第043回国会 法務委員会 第20号
昭和三十八年六月六日(木曜日)
   午前十時二十四分開議
 出席委員
   委員長 高橋 英吉君
   理事 上村千一郎君 理事 林   博君
   理事 松本 一郎君 理事 猪俣 浩三君
   理事 坂本 泰良君 理事 坪野 米男君
      小金 義照君    田中伊三次君
      千葉 三郎君    馬場 元治君
      赤松  勇君    井伊 誠一君
      田中織之進君    畑   和君
      志賀 義雄君
 出席国務大臣
        法 務 大 臣 中垣 國男君
 出席政府委員
        法務政務次官  野本 品吉君
        法務事務官
        (人権擁護局
        長)      稻川 龍雄君
 委員外の出席者
        判     事
        (最高裁判所事
        務総局総務局第
        一課長)    長井  澄君
        参  考  人
        (著述業)   神崎  清君
        参  考  人
        (弁護士)   森長英三郎君
        専  門  員 櫻井 芳一君
    ―――――――――――――
六月四日
 委員竹山祐太郎君辞任につき、その補欠として
 中村三之丞君が議長の指名で委員に選任された。
同日
 委員中村三之丞君辞任につき、その補欠として
 竹山祐太郎君が議長の指名で委員に選任された。
同月六日
 委員畑和君辞任につき、その補欠として井伊誠
 一君が議長の指名で委員に選任された。
    ―――――――――――――
本日の会議に付した案件
 法務行政に関する件(人権擁護及び再審制度に
 関する問題)
     ――――◇―――――
○高橋委員長 これより会議を開きます。
 法務行政に関する件について調査を進めます。
 本日は本件について参考人から意見を聴取することといたします。ただいま御出席の参考人は神崎清君、森長英三郎君の二君であります。本日参考人予定の坂本清馬君はいまだ御出席になりませんので、後ほど御出席になりました際に御意見を聴取することといたします。
 この際、議事に入ります前に参考人各位に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多用中のところ御出席いただき、まことにありがとうございます。本件について、忌憚のない御意見の御開陳をお願いいたします。なお、議事の進め方につきましては、御一人二十分以内程度において御意見の開陳をお願いいたします。三人の意見の開陳が終わりました後、委員から質疑が行なわれることとなっておりますので、お答えをお願い申し上げます。
 それでは、まず神崎参考人からお願いいたします。
○神崎参考人 お招きを受けました神崎でございます。法務行政に関する件、何かということでございますが、私は大逆事件をひとつケースとして取り上げてみたい。この事件はすでに明治憲法下の帝国議会において取り上げられているということであります。
 大逆事件の判決が明治四十四年一月十八日大審院で行なわれまして、幸徳秋水以下被告二十六名のうち二十四名の者に死刑が申し渡され、爆発物取締罰則違反で二名の者が有期申し渡しがございました。純法律的に申し上げますならば、大逆罪は大審院の特別権限に属する事犯でございまして、一審にして終審。ですから爆発物取締罰則違反者の二名については、本来ならばこれは公訴を却下し、普通裁判所に回すというのが当然と思われたのに、そのままになっております。十八日には二十四名に死刑宣告。ところが翌日になりまして明治天皇の恩命によって十二名の者が減刑になりました。そのうちに現在生き残りの坂本清馬氏が含まれていたわけでございます。非常に処刑が早くて二十四日に十二名のうち十一名が絞首台に送られ、残りの一名管野幽月が二十五日絞首台で処刑を受けたわけでございます。そのとき立ち会った看守の話では、管野幽月は絞首台に立って、われ主義のために死す、万歳、と叫んで死んだということでございました。その二十五日管野幽月のしかばねの体温が冷えるか冷えないかの二十五日から、二十六、二十七、三日間にわたりまして、衆議院の予算委員会におきまして、小川平吉、花井卓蔵、島田三郎、高木益太郎といったそうそうたる代議士によって質疑が行なわれ、政府責任が追及されておるわけでございます。それから半世紀の今日、新憲法下の国会におきまして、別の角度からこの事件が再び取り上げられたことに対して、私は深い感慨を覚えるものでございます。
 この事件は非公開、傍聴禁止のまま行なわれ、世間では十分知られていなかったのでありますが、十八日の判決と同時に大審院検事局松室検事総長の名前で、事件発覚の原因、検挙、予審経過の大要を発表しております。「幸徳博次郎外二十五名ノ被告事件ノ発覚ハ、明治四十三年五月下旬、長野県警察官カ被告宮下太吉ノ爆裂弾ヲ製造シ、之ヲ所持スルコトヲ探知シタルニ原因ス」と、そういう表現になっております。「爆裂弾ヲ製造シ、之ヲ所持」となっておりますけれども、大審院の法廷に提出された証拠物件としては、爆弾そのものではなくて、小さいブリキかんと爆薬の材料だけでありまして、完成された爆弾というものは一個もなかった。にもかかわらず、まるででき上がった爆弾を持っておったというような表現で、事実に相違した発表を行なっております。これはどうも正確な事実というよりは、検事の想像というものがだいぶ入り込んでいる。この辺にもでっち上げのにおいが非常に濃厚なわけでございます。
 事件は、明治四十三年五月二十五日信州明科の工場で爆裂弾をつくる材料、ブリキかんであるとか、塩酸カリであるとか、そういったものがばらばらに発見された。労働者の宮下太吉がまず逮捕されて取り調べるうちに自供が始まった。明治天皇暗殺計画に関する自供でございまして、事の重大に驚いた長野地検から、これは大審院の特別権限に属する事件であるというので松室検事総長に連絡したわけでございます。それから大審院が取り上げて、五月三十一日大逆罪の七十三条を適用するその予審請求が行なわれたのでありますが、その予審請求の請求書の付属文書として「被告事件ノ摘示」という、これは裁判記録の中から出てまいったのでございますが、わずか五行くらいの簡単なものでございます。「被告幸徳伝次郎外六名ハ、他ノ氏名不詳者数名ト共ニ、明治四十一年ヨリ至尊ニ対シ危害ヲ加ヘントノ陰謀ヲ為シ、且其実行ノ用ニ供スル為メ、爆裂弾ヲ製造シ、以テ陰謀実行ノ予備ヲ為シタルモノトス」ただそれだけの青写真でございました。このいきさつは、当時この事件の捜査主任をつとめていた小山松吉検事が昭和三年に当時の思想検事を集めて講演をしたその筆記の中に出てきておるのでありますが、秋水については、秋水ほどの人物がこの事件に関係のないはずはないという推定のもとにということをはっきり書いてございます。証拠は薄弱ではありましたが幸徳も同時に起訴するようになったのでありますと書いてございます。森近運平にしましても、邪推といえば邪推でありますが何ごとでもかかわりのある点は調べてみる必要があるから、それで起訴したということになっております。坂本清馬につきましても同様で、熊本において同地方の主義者の動静を知っておりましたから有力なる材料を得た、坂本清馬もまた共犯たる罪証ありとこれを起訴したのであります。ところが罪証については幾ら記録をさがしましても、それを裏づけるようなものがございませんし、御本人は罪状をあくまで最初からしまいまで否認したのでございます。ですからどうも推定の要素が非常に多くて、初めから予断を持って、政治的な目的を持って犯罪者を製造してかかったのじゃないかというような疑いが持たれるわけでございます。当時は何か大きい事件があったということで、様子がわからなかったのでありますけれども、六月五日ごろになりまして内務省の有松警保局長が新聞発表をいたしまして、被告は大体七人以内である、これ以上拡大しないといってそこで線を引いた発表がございましたが、同時に小山検事のほうからは、日本においては一人の社会主義者の存在も許さない、撲滅するのだという、非常に強硬な声明が出まして、それ以来事件はぐんぐん拡大していった。実態的に見ますと、どうもその七名以内というところに大逆事件の実質的部分が含まれていて、あとはどうもふくらましていった、でっち上げていった要素が非常に多いわけでございます。
 当時この事件を指揮いたしました平沼騏一郎検事の回顧録がございますが、毎朝六時に、時の総理大臣柱公爵の私邸に行って、前日のできごとを報告していた。非常に連絡を密にして、法務大臣を乗り越えて検事自身が総理大臣の指揮を受けていた。どうも法律以上の力がこの捜査及び裁判に影響している。影響しているというよりも支配しているというか、食い込んでおる。どうも政治裁判のにおいがきわめて濃厚になっております。御承知のように桂内閣は元老山縣軍閥の内閣と言われ、社会主義鎮圧方針をとっておった。その走狗として、手足として検事局が使われていた、そういう印象を打ち消しがたいのでございます。
 そうして予審段階から公判に入ったわけでございますが、一ヵ月くらいの非常にスピード裁判でございまして、判決文はなかなかりっぱな名文でございます。しかしながら、私どもが判決を分析してまいりますと、重大な欠陥、致命的な欠陥が発見される。これは松川事件の骨法にならって、ここに出ている共同謀議というものを洗ってみると一体どういうことになるかというところからメスを入れてまいったのでございますが、この判決の骨子になるところ、この大逆事件の共同謀議の成立、これは判決も平沼論告も全く同じでございまして、四十一年の十一月十九日巣鴨の平民社の幸徳秋水それから大石誠之助、森近運平、これが相談をした。そうして「赤旗事件連累者ノ出獄ヲ待チ、決死ノ士数十人ヲ募リテ、富豪ノ財ヲ奪ヒ、貧民ヲ賑シ、諸官衙ヲ焼燬シ、当路ノ顕官ヲ殺シ、且宮城ニ逼リテ大逆罪ヲ犯スノ意アルコトヲ説キ、予メ決死ノ士ヲ募ランコトヲ託シ、運平・誠之助ハ之ニ同意シタリ。同月中、被告松尾卯一太モ亦、事ヲ以テ出京シ、一日伝次郎ヲ訪問シテ、伝次郎ヨリ前記ノ計画アルコトヲ聴キ、均シク之ニ同意シタリ」ということで天皇暗殺の共同謀議が成立したというふうに事実認定をしておるのでありますが、しかしながら、幸徳秋水が公判廷で自由陳述に際して述べた陳述によりますと、そういう話は、内容は実はこうだった。一場の革命夢物語、茶飲み話にすぎなかったということを明らかにしております。「大石・松尾・森近等ト話シタルハ、不景気カ二、三年来続キ、凶民ノ騒ギマデモ起リ、富豪ノ財ヲ貧民ノ手ニ収用シ、登記所ヲ焼キ、所有権ヲ解放ス。然レバ、権力階級モ遠慮シ、平民モ自覚スルデアラウ。其時ノ用意ニ確リシタルモノヲ選シ置ク必要ガアルデアラウ。官署焼払モ二重橋等ハ、興ニ乗ジテ話ガ出タリ。大石ノ如キ長老ニ、壮士ノ如キ命懸ノ仕事ヲ強フルノ意ナシ。森近ト坂木トハ同居セシモノ故、改メテ同意・不同意ヲ求ムベキ理ナシ。」そういう陳述をしております。この中で富豪の財を収用したり登記所を焼いたり貧民を扇動したり物騒なことを書いてございますが、これは法律的に申せば、どんな騒ぎがあっても強盗、殺人、放火から騒擾内乱に至るまでの各種の法律に触れるかもしれないけれども、七十三条とは全く関係がないわけでございます。七十三条の場合にはどうしても危害の意思があったかなかったかというところへしぼられてまいるわけでございます。
 そのときの状況は森近の聞き取り書き、これは無視された聞き取り書きの中にこんな記事が出ております。「幸徳ハ、其時吾々暴動者一同テ二重橋カラ押入リ、番兵ヲ追ヒノケ、宮中ニ入リテ仕舞ヘハ、軍隊カ来テモ、宮中ヘ向ッテ鉄砲ハ打ツマイカラ安全デアル、ト申シマシタ。私は其時、」私はというのは森近でありますが、「前以テ以後ハ無政府共産ニスルト云フ詔勅ヲ書イテ持参シ、天皇ニ談判シテ印ヲ押シテ貰ヘハ、日本歴史ハオ仕舞ニナリ、面白イテアラウ、ト申シマスト、幸徳ハ、唯左様ナ詔勅テハイカヌカラ、更ニ今日迄ノ政治ハ誤ッテ居ルカラ、以後ハ無政府共産トシ、一平民トナリテ衆ト共ニ楽ヲ倶ニスル、ト云フ天皇詔勅ヲ出サネハナラヌ、」と申しております。ですから、これは二重橋に押し入ってくる。それは穏やかでないかもしれませんけれども、天皇に対する危害の意思は全然なくて、せいぜい政治交渉である、ひざ詰め談判であったわけでございます。秋水はそのことを法廷で述べた。「計画トシテ話シタルニアラス。或ハ貧民カパンヲ呉レト言フテ、王宮に迫りタル事モアレハ、日本ニテモ二重橋ニ迫ルカモ知レヌト言ヒタルノミ。二重橋ニ迫ルトハ、危害ヲ意味セズ。示威運動モ請願モアルト云ヒシニ、是ハ書カス」と、取り上げられなかったということを訴えておる。私はここに一番大きな問題点がある。検事にしろ判事にしろ、二重橋ということとを、あくまで頭からこれは危険行動である、天皇暗殺であるというふうにきめてかかったものと思われます。
 この十一月十九日の天皇暗殺の共同謀議が、こういうふうにメスを入れて空中分解いたしますと、もう大石誠之助の紀州グループ、それからそれにつながる大阪グループ、それから松尾が顔を出しておりますが、熊本グループ、坂本清馬、こういう人たちは一切無関係になってしまう。ただ残るのは、宮下太吉、管野スガ、新村それに古河、この四人にしぼられてまいりまして、秋水の関係は微妙ではございますが、どうも断定しにくい。秋水は天皇制を当時において批判をしておりました。天皇は大地主である。大資本家である。収奪をしておる。やがて民の怨府になるであろうということを言い、また軍国主義を非難し、軍備を全廃しなければならぬというふうに説いておりました。それが権力階級の忌諱に触れたようでございます。宮下にしても、管野にしても、天皇個人に恨みがあるわけではない。しかし、天皇は神であるという国民の迷信を打破しなければならぬ。天皇は神でなくて、人間であるということを示すためにということで、迷信打破から極端なテロリズムに走ったということでございますが、天皇は神でないというその主張は、終戦後の天皇みずからの人間宣言の中に生きておる。また新村忠雄は、親や君に踏まれる必要はないと言って、忠孝の道徳の強制を否認して、個人の自由、権利を主張いたしておりましたが、この新村の思想も、また新憲法の個人の尊厳、基本人権の中で生きてきているわけでございます。
 こうして大逆事件の被告十二人は絞首台に葬られましたけれども、歴史的に見ると、戦後に生まれた新憲法の捨て石になった人たちではないか。新憲法は外国の押しつけだと言う人もあるようですけれども、主権在民、基本人権、戦争放棄という民主主義思想の、この人たちは貴重な種であった。大逆事件以後、日本に何が起こったかといえば、言論出版の自由の弾圧、教育の反動化、日韓合併、大陸侵略、そうして太平洋戦争の破滅を迎えたわけでございまして、大逆事件の被告の人たちは先覚者、その犠牲者である。先覚者の悲劇であったと申し上げたい。
 私は、日本の為政者たるものは、この歴史の教訓をくみ取って、社会の進歩、国民の自由と人権を押えるような愚かなまねを再び繰り返してはならないというのが私の結論であり、希望でございます。
 御質問がございましたら、お答えいたしたいと思います。
○高橋委員長 次に、森長参考人にお願いをいたします。
○森長参考人 ただいまの神崎さんのお話を受けて、私はまず最初に明治四十四年一月十八日に判決があってから再審請求に至るまでの経過、それから再審請求から今日に至るまでの経過、外面的な経過をごく簡単にかいつまんで申し上げます。
 死刑が執行されたことは神崎さんのお話にありましたが、十九日に無期に減刑された十二名の人のうち、五名はそれぞれ監獄で首をつったり、気違いになったり、病気になったりして死んでおります。そして大正十四年飛松与次郎を先頭に、昭和九年坂本清馬をしんがりに仮出獄をしております。つまり正名は獄死、あとの七名が仮出獄ということになります。そして爆発物取締罰則の有期懲役の二名はそれぞれ満期出獄したようであります。そこでこの仮出獄の七名のうち戦争後まで生き残ったのは四名であります。三人は昭和二十年までになくなりました。そして終戦直後、坂本氏と岡林寅松、この二人の方が高知県におりまして、自分はいま無期懲役の仮出獄のままだ、選挙権もない、ぜひ復権させるようにしてくれという依頼がございまして、その復権の申請をいたしましたところ、昭和二十二年二月二十四日に、この二人については将来にわたって刑の効力を失わしめるという特赦がありました。次いでほかに生きてないかと思って方々さがしましたところ、九州に飛松与次郎、それから三重県に崎久保誓一が生きていることがわかりまして、これもそれぞれ本人の依頼によって特赦申請をいたしましたところ、坂本、岡林同様に、昭和二十三年六月二十六日に特赦になっております。
 その後、昭和二十五年六月ごろになって、神崎さんと私のところへ坂本氏から、再審請求をしたい、また坂本氏は八千二百七日の拘禁を受けておる。この拘禁に対して国家賠償を請求したいということを言ってきたのであります。私たちも、やってよかろうと賛成の意を表明したのでありますけれども、何ぶん当時私たちのほうも貧乏で、すぐ高知県まで飛んでいけない。また坂本氏は私たちよりも一そう貧乏で、どうにもできないというような状態でぐずぐずしていたのであります。その直後、東京での大逆事件当時弁護人でありました今村力三郎先生がまだ存命でありまして、今村力三郎先生からもこの坂本、それから崎久保に対して再審請求をしたいという呼びかけをしており、この両氏も、飛松氏をまじえて、今村さんに再審請求したいというようなことを言っておるのであります。そして昭和三十年になりましたところ、今村さんはその前年になくなり、また飛松、崎久保もなくなり、結局そのときから坂本氏一人生存者ということになった次第であります。そしてなおぐずぐずしていたのでありますが、昭和三十五年二月に、前の参議院議員坂本昭氏が坂本清馬氏と同郷関係からこの事件に取り組むようになり、その御努力によって「大逆事件の真実をあきらかにする会」というのが生まれ、それが再審請求の推進役となりまして、弁護人十人も坂本清馬氏の意向できまり、一年間の研究の後、昭和三十六年の一月十八日に東京高裁に再審請求を出すようになったのであります。このとき請求人はもちろん坂本清馬氏となっておりますが、ほかに岡山県にいる森近栄子さんという婦人の方、これは死刑を執行された森近運平の妹でありますが、ぜひ再審請求を坂本氏と一緒にやりたいということで森近栄子さんも請求人となったのであります。
 そこで東京高裁ではその後どうなっておるかと申しますと、私たちが請求書を出しましたが、なかなか担当の裁判長がきまらなかったのであります。約三月ぐらいかかったと思います。その間、東京高裁の裁判官会議がこの事件のために数回持たれたということを聞いております。そして結局刑事第一部の長谷川裁判長の担当となったのであります。そして同時に裁判官会議のいろいろの検討協議の結果、この事件は五名の構成でやるべきである、普通高裁の事件は三名構成でありますが、五名の構成でやるべきであるということになったのであります。五名構成の根拠は、現在の裁判所法の内乱罪に関する規定によりますと五名構成となっておりますが、それに準じたのか、あるいは旧刑訴法の裁判所構成法で、こういう大逆罪のような特別法廷事件は五名構成となっているのでそれによったのか、どちらかわかりませんが、ともかく五名構成ということで裁判官会議できめられたのであります。ところが、なかなかその後五名の氏名がきまらなかったのでありますが、最近ではきまっております。そして裁判所では、その後私たちの出した再審請求の書類、それから新証拠、そういうものを読まれ、また最高裁判所に残されておる明治四十三年当時の訴訟記録を検討されておるとのことであります。この訴訟記録は、最高裁判所には予審の調書と検事の取り調べ書、聞き取り書が十七冊残っております。しかし、現在公判調書といわれている公判始末書は最高裁にも残っておらない。終戦のどさくさまぎれに、どこかへいってしまったらしいのであります。また証拠物の現物はもちろんのこと、写しも残されておらない、そういう状況にあります。そして私たちも裁判所の方へひんぴんというほどでもありませんが、ときどき請求しておるのでありますが、裁判所のほうも、この最高裁に残された訴訟記録、それから再審請求の新証拠を五人の裁判官が全部読むのには相当の日子がかかる。それを待っておれないから八月の休暇前に、あるいは休暇直前に、まず請求人の坂本清馬氏を呼んで意見を聞いてもよい。本来ならばこれは最終に聞くことになりますが、逆にして聞いてもいい。また森近栄子は非常に交通機関に弱いのでとても上京できないので、裁判所のほうで他日岡山県に出張して聞いてもいいというように言われております。大体こういう経過をたどって今日にきておる次第であります。
 そこで、この私たちの再審請求はどういう法律の条文に基づいて行なったかと申しますと、旧刑訴四百八十五条六号、現在のいわゆる六号というのと同じであります。明らかな新たな証拠物件という号によって請求しておるのであります。そして六十五点の新証拠を提出しております。この六十五点は、手紙とかあるいは本とか、きわめて多様なものであります。
 それを分類してちょっと申し上げますと、第一には、当時の取り調べ検事のその後に書かれたものであります。一つは先ほど神崎さんがお話しになりました平沼騏一郎の「回顧録」あるいは「改造」に出た「祖国への遺言」、そういうものの中に被告人に有利なものを含んでおる。それからもう一つは、小山松吉の「日本社会主義運動史」というものがありますが、この小山という人は当時神戸地方裁判所検事正でありましたが、この事件の前、東京でいろいろの社会主義事件に関係していた経験者ということで、神戸を留守にして東京へ来てもっぱらこの事件を調べたようであります。その人が昭和四年ころに司法部内で講演をされて、それを印刷してマル秘で部内だけに配った。そういう種類のものでありますが、この中にも非常に有利なものがある。これによってでっち上げの経過が非常に明瞭になるばかりでなしに、先ほど神崎さんが言われた明治四十一年十一月の幸徳と森近、それから松尾、あるいは大石、そういう人々の間の共同謀議というものが空中分解するようなことをこの中に書いてあるのであります。非常に有力な証拠だと私は思っております。そういう取り調べ検事の調書や、後に書かれたものが第一。
 それから第二に、当時政治上の重要な地位にいた方が書かれたもの、たとえば原敬日記。原敬日記によって、山縣有朋ですかが無政府主義者をせん滅しようという気持ちを持っていたということが出ている。それから河村金五郎という当時宮内次官であった人ですが、この人が山縣にあてた手紙を見ますと、一月十八日に裁判があったのでありますが、すでに判決の内容をどういうわけか承知していて、一月十五日ごろから宮内大臣あるいは桂首相、山縣の間に盛んに往来して、事後の措置、判決が出た後に特赦するとかというようなおぜん立てあるいは筋書きをもうつくっていたということが、この河村金五郎の手紙によって暴露されるのでありますが、そういうことをこの手紙で立証する、そういうような証拠もございます。
 それから第三には、当時の有識者、たとえば石川啄木の書いたもの。
 第四には、事件当時の被告人の友人とか知人とか、被告人を知る人の書いたもの、たとえば荒畑寒村の書かれたものなどもあります。そういう証拠が第四であります。
 それから第五には、吉田石松事件でよく行動証拠といわれたそれに相応するものでありますが、被告人らの判決後の行動によって無罪を立証しようという新たな証拠であります。坂本請求人は、大正三年の九月ごろにすでに原判決が全く事実に反しているということを綿々と書いた上申書を尾崎行雄に与えております。その原稿が残っております。また、昭和――あるいは大正十年代の終わりか、もう一つ昭和四年ごろと、坂本氏が石川三四郎という社会主義者に対して、再審請求をしたいから協力を求めたいというような手紙を出しております。坂本氏は吉田石松氏と同様に、五十年間無実を叫び続けた男なのであります。
 次に死刑になった森近については、死刑判決から執行されるまでに数通の手紙を書いておりますが、その手紙によると、死刑は全く意外であった、自分は判決後すぐ釈放されて郷里に帰れると思っておった。郷里に帰って農事の改良や、あるいは村の開発のためにいろいろ計画を描いて努力していたのに、全く意外な判決を受けたということを手紙の中に書いておるのであります。そういう手紙も新たな証拠として出しておるわけであります。しかし死刑執行された者は、その後五十年の行動によって、坂本清馬氏のように行動によって無実を証明することができない。そのかわりに当時の弁護人であった人たちが死刑でなくなった人にかわって無実を主張しておる。一人は平出修でありますが、この平出弁護士は大正三年に死んだのでありますが、死ぬまでの間に大部分の被告は無実であるということを訴えた書きものを残しております。また今村力三郎氏は大正十四年ころに「芻言」というものを書いて、そうして五名のほかは全部無実である、有罪であっても不敬罪だということを言っておる。今村氏は戦後も同じことを繰り返して書いておる。そして生き残った人たちに再審請求を進めておる。またそのほかに鵜沢総明氏もやはり大部分の人が無実であったことを戦後に語っております。そういう弁護人の行動証拠、死刑被告にかわる弁護人の行動証拠もまた新証拠としてわれわれはとっておるのであります。そういう証拠を六十五点出しております。
 そこで私たちのこの事件に対する態度、態度というのは幸徳秋水とか、あるいは宮下太吉とか、そういう者をどうするかという態度でありますが、私たちは幸徳、宮下それから新村忠雄、管野スガ、古河力作、そういう人たちは、当時の法律としてはやむを得なかったのではなかろうかという大前提を置いているわけであります。そうしてその他の者はすべて全くの冤罪である、でっち上げによってやられたのであるという態度をとっております。
 さらにもう一つ私たちがこの再審請求において立証する中心点はどこに置いておるかということでありますが、先ほど神崎さんがあげられた明治四十一年十一月の謀議とされるもの、それをくずすということに主力を置いております。これをくずすならば大石関係の大阪三名、紀州七名、また松尾卯一太関係の九州の四名、そして森近、坂本は他の立証を要せずして無実になってくる性質の事件なのであります。この点について大石は死刑執行せられるときに、教戒師にこういうことを語っております。先ほど管野が語ったことを神崎さんがここで述べられましたが、大石はこういうことを語っておる。冗談からこまが出るということわざがあるが、この事件はまさにそのとおりだ、こういうことを言っておる。冗談からこまが出るのこまを死刑と置きかえるならば、まさにこの事件の核心を突いたことばのように私は思うのであります。全く冗談から死刑になった事件、明治四十一年の十一月というと、赤旗事件でたくさんの社会主義者が重い処罰をせられ投獄せられていたときであります。そして社会主義者の刊行する社会主義新聞はすべて発行停止あるいは発売禁止になって、もう手も足も出ないようになっていた。そういうときに集まれば憤慨談もあったでしょう。また大言壮語もあったでしょう。また冗談話もあった。こういうことをすればおもしろかろうという話もあった。そういう話を作文して共同謀議としたものが、この一月十八日の判決なのであります。つまり、結局は茶飲み話とも言われるものであり、冗談とも言い得るものであります。この冗談が死刑になっておる。この冗談をくずすということが私たち弁護人の任務であるというように思っております。
 以上です。
○高橋委員長 これにて参考人の意見の開陳は終わりました。
    ―――――――――――――
○高橋委員長 次に、両参考人に対し質疑の申し出がありますので、順次これを許します。猪俣浩三君。
○猪俣委員 神崎さんに二、三お尋ねし、それから森長さんにお尋ねしたいと思います。
 先ほど、この大逆事件の刑の執行を終わった直後において、議会の予算委員会でこの事件についての質疑が行なわれたというお話がありましたが、その委員の政府に対する質疑の重点はどういうところにあったのでありましょうか。これは冤罪であるのじゃないかというような点にあったのか、あるいはかような不退なやからを出したのは政治が悪いというような角度をついたのか、あるいはまだやり方がなまぬるいようなことを言うたのであろうか、その当時における議員の発言をお調べでありましたら、その中心をお話しいただきたいと思います。
○神崎参考人 お答えいたします。発言はいろいろございますが、主たる方向は、こういう反逆者を出したのは政府及び警察の圧迫の結果ではないか、そういう行政責任の追及が一番多いようでございます。
 それから異色がありますのは高木益太郎、この方は弁護士ですが、この事件に関してきわめて厳重な報道統制が行なわれている。まず大審院の検事局に社長とか編集長とかそういう者の出頭を命じて、この事件のことは一切書いてはならぬといって威嚇した。そういうことは前例のないことである。そして現に、何月何日法廷が開かれて幸徳秋水が陳述した――陳述の内容は全然書いていないのに発売禁止を与えている。そして裁判ざたにしておる。またある法廷記者のところに芝警察の警察官が来て、おまえが法廷へ行って記事を書いたら警察へぶち込んでしまうぞといっておどかされた。記者としては、自分は法廷記事を書くのが自分のめしの種である、けしからぬじゃないかといって抗議したけれども、全然取り合われなかった。そういう言論弾圧について抗議しております。
 それからもう一つは、当時この事件が海外特派員によって世界各国に知られ、たいへん大騒ぎになりまして、日本は思想裁判をやっておる、社会主義者の鎮圧をしているというので、イギリスのロンドンでも、フランスでも、労働者が大集会をやって大使館へ押しかけていく。そこで政府のほうでは驚いて、判決に先だって、一月十五日に証拠説明書というものを出しておる。これは大体予審調書をもとにして編集したものでありますが、読んでみると、被告は有罪であるということを最初からきめてかかったような書き方をしておる。そうして大審院は、その傍聴者にイギリス、オランダの公使館員とか、外国の公使館の連中が傍聴席に来ている。そうすると、国民に対して傍聴禁止をしておきながら、外国人に傍聴を許しておるのはおかしいではないかといって抗議しておる。大体そういった内容だと覚えております。
○猪俣委員 いま再審を申し立てております坂本清馬氏と幸徳秋水の関係ですが、いわゆる幸徳伝次郎外二十五名の大逆事件判決書というものを見ますと 坂本清馬の判決文の中にも明らかにされておりますが、幸徳秋水と坂本とは非常に仲たがいしてしまって、絶交してしまっているということが判決文自身にも書いてあるわけでございますが、どういう事情でそういうふうに仲たがいをしたのか。しかるにもかかわらず、これが幸徳秋水と共同謀議というふうにされているわけです。これが再審の理由の一つになっているのじゃないかと思いますが、その幸徳秋水と坂本清馬が仲たがいをして絶交した、明治四十一年、二年ごろは絶交しておるように判決文にも書いてあるのですが、その事情をおわかりでしたら……
○神崎参考人 お答えいたします。坂本清馬氏は青年時代なかなかの熱血漢でありまして、平民社に寄食しておったわけでありますが、非常に気性の激しい人で、秋水との折れ合いがあまりよくなかった。秋水もいささかもてあましぎみで、君ひとつ全国を旅行して、そのとき同志でも募ったらどうだというような言い方で関係を切ろうとしたというようなことを秋水は言っております。けんかの直接の動機になりましたのは、秋水の平民社に管野スガが来ておりまして、そこでだんだん二人の関係が密接になってくる。その間に入った坂本清馬氏が管野問題でけんかをした。坂本氏の表現をかりれば、管野は私に好意を持っておった、それを秋水がやきもちをやいて私を追い出したのだという言い方をしておりますが、しかし堺為子夫人などによると、管野という人は非常に男好きのするあいそうのいい人だから清馬さんは誤解していたのじゃないだろうかというような批評もしておりますが、そういうことで共同謀議どころか、けんかをして諸国を歩いておった。それもいろいろ同志の家をたずねたり、一宿一飯の旅をしておりますが、外形的に見ると、いかにも革命家が遊説しているような形に見えておるのでありますけれども、いろいろ法廷の調書その他友人の供述などを見ますと、無心をされたりいろいろなことで、結局ていよくお世話する人もあれば、世話しない人もある。そうして東京へ帰ってきた。東京へ帰ってきて、その活版屋へつとめるというときに、住所もきまっておりますのに、浮浪罪という名目で逮捕されて、そのまま裁判の中へ投げ込まれた。まことに気の毒な方でございます。
○猪俣委員 私はいま正確な年月日をはっきりしませんが、昭和の七、八年ごろからあと四、五年くらい、青山の穏田にあります飯野吉三郎という人物、穏田の神様といわれておって、新しい人はわかりませんが、古い政治家は知っておると思います。ある特別の事情があって、この人物と相当長い間つき合っておりました。そのときに、この飯野吉三郎なる人物が私に言うには、あの幸徳秋水の大逆事件というのは、ぼくが告発したのだ、あれによって日本の無政府社会主義者を一掃するチャンスをぼくが与えたのだ、それはぼくのところにいまおるそれがし――私はそのとき名前を覚えておったのですが、いま忘れてしまったのです。これは書生か執事かみたいになって飯野のうちに寄宿していた人物があるのです。どうも若く見えるけれども年は四十前後じゃないかと思うのです。これがスパイをやっておって、これが生きた証拠となってあの事件はできた。そうして明治天皇を救うて、日本の皇室を安泰にしたのだ、だからぼくは日本の皇室にとっては大忠臣なんだ。しかるに皇室がぼくに対する待遇ははなはだよろしくないというような気炎を上げておりましたが、幾らか御内帑金が来ておるようなことを言うて、紋章のついたキリの箱みたいなものを見せて、これが宮内省からくるのだというようなことを言うて見せた。自分に対する待遇がよろしくないというのは、金が少ないという意味であるか、もう少し自分を重く用いろという主張か、わかりませんが、そういう気炎をたびたび上げておりました。私も興味を持っていろいろ聞いたのですが、いま大半忘れておりますけれども、とにかくあの事件は自分があばいた、自分のところにおる人物が生き証人となってつくり上げられたということを言っておりましたことだけはっきり覚えている。こういうことに対して、大逆事件の歴史的な研究をなさっておる神崎さんに、その研究の中にこの飯野吉三郎なる人物が登場するかどうか、登場するとすれば一体どういう役割をしたように歴史的にはなっておるのであるか。いま実はあなたの説明を聞いて思い出したわけです。これをお尋ねいたします。
○神崎参考人 飯野吉三郎は穏田の怪行者といわれ、ロシア皇室のラスプーチンと比較される男でございますが、この飯野は確かに大逆事件の黒幕に姿が出てくるのでございます。飯野は秋水を何とか手なづけるというようなことで、秋水がたずねて行ったりしておりますが、しかし一緒に伊勢神宮に参拝しようじゃないかというときには、私は伊勢には行かないといって、秋水は、はっきり断わっております。そうしてこの告発云々に関係があると思われますのは、秋水が、奥宮健之という自由民権運動の老壮士に、自由党時代の爆裂弾の製法について聞いたりしております。そうしますと、奥宮健之が飯野のところへ参りまして、この秋水がこういう不穏な計画をやっておる、自分に一万円金をよこせ、そうすれば秋水を下野外遊させる、そうして事件をうまくおさめるということで売り込みに行っております。そうしますと、この飯野は、すぐ内務省警保局長有松のところへ電話をかけて、奥宮はこういうことをネタに金を要求してきておるが、どうしたものであろうか。それに対して有松警保局長は、これは金をやる必要はない、しかし情報連絡をして情報だけはとっておけ、そういう指令をしておることが事件記録の中にも、参考人に呼ばれた飯野の供述の中に出ております。
 それからもう一つ関係があるというのは、なくなった白柳秀湖という歴史家の説でありますが、これはあの事件をさかのぼっていくと、社会主義新聞で、「目白の花柳郷」という記事で、つまり下田歌子とこの飯野吉三郎のスキャンダルについていろいろあばき立てた。それで飯野は非常に恨みに思っていた。それで、あることないこと訴えてあの事件をつくり上げていったというようなことを話しておられるのを聞いたことがございます。しかし、これは大逆事件外伝というようなものであって、事件の本質にタッチしておるというふうには私どもは考えておりません。
○猪俣委員 飯野はそのとき、大いに自己宣伝といいますか、自慢話といいますか、誇張して言ったのかもしれませんが、あれが一網打尽にできて処罰せられるようになったのは、ぼくの働きと、ぼくのところにおる何とかいう男、これがちゃんと証人となって出たためである。だからぼくは、あの男を一生ここに飼い殺しにしておるのだ、それだけぼくは非常に犠牲を払っておるのだ、こういうようなことを言っておりましたが、聞きようによれば、その男を偽証させて、無実の者までもみなくくったというふうに、いまからいえば考えられるのですが、私もその男の名前をひとつ調べようと思っておるわけです。いま御説明のような中に、やはり飯野なる者が登場しておったとすれば、飯野の言ったことが全然でたらめでもないと考えるわけです。
 次に、森長参考人にお尋ねしたいと思いますが、先ほど再審の申し立てに六十何点の新証拠を出された。その証第六号というものの写しを見ますると、先ほどあなたが説明された当時の弁護人団の今村力三郎氏から石垣芳之助という者にあてた手紙の写しが出されておるようであります。その中に、「最近東京地検ノ某検事が故老ノ法律家ノ録音ヲ取リ後世ニ伝ヘタイ企テ平沼騏一郎――録音ヲ取ツタ夫ニ依ルト平沼君ガ幸徳事件ヲ悔ヒ彼ノ事件ヘ済マナイ事シタ誠ニ可恥事タト後悔シタ僕ハマダ其録音ヲ聴カナイカ僕モ録音ヲ取ラレタ平沼ハ正直ナ人ダカラ白状シナケレバ気ガ済マナイダロウ事件ノ関係者皆然リダ」こういうふうな文言があるわけですが、これはあなた方の調査によると、平沼騏一郎氏の録音というのは、例の戦犯となって巣鴨に入った後、平沼氏の死の直前か、いつごろの録音であるか、おわかりでありませんか。
○森長参考人 お答えいたします。今村氏はただいまの手紙のほかに、その後死ぬまでに三重県の崎久保誓一に対しても同様のことを言い、また坂本清馬氏に対しても同様のことを言っておるのであります。そこで私たちは、今村氏の言う平沼氏のざんげした録音の存在というものを一応確信したのであります。また衆議院議員の鈴木義男氏も、今村氏から直接生前そのことを聞いておられるようであります。そしてその録音をとった人は捜査検事をやっておられる河井信太郎氏だというのであります。そして河井氏からその録音を再審請求のときに出してもらおうと思っていたのでありますが、その後平沼家の遺族という方が何か新聞社のほうへ、そういう録音はとんでもないというような趣旨のことを言われたらしい。ないということを言われたらしいのであります。また河井氏もないようなことを言っておられるのであります。もしあるとするならば、この平沼氏が巣鴨から出られまして自宅へ帰らず、すぐ慶応病院に入院されましたが、しかし別にたいして重い病気というわけでもございませんので、その慶応病院入院中に録音したものと一応の推定はしておるのであります。しかし、いまのところ、ただいま申しましたようなその後の経過によって、あるかないか、出てくるか出てこないかわからないというような状態であります。
○猪俣委員 今村氏が手紙を出したという石垣芳之助という人は、どういう立場の人ですか。
○森長参考人 お答えいたします。それは埼玉県で農業をやっておる方でありまして、衆議院議員の鈴木義男氏と非常に懇意な方、また今村さんとも懇意な方と聞いております。私も何度かお会いはしております。
○猪俣委員 そうすると、結局この手紙の中にありまする平沼騏一郎の録音をとった検事というのは、現在東京地検の河井検事であるという調査であるわけですか。これについて鈴木義男氏も証明書を出されておるようですね。証第八号を見ますると、証明書として、今村力三郎氏が石垣芳之助氏にあてた手紙の中に「某検事が録音したとありますが、その検事は、私が親しく今村先生より当時承ったことでありますが、河井検事であるということでありました。右事実を証明いたします。」これはだれあてに出した証明ですか。
○森長参考人 お答えいたします。それは再審請求にあたって裁判所へ提出するために鈴木さんが書かれたものであります。
○猪俣委員 再審の裁判所の状況をさっきお漏らしいただきましたが、弁護人としての見込みは、いつごろ開かれてどういうふうに審理ができそうであるか、弁護人の見込みはどうですか。
○森長参考人 この八月ごろからこの再審審理は表面化する――表面化するというのは外部的に動き出す。まだ裁判所が一生懸命書類を読んでいるところでありますが、外部的に動き出すようになるというように思っております。そして私は、裁判所が公正な裁判所であるならば、無実だということを明らかにし、再審開始決定に持ち込めるという自信を持っております。
 なお、つけ加えますが、これは大逆事件当時の裁判はみんなこんなものでなかったのかというようなお考えの方もあるかもしれませんが、決してそうではない。当時においても相当無罪というものはやはり出ておる。たとえば衆議院議員の先輩である大竹貫一や小川平吉の日露戦争直後の日比谷における国民大会事件、ああいうものは第一審で無罪になって確定してしまった。社会主義者の事件でも無罪の事件がだいぶあるわけであります。そういうような点から見て、当時においても当然無罪にすべき事件であった。まして今日においておやというような確信を私は持っております。
 なお、この事件は歴史ではないか、先ほど神崎さんに対する御質問に歴史研究家としてというようなおことばがありましたが、歴史ではないか、現実の事件ではないのではないかというようなお考えの方もあるかもしれませんが、私は決して歴史ではない。現に坂本清馬という生きた人間、犠牲者が一人生きている。私は生きた冤罪事件と確信しております。そしてまた、死んだ人たちのいろいろ死ぬまでに無実を訴えた悲痛な叫び声が墓の下から聞こえてくるような気持ちを持ってこの事件を担当しておる次第であります。
○猪俣委員 法務大臣もお見えになっておりますが、再審の事件の進行につきまして、やはり検事の意見というものは相当重要でありますが、法務大臣としては、この大逆事件の再審開始について検察官がむやみに反対しないようにお願いしたいと思いますけれども、大臣の御感想を承りたいと思います。
○中垣国務大臣 本件につきましては、当時大審院におきまして慎重な審理を経た上で判決を言い渡されたものであろうと思います。ただいま再審の請求が東京高等裁判所に係属中であるとのことでありまして、私がこの際これに深い意見を申し上げるということは差し控えさせていただきますが、猪俣さんの御趣旨は尊重をいたすつもりであります。
○猪俣委員 終わりました。
○高橋委員長 次に赤松勇君。
○赤松委員 私がこの事件をこの委員会の議題に要求しましたのは二つの理由があります。一つは、この事件は日本の民主主義の根本に触れる問題である。すなわち思想裁判の再現を見てはならぬ。したがって事件の社会的背景、それから当時の権力者のいわゆる独裁的なやり方、そういうものを十分に糾明をして、ややもすれば日本の民主主義は反動化の傾向にある、それを阻止するために私どもはこの事件から何かを学ばなければならないということが第一点。第二点は、ただいま森長参考人が御指摘になりましたように、現に冤罪を訴えておる人が生き残っているわけであります。したがいまして、裁判所はすみやかに再審を行なって、そして事件の黒白を明らかにする。つまり、一つは民主主義の根本を守り、もう一つは人権を守るということ、この二つの理由から、私は当委員会にその調査を要求しました。きょうは不幸にして坂本清馬参考人と連絡がとれない、そういう状態でございまして、私は委員長にお願いしたいのは、非常に貴重な御意見をいただきまして、後ほど速記録を十分検討さしていただきたいと思いますが、この事件は、単にきょうこの委員会のわずかな時間で処理すべき問題ではないと思います。したがって、当委員会で再審制度調査小委員会が持たれている、そのほうに移しまして、坂本参考人を呼んでいただきまして、私もいろいろな参考書類を持っておりますので、その際、つぶさに調査をしたいと考えております。
 ただこの事件は、単なる訴訟手続の問題ではないと思います。当時、御承知のように日露戦争が終わりました直後でございまして、その戦争によるところの戦費二十億の乱費によって、いわゆる経済恐慌が日本の国内に起きておった。しかも、それによって国内の人心が非常に不安定で、特に東京におきましては電車賃値上げ反対の大衆運動が、日本社会党の手によって指導された。赤旗事件のあとでございます。また外におきましては、ヨーロッパを中心としてほうはいたるデモクラシーが勃興しておりました。そういうデモクラシーの勃興につれて、国内におきましては、キリスト教主義的な社会主義、それからいわゆるマルクス・エンゲルスの唯物論的な社会主義、そしてフランスから入って参りました無政府主義、こういう思想が日本の社会に入ってきまして、いわば日本のブルジョア・デモクラシーの勃興期にあったわけであります。その中におきまして、ブルジョア・デモクラシーを発展させようとする西園寺を中心とする勢力と、それから軍閥官僚、いわゆるブルジョア・デモクラシーそれ自身にも反対する軍閥官僚派であるところの山縣有明をキャップとする勢力、この二つの勢力がこの事件に深い関係がある、私はそのように見ておるわけであります。現に当時、明治天皇に山縣が、国内の社会主義者に対して徹底的な弾圧を行なうべきである、それには西園寺内閣の力が非常に弱い、西園寺のやり方が手ぬるいということを上奏しております。西園寺内閣は多くの官僚出身の大臣をかかえておりまして弱体でありました。このために山縣有明の手で西園寺内閣が倒されまして、そのあとに山縣のお声がかりででき上がったのが桂内閣であります。この桂内閣の手でこの事件が裁かれておる。これは私は非常に重要な点であると思います。しかも裁いた平沼騏一郎が、一つは行政官であり、一つは司法官であった。そういう矛盾の中で事件がきわめてあいまいに処理されておる。そして後に平沼騏一郎の回顧録にも出てまいりますが、あの中で、少なくとも三人は冤罪であるということを、彼は回顧録の中で言っているわけであります。それから「原敬日記」をずっと読んでみますと、「原敬日記」の中におきましても、これは山縣の陰謀だとはっきり言っております。こういうように、当時日本資本主義の発展の中で、いろんな矛盾をはらみながら、いわばその矛盾の犠牲になった。これが事件の真相ではないかというように考えておるわけでございます。
 したがって、そういう観点からこの事件を考えてみますと、再び思想裁判をやらしてはならぬ、前にがんくつ王事件のときも私は当時の植木法務大臣にも言いましたが、再審は、でたらめにやるということには私ももちろん賛成できませんが、こういう重大な問題については、たとえば平沢事件あるいは吉田石松事件、また大逆事件、こういう事件については、勇気を持って裁判をするほうが、かえっていまの裁判制度に対する信頼を高めるのではないか、こういうことを申し上げました。幸い吉田事件につきましては、再審の結果無罪の判決が出たわけでありますけれども、この事件につきましても、私は勇気を持ってやるべきだと思う。それはわれわれと立場は違うでしょう、政府のほうは日本資本主義の維持のためにやっておられる。しかし、資本主義を維持するためにも、かえっていまの裁判制度に対して国民の信頼を高めたほうが、政策上僕は得策だと思うのです。したがいまして、この間の法務委員会では、日弁連から、弁護士の中から特任の裁判長を選んで、その裁判長の手によって再審をやったらどうかという、非常に注目すべき提案があったわけでありますけれども、私は、その制度は制度として考えていく。この事件は、法務大臣にもお願いしておきたいが、ぜひひとつ勇気を持って取り上げて、そうして思想裁判の脅威あるいはそういうようなあやまちを再びおかすようなことのないように、終止符を打つ必要があるのじゃなかろうか、こういうように思うわけであります。その意味において、五十年間無実を叫んで努力しておられます坂本清馬君の再審請求については、これを率直に取り上げて裁判していただきたい、こう思います。その裁判の手続はいまどうなっておりますか、最高裁の事務当局からひとつ答弁してください。
○長井最高裁判所長官代理者 かわりまして私からお答え申し上げます。
 本件は昭和三十六年一月十八日に東京高等裁判所に対しまして再審請求の申し立てがございましたことは御承知のとおりでございます。本件は、東京高等裁判所刑事第一部に配点となりまして、裁判長長谷川成二、判事の白河六郎、同じく関重夫、同じく上野敏、同じく小林信次の五名の裁判官の構成によって、この審理を開始すべきかどうかについて検討中でございます。相当膨大な資料でございますので、時日を要しておるようでございますが、現に係属中の事件でございますので、それ以上、審理の具体的な実情につきましては、私のほうもこまかい資料を求めることを差し控えておるわけでございます。御了承を願いたいと思います。
○赤松委員 森長さん、いままでどれくらい再審の請求をしたのですか、却下になったことはございませんか。
○森長参考人 私が弁護人となってやった他の事件でございますか。
○赤松委員 いや、この件で。
○森長参考人 その点は、先ほども申し上げましたとおり、坂本再審請求人は幾度も再審を企図しましたけれども、一人じゃどうにもできない。また戦争前のあの激しい時代においては、やろうといったってやれないような日本の社会、そういうような意味から果たさなかったわけです。そして今回出したのが最初であります。前には一度も出しておりません。
○赤松委員 大体いつごろ結論が出そうですか。裁判所の見込みはどうですか。
○長井最高裁判所長官代理者 審理の状況を聞くことは私のほうでちょっといたしかねますので、明確な時期あるいは見通しを申し上げることは困難でございます。
○赤松委員 人権擁護局長もいらっしゃいますけれども、日弁連の会長から次のような提案があった。それはあなたのほうの年間予算が五千万円ですか、それでどうも法務省の中へ人権擁護局を置くというのはおかしいのじゃないか。これは御承知のようにGHQの命令でできたわけですね。それは昭和二十三年でしたか、二十二年でしたか、当時GHQの要求があった。私どもの片山内閣のときだと思います。制度的に考えてみると、法務省の中に人権擁護局を置くというのはおかしいといえばおかしい。したがって、これは人権を守っていく立場にある日弁連にむしろ人権擁護のすべてを託したほうがいいのじゃないか。したがって、五千万円の予算もむしろそのほうに回すべきだ。一つの事件に取りかかるにはどうしても二、三百万は要るというわけです。吉田石松翁の事件でもそうでありますけれども、いままでみんな犠牲的に弁護士の人が自分の負担でやっていらっしゃるわけですね。森長さんの場合でもそうだと思うのです。それは全部にそんなことを要求してもできるものではないし、むしろ日弁連という機構があれば、そこへ擁護局を回すという考え方――しかし政府のほうから金をもらって人権擁護の仕事をやるというのは、制度的にはおかしいような感じがするのですが、その点は国民の出す税金の一部でありますから、国民自身の人権を守るために日弁連で使ってもらうというのは、これは筋としてはそうおかしくないと思うのです。問題はどういう出し方をするかというところにあると思うのですけれども、そういう具体的な提案がありまして、これもぜひ近く日弁連から要望書を出すから検討してくれというお話がございました。それから再審制度については、さっき言った特任裁判官をつくって、そしてその事件が終わればやめる、もとの弁護士へ返るというようにすれば、再審というものがもっと急速に広く行なわれるのではないだろうかという御提案がありましたが、この際法務大臣いかがでございますか、まだその要望書が出てきておりませんけれども、要望書が出てまいりましたら、これは与野党ともひとつ検討しよう、こういうことになっておるのです。
○中垣国務大臣 前回の委員会におきまして、人権擁護局を弁護士会のほうに所属さしたらいいではないかという質問が出たことをあとで政府委員に聞いておりますが、こまかい内容については実は聞いておりません。そこで私のお答えすることは見当違いになるかもしれませんが、そのつもりでお聞きいただきます。
 いま法務省の人権擁護局がやっておりますことは、弁護士、検事、判事といったような法廷を中心とした個々の人権擁護だけではなくて、あらゆる問題におきまして、政治、経済、文化、社会のあらゆる面についての人権擁護活動というものを現に行なっているわけであります。そういう国の機構といたしましての広い活動状況から見ますと、これを直ちに日弁連に所属させるということでありますと、これは相当検討の余地があろうかと思います。特に臨時司法制度調査会も審議中でありますので、これらの問題もおそらく弁護士側のほうから提案されまして審議があるかと思いますが、いろいろ御意見のあるところを慎重に検討はいたしますけれども、私もいまここで承りました直感で申し上げますと、直ちに人権擁護局を法務省から取り除いて弁護士会に所属させるということにつきましては、若干の問題があるのではなかろうか。しかし人権擁護ということにつきましては、弁護士会の主張もさることでありますが、今日といたしましては、検事、判事ともに人権尊重第一主義でそれぞれ検察行政、裁判官としての職務を遂行しておられるのでありますから、もし弁護士会に人権擁護関係の政府機関を移すとしますれば、ある程度そういう範囲の狭まったようなことになってしまうのではなかろうか。私が知る限り、いまの法務省の人権擁護局というのは、すでに法務省のかつての権力行政時代の、そういう観点からは当たっていない。政治、経済、文化、社会の非常に広い範囲においての活動でありますから、これはこれとしての任務というものは重大であります。それで予算面から見ましても、御指摘のとおりに人権擁護局はいまのような予算の範囲で十分活動できるとは実は思っておりません。また職員の問題もそうでありますが、もう少し人員もふやさなければならないし、予算等もつけまして、ほんとうに国民の人権を守っていくという、そういう本来の趣旨が十分発揮できるように持っていきたい、特に昭和三十九年度にはそういう考え方をあらわしていきたい。こういうふうに思っておるやさきでございまして、それを、いや法務省から人権擁護局を持っていくのだという前提にはただいまのところ立っていないということを申し上げます。
○赤松委員 先ほど申し上げましたように、再審を請求されていらっしゃる坂本さんが、連絡がとれないできょう見えておりません。そこですみやかにひとつ連絡をとっていただいて、そうして再審制度の委員会でも、あるいは本委員会でもけっこうでございますから、さらに本件の調査を続行していただきたいということをお願いしておきます。
○高橋委員長 これはいずれ理事会で相談いたしましょう。
○猪俣委員 関連して。いま人権擁護局の問題でありますが、これは大臣が言うようにいろいろ検討する点がありましょう。ただ現実問題といたしまして要望したいことは、いままで人権擁護局長は代々弁護士をやっておった人から出た。いまの局長稻川さんはもう弁護士をやられた方で、私は友人でよく知っている人で、人物識量は申し分ない人でありますけれども、長い間最高検の検事なんかやられて、いきなり人権擁護局にお移りになった。これは人権擁護局本来の趣旨からいうと矛盾しているのじゃないかと思うのです。要するに、国家の権力に対しまする救済機関というところに特色があるわけです。だから国家が自分の権力の行使を誤らしめないようにやはり国家機関がそこに存在するということにある程度の意義はあると思うのですが、ただし、検事的な職務に従事されている人と在野法曹との間には、やはり人権に関する考え方が相当違ってきて、いまの法務省の人権擁護に当たる人は、やはり在野的人権の考えを持っている人じゃないと、適切なる御処置がとれないと思うのです。ですから、いま日弁連の職務にすべきだという説が出るような時勢でありますから、なおさらのことでありますが、検察官からいきなり持ってくるという、それについてはどうも私どもは納得いたしかねるのですが、大臣の時代であるかどうか忘れましたが、ちょっといままでの行き方と違えてきた何かそこに事情がありますか。あるいはまた今後そういうふうに検事から局長を持ってくるというような考え方なのか。何か聞くところによれば、代々弁護士から局長を持ってくると少し行き過ぎがあって、検察庁の力をそぐような行き過ぎをやるので、今度はやはり検事の者を持ってくることにしたのであるというような巷説がありますが、そうすると、これは人権擁護局の本来の使命と全く反したことになると思うのですが、大臣の御所見を承りたい。
○中垣国務大臣 現在の局長は、御承知のとおり非常に民主主義に徹せられた方でありまして、最高の適任者であると思います。一般論で申し上げますと、検事即人権擁護局長という考え方はどうかという御指摘でありますが、その点は私も実は同感でありまして、この問題につきましては十分検討いたしまして、できるだけ人権擁護局の活動のしやすいようなそういう機構、人事等をとることがよろしかろう、かように考えております。
○稻川政府委員 私自身のことにつきましてお話がございましたが、私自身の事柄については何も申し上げません。ただ一つ誤解があると思うのです。私がなりましたのは、もう申し上げてもいいと思いますが、在野からの強い御折衝がありましてなったものであります。再三その任でないということを強くお断わりしたのですが、先輩に口説かれて、どうしてもならざるを得ない立場になりまして私はなりました。それだけであります。
○高橋委員長 志賀義雄君。
○志賀(義)委員 神崎、森長両参考人からいろいろ伺いまして、この事件の再審請求という坂本清馬さんの要求がいよいよ法務委員会でもこういうふうに取り上げられるようになったのでありますが、森長さんのお話だと、これは現在的な意義を持っておるんだ、現に坂本清馬さんが生きておられるからと言われますけれども、ただそればかりでなく、私どもから見てもう一つ大きい現在的な意義がある。と申しますのは、これが明らかにでっち上げ事件であることはもう事実上の世論になっております。小山松吉という後に検事総長になり司法大臣になった人も、昭和四年に明らかにこれは邪推云々ということまで言っているくらいでありますから、明らかにでっち上げ事件であることはもう国民の事実上の世論になっておりますが、やはり戦後こういうでっち上げられた事件が再三起こっておるのでありまして、当法務委員会で明らかにした事件でも幾つもあります。それで危うく刑を科せられるところを結局無罪の判決ということに裁判の進行途上でもなったものもございます。死刑になった人も、また裁判の差し戻し、こういうことで現に争われている松川事件のようなものもございます。そういう意味で、やはり戦前からのでっち上げということが、戦後ではまた新しい条件のもとで拡大されてくるおそれが、こういうところから十分あります。
 それからもう一つは、これは現在的意義というよりは将来的意義のある問題があります。それは例の憲法の調査会で、近くその調査の審議の結果を発表して、将来の憲法の改悪に備える、こういう危険が多分にある。その中には、現に幸徳事件があげられたような皇室に関する罪、これを何とかして復帰するかどうかというようなことがやはり問題になっているのであります。そうすると、これは将来にわたっても危険な問題だ、こういうことになりますので、これはぜひともこの際再審請求が成功するように参考人の御努力をお願いしたいのであります。
 まず、刑事訴訟法四百三十五条の六号に基づきまして、新たに発見された明らかな証拠という中につけ加えられましたのに、山縣有朋が宮中に対して出しました文書がございますね。これは入っておるのでございましょうか。と申しますのは、これが出ましたすぐあとに例の赤旗事件が起こっております。赤旗事件は、私もいまから約四十年余り前に、やはり当時ぶち込まれた堺利彦それから荒畑勝三、こういう人たちから直接聞いております。これに入っておったために、この二人は事実上、幸徳秋水なんかがやられた事件で死刑にされることを免れたようなことになっているのでありますが、それで堺利彦は出てきて、だれも引き取り手のないような幸徳らの遺骨を受け取って、自分の家に置いた。こういう関係もあるのでありますが、山縣が天皇に上奏したのは一九〇八年、明治四十一年の五月のことであります。六月に赤旗事件が起こり、そうして七月には第一次西園寺内閣が倒れる。こういうような事実上の歴史の継続した事件でありますが、こういう新たに発見された、明らかな証拠として、山縣有朋の上奏文というようなものも入っておりますかどうか、これをまず伺いたいと思います。
○神崎参考人 山縣の上奏につきましては、原敬日記の記述の中に、徳大寺侍従の談話とか、原敬自身の経験を通して記述があるだけで、上奏文そのものはまだ発見されていないわけでございます。
 そこでひとつお願いがございますのは、実は宮内庁のほうで戦前明治天皇御記というものを編さんをいたしておりまして、その中に大逆事件について一章を設けた。そのためにその材料はないかといって、旧東京帝大の明治新聞雑誌文庫、あそこに宮武外骨という老人がいまして、そこへ宮内庁からわざわざ尋ねてきたという話を聞いておりましたので、終戦後間もなく私宮内庁に参りまして、その明治天皇御記の稿本を見せていただきたいという閲覧方を申し入れたのであります。ところが高屋庶務課長だったと思いますが、お見せするわけにいかぬけれども、あなたにかわって私が見て差し上げましょうといって、金庫の中にある稿本を閲覧してくだすったような……。
○志賀(義)委員 それはいつごろのことでございますか。
○神崎参考人 二十二年か二十三年ごろじゃないかと思います。
 そうしますと、大逆事件のところは確かにあるのだけれども、四、五枚のところ白紙になっているというわけです。結局、検討してみたものの、戦時中で結論が出ないまま白紙になっておるというお答えでございました。宮内庁の編纂官は芝葛盛とおっしゃる国学者の方で、そのための資料が宮内庁の図書館の中に保存されているはずでございます。それをさがせば、あるいは宮中秘録として上奏文その他それに関連のある文書が出てくるかもしれない、そういう期待があるので、もしできるならばお調べいただけたらと思っております。
○志賀(義)委員 いまのことも含めて法務大臣に協力していただきたいのです。先ほど赤松委員から重大な事件の一つとして、これをぜひとも明らかにしたいという趣旨の希望もありましたが、これは当法務委員で、なくなられた徳島県出身の阿部五郎議員も一度手がけられた問題であり、またこの前の総選挙前に法務委員であった神近市子さんも熱心に主張された問題ですが、徳島のラジオ商殺し、あの後妻は、私どもの見るところでは全然無罪でありながら、いま岡山県の婦人刑務所に入っておられる。これは自分のほうから裁判も取り下げたから承服したんじゃないかというのですけれども、実は非常に不愉快なことが間に介在しております。それは、ここでは申しませんが、裁判の費用がとても続かないので、途中で取り下げてしまったのです。そういうこともあります。これは大事件でないにしても、市井の一人の無辜の婦人を寄ってたかって、私のした証言はうそでありますという住み込みの店員の後日における証言のひるがえしもあるのにかかわらず、そんなことは一切無視して、再審請求が前に家族からかあったのを却下されたこともあるのです。これについて、たしか法務大臣にも私はこれに関する資料を請求した記憶が残っております。会いますと、まだ五十歳前の婦人でありますけれども、非常に年寄りのようになっている。この人の健康のことも考えますと、また刑期のことも考えますと、このままほうっておけない事件であります。このことは、人権擁護局長、先ほどちょっとここで話題になりましたが、それならなおさらのこと、あなたのほうで積極的に取り上げていただきたい、こういうことを要求します。
 なお、中垣さんは、私に約束なさったことがございます。たとえば警察のことは所管外としても、公安調査庁で共産党に対していろいろのことがやられる。自分に相談せずにやるなと言っておいた、そうあなたは言われたけれども、相変わらずやっているのですね。そういうことをやるばかりか、公安調査庁は共産党に関するいろいろな文献を出す。それをわれわれが法務委員として要求してもよこさない。日本共産党史戦前編とか治安対策何とかといろいろなものを出しておるが、請求しても出さない。われわれ法務委員に見せられないものをあそこはやっているのか。だいぶあなたの知らないことで悪いことをやっておりますから……。いまお出かけになるなら認証式においでなさい。認証式におくれると悪いから……。
○中垣国務大臣 先ほどの幸徳事件につきましては、猪俣先生にお答えしたとおりに、これは再審のことについてのいまの志賀先生の御要望も同じでありまして、これは同じお答えをいたします。尊重いたします。
 それからいま二つ新しい事例をあげられたのでありますが、いずれもこれは既判決に対する再審のことについての御要望のようでありますが、私個人の意見を言わしていただきますと、私は、既判決の問題に対しましても、事実や証拠、そういうものを材料といたしまして、関係者が真剣に、まじめに取り上げて、そうしてこれらの問題を善処してもらいたい、こういう考えを強く持っております。一つ一つの事件につきまして、内容を知らない私がこの事件は再審に応ずるようにやるべきであるとか、これは再審に応じてはいかぬ、そういう意見は私には実はないのでございまして、できるだけ人権尊重の実を期する、そういう考え方で検事や判事がこういう問題と取り組んでいただきたいと心から私はこいねがうものであります。
 それからラジオ商殺しの問題でありますが、先回申し上げましたとおりに、この問題につきましては検討しているのではないかと思っております。
 それから公安調査庁の活動につきましては、いろいろ御指摘のような点があろうかと思いますが、私も慎重によく監督をしてまいりたいと思います。
○志賀(義)委員 いま神崎参考人のほうから希望が申し述べられました。委員長のほうにも申し上げておきますが、宮内庁にそういう新たに発見された明らかな証拠となるべきものがあるかもしれませんから、そのときには法務大臣も御協力願いたい。そのことだけをお答えいただきたいと思います。
○中垣国務大臣 法務委員長から正式に申し入れがありましたら、可能な限り御協力を申し上げます。
  〔委員長退席、猪俣委員長代理着席〕
○志賀(義)委員 ただいま神崎参考人から御要望がありました、宮内庁にそういう書類があるとすれば、これはこの際、いまのように新たに発見された明らかな証拠となり得る性質のものでございますから、これはぜひとも法務委員長のほうから宮内庁のほうへしかるべき手続で御請求願いたい。今度の再審請求に提出すべき明らかな証拠の一つとなり得るものがあるかもしれませんから、そのことを法務委員長のほうから宮内庁に直接なされるのか、あるいは法務大臣からいま御答弁のあったような手続をなさるのか、そういう点十分お確かめの上やっていただきたいと思います。
○猪俣委員長代理 これは後日理事会を開きまして相談の上、決定いたしまして、御意見に沿うよう努力したいと思います。
○志賀(義)委員 山縣有朋という男は、白柳秀湖の表現によりますと、日本を磐石のように押えておった人間でありますが、これでも海外にいる日本人及び国際社会主義運動の発言だけはどうにも押えることができなかった。だからこの点については彼は非常に神経を使っておりました。どうも自分の思うとおりにならないものだから、先ほど神崎参考人のほうからお話もございましたが、海外でこの問題に対して、ロンドンやパリなんかでもありましたし、アメリカでも、向こうに行っている日本人がこれについて非常に書き立てたことはあなたも十分御承知のとおりでございますが、その中で一九一一年、明治四十四年の一月十五日のことでありますが、政府が逆徒判決証拠説明書というものを在日大公使館に送っております。これがおそらく本国の政府にも送られたものと思います。これは今度の明らかな証拠となるべきものの中につけ加えられておりましょうかどうか。
○森長参考人 ただいまの問題でありますが、私のほうではその証拠説明書を海外に送ったという確証をまだつかんでおらないのです。先ほど神崎さんが説明された海外における反響を静めるために政府のほうからこの事件の経過あるいは意見を海外に送ったというものは、証拠説明書とは別でなかろうかと私は思っているわけです。しかし、ほかの研究者は、いや証拠説明書だと言われるし、宮武外骨は証拠説明書と書いておるのですが、そこのところはまだつかんでおりません。したがって出すまでに至っておりません。
○志賀(義)委員 そこで伺いますが、国によりますと、こういうようなものが在外公使館を経て本国政府に送られると、それがそのまま保存される場合があるのであります。たとえばモスクワの革命博物館に参りますと、旅順の要塞司令官であったステッセルが日本の方から金をもらったという証文がございます。これは日本史でもまだ明らかになっておらぬ場面の一つでございます。そういうものまでも革命博物館にはいま陳列されてございます。そういうことになりますと、あるいはソビエト連邦政府の方に御照会なさると、この幸徳事件について出したものも、ことにツアリズムはこういう無政府共産主義というようなものについては神経質な政府だったのですから、あるいは残っておるかもしれません。その他の政府にもあるかもしれませんが、そういう点で御照会いただけば明らかになるのじゃなかろうか。宮武外骨さんなんかがそういうふうに断定されておるとすると、あの人は考証としては非常に綿密な方でございますが、いま森長参考人のお話を伺いますと、その点まだ疑問があるようでございますから、そういう疑問を明らかにするためにも、この際ひとつこういうことだということをおっしゃったらどうかと思うのでございます。と申しますのは、白鳥事件について、白鳥警部を射殺するときに練習をした拳銃のたまを土中から出した。これが有力な証拠の一つになっているのです。ところが土中から出したものなら、これは北海道大学の鑑定もありましたが、腐蝕しておるべきものが、腐蝕しないものが証拠として出されてきている。いま現にその証拠はある。これについて最近ソビエト連邦並びにチェコスロバキアの専門の学者のほうから、詳細な鑑定書が最高裁判所に提出されている状況でありますから、こういうことも御照会なされば、あるいは新たに出てくるのではなかろうか。こういうことは国際的になりますと、当時のロンドンやパリで社会党の人々が問題に取り上げたそのころの記録とかなんとか、あるいは日本から送られたもの、そういうようなもので出てくる場合があるかもしれませんから、そういうこととしても、ひとつやっていただきたいと思うのでございますが、その点はいかがでございましょうか。
○神崎参考人 逆徒証拠説明書に関しましては、国内に一つ手がかりがございます。それは後に司法大臣にもなられました当時の係検事の小原直氏、この検事が起草に当たったということを、私いつか御本人から伺ったことがございます。ですから、小原さんを私的に私が訪ねるか、あるいは委員会で出席を求めて、そこでお話を願えば、まずわかるのじゃないか。それからなお、外国の図書館などにもあり得ることなので、どういう照会の方法をとれば効果的であるか、これは真実をあきらかにする会の役員会のほうで検討してみたいと思います。
○志賀(義)委員 最後にいたしますが、ただいま参考人のお話がございましたが、きょうは残念ながら坂本清馬さんが来ておられませんので、せっかく当委員会が取り上げたものでございますから、再審制度の小委員会でなくて、この法務委員会において坂本さんを呼ばれる、これを委員長にお願いしますとともに、もう一つは、いま新たにそういう起草者の名前もあげられましたので、そういう点について必要があれば、法務委員長のほうで照会されて、そういう文書をお持ちならば、やはり法務委員会としてもせっかくこの問題を取り上げたのでございますから、適当な方法をもってこれが書類が出されるように、法務委員長のほうでひとつ御尽力願いたいと思います。そのことを申し上げまして、私の質問を終わります。
○猪俣委員長代理 これはいずれ後日理事会を開きまして、いまの志賀委員の要求を検討して結論を出したいと思いますが、理事会に志賀委員も出席されまして、その文書のこと等は相当専門のことですから、御説明をいただきたいことを委員長からお願いいたします。
○志賀(義)委員 なお一言だけ法務省のほうに……。
 先ほど五人の判事でもって、この再審を取り上げるべきかどうかを検討しているというふうにおっしゃいましたが、五人というこの人数の根拠でございますね、何かこれは五人というのに特別な意味があるのでございましょうか。その間の事情はどうですか、それだけ伺います。
○長井最高裁判所長官代理者 本件の再審事件は、現在の刑事訴訟法のもう一つ前の大正十一年法律第七五号の刑事訴訟法を適用して審理すべき事件になるわけでございますが、この事件の審理をいたしますのには、いま廃止になりました裁判所構成法の第五十三条の規定によりまして、構成の裁判官は五人というふうに規定されておりますので、その規定によりまして五人構成の裁判所で審理するということになるわけでございます。
○志賀(義)委員 きょうはそれを伺っておくだけにとどめます。これで終わります。
○猪俣委員長代理 ほかにございませんか。――これにて本日の参考人に関する議事は終了いたしました。
 参考人各位には御多用のところ長時間にわたり貴重な御意見の開陳をいただきまして、委員会を代表いたしまして、ここに厚くお礼を申し上げます。ありがとうございました。
 これにて散会いたします。
   午後零時三十分散会