを感ずるとともに、奥様や年若きお二人の子供さんの御心中を察するとき、また新しい涙を禁じ得ないのであります。(拍手)霜は枯れ、木の葉は落ち、武蔵野の寂寥ひとしおに心にしみ込むことと思いますが、なき先生のみたまは、必ずや残された御家族に乗り移っておることを信じて疑いません。雄図半ばにして倒れられた先生の御心情をいつまでも胸に抱きしめて、どうぞ勇気を出して人生を生き抜いて下さい。
 私は、ここに、先生の生前の御功績をたたえ、その人となりをしのび、心からの御冥福をお祈りして、哀悼の言葉といたします。(拍手)
     ――――◇―――――
○議長(清瀬一郎君) 本日は、これをもって散会いたします。
   午後二時二十七分散会
     ――――◇―――――
 出席政府委員
        内閣官房長官  黒金 泰美君
     ――――◇―――――