1. 会議録本文
本文のテキストを表示します。発言の目次から移動することもできます。
-
000・会議録情報
昭和三十一年四月九日(月曜日)
午前十時二十七分開議
出席委員
委員長 佐藤觀次郎君
理事 赤城 宗徳君 理事 加藤 精三君
理事 坂田 道太君 理事 米田 吉盛君
理事 山崎 始男君
伊東 岩男君 稻葉 修君
千葉 三郎君 塚原 俊郎君
並木 芳雄君 古川 丈吉君
町村 金五君 山口 好一君
山本 勝市君 河野 正君
小牧 次生君 鈴木 義男君
高津 正道君 野原 覺君
平田 ヒデ君 前田榮之助君
三鍋 義三君 小林 信一君
出席国務大臣
文 部 大 臣 清瀬 一郎君
出席政府委員
文部政務次官 竹尾 弌君
文部事務官
(初等中等教育
局長) 緒方 信一君
出席公述人
朝日新聞論説委
員 伊藤 昇君
東京大学教授 田中 二郎君
東京大学学長 矢内原忠雄君
京都大学教授 池田 進君
千葉市教育委員 尾形 猛男君
日本PTA協議
会会長 塩沢 常信君
委員外の出席者
文部事務官
(大臣官房総務
参事官) 斎藤 正君
専 門 員 石井 勗君
—————————————
本日の公聴会で意見を聴いた案件
地方教育行政の組織及び運営に関する法律案並
びに地方教育行政の組織及び運営に関する法律
の施行に伴う関係法律の整理に関する法律案に
ついて
—————————————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/0
-
001・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 これより、地方教育行政の組織及び運営に関する法律案、並びに地方教育行政の組織及び運営に関する法律の施行に伴う関系法律の整理に関する法律案について、文教委員会公聴会を開会いたします。
申すまでもなく、両法案は、わが国における教育行政の根本につながる重要な法案でございまして、文教委員会におきましても、慎重に審査いたしているのでございますが、その重要性にかんがみ、広く各界の公正な意見を反映せしめ、委員会における今後の審査に万全を期するため、公聴会を開会いたすこととなり、一昨日の南原公述人を初め六公述人の公述に引き続き、本日またここに六人の公述人より公述を承わる次第でございます。
まず、本日の公聴会の議事の進め方についてでございますが、委員各位のお手元に配付いたしてあります公述人名簿の順序に従い、所定の時間の通り一名あて公述及びこれに対する質疑を済ましていくことになっております。公述の時間は各二十分程度とし、質疑は各公述人につき三十分を予定いたしております。
それではこれより公述人の公述及びこれに対する質疑に入りますが、この際伊藤公述人に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は御多用中にもかかわりませず、御出席をいただきまして厚くお礼を申し上げます。何とぞ両法案につきまして言論界の立場より忌憚のない御意見をお述べ下さいますようお願いいたします。
なお公述その他につきましては、お手元に差し上げております注意書の要領でお願いいたすわけでございますが、念のため申し上げます。すなわち、衆議院規則の定むるところによりまして、公述人各位の御発言は、委員長の許可を受けなければならず、その発言の内容は意見を聞こうとする問題の範囲外にわたらないこと、また公述人は委員に対し質疑をしてはならないことになっております。以上お含み願います。
それではまず伊藤公述人より御意見の御開陳を願います。伊藤公述人。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/1
-
002・伊藤昇
○伊藤公述人 私、朝日新聞の論説委員をしております伊藤昇でございます。どうもこういう雰囲気の中で話をしたことがございませんもので、非常に心配なのですけれども、新聞で仕事をしている者の立場といたしまして、同時に子供を持っている親の立場といたしまして、この教育委員会制度について考えているところを述べさしていただきたいと存じます。
まず結論から申し述べさしていただきますが、現行の教育委員会制度は、これをにわかに改革するとか、あるいは根本的に別の性格のものを作るというような時期には到達していないと存じます。いかにも実施されてから短かい時間でありますし、ここしばらくの間はこれを存置し、これを育成するというのが教育的立場から見て適当ではないか、そういう意味で今回の政府提案には反対をする立場をとらせていただきます。
以下その理由を数項にわたり申し上げたいと思います。
第一点は、現行の教育委員会制度がどのような条件で、どのような環境のもとに作られたかということへの反省でございます。そのことにつきましては、敗戦の瞬間に私たちは立ち返りまして、深く考えてみなければならないと思うのですが、あの敗戦のただ中で日本人ならばだれでもがまず、自分たちのふがいなさ、いくじなさというものに思い至ったと思います。戦争をしてはならないというようなことを心では考えておりながら、それを口にも出し得ず、ただ政府の命ずるまま、国家の命ずるままに動かされてきた自分自身というものを考えまして、そのふがいなさ、情ない人間、そういう人間がどうして作られてきたかということを反省したのではないかと思います。少くとも私は、海外の地にありまして終戦に当面したときに、自分のふがいなさを考え、自分といういくじのない人間が何によって作られたかということを反省したときにやはり国家の名において命令のような形でなされてきた教育、あるいは政府の名によってお役人により統制されてきた教育、権力には逆らい得ないという教育が、私たちこの敗戦のみじめさを迎えた日本人を作ったのではないか、そういう反省に立ったときに、自分の子供には、少くとも国家の名によろうと、政府の名によろうと、人間としての正しい批判の上に立ち得る人間、あるいは何ものにもだまされないというような人間を作らなければならない、自分の子供にはそういう人間になってもらいたいという反省、これが父親としての教育に関心を持たされた一つの立場でございます。そこであの敗戦の瞬間に国家によって、あるいは政府によって、さらに軍部によってだまされた、こういう反省が多くの日本人にあったといたしますならば、やはり教育の上に国家権力といえども、その他のあらゆる権力、力というものが教育の中には入ってきてはいけない、そういう意味で、新しく作られました、この国会において皆さんの御賛同のもとに作られた教育委員会制度は、その意味において私は最も正しい、そして最も日本の教育のあるべき姿を制度として打ち立てたものだと信ずるものでございます。
第二の点は、そのようにして多くの国民の願いを固めて作られた教育委員会制度というものは、昭和二十三年に発足いたしましてから、どのような歩みを続けてきたかという点でございます。二十三年の七月に法律ができて、その十月一日に第一回の都道府県の教育委員会の選挙をいたしたわけでございますが、正直に申しまして、私自身も何のことだかよく理解ができておりませんでした。それは実施を急ぎ過ぎたとか、あるいは啓蒙が足りなかったとか、後になっていろいろの批判はあったのでありますが、教育委員会というものを持ってみますと、当時御記憶の通り、六・三制のために学校建築というものが忙しいさなかで、教育委員の方々は非常に苦労されたと思います。もちろん都道府県の知事、市町村長は六・三教室を作るために非常な努力をされたということも、私は十分に敬意を表するのでありますけれども、教育委員会が持っておった予算送付権といったような、非常に不十分ではありますけれども、財政に関する権限というようなものが、ある程度の効果をあげたことは認めざるを得ないと思います。で、人々は自分たちが選んだ教育委員会が何をやるかということをようやく認識しかかっておったときに、昭和二十七年の地方教育委員会を全国に設置するという問題に当面したわけでございます。これはここで私がこまかく申し述べるまでもなく、当時の文部省といたしましては、地教委を全国に強制設置するのは時期尚早であるという意見で、その方向の法案を提出したと思いますが、私たちも地教委の設置単位の問題にいささか疑義を持ちましたために、一年延期案に新聞といたしても賛成をいたしておったのであります。ところがそのときは、当時の与党の自由党の、全員とは申しませんけれども、相当の部分の方々が、日本の民主化のためには地方行政委員会を置くことが必要なのであるというような強い御主張がありまして、これに当時の突然の解散というようなことがありまして、政府案はそのまま葬られたわけであります。そうしますと、当然ここに現行法が存在している限り、二十七年に全国に教育委員会を置かなければならない。私たちはさきにも申しましたように、一年延期案に賛成をしておったのでありますが、法律がある以上はそれを守らなければならないという立場をとりました。すなわちきのうまでは一年延期を主張した私たちは、きょうからは地教委の設置に、その選挙に全力をあげて協力せよということを主張したのであります。そのこと自身が政治の都合によってなされたとは、私は申したくないのでありますが、そのようにして全国に地教委を置いたにもかかわらず、その後の大臣方は、ある大臣は、地教委は育成せよと言われ、そうかと思うと、時によってはこれを廃止するかの暗示をされる。何と申しますか、私たちから見ておりますと、いかにも定見を欠いた文教政策のもとに、教育委員会のみならず広く教育界が常に不安な状態に置かれてきたといえるのではないかと思います。
ここで特に私が申し述べたいのは、新聞や学者や、あるいは教育界、世論が時期尚早と言ったときにはあえてこれを断行し、日本民主化のために必要なのであるという考え方のもとに新聞がこれに協力しようとすれば、突如として全廃に近いような改革案が出る、何か御都合主義で教育のこと、教育制度のことが考えられているような傾向には、言論のことに携わっております私たちといたしまして、まことに応接にいとまがないと申しますか、面くらわざるを得ないのでございます。
第三の点は、今回の法案が提出されるに至るまでのいきさつについてでございます。この教育委員会制度ができまして、これに対しては設立以来いろいろな批判がなされてきたのでありますが、その批判を大体考えてみますと、三つの角度からの批判があったと存じます。一つは日本の独立にも関係いたすのでございますが、占領下に作られた制度について、全面的に考え直すという政令諮問委員会の系統の考え方であります。
もう一つは、地方自治、地方行政の一元化という立場と同時に、地方財政の貧困というものにこれをからめまして教育委員会制度に対する批判検討がなされたことであります。
最後の第三の角度といたしましては、私はこれのみが純粋に教育的立場から、あるいは教育学的立場から検討したものと存じますが、中央教育審議会の考え方があったと存じます。そして中央教育審議会は、二十八年に、教育委員会制度も含めまして、六・三制に対する答申をしておると思いますが、その中では教育委員会制度の存置を主張しておるように思います。そのとき私も参考人として中教審で意見を述べさしていただいたのでありますが、中教審の中にも、任意設置というような考え方があったときに、少くとも私は任意設置に反対して、これは絶対に現行法を守らなければならないという立場をとらしていただいたものでございます。そういうふうにいろいろの見解がある中で、今回私が一つ了解に苦しむことは、これは法律に暗い者として、私の疑問が間違っておるのかもしれませんけれども、廃止する、しないという考え方がある中で、実はことし、三十一年の十月には、現行法がある以上は、当然選挙をしなければならないにもかかわらず、三十一年度の予算には、それに必要な選挙に要する自治庁の予算と、その啓蒙宣伝のための文部省予算というものは一切姿を見せておりません。ということは、これは技術的にできることかもしれませんけれども、法律を厳しく守るべき政府自体が法律に違反していると申しますか、組むべき予算も組んでいないということは、国会においてこういう法案を審議する意味が、私には十分にはのみ込めないのであります。現行法に従って一応は選挙をするという政府の態度があってこそ、その改革案が審議されるべきであって、初めからそれに要する費用が予算として削ってあるならば、国会における審議というものに対して、私はいささかの疑問を持たざるを得ないのであります。
そこで第四の点に移りたいと存じますが、第四の点は、法案の内容そのものについてでございます。それについて二、三の点をあげますならば、第一には、現行法の教育委員会法にある、第一条、法の目的というものが、どういう理由か私には理解できないのでありますが、全面的に姿を消しているということであります。「教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行わるべきであるという自覚のもとに、」という、この不当な支配ということが、私は一番先に述べさしていただきましたように、私たちの最も心配しているところであります。そして法案全体を拝見させていただきますと、この不当な支配というようなものを極端に解釈いたしますならば、これを入れるためにこの文字を除いたといったような印象さえ受けるのでございます。
第二の点は、国の責任ということについてでございます。新しい法案を拝見いたしますと、文部大臣の権限がいろいろの面で拡大されているように、これは多くの公述人からも御指摘があったと存じますが、そのように考えられますとき、さらに文部大臣の言葉としてしばしば伝えられておるものに、国の責任という言葉がございます。私も義務教育を国家が国民に課する以上は、国の責任はあると存じます。さらに国民の多くの税金をこの方面に使う以上は、国としてその税金、その予算がいかように使われ、いかように使われなければならないという指揮、監督というような、国の責任というものは当然あると思います。しかし教育における国の責任という意味は、私の考えるところによりますと、まず教育の機会均等、すなわち義務教育からも脱落していくところの貧困児童、精神薄弱児童あるいは身体不自由児童、あるいは僻地の子供たち、そういった子供たちに教育の機会均等を与える意味で学校施設、設備、教材というものを整え、給食を盛んにし、さらに学校教職員の待遇を考えるのが、私は国の責任ではないかと思うのです。そういった意味で私は教育における国の責任を考えるのでありますが、教育内容そのものに国という名前で干渉するということは、過去において私たちが苦い経験、苦しい経験、かつては文部大臣に陸軍大将をいただいた経験がある以上は、容易にこの考え方には賛成できないものでございます。
さらに少しくこまかくなりますならば、その教育内容に関与するという点に関しまして、第三といたしまして、三十三条でございますか、教室で使う教材についていろいろの制限を加えることのできる条項がございます。これはお作りになった方々の考えとしてははっきりしておられるのだろうと存じますけれども、これも極端に心配いたしますならば、その日の朝の新聞を教室に持って来てそれを教えるためには、一々教育委員会に許可を求めに行かなければならないかもしれない。新聞のみならず、こういうことになりますと、最近盛んに行われております視聴覚教育といったような面ではなはだしい不便が起る心配も出て参ります。これは小さな問題であるかもしれないけれども、教育内容に対して、文部大臣をピークとするところの上から下への系統の教育が行われるということに対して、あながち小さいとして見過ごすことのできない点だと存じます。
それからその四といたしまして、実はこの点が私の最も大切に感じている点でございますけれども、公選制の廃止でございます。この点につきましても、一昨日の公述人の方々あるいは皆様の間で当然熱心な御研究がなされたものと存じますので、私の考えるところのみを申し述べさせていただきますが、子供の教育に責任を持つものは、いきなり国家ではなくして、私はその子供の親であると存じます。その子供の父なり母なりが子供に対して最も直接の責任を持つものだと存じます。そしてその親たちが子供の教育をこういう人にやっていただきたい、その意味で直接選挙をしているのが今日の教育委員会のあり方だと存ずるのです。そしてその意味で、日本においてはかつては国家だけが持っておった、官僚だけが持っておった文教政策というものを初めて国民のものとした、国民のものとしての教育がここに始まったというふうに私は解釈しております。従って教育委員会は、私たちの持っている観念からいたしますならば、直接選挙があってこそ、選ばれた人たちがその地域の子供に責任を感じて教育をする、この公選制度があってこそ、教育委員会制度の存在があるのでありまして、新しい法律によりますと、この公選制がなくなったならば、これを新という文字をつけようと、つけまいと、教育委員会と呼ぶよりも、むしろ学務委員会と呼んだ方が、国民の目を、国民の観念をあいまいにさせないためにも必要なように感じます。
くどく申し上げることはもちろんないと存じますけれども、以上四つの点に関して私はこの法案に対する私見を述べさせていただいたのでありますけれども、重ねて、結論といたしましては、教育のことは、きのうの法律をきょう変えるというのではなくして、どこまでも慎重に検討を重ね、そのためには幾たびも言われましたように、今回の法案の提出のいきさつから見ましても、どうしても中央教育審議会にはかけなければならない。さらに現政府は内閣に臨時教育制度審議会を置かれるというふうに聞いておりますけれども、そこでこの教育委員会制度をおいて何を御検討になるのか、何を審議されるのか、これは新聞の仕事をしておりまする者の立場から、どうしても理解に苦しむところでございます。さらに私見を加えさせていただきますならば、私が最も心配しておりますのは、先ほど来申し上げましたように、教育のことに国家の名において、政府の名において不当な干渉がなされるということを最も心配するのでありまするが、せっかく国民のものになった教育を、この際また国のもの、あるいは政党のものというふうになるおそれのある改革、そういう改革が私たちの目の前に迫っているということにつきましては、私どもはは明治五年の学制改革の当時をもう一ぺん考えてみる必要があると存じます。明治五年の学制改革が、新しい欧米の教育制度というものを取り入れて、そうして国民皆学という新しい教育制度が日本にできたにもかかわらず、それは実施わずかに七、八年の経験をもって、皆さんの御承知のように、伊藤博文と元田永孚との間に非常な論争がございまして、一方は文明開化派を代表し、一方は儒教教育、伝統派を代表して激しい論争の結果、元田派すなわち国粋派が勝利をいたしました。その後日本の教育が世界的な歩みからひとり特別な歩みを続けたということを今から考え起してみますならば、このときの明治五年の学制改革の歩んだ道と、そうしてもう一度われわれが敗戦の瞬間に立ち帰って考えてみますならば、今回の改革案というものには、容易に賛成できないという立場をとらざるを得ないのでございます。
時間も超過いたしましたが私の申し述べさしていただきたかった点は、以上の通りでございます。(拍手)発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/2
-
003・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 以上をもちまして、伊藤公述人の公述は終りましたので、これより質疑に入ります。質疑の通告がありますので、これを許します。山本勝市君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/3
-
004・山本勝市
○山本(勝)委員 いろいろ参考になる意見を承わりましてありがとうございましたが、一点だけお伺い申したいと思います。教育委員の公選制を、直接選挙制度をやめたということについての御意見でありますが、実は私個人として同じような考えを持っておりました。自分の親が子供を預けておる教育について、たとえば教員の身分につきましても、自分の子供を預けておる親がこれを選ぶということの権限を持つのは当然だ、こういうのが私の長い間の根底にある考えであったのであります。しかし今公述人のお話を承わって、私が長年考えてきたことと同じような考え方に立っておられるということは承知したのですけれども、ただ実際われわれ議員としては絶えず自分の選挙区、地盤における選挙民たちに接触しておるわけです。どうしても、自分はこう考えると申しましても、ほんとうの選挙民の声というか、そういうものに強く動かされるわけなんです。それで今の場合は、少し順序が立たぬかもしれませんが、たとえば県の教育委員会、これなどの選挙というものは、父兄は県の教育委員というものが出ても、どういう人なのか、名前も知らないし、もちろん人柄も知らないというのが大部分の父兄の実情なんです。ですから、理論としては親が自分で教育委員を選んで、教員の身分についても権限を持って委員を選ぶということは、理論上はその通りなんですけれども、日本の実際にきまして、県の教育委員というものについて父兄に尋ねてみましても、実情は全くわからない。それを選挙でやったらうまくいくということは、これは事実上わからぬ人を選んでうまくいくわけがない。そこにいろいろな弊害も起ってきておる。これが実情なんですね。ただ町村におきましては、これは父兄がよく知っております。それで私は内らのことをここで申す筋ではないが、党内におきましても、町村の教育委員だけは、現在はうまくいっていないけれども、もう少し時間をかけて——民主主義というものは長い時間かけて訓練しなければうまくいくものじゃないのだから、もう少ししんぼうしなければいかぬという意見を長く主張してきたものですけれども、県の教育委員については全然知らない人を選ぶというような制度は、初めから賛成しなかった。しかし町村の場合についてはそういう意見を持ってきておりましたけれども、しかし多数の意見で党はこうときまりました場合に、私はやはりこれも一つの方法だというふうに考えましたのは、実際村で父兄に聞いてみますと、選挙なんかめんどうで、そんなことしなくてもいいという親が大多数なんですね、私どもの選挙区では。ただ、教育委員になっておる人は、強くこの選挙制を主張しました。しかし教育委員でない、町村長はもちろん町村会議員、こういう人たちは強烈に、むしろ廃止を主張してきた。これはわれわれとしても、国会議員としてこの強い長年の声というものも無視するわけにいかない。自治体において直接選挙で出てきた、自治の全般的責任を負うておる議員諸君が、全国的に強い決議をして要求してくる。もう町村長会にしても、議員の会にしましても、集まるごとに決議しておる。それから父兄はどうかというと、どちらでもいいという人が多いが、しかしそれは今のような、町村長がこれを選んで、そうして議会の承認を得てやることにしたらどうか、それはけっこうだという者が、よそは知りませんが、私の埼玉県の選挙区ではそうなんです。それから教員の立場はどうかというと、教員に私は聞いてみました。私も長い間義務教育にも携わってきましたけれども、教員として一番希望することは、父兄に頭を押えられないことです。これは教権の確立といって昔からわれわれもやかましく叫んできたものですけれども、一番教員として好ましくないのは、父兄に頭を押えられることです。ほんとうに実際に当っておる者が自由にやりたいという立場からいうと、それは文部大臣や県からかれこれ言われるのも好ましくないが、しかしそれに劣らず、父兄に頭を押えられるということは、自分の教えておる子供に対する先生の気持からいうと、これが一番困る。ですから、教育委員会も学務委員もない方がいいというのが、私は教員のほんとうの気持だろうと思います。選挙によるよらぬにかかわらずですね。自分たちを絶えず見ておって身分を動かしたりする者の中に親がおるということは好ましくないのです。しかしそれは私が先ほど申したように、子供を預けておる先生を親が気に入らぬでも何とも言えないなどということはあるべきことじゃない、こう思いますけれども、教員から言うとそうだ。それで直接選挙は、今言うように、町村の場合においてはもう少し訓練していったらと思いましたけれども、実情は町村長も議会もむしろ強く廃止を要求してきた。それから今日の程度の間接的に父兄が選んだ人たちが相談してきめるという制度に対して、父兄自身がかえってその方がけっこうだというふうな考え方を多く持っておる。ですから何もわれわれ保守党の者が再軍備を望んで反動的に自分たちの考えを押しておるんじゃなくて、実際に選挙民の声が強くてこういうふうになってきたということを、私は御了承願わねばならぬと思うのです。アメリカの例ですけれども、アメリカの州などではやはり教育委員は任免制が多い。ですから必ずしも父兄が直接選挙で選んだものでなければ、今おっしゃったように、父兄の教育に対する関心が薄れるというようなものではないんじゃなかろうかと思うのですが、いかがでございましょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/4
-
005・伊藤昇
○伊藤公述人 いろいろ御体験に基く御意見を拝聴したわけでございますが、三つの点にお答えしたいと存じます。
第一の点は選挙地盤その他についての日本の実情というお話がございましたが、今度の法案に対して私たちが一番困るのはその点でございます。この法案を作られた側の人、賛成をされる側の人は、教育委員会はなっていない、住民はみんなこんなものは要らないと言っている、現行法を存置したいという意見のお方は、いや地元もだんだん教育委員会のことがよくわかってきて、その必要を説いているんだと言われる。どちらの意見が多いか少いかというのは皆さん御自分の立場からのみ解釈しておられるように思うわけでありますが、教育のことはそういったあいまいな実情論でさばくべきものではなくて、やはり純理論的に、将来何らの危険のない前提を置いて教育の法律を作られてしかるべきではないかと私は思うのであります。
それから選挙と民主主義に関する御意見がございましたが、私も全く御同感でございまして、狭い土地の人間が知っておる人を選ぶということは選挙の最も理想的な形だと存じます。従って都道府県の教育委員会の選挙に関しましては、御承知のように、二十八年の中央教育審議会の答申において、その選挙の単位については再考を要する点もあるというような答申があったと存じます。そしてただいまの御意見の方の言われる通りに、もっと小さな単位で自分たちの子供をこの人に頼もうという形で選挙が行われるならば、ただいまのお言葉にもあったと思いますけれども、これを育成していくならば一番正しい選挙訓練ができることだ。そして将来国会その他に関する選挙にも、日本国民の民主的な自覚を育てる上には、この教育委員会の選挙というものは、かつて自由党の方々が日本民主化のために絶対必要だと言われたが、その点において私も全く同感するものであります。
第三に、先生は父兄から干渉されることを最もきらうというような御意見だったと思うのですけれども、今日の先生は父兄から不当な干渉を受けられたくないと思っておることと存じます。政府からも、政党からも不当な圧迫を受けることを最も排撃するような気持でおるのではないか、これもすべての教員とはあえて私は申し上げませんけれども……。今度の法案で、先ほど申し述べさせていただきましたように、心配いたしておりますのは、父兄が子供の教育に関して先生方と話し合いをする点においては、私は最も現行法がよいと思うのでありますけれども、その上に父兄でない国家、政府、そういう抽象的な権限、権力というものが教育に入り、教師の上に押しかぶさってくるということ、これを避けるためにも私は現行法がよりすぐれたものというふうに考えておるのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/5
-
006・山本勝市
○山本(勝)委員 こういう点はいかがでしょうか、確かに教育というものの立場から申しますと、おっしゃるようなことが考えられることも同感でありますが、しかし教育の立場はきわめて重大ではありますけれども、われわれの生活における全部ではない。そこでよく厚生問題の委員会などでは、社会保険の問題に非常に重点を置きますと、ほかの費用のことを考えないで、社会保険の充実ということを主張される。教育の立場においても昔からそうであったのであります。確かに重要なことでは重要ですけれども、ほかにもたくさん重要なことはある。それで自治体における自治の完成ということが非常に大切であります。その場合に首長とか議会、これは言うまでもありませんが公選でありますと同時に、自治体における最も全般的な見地に立っての責任を負うておるわけであります。その中で特に教育というものがまた一つの独立した形になっておるのでありますけれども、しかしそれは自治においては一部分であります、行政としては一部分であります。そこで全般の責任を負っておる人たちが、しかも同じ父兄から直接選ばれてきて村に住んでおる、そうしてやってみてこれまでの制度が非常に困るということを痛切に感ずる。これは体験からきておる。同じ父兄が選んできて、同じ村に住んでおる、自治体においては範囲から申しますと、教育も考えるが、教育以外のことも考えなければいかぬ立場である。こういうことで、自治の完成ということがきわめて大切であるのに、そういう人たちが実際の体験からこう変えてもらわなければ困るということを要求された場合に、それをわれわれ国会議員というものが全然考えないで、ただ理論上こうとかいうわけにいかぬのじゃないかと思うのです。教育費がふえたふえたと言いますが、これは教育委員会ができる前から、この間の公聴会のときにもありましたように、町村長が六・三制校舎を敗戦後の苦悩の中に苦労してやってきておるのです。そして自治体の財政という立場がくずれていけば、教育はいかに格好がりっぱになっても、教員がよくなりましても、財政的に破綻してしまっては何にもならない。この全体と部分との関係がやはりわれわれの頭にありまして、ただ反動だ反動だと言われると、まことにどうも実情をお考えにならない議論じゃないか、こう思うのですがいかがでしょう。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/6
-
007・伊藤昇
○伊藤公述人 この問題も今度の教育委員会制度への配意について終始戦わせられてきた議論の点だと思います。私の方でも、その問題につきましてはいろいろ内部でも話い合いまして、教育独走というようなことは絶対に許せない、これは私も同感であります。しかしながら、少くとも今日の親としての立場、あるいは日本という国のある姿として教育は特別に力を入れられなければならない。このことは敗戦の瞬間から文化国家を作るという意味において、この国会において涙をもって議決された、あるいは涙をもって通過したところの教育三法があるのです。そういう意味におきまして、自治体においても今日自治行政が日に日に複雑を加えていく際には、事教育に関して特別の行政委員会を持つということは、自治体の首長あるいは議会にとって何ら差しつかえないことだというふうに私は考えます。そしてあえて教育関係の仕事を自治体そのものに持ってきたいという考え方の中には、権限とかあるいは予算とかいう考え方があると存じますけれども、もし予算という点の考え方があるとするならば、今度の法律案が通過して首長の権限が強くなった際に、教育費がふえるという保証はできておりません。むしろその点において、予算の関係から教育委員会がない方がいいのだという考え方があるならば、こういうような法案が通ることによって、教育予算がむしろ減るというような心配さえしなければならないのじゃないかと私は考えるのであります。
それから地方自治の確立あるいは総合自治というようなお考えの御意見だったと思うのですが、その大部分において私は同感をさせられるものでございますけれども、地方自治というものを本気で考えるならば、今度の法案において認められておるような、国の大臣が地方自治の尊重すべきところの教育の中に介入してくるということを、どういう意味でお認めになるのか、その点は地方自治という立場をとられる府県知事ないしは市町村長のお集まりの方々にも、私には国家権力というものが地方自治体の行政にどの程度入っていくべきかという点について、疑問のあることを述べさせていただきます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/7
-
008・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 山崎始男君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/8
-
009・山崎始男
○山崎(始)委員 簡単に四点ばかりお教えを願いたいと思います。
まず第一点は、この法律案を出されました前後から、文教委員会その他で常に文部大臣から説明されます内容を総合して考えますと、なぜこういうふうな法律案を出したか、そのねらいと申しますか、そういう点は一言で申しますと、結局占領政策の行き過ぎを教育の面において是正するのだ、そして、それならば是正の方向はどうかといいますと、これはあまりにも日本の国情に沿わない民主主義の方向をたどっているので、いま少し忠誠というものを織り込んだ教育の方向に持っていく必要がある、それがためには、国の責任をまず明確にしなければならぬ、その他云々、こういうような言葉が常に出て参ったのであります。
そこで私はいつも疑問を持ちますことは、まず第一に国の責任を明確にするという言葉と常に文部大臣から出る言葉、自分は党人であるから党の命令に従うのだ、こういうようなお気持が非常に強いのであります。一応今日の政治形態、政党政治の建前から見ますと、国が責任を持つという言葉は非常に聞えがいいのです。国民が聞きましても、何だか国が責任を持つというのだからいかにも権威があるように聞えるのであります。しかしながらよく考えてみますと、それは何も国という特別なものがやるわけではありません。結局は政党がやる、こういうことになることは申し上げるまでもないと思うのであります。そうして常に政治の中立性を保つためにもこういう法律が必要なんだ、こういうふうな表現があるのでありますが、文部大臣が政党人であって、そうして結論的には政党が文教行政をやるのだという言葉になるのでありますが、われわれが考えますと、教育という問題は、そういうふうなものの考え方がどの程度まで許されていいのか、それと申しますのも、申し上げるまでもないのでございますが、日本の今日の民主政治というものが非常に過渡期の状態にございます。諸外国の例のごとく国民も政治家も政治的な良識というものがうんと発達しておるならば、そういうふうな考え方も成り立つかもしれませんが、こういうものの考え方が、へたをしますと——結局大臣あたりの答弁では、一言に言いますと、われわれ国会というものも、国民の総意を得て多数決の原則によって今は民自党が天下を取っておるのだから、決して非民主的でない、こう言うのでありますが、そうなると、問題は、ゼネラル・ウイルというものが常にリアル・ウイルであるという発達した政党政治のもとであればそういうふうな前提も成り立つかもしれないと思うのでありますが、ゼネラル・ウイルというものも必ずしもリアル・ウイルとは私は思わないのであります。実はそういうふうな疑問を持っておるのでありますが、果してそういうふうな文部大臣あたりの申される論理というものが成り立つかどうか、その限界というものについての解釈に私は非常に苦しむのでありますが、この点について承わりたいのが一点。
いま一つは、従来までの公聴会その他で政府与党の考え方を聞いておりますと、いわゆる日本的な民主主義という言葉がよく出てくるのです。ところが少くとも教育委員会制度というものをここまで骨抜きにして、ただいまあなたがおっしゃいましたような経過を聞いて参りましても、万人が骨抜きだということは認めておられると思うのでありますが、これが日本的民主主義の方向なんだ、こう言われるのでありますが、私は民主主義という言葉の理念において、日本的民主主義であるとか、あるいはアメリカ的民主主義であるとか、ソ連的民主主義であるとか、こういう区別があるべきはずのものではない。要は、民主主義の理念というものは、結局自由であるとか平等であるとか、あるいは個人の尊厳を尊ぶとかそういうものの考え方が民主主義でなければならぬ、こう思っておるのでありますが、果して日本的民主主義というような言葉でもってこの法律案がそれに当てはまるかどうか、これが一点。
いま一点、こういうふうな教育委員会という名前だけが今日御承知のように残っておりますが、こういうふうな変体的な、私たちはまことに奇々怪々の教育委員会だと思いますが、一体諸外国にこういう例があるかないかということが一点。
最後に、伊藤さんは新聞人としてこの道の大家であられますので、お聞きいたすのであります。新聞がいわゆる世論の一つの大きな象徴であるということは申し上げるまでもございませんが、全国の各新聞社において、今回の法律案に対して少くとも賛成の発表を論説なりその他でされておる新聞社があるかないか、そういう点はおそらくお調べになったこともあるのじゃないかと思いますが、もしそういう点をお調べになっておられましたら、一つお教えを願いたいと思います。
以上でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/9
-
010・伊藤昇
○伊藤公述人 私からお答えしなければならない点は非常に少いように思うのです。
第一点の国の責任という問題については、私先ほど述べましたように、国に責任は一部あります。それは、国民の貧しい子供にでも何でも教育の機会均等を与えて、農山漁村にちらばっている能力ある子供たちをすくすくと伸ばしてやるということは、国の責任だと私は思います。しかしそのことは、教育内容に忠誠を持ち込んだり、あるいは孝行という倫理道徳の問題を法律の中に持ってくるようなことでは決してないというふうに考えております。ゼネラル・ウイルとリアル・ウイルの問題は、ここで私が申し述べるまでもなく、皆さんのこの国会というところで、その問題が最もきびしい現実の問題として取り上げらるべきものだと考えます。
第二の点は、日本的民主主義ということについての御意見だったと思うのですけれども、この点に関しましては、私が先ほど蛇足として加えさしていただきましたように、明治初年のあの学制改革が、いわゆる日本的考え方によって、儒教教育に国粋派によってくつがえされたというあの歴史を思い起すならば、日本的民主主義というものがいかなる意味を持っておるものかということと関連して、大へんな問題であろうというふうに私は考えます。
第三の外国にあるかどうかという点の御質問でございますが、教育を専門として、学問としてやっておらない私にはお答えすることができないのは残念でございますが、少くとも民主的な国家においては、この新しく企図されているところの法案のような委員会というものはあり得ないのではないかというふうに私は了解いたします。
第四の点は、全国の新聞で今回の法案に対していかなる見解をとっておるかという御質問のようでございますが、私は、全国の新聞をこまかく調べたことはございませんけれども、新しい政府案に賛意を表した新聞は、私の見る限りでは一つもお目にかかっていないということを申し上げます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/10
-
011・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 関連して、野原覺君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/11
-
012・野原覺
○野原委員 伊藤さんの非常に論旨明確な公述に対しまして私は傾聴いたしておったのでございますが、時間もございませんので簡単に関連をいたしましてお尋ねを申し上げたいと思うのであります。
第一点は、私ども、このたびの改正法案が出されましてからいろいろな角度から総括的な質疑を今日まで続けて参ったのでありますが、その際における私どもの質問をいたしました立場というものは、先ほど伊藤さんが述べられましたように、教育はあくまでも国民のものでなければならない、国民のためのものでなければならない、そういう点からいってどうしても公選制が正しいのではないかということであったのであります。これに対して、そこにいらっしゃる清瀬文相の私どもに対する答弁は、教育が国民のものであり、国民のためのものであるということは同感です、国民のもの、国民のための教育であることは任命制でも何ら差しつかえない、こういうことでございました。そこで、これは先ほどの自由民主党の山本委員の質問とも関連をいたしますが、市町村長、都道府県知事というものは、なるほど公選されたものであり、都道府県の議会、市町村議会というものも、地方住民の公選によって成立をする議会であります。しかしながら、考えてみますと、知事なり市町村長というものは、地方住民といたしましては、必ずしも子供の教育を託する人としては選んでいない、ここにやはり問題があるのではないかと思う。しかも首長というものは、選挙の方法においては、政党を背景として選ばれてくるわけでありまして、純粋に私どもの子供を託する人という観念では決して選ばれていないのであります。私は、こういう点に問題があると思う。従って、国民のもの、国民のための教育であるためには、こういうような首長や議会のもとにおっては、どうしても純粋に子供の教育を託する人を選ぶ、そういう人であるところの教育委員あるいは教育委員会でなければならぬ、このように考えておるのでございますが、これに対する伊藤さんのもう少し突っ込んだ御所見を承わりたいのであります。
第二点は、教育委員会制度には御承知のように存置論がございます。現状維持存置論があります。まっこうから反対をするのは、今日も大会を開いているようでございまするが、市町村長が今日まで主張して参りました廃止論があるわけであります。そこで、自由民主党はこの存置論と廃止論の板ばさみになり、存置論プラス廃止論、それを二で割って出てきた答えが、形式だけは教育委員会というものができまして、中身はすっかり違ったとんでもない方向にきている。そのとんでもない方向にいまだに目がさめないようでございまして、実は私どもがく然といたしておるのでございますが、このことはさておきまして、私の尋ねたい点は、今日の教育では、単なる人間を作る教育であって、国に対する忠誠の義務ということはなされていないという文部大臣のたび重なる御答弁についてですが、果して今日の教育においては国に対する忠誠の義務ということを考えていないのかどうか。これは非常に重要でもございますから、単なる人間を作るところの教育だけでしかないのかどうかという問題、これに対する伊藤さんの御見解を承わりたいと思うのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/12
-
013・伊藤昇
○伊藤公述人 第一の地方自治体の首長の考え方の問題でございますが、これは、ただいまの野原さんの御意見の通りに、今日の状態においては、府県知事、市町村長を選ぶときに、教育のことが少くとも大きな部分としては考えられていない選挙で行われているということです。しかも御指摘のように、政党政治のもとにあって、地方自治体の首長が政党を背景として選ばれているというのが現実の姿だと思います。そういう姿で選ばれた人たちが教育のことに直接発言をする、あるいは今度のような、今までとは全く違った姿の教育委員会を通じて教育のことに発言をするというようなことは、かつて政党なりあるいは政府そのものが、あるいは国家そのものが、教育の場に入り込み過ぎて非常なあやまちを犯してきた、そうして私たち自身の教育がワクにはめられた教育をされてきたという点において、私たちはその点を最も心配しますがゆえに、私は、教育委員会というものは、やはり国民の直接選挙によって、教育権の独立とまでは申しませんけれども、教育の自主性、中立性、民主性というものが保たれなければならないという立場をとるものでございます。
第二の点ですが、今回の法案でできる教育委員会は、先ほども私が申し上げましたように、教育委員会という名前をつけるから非常にあいまいになるのでありまして、学務委員会とかはっきりした別の名前をとられると、国民も判断するのにもっと明確な判断が得られると思うのであります。それに関係いたしまして文部大臣の言われる中性というようなことに関する御質問でございますが、私は文部大臣から直接そういうお言葉を聞いたこともございません。ただ去る四日の参議院の合同審議会において、参考人の意見の中にしばしばそのことが盛られております。これは先ほど私が触れました清瀬文部大臣並びに政府が考えておられるところの、内閣に置く臨時教育制度審議会というところで、教育基本法にこういったような倫理的な道徳の徳目を加えるというようなお考えがあるように聞いておるのでありますが、先ほど意見を述べさせていただきましたように、教育基本法といったような法律の中に、こういう倫理徳目というものを加えるべきものでは絶対ないというふうな考え方をとるものでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/13
-
014・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 米田吉盛君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/14
-
015・米田吉盛
○米田委員 二点ほど伺いたいと思います。
今度の法案では、今までのような教育委員会の目的という第一条がだいぶ変っている。これはおそらく不当支配を腹に持ってのことだろうというような——まあお考えがそこまであったかどうか知りませんが、言葉だけはそう聞えたのです。これは私はこう考えている。今教育委員会法に明確に不当な支配に服さないとか、どこに責任を持たなければならぬとかということが載っております。それから今お引き合いに出されました徳目をあるいは加えるかもしれぬという人も、これはたくさんの中にございます。これらの点については私は必ずしも基本的に賛成じゃありません。そういうような改正がありましてもそういう「不当な支配に服する」云々の条項を削るというようなことは考えてもおらず、だれも言っておりません。これは常識上こんなものがなくなるなんということはわれわれは考えない。そこで委員会法にあるから事新しく——大体今の条文は冗長ですから、そういう点を立法の技術として変えていくということは言わずもがな、当然のことだと私は理解してこの法案に賛成している。それでいかないかどうかお尋ねをしたい。
それから最もあなたが力説をせられました点の、国家権力が教育の内容に入ることは絶対にいけない、私もその点は同感なんです。しかし私らが改正の原案に賛意を表しつつあるのは、あなたの御指摘になりましたような貧困者が機会均等を得られないとか、僻地が大へん水準が落ちているから、これの諸条件を整備して水準を引き上げなければならぬとかいうような点などに国の責任がある、これらも御指摘の通りだと思いますが、私はそれだけでは足らぬのではないかと思う。たとえば今度の改正案にあるのですが、ちょっと見ると内容に入るかのようなおそれはないとは言えないと思う。教育課程であるとか、職業指導の問題であるとか、そういうような事柄には指導助言をするという規定ができましたから、そういう面を悪く解釈していけば、だんだん中身に入ってくるという御解釈の材料にもなると思うのであります。しかしまた一面からいいますと、地方の教育委員会に全くまかせ切りで、そうしてその教育委員会が、われわれの理想とするところは教育本来の使命を達成するようにやって下さることを願うのです。あなたもこの点は御同意願えると思うが、すべての教育委員が理想的にやっているとは言えないのです。そこでその地方にほんとうに特有のことばかりに力を入れて、職業教育であるとかいろいろなことをやる、そういうような場合でも、教育基本法にも国民を育成するという点もございますから、そういう国民の教育という立場から考えて、国民共通の分野からこうしたらどうだろうか、これは命令じゃありませんよ。指導助言ですから……。過去の行政の場合と今度の何は全く違うことはあなたも御承知の通りで、こうしたらどうだろうかということを、国家全体をにらんでおる大臣あたりから、そういう程度のことをも拒まなければ教育の本来の使命を守れないというほど、一体教育委員会の諸公がぐらついているかということですね。地方から来たって、今あなたのおっしゃるように悪いと思ったらそう簡単に聞かないですよ。現に今日日教組が、この法案をぶっつぶすために、二十七日を期して、早く授業をやめちまって、一斉に共同声明をやっておるような労組と一緒になって、どこの町では何万人集めて反対闘争をやれ、どこの市では何千人集めてやれという人数まで実は日教組から指令で出ておるそうで、私はびっくりした。この点は私はだいぶ行き過ぎておると思う。教員の組合として、ことに教員が職場を何時間も放棄するということ、これはこの法案のいい悪いは別としまして、あなたは御同意になるまいと思う。地方の先生あたりでもそういう状態なんですから、ましてや教育委員が、文部省からいってきたからといって、おそれられるように、昔の天皇陛下の言葉だというような格好で、盲従これ努めるとは私は思わない。(「公選だからおそれない、任命だからこそおそれる」と呼ぶ者あり)任命だからこそ私はなおさらおそれないので、この点は逆なんです。いろいろな都合で選挙の上手な者が当選したということはあります。時流に投じたということはありますが、それは任命だから、おれはお前らから任命されるほどのしっかりした人間なんだという自信が出てくる。これは見解の相違です。そこでそういうようなわけで、地方が特有なことをやった場合でも、若干の指導助言という程度のことも教育という国民共通の立場の責任をになっておる大臣が、一言半句も言えないということは、これは少しあつものにこりてなますを吹くきらいがあるのじゃないか。一体そういう考え方が賢明であるかどうか、こういう点ですね。それから今の政府でいろいろなおそれられるようなことをやろうと思ったって、第一あなた方のような有力な新聞もありますし、それから今は主権在民ですから、昔のようなことをやろうと思ったってそれはできやしないのです。これは絶対にできない。だからこの点はそういうことを考えたら、一歩も外を出て歩けないということになってしまう。自動車にひかれるか、どういうような暴力がきてやられるかわからぬということになって、今は昔と違って警察力も弱くなっておりますから、非常にこわくなって歩けないということに、そういう議論からいけばなりはしないかと思う。どうも神経衰弱ぎみじゃないかというようなきらいを持っておるのです。これが第一点。
それから直接選挙がいいということは、これは論がないと思うのです。論がないが、その論のない原則を機械的に日本でやらないで、今度地方の首長にそういう権限を与えた、この点ですね。これは民主主義民主主義といってやかましく、これがなくなったら民主主義がなくなったんだというように思わすような言い方をする人がありますけれども、これは私は大言壮語型だと思うのです。これは民主主義の教育をやるんで、そういう政治的中立性を守ってやるんだが、その方法のどちらが日本の国情に合うかという、方法論だけなんです。この程度のことを変えたからといって、何も民主主義が死ぬようなことはありません。原則と多少違うことをやるが、これは応用の範囲だと私らは考えております。そこでもし百歩を譲って、そういうことがいけないんだということになりますと、今日の国立大学の学長ですね、あれは文部大臣の任免になっております。真理探求の殿堂であるその学長を大臣が任免するなんということこそ、いち早くこれは反対しなくちゃならぬことじゃないか。公選論を支持する議論からいけば、おそらく大学の先生なんかも、少くもそこに入学した学生が公選した先生をきめるというところけでいくべきじゃないか。そこまではどうもあまりいかない。ことに学長なんかは、文部大臣の任免けしからぬ、こうこなくては一致しないんですね。私は理想と現実との調和点がそこにきているんだと理解するのです。その程度に——今度の地方の首長も、今は教育委員会の任免権がないと思って、実はわれわれ投票しました。しかし今度の選挙がくれば、この人は教育委員を任免する権限がふえたんだ、こういう観念のもとに、ふさわしい、あなたのような人を投票するとかいうふうに、われわれは考えるわけです。だからそうなって、そういう権限を予見した上の投票なら——町村長がほんとうに教育だけがわからぬということでなくて、その程度の予見ができれば、私は日本の今の段階では、この程度でそう無理しなくてもいいんじゃないか、こういう考えですが、どうしてもやっぱり公選でなければ性格的にまずいという最後までの御主張だろうか。おそらくそうだろうと思いますが、一応伺いたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/15
-
016・伊藤昇
○伊藤公述人 ただいまの御質問のうちで教育委員会制度に関する点だけお答えいたしておきます。
まず、私が先ほど申し述べました現行の教育委員会法の第一条の目的がなくなったということは不当な支配をするためのものではないか、そのようにお聞きになったとの御意見でありましたが、私もそのようにお話ししたのであります。もしこのことに何ら触れるという御意思がないのならば、今回の御立法に際して、これを第一条になぜお取り入れにならなかったか、この点が理解できないわけであります。もちろん教育基本法の第十条にあることは私も存じております。しかしながら、今回内閣に置かれると予定されるところの臨時教育制度審議会においては、教育基本法に関しての検討を加えるということが、大臣の法案の提案理由の御説明の中にあったと思うのでありますが、その中で、第十条については検討を加えないというお言葉はなかったわけであります。そう考えますならば、まず教育委員会法の第一条に省いておいて、そうしてあれにもないのだからというようなことがこないとも限らない、こういう心配をわれわれ国民が持っておるということは、きょう一番初めに申し述べさしていただきましたように、はっきり申し上げますならば、残念なことではありますけれども、政府の名前、国家の名前でだまされたという国民の感情が、いまだ政治を全面的に信頼するというところにきていない、これが私たちの考える点でございます。従ってそういう角度から非常に心配をしておる——あるいはノイローゼとか神経衰弱というお言葉も承わったのでありますがそういう気持である国民の考え方を御了解願いたいと存じます。
それから、ただいまの御質問の方のお言葉の中にも、しばしば内容に入るおそれのあるようなこととか、あるいは悪く解釈すればといようなお言葉があったのでありますが、いかように解釈しても悪くならないようなことが私は法律に望ましいのであります。そのときの人、そのときの大臣——私は先ほど、かつて軍部の陸軍大将が大臣になったということを一例にあげたのでありまして、ただいま皆さんがそういう大臣をいただくはずはないじゃないかと言われれば、全くその通りでありまして、この法案ができて直ちにいかなる事態が起るかということよりも、そういうおそれのあるような法律はお作りにならない方がいいではないか、これが私の立場でございます。
それから直接選挙の問題——日教組の問題もございましたが、これは直接本日の教育委員会制度に関係しないと思いますので、御答弁は略さしていただきますが、最後に直接選挙について、私もおそらく公選を主張するのであろうがという御指摘でございましたが、その通りでございまして、何と申しましても今度の法律ができた際には、自由党の一部の方たちがせっかく、日本に民主主義を育てるためにこの制度が必要なんだと力説されて、二十七年に強制的に全国の市町村にわたって地方教育委員会を設置された。そのときは私たちは、くどいようではありますが、前日までは一年延期案を主張しておりましたが、法律がある以上はこれを守り、その法律の精神に従うように啓発宣伝といった意味の、すなわち地教委を守れ、そのためによい選挙をせよというふうに論陣をはったのであります。政治の都合によって、その私たちの論陣も急転回をせざるを得なかった。法律がある以上はこれを守れといったような方向が望ましいのでありまして、もし今回の法律案が通りますならば、一番心配するものは、せっかくそうやって伸ばしてきた地教委の力によって、教育は自分たちのものである、教育委員が悪ければ自分たちの選挙でかえればいいんだ、地方住民が教育というものを非常に身近に考えてきた、その教育がまた国民の手から、ちょうど糸の切れた風船のようにどこかへ飛んでいってしまうということを最も心配する立場から、私は公選制を絶対に主張するものでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/16
-
017・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 これにて伊藤公述人の公述及びこれに対する質疑は終りました。
伊藤公述人には、言論界の立場より両法案についての貴重なる御意見をお述べ下さいまして、ありがとうございました。
次に田中公述人より公述を承わるわけでありますが、この際ごあいさつ申し上げます。
田中公述人には、御多用中にもかかわらず御出席いただきまして、厚く御礼を申し上げます。何とぞ専門的な立場から忌憚のない御意見を御開陳下さるようお願いいたします。なお公述その他につきましては、お手元に差し上げてあります注意書の要領でお願いいたします。
それでは田中公述人の御意見の御開陳をお願いいたします。田中公述人。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/17
-
018・田中二郎
○田中公述人 ただいま御紹介いただきました東京大学の田中でございます。今回の法案の内容についてお話し申し上げます前に、一般的に法律の改正とか、制度の改革についての考え方に関しまして、私の考えておりますところを申し上げることにしたいと思います。
法律にはいろいろ欠陥のあることもございます。その法律に基いてできました制度にいろいろ弊害の伴う場合がございます。そういう法律の欠点を改め、制度に弊害の生じないように対策を講ずることは、理論上には当然の要請といえるかと思います。ただその際その法律をどう改め、制度の欠陥を除くためにどういう対策をとるかという問題が重要な問題であることは申すまでもありませんが、それをどういう時期にどういう手順で改めていくかという問題は、その改正の内容にも劣らず重要な問題であろうと思うのであります。もしその時期を誤まり、また手順を誤まることになりますと、せっかく改正によってねらっておりますそのねらいを達せることができないのみか、かえって大きな欠陥を暴露し、弊害を生ぜしめるということも少くないように思います。教育委員会制度が創設されました当時から直接間接この問題に関連して参りました私といたしまして、本来教育委員会法のねらったところには間違いはなかった。それは過去の日本の教育行政の制度を根本的に改めるという見地からいって、きわめて重大なそして意義のある方向を目ざしているものと考えて参りました。ところが実際にこれを運用して参りますと、そこには予期しなかった、あるいは立案に当って考え方が甘かったためかもしれませんが、予期以外のいろいろの問題が生じて参りました。そしてそれらの問題に対処せるために、これまでしばしば教育委員会制度の改革問題が取り上げられて参りました。今回はそれを具体化し、法律の改正を断行しようとされているわけでありますが、先ほど申し上げましたようにその時期並びに手順が果して妥当であるかどうかという問題を改革案の内容そのものとともにあわせて考えてみる必要があるのではないか、こう考えるのであります。教育委員会制度がねらっておりますポイントは、根本において正しいものを持っている。現行の教育委員会法に「この法律は、教育が不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきであるという自覚のもとに、公正な民意により、地方の実情に即した教育行政を行うために、教育委員会を設け、教育本来の目的を達成することを目的とする。」とうたっております。その根本の趣旨は、これまでの根本の方針として正しかったのみならず、今後においても堅持されてしかるべき基本的な方向であろうと思うのであります。確かに連合国の占領管理のもとに、その主張に基いてできたという経過は一般に承認されるところではありますが、しかしその根本のねらいの正しさ、合理性というものは国民一般の認めるところとして、これを尊重していかなければならないと思うのであります。
この教育委員会法の根本のねらいとしておりますところは、第一には、教育行政の地方分権ということであり、第二には、教育行政の民主化ということであり、第三には、教育行政の政治的中立性の確保という点であろうかと思います。この根本の趣旨は今後においても維持すべきものと思います。ただこれまでの教育委員会制度を実際に反省して参りますと、最初教育委員会法が制定されます際に考えられていなかったいろいろの問題点が出て参りまして、その設置単位がどうかという問題とか、その委員の公選制がどうかという問題とか、教育委員会の権限、特に二重予算権を与えることがどうかという問題とか、いろいろの問題について論議の対象とならざるを得なかったのであります。これまでの委員会でたびたびこれらの問題が検討されました。その多くの委員会に関係いたしまして、従来の教育委員会制度の持っていた欠陥は、若干考え、反省し、これを是正していく方法いかんという点について考えてみたわけであります。しかし、たとえば教育委員会制度協議会におきましても、多くの問題についてまだ終局的な結論を見出すことができないような状態でありまして、政令諮問委員会とか地方制度調査委員会、地方制度調査会などにおきましては一応の結論は出してはおりますけれども、これをいつどういう形でどういう手順を経て実施すべきかという点については、まだ十分に慎重に検討済みであるということはできない状態であるわけであります。たとえば公選制の問題につきましても、多くの意見がこれを任命制に改むべしということを述べております。それは後にも申し上げますように、公選制が本来ねらっていたような教育委員として最もふさわしい人を選出する道では必ずしもないということが、実際の経験の上に現われて参りまして、そしてむしろ長が議会の同意を得て任命するという制度をとることによって、より適当な委員の任命が可能ではないかということが任命制の主張を基礎づけていたものと思います。ところがその後いろいろと事情が変って参りまして、今日の段階において、これらの主張をした人が果して任命制によって正しい人選、教育委員として最もふさわしい人を任命することが期待できるであろうかという点に、若干の疑点を抱きつつあるのではないかということを、私としてもおそれざるを得ないのであります。従って最も適当な人を選ぶ方法として、公選制が正しいか、任命制が妥当かという問題につきましても、そうした制度の行われる政治的、社会的背景を慎重に検討した上で問題を解決していかなければならないのではないか、こういうことを考える次第であります。
第二に、具体的に法律案に入って、私の疑問といたしますところを順次申し述べさせていただきたいと思います。
まず第一に、教育委員会の性格をどう考えるかという問題がございます。現在の教育委員会法におきましては、教育委員会は地方公共団体の自主的な機関である、これを構成する委員はいわばしろうと——レーマンであり、教育のレーマン・コントロールを確立するということが根本のねらいであったと思います。従って教育の専門家はむしろこれを排して、教育長にこれを求め、レーマンのもとに専門家としての教育長がこの実際の執行の面を担当していく、こういうのが根本の趣旨であったかと思います。ところが現実の教育委員会制度におきましては、教育委員会が必ずしもレーマンをもって構成されるということでもなく、また教育長が真の教育の専門家をもって当てられるということにもなっていなかったのであります。現に過去の教育の経験者が多数教育委員会に入り、逆に助役が教育長を兼ねるということが、制度の建前としても承認されているという状態にあります。ここに過去の教育委員会制度創設当時のねらいが、ある程度ゆがめられてきているということを承認せざるを得ないのであります。
ところで今度の改正案におきましては、この地方団体の自主的な機関としての教育委員会という制度を設けようという考え方が、若干くずれてきております。それは第四条に示されておりますように、委員は、長の被選挙権を有する者のうちから、地方公共団体の長が議会の同意を得て任命するということになっております。必ずしもこの地方公共団体内の住民に限らない、地方から適当な人を持ってきてこれに充てるということができる、こういう余地を残しているわけであります。このことは、教育委員会が本来のレーマン・コントロールの結果として設けられたというその趣旨を修正するものとも言えるかと思います。もし地方公共団体の住民の中から選ぶということになれば、適当な人が得られないかもしれないということを考慮したためではありましょうが、何かここに教育の専門家を持ってこようという気持があるのではないか。そういう意味での教育委員会制度が果して妥当かどうかという点に、若干の疑問を持っておるわけであります。また、レーマン・コントロールの考え方が、今度の法案においてはくずれてきております。それは十六条の三項に示されておりますように、市町村の教育委員会におきましては、その委員のうちから、都道府県教育委員会の承認を得て、教育長を任命するということになっております。これは教育委員が教育の専門家としての教育長の役割をあわせ行うということを建前として認めたものでありまして、現在の教育委員会制度の考え方とは、著しく異なったものになっているということができると思います。そしてそういう改正がなぜ今後の教育委員会制度のあり方としてなされなければならないかという点については、あまり十分の説明がなされておりませんし、私どもといたしましては十分に納得することができない点なのであります。教育委員会はやはりレーマン・コントロールの機関として教育、学術、文化について見識の高いそして人格高潔な人の中から選ぶ、それは地方公共団体の住民の中からこれを求めるというのが本来の行き方であり、またそれを専門的な立場から助ける教育長というのは、やはり教育行政についての見識のある人、そういう経験を尊重し、正しい理解のもとに正しい教育が行われるようにというふうに考えていくのが本来の教育委員会のあり方ではないか、こう考えております。
第二の問題といたしまして、教育委員会の委員の公選制を廃止して、任命制を採用したという点でございます。この点については先ほど来いろいろ御意見が出ておりましたが、私はどういう制度をとることが教育委員会の委員として最も適当な人を選ぶ道であるかという見地から、この問題を考えていきたいと思います。そしてその見地から、これまでしばしば委員の任命制と申しましても、民主的な見地から長が議会の同意を得て任命するという制度が今後の教育委員会のあり方として妥当ではないかということを申して参りました。政令諮問委員会におきましてもそういう意見を述べましたし、また教育委員会制度協議会におきましてもそういう立場から意見を述べた一人でございます。それは教育委員会制度を初めて設けます際に、先ほど来お話にもありましたが、自分のむすこの教育、自分の娘の教育を託する教育委員会の委員の選挙であってみれば、ほかの選挙にも増して一般人が深い関心を寄せ、教育委員会の委員として最もふさわしい人を選出するに違いない、またそれが実際においても可能であろう、こういうふうに考えたと思うのであります。私もその当時若干文部省に関係がありまして、そういう非常に甘い見通しをしていた一人であります。ところが実際に選挙の制度をやってみますと、これはまだ経験も浅いことでもありますので、直ちにそれをもって批判することは必ずしも妥当とは言えないのでありますが、所期した目的は十分には達成されなかったのであります。それは教育委員会委員の選挙への一般住民の関心、投票率の中に端的に表われております。従って、そうして選ばれてくる人がある一部の人々の意向によって出てくる可能性が多いという結果が出て参りました。また同時に選挙ということになりますと、特に大きな区域における選挙を行うということになりますと、選挙の常として金をかけなければならない、また選挙運動というものの困難な問題も考えなければならない、教育委員としてこの人ならという人が、みずから進んで出馬するということに多くの期待をかけることができないというのが過去の実情であったと思います。具体的に個人のお名前をあげてはなはだ失礼ではありますが、たとえば神奈川県あたりで任命制をとり、また知事が議会の同意を得てこれを現実に任命するという場合においても、教育委員会制度の重要制を考えると長谷川如是閑さんとか前田多門さんとか関口泰さんというような教育の面において見識の高い、また一般についても非常に理解の深い人格の高潔な方々がこういう機会に登場されることが期待できるのじゃないか。しかしいざ選挙ということになりますと、そういう方々はすべてしり込みして、絶対にこの委員の選挙に立候補をされることは期待できない。こういうことを考えてみますと、むしろ任命制を採用することによって、より適当な人を選び出すことが可能になるのではないか。もちろん現在の公選制によって、りっぱな方がたくさん出てはおられます。しかし、より広く人材を求めて適当な人を求めることができるのではないか、こういうことを考えましてこれまで任命制に賛意を表して参りました。しかしその際には、教育委員会というものの性質にかんがみて、長が議会の同意を得て任命をする際にも、それに最もふさわしい人を探し求めて、だれもが納得する人に教育委員になってもらうようにするであろうということの予想が前提になっております。そういう意味で、これはある程度の良識と聰明さとを前提として、その任命制を主張して参ったのであります。ところが最近の実際の動きからいたしますと、果してそれが期待できるであろうかという点に、多くの人がいろいろと危惧の念を抱かれるのではないか、(「あなたはどうです」と呼ぶ者あり)私もその一人として若干の危惧を抱かざるを得ないのであります。公職選挙の落選者に一つのポストを与えるために、それが利用されるというようなことになりかねないということを考えますと、こういった制度が実行に移されるに当っては、十分にその下準備が必要であり、一般の認識がそこに向くように準備が整えられなければならないのではないか、こういうように私は考えるのであります。
次に第三の点といたしまして、教育長の任命の問題でございます。都道府県の教育委員会の教育長は、文部大臣の承認を得なければならないということになっております。市町村の教育長につきましては、都道府県教育委員会の承認を要するということになっておりますが、教育長が今後の教育行政の上に非常に重大な地位を占めておりますことは、十七条の規定を見てもきわめて明瞭であるわけであります。この教育長の任命になぜ文部大臣の承認が必要であるのか、また市町村の教育長の任命に都道府県教育委員会の承認が必要であるのか。時間もありませんので、詳しく申し上げますことは省略いたしますが、私には十分に了解がいきかねるのであります。これは後に申します教育についての最終の責任を文部大臣が負うべきだという従来からの一貫した考え方、ことに最近において強く主張されております考え方、教育長を通して文部大臣が地方の教育について広く関与していこうという考え方の現われではないか。これは教育委員会の管理のもとに教育行政を担当するということで十分であって、その意味での教育長の任命に文部大臣の承認というものは必要ではないのではないか、地方の教育委員会の自主性を尊重するということが妥当ではないか、こう考えております。
第四の点といたしましては、教育委員会の権限の問題がございます。中でも二重予算権と申しますか、予算原案送付権というものが廃止されております点が注目される点かと思います。また地方公共団体の長の権限との間の調整問題が一つの問題かと思います。この点はいろいろ御議論もあるのでありますが、私は地方公共団体の行政が総合的な見地から行われなければならないということを年来主張して参りました。そしてその総合行政の中で教育行政あるいは教育関係の予算というものが重要性を持つことは今日否定することはできない。都道府県知事にいたしましても、市町村長にいたしましても、その権限の中で何といっても最も重要な問題として教育関係の費用を確保し、地方行政における教育の充実発展をはかるということにあることは、否定することのできない点だと思います。しかし広く都道府県の行政とか、市町村の行政という見地から考えますと、教育関係だけについて教育委員会が予算権を持ち、そのために長の総合行政を行う上にいろいろと摩擦を生ずる。実際的にはある程度に教育予算を確保する道ではありましょうが、そのために無用の摩擦を生ずるということになることは、地方自治全体の発展ということからいって、私は必ずしも妥当な措置とは言えないと思います。今日、改正法律案の中に現われております程度の調整措置が講ぜられますならば、総合行政を行う上からいって、またその中での教育予算を確保する上からいって、大体所期の目的を果すことができるのではないか、こう考えます。ただ現在、都道府県でも市町村でもこの財政の中で教育費というものが重要な役割を占めているということ、今後においてもそれがいよいよ重要性を持たなければいけないということは、長の立場からして十分に認識されているはずであります。それを無視して地方住民の支持を受けることはむずかしい、決してそれを無視することができないと考えるのであります。その意味で、そんなにこの点についての心配がなされる必要はないのではないかと考えております。
第五に、文部大臣の権限が法律案全体を通して非常に強化されてきているという点が、一つの問題として取り上げられなければならない点と思います。確かに先ほどお話もありましたように、規定の上から見ますと、指導、助言、援助というような非権力的な関与の方法が認められているということになりましよう。しかしほんとうに民主主義の地盤が確立され、地方の委員会がほんとうに自覚をもって自主的に行動するような基礎が確立いたしました場合には、これらの点も格別弊害を伴うことはなかろうかと思います。しかし現在の地方教育行政の実態からいたしますと、まだその基礎が十分ではない。従って、どうかすると、こういう規定が根拠になって、一つ一つ文部省に伺いを立てて行政をやっていくというふうになる、またそういうふうにしむける可能性が多分にあるように思います。もっともっと地方自治の基礎が確立されるということが、こういった条項を実際にやっていきます場合にも一つの前提条件になろうかと思います。
さらに五十二条に文部大臣の一定の行政措置の要求に関する規定がございます。こういう点につきましても、私は前々から、もし真に地方自治全体について、教育行政の面も含めて地方団体が国の法律を無視し、独善的な行政を行う場合の是正方法は、最後の手段として設ける必要がある、それによって初めて最終的な教育についての国の責任を全うすることができるということを言ってきた一人であります。しかし現在認められておりますこの文部大臣の措置要求というのが、かなり広範にわたり、また地方の法令違反の範囲を越えて地方教育行政に中央の圧力を加える手段として利用されやすいような法的な根拠を整えているのではないか、こういう意味におきまして、私は若干行き過ぎのきらいがあるように思うのであります。のみならず、この法律全体にわたって随所に現われております規定を総合してみますと、何か教育についてはすべて文部大臣あるいは文部省が責任を負うというような体制に入りつつあるのではないか、そういう心配を一般に与えているわけでありますが、そういう感じは私も同様に持たざるを得ないのであります。従ってかりにこういう趣旨の規定を設けるといたしましても、立法的にはもっともっと厳密な限定的な規定を設けなければ将来に対する不安を除くことができないだろうと思います。そのほか、細目にわたりましていろいろの点が問題になるかと思いますが、たとえば指定都市の特例に関しましても地方自治法の改正とからみ合ってどう扱っていくか、やはり歩調を合せて考えるべき問題であろうと思います。時間も経過いたしましたので、それらの細目の点については省略いたします。
最後に結論といたしまして、改正案の中には、理論的に考えまして現在の欠陥に対する対策を盛ったり、従って十分にうなずくことのできる方向を目ざしたものが少くないということを考えます。しかしこれを実施していくに当りましては、理論一点ばりで、そうして新しく考えられた改正案が果してうまく行く見通しがつくかどうかということの十分の調査検討を終ることなしに、早急にこういう法案を実施の段階に持っていくということについてはいろいろと疑義が抱かれるのであります。この法律案の成立については中央教育審議会の諮問も十分に経ておられないようでありますし、いろいろの方面における意見が十分にこの中に反映しているとはいえないように思います。最初に申し上げましたように、いかに法案が理論的に妥当な方向を持っているといたしましても、それをその本来の姿に即して実施するだけの政治的、社会的な背景が整わない場合においては、かえってそれが悪用され乱用され、より大きな弊害を生む可能性さえないとはしないのであります。今日非常に意見が多いのもそういった心配が先に立っての意見であろうと思うのであります。そういう意味におきましてこの法案の中には私どもの考えて参りました線が若干現われてはおりますが、同時にそれが行き過ぎになっている面も少くはない。今日非常に異論の多いところでありますだけに、なお慎重に検討されまして、その上であらためてこれが提案されることを私としては希望する次第でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/18
-
019・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 以上をもちまして田中公述人の公述は終りましたので、これに対する質疑に入ります。質疑の通告がありますのでこれを許します。野原覺君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/19
-
020・野原覺
○野原委員 田中先生に二、三お尋ねをいたしたいと思うのであります。ただいま田中先生の公述を承わりましていろいろ教えられるところが多かったのでございますが、その中でまず私がここではっきり田中先生の御見解として承わりたい第一点は、田中先生のただいまのお言葉によりますと、教育委員会法の目標というものは根本において正しい、つまり御承知の教育基本法第十条ないしは現行教育委員会法の第一条に規定されているところの目標は、根本において正しいのであるということであります。すなわち地方分権あるいは民主化あるいは教育の政治的中立性の確保ということはこれは何としても考えていかなければならぬというお説のように承わったのであります。そこでお伺いいたしたいのは、このたびの改正案の本質的な内容、つまりいろいろ技術的にあるいは法律技術的には相当問題のある個所もございましょう。部分的には先生御指摘のような個所も少くなかろうかと思うのでございますが、教育の民主化とか教育の地方分権化とかあるいは教育の政治的中立性の確保というような基本的なものをこのたびの改正案は守っておるかどうか、これを侵害しておる個所があるのではないか、この点についてお伺いしたいのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/20
-
021・田中二郎
○田中公述人 ただいまのお尋ねでございますが、先ほど申し上げましたように、教育委員会法の根本のねらいとするところは、第一には教育行政の地方分権化という点にあろうかと思います。その点につきましては、先ほど申し上げましたように、文部大臣をトップとして各教育委員会が段階的に構成されている新しい改正法案の建前は、本来の地方分権化の趣旨に反する面が多々あるように思います。しかし最終的に教育行政についての責任を負うべき道を確保するということが不必要とは言えない、そういう見地から、若干の規定の整備が必要だと思いますが、今回の法律案におきましては、それが行き過ぎになっているのではないかというのが私の考える点でございます。
第二のねらいといたしまして、教育行政の民主化という点があります。これは委員の公選制の中に端的に現われているわけでありますが、この公選制というものが絶対唯一の民主性を保障する道であるかと申しますと、必ずしもそうは言えないのではないか、やはり委員として最もふさわしい人を民主的に選ぶ方法というものが考えられてしかるべきで、そういう方法は必ずしも公選によるほかはないというわけではなく、長が議会の同意を得て選ぶというのも一つの道ではないかと思うのであります。従来の行き方と若干行き方を異にしたわけでありますが、この点が直ちに教育委員会法のねらいと根本的に対立する考え方だというふうには言えないように思います。
第三の問題といたしまして、教育行政の政治的中立性の確保という点を申し上げたのでありますが、この点につきましては、今度の法律案で、多分に政治勢力あるいは政党勢力が教育行政の上に介入してくる余地が生まれてくるのではないか。これは任命制の問題ともからみ合って出て参りますが、運用のいかんによっては、こういった面に多分に影響するところが出てくるのではないか、こう心配せざるを得ないのであります。私は任命制によったからといって、直ちにそれが政治的中立性を侵すものだとは考えないのでありますが、現在の政治的、社会的背景のもとにおける近い将来の運営を考えてみますと、そういう点について若干の懸念を抱かざるを得ないと思うのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/21
-
022・野原覺
○野原委員 先生の御意見の地方分権、政治的中立性の確保は、失礼なことを申し上げますが、全く私も同感でございます。しかしこの任命制の問題につきましては、私は先生の御意見もよくわかります。より広い人材を求めるという点からは考えなければならない、こういうこともわかるのでございます。しかしこれは先生が公述されましたように、この結論を得るためには、その議会あるいは首長の良識、聰明ということが前提になってくる、やはりそこに問題があるように思うのであります。しかもこの首長というものは、先ほど伊藤さんの公述でもございましたが、どうしても政党所属の者が多いのでございます。地方議会は一つの政党色をどうしても持ってくるのであります。従ってその首長なり地方議会というものが任命し、あるいはこれを承認するという場合には、どうしても教育委員というものが一つの政党色を反映するおそれが出てくる、こういう点に私どもは疑惑を持つのでございますが、この私どもの疑惑は全く持つ必要はないというお考えでございましょうか、お尋ねいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/22
-
023・田中二郎
○田中公述人 ただいまの御質疑につきましては、私も若干同じような危惧を抱きます。しかしこれは今後国民全体が教育委員会のあり方について正しい認識を持ち、国民全体が監視していくという立場に立つことによって防ぐこともできるのではないか。もしそういうことが可能であるならば、現在の教育委員の公選制そのものがうまくいくようになるのではないかというお考えがあるかとも思いますが、選挙というものに伴ういろいろな複雑さが、教育委員にふさわしい人を選ぶ本来のねらいを妨げているのではないか、将来においてもそういう懸念は依然として残る、そういう意味におきまして、この点については若干の危惧はないではありませんが、長の良識と聰明さに期待し、また地方住民全体のこの点についての監視を期待しながら、委員の任命制をとるのが妥当ではないか、こういうふうに考える次第でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/23
-
024・野原覺
○野原委員 今日の日本の実情では、先生も御承知のように、首長というもの、地方議会というものはなかなか一つの良識、聰明というものを持ってくれないのであります。そういう現状のもとにおいては、いかに地方議会が住民の意思を反映したとは申しながら、一つの議会勢力によって、あるいはその首長の情実人選によって教育委員が任命されるという場合には、公正な人材を確保するということは困難だ。従ってより広い人材を求め得るという長所よりも、むしろ教育委員が政党色を反映することの方が多く出てくるおそれがあるのではなかろうか、こういう疑義のもとに私どもは公選制を主張いたしておるわけであります。しかし先生もこの点については疑義を持たれておるということでございますから、これ以上私は申し上げません。
そこであと一点お尋ねいたしたいことは、この五十二条につきまして、御承知の文部大臣の都道府県教育委員会もしくは教育長に対する、行き過ぎのあった場合の是正措置のことが書かれておるのでございますが、明らかに法令に違反しておると認める場合は私どもは是正されてしかるべきだと思います。これは私も委員会の場で大臣に申したことであります。しかしながらこれは先生も申されましたように、確かにこの条文には行き過ぎがある。教育の中央集権の骨格をなしてくる問題の条文ではないかと私ども思うのでございますが、この条文のどこをさして先生は行き過ぎがあるとお考えでありましょうか、承わりたいのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/24
-
025・田中二郎
○田中公述人 実はこの五十二条の一部に現われておりますような考え方を、地方自治法の改正に関して前に、主張したことがございます。また同じ趣旨は政令諮問委員会の答申の中にも若干頭を出しておりますが、私どもの最後の法律の趣旨を保障する手段を国が持っていることが必要だという考え方が、この規定の中に現われております。しかし先ほど来申し上げましたように、この規定は行き過ぎをしているのではないか、また場合によってはそれが乱用されるおそれがあるのではないかということを感じますのは「法令の規定に違反していると認めるとき」以外に、「著しく適正を欠き、かつ、教育の本来の目的達成を阻害しているものがあると認めるときは、」ということで、かなり広範な、実際の運用におきましては、それがどのようにでも運用されるおそれがあるような、いわゆるゲネラル・クラウゼル的な文句が採用されている点をさして申し上げたのであります。これも慎重に運用され、実際に規定が設けられましても、これがほとんど発動されることがない状態で終るという場合も考えられますけれども、かりにこういう規定が設けられるといたしますと、一部の政党勢力のうちで一つの批判が起りまして、著しく適正を欠くものだという、主張をいたしますと、それがそのまま文部大臣の措置要求という形で実行に移される、一応教育行政の自主性はその面からくずれてくるというおそれが多分にあるのではないか、この点をかりに法令の規定に違反しているというように、それが法令解釈の上で若干疑義を残すにいたしましても、かなり明確になっております場合には、その乱用の危険はないのではないか、こういうことを考える次第でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/25
-
026・野原覺
○野原委員 私どもの考えておりますことを先生から裏づけていただきまして、私はまことに喜びにたえないのであります。中央教育審議会に諮問もしないで、なおただいま準備されておる臨時教育制度審議会にもかけないで、こういう法案を出されるというその手順は、まことにもってのほかだという先生のおしかりも、十分うなずけるのでございます。私は率直に申しまして、田中先生は実は当委員会の理事会において自由民主党の諸君から申請されたのでありますが、田中先生の著書にも私は親しんでおる一人として、先生ほどの方がと実は考えて、心配もしておったのであります。ところが最も公正な御意見をお聞かせいただいたわけでありまして、私は自由民主党の諸君が申請されるほどの方がお述べになられた御意見ぐらいは、とってもって自由民主党の諸君はこれを十分翫味をして、この案に対処すべきではないか、このように考えておるのであります。
以上申し上げまして、私の質問を終ります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/26
-
027・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 赤城宗徳君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/27
-
028・赤城宗徳
○赤城委員 ただいま貴重な御意見をお聞きしたのですが、任命制の問題を教育行政の面からいろいろお聞かせ願ったのでございますけれども、地方自治の面から、地方行政の面から教育委員を公選にした方がいいのか、あるいは任命制をとった方がいいのか、こういうことについて御意見をお伺いしたいと思うのであります。
私から申し上げるのは恐縮ですが、今の地方自治体は憲法九十三条の第二項かによりまして首長主義をとっています。市町村長も直接公選であるし、市町村議会も直接公選、こういう形で分立的な立場にあるブレジデンシャル・システムのような首長主義をとっておって、議会主義をとっていません。ですから制度からいえば市町村長と市町村議会というものは対立している形であります。そこへまた教育の面から一つの合議的な執行機関として教育委員会が設けられたわけでありますが、これがまた現行法でいきますと直接公選制をとっておるところの執行機関であります。そこで地方自治体側の意見を聞きますと、いわゆる二人村長とか二人市長とか、一つは独任制のものであり、一つは合議制のものであるけれども執行機関が二つある、あるいはまた議会側から見ますと、教育委員会は執行機関であるけれども、教育の議会と一般行政の議会が二つあるような形になっておる、こういうふうに地方で言っておるのであります。そういう関係から、教育は大事であるから教育委員会は置いてもらいたい、置いてもらうのはけっこうだが、直接選挙にしないで、議会主義といいますか、議会で選任するという、内閣と国会のような形にして調和をとった方がいいのじゃないかという意見もあるのであります。今度の任命制は教育委員長の任命とかあるいは官庁で人を任命するようなのと違いまして、先ほどからも話がありますように、直接公選された首長が直接公選された議会の同意を得て任命するというのでありますから、言葉は任命だけれども考え方によっては間接選挙のような議会主義をとったようなふうにもとれるのであります。こういう形で教育行政の面からのお話は承わったのでありますが、同じく地方分権になっております現状で、一般行政と教育行政との間においてどういう制度をとって教育委員を選任した方がいいのか、こういう地方自治の面からの御意見を聞かしていただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/28
-
029・田中二郎
○田中公述人 地方自治行政の組織論という見地からいたしますと、御指摘の通り、現在の地方自治法では首長制すなわちプレジデンシャル・システムを根本の原則として採用しております。これは地方行政の民主性を確保するという見地から最も進んだ制度の一つとして、私どももこの考え方を支持していきたいと思います。と同時に、御承知の通り執行機関の面におきましては、現在の地方自治法がいわば執行機関の多元式と申しますか、各種の行政の部門についてそれぞれ委員会制度を設けて、それが長から独自の立場に立ってそれぞれの行政を執行していくということを認めております。これは広い意味での権力分立的な考え方を制度の上に表わしたもので、地方行政が漸次複雑化していきますにつれまして、国の行政の場合に準じてそういう委員会制なり委員制というものを採用いたしますことには十分の理由があろうかと思います。その際に従来の教育委員会制度はほかの行政委員会の場合と違いまして委員の公選制を採用しておりまして、その点でもほかの委員会との間の違いがあり、またそれにはそれだけの合理的な根拠もあったものと思います。しかし実際の運用において反省してみますと、先ほども申し上げましたように、この公選性が本来の趣旨を十分に達成しない、そういう点を考えてみますと、委員についても教育行政の自主性、政治的中立性というものを尊重しながら他の委員会の委員の任命と同じように議会の同意を得て任命するという制度を建前としてとることが十分に合理的な根拠を持っているのではないか、こう考えます。首長主義を徹底いたしますと、一切の執行権限をその手に集中しなければならないかのように考える向きもないではないのでありますが、私はそうは考えないのであります。今日の行政の複雑さ、多元化というものを考えてみますと、それぞれの行政内容に応じて長からある程度の独立性を持ち、自主性を持って行政をやっていく、そしてそれは直接または長を通して、間接に議会に対しまた住民に対して責任を負うという体制をとることが、地方行政を民主的にしかも公正に能率的にやっていく一つの行き方ではないか、こういうふうに考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/29
-
030・赤城宗徳
○赤城委員 そこで今の教育委員会法の第一条にもあることですが、教育は直接国民に対して責任を負わなくちゃならない、こういうことになっておりますがそのためには直接公選制でなければいけないのだ、こういう議論があります。しかし直接公選制でなくても議会主義によるものであっても直接住民にあるいは国民に責任を持つということになるかどうか、直接公選制でなければ直接国民に責任が負えないのだ、こういう形になるかどうか、その点についての御見解をお示し願いたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/30
-
031・田中二郎
○田中公述人 ただいまの御質問につきましてはそういう見地から直接公選制が最もふさわしい制度だという意見もあろうかと思います。しかし教育委員会が直接住民に対して責任を負うということは、今度の改正案のような形で任命制を採用いたしました場合にも、十分にそれは保証されていると思います。と申しますのは、もし教育委員が教育委員としてふさわしい活動をしないという場合には、直接住民からその罷免請求をする道も開かれております。そこに十分な根拠を見出すことができるんじゃないかと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/31
-
032・赤城宗徳
○赤城委員 実は私も今のお示しがありましたが、その前にお聞きしたいと思ったのですが、罷免権がこの法律にもありますので、やはり責任は多いんじゃないかという考えを持っておったのです。
そこで第二点としてお聞きしたいことですが、やはり今問題になっておりまする第五十二条の文部大臣の措置要求権であります。事務の管理及び執行が法律の規定に違反している場合には問題がありませんが、「教育の本来の目的達成を阻害しているものがあると認めるとき、」この本来の目的達成を阻害しているということは、今の教育委員会法の第一条にも、教育の目的として掲げてあるところであります。文部大臣が是正または改善のために必要な措置を講ずる場合に、この教育の本来の目的達成を阻害していると認めるということは、これは文部大臣が文部大臣だけの考えで認めるというような形になるようにとられるのであります。しかし文部大臣も、これは今政党政治でありまするし、国会から選ばれて出ておる。もしも文部大臣が是正あるいは改善の措置を勝手にやって国民の批判の前に立たされるということになれば、その政党もあるいは文部大臣自身も批判を受けるので、このことあるがために一つのファシズムにいくのだというような考え方にはならぬような気もするのでありますが、これについてはまだいろいろ研究する必要があると思いますが、これに対して御意見をお聞きしたい、こう思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/32
-
033・田中二郎
○田中公述人 ただいま仰せのように、この規定が直ちに文部大臣の権限の乱用を生ずるというふうに、私は考えるわけではございません。しかし今後この規定を初めとしまして、全体的に中央の権限が強化されておりますが、そういう全体の空気のもとに、国が教育本来の目的というものを法律とは別にここに想定いたしまして、その目的達成を阻害するという名のもとにこの法的根拠を利用して、地方公共団体の長なり教育委員会に対して、いろいろ措置要求をするという可能性は全然杞憂とは言えないのではないか、こう考えるのであります。これは政党の立場、その見地からの監督なども十分になされているというお話もございましたが、場合によっては教育の政治的中立性を確保するという本来の目的に反して、政党のある種の要求があるいは政治的な要求が、地方に措置要求という形で押しつけられる可能性もないではない。そうしてそれが行き過ぎになりました場合の措置として都道府県の教育委員会の市町村教育委員会に対する関係におきましては、さらに一定の意見を求めることができるというような措置も認められておりますが、この文部大臣の措置に対しましては、何ら地方として主張すべき方法が認められていない。その意味において教育本来の目的達成を阻害しているものがあると認めるかどうかということが、文部大臣の認定一つにかかっているということになるのではないか、そういう意味で法律解釈の見地からいたしましても、若干将来これが悪用されるおそれがないではないという危惧を抱くものでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/33
-
034・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 赤城宗徳君簡単に願います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/34
-
035・赤城宗徳
○赤城委員 もしこの規定がないとすれば、現行でいきますと、教育委員会そのものが教育本来の目的を達成しているか阻害しているか判断するという形になる。そうすると大臣とか府県教育委員会とか、教育行政を担当している者が介入する機会がない、こういうようなことが果していいのかどうか。これは地方分権けっこうでございます。民主化もけっこうでありますが、それぞれ教育行政を担当している者がある。ことに大臣などは国家の最高機関において、常に国会へ立たされては大臣の責任というものを始終追究されておるのであります。ところが今の制度でいえば教育委員会に対しては指揮監督はできません。今度の改正法でもできません。指導、助言、勧告、援助というようなことができることにはなっています。その上にこういう五十二条のような規定が出てきたのでありますけれども、全然教育委員会その他教育行政に関係ない——関係はありますが、権限というものを別として、逆に責任というものを追及されておりながら、これにタッチする機会がない、責任だけは追及される、こういう形がいいのかどうか。それで、結論的にお尋ねしますと、大臣が介入する機会というものをどういうふうにしたらいいかというお考えがあるかどうか。大臣の介入が弊害もなく、そうして国の教育行政を振興するためにどんな方法で介入した方がいいかというような御意見がありましたならばお聞かせ願いたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/35
-
036・田中二郎
○田中公述人 私は先ほど来申しますように、「教育に関する事務の管理及び執行が法令の規定に違反していると認めるとき、」というこの前段に掲げられておりまする場合におきましては、最終的に教育の責任者としての文部大臣が関与する道が認められていいのではないか。そして、もしその点について見解の相違が生じます場合には、法律解釈の問題でありますので、裁判所が最終的な判断をするという余地も生じてくるのではないか、こう考えております。今日教育行政の面におきましては、法令の上でかなりこまかくいろいろの目的を示し、方法を示し、これを規制しております。もしそういう立法的な方面でなお具体化する必要があるといたしますならば、そういう措置がとられてしかるべきかと思います。その意味では、法令のワクが一そう厳密に規定されるということになりましょう。法律的にそういう点を確保していくということは必ずしも不適当ではなかろうと思います。それをしないで、ただ端的に教育本来の目的達成を阻害しているものがあると認定されるかどうかという、非常に漠然とした標準でこういう措置要求をすることができるということになりますと、これを根拠として、時の政治勢力の反映として、政治的な圧力が地方に加わっていく、教育行政の上に加わっていく可能性が生じはしないか、こういう点を危惧する次第でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/36
-
037・赤城宗徳
○赤城委員 今、文部大臣の措置要求について、五十二条の三項あるいは四項等がありまして、措置要求に対する異議の申し立てといいますか、意見を求める権限があるのであります。こういう点から見ますと、措置要求の結果につきましては相当国会あるいは世論の批判を受けるような形になっておるので、行き過ぎ是正にある程度は役立つと思いますけれども、もっとこのほかに何かお考えがありますか、最後にこれだけでけっこうであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/37
-
038・田中二郎
○田中公述人 私は第一項の「又は」以下の規定はむしろ削除していただくのが適当ではないか。もしどうしても法令の上で国がもっと関与する道を留保しなければならないという場合には、教育関係の法規の中にむしろ明確な規定を設ける。この点ではさらに文教委員会において教育関係法令の十分な、慎重な御検討をわずらわしたい、こう考える次第であります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/38
-
039・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 関連して、小牧次生君。簡単に願います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/39
-
040・小牧次生
○小牧委員 田中先生に一点お伺いいたしたいと思います。
教育予算が教育行政の中で占める役割というものはきわめて大きいと考えております。従いまして私ども文教委員会におきましても、三十一年度予算の編成に当りましてはいろいろ審議をし、また政府にいろいろ要求をいたして参ったのであります。また文部省自体としましても、そのような観点から独自の予算案を作られまして、大蔵省その他といろいろ折衝されたのであります。ところがその結果を見ますと、文部省の作った案というものが相当削減されものが予算案として計上されて参ってくる、こういう実情であります。従いまして非常にまだまだ今日のわが日本の教育予算としては不十分であるということはだれしも否定し得ないところであろうかと考えるわけでありますが、このことは先生も御承知の通り、地方公共団体の側におきましても同じようでございます。こういう点から考えまして、先ほどの先生のお話の中に、現在の教育委員会の持っておる原案送付権、これがなくてもやっていけるのではないか、こういうようなお説ではなかったかと私は記憶いたしておるわけであります。なるほど総合行政あるいは調整、こういう点から、教育予算の重要性ということをも考えながらやっていける、こういう理屈のもとにそのような考えをお述べになったのではないかと考えますけれども、しかしながら今日の段階において教育の民主化、教育行政の推進ということを教育委員会が果すためには何と申しましても、任命制その他の問題もございますが、その最後の裏づけをなすものはやはりこの原案送付権を持っておるということが大きな条件ではなかろうか、かように私は考えておりますが、現在提案されておる法案を見ますと、先ほど伊藤公述人も述べられましたように、何らそういった予算がふえるという保証はなされておらない、明らかにこれはなされておらないのであります。むしろこれは減少していくのではないか、こういう大きな危惧をわれわれは持っておるのであります。しかも、現在の教育委員会が原案送付権を持っておりましても、なおかつ地方公共団体の首長に対しましては非常にまだ弱い立場に立たされておる、このようなときにこの原案送付権がなくなり、しかも任命制に切りかえられるということになりますと、これは大きな後退を意味するものである。従って従来通りの教育予算の確保ということは非常に困難である。そうしますと、今日なさなければならない教育施設の問題その他広汎にわたり、教育予算は大きな危機に立たされて参ると私は考えまして、この原案送付権をとるということは教育委員会法の本質を骨抜きにする。文部大臣はたびたびよりよき制度、前進であるというふうに申されておりますけれども、私どもは大きな後退だ、こういうふうに考えるわけでございますが、これに対する先生の率直な御見解を承わってみたいと考えます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/40
-
041・田中二郎
○田中公述人 国におきましても地方公共団体におきましても、教育予算を確保したいということは、特に今教育に長年関係して参りました私といたしましては、心から熱望するところでございます。しかし地方公共団体における行政を総合的に見ます場合に、今日まで地方団体が六・三制の実施にからんでいかに大きな努力をしてきたか、これには確かに教育委員会の存在がある種の役割を果してきたとは思います。しかし同時に都道府県の知事にいたしましても、市町村長にいたしましても、六・三制の実施をめぐって、何よりもまず教育予算の確保という点に心を砕いてきたのではないかと思うのであります。必ずしも教育委員会の力によってそれが確保されたというわけではなく、むしろ地方公共団体の長自身がそれを確保するのでなくては、とうてい地方住民の支持を得ることができないということは、十分自覚してそれらの行動をしてきたものと思います。今後におきましても地方公共団体の扱う行政の中で、教育行政あるいは教育費というものの占める重大性を感じない地方公共団体の長というものは、一般的にいってあり得ないのではないか。確かに従来教育関係は弱い。国について申しましても、文部省がその面では非常に弱い。そのために教育予算が十分に確保できなかったということがあり、地方においても同じような面がありましょうけれども、今後の考え方としましては、必ずしもその懸念はないのではないかというふうに私は考えるのであります。ことに個々の地方団体を例にとって考えてみますと、その地方団体で当面解決しなければならないいろいろの問題があります場合に、教育委員会というような一つの独立機関を設けます場合には、とかく他の行政についての理解を欠いて、もっぱら教育という見地からだけ問題を考えやすいのであります。従って特定の地方公共団体について申しますと、現在さしあたってしなければならない仕事、それに見合う予算というものを総合して考えました場合に、住民全体の見地からいって、学校の施設に今すぐに充てるのが適当か、それとも災害復旧に重点を置いてやっていくのが適当かというような考慮が総合的な見地からなされますが、教育委員会は必ずしもそういう点に公平な考え方を持することができない。やはりもっぱら自分の立場からのみこれを要求してくる。そこに長との間にいろいろ問題を生じ、議会においても問題になるというようなことも予想されるのであります。私は地方公共団体の長が地方団体の行政の中で教育というものの重要性を無視することができない現実、今後においても常にそれに最大の重点を置いて考えていかなければならないという事態を考えますと同時に、それぞれの地方団体における総合行政の必要、何が最も住民の緊急に要求するところであるかということを勘案して、予算を組んでいかなければならないという点を考えてみますと、それらの点は地方住民の批判のもとに立ちながら、地方公共団体の長の最終的な判断に待つということで、十分に目的は果し得るのではないか、教育予算に関する原案送付権を必ずしも教育委員会に確保することは必要ではないのではないか、こう考える次第でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/41
-
042・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 これにて田中公述人の公述及びこれに対する質疑は終りました。
田中公述人には、両法案に関する貴重な御意見を御開陳下さいましてありがとうございました。
以上をもちまして午前に予定しておりました公述人の公述及びこれに対する質疑は終了いたしましたが、所定の時間をだいぶ経過しております上に、午後一時より公述を承わることになっております矢内原公述人より、他に所用がありますので、所定の時間にその公述及びこれに対する質疑を終了されたいとの申し出がございます。つきましては、予定を若干変更いたしまして、引き続き矢内原公述人の公述及びこれに対する質疑を行い、そのあとで休憩いたしたいと思いますので、御了承を願います。それではこれより矢内原公述人に公述を承わるのでありますが、この際一言ごあいさつ申し上げます。矢内原公述人には、御多用中にもかかわりませずわざわざ御出席をいただきまして、厚くお礼申し上げます。何とぞ両法案につきまして、あらゆる角度から忌憚のない御意見を御開陳下さいますようお願いいたします。なお公述その他につきましては、お手元に差し上げてございます注意書の要領でお願いいたします。それでは矢内原公述人。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/42
-
043・矢内原忠雄
○矢内原公述人 教育委員会制度の改正に関する法律案についての意見を述べよということでございますので、与えられた時間内に要点だけを申したいと思います。
結論は、この改正法案に原則的に反対でございます。その理由の第一は、手続上の問題でありまして、この改正法律案が、文部大臣の最高諮問機関である中央教育審議会に付議されなかったこと。その理由につきましては、清瀬大臣が新聞記者にお話しになったところによれば、前に一度答申があった、再び諮問する必要はない、前の答申の結論は、改正の必要がないという答申であったけれども、それを採用するかしないかは政府の自由である、こういうお話でありましたが、その後中央教育審議会の席上においての御説明はそうではなくて、諮問したかったのであるけれども時間がなかった、本年の十月一日に教育委員会の委員の改選があるので、それに間に合せるように法案を国会に提出して審議をしてもらわなければならないので、時間的に中教審に諮問することができなかったという、遺憾の意を表明されたのであります。しかるに、中央教育審議会の総会は二ヵ月に三回開かれております。そしてこの改正法律案が国会に提出されましたその時間の関係を見ますると、もちろん法案の詳細な点は後ほどきまるといたしましても、大体こういう構想で教育委員会制度を改めたいとお考えになるならば、その構想に基いて諮問なさるという時間的の余裕はあったに違いない。これは、私のみならず中央教育審議会の委員の何人かの人が同じ感想を持ったのでありまして、時間がなかったから遺憾ながら諮問できなかったという大臣の御説明に対しては、ほとんどすべての者が納得いたさなかったのであります。それから臨時教育審議会をお作りになるということで、その法案が衆議院を通過いたしましたが、この臨時教育審議会は、教育制度についての根本的な検討をする。そういう重要な審議会をお作りになろうという際に、教育委員会制度の改革をなぜこれにおかけにならないで別個に提案なさったのであるか、これも十月一日の委員の改選ということに間に合せるようにということだろうと、これは伺ったわけではありませんが、推察するのであります。しかし教育委員会制度は、申すまでもなく非常に重要な制度でありますから、その改革については万全を期して十分検討すべきであると思います。中央教育審議会にかけるなり、あるいはもしも臨時教育審議会ができるならば、それに付議して検討をなさるのが当然だ。時間の関係を申されるならば、あるいは現在の教育委員の任期を、つまり改選の時期を延ばすとか、あるいはさらに次の改選の時期を選ぶとかなさるのが当然だろうと思います。手続上において、どうして急いで今度の国会に御提案になったかということが理解できないのであります。
第二は、制度上の問題でありまして、一般行政事務から教育事務を分離するという趣旨は、どういうところから出ておるか。一般行政事務の中で、警察事務と教育事務は特殊の性質を持っております。警察事務については、本日申し上げるべき場合ではありませんが、国の権力との関係において、警察事務も教育事務も乱用されるおそれが特に大きい。それで、人民の基本的自由に関する事柄で、特に重要な警察問題と教育問題は別個に考えるというのが、民主主義社会の制度の建前だと了解いたします。共産主義国もしくはファッショ国、すなわち全体主義の国家においては、国家権力が警察を利用し、そしてその政府の方針を実行する。また教育を利用いたしまして、教育をば政治の手段として、ある特別の思想とか特別の学説とかいうものを青少年の間に普及せしめる。これは日本においても、戦争前、戦争中に行われたことで、私どもの記憶に新しいところであります。民主主義の国においては、警察と教育は権力の乱用から遠いところに置こう、すなわち人民自身がこれを管理することにしよう。そういうことで、政治と教育を分離するという建前でもろもろの制度ができまして、教育委員会の制度もその一つであると了解いたします。
そこでこういう問題がある。国でも地方団体でも、行政の長もしくは議会は民主的な手続による選挙によって選ばれておる民主的な組織である、そのほかにさらに教育委員会のごとき別個の機関を置くということは、民主的に選ばれた行政の長もしくは議会を信用しないことであるという議論がございます。これは信用するしないの問題でなくて、ただいま申しましたような仕事の性質上、別個にいたしたものであると存ずるのであります。一般行政事務については、別個の選挙が行われる。教育の事務については、また別の選挙がある。選挙の目的が違います。かかる方法によりまして、手続は煩瑣でありますけれども、教育が政治の干渉の圏外に立つ。申すまでもなく教育の仕事は、年数のかかることが必要でありまして、六・三制のもとにおいては、義務教育を終えるのでも九年かかる、大学を終えるまでにはさらに七年かかる、十六年かかるのでありまして、教育制度の結果を見るためには、十年以上も年数がかかるのであります。これを短かい期間の経験でもって変更するということでは、教育制度なりやり方の結果を十分見ないでにわかに変更するということになりまして、教育の上からいえば、非常な混乱を生ずる。教育が長くかかるということと、それから政治に利用されるおそれがあって、また政治の上からいうならば、教育を利用してある特殊の政策を遂行することは非常に有利なことでありますから、そういう主張がある。こういうわけで、教育の民主的ないろいろの制度ができ、教育委員会もその一つであると思うのであります。
それからもう一つは、内容上の問題でありまして、今度の改正法案の趣旨は、責任の所在を明確にする、市町村、それから都道府県、その上に文部大臣という、教育に関する監督、指揮、助言の系列を作りまして、系列に従って文部大臣が最高の責任の所在となる、こういう工合に改められるようであります。それから、そのことが教育事務の末端に至るまで、たとえば教育課程であるとか、あるいは教科書の採用であるとか、教科書以外の教材の採用であるとかなどに至るまで、たとえば教科書以外の教材の採用は教育委員会の認可を受ける、届出をさせる、そういうことが教育委員会の仕事になるわけですが、その教育委員会の仕事を、結局において文部大臣が目を通しているといいますか、目を光らせているといいますか、そういうことができるようなことになって、それで、このことを一歩誤まれば政治権力が教育を監視し、監督して、そして教育の方針に反するとか反しないとかいうことを、大臣の認定によりまして、教育の末端に至るまで統制するというふうな体制ができると思うのであります。つまりそういう工合に乱用されるおそれがあると思います。
第二は、事務の調和ということが改正の主眼であるというふうに御説明があります。これは、市町村でも都道府県でも、議会並びに行政の長と教育委員会との間の権限の関係が複雑でありまして、予算の原案送付権であるとか、人事権であるとか、その他いろいろなことにおいて複雑しておる、それを事務の調整をはかる、調和をするために今度のような改正をするという御説明であります。これは、そういうふうな混雑が場合によっては生じておると思いますが、しかしこれは、教育委員会制度そのものの趣旨が、先ほど申しましたような、民主主義の国におきましては、政治権力からの独立ということが建前でありますことから起ってきておる当然の結果でありまして、あとは運営の妙を得る以外に道はないだろう。運営の妙を得ていって、制度の原則を生かしていくのが一番いい。運営が困難であるからといって、民主的な教育制度の原則をこわすということはよくないことだろう、こういう思います。
第三は、今度の改正によって教育の中立性を保つことができる、そういう御説明であります。それは、任命制にいたしますと、法案に示されております通りに、一つの政党に所属しておる者の委員の数が、委員総数五人の場合は三人ですか、三人の場合は二人ですか、全部を占めないようになっている。そういう考慮を加えてあるから、一党一派に教育委員が独占されることがないように注意を払ってある、教育の中立性をはかることは、選挙制よりも任命制の方がより有効であるという御説明のようであります。
これは二つの点がありまして、一つは、すべての国民が明確に政党に所属しておるわけではありません。無所属というものが非常にたくさんあることを考えます。そうしますと、委員会の委員の任命によって特殊の政党に属する、属しないということを表面に出しますことは、教育事務を政党政治に巻き込んでしまうというおそれがかえってありはしないか。むしろ教育事務のごときは、政党の所属いかんを問わずして、国民の生活、国民の子供の教育ということについて話し合って、いい考えを立てていくべきでありまして、何政党に属するからこういう教育の方針というように、政党をもって争うべき問題でないと私は思います。従って、委員の人選について政党的考慮を加えてあるということは、かえって有害である。無所属の議員で某政党の色彩を持っておる者、こういう者を加えれば、教育委員会をある政党によって独占することもできますし、そうでなくても、政党的関係を法律にまで表わしておるということは、かえって教育の中立性を害するゆえんであろう。教育委員の権限というものは、なるべく政党色のないように、人材とか教育に適した人を選ぶように仕向けていくべきだろうと思うのであります。
もう一点、一般の政治の傾向から考えまして、この際かかる改正を企てなさるということは、日本の国の民主化の全体の傾向から考えて、また教育、思想、言論、学問の自由、そういう点から考えて心配のないことだろうかいなかという点であります。いろいろの事柄が政府の日程に上っておるようであります。たとえば憲法改正、それから教育基本法の改正、それから教科書制度の改正、また教育委員会の問題、小選挙区の問題等々が関連して一つ政治の動きを示しておるのであります。そしてそれを一言にしていえば、占領下に行われた行政は今日において再検討すべきである、あれは押しつけられた改正であるから、今や日本国民は自主的な立場でもって、国情に合ったように改正をすべきであるということが相言葉になっておるようであります。ここでいろいろのことを考えられるわけでありますが、占領下における行政というものは、果して外部から押しつけられたものとして、今日において修正するということに当面しておる根拠があるか。日本の明治維新以来の歴史を考えてみますと、日本において最も欠如していたものは民主主義ということでありまして、民主主義の思想や考え方が不徹底でありましたために、たやすく日本はファッショ政治のえじきとなりまして、戦争に突入し、国の悲運を招いたのであります。だから、戦後における民主主義の改革が、占領軍の示唆によって行われたのであるかいなかという具体的事実のせんさくは別といたしまして、いわば天の命じた道である、天命であると信じて、日本国民は喜んで民主化の道に入っていったのであります。しかるに戦後わずかに十年にして民主化の傾向に修正を加え、あるいはこれにゆがみを与え、民主主義だけでは足りない、民主主義はけっこうなうなものであるけれども、民主主義だけではいけないとして、民主主義以外の思想傾向を加味しました制度を考え、ことに教育の問題、先ほど申しましたような長い期間を必要とする教育の問題を考えるということは、明治維新以来の日本のたどってきた道についてのどこが欠陥があったか、どこが足りなかったかということを歴史的教訓、戦争と敗戦ということを通して現われたこれを無視するものである。国会においても、政府においても、一般国民においても、歴史の教訓ということをよくよく銘記いたしておるはずでございますから、戦後の改革の民主化の大原則はどうしても維持しなければならない。これに修正を加えるならば、戦争によって得た教訓を非常に浅薄に理解し、われわれの受けた大きな国民的損失の傷を簡単に、浅薄にいやしまして、そうしてまたもとのような戦争前の日本にあと戻りする、そういう傾向はわれわれは最も敏感にこれを感じて、事の大事に至らないようにしなければならない、民主主義の根本を失わないようにしなければならない。申すまでもないことでございますけれども、民主主義と全体主義との違いということをもう一度考えてみますと、全体主義、共産主義の国でも、ファッショの国でも、昔と違いまして全然の専制政治というのではありません。御承知のように、たとえばソビエトにおいても、みな下部組織からだんだんと代議員ができまして、そうしていわゆる民主的手続を経て、代議員の総会において総理大臣が選ばれる。ヒトラーでもそうです。ヒトラーでも天下りの指導者ではなくて、やはり国民社会党という政党がありまして、政党から選ばれた、積み上げられた組織で選ばれた指導者であった。形はそうできておる。だから、民主主義と全体主義との違いというものは、別なところにあります。つまり民主主義は、数ということだけが力ではない、理性というもの、あるいは真理というもの、道理というものを尊ぶ。これは真理とか理性とか道理とかいう漠然としたものでありますけれども、多数がすなわち道理ではないということを保つのが民主主義。多数すなわち道理であるとして、教育とか警察を通してその多数、すなわち道理を押しつけたのがファッショあるいは共産主義。もう一つの違いは、民主主義においては、少数者というものが常に存在しておりまして、また存在せしめて、多数が永久政権は作らない、永久政権ということは、民主主義においては否定されておるのです。多数が少数にかわり、少数が多数にかわるような制度組織を作るのが民主主義の特色であります。新聞に伝えられております、たとえば小選挙区制は永久政権云々ということがありますが、私そういうことは、民主主義の国においてはとうてい考えるべきことじゃないと思います。とにかく世の中全体のいろいろの動向が動いている、その中で教育委員会制度の改正があるわけでありますから、これ一つだけを取り上げて考えることはできません。その全体の動向というものは、民主主義の修正というふうにいわれておる。これは民主主義の危機であり、一歩誤まれば言論、思想、学問、教育等の基本的な自由の原則に対して変更が加わってくる、そういう危ないときに今日本はおるように思うのであります。このような一般政治の動向から考えましても、教育委員会の制度は改正しない方がいいと私は思います。(拍手)発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/43
-
044・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 これにて矢内原公述人の公述は終りました。これより公述人に対する質疑に入ります。質疑の通告がありますので、これを許します。町村金五君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/44
-
045・町村金五
○町村委員 ただいま矢内原総長から、大へんに貴重なお示しをいただいたのであります。この機会に一、二なお不審といたしますところについてお尋ねをいたしたいのであります。
先般この教育委員会の改正案が出まするや、矢内原総長を中心といたしまして、十人の大学の総長の方々によりまして、特に重大なる声明が発せられ、さらにこれに引き続きまして、多数の学者からも同様のそういった意味の御発言が出ておるわけでございます。従いまして私どもといたしましては、この法案の審議に当りまして、実は非常に慎重にこの問題を考えておるのでございます。私どもが先般のあの御声明を拝見いたしますると、大体こういうようなことがあの中にうたわれておるのでございます。すなわち今回の改正というものは、民主的教育制度を根本的に変えるものであり、教育に対する国家の統制の復活を促す傾向がはっきりといたしておるということをうたっておられるのでございます。私どもも、もしも今回の法案がさような事実を明瞭に持っておるものであるといたしまするならば、必ずしも私どもは今回の法案に賛成をいたそうというような気持はないのでございます。従いまして、この法案のいずれの点が、先生方の御表現によりますれば、民主的教育制度が根本的に変革され、しかも国家統制というものがこれによって復活をされるというまことにおそるべき表現をもって御発言に相なっておりますが、この法案のいずれの点にさようなことが明確に看取できるのであるか、なぜそのような御見解をお持ちになるようになったかという、まず根本のお考えについて先にお教えをいただきたいと思うのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/45
-
046・矢内原忠雄
○矢内原公述人 具体的に二、三の点を申せということでありますが、教育委員の選挙をやめて任命制にするということでございますね。任命する際には、それは選挙によって選ばれた地方団体の長が選挙によって選ばれた地方議会の承認を得て任命するんだからけっこう民主主義である、こういうお説があるわけです。私どもは、それはいろいろなほかの選挙で考えましても、任命制ということそれ自体はどう考えても——ことにこの教育のような問題で考えますと、民主的ではないように思う。私は中央教育審議会の委員の一人でありますが、中央教育審議会の委員は、国会の承認を経て文部大臣が辞令を下されるわけであります。これは民主的に選ばれたとすると、形は国会の承認を経て文部大臣が任命なさいますけれども、われわれ自身は、これはやはり文部大臣のお考えで事実は任命されておると思うのです。実際の手続も、国会が一々そう審議なさることもできない。だからして選挙を改めて任命にするということ、そのことが教育の民主化ということから考えると逸脱しておる、これが一つ。
それからその次の点は、教育長の問題でありまして、これは詳しく申し上げることもないのですけれども、文部大臣が教育長をずっと都道府県から市町村まで通して指導助言ですか、つまりいろいろの注意を喚起するなりなさることができるようになっておるわけでありますね。だからして、その線でいくならば、文部大臣のお考えでもって地方の末端に至るまで、ある教育方針を徹底させることができるだろう、やろうと思うならばできます。やろうと思わなければできないかもしれないが、やろうと思うならばできるような制度になっておる。それでは国家統制に近づくのではないか。
それからそのほか教材の問題ですね。先ほど申しましたように、これは教育委員会に届けるなり、認可を得るなりということになっております。その教育委員会というものは、今言ったような手続でできておりまして、そうしてある教材の副読本ですか、あるいは教育映画ですか、採用したことがいいの悪いのということを文部大臣が言えるようになっておる。教育の末端に至るまで全く政府の方針が徹底するのじゃないか、そういうことを私どもは民主化の危機と考えておるわけであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/46
-
047・町村金五
○町村委員 私は、実はただいまの先生のお説を承わっておりまして、さらに私どももこの法案の内容を検討してみまして、どうも少しこのたびの大学の総長の御声明は、十分に法案の内容等につきましての御検討ができていないのじゃないか。いわば改正をするという声を非常に大きくお考えになりまして、そうして実体を十分にお考えにならないで、直ちに今の教育制度の根本であるところの民主化なりあるいは中立化あるいは地方分権というものを、根本的に破壊しようという考えでこの法案が立案をされておるかのようなお説を承わったのでありますけれども、今回の法案の内容を見まして、どうもそういうように私どもには実は受け取れないのでございます。今回の法案によって、ただいま御指摘になりましたような、たとえば文部大臣が地方の教育委員会に対しましては御承知の通り指導、助言、勧告あるいは援助ないしは違法等の措置の場合の措置要求をするというようなことでございまして、私は、何らこの地方の教育委員会の自主性というものは、これによってくつがえされるというようなことはないのじゃないか。しかもこれを完全な国家統制だということは、どうも私は事態を多少誇大にお考えになり過ぎているのじゃないかというような感が私どもにはいたしてならないのであります。先生、先ほど第一点において、民主主義というものは、結局警察とか教育というものは完全に政治から分離するということが民主政治の根本原則であるということを私承わったのでございます。従って教育というものは、人民自身が管理するという建前をとらなければならぬということを御強調に相なったのであります。私は、どうもこの点につきましても、多少の疑問を持たざるを得ないのでございます。私どもも民主主義を圧殺しよう、民主主義を破壊しようなどという考えは毛頭持つものではございません。しかしながら、今日われわれは次代の青少年を育成していかなければならないというこの重大な問題に関しまして、国家なりあるいは文部大臣というものがほとんど何ら関与することができない。ことに違法なことが行われておる、不当なことが行われておる場合においても、それに対していわば是正をする、矯正をするということが民主主義破壊であるという名のもとにおいてさようなことが一切拒否されるということは、どうも私どもには納得のできない点なのでございまして、今回の法案は、まことに今日の教育の現状から見て、最小限度の国家の介入を認めようということを考えておるにすぎないのに対しまして、私どもはただいまの先生のお説には、今なお納得いたしがたい点があるのでありますが、その点をもう一度お教えをいただきたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/47
-
048・矢内原忠雄
○矢内原公述人 私は言葉争いはいたしたくないのでございます。それで、先ほど陳述いたしましたときにも、最後に申しましたように、全体の傾向ということを考えますと、傾向を初期に早く見まして、それが論理的にどういうところまで行き得るかということを考えるわけでございますね。今は、教育委員会の制度は制度としてこの法案においてはお残しになっている、それから文部大臣のいろいろの、俗な言葉で言うと発言権、これも大臣が命令するとかなんとかいう言葉を使ってありません。だから、民主主義は残しておるとおっしゃれば、今町村委員のおっしゃったように、それは民主主義をやめてしまって専制政治にするなんていう、そういう法案でないことは私も認めるのであります。けれども、傾向ということを考えると、これは国家統制の思想じゃないだろうか。たとえば放送法の改正でも何でも、関連したいろいろなことを考えますと、こういうところからして教育に対する国家統制ということが始まってくるんでないだろうか、それを心配しておるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/48
-
049・町村金五
○町村委員 私、ただいまの先生のお説である程度わかったのであります。実は私も、先生のお言葉じりをつかまえるようなつもりも毛頭ございませんが、今回のこの法案というものを見ておると、いわゆる責任の所在を明確にするというような考えのもとに一つの系列を作って、文部大臣が最高の座にすわって指揮監督するんだ、こういうような——あるいは先生は、これは傾向だということにおっしゃるのかもしれませんけれども、私はかりにそれは傾向であるという点を認めるにいたしましても、どうも今日、文部省というものは存在をいたしておりますけれども、御承知の通り大学に対しましても、また地方の教育に対しましても、実は全く無権限な状態であるということは、これはそれがよろしいんだという先生方のお考えでございましょうけれども、私ども今日政治の責任をになっております政党の立場から申しますと、実は教育の問題は最も重大な問題である、何とかして世界の国際競争場裏に出まして負けないようなりっぱな日本人を作るのにはどうしたらいいかという点について、私どもはやはり政府といたしましても十分な援助もし、指導もし、またそうして足らざるところについては補い、誤まりはこれをただすというようなことは最小限度認められても、これは当然しかるべき事柄ではないか。これが御承知の通り、今日の教育委員会制度の三つの柱と世間でよくいわれておりまする教育の地方分権、あるいは民主化、あるいは中立性の確保という、この三つの支柱は、私は原則として、これをもとより今後擁護もして参らなければならぬと思いまするけれども、しかし極端な地方分権、文部大臣というものはあっても、いかなる不法な、いかなる不当なことが行なわれましても、座してこれに対して何ら発言のできないというような現状というものをこのままで容認して参るということは、いかにも私は今日の日本の国情から見まして、何とも実は容認しがたい事柄じゃないか、これを何とか私どもはある程度、実はかような誤まりを是正をする道を今回開く必要があるのじゃないかというように考えておるのでございます。さような傾向をここに開き始めると、再びいわば日本をファッショ化するようなことになるから、今のうちに芽をつんでおけという先生のお話に対しましては、私どももよくわかるのであります。私どもも、今後これをそういうような方向に持っていこうというようなつもりは毛頭ないのでございます。毛頭ないものではございまするけれども、しかしそうかといって、今の現状をこのままに放任しておくということもできないのではないかという、その非常な苦心の現われが今回の法案になったというように私どもは考えておりまするが、その点はいかがにお考えでございましょうか、もう一度お教えをいただきたいのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/49
-
050・矢内原忠雄
○矢内原公述人 私の考えを申しますと、学問、教育は、原則的に自由であることが一番発達すると思うのです。ですから文部大臣の任務というものは、学問、教育、言論、思想の自由を擁護するということが文部大臣の第一の任務であります。それから第二の任務は、できるだけ金をつけて下さる、予算を下さるということが文部大臣の任務だと思うのです。それで今お話しになったような御心配の点、何が行われていても文部大臣がどうもできないじゃ困るというけれども、文部大臣のほんとうの職責というのは消極的なものだ、私はそう思います。それで、心配のあまりに何かなさろうなさろうということが危険であって、これは民主化の傾向を——あなた方の、主観においては、意識においては民主化を損なうつもりはないということですけれども、制度というものはできてきますと、それが、第一は制度の運用に当る人の心得もありますけれども、教育のことに携わっておる者とか学問のことに携わっておる者などが敏感に感ずる点は何か方法が間違っているのじゃないか、そういうふうに思うわけであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/50
-
051・町村金五
○町村委員 最後にもう一点伺いたいと思いますが、いずれにいたしましても、制度というものは、これを運用する者によりましていろいろ長所も出たり短所も出て参るものでございましょう。従いまして、今日の教育委員会制度といものを、先ほどの先生のお話しの通り、短期間の間にいじることは好ましくないというお説は、私どもにもよく了承できることでございますけれども、しかしながら、短かい期間ではございますが、私どもが今日の教育委員会制度の運用の実績を考えてみましたときに、このままに放置して参るときにはきわめて重大な結果が起るんではないか。先ほど先生は、今回のような改正をすることによって、一つの国家統制への危険をはらむ傾向が出るということを御強調いただいたのでありますが、私どもは、さような点については、今後この法案の運用に当って十分謙虚な気持で戒心を加えて、あやまちなきを期して参ることに全力を注いで参ろうという決意ではございますけれども、しかしながら同時に、また仰せのように、今回の法案のようなものを提出いたさないということで放置いたして参りますならば、現実に今日民主化なりあるいは中立化の名のもとにおきまして、これが地方においては相当に乱用されておるという事実を、私は先生にも一つよくお考えいただきたいと思うのでございます。もちろんこれは先ほども申し上げた通り、運用の問題でございますからして、今私どもが懸念をいたしておりますような一部の者によりまして、あるいは民主化の名において、中立性確保の名においてこれが乱用されておるという事実が、あるいは長い目で見れば改善されるかもしれません。しかしながら私どもの見るところによりますれば、これを一日放置いたしておきますれば、民主化の名においていよいよ民主化が乱用され、結局日本の教育というものを違った方向のファッショ化の方向に持っていかれる危険があるんじゃないか、それで、私どもといたしましては、今回の法案を最小限度にもやりたいんだ、こう申し上げておるのであります。これが先生方によりまして、民主的制度が根本的に破壊され、国家統制が始まるんだというお話を伺いまして、私どもはまことにみずから意外とし、ほんとうに心外にたえないのでございます。しかし先生方のお話のあるところは、私どもは今後の運用に十分注意して参るということをはっきり申し上げておくのでございますが、今の地方の教育委員会の実情、一部の勢力によってこれが乱用をされて、その本来の目的を失われておるというこの事実を先生はどういうふうにお考えになりますか、最後にこの点だけ伺っておきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/51
-
052・矢内原忠雄
○矢内原公述人 二点を申し上げます。一つは、先年中央教育審議会において教育委員会制度を取り上げて検討いたしましたときに、参考人として教育委員会の方や新聞関係の方など来ていただきましてお話を伺いまして、いろいろ地方の実情も伺ったのであります。けれどもその結論は、弊害はあるけれども、やめてしまうよりは育成した方がよろしいということでありました。
第二点は、はなはだ失礼なことで、言葉をお許し願いますけれども、国会議員の選挙につきましても、とかくの問題がありまして、公明選挙運動などの唱えられる必要もあるわけでございます。だからといって、国会議員の選挙をやめるかといえば、弊害を改めるけれども、国会議員は任命制にしない、いわゆる選挙でやっていく。地方の議会や教育委員会も、選挙においていろいろまずい点もある、また選ぶべき人材がないなどという声も聞くのです。国会議員の選挙についても、だれに投票していいかわからないなどという声を聞くこともあるのです。にもかかわらず、選挙を行うことが民主的な社会のしつけというか、訓練になり、そういうところから養成されてきて日本の国が民主化すると思うのです。教育委員選挙の実情がまずい点がある、だからやめてしまえということでは、民主化に水をぶっかけてしまうのではないか、そういうふうに思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/52
-
053・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 高津正道君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/53
-
054・高津正道
○高津委員 ただいまこの教育委員会法の改正法案でいくと、教育の政治的中立性をゆがめられるし、言論、思想の自由を脅かすとのお説を承わったのであります。私たちも、かねてそういうふうに気づいておった関係もありまして、大いに意を強うした次第であります。この法案の提案者たちは、いろいろ意見を聞いてみますと、地方財政が非常に赤字であるから、教育委員会制度に対してこういうような改革を加えなければならない、骨抜きにしなければならない、そこが一点あるようであります。
もう一つは、現在行われておる教育が民主主義過剰ということで、非常に民主主義をおそれておるところから出ておるようであります。
もう一点は、この改正法案は、地方教育委員の公選制を廃止して任命制としておるのであります。その理由が、今も話題に上ったように、選挙の成績が悪いということが口実になっておるのであります。その理由の一つは、投票率が非常に低い、もう一つは、適当な教育委員の候補が出ない、神奈川県では長谷川如是閑が候補に立たぬ、前田多門、関口泰、こういうりっぱな人たちもちっとも候補に立たぬ。だからいけない、こういうような事実が非常に大きく取り上げられております。この三つの点について、先生の御意見にはすべて賛成でありますけれども、簡単に御意見を承われればけっこうだと存じます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/54
-
055・矢内原忠雄
○矢内原公述人 最初の財政の問題、これは二つありまして、教育委員の選挙に費用がかかる。これはどのくらいかかるか知りませんけれども、おそらくこれは比較的小さい問題で、むしろ教育に関する予算原案の送付権を教育委員会が持っておる、地方財政から見て大き過ぎるような教育予算をつきつける、こういう問題だと思います。これは地方議会と教育委員会との調整の問題でありまして、両者がよく話し合いすればいい問題だと思いますが、私の申すことが少し脱線をすると思いますが、国立大学の予算について、文部省においてずいぶん御努力下さいますけれども、結局大蔵省に大なたを振われてしまいます。なかなか教育予算というのは削られるおそれのあるものであります。その財源をどうするかということをいつも言われます。これは国の政策の大方針に関することですけれども、防衛費の予算を一割減ずるならば、国立大学の必要な建物は一年に建ってしまいます。防衛費を一例にとりましたけれども、防衛予算にどのくらいの予算を組むか、教育予算にどのくらい組むかという問題になると思います。だからして、これは国の問題でありますが、地方議会においても、地方の財政の赤字を防止する、あるいは除くためにはどうすればよいかということは、結局日本の国の財政の立て方で見れば国の交付金とか、あるいは財源関係でも、国の財源を地方の財源に移すとかなんとかいう財政措置が必要になるわけであります。今は地方の財源を大部分国が吸上げて、交付金という形で出しております。そのときに、国の予算の立て方というものがありますから、たとえば防衛費の予算あるいは恩給予算という方にどかっといってしまう。そういうことから起ってくる地方財政の窮乏のしわ寄せを教育に持ってくるということは、非常によくないことじゃないか。地方財政の赤字を救う道は別にお考え下さるのがいいのであって、教育予算は削らないようにという一つの制度として今日の教育委員会の予算原案送付権があるのでありますから、これは維持したいと思います。
第二の点は、民主主義過剰ということで選挙が多過ぎるということでありますが、これは考え方にもよりますけれども、やはり選挙を通して国民が公けのことについて関心を持つということは少くしないで、そういう風習なり考え方を養成していく方がよくはないか。
第三の点は、立候補者がないということでありますが、これも関心を高めていくほかはないと思います。それで投票率が少い、候補者が少いから任命制度にするということは、失うことの方が多いのじゃないか。日本の民主化という点から考えまして、ますます民主化を行きわたらせないで、やはり任命の方がいいということになってくると、民主化に反対するような気風を養成することになるのじゃないか。ここは、もう少し年数をかけて選挙の趣旨を普及させていくことがいいのじゃないか。
私は、イギリスやアメリカから来ます大学の教授たちにたびたび会うことがあるのですが、日本の今日の選挙の実情を話しまして、民主化はほど遠いと嘆きますと、イギリス、アメリカの大学の教授たちは慰めてくれまして、イギリスやアメリカでも最初はそうだった、最初から選挙がりっぱに行われた時代はなかった、五十年、六十年かかったろう、日本においてもそれだけの訓練をしていかれるならば、民主主義の発達した国になるでしょうということを申されております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/55
-
056・高津正道
○高津委員 今総長からお話を聞きましたが、総長は、この法案を非常によく研究なさっておるし、日本の現在の政治の憂うべき傾向をよく考えておられる。戦前の国会の政治が変な方向へいった場合に、自分たちが元来否定している枢密院に淡い望みを託して、あそこがしっかりしてくれればと思った時代があったのでありますが、今こういう逆コースが足並みをそろえて押し出してきた場合に、総長のような識見を持たれる方が良識を持って声明を発せられて、あらゆる学界がこれにともについて立つ、こういう状態を私は非常に感謝しておるのであります。私はもうこれ以上問うことは何一つございません。(笑声)発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/56
-
057・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 並木芳雄君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/57
-
058・並木芳雄
○並木委員 私は、きょうは矢内原さんのお説だけを拝聴して引き下ろうと思っておったのですが、承わっておる間に、やはりどうしても突っ込んでお伺いしなければ消化しきれない点がございますので、簡単にお尋ねをいたします。
先ほど来制度上において欠陥がある、一般行政から教育と警察を分離することが民主主義への道である、こういうお説がございました。それは私も肯定いたします。確かにいにしえは、警察とかあるいは教育を利用してフアッショ化への道をたどった傾向もあったでしょう。しかし今は、もう全体が民主主義の体制のもとにあるので、ただいまもお話しがありましたように、枢密院とか枢密顧問官を社会党の委員が持ち出すというのは、私は夢にも思わなかったのですが、天皇のもとに欽定憲法でやった時代とは今はまるっきり違う。それで、こんなことを申してはなにですが、われわれが国権の最高機関です。これが最上です。これを、先ほどから矢内原さんのお説を聞いておると、民主主義のもとに打ち立てられた最高の機関できめられることをも信用なさらない、そういうような悲観論が出てくる。もちろん矢内原さんは非常に遠慮されて、これは傾向である、動向である、だからそういうものが芽を出さないうちにとおっしゃいますけれども、それならどうしてそれを防ぎ得るか、これが問題だと思うのです。私は、ここできめられることが一番民主主義の原則において行われるものであって、その行き過ぎがあるとすれば、それこそ最高裁判所の制度もございましょう。それを碩学である矢内原さんの主観論をもってきめつけてしまうことは、これは国会軽視ということになりはしないか。民主主義のもとにでき上ったその制度そのものを、あなたが一番守ろうとする制度そのものを否認する学者独善的な考え方になるのではないかと思うのですがその点いかがでございましょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/58
-
059・矢内原忠雄
○矢内原公述人 驚きましたお尋ねでございますが、国会で法律としてきまれば、これに従うのは国民の義務でございますけれども、その法律案を、あるいはできた法律を批評するということは、これは国民の自由です。それで、国会議員は選挙によって選ばれたものですけれども、国会議員が主権者であるわけでないことは、これはもちろんです。それで国会でおきめになることや、あるいはおきめになったことを批評ができないということでは、これはもう政治の進歩はなくて、国会議員による専制政治になります。これは批評があってこそ、次の総選挙において現在の代議士でお出になる方もあるし、お出にならない方もある。(笑声)ですから、批評は自由であると私は考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/59
-
060・並木芳雄
○並木委員 もちろん批評は自由ですけれども、その批評は、やはり無責任なものであってはならない、そこに限界がある、それを私はお伺いしておる。この間私の息子も実は大学を出て、総長の話を聞いて、家に帰って、おやじも少し気をつけなければいけないよということを言った。(笑声)ですから、もう矢内原さんの影響というものは大なるものです。そのときに、やはり御自分では高いところからごらんになって、高い批評眼でごらんになるから、いかにも危ない危ないというふうに思われる。それをそのままぶちまけてしまうと、それによってこうむる影響というものは莫大です。私の聞きたいのは、フアッショ化へ今逆行する面があれば、それをもう少し具体的に示してもらいたい。われわれは、民主主義のもとにおいて選ばれてきた国会議員で、その国会議員の議することで特に目立った欠点がありますか。あなたは、先ほど来公選くらいいいものはない、任命制はかえってよくないのだと言っておる自己のお言葉を否定するようなことになりませんか。いかがでしょう。何かわれわれ国会議員のファクターの中にこういうものがあるから、このままに放置しておいてはこの多数は危ないのだ、多数だけれどもこれは危ないのだ、そういうことがあったら御指摘をしていただきたい。そこまで裏づけがないと、あなたの御議論というものは、ただわれわれ与党が多数を頼んで、何だか大衆と遊離した官僚統制への道をたどっていく、その心配があるのだということを国民に植え付けてしまう。それを私はおそれているのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/60
-
061・矢内原忠雄
○矢内原公述人 ちよっとお尋ねの趣旨がよくわからないのですけれども、国会議員の行動、たとえば汚職の疑いとか、そういうことでございますか。汚職の疑いがあるとかないとかいうことでございますか。それとも、どういうことでございましょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/61
-
062・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 国会議員にファッショ化の傾向があるかどうかということを具体的に説明してくれということです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/62
-
063・並木芳雄
○並木委員 全体の動向がそうだ、憲法改正にしても、小選挙区にしても、放送法にしても、教育委員会制度の改正にしても、動向がある動向があるとおっしゃるから、その動向をもう少し具体的に説明をしていただかないと、あなたの主観だけに終ってしまうと言っているのです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/63
-
064・矢内原忠雄
○矢内原公述人 それは、国会議員ではなくて、法案という具体的な事実について私は申し上げておるわけなんです。法案もしくは審議、論議ということですね。国会議員のどなたがどうということは私は決して申し上げません。たとえば教育委員会の改正法案というものが今出ております。これを審議なさるときに、どなたがどうおっしゃったかということは、私は少しも問題にしておらないのです。国策という政府の考えておられることですね。それは、たとえば選挙制を改めて任命制にするとか、教育長の任命がどうであるとか、教科書制度がどうであるとか、それから、これはまだ提案されておらないようですが、放送法案の問題とか等々がございます。そういうところをずうっと貫いている一つの思想というものがあって、それは教育とか、言論報道とかに対して何か統制が必要だ、野放しはいけない、自由はいけない、統制が必要だという思想だと思うのです。これは国会議員のどなたがどうこうというわけでは決してない。ただ法案として審議されている事柄、これは印刷して私どもお配りいただいておりますから、内容は承知しておりますが、それについて申し上げたわけです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/64
-
065・並木芳雄
○並木委員 どうも矢内原さんは、行き過ぎというものがあることをお認めになると思うのですけれども、その行き過ぎを是正するという一つの改正案が出てくると、すぐそれが逆のコースをとってしまうというふうに、少し誇大妄想的に、恐怖心、ノイローゼにかかっていられるのではないかと思うのです。ですから私は今の質問をしたので、動向々々とおっしゃるから、動向ならば、われわれの要素の中に、官僚統制へ持っていくとか、ファッショ化へ持っていくとか、戦前に復帰するとか、そういうものが最大公約数として認められるのかどうか、それをお伺いしたかったのです。特に先ほど来お伺いしていますと、現在の教育委員会というものの存続を主張されている。そうして、その議論をずっと一貫してたどっていきますと、それでは国にもそういうものを必要とするというところまで徹底していかないと、これが通らないと思うのです。どうも総長のお考えは、何ですか、教育というものを一般行政から分離して、いわば第四の権利、立法、行政、司法のほかに、第四の、たとえば教育権といいますか、そういうものを打ち立てていかないと、あなた御自身が永久に解決点が出てこないのではないでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/65
-
066・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 簡単に願います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/66
-
067・並木芳雄
○並木委員 教育優先ということについては、私も人後に落ちるものではないのです。ですから、一つの考え方として、総長が教育というものは行政から分離して、別の第四義的の分権にしていったらどうだ、三権分立を四権分立にしていったらどうだというふうに徹底していらっしゃるならばいささかわかるような感じがします。たとえば文部大臣にしても、文部大臣はなるべく働かない方がいいのだというようなふうに、あなたは非常に縮小的に希望されている。そのくせ、また予算はうんと取っておけと言う。予算などを取るには、うんと働かなければだめです。そういう矛盾もあります。ですから、文部大臣というものを毛ぎらいしておるならば、煙たがっておるならば、その文部大臣をチェックするところの国としての教育委員会というものの必要を痛感されないでしょうか。そこまで一貫して、国にも教育委員会があり、都道府県にも教育委員会があり、市町村にも教育委員会があって、それがみな公選なんだ、こういうことならば、それで初めてあなたが守ろうとする教育の独立も中立も達成されるのじゃないでしょうか。文部大臣は総理大臣の任免権のもとに属しております。だから、あなたの議論からいくと、ほんとうに文部大臣というものが行政に直属しておるので、これこそ教育にとっては一番の目の上のこぶかもしれないのです。さればこそ、なるべく働かないで、じっとしていろという御懸念も出るのでしょうけれども、もし矢内原さんがそこまでお考えになった上に教育優先や教育の独立を唱え、そうしてこれは第四の分権なんだというところまでの御意見をおっしゃられるならば、きょうの質問はそれで終っておきたいと思うのですが、いかがでございましょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/67
-
068・矢内原忠雄
○矢内原公述人 立法、司法、行政のほかに教育権を認めるというところまで私は考えておりません。ただ、一般行政事務の遂行の上においては、教育と警察の問題——教育に限って申しますが、これは長い期間を要するということと、それから政治の手段となる危険が非常にあるということ、この二つから考えて、これは特殊のお考えを願いたい。たとえば大学について申しますと、大学では、慣例として大学の自治ということを私どもは主張してきておりまして、日本でもある程度行われております。これはぜひともそうしていただかないと、日本の学問の進歩が大へんおくれると考えております。それから地方教育、これは教育委員会制度ができておりますので、そちらの方におまかせした方がいいのではないか、そういう趣旨です。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/68
-
069・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 野原覺君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/69
-
070・野原覺
○野原委員 時間の関係もございますから、努めて簡単にお尋ねをいたしたいと思うのであります。
私どもは、矢内原先生のこのたびの改正法案に対する御見解は、すでに声明書において十分存じておるのであります。しかも、その声明書の内容は、御承知のように二つからできておりまして、民主主義教育制度を根本的に変える懸念があるというのが一つ、もう一つは、法制上改正を要する点があるならば なぜ適当に審議会にかけてくれぬのかということで、日本の教育を憂えるあまりに、教育に関心をもたれる総長先生方がこの声明書を出されて、がぜん全国民的な反響が呼び起されているのであります。
そこで、私はお尋ねをいたしたいと思いますが、先ほど自由民主党の町村委員のお尋ねに対しまして、先生は、このたびの法案は反民主主義的な傾向にある、それは放送法の改正、あるいは憲法の改悪、あるいは小選挙区の問題等々から考えて、そういう傾向にあるという御意見でございましたが、私に言わしめると、これは単なる傾向ではなくて、実は重大なる内容をもっていると私どもは考えているのであります。その具体的な内容として、実は先ほども私は質疑の中で申したのでございますが、御承知のように、第五十二条第二項にはおそるべき内容が書かれてあるのであります。町村委員は、教育本来の目的達成を阻害しているものがあると認めるときは、是正措置の要求をするのだ、是正措置の要求だけじゃございませんか、こういう内容の質問でございますが、その第二項を読んでみますと「文部大臣の前項の規定による措置は、」云々として、最後にただし書きがございまして、「ただし、文部大臣は、必要があると認める場合においては、自ら当該措置を行うことができる。」というのであります。私どもは、この内容はきわめて重要であると思う。都道府県教育委員会がやった、市町村教育委員会がやった、そうして教育本来の目的達成を阻害しておるかどうかという判断を政党の文部大臣がやってのけて、そうして言うことを聞かなければ、文部大臣の権限において当該措置を行なってしまうのでございますから、この法律の考え方は、明らかに中央集権の最も大なるものではないかと思う。文部大臣によれば、清瀬さんのような民主的な方は存じません、しかしながら、時がかわりますととんでもない文部大臣が出て参りまして、そうしていかなることをやるかもわからぬのであります。この点先生は、単なる傾向という御意見でございましたが、私どもは、これは単なる傾向ではなくて、文部大臣が日本の教育を法律制度の上から完全に律してしまうという中央集権のおそるべきものだと考えておりますが、先生の御所見を承わりたいのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/70
-
071・矢内原忠雄
○矢内原公述人 第五十二条第二項のただし書きの点は、私も法案を拝見して気がついておりまして、内容的に非常に重要なことであると承知しております。ただし町村さんのお尋ねに対して傾向ということを申しましたのは、お尋ねの趣旨が、文部大臣、政府による国家統制、フアッショ化がどのくらいの正面、まっ向正面から出ておるかというふうな趣旨のお尋ねだと思ったのです。ですから、これは氷山の一角と申しますか、一つの傾向である、ただしその傾向といいますことは、実体がないのに傾向ということをそういう意味で申したのではありません。いろいろなところに、内容的に、つまり実体的に国家統制の趣旨による立法であればこそ、問題といたしておるわけでありまして、傾向と申したことは、実体のないことをただ心配するということではありません。こういうことからいくと、この国家統制の道をたどっていけば、つまりもっと全般的に、もっと大きい国家統制が出てくるおそれがある、そういう意味で傾向ということを申したのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/71
-
072・野原覺
○野原委員 第二点の質問でございますが、これは、同じくただいま質疑をされました並木委員のお尋ねに関連をしておるのであります。文部大臣は、政党内閣のもとにおいては政党員であり、政党大臣であります。従って、ただいま私が申し上げましたように、みずから文部大臣が当該措置を行うことができる、こういうことになって参りますと、政党が文部大臣を通じて日本の教育全体に干渉してくる、ここに実はおそるべきものがあると私どもは考えておるわけであります。このことは、決して国会の意思を無視するものではない。私は、教育内容について、事ごとに政党大臣が日本の教育全体について干渉してくるということは、国会の意思を無視するものではない、このように考えておるのでございますが、この点に対する先生の御見解をもう少し承わりたいのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/72
-
073・矢内原忠雄
○矢内原公述人 すでに繰り返して申したことでありますが、国民の選挙によって選ばれた国会、国会で選挙された内閣総理大臣、総理大臣の任命する文部大臣、それの指導助言もしくは今の必要な措置ということは、民主的な基礎を持っておるのだから何をやってもいいのじゃないか、それは民主的じゃないか、こういう論議に対して私は反対をいたしまして、教育というものは、政治の手段化されてはならない。それから政治の要求によってたびたび変えられても困る、つまり教育ということは、ある意味においては政党政治を越えた国民的な大事業でありまして、しかも長くかかって結果を見なければならないことでありますから、あるときの国会議員の選挙で多数を占めた政党の基盤に立って、国民教育に対してある指示を与える、指導を与えるということは、形は民主的であっても、教育の本旨から考えて非常に間違ったことじゃないか、こういうふうに考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/73
-
074・野原覺
○野原委員 この質問で終ります。ただいまから申し上げます質問は、先生も御承知のように、この国会に臨時教育制度審議会設置法案が提案をされまして、すでに衆議院では通過をいたしたのであります。そこで私どもは、この臨教審の審議の際に、中央教育審議会と関連した問題といたしまして、ぜひとも中央教育審議会のお方々においでを願いましてお尋ねをしなければならない、このように考えておったのでございますが、残念ながらこの公聴会に一切を譲るということに了解がついておりますので、お尋ねをいたしたいと思うのであります。
私は清瀬文部大臣に質問をいたしました。その応答事項を速記録をもって申し上げて、先生の御所見を承わりたいのであります。速記録にこう尋ねておるのであります。「中央教育審議会は独立日本の教育のあり方を検討するものではなかったのかどうか、中央教育審議会というものを長い間置いて参りましたが、これは独立日本の教育のあり方を検討するものだったと私は了解いたしておりますが、それは違うのかどうか。」、こういう質問をいたしたのであります。それに対して清瀬文部大臣は、「中央教育審議会をきめたのは独立以前のことであります。それゆえに独立後に起りました新たな問題、すなわち教育基本法、学校教育法は国家の教育責任を規定するものとして足らぬのじゃないか、独立後に起ったもは、独立前の立案されました中教審では予想しておりません。」、つまり中教審の実は設置の趣旨、それから何回となく開かれました歴代文相の中教審の総会における演説等をも、実はこの速記の中で申しております。それによると、占領下の日本の教育制度、独立をいたしましたから、独立後の日本の教育制度について検討をする文部大臣の諮問機関だということを明確に言っておりますが、清瀬さんは、独立後に起ったものは、独立前に立案された中教審では予想していないのだ、つまり独立日本の教育のあり方を検討するものじゃないんだということを実は申しておるのであります。
そこでなお言葉のやりとりがございまして、次に私どもがどんどん追及いたしますと、最後にこう言っておる。「しかしながら全体を御審議願うにしましても、占領中にやった根本のことを変えてしまうというような大きなことは自然入っておらないのです。」占領中にやった根本のことを検討するということは、中教審に入っていないと言う。それから次にまた半ば飛びまして、最後に「その当時には予想しておらなかった新問題が起ったのです。しかもその新問題たるや、教育の根幹にも触れる問題でありますから、ここで新たな委員会を作る、」とこう言っておる。つまり独立後の日本の教育のあり方、日本の教育の「根幹の根本」というむずかしい言葉をお使いになっておるのでございますが、その根幹の根本を検討する権限は中教審にはない、こう申しておりますが、長らく中央教育審議会に籍を置いておられます先生としては、一体中教審をそのようにお考えになって、今日まで文部大臣の諮問にお答えされてきたのかどうか、私どもは、この機会に先生から忌憚のない御意見を承わりたいのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/74
-
075・矢内原忠雄
○矢内原公述人 中央教育審議会の政令の第一条でございますが、目的が掲げられております。今宙で覚えておりませんが、教育、学術、文化に関する基本的な問題について、文部大臣の諮問に答え、かつ建議することができる、そういうことが中教審の使命になっております。
私は最初から中教審の委員に任命されまして、途中で任期満了になりまして、さらにあらためて任命されまして、最初から引き続いておるのですが、実際の中教審はどういうことをやってきたかと申しますと、文部大臣の諮問事項に答えるだけでなくて、中教審自身が問題を取り上げて、教育、学術、文化に関する重要事項を研究し、文部大臣に意見を述べる、そういう了解で出発し、また最初のころの文部大臣は岡野文部大臣でありましたが、岡野さんも、そういう趣旨で中央教育審議会にごあいさつがありました。そこでまず六三制の検討から始めようじゃないか、つまり教育制度の中心をなす学校体系の検討をやろう、戦後にできました教育刷新審議会の答申を参考にして、政府がお作りになりました教育制度の再検討をやろう、それが時勢に適当しておるかどうかということを中教審みずからが再検討しようということで、相談の結果、一番下の段階から始めよう、小学校最初の六年についての検討を加え、続いて中学校についての検討を加え、それから派生してくるPTAの問題とか、それから教育委員会制度の問題とか、それから僻地教育の問題とか、特殊児童の教育とか、それからまた、六三制の一番下から始めては大学までなかなかいかないから、大学についてはまた並行して研究しようということで、大学制度についての検討を始めました。それで委員の改選がありました直前において、大学の入学試験地獄を解消するのにはどうすればいいかという問題を取り上げまして、それから短期大学制度というふうに研究をして参りましたので、これは中央教育審議会の設置の目的、政令に掲げられたる事項から考えても、また実際やってきたことから考えましても、日本の教育制度の全般にわたり、根本的な問題についての再検討を加えてきたわけであります。そうしてその諮問され、あるいは建議する範囲も限られておりません。広範になっており、また実行してきたわけであります。しかるにかかわらず、臨時教育制度審議会をお作りになるという考えがあることがわかりましたときに、中教審は、文部当局に対して、臨教審と中教審の関係について質問いたしました。ところが、そのときにおける文部次官のお答えは、わからない、研究中であるということでありました。臨教審を設置することは中教審に諮らない。これは、教育制度に関する重要な問題でありますから、臨教審を設置することも中教審に御付議あるべきだと私は思っておりましたけれども、これは御付議にならぬで、今度の法案が国会に提出されたわけであります。それで臨教審の趣旨、目的を伺いますと、三つも四つもあるようでありますが、教育制度の根本的改革は臨教審でやる。この根本的な制度のワクの中において、中教審はいろいろなことを諮問されたり答申したりする。そういうことは、中教審の権限を不当に狭めた、縮小したものだと思います。それで、中教審で審議できないことは何もない。それから、教育の問題は関係するところが広いから臨教審をお作りになるということでありますが、中教審の委員の数は二十名でありますけれども、いろいろな分野から委員が選ばれておりまして、国立大学、私立大学、それから中学校、小学校の校長もしくは教員、それから財界の人、これも関東、関西というふうに人選されております。地方団体の長、たとえば東京都知事——前には大阪市長が入っておりました。それから言論界、評論家、それから特殊の職業分野を代表すると思われない、全然一般的な立場から出ておるような方もありました。ただ国会議員がお入りになっておらないということだけが、臨教審の構想と違うわけであります。それ以外には、中教審は、地方制度に関してでも、教育委員会の委員及び学術会議の議長、国立大学及び私立大学の人も、小学校、中学校の先生も、評論家もいる、言論界もいる、財界もいる、すべて網羅されておりまして、そうして皆さんしかるべき方であって、教育の根本問題について付議されるにふさわしい方々だと思います。国会議員がお入りになっておらないということは、これは教育に政党的な色彩を加えないという考慮から出ておることであると私は解釈しておりまして、中教審の組織の立て方はきわめて適当であると思っております。
臨時教育制度審議会において審議されることは、教育の根本問題である。第一には、教育に関する国の責任を明確にする。第二には、教育基本法を改正する。民主主義だけでは不十分であるから、何か教育基本法を改正して、民主主義以外のことをお加えになる。第三は、教育制度、ことに大学制度について研究してもらう。そういう非常に重大なことを、存続期間二ヵ年を予定されておる臨教審——三十一年度の予算は八十三万円ですか、中央教育審議会の予算は百六十万円で、倍の予算があります。それで中央教育審議会は、今申した通りに二ヵ月に三回総会を開き、さらに臨時特別委員会を開き、専門委員もでき、参考人も呼んで勉強してやって参ったと思うのであります。その中教審の半分の予算で、存続期間二ヵ年という間に日本の教育制度の根本に関することを、教育基本法の改正であるとか、教育制度、ことに大学教育に関する根本的な改革であるとかをやってしまおうとなさることは、私どもは非常に心外というか、全く心配に思っております。そうして、中教審があるにかかわらず、これを素通りしていろいろの、たとえば教育委員会の法案とか、教科書法案——あれは諮問されましたけれども、教育委員会の法案を提出されたり、臨時教育制度審議会なんかも作ったりなさることを見れば、政府が諮問機関というものをどれほど重んじておられるかということについて疑いなきを得ない。臨時教育審議会をお作りになったところが、果してそれをどれほど尊重なさるかどうかということも疑わしい。そういうものをお作りになる必要がないのではないかと私は存じます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/75
-
076・野原覺
○野原委員 簡単に終ります。先生方が声明書を出されましてから、これを反撃する声明書が自由民主党から出たのであります。それを私ども読んでみますと、教科書については、中教審に諮問しておるじゃないか。都合のいいときには中教審が出されておりますが、今回のこの教育委員会の最も重要な諮問は、中教審に出されていない。時間がなかったから、こういう苦しい弁解のようであります。こうなりますと、何のために一体政府は、国は教育審議会というものを置いておるのか、まことに不可解にたえないのであります。今日の中央教育審議会では、自分たちが考えているような答申をしてくれないから、そういう場合に諮問をしない、中教審というものが自分たちと同じ意見を出してくれないから、国会議員を含めた自分たちの思っている方向に動く臨時教育制度審議会を作ろうという下心であるとするならば、私は日本の教育を党利党略によって誤まるもまたはなはだしいといわなければなりません。私どもは少数ではありますけれども、これらの問題については徹底的に追及をいたしまして、清瀬文部大臣の責任を究明したいと思います。このことを申し上げまして質問を終ります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/76
-
077・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 稻葉修君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/77
-
078・稻葉修
○稻葉委員 公述人に学問、研究、教育と政治との関係について、つまり教育の政治的中立性ということに関して御質問をいたします。私は教育、研究、学問等が、直接人類の文化、すなわち学問的な真理、道徳的な善であるとか、あるいは技術的な美であるとか、そういうことに直接携わる重大な役割を負うことはもちろんでありまして、学問的な内容、教育それ自体の内容、技術的価値への政治権力の介入は厳に慎しまなければならぬと思いますが、政治は、それら直接の人類文化の創造者ができるだけよき環境において個人的才能を伸ばすということに、社会環境を育成する役割を持っているものと思いますので、教育行政、なかんずく教育財政等につきましては、国あるいは地方公共団体、あるいは議会も、つまり政治の分野においてその責任を負うべきものと存じますが、その責任の負い方いかんが、このたびの法案において著しく教育内容それ自体に関与するように世間ではいわれており、公述人もそういうふうに思っておられるようでありますが、その点について、この法案のどこが教育内容それ自体に政治権力の入っていくおそれがあるのですか、御指摘を願いたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/78
-
079・矢内原忠雄
○矢内原公述人 たとえば四十八条でございまするが、文部大臣はこれこれに必要な指導、助言または援助を行うことができる。第二項に例示としてお示しになっておるそこを見ますと「学校その他の教育機関の設置及び管理」第二号は「学校の組織編制、教育課程、学習指導、生徒指導、職業指導、教科書その他の教材の取扱その他学校運営に関し、」云々。それから「保健及び安全並びに学校給食」「校長、教員その他の教育関係職員の研究集会、講習会その他研修」あと十一ほどありますが、省略いたしますけれども、こういう事柄について文部大臣が助言援助を行う。そうして、そのやり方が不当であるとお認になつたときには、教育委員会を通し、あるいは直接に是正または改善のため必要な措置を講ずることができる、これはきわめて具体的に書いてあると思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/79
-
080・稻葉修
○稻葉委員 この教育内容それ自体と、その教育の伸びていくための社会的環境の育成、すなわち教育行政とは区別して考えるべきものであり、前者は教育者が担任である、あるいは学者研究者の担当であって、後者はやはり政治の分野の担当ではないか。その後者において、文部大臣なりあるいは議会なりが現在の制度において不十分であると認めた場合に、これを改革していくことが妥当であるか、それは全然いけないことであるか、それらの点について御見解を承わりたいのです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/80
-
081・矢内原忠雄
○矢内原公述人 どういうことでございましょうか、教育の内容以外に学校を建てるとか……。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/81
-
082・稻葉修
○稻葉委員 学校を建てるとか、それから教育委員会は地方自治体として財政的な負担もあるとか、従ってそういう負担を除いて、むしろ教育の施設設備等の充実に充てた方がいいとかいう判断は、それは政治の判断であって教育者自体の判断ではないというふうに思うのですが、いかがでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/82
-
083・矢内原忠雄
○矢内原公述人 教育者自身は、学校がなければ教育できませんから、学校がほしい。たとえば雨天体操場もほしい、体育館もほしい、それから実験設備もほしいですが、みな金に関係のあることですから、教育内容というものが物的設備から宙に浮くことは絶対にない。また人事、先生、教員ですね。教員の数から宙に浮くことはない。だから教育者は教育内容のことを考え、教育の技術を考えて、その実施のことを考えることは、必ず物的人的の設備の裏づけを考えます。これは教育者がそれを考えなくてもいいというわけにもいかぬ。ところが教育者自身が財布を握っておるわけじゃないから、それはお金を下さいといわなければならぬ。それを地方議会に申し出るわけですね。地方議会はそれだけ金をやるとか金をやれないとか、これは政治の面ですから、地方議会がおきめになることです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/83
-
084・稻葉修
○稻葉委員 教育それ自体と政治との関係について、教育の政治的中立性ということが重要でありますが、政治からの教育の中立性と同時に、教育者の政治への中立性も同等な比重において重要だと思いますが、現在の日本の教育行政制度のもとでは、その中にこのたびの教育委員会制度も入るわけですが、政治からの中立性は世間に非常に強く主張されるところであるけれども、教育者の政治への中立性ということについては、著しく偏向があるように思うのです。たとえば教育者団体、つまり義務教育職員全体が団体を結成して、これを労働組合として総評の傘下に加盟しておる。そしてこれが政治的な重大な問題について、教育的な真実性というものは個人の判断にゆだねらるべきものを、決議等でもその結論を出して、そうでない者をも決議で束縛して、そうして一定の方向に政治活動をするということは、教育者の、あるいは教育権の政治への中立、政治への不関与ということを著しく阻害する現況にある。そういう点については、やはり国家としては、あるいは政治権力としては、その政治への中立、政治と教育との相互侵犯すべからざる分界を守るために、ある種の改正を加えるということはやむを得ぬことだと思うのですが、その点については、公述人はいかがにお考えですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/84
-
085・矢内原忠雄
○矢内原公述人 今問題になっている教育委員会制度の改正に直接関係のないお尋ねのように思いました。(「ありますよ」と呼ぶ者あり。)しかし、つまり教育委員会の選挙を改めて任命制にするというようなことがそれに関係があるのかどうか、私にははっきりわかりません。が、一般的にいいまして、教育の政治的中立ということは、これはちゃんと法律にも明記してあるところでありまして、特定の政党を支持し、もしくは支持しないことがきめられておるのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/85
-
086・稻葉修
○稻葉委員 ただいまの公述人の御見解は、政治への中立も大事である、法律にも明記してある、こういうのでありますが、現在の義務教育職員が団体を結成して総評の傘下にあるということは、総評が特定政党を支持する労働組合の総評議会であるという事実と照らし合せて、公述人も教育者として、教育上の問題としては全然問題にならないことであるか、あるいは政治と教育との紛淆を来たす重大な問題であるとお思いになるでしょうか、その点お伺いしたいのであります。たとえば、大学自治についての公述もございましたが、大学の教授たちは、これは自分の判断で、現在政治問題化しておる憲法の問題とか、あるいは軍備の問題であるとか、そういうことについて政治学の教壇において、あるいは法律学の教壇において、その学生に自分の学説を説くことは自由に行われておる。けれども大学教授が団体を結成して、個人のそういう見解を決議で縛って、団体全体で個人の研究の自由を束縛していくという方向は見受けられないけれども、義務教育職員においては、そういう傾向が明確にあるのです。そういう教育者の態度というものは、教育と政治との紛淆を来たすものではないか、そういう方向があれば、やはり国家は国家の自分の立場から、政治権力の立場から、教育のそういう間達った方向に対して、あるいは教育委員会の改正、あるいは教科書法の改正、そういう立場から、そういう問題について、中立であるような教育行政上の雰囲気、自由な立場で、個人の良心に従って才能を伸ばしていくという教育者の立場を自由にするために、これに規制を加える、団体的な決議で束縛するような方向に対しては、規制を加えるということが、国家教育行政権者の任務ではないかというふうに私たちは思うのですが、いかかですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/86
-
087・矢内原忠雄
○矢内原公述人 教育に従事しておる者が組合に加入していいか悪いか、教育に従事する者が労働組合に加入することを禁ずる方がいいだろうか、(「そんなこと問うていない」と呼ぶ者あり)いや、ちょっと聞いて下さい。それは、組合に加入するのは自由である、自由にした方がいいと思うのです。教育者であるがゆえに市民活動を禁ずるということは、これはなすべきではない。それから組合に入って、労働組合が組合法にきめておることに違反した場合には、これはいけません。けれども、労働組合法で認められている行動をいたしましたときに、その場合は組合員ですから、組合の規則に従うということは当然だと思います。ただそれが特定政党を支持しろとか、支持してはならないとか、そういうことをもしも組合で決議するならば、これは組合として自殺です。また教育者の任務に反することです。それはいけません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/87
-
088・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 稻葉君、なるべく簡単に願います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/88
-
089・稻葉修
○稻葉委員 これで終ります。きわめて明快な御回答を得ましたので、われわれも自信をもって、今日まで義務教育職員団体が特定の政党を支持しろという指令を発し、特定の候補者を支持しろという指令を発してきた事実にかんがみまして、国家の立場から教育のあるべき姿にこれを直して、自由な立場——決議等に縛られないで、個人の自由な良心、責任において行動できるように、そういう雰囲気を作っていくために諸般の改正をしたい、こう考えるのですが、それは非常に間違った考えでしょうか、この点だけを承わって、今後の審議に資したいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/89
-
090・矢内原忠雄
○矢内原公述人 それは、組合法の改正などを、もし必要であればなさればいいので、教育委員会制度とは私は関係ないと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/90
-
091・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 山本勝市君。時間がないので、なるべく簡単にお願いします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/91
-
092・山本勝市
○山本(勝)委員 簡単にお伺いしますから、簡単に要点だけお答え願いたいのです。二点ばかりお伺いいたしたい。
第一点でありますが、南原前総長並びに矢内原総長その他の学者の方が非常に熱心にこの法案に反対しておられますが、私が察するに、先生方がああいうふうに反対されるのは、ただこの法案がどうというよりも、最近の日本の政治傾向といいますか、そういうものが非常に逆コースをとろうとしている、そこに非常な民主主義の危機を感ずる、これではいかに自分たちが学究であっても、民主主義の危機に際してただ手をつかねているというようなことはいけない、何としても民主主義を守るがためにはここで発言をしなければならぬと、こういう非常な熱意に燃えておられて、その結果がああいう声明となり、また公述されたようなことになっているのではないかと、これは私の察しです。もしその私の推察が誤まっていないといたしますと、私はその態度に対しては非常に敬意を表するのです。これはもう本心そう思っているので、私は保守党におる者ですけれども、学者といわず、およそ日本人である限り、民主主義の危機を感じながら手をつかねて見ているなんということは許さるべきことじゃない。これはもう憲法にもあるように、国民不断の努力をもってこれを守っていかなければならぬものだと私は信じておるものであります。第一にお伺いしたいことは、そういう最近の日本の政治傾向に対して民主主義の危機を感じ、これではただ袖手傍観しておれない、こういうお気持が強く貫いておられるように思いますが、いかがでしょう。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/92
-
093・矢内原忠雄
○矢内原公述人 おっしゃる通りでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/93
-
094・山本勝市
○山本(勝)委員 それで私は、それを非常に敬意をもって、今後もお気づきになった点、民主主義に反する傾向があったら、忌憚なく強力に発言していただきたいのであります。これは私は、ここだけで申し上げるのではありません。
ただその第二に私はお伺いもし、御了解も得たいと思うのでありますが、主観的にそういう民主主義を守る熱意で動いておられるということがよくわかる。またそれに敬意を表するのですけれども、その公述される中身をずっと承わっておりまして、保守系統の人人を十分に説得することがむずかしい点があると思うのは、それはなぜかと言いますと、私自身がそういうふうに先生の立場をよく了解しながら、なおかつそのまますっと受け入れられないものを感じますのは、われわれもまた民主主義を守ろうとしてからだを張っておるのだということに対する御了解が、少し足らぬのじゃないかという点であります。つまりどうも保守政党の連中は逆コース、自衛隊を作り、再軍備をやり、再び侵略戦争をやって、明治時代のあの帝国主義の郷愁にかられて動いておるんだといったようなことが、南原さんの、昨日の夕刊などにもちょっと座談会の記事が載っておりましたけれども、そういう考え方がどうも皆さんの中にみなぎっておっての発言のように思うのでありますけれども、それは非常な誤解であって、われわれ自身も民主主義を守るためにはからだを張っておる。少くとも私自身はそうなんです。私だけではありません。私の党の中にそういう方が——例外はあるかもしれませんけれども、それはきわめてまれなる例外で、大多数は同じ考えを持っておるのであります。ただわれわれは、やはり民主主義の危機を現実の動きのうちに感じておるのですが、その民主主義の危機を感じておる感じ方といいますか、ポイントが少し違うんじゃないかと私は思う。つまり矢内原先生なんかのは、かつての戦争前のあの軍国主義というか、帝国主義の時代というふうなものにだんだん動いていくという危機を感じておられる。私個人もそういう危険が全然ないとは申しません。教育だけではありません。幾多の法案を見まして、ややもすれば、本人はそう望まなくても、一たび始まったことがあとに戻ることは非常に困難で、向うへ進む方が楽なために、知らず知らずのうちにそこに入っていく危険をたびたび感じて、それを食いとめることに力をささげたいと思っておるのでありますけれども、そういうことのほかに、もう少し大きな、反民主主義といいますか、民主主義破滅の危機を一つ感じておるのです。これを一つ申し上げて、私は御意見を承わりたいと思う。矢内原先生は、私の了解しておるところでは、自由民主主義に徹しておられる方だと思っておる。つまり憲法に今定めておられるような基本的人権というものを民主主義の中核精神として考えておられる、そういう民主主義者であると私は了解しておる。ですから先ほど先生のお話の中に、ファシズムとかあるいは共産主義などというものは民主主義じゃない、こういうことが公述の中にあったことからも私は十分了解できるのでありますが、私たちは今日の日本の教育の中に、そういう共産主義、あるいは共産主義と流れを同じゅうするような、そういう意味の一種の全体主義というものの危機を感ずるわけです。これはこまかいことは申しません。ここで時間もないのにいろいろ現実の事実は申しませんけれども、今日の日本の教育の中に、軍国主義的な意味の全体主義あるいはファシズムの危機、そういうものは私は感じませんけれども、それとは違って、つまり共産主義ないし容共的な、つまりロシヤのやり方あるいは中共のやり方、これは矢内原先生の考えからいえば、全体主義に相違ない、そういう全体主義的なものにあこがれるといいますか、それをたたえるというふうな空気が教育の中に確かにみなぎっている。これをこのままおいたら大へんだということがわれわれの頭にくるのです。つまりほんとうの民主主義、基本的人権、自由というものを基本に置いた民主主義というものをわれわれは考えるのでありますが、その民主主義をからだを張って守ろうというわれわれから見ますと、こういう共産主義的な全体主義への動き、そういうものを賛美する空気が教育界を支配するということを放任しておいては、日本の民主主義は保てないと思う。われわれの与えられた権限といいますか、国民から委託された職責において、食いとめられる限りのことは何とかここで食いとめなければならぬ、こういうふうに感ずるわけでございますが、矢内原先生は日本の教育の中に、ことに義務教育の中に、そういう中共とか、ないしは共産主義的な、先生のいわゆる全体主義的なものを賛美するといったような、そういうトレンドというか、 テンデンシーというものをお認めにならないか、なるかという点を伺いたいのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/94
-
095・矢内原忠雄
○矢内原公述人 日本の教育界の全体のことを私に尋ねられましても、申し上げる力がありませんが、共産主義と共産党というものは一応山本先生も区別してお考えだと思います。それで基本的人権、個人の自由と責任、これは民主主義の基礎であります。そういうものを否定するということは反民主的である。従って実際の政治のやり方でも、共産党もしくはファッショのような全体国家は、個人の自由、言論、思想の自由を束縛する、これは私も反対であります。日本の教育界の大勢がそうであるか、あるいはそういう傾向が顕著にあるかというと、私はそう思いません。個々の人はそれはあるかもしれません。それは教育界のみならず、国会議員の中にも共産党の方が出ておられるくらいですから、個々の人はあるかもしれませんけれども、教育の大勢というものは、共産党礼賛とか、共産党的がいいとか、そういうことはないと思います。私が危機を認めましたのは、私も、大学の学生の政治運動が盛んなときには、共産党系の学生とも接触がございましたけれども、これは今は静かになっている。私が民主主義の危機と申しましたのは、日本の国はとにかく民主化されるような、全体の仕組みがそうなっておりまして、そのもとにおいての議論であります。たとえば、清瀬大臣がおられますけれども、おられるところがちょうどいいと思うのですが、衆議院の臨教審設置法案の御審議のときの速記録を私は拝見したのですけれども、民主主義はけっこうだが、民主主義だけでは足りぬというふうにおっしゃっている。それで、民主主義はけっこうならば、民主主義を促進していただけばよさそうに思うのです。それが足りないというのは、たとえば親に孝行とか、国家に忠誠とか、そういう徳目が必要だということですね。そこで親に孝行、それから国に忠義ということは、民主主義には一体ないことなのかどうか……。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/95
-
096・山本勝市
○山本(勝)委員 時間がないのだそうですから……。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/96
-
097・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 山本勝市君、最後に簡単に願います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/97
-
098・山本勝市
○山本(勝)委員 私どもがやはり民主主義を守ろうとしているというところに、つまり民主主義が——教育界において共産主義的なるものを讃美する傾向は認めないというふうに、個人は別だけれども、そう大した力じゃないというふうにおっしゃったのですが、ここは認識の違いだと思います。
ただもう一つ最後にお伺いします。先生は経済学をやっておられるのですが、先ほど公述したことに関係してお伺いするのですが、私の考えでは、社会主義を民主的に平和的に実現するということを社会党の諸君は言っておられる。これは政権を取るまでは、確かに保守党が何か間違いを起せば、公明なる選挙でいくことはできると思うのです。これは、イギリスでアトリー内閣ができて、労働党が六年間もやったように、日本だって片山内閣ができたように、今後は十分あり得ると思うのですけれども、ただ職業選択の自由とか、ないしは財産権の保障、こういうふうな憲法の基本的人権をそのまま尊重して——資本主義を倒して社会主義にするという社会主義の意味が、先生が従来経済で言われるような、あるいはイギリスの労働党がかつて言ってきたような意味の、つまり資本主義を倒して、社会主義の制度にするということが、今日の憲法の基本的人権を尊重したのでは、私は絶対実現できないと思うのです。ただ法律を作ってといっても、今の基本的人権を尊重する建前ではできないと思うのです。(「とんでもない、勉強が足らぬ」と呼ぶ者あり)黙って聞いておれ。ところが、こういうふうなことに気がついていないでも、イギリスの労働党が現に政権を取ってから、そういう点で非常な反省が動いてきて、社会保障とか、完全雇用とかいう点に政策をしぼってきております。従ってかつての資本主義を倒すという望みは断っております。そういうふうになってくれば別ですが、そうならない。昔から言っておったような社会主義の傾向が、やはり相当思想界には強いし、ことに教育界には強い。これは今差し当って民主主義に反するとは申しません。しかし、そうして政権を取った後に、基本的人権を尊重したのではどうしてもやれないような、そういう政策を掲げている傾向がだんだん教育界を支配していくような形になるということは、私はやはりそこに一つの民主主義の危機を感ずるのですが、これについては先生はどういうふうに考えられるか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/98
-
099・矢内原忠雄
○矢内原公述人 どうも、たとえばアメリカ合衆国においてニュー・ヂィール政策をとった、あれは民主的であるか民主的でないか、ニュー・ディール政策をとった以後のアメリカ合衆国が民主主義の国であるかないか、そういう問題もあると思う。財産権の問題ですから……。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/99
-
100・山本勝市
○山本(勝)委員 それ以上の問題です。今の教育界に……。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/100
-
101・矢内原忠雄
○矢内原公述人 いや、あなたの疑いはそのことなんです。資本主義の社会がいかなる経路でももって社会主義社会に推移することができるか、学問上の問題で言えば、その問題なんです。それは暴力革命によるというのも一つの方法でしょう。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/101
-
102・山本勝市
○山本(勝)委員 基本的人権を尊重して……。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/102
-
103・矢内原忠雄
○矢内原公述人 基本的人権云々ということを申されますけれども……。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/103
-
104・山本勝市
○山本(勝)委員 基本的人権を尊重して、そうしていかに……。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/104
-
105・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 山本君、発言中はよく聞いて下さい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/105
-
106・矢内原忠雄
○矢内原公述人 公用徴収の問題とか、砂川村の基地拡張、土地買収、それから戦争前でも、私立鉄道を買収して国有鉄道にした、あれは財産権のある意味においての変更ですね。そういうことは憲法下においてもできる。それをやったことが民主主義、非民主主義社会であるとは言えません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/106
-
107・山本勝市
○山本(勝)委員 そこまで行くと、私は国有鉄道があるから社会主義だとか、あるいは郵便を国家がやっているから社会主義だなどとはおよそ考えておりません。社会主義か資本主義かということは、ニュー・ディールが社会主義であるとか、あるいは基地を公用徴収したから、資本主義でなくして社会主義だというようなことを考えるなら、もう議論の余地はない。社会主義か資本主義かということは、そういう国有財産があるとか国有経営が世の中にあるとかいうことできまるのではない。これはしかし、ここで議論をする必要はないから、それで大体矢内原さんの経済というか、そういうことに対する知識の程度というものが、私と違いますから……(笑声)。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/107
-
108・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 以上をもちまして、矢内原公述人の公述及びこれに対する質疑は終了いたしました。
矢内原公述人には両法案についての貴重な御意見を御開陳下さいまして、ありがとうございました。
それでは、午前中の会議はこの程度とし、午後はまず池田公述人より公述を承わることといたします。午後四時より再開いたします。
この際休憩いたします。
午後三時二十七分休憩
————◇—————
午後四時十六分開議発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/108
-
109・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 休憩前に引き続き文教委員会公聴会を再開いたします。
午後はまず池田公述人より公述を承わるのでございますが、この際一言ごあいさつ申し上げます。
池田公述人には御多用中にもかかわりませず遠路わざわざ御出席下さいまして、ありがとうございます。何とぞ両法案につきまして忌憚のない御意見を御開陳下さいますようお願いいたします。なお、公述その他につきましては、お手元に差し上げてあります注意書の要領でお願いします。
それでは池田公述人の御発言を願います。池田公述人。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/109
-
110・池田進
○池田公述人 京都大学教授の池田でございます。地方教育行政の組織及び運営に関する法律案につきまして、法律学者としての立場でなく、一介の無名の教育学者としていきさか所見を率直に述べさせていただきます。
まず初めに問題となりますのは任命制の問題だろうと思うのでございます。教育委員の任命制の是否いかんでありますが、私は、教育行政というものはできる限り政党間の力の関係というものから解放して安定させることが必要だと思うのでございます。そのためには公選制よりも任命制による方が妥当じゃないかと思います。なぜかといいますと、任命制の方が、行政委員会としての性格を持ちました教育委員会というものの委員を構成します場合に、その委員構成のバランスを合理的に作るということができるし、また保ちやすいからであると考えるからであります。また、教育あるいはその行政は政治から中立の立場で静かに行わるべきものと考えます。こういう見解を述べますと、それは古くさい教育の考え方ではないかと言われるかもしれませんが、私はこう信じております。かつて明治の初年に上野の森の銃声を聞きながら福沢諭吉先生が静かに自分の塾で学生に英語を教えられた、ああいう話を聞きまして心を打たれるものであります。そうした静かな教育の場所を与えてくれるものといたしまして、政治的に中立な教育委員を望みたいと思うのであります。任命制にしましても、住民が公選した地方公共団体の長がその議会の同意を得て委員を任命するわけですから、そのことに対しまして、私はこれが決して不合理であるとは感じません。それは、私は議長とかまたは議会の良識を信じているからであります。教育は、政治勢力の圧力から離れまして、そうして国民に対して責任を持って行わるべきものでございますから、教育委員自身の教育行政に対する責任というものがまた明確に問われなくてはならぬと思います。従いまして、この教育委員に非行あるいは違法の行為がありました場合には、その責任を問いただし得るものがなければならぬことは、これは当然であろうかと思います。だから、もしかりに委員の方に違法行為、あるいは健康上の問題とか、あるいは非行とかあった場合に、当該公共団体の議会の同意のもとに首長がそれに当るということは、何ら不当な点はないと存じます。こういうふうに委員の責任を問いただし得るという角度から考えていきますならば、公選制よりは任命制の方が都合がよいのではないかと考える次第であります。従いまして、提出されておりますこの法案の第七条に、「地方公共団体の長は、委員が心身の故障のための職務の遂行に堪えないと認める場合又は職務上の義務違反その他委員たるに適しない非行があると認める場合においては、当該地方公共団体の議会の同意を得て、これを罷免することができる。」云々、こういう規定は、行政責任の明確化、ことに地方教育行政におきまして最高の座にある教育行政者の責任の明確化のために必要であると考えます。こうしたものが民主主義を破壊するものであることは私は考えたくはありません。地方教育行政の最高の責任の地位にあります教育委員に対しまして、その制裁規定というものができるだけ明確にされていいものじゃないか、こういうふうに私は考えたいのであります。地方教育行政の民主化というものが、国民の自覚のもとに適正に行われておりますならば、教育委員の任命制への移行というものは決して私は心配するに当らないと考えます。公正な民意を代表する云々という問題は、これは手続のこともむろんありますが、それよりも、むしろその人たちの心構えの問題じゃないかと思います。幾ら公正な民意によって選ばれても、選ばれたとたんにふんぞり返るようなことがもしかりにあるとしますならば、それが果して公正な民意の代表者と言えましょうか。私は疑問だと思います。
さらに、教育委員会というふうなものの性格は、教育行政という専門行政事務をやるのですから、非常に科学的、専門的な性格を持ってしかるべきものじゃないかと思うのです。そこで、行政委員会としての教育委員会の性格は、この専門的な行政をするための行政委員会であるべきである、こういうふうに考えるのであります。だから、その委員は任命制による方が好ましいのではないか、そういうふうに考えます。教育に関する広範な事務執行の責任を持ちます教育委員であってみますれば、ことに日本のような現状におきましては、むしろ公選によるしろうといじり、いわゆるレイ・マン・コントロールといいますか、そういうものの方にこそむしろ一つの限界があるのではなかろうか、こういうふうに考えます。今回の改革は、私はここに一つの新しい教育委員会ができたんだ、こういうふうに解釈したいのでありすが、そうしますならば、この新しい教育委員会が任命制をもって出発するというのも、またあえて無意義なことではないと考えます。この新しい委員会で一ぺんやってみるのも一つの実験ではなかろうか、こう考えるのであります。
それから、これが先ほど来いろいろ問題となるわけですが、この法案の最も重要な特徴をなしております国の指導機能の強化ということでありますが、教育というものが国家の重要な機能の一つでございますから、国として教育についても指導機能を持つということは、さらにそれを一段と認識して強化するということは、何も私は不自然なことじゃない、当然のことだと考えます。しかし、下手をしますと、すなわち運用を誤まりますと、いわゆる片寄った中央集権になるおそれが十分あるわけなんですが、しかし、それは運用に当る人の問題であって、教育のことについて、特に教育行政に関して国が指導機能を強化するということは、私は教育の本質を考えてみましても決して不自然なことじゃないと思います。なぜかならば、教育は個人の完成という任務を持っていますと同時に、個人を国民的に統合するという重要な任務もあるのではないかと思うのです。かつて、フランスのデュルケムという社会学者ですが、教育についてこういう定義を下しております。子供らがみずからの立場では決して到達しないであろうような考え方、感じ方、行いを子供らに押しつけるための計画的な仕事が教育である、こういうことをデュルケムという社会学者が申しておるのですが、むろん、こうした見解は正しい意味におきます保守的な見解でありまして、同時にまた、教育は古きものから解放して新しい秩序なり新しい社会なりに向って習慣づけられていくという面を持っておるわけですが、そのいずれをも了とすべきで、一方だけを強調することに誤まりがあるのじゃないかと思います。同時にそれぞれ二つの目標を成立させなくちゃならぬのですが、その意味におきまして、教育のもう一つの機能であります個人というものを国民的な性格を持たすようにするという意味で、国の立場から教育に対して指導機能が発せられてくるということは、これは決して不自然な行為じゃないと考えます。しかし、先ほども申しましたように、これを下手な人が下手に運用すると下手な結果になりますから、そこで、国の指導機能というふうなものの強化につきましては、文部大臣が権限行使に当ります場合、特に国会による厳重な監視あるいは規制というものが必要となってくるのではなかろうかと思います。もとより、正しい意味におきまする国の指導機能の発揮ということは、これは前も申しましたように、教育の効果を上げるためのみならず、教育行政の筋道を明確化する、教育行政の系統を明確化する上にも必要であると考えるのです。しかし、これは再三繰り返しますように、下手をすれば、すなわち一歩運用を誤まると、独善的な国家統制に陥るおそれがないでもありませんから、そこは十分当時者の心構えによってそうならないようになされたらいいのではないかと思います。
たとえば、先般来問題となっております、この原案に見られております第五十二条の問題ですが、文部大臣の地方公共団体の長や道府県の教育委員会に対する是正措置要求の規定のようなものであります。これは、この条文の規定の運用のいかんによりましては、ときに強権のみだりな発動を伴いまして、地方教育が脅かされるおそれがあると思う。すなわち、たとえば、教育委員会の事務の執行が著しく適正を欠くと認められるような場合の認定権が一方的に文部大臣のみにあるというふうな感じに受け取られますから、そういう著しく適正欠くと認められる場合の認定権が一方的に文部大臣にあるというようなことは、これは妥当ではないと思うのです。この点につきましては特に一考さるべきものがあるのではないかと思います。原案第四十八条には、「文部大臣は都道府県又は市町村に対し、都道府県委員会は市町村に対し、都道府県又は市町村の教育に関する事務の適正な処理を図るため、必要な指導、助言又は援助を行うものとする。」とあるのですが、このことを積極的に日ごろからやっておれば、こうした問題があった場合の是正措置要求というふうなものはない方が当然なのでありますから、この第四十八条をしっかりやれば、第五十二条を加えるということは、言い方が悪いかしれませんが、考えようによっては蛇足であるとも考えられると思う。だから、第四十八条の運用よろしきを得さえしますならば、非行に対する是正措置要求というものはなくてもいいわけなんです。しかし、人間の社会というものはそう理想通りに行きませんから、いろいろと間違ったことがあるかもしれませんから、それに対する是正措置要求をきめた第五十二条が書かれたのだろうと思う。おととしの旭ヶ丘中学事件などのような場合に備えてのことだろうと思うのですが、しかし、旭ヶ丘中学事件のような問題が起りました場合、あれがああまで混乱しないうちに、すなわち、あれが是正さるべき非行となって現われる前に、行政機構の全力をあげまして、それが正常な状態になるよう対策に当るべきじゃないかと思うのです。そういう場合にこそ、国、都道府県、市町村一体の行政体系がフルに運用されるということの方が、むしろほんとうの行政じゃないかと思うのです。あの場合も問題が起るまでほうっておきまして、問題が起ってから騒ぐ。問題は、現行制度のもとにおける地方教育行政というものにどこか足らぬ点があるのではないかと思う。旭ケ丘中学事件というものは、見ようによっては一つのナンセンス・コメディだと思うのですが、ああいう問題が起らないように常日ごろから指導なり助言なりをやっていけばいいのではないかと思います。それを放任しておいて、問題が起ったときだけ騒いで、そのときだけ国家の立場から云々するということは、教育行政としてはまずいのじゃないかと思うのです。現われた非行の対策のための規定というものは、教育行政あるいは教育法規というふうなものには最小限度少い方がむしろいいのではないかと思う。これは理想でありまして、現実を考えてみて、そういう法規を設けなければならぬという事実がもしあるとするならば、これは非常に悲しむべきことだと思う。大体この新しく出されました法案を読んでみまして感じますことは、国の監督なりあるいは国の助言ということについての規定を設けるのにかなり敏感なように受け取られるのですが、その割に、文部大臣の行為に対しまして、救済規定というのですか、そういうようなものがないのは、これはちょっと片手落ちじゃないかと私はしろうとながら考えるのです。すなわち、文部大臣が教育委員会に対しまして権限を乱用したような場合、これに対して教育委員会がとるべき措置についてあまり考慮が払われていないということは妥当ではないと考えるのです。私たちのような一介の読書人の立場から口幅ったいことを申すのは差し控えますが、要するに、第五十二条につきましては、その行使に当って、あるいはその審議に当って慎重な考慮がなさるべきではないかというふうに考えます。
それから、人事行政一般についてでありますが、原案では、人事行政という点につきましては確かに一つの筋は通しております。この点は、いわゆる垂直的に明白に明白に出ておりますから、まあ世間では原案が圧力的だという感じを強くしておるのではないかと思うのですが、しかし、人事行政の原理といたしましては垂直構造的なものをもちまして、そうしてそれぞれ責任の所在を明確にし、命令系統を明らかならしめることは、これは当然なことだと思う。どこに責任があるのか、あるいは命令の源泉があるのか、それがあいまいでは、いたずらに行政を混乱に導くのみだと思う。だから、命令系統を一通り明らかにしたという意味で、この法案は行政という筋道から行きますとややまとまったものであると思うのです。こうした命令系統を明らかにすることをもちまして、それは国家統制の強化であるというふうな断定は、私は必ずしも当らないと思う。
その他、人事交流につきまして考えてみますと、地方教育行政におきまして、原案によりますと、給与の負担団体と任命権の属します団体を一致させますために、県費負担教職員の任命権をすべて都道府県の委員会に移したということは、これは人事交流の促進じゃないか、妥当な措置だと考えます。現行制度では地方教育人事の交流上に非常な支障があるということは、地方教育行政にタッチされたお方でありますならば十分実感をもって受け取られることではないかと思います。ただ、これも先般来問題となっておるのですが、都道府県の教育委員会の教育長の任命に当り文部大臣の承認を要するということなんですが、これまた悪用せられないよう適当な配慮を私は望みたいと思う。これまでなくしてしまえとは言いませんが、やはり文部大臣は承認を与えて、教育長の行為というものを一応権威づけるということは必要だと思う。そんなことは子供じみたことだと言ってしまえばそれまでですが、しかし、人間ごとはそう簡単に割り切れないものを持っているのではないかと思うのです。しかし、あくまでもこの点は運用を誤まられないようにお願いしたいものだと思う。この点の運用を誤まられますと、それこそいわゆる天下り人事というふうな悪弊が生ずるおそれなしとしないと思うのです。だから、文部大臣が教育長を承認するに当りましては、慎重な態度を持たれるよう、一介の人間としてお願いしたいのであります。とにかく、この点につきましても一考を要すべき点があるのではないかと思う。
そのほか、教育財政の点につきましては、現在教育委員会の権限とされております教育財産の取得、処分の権限、それから支出命令権、教育事務のための締結権というようなものが地方公共団体の長に移りまして、予算案、条例案についてのいわゆる二本建制度というものが消滅したんですが、これは、地方公共団体の長の行財政に関する総合調整権といいますか、その総合調整権を重視した結果でありまして、これが日本の今日の行政の実態から言いましてやむを得ない措置であろうかとも考えます。大体教育財政の点が非常に弱いというのが日本の教育行政の、あるいは広く世界のと言ってもかまわぬと思いますが、ウイーク・ポイントでありまして、現行教育制度のもとにおきましても教育財政の強化という点については至らぬ点を持っておると思う。それを今度は地方公共団体の長の方に移した。それは、地方公共団体の長の行財政に関する総合調整を重視して、その角度から教育財政をそこへ移したのだろうと思う。
しかし、ここで問題となってきますのは、さなきだに少い教育予算というものが、さらに地方の一般赤字予算対策のためのしわ寄せとなって現われて、犠牲をこうむる懸念が割合あるのであります。そこで、この際地方教育費確保のための法的措置というふうなものが別途あらためて一考さるべきものではないかと思う。こうして配慮がなされませんと、教育予算が貧弱化しまして、教育の遂行上支障を来たすおそれが非常に多いと考えます。そこで、教育費が防衛費に食われるという悪口が実際となって現われてきている。やはり教育費が防衛費に食われるのではないかと言われてもいたし方がないわけですから、そういう結果にならないように、この教育財政を確保するという点についてあらためて別な法的措置が考えられてほしいものと思います。ことに、国家権力の教育に対する関与の度が進んだという点を、私はこの教育財政を確保するという面に生かしていただきたいと思う。国家権力の名においてうんと金を集めて、それを下に流す、そういう方向にこそ集中の効果をあげてほしいと思う。とにかく、何かにつけ古来教育予算は削られる傾向にありまして、実質的な損害を与えられておるのでありますから、ぜひとも地方教育費確保のために何らかの法的措置が考えられてほしいものと思います。そうした教育費確保のためにこそ、国と府県、市町村一体の教育行政の総合力というものが発揮さるべきでないかと私は考えます。それから、文化階級にかなりのセンセーションを起しております教育内容の指導規定についてでありますが、行政権限の明確化あるいは強化に伴いまして、教育内容にまで必要以上の制約を与えるかのごとく思われる点があるわけであります。たとえば、第三十三条の問題あたり、あるいは指導助言の規定の点、そういうような点につきましても、よほど運用に注意さるべきでないかと思います。ことに、第三十三条の第二項、「学校における教科書以外の教材の使用について、あらかじめ、教育委員会に届け出させ、又は教育委員会の承認を受けさせる」云々という文句については、いろいろな方面にかなり恐怖の念を与えているかのように思うのでありますが、これは、条文の意味の無理なためというのですか、あるいは条文の説明の不足のためというか、誤解のある点があるかもしれませんが、この点、誤解のないように明確化するか、あるいはできる教育委員会規則というようなものにおいて含みのある弾力的な措置がなされていいのではないかと思うのです。とにかく、マス・コミュニケーションが非常に発達しました今日、こうした条項というものはいろいろの問題をはらんできますし、また、これが下手に受け取られて、そのために教育内容を貧弱化させる、たとえば視聴覚教育の方面におきまして活動が消極的になるというふうなことになったら、この法案の効果は逆効果になってしまうと思うのです。
また、指導主事の規定に「上司の命を受け、」云々という規定があるのですが、上司の命を受けというふうな形容詞を上にかぶせますと、指導主事の持ついわゆるスーパーヴィジョンという意味の指導がディレクション、——指揮というようなものに混同される憂いがあると思う。上司の命を受けてそれからやる、これはディレクション、つまり指揮するということになると思うので、私はこんな言葉はとっていただきたいと思うのです。指導主事は教育内容を指導するのですから、単なる指導のための事務をやります場合には上司の命は必要だろうと思うのですが、この「上司の命」というのは要らないのではないかと思うのです。上司の命を受けるということを入れますと、指導がディレクションになってしまう。指図、指令、指揮ということになるおそれがあるのではないかと思うのです。少くとも教育内容の指導というものは文化的な雰囲気の中で行わるべきじゃないか、こういうふうに私は考えます。けだし単なる管理行政の運用の場合とは別個のプリンシプルがあるべきじゃないかと思う。教育行政の場合を考えてみますと、狭い意味におけるアドミニストレーション、指導助言という場合と、いわゆるスーパーヴィジョン、指導行政ですか、この二つがあると思うのですが、この法案の中で、行政の面にその組織制度が明らかにされ、拡大され、勢い余って指導の方にまでそれが及ぶかのような感じを受けるのですが、その点は十分慎重な御考慮をいただきたいと思うのです。ことに、指導主事が上司の命を受けて指導するということになりますと、明らかにこの指導の場合はディレクション、——指揮になると思う。これは指導主事の指導という意味を解せざるものだと言われても仕方がない。指導主事は実際はそれぞれ指導課長なり学校教育課長なりの命を受けてやっているのですが、特に上司の命を受けると入れますと、指導主事の指導が指揮になるおそれが私は十分にあると思います。
そういう点、いろいろ考えれば考えられるのですが、それは省略しまして、全体としてこの法案をながめて見ました場合、地方の教育行政と一般行政の調和、それから教育の政治的中立と教育行政の安定の確保、それから国、都道府県、市町村一体としての教育行政制度の樹立に関しまして、この法案の意図するところは一応私は了とすることができると思います。しかし、若干の点、たとえば、前に言いましたように、国、都道府県、市町村の連携をとるため、教育長の任命について文部大臣あるいは都道府県委員会などの承認を要するというふうな点、あるいは文部大臣の是正措置要求、つまり直接、間接の要求権というようなものは、運用を下手にやると民主主義を脅かすおそれがあると思われるようなことができるのではないかと考えられるのですが、その点は前にも一言した通りであります。しかし、これは運用の問題でありまして、私は教育行政の衝に当る人の良識を信じたいと思いますし、また、今日の時勢が、かつての時代のように、いきなり命令なりあるいは権力なりを振りかざしてやるほど、そんなに人間があほうになっておるとは思いませんし、また、そうされて国民が黙っているほどいくじなしであるとも私は考えません。(「甘い、甘い」と呼ぶ者あり)それは、教育行政の秩序の流れを一応規定いたしましたものとしてこの原案を考えますときに、形式は一応整っておると考えます。しかし、この流れの中にだれが何を投ずるかというところが問題になってくるのでありますが、そこにときに重大な脅威となって現われてくるのですが、それだけに、この法案を行使します場合に、関係者の慎重な態度を願うものであります。
申すまでもなく、どんな制度にいたしましても、運用よろしきを得ない場合は、せっかくの制度であっても何もならないのみならず、かえって制度の悪用、乱用によって大きな害を生ずるおそれなしといたしません。そこで、国、都道府県、市町村におきまする教育行政の一体化をねらいとしましたこの法案の趣旨を十分生かされますよう、せっかくの御配慮を願ってやまない次第であります。
これをもって公述を終ります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/110
-
111・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 以上をもちまして池田公述人の公述は終りましたので、これより池田公述人に対する質疑に入ります。質疑を許します。前田榮之助君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/111
-
112・前田榮之助
○前田(榮)委員 池田先生の今の公述に対して御質問申し上げたいのであります。
まず第一に先生に聞いておきたいことは、先生は教育に携わっておられ、おそらく日本教育学会にも関係しておられると思います。教育学会に関係しておられるといたしますならば、教育学会の声明されていることはよく御存じなのかどうか、まずこの点を明らかにしておいていただきたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/112
-
113・池田進
○池田公述人 十分存じております。しかしながら、教育という面についての見解について、私自身違った見解を持っております。だから、そうした学会なりあるいは学者なりがある意見を出されまして、それを私も十分耳に入れる、だからといって、それに自分が無理にも従わなければならないとは考えておりません。私は私自身の考えを申し述べて今までの公述を終った次第であります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/113
-
114・前田榮之助
○前田(榮)委員 そういうことを私は責めようとは何も考えておらないのですが、今の先生の公述を聞いて、実は今日学界の中にもこんな人がおるのかと私はびっくりしております。こんな人はめったにいない、反対を言う人はあっても、こんな人はめったにおらないと私は思います。(「それは失言だ」「理由を言わないでこんなという言葉で言うのは失礼だ」と呼び、その他発言する者多し)今のお話によると、実は、賛成なのか反対なのか、それさえわかりかねるような内容が含まれておる。下手をすると大へんなことになるとか、運用を誤まると民主主義を脅かすおそれがあるとか、かようなことがたくさん述べられておる教育に対して非常な御心配をされておる熱意は私は認めるのにやぶさかではございません。そういうことについては敬意を払ってよろしいと思う。ただ、こういう法律を作る場合において、悪いところをみなのければあといいところが残る、だからいいじゃないか、こういうことでは、どこをひっつかまえていいのかわからぬ結果に終ると思う。ただ、先生の述べられようとする中心の課題は、最初に述べられた公選制を廃して任命制にするところにあるのじゃないかと推測されるのであります。そこで、先生に御質問を申し上げるのは、近代的国家の性格としては、やはり民主主義の建前に立って、国民みずからがすべての判断を行い、国民の意思の決定に基いて、主権在民の立場に立って、教育であろうが、社会制度であろうが、政治行動であろうが、その運営発展をはかるべきではないかと思うのであります。この点の軌道を誤まると大へんなことになるのでありまして、これをやるのには歴史の上でいつやったらよろしいかということが実際の問題になると思う。この教育委員会制度を今から行うか行わないか、日本に初めて実行するかしないかということになりますと、これにはいろいろな見解があって、初めてやるとするならば用意万端整えなければならぬ、新しい制度のことであるからというので、非常な自重論も出ると思う。ところが、一たんこれを実行した。かりにこの実行が誤まった、時期が早かったと思っても、一年、二年実行した限りにおいては、万全を尽して育て上げるのが民主主義の本体でなければならぬ。先生のお話を聞いておると、最初から任命制でよろしいのだ、こういうように聞えるのですが、この点はいかがな御意見なんでしょうか。まず第一にその点をお伺いしたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/114
-
115・池田進
○池田公述人 私は、教育委員会というものは、教育事務という専門的なものをやるための行政委員会だから、任命制でいいんじゃないかと思うのです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/115
-
116・前田榮之助
○前田(榮)委員 私が尋ねているのは、もうすでに発足して実行しているのです。しかも、これを五年なり八年なり十年たって経験に経験を積んだ、けれども誤まったということであるなら、あなたの考えるようなこともよいと思う。今公選制に入っておる。これは近代的国家のすべての様相なんです。民主主義の本則なんです。本道なるものを逆戻りさすのは民主主義の建前の逆行じゃないかと聞いておるのです。今までやっておらぬならともかく、今からやるというなら自重論も大いに尊重すべきだと思うが、すでに発足して、しかもまだ三、四年しかたっておらぬ。それに努力を払い、やってみなければならぬものが幾らもある。それを、あなたは、そういうところはおかまいなしに、公選制より任命制がよろしいのだ、こういう建前をとっておられるように今私は承わったのですが、そうなのかというのです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/116
-
117・池田進
○池田公述人 教育委員を任命制にすべきだという意見は私数年来持っておりますし、公選で発足したわけですが、そのときからだんだん見ておりまして、委員として当選なさる方は先生方が多い。結局専門家です。だんだん専門化していく傾向にありますから、そこで、私の年来の持論としましての教育委員の任命制は、熟慮の結果公正な角度から選んでいくので、そういうふうに移行しても混乱を来たさないのじゃないか、ことに任命制にするという法案が提出されました以上、それに対して私の賛成意見を申し述べただけであって、現在の公選制度から任命制度への移行はそう混乱を来たすようには考えないのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/117
-
118・前田榮之助
○前田(榮)委員 先生とここで議論をいたそうとは思いませんが、やはり教育に携わっておられる者として、すでに発足しているものをもっと努力して育てるべきではないか。しかし、この点はもう幾ら育っても私とは見解が違うようでありますから、これ以上議論いたしません。
そこで、運用の問題ですが、下手をすると大へんな方向へ行くおそれがある、こういうことを条文の中から引き出されて具体的に御説明になった。しかし、それは下手をしなければよい、こういうことなんです。これはそれに違いないのです。たとえば、ちまたのならずものを、あれは悪いやつだというが、あれもけんかしなければよいのだ、こう言うのと同じことである。いろいろな例をとって申し上げるとはっきりするのですが、最近起ったものとして、日本政界で一番大きな問題となっているのは小選挙区制である。この問題でも、選挙制度調査会の御手洗氏あるいは矢部貞治氏、臘山氏など、大体小選挙区賛成論者なんです。そうして、小選挙区は正しく行われればよいものだという学者的な良心に基いて、政府の委嘱を受けて案を立てた。ところが、実際の今の政界というものは、先生らが考えた政界とは違っておったのです。そうして、自分らが一生懸命まじめにこしらえた番組を政府へ答申すると、その番組をぐるっと変えて、とんでもない、いわゆる党利党略、利己的なものを作ったのでびっくりしたのです。びっくりして、これはいかぬというので、今反対の立場で政府攻撃の文を新聞に載せられておるのです。そこで、法律を作るときには、これは下手をすると悪くなっていくおそれがあるものについてはよく考えなければならぬのであって、あなたは、すべて任命制になるのに都合のいいような部面をひっつかまえて、これは下手をしちゃいけない、上手にやるのだ、まっすぐに進めなければいかぬというようなことを言われるのでありますが、政治の実態は、今申し上げた選挙区の問題と同じように、現実はそうではないのであって、この運転手は多少酔っぱらっておる。この運転手は多少右へ行くおそれがあるというようなことで、こういう運転手を除いてほかの車に国民が乗るならいいけれども、現実はこの運転手の上に乗らなければならぬ。それで、この運転手にはこのかぎはまかしていい、このかぎはまかすべきだということをちゃんと計算をして、それを何するのが学者じゃないですか。その学者の上に立って、現実をもちゃんと計数の中に入れて、そうしてこれが現実にどこに進むかという方向を見なければならぬのですが、それでも、今日われわれは、この教育制度というものを考えたときに、実際は、公選制を置くということについては、市町村までやっていいかどうかということについては非常な慎重論者であって、最近まで賛成論者でなかった。ことに私は社会党でも前は右派々々と言われた人間でありますから非常に自重論者でありましたけれども、一たんこれをやる限りはまず万全を尽さなければならぬ、こういう態度をとってきた。ところが、先生らは最初から、この民主主義というものについて、あなた方の学界の中でも十人寄れば八人、九人までは実行をすべしという議論のように聞いておるのですが、あなたはどうしてもそれにいかぬというのが納得がいかぬのですが、もっと、そういう点、この現実の実態というものについての御研究はどの程度になされておるか、それをお聞きしたいのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/118
-
119・池田進
○池田公述人 最後の点、ちょっと聞えなかったのですが……。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/119
-
120・前田榮之助
○前田(榮)委員 現実の教育界の実態というものから公選制というものが悪いということに対する実態調査がどこまでできておるかということをお伺いしたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/120
-
121・池田進
○池田公述人 公選制が悪いということの実態調査というものは私にはありませんし、またできていないと思います。実態がどうであろうとなかろうと、私の意見としまして、教育委員会というものは、行政委員会として専門行政をやるために任命制がいい。私は、政治というものは非常にむずかしい、きびしい、われわれのような甘っちょろい考えではいかぬのだということは知っておるのですが、しかし、政治がどうあろうとなかろうと、私の信念といたしまして、教育委員会は専門的行政委員会として任命制であるべきだ、そういう信念を持っておるのであります。それは、ちょうどここに任命制にする法案が出されましたから、京都からのこのこここまで出て参りまして、あえて教育学界の大多数の意向に反して、私のたった一人の意見かもしれませんが、任命制を述べた次第であります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/121
-
122・前田榮之助
○前田(榮)委員 それでは、最後に一言お尋ね申し上げますが、教育はもちろん小学校から中学、高等学校、大学と段階がありますが、すべて教育の方針なり教育を進める者の責任の実態については、午前中の矢内原博士、あるいはまた前の伊藤昇さんなどは、実際子供の教育について最も責任を強く感じるものは親だと言っておられました。そこで、今PTAの制度が置かれ、そこで非常によい運営の制度が行われているのだと思いますが、それらの国民の意見を最もよく直接的に教育に反映せしめるものは、公選制が一番直接的であり、最も合理的であり、それでしかもこれが近代諸国家で行われて効果を上げておる実態だと思うのですが、その教育の責任の中心はどこへ置くべきか、こういうような点についてあなたはどうお考えになっておるか。ただ帝国憲法時代のいわゆる文部大臣中心主義、国家中心主義の上からいいというような感覚で任命制という流れを見ておるのでありますか、そういう点についての先生の御意見をお聞かせ願いたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/122
-
123・池田進
○池田公述人 子供の教育について一番責任を感ずるのは親であるという御意見、ごもっともでありますが、しかし、私ら、教育にはいろいろあると思うのです。いわゆる家庭を中心とした教育、学校という公立の機関を通した、公の制度を通した教育、それから職場を通した教育、三つあると思うのです。しかし、ここで法案で論ぜられておりまする対象になっております教育は、公立の機関における教育であると私は思うのです。そういうところへ自分の子供をやるのは、ただ親としての利己的な立場のみならず、国家としての立場なり責任なりを子供の心に植えつけるということが、私は公のフォーマル・エデュケーション、制度的な教育の大きな眼目ではなかろうかと私は思うのであります。その意味におきまして、教育に国が責任を持つということは決して不自然なことではなくて、また、かえって持たぬ方が国の怠慢ではないかと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/123
-
124・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 高津正道君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/124
-
125・高津正道
○高津委員 ただいま池田先生のお話を伺ったのでありますが、あなたは、運用が誤まられないように、国家権力を増大させる危険があるけれども、運用を誤まらないように、教育内容への制約ともなりやすい部分があるが、あるいはまた文部大臣の是正措置要求権にもやはり問題があるが、運用を誤まらないようにという、そういうお説であったのであります。しかし、政治の現実は、衆議院において二百九十九名の多数になったというので、何もかもこの際平素考えておることを一挙に押し切ろうとしておる。こういう政治の現実があるわけなのであります。自由民主党の考える人も、このやり方では来たるべき参議院選挙に大きいはね返りがくる、これは困ったことだというように考え出しておる。そういうときなんです。あなたは非常に当事者の良識を信じて慎重さを期待されておるのでありますけれども、今同僚前田議員がいみじくも指摘しましたように、小選挙区制の区割に見られるところの党利党略の露骨さ、私はそれよりほかのことを申しましょう。農業団体再編成の名のもとに、全国の各町村に昔の帝国農会のごとき末端組織をまで植え付けよう、こういう企てがあったが、さすがに、全国の農協の反撃を食うや、その企てを露骨には出さないようにまでやっと今食いとめたところなんです。ラジオのいわゆる放送の統制の企てもようやくにして全国の良識ある人の叫びによって今やっと食いとめておるところです。また教科書の国定化へ一歩一歩今進んでおる。国危うしとわれわれは考えておるのです。あるいはまた、外交においてアメリカはだんだん世界から孤立しておるのに、そのアメリカの瀬戸ぎわ政策、危ない危ないその政策に追随して国が巻き込まれていく、これをどうしようかといって愛国者がみな憂えておるときなんです。そして、たとえば矢内原総長の言葉を使うならば、これは憂うべき逆コース的傾向というのでありました。これはほとんど学界の定説のようなものであります。私は本日も、文教委員の一人として、千葉大学の教育学部の教官六十八名から文教政策の傾向に対する声明書を受け取ったのであります。短かいからそれを読ませてもらいますと、「私たちは、戦争の代価によって学びえた民主主義を守り抜かなければならないものと思う。しかるに、近ごろの文教政策の動向を見ると、日本民主化の前途に対して容易ならぬ影響を及ぼす危険があるように感ずる。たとえば、最近の教育委員会制度や教科書制度に関する改正案は、教育の政治的中立性をゆがめ、ひいては、言論・思想の自由をおびやかすものであって、」「とりわけ義務教育に対するその影響の深刻なことを思う時、まことに憂慮にたえない。」、インテリは全部憂えておるのであります。新聞の論調はどうかといえば、一つといえどもこの教育法案を支持しておるのがないと朝日新聞の伊藤昇論説委員がここでさっき証言されたばかりであります。このような世論の中に、私一人かもしれないがと言って、ここへ現われて、任命制が教育行政にとってはより適切であるという勇敢なるあなたの御発言を聞いたのでありますが、このような意気を持って、多年考えておることを一挙にやろう、きょうもまたこの言葉が出るのでありますが、この内閣の中には追放を解除された戦前派が十三名もおるのですよ。そして、戦後にわれわれが、これが民主主義だろう、これが日本国民がああいう古い思想から脱却する制度だろうと思って、戦後派が——ほとんど戦後派ですよ。苦心惨たんして作り上げたものを、閣議で話をすれば、古い方の意見が大勢を支配して、そうだそうだということになってしまうのですよ。十六人の大臣の中で十三人ですから。それで、私は、こういうようなときには、あなたのように運用の期待を持たれても、それは全く木によって魚を求むるものであろうと思う。あなたは勇敢に、全部のインテリ、全部の新聞の世論に抗して時の政府の出したものに賛成だ賛成だとここで言われるのであるが、その勇気には敬服するけれども、果してあなたの期待は満足し得るものであるか、淡い淡い期待だと私は思う。これに対して、期待をすれば必ず多数派というものが言うことを聞いてくれるものだという何らかの明快なる根拠があるのだろうと思う。そこのところをあなたからはっきり聞きたいと思う。これさえ聞けば、私は質問はこれでけっこうですよ。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/125
-
126・池田進
○池田公述人 私は政党の多数決を認めておりますが、それに対して敢然と抗せられる少数の方もまたあるのじゃないかと思うのです。私はあえて一人と申しましたが、私と同じような考えはあるいは黙っておる人の中にあるかもしれません。私は、教育というものを、日本の国をよくしよう、そういう角度からも、もう一ぺん考えていいのではないか、そういう筋道から日ごろ教育を考えているものでありまして、この点も私の考えが国家による教育の統制というようなことを是認するような方向にも流れていくわけでありますけれども教育というものは、ことに公けの教育というものは、子供を国に貢献し得るようなりっぱな人間に作っていく、そういう役も、一半において持っていると思う。その一つの大きな任務を果すための一つの方便——と言うと語弊がありますが、手段として、ここに考えられましたような教育制度の運営というものがあるいは利用せられるのではないかと私は考えるのであります。それで、政治のことはわかりません。政治の現実がどうなっているか、これは私は存じません。にもかかわらず、私は私の考えていることをここに申し述べて、日本の政治家のお方の政治というものを信じて安心しておるのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/126
-
127・高津正道
○高津委員 私は質問をやめようと思ったが、私の言ったのは、今出ておる反動的諸政策、それを押し切ろうとするこの現実をあなたはお認めにならぬのですか。そうしてまた、毎朝新聞をお読みになっているでしょう。そうならば、これにさらにこの法案をくっつけて、この逆コースが進行するのを食いとめようという燃え上る良識というか良心というか、そういうような正義観はあなたにはわいてこないのでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/127
-
128・池田進
○池田公述人 それは、現実になって私たちにもわかるようになれば、立ち上るという気持はあります。今のところ私にはそういうふうな危険というものはあまり感じられないのです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/128
-
129・高津正道
○高津委員 学者というものは少し先を考えるものじゃないですかね。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/129
-
130・池田進
○池田公述人 それは私の学問の理論だけに限定したいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/130
-
131・高津正道
○高津委員 新聞を読まれるか読まれぬか、読まれれば、全国のインテリがみなこれは大問題だと見通して騒いでおる、そのことは御存じでしょうね。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/131
-
132・池田進
○池田公述人 十分承知しております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/132
-
133・高津正道
○高津委員 承知しておられれば、あなたはそれが間違いであって自分の方が正しいのだと思っておられるのですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/133
-
134・池田進
○池田公述人 それが全部間違っておるとは思いません。私はそれと違った見解を持っておるというだけであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/134
-
135・高津正道
○高津委員 私はそれだけ承わればけっこうですが、ただ一人京都から出てきて、全部が反対だろうなどとおっしゃるから、私は、あなたの側からそういうことを言われるので、それは大きい収穫だったと思って、この質問を終ります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/135
-
136・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 小牧次生君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/136
-
137・小牧次生
○小牧委員 池田先生にお伺いいたします。
まず第一点は、ただいまもちょっと問題になりましたが、任命制の問題であります。先ほどの公述では、公選よりも任命制の方がより合理的であろう、それは、罷免の規定もあり、また内容内には政党介入の排除、そういった問題等もあるので、より合理的であろう、また、公選で選ばれたならば、人によってはふんぞりかえるというような人もなきにしもあらずであって、それよりはやはり任命制が合理的であろう、大体このようなお説ではなかったかと聞いたのでございます。まだそのほかにいろいろ理由はあげられましたが、このような点が主要点ではなかったかと考えるのであります。そこで、任命制がより合理的か、また公選制がより合理的かという問題になるわけでございますけれども、先生は、現実がどうであろうと、また政治がどういうふうになろうと、自分はこう考えるのだという明確な信念を披瀝されたわけでございますが、私は、立場を変えまして、たとい社会党であろうと、また自由民主党であろうと、政党の介入があるとかないとかいう問題以前に考えなければならぬ点もあるのではないか、この任命制か公選制かを考えるに当っては、やはりわが国の歴史的、社会的条件なり、また現段階、こういったものを一応は考えながらこの問題は判断して参らなければならない、こういうふうに考える一人であります。
まず、そこで、ちょっと抽象的ではありますが、考えられますのは、近代社会あるいは近代精神、こういったことが言われるわけでありますが、詳しくは申し上げませんが、要するに、近代精神というものは、権威の思想、あるいはまた権威の道徳、こういったものから解放しなければならない、いわゆる人間解放、こういうことが大きな支柱になっておると私は信じております。ところが、それぞれの国におきましては、その解放の度合いが違っておる。と申しますのは、自由主義の洗礼を受ける度合いによってやはり権威の思想からの解放の度合いは違ってくる、私はかように考えております。残念ながら、まだわが日本は十分自由主義の洗礼を受けて参ったとは考えておりません。英米に比べまして確かに自由主義の洗礼を受ける度合いは少かった、低かった。従って、昭和十年ごろから以降は、大きな切りかえに国民は従って、そうして破滅をもたらした、こういう過去を持っておるわけでございますが、今日敗戦後十年、果してどのような民主化の段階にあるかということをもう一度考えてみました場合に、まだまだ権威の思想なり権威の道徳あるいは服従の道徳、こういったようなものに返るという大きな危険性があるのではないか、こういうことを根本的に私どもはおそれておるのであります。こういうときに、任命制かあるいは公選制かということが論議されるわけでございますが、任命制の規定の内容を見ますと、明らかにこれは、議会の同意を必要とはしますが、行政の首長が最終的な任命の決定権を持っておるので、やはりそのひもつきとなる傾向は免れない。これはもう私は決定的であろうと考えます。そうなりますと、失礼ながら、選ばれた人、任命された人は、上の方、任命された方には大ていのことは聞いて従っていくが、逆に下の方にはふんぞり返る。これはあなたがおっしゃいました公選の場合と全く逆な現象が出てくるのではないか。上には従うが下の方にはふんぞり返るという傾向がまだまだ今日のわが日本の水準においては危険性があるということを私は考えておるわけでありますが、こういうことから、やはり私は、今の段階においてまだまだ任命制よりも公選制の方がより合理的であり民主的である、こう考えますが、いかがでございますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/137
-
138・池田進
○池田公述人 私も、ただいま言われましたような、そういうふうな弊害が起るかもしれないということは十分考えます。けれども、私のここで述べましたのは、教育行政というふうなもの、それを責任を持っててきぱきと合理的に解決していくためには、任命制によってそれぞれにふさわしい人を選んだ方がよいのではなかろうか、任命された人がどういうふうな態度に出るかということは別個に考えらるべき問題でございまして、ただ、今私が公選制にされてもいばる人があるかもしれないということを申しましたが、それは、公選されればすべての人が民主的になるかという考えに対して、そういった例外もあるのではないかという例として引いただけであります。それと同じように、任命されたから上にはそれ以上にぺこぺこするが、下にはふんぞり返るような人間がよけい出てきて、いわゆる権威に服従するような人間になりはせぬかというふうなお言葉ですが、もしそういうようなことがありますれば、そういう弊害は十分考えられると思います。しかし、私は、任命制をやったら一挙にそういう弊害が多くなってくるだろうとは考えないのであります。それは、戦後われわれもある権威から解放されて、一つの近代的な精神を身につけたわけでありますから、そうした場合にはまた何らかの反抗というようなものも現われてくるのではないかと思う。ともかく、公選がよいか任命がよいかということは、実際から考えてみても、理論的に考えてみましても、どちらがいいとはっきり言い切る目安は、私はないんじゃないかと思う。だから、私は、私の理論的な立場から任命制の方がよい、こう考えるわけであります。その任命制によっていろいろ弊害もあるだろうということは十分考えられるのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/138
-
139・小牧次生
○小牧委員 任命制がよいか公選制がよいか、その区別はないのではないか、こういうようなお話でございますが、何よりも、国民自身が直接に自由に自分の意思によって選ぶという制度の万が、一部の人がその一部の人たちだけの意思によって選ぶという方法よりは、多少の弊害はあっても、そのこと自体においては私は、より民主的であり、また公平だと、かように考えますが、もう一度、いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/139
-
140・池田進
○池田公述人 形式的、手続的に言えば民主的だと思います。ただ、私は「教育行政というものをやっていく行政委員会の委員として、任命制によれば任命制の長所もあるのではないかと思って、任命制の方を強調するわけであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/140
-
141・小牧次生
○小牧委員 それでは、重ねてお伺いしますが、教育基本法なり、あるいは教育委員会法を見ますと、結局、その精神は、教育はいろいろな問題が過去にあったので、一般行政から分離して、独立的、自主的にこれを行うという意味において、国民が直接の責任を持ってやらなければならない、こういうことに法の精神はなっておるわけでありますが、いかがでございますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/141
-
142・池田進
○池田公述人 それは、法の精神はそうなっております。しかしまた、それを任命制にやったからといって、法の精神は生き得るのではないかと思う。私は、公正な民意というものは手続の問題ではなくてその衝に当る人の心の問題でもあるのではないかと思う。任命制による人でも、公正な民意を代表するように自覚を持って行動すれば、民意を代表すると思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/142
-
143・小牧次生
○小牧委員 それでは、もう一度重ねてお伺いいたしますが、先ほどのお言葉の中に、国家が責任を持つということは正しいことだというようなお話もあったように考えるのであります。それも一応はうなずけるのでございますが、しかしながら、今申し上げました通り、教育は一般行政から分離してでき得る限り国民自身の手によって教育の自主権というものを持たしてやるべきだというのが今日の法の精神になっておるわけであります。従いまして、あなたのおっしゃるようなことを推し進めて参りますと、当初私が申し上げましたように、全体として再びまた権威の思想なり服従の道徳、こういったものを植え付けて参る危険性が生まれてくる、こういうことを半面われわれは考えなければならない。それについてどうお考えでございますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/143
-
144・池田進
○池田公述人 権威への服従の精神というようなもの、これを任命制になるとよけい植え付けるおそれがあるのではないか、それを防ぐためには公選による方がはっきりし得る、こういうお言葉でありますが、そういう見方も成立するとは思うのですが、しかし、私は、国民が権威に服するか服しないかということは、形式上の問題でなくて、これまた国民の心がまえの問題でないかと思うのであります。ちょっと言い方が抽象的だったかもしれませんが、国民自体の心の中に、子供たちが、子供たちの心の中にあるべき価値、あるべきものをしっかりつかんだら、教育の手続なり形式はどうであろうとも、伸びるべき方向に伸びていくのではないかと思う。もっとも教育の形式の方がまずいと、若い者、子供たちの心が曲る可能性も多いことは多いですけれども、そこは、合理的な教育をしっかりやれば、私は防げるのではないかと思う。たとえば、一つのリンゴの木にリンゴの実をならそうとしますれば、何もリンゴの木の根っこにリンゴの実のしぼりかすだけをまくわけではありません。それ以上のいろいろなものをまいても、むしろいろいろなほかの肥をまくことによって、リンゴの木が育って、きれいなリンゴがなる。教育を植物にたとえることは間違いかもしれませんけれども、教育にもそういうものがあるのではないかと思う。だから、教育行政の形式がどうであっても、そのやる人の心がまえ、あるいは、教育を実際行う教育者たちの心あるいは子供たちの心の中に合理的なものが植え付けられてきたらいいのではないかと思う。たとえ形式がいかにデモクラティックにできておりましても、教育のやる内容というものが貧困であれば、これは私は効果は上らないと思う。だから、問題は、教育行政の形式がどうであろうとなかろうと、とにかく根本の問題は教育内容というものがしっかりしておればいいのではないかと思う。だから、私は、その教育内容というものを与える教育者の自覚さえあるならば、任命制によって起るかもしれない弊害の方のために教育というものの姿までが全面的に曲げられてしまうというようなことはあり得ないのではないかと考えております。任命制でやることによって直ちに過去の教育形態にすべてが逆転してしまう、そこまでは私は考えないのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/144
-
145・小牧次生
○小牧委員 多少私の質問のお受け取り方が違ったのではないかと思いますが、任命制の問題も関係がございますけれども、あなたのお説の中には、今回の法案の内容は、人事行政について筋は通っておる、垂直構造でございますか、大臣の指導、助言、援助、そういったものが一本の筋が通っておって、やはり国家が責任を持つということはいいことではないかというようなお話がございましたので、私は、このような一番上から一番下の市町村の教育長まで大きく一本の線を貫いた国家の責任の持ち方、こういうものは、あなたの今のお話の内容にもございましたが、教育内容そのものも自由にこれを左右して、そうして、先ほど申し上げましたように、私どものおそれておる権威の思想なり服従の道徳、こういうものをまた国民が次第に逆戻りしていくのではないか、それよりも教育というものは、教育基本法にもあります通り、また委員会法の精神にもありまする通り、でき得るだけ国民自身の手によってこういった教育の民主化を達成せしめる方向が正しいのではないか、こう申し上げておるのでありますが、もう一度、いかがでございますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/145
-
146・池田進
○池田公述人 筋をまっすぐに立てますと、早くそれが流れ過ぎて、教育内容を曲げてしまって、国民の思想の統制になる傾向が、公選の現行制によるよりも多いということでありますが、しかし、私は、教育行政の形式をそういうふうに上下の——仕事をする上での便利なためにできた上下の組織のことですが、そういう組織ができて、そのために教育の内容まで曲げられていくというようなことは考えておりません。ただ、教育行政を能率的にやるためには、そうした一つの垂直構造的な上下組織を持っていく方が能率が上るのではないか、てきぱきと行政の過程を進めていくことができるのではないか、それを申し上げるのでありまして、そうやったがために、教育の内容までもゆがめられて、そうして国の方から国が思うままの教育内容を若い者に施しやすくなるのではないか、そういう御警告でありますけれども、それは、私は、教育制度そのものの罪か、教育そのものの罪か、あるいはそのときの国の政治の罪か、どれかということが問題になるのではないかと思います。そのときの国の政治の方向というものがよろしいようにできておったら、行政の組織が一つの上下組織的にできておっても、これは決して心配するに当らないのじゃないか。そこで、私は、政治家の方たちに政治をよくすることをこいねがいたい次第なんであります。私は、そうした政治がどうなっていくか、そうしたことは無関係に、教育というものの立場から私の考えることを申し述べたのでありまして、私の考えることを政治情勢にかみ合せて、こういう危険があるのではないかという御批判が出てくるかもわかりませんが、それは私の理論とは関係ないのじゃないかと思うのであります。ただ、私は、その点、甘っちょろい考えかもしれませんけれども、一応政治のあり方というものは信頼しておいて、もし悪い政治が出てきたら必ず国民がそれに反抗するのではないかと思うのです。だから、今からあわてて、こうなるとこういうように政治が悪くなるから、もとのままにしてというような見方は、かえって保守的な考え方ではないか、私はそう考えるのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/146
-
147・野原覺
○野原委員 関連して。私は池田さんにはあまり質問申し上げなかったのでございますが、非常に問題のあることをたびたび仰せられますので、せっかく公述にいらっしゃった先生が、私どもに誤解されてお帰りになるのも御本意ではなかろうかと思いますから、お尋ねをいたしたいと思います。
まず第一点は、ただいま小牧委員が質問いたしました教育に対する国の責任ということなんです。私どもは、教育に対して国は責任があると考えるのであります。これは先生のおっしゃる通りです。本日までたくさんの公述人の方々がいらっしゃいましたが、どなたも国は教育に対して責任がないと申した方はないわけなんですね。そこで、あなたが教育に対する国の責任と言う、その国の責任とは、先生の場合どういうことをお考えになっていらっしゃるのか、承わりたいのです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/147
-
148・池田進
○池田公述人 国が教育に対して責任を持つ、国の経営に教育の基本がかかっておる以上、その意味において国が責任を持つということは考えられます。また、人間というものを国の有効な成員として育てていくという方向に教育を要求したいという意味でも、国は責任を持っておると思います。その場合、ここに問題が出てくるのではないかと思うのですが、形式的に申し述べましてその二点と、それから、これは第一の問題と関係することなんですが、教育の財政というものを確保する方法として、国の立場というもので責任を持ってやっていく方が効果的ではないか、だから、経済的な意味で国が教育の責任を持つ、そういう意味での国の責任であります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/148
-
149・野原覺
○野原委員 その最後の意味では同感であります。つまり、教育に対する国の責任という場合に、誤解される方々は、そうして、教育を国が行うのだ、教育作用というもの、教育行政というものを全部国が行うのだと考えるようだが、そういう考え方では先生よもやなかろうと思うのです。その通りですね。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/149
-
150・池田進
○池田公述人 そうです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/150
-
151・野原覺
○野原委員 そうなりますと、この点は私ども全く同感でありまして、もしそうでなかったらば、五十二条に対する、あるいは十六条に対する先生の見解と相当矛盾が出てくるわけですが、教育を国が行うという意味で国に教育の責任があるということではない、こういうことでございますから、この問題はこれでおきたいと思います。
第二点は、運用のいかんによると、今度の改正法案は相当問題があるということを何回となくおっしゃったのであります。民主主義を脅かす問題点があるというわけですね。そこで、それじゃ、その問題をなくするためには一体どうしたらよいと先生お考えですか。問題が起るおそれがあるとおっしゃるので、私どもは、問題が起るおそれがあるとすれば、これは法律を審議する私どもの責任です。問題をなくするためにはどうしたらよいかということを一応考えなければなりません。それに対する先生のお教えをお願いしたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/151
-
152・池田進
○池田公述人 私は、教育行政の最高責任にある人たちのやり方が誤まると、ときにおそるべき結果が生ずるかもしらぬという考えから申し述べたのですが、その場合には、国の最高責任者が間違ったことをやらぬように監視機関というものを設ける、そうしたら可能となるのじゃないかと思います。そこで、特に国会なんかが教育のことについて文部大臣を監視するような機能というのですか、それを強化するような組織を作ったらいいのじゃないか。私たちの言います国というのは、国全体、主権が国民にある国、だから、主権が国民にある国の権力というふうなものには国民としてはもっと尊敬を払って、国民の方からその国の方にむしろ進んでサービスしていくということがあっていいのじゃないか。あくまでもその角度での国という意味であります。もしこの国という意味が単なる一部のグループのみの利益を代表するような国であったら、それは私の意味する国じゃないわけです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/152
-
153・野原覺
○野原委員 政治の現状というもの、あるいは政党の実情というものに対して、失礼ですが、先生非常に甘い分析をなさっておると私は思うのです。文部大臣に対して国会が監視をするということは、形式的にはそれは言えます。ところが、文部大臣というものは政党内閣の大臣です。政党内閣の大臣で、多数党をとっておるものが内閣をとり、その多数党から文部大臣が出るわけでございまするから、国会がこれを問題にしてその責任を追及いたしましても、わかり切った、筋道の通ったことに対しても政党内閣というものはまま横暴を働くものです。私は常にとは思いません。まま横暴を働くものです。しかも、地方議会の実情にいたしましても、公選と任命の問題になりますけれども、市町村長、都道府県知事が任命をする場合に、必ずしも党派的人物が出ない場合もあるでしょうが、しかし出る場合もあるわけです。そこで、私どもが法律の上で考える場合には、党派的人物を出さない最善の保障は何かということ、それが一つ、もう一つは、運用のいかんで問題があるとするならば、その問題は一体どうして起るのかという原因の追及。問題をなくするためには制度の上で一体何を考えなければならぬかという場合に、私どもは今日の政界の実情、政党の現状というものに立ったことを法律、制度の上で考えなかったならば、実は何ら問題解消の措置とならぬと私は思うのです。これは先生も現状をよくお認めでございましょうから、先生の率直な御見解を承わりたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/153
-
154・池田進
○池田公述人 それは全くお説の通りであります。そこで、多数党といいましても、絶対的なものじゃなくて、相対的に変化するものじゃないかと思うのです。そのためには、小選挙区案というようなものが問題になっておりますが、私は小選挙区案には絶対反対です。これだけは成立してほしくないと思います。しかし、かりに小選区制ができたとしましても、国民の多数の良識というものは私は案外確かなものがあると思うのです。現在の保守党がもししくじったら、必ず反対党の方に票が行くと思うのです。その場合に社会党の皆さん方にもやがて近い将来に政権を担当せられるときが来ると私は思うのです。国民はそんなにばかじゃないと思うのです。そうした場合にはまたこういうふうな法案というものも案外無意味じゃないのじゃないかと思うのであります。政治というようなものについて甘っちょろい考えだということは、まことにその通りでありまして、政治というものにつきましては、あまりおそろしくて興味をよう持てません。だから、これを黙視いたしまして、自分の思うところを申し上げたわけでありますが、なるたけ多数党の弊害が来ないように、正しい意味における権力というものの利用しやすいように、いろいろな方法を皆様方が考えて下さるだろうと、私は安心しておるわけです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/154
-
155・野原覺
○野原委員 これで終りますが、最後に、上司の命ということを相当問題にされたのです。教育委員会の事務局の指導主事が上司の命を受けてという、こういう点はやはり問題があるということで、これは全く私ども同感でございます。そこで、先生も御承知のように、第五十二条によって文部大臣がいかなる措置でもできるとただし書きでうたっておる。そうすると、文部大臣は都道府県教育委員会の教育行政作用というものをすべて律することも可能である。場合によっては都道府県教育委員会が市町村教育委員会をやる。しかも教育長については文部大臣の承認が要る。従って常識のない文部大臣が出た場合には、あるいはとんでもない政党が内閣を作って文部大臣を出した場合には、自分の気に入らない教育長というものはことごとく拒否していく懸念もあるわけですね。文部大臣、教育委員会、教育長、そしてその教育長から上司の命を受けて指導主事にいく、こういう縦の系列、命令服従の一貫した系列によって今度の改正法案がやはり構成されておるわけでございます。こういう点を私どもは問題にしている。私は、池田先生の平素の教育に対する非常に御熱心な点、関西においてよく承知しております。先生も私を承知して下さっておると思うのです。だから、こういう点で問題があると考えておるわけですが、私の考えは間違いですか。間違いか間違いじゃないかお教えを受けるということでございますから、簡単にお教えを受けたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/155
-
156・池田進
○池田公述人 正しいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/156
-
157・野原覺
○野原委員 ありがとうございました。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/157
-
158・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 これにて池田公述人の公述及びこれに対する質疑は終りました。
池田公述人には両法案に関する貴重な御意見を述べていただきまして、ありがとうございました。
次に尾形公述人より公述を承わるのでございますが、この際一言ごあいさつ申し上げます。
尾形公述人には御多用中にもかかわりませず早くより御出席をいただきまして、ありがとうございました。どうか現職教育委員の立場から十分忌憚のない御意見を御開陳下さいますようお願いいたします。なお、公述その他のことにつきましては、お手元に差し上げてあります注意書の要領でお願いします。
それでは尾形公述人の御発言を願います。尾形公述人。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/158
-
159・尾形猛男
○尾形公述人 私はこの改正案に反対する意見を申し述べたいと思います。私の身分は千葉市の教育委員でありまして、過去二十三年から連続この職におらせていただいておる者でありまして、いわゆる法理論的なもの、それは私の知らないところでありますが、体験を通してこの法案を見たとき反対せざるを得なかった、そのまず結論から申し上げます。
この改正案の説明なり、また文部広報等を通して見ますと、この改正案は、教育の政治的中立と教育行政の安定を確保するため、それを目的としている、こうおっしゃっておりますが、この説明なり、またはこの解説などを拝見しまして、やはり中央集権だなあという感が一ぱいであります。民主的な任命方法をとっていると文部広報にはありますが、民主的な任命方法というものはこのような経過を持った任命方法なのでありましょうか。これも私は納得がいかない一つであります。それから教育委員会の自主性は阻害しないと、こうありますが、これは説明でなくて単なる釈明じゃないだろうか、私はこういうふうに考えておるものであります。逐条拝見いたしますと、この説明と法案の実体とはまさに反対であります。そこに文部広報等によるところの釈明が生まれてきたんだなという感じを持たされるのであります。説明を、または釈明を、必要とする程度に中央集権であったり非民主的な任命であったり、または教委の自主性を否定している、これが私の結論であります。
個条書きにこれを申しますと、住民の直接参与権を否定しておるのが委員の任命制だと私は思います。二番目に、教育長の任命手続等に見る文部大臣その他の国の指導じゃない監督権の強化である、こういうふうなのが第二項であります。第三項は、今度の法案では、私たちの委員会が従来持っておりました予算案の送付権を押えているが、かりにそれがその通りにいって、議会の承誌によって成立した予算がある、こうしましても、その支出命令権まで押えているというのには、教育委員会をなぜさように信用しないのだろう、こういうふうにも考えます。そして、教委の人事権を取り上げて、せっかく盛り上ってきた住民の教育に対する関心と熱意を喪失させる非民主的なものである、こうも私は考えたのであります。と申しますのは、最近のPTA活動などを通して見て、住民の教育に対する熱意がいかに大きくなったかということが言えるのであります。私は、教育委員になります前、千葉市の学務課長であったり、教育民生部長であったことがあるのでありますが、その当時、幾ら呼びかけてもといいますか、また私の呼びかけ方がまずかったかもしれませんが、現在のような教育に対する目ざめといいますか、関心といいますか、熱意と申しますか、それがありませんでした。ところが、私の市は二十三年の任意設置時代からやっておったのですが、過去七年有余にして現在見るごとき熱意と関心とは、この教育委員会がもたらした最も大きな効果である、こういうふうに私は考えておるものであります。
そうした点から、私は次の諸項に対して二、三申し上げてみたいと思います。
その第一は、委員の選任の問題であります。ただいまもだいぶ問題になったのでありますが、まず、公選制をやめて任命制に切りかえることについて、民主的な任命方法をとったから公正な住民の意思を十分に反映させることができるんだ、こうした文部大臣の御説明に対して、私は納得が参らぬのでございます。公選と任命というのとのどっちがいいかということが今議論されましたけれども、私は、わかっているのじゃないだろうか、こういうふうな気持もするのであります。どっちがより民主的か、こういうことになりますと、やはり公選でなければと、私はそう思うのであります。従って、民主的な任命方法をとったからということは一応の弁明にすぎない。なるほど、公選によって選ばれた自治体の長が任命するのだ、それから、公選によるところの議会の多数の方がこれに承認を与えるのだ、こういうことをおっしゃいますが、自治体の長の独任制であります。そうして、この自治体の長があるいは議長その他と相談の上にやるかもしれませんけれども、提案前に相当の人選をいたしまして、そうして提案することでありましょう。そのとき承認した者よりも選任した者の力が大きいのではないか、これも常識であると私は思うのであります。自治体の長の個人意識、個人意思がどんな力を持って反映するか、これはよほどお考えになりませんと、やはり市長独裁の教育になる、こういうふうにも私は思うのであります。市長というのは私の方の市長と言っておるのでありまして、自治体の長の意味であります。こういうふうにしてもなお公正な民意が十分に反映するということは、私はどうかと思うのであります。任命された教育委員、それから教育委員会は、地方行政機関に名実ともに従属するようになるのでしょうが、それにも私は心配するのであります。そんなことはない、これは独立行政機関として持っていくのだから、こういう御説明があるかもしれませんが、これは人情しからしむるものではないか、こういうことなんです。実態として、やはり首長なり議会なり、そんなことを言うてはまずいですが、どうだあの教員をとってくれぬかと言われると、うんうんと言わざるを得ない立場に立つのではないだろうか。私は人間が弱いからそうかもしれませんが、合議体じゃないか、そんなことは問題にならぬ、お前が弱かろうと強かろうと合議体だからさようにはならぬ、こう言われましても、委員会それ自体が任命されたお互いであります。あえてこれを行う、こうなるときに、制肘を受けるでありましょうことは考えられる。これはあまりに自治体の長を信用しないことになるのでありますが、ただ、しかし、そうしたこと、それから、自治体の長はやはり任期がございまして、この交流、更迭によって、政治の流れと申しますか、その中にほんろうされると言っては言葉が過ぎるかも存じませんが、そうしたことはほんとうに保障できましょうか。こう思うとき、私は、任命制はまずい、こういうふうに申し上げたいと思います。
次に教育長の問題について申し上げたいと思います。都道府県の教育長は文部大臣の承認を得て委員会が任命する、それから、市町村の教育長は県の教育委員会の承認を得て任命する、こういうふうになっておりますが、承認を得てということになりますと、ときに承認しない場合があろう、こういうことも考えられるのであります。これだけ迫力がついてくると申しますか、むしろ任命権者以上に承認者が力強い圧力を持ってくるじゃないだろうか、こういうふうに考えます。ここで私は、さように教育長というものを信用しないでいくことはどうかと思うし、一昨年ですか、公布されました義務教育諸学校における政治的中立に関する臨時措置法ですか、何かそういう法律がありますが、あの法律で人事を監督する者はだれかといいますと、私は教育長だと思うのであります。なるほど、教育委員だ、こういうことも言えると思いますが、教育委員は非常勤でありますから、この意味において、教育長の仕事というものはずいぶん重大なものでありますが、承認者に対して教育長がさような気持を持った場合、あとで法案の中に五十二条かにもありますように、この義務教育の法律の執行についてはむしろ文部大臣が直接これを執行するがごとき、または県の教育委員が直接執行するがごとき立場を招来するじゃないだろうか、この点も私はどうかと思うのであります、それから、特に問題となりますのは地方教育委員会の専任教育長の問題なんでありますが、国は教育長の身分についていろいろと御心配をいただいたり、またはそれを要請することによって御苦労なすったり、専任教育長設置についていろいろと御心配をいただいたり、指導助言をいただいておったのでありますが、地方教育委員会の教育長になりますと、この身分保障というものはどうなるであろうかということを考えますと、私、現在千葉市の教育長の身分については困ったなという一つであります。実際問題からこれが問題になってくると思うのでありますが、この点からもいかがなものであろうか。経験によりますと、専門職の教育長は絶対必要なんであります。つまり、行政機関としての教育委員会を持って参りますためには専任の教育長というのは絶対必要であります。ところが、まさかと申しましてはおかしいですが、金の問題で教育長は任命された委員の中からということになったとは思いませんけれども、これがかりにそこに節約ができましても、実際問題から言いますと、教育次長というようなものを条例で置きまして、そうしてそれに職務を執行させるよりほか、非常勤の教育長、非常勤の教育委員はどうにもなりません。この点は、私は、屋上屋を重ねるというような意味において、かえって煩瑣なものになりはせぬだろうか、こういうふうに地方教育委員会の場合特に考えるのであります。
次に教職員の人事のことについて申し上げます。改正案によりますと、人事権は都道府県に、そうしてその教職員の服務上の監督は市町村の教育委員会がする、こういうことになっておるのでありますが、任命権者と監督者とが分けてあるというところがまずいのじゃないかという点において、みな反対するのであります。任命権者以外のものが監督する、これは不自然と言うより不徹底じゃないだろうか、長い経験から、人事に携わってきた私たちとしては、これは何んかやめていただきたい。しいてこの給与権と人事権、任命権とを一本にする、こういう意味でありますならば、給与権を市町村に持ってきたってよろしいじゃないか、こうも考えられますが、実際を考えますと、地方教育委員会に人事権があった、そのときに給与権とのいろいろな問題を起したことは、過去七年有余の経験の中にございません。だから、給与権を地教委に持ってくると、また事務的な面において非常に煩瑣になろうという点もありましょうので、任命権のない給与権を県に持たせておこう、この方が、つまり現行法がよろしいじゃないか、こういうふうに私は申し上げたいのであります。
もう一つ、現行法で批判されておるものに、どうも地方教育委員会に人事権を置くと、教職員の適正配置ができないんだ、人事の交流がうまくならぬ、これは困ったものだ、こういうことを言われる方が多いのでありますが、この人事の交流を阻むもの、それは何かというと、私は別にあると思うのです。教育委員が自分々々の立場ばかりを言っているのではないので、その一つは人事院規則によるあの人権の擁護、あれであります。下手をやると不利益処分という格好で抗議をして参りますことを、私たち聞いてもおりますし、多少経験も持っております。だから、人事院規則が現状であった場合には、これはどこへ持っていったって人事交流はうまくいかぬ。それでもこういう格好でわれわれはがんばっておるのでありますが、もう一つ、もっとひどいのは、地域給に差等があることであります。地域給に差等があるということは、転任されて非常に喜ぶ人間と、非常に減俸だというので悲観するのとありますので、これはなかなか容易な仕事ではないのであります。従いまして、本年私の方で新しく併合しました町村といたしまして、その地域給の差等をなくそうということで、全額負担してもらうように市長と交渉したのでありますが、財政の関係から一時にそうは参らぬ、こういうことでありましたが、地域給零のところをとにかく一まで引き上げたのであります。従って、一であったものを一・五に持っていって——この一・五というのが千葉市の中心でありますから、その線に持っていって、人事交流ということもそうですが、できるだけ教職員を優遇してあげたい、こういう気持を持ったのでありますが、これもなかなかむずかしい問題で、差等があるところから、千葉市に入りたいという者はわんさと来るのでありますが、千葉市から出そうといたしますと、なんのかんのと言ってどうにもならぬ、これが現状であります。それから、私の方は二十三年以来専任の教育長を持っておりますが、これは、人事交流の面から言いますと、各市町村に専任の教育長がありますと——私の方では、人事交流にかまえるだけではなくて教育長の相互の研修をさせるために協議会というものを持たせておりますが、各郡市に二、三名の専任教育長を幹事として置きまして、これが主として人事交流の規範を作るのであります。これも、私の方の現在の市は十七で、町村は九十三で、百十ありますが、それでもまだ四十ヵ町村ぐらいこの専任の教育長を持たないで、依然としてあの「当分の間」をきかして助役兼任があるのでありますが、こうした町村の異動といったら容易でないということが言えるのであります。こうした三つのものから考えて、これを県へ持っていってうまくいくだろうと言うことはなかなかできないと思います。そこで、地方教育委員会に内申権を認めたらいいじゃないか、こうおっしゃいますでしょうが、この内申権は、それぞれの地方教育委員会に作った内申書であります関係から、現在のような協調して作るような異動案とは別なもの、つまり、地方地方を中心としたものになってくると思うのであります。従って、内申権であるという意味において重視してこれに当れば、県はどうにもならぬことだろうと思いますし、かりにまあ内申権だからいいじゃないかという格好で県独自の立場をもってこれをいたしますと、内申権というものはあってもなくても同じであり、同時に不利益処分等によるそれが多くなりはせぬかなということを私は憂うるものであります。
結局、私の申しますことは、そのもとをただしていただきたい、この三つの条項をただしていただきたい、そうすることによって、この教員の人事異動はうまくいく、こういうことでありますが、さらに人事権を県へ持っていって、そうして監督権を持つというようなことについては、私は絶対反対するものであります。
次に教育委員会の財産権について申します。第一には、予算の送付権がなくなる、それから収支命令権もなくなる、これが一項。第二項は、教育財産の管理権は残されますが、取得と処分はなくなります。第三番目の問題は、最も大事なものと思うのでありますが、学校その他の施設の整備に関する権限はある、ところが、敷地の設定とか変更とか校舎の営繕とか保全とかいうことは自治体の長がやる、こういうふうになっておるのでありますが、これでは骨抜きの教育委員会でありまして、あってもなくても——というと、それではなくそうと言われては困りますが、まあ大差のないものだ、こう思います。財産権の問題は困るということだけ申し上げておきましょう。
それから、最も大事なことは、これは法案にないことでありますが、どうも地方教育委員会は金がかかるということをよくおっしゃる。あれはどこからそんなことを言うか、こういうことでありますが、六・三制の実施のために、あの学校建築等を考えたとき、たくさん金の要ることは当然であります。千葉市の例を申しますと、千葉市の二十九年度の決算でありますが、年度内に建てました校舎の坪数はおよそ二千八百坪であります。それで、市の財政と教育決算との比率は一七%にすぎないのであります。これを考えると、どこで一体教育費がかかるかといったら、教育委員の手当五名のことをおっしゃるのではないだろうか、こういうふうに思いますと、あの事務局はやはりだれがやってもなくてはならぬ事務局でありますことを思うとき、私はそれはどうかなと思うのであります。何だか、きのうの話によると、委員会がなくなると八十二億もなくなるのだよとおっしゃった方があるそうでありますが、冗談じゃないと私は内心思っております。
最後に、法案第三十三条第二項の視聴覚教育の問題でありますが、この視聴覚問題は、文部省にも中心がありまして、漸次成果が上ってきた。あの視聴覚教育がこれによって足踏みをするようなことになってはと、こう心配しておるものであります。
以上申し上げまして、私の公述を終ります。(拍手)発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/159
-
160・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 以上をもちまして尾形公述人の公述は終りました。
これより質疑に入ります。質疑を許します。伊東岩男君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/160
-
161・伊東岩男
○伊東(岩)委員 私はごく簡単に二、三お尋ねをしたいと思うのであります。
あなたは、今公述を聞くと、今度提案されております教育二法案には全面的に反対のようでございます。そこで、その反対の立場に立ってこの法案通過を阻止する一環として近く行われようとする教職員の一斉早退の問題及び教育委員の総辞職の問題に関連してお尋ねしたいと思うのであります。
第一にお聞きしたいことは、日教組からこうした指令が出ておりますが、あなたお聞き取りでございますか。これは去る三十一日付の指令第三号でございます。この指令を、短うございますから簡単に読んでおきますると、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律案反対闘争当面の行動並びに統一行動に関する件。特に矢内原氏を始めとする学長声明並びに大学教授等の声明をさらに拡大し、広く学界、教育界をあげての反対行動を強化するため、県内大学教授、文化人に働きかけ、これが反対声明を発表するよう要請する。さらに学長声明、共同声明等の壁新聞、ビラ等を作成し、少くとも各分会一枚は配布し掲示させる。四月二十七日午後一時を期して一斉早退による郡市支部を原則として抗議集会を組織する、この抗議集会にはできるだけ共同声明署名団体、各労組、父兄等の参加を求め、県民集会として組織することを原則とする。」という指令が出ておるようでありまするが、あなたお聞き取りでございますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/161
-
162・尾形猛男
○尾形公述人 私、指令は存じておりません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/162
-
163・伊東岩男
○伊東(岩)委員 内容はどうですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/163
-
164・尾形猛男
○尾形公述人 その日教組の指令ですか。それは存じておりません。ただ、私の市の教員に関する限り、この義務教育諸学校におけるいわゆるあの教育二法律に抵触することのないよう、ふだん指導誘掖しておりますので、時間外はどうか知りませぬが、勤務中にさようなことはないと思いますし、なさせない私たちの任命権者としての権限を持っております。
それから、第二の、われわれの総辞職の問題でありますが、この問題については、私も、それに双手をあげてというよりは、起草委員として入っております。と申しますのは、われわれは自分自身のためにこの教育の問題を問題としているんじゃないという意味であります。教育の永遠性、ここから考えると、われわれは死んでもいいからこの案は阻止せんければならぬ、こういう意味であります。(拍手)発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/164
-
165・伊東岩男
○伊東(岩)委員 指令は受けていないということでございまするが、近くお手元に届くと存じます。さようにいたしますると、一斉早退はもちろん事実として行われるということになるのでありましょうが、私は、そればかりでなく、この指令が出ると、さらに深刻なるスト行為まで発展する、こう考えますが、この問題については後段においてお伺いしたいと思います。
そこで、本日も教育委員会関係者の全国大会を開いておったようでございまするが、これには多分総辞職の問題も決議されたと私は思うのであります。そこで、お尋ねしたいと思いまするが、あなたはただいまこの問題については断固やるというお考えのようであります。ただいま院の内外において、新教育委員会法案及び教科書法案等をめぐって賛否両論対立して、もう対立の上に激化しております。神聖なるべき教育がこの渦中にあることはまことに遺憾に存じます。さらに、この提案に反対のため教育委員が全国的に総辞職まで発展する形勢があることはまことに苦々しい限りであります。私はこんな好ましくない総辞職のないことをこいねがうものでありまするが、万一これが断行されたとするならば、その結果は教育のためになると思われるのでありまするか。その及ぼす影響は実に重大でございます。これは私は教育ストの一種だと思うのでありまするが、最も重要なる教育を公正に監督すべき委員の総辞職を、あなたは、かりに千葉の委員会とするならば、お認めになるのでありましょうか。あなたは必ず、こんな法律案が出なければ総辞職はさせないのだとお答えになると私は思います。しかし、最近日本では、この種の風潮、傾向があることはまことに遺憾であります。労働組合が自分たちの生活を守るために春季闘争等のストをやることは、これは順法的であればいたし方はございません。先ごろは、国保の医者が総辞職をやりかけた。これはもちろんよいことではございませんけれども、一歩退いて、まあやむを得ないことだっただろうと思います。しかるに、公選された教育委員が辞職をするということは、実に重大問題でありまするが、これに対する御意見を承わりたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/165
-
166・尾形猛男
○尾形公述人 おっしゃる通り、私たちは、自分たちの身辺について慎重でなければならぬことは当然なことだと思うて、教育に精進しております。ところが、本法案によりますと、ただいまのお話に対してはあるいは直接のお答えにはならぬかもしれませんが、九月三十日になお任期のあるものも法律をもってこれをやめさせる、こういうふうになっていますことを考えるときに——教育行政の混乱というものは、私たちはこれをあえてするものではございません。従って、現在お互いがこれをやっていますのは、これを敢行しましょうというお約束で、具体的に申しますと、日付を入れない辞表を教育庁に出してあります。そういう程度であります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/166
-
167・伊東岩男
○伊東(岩)委員 もうすでに日付のない辞表を取っておるというそのこと自体が、私はよくないと考えるのであります。教育委員の総辞職は、私は公選制という精神に反すると思うのであります。あなたたちはこの大事な問題についていま少し最善の方法はないと考えるのでありまするか。公選を受けた委員がその義務と権利と責任を放棄していいでしょうか。私は、実際問題は別として、教育の民主化のためには公選制が理想だと考えて今日まで参ったのであります。しかし、この総辞織というような悲しむべき事態が起るとすれば、あえて私は、この暴挙は民主的でない、非民主的だと断定いたしまするが、どうでございますか、すなわち、かようなことで責任は放棄されて、従って公選制の意義はなくなると私は思います。二大政党が対立をいたしました以上は、選挙によることは好ましくない事態が今後さらに多々ますます起りやすい傾向があると思うのでありまするが、この点は大いに留意すべき点だと思います。この点についての御意見はどうでありまするか。しかも、教育委員会の協議会は日教組と一緒になってこの法案に反対しておりますのはよろしゅうございますが、しかし、その阻止運動の一環として、ただいまあなたは、総辞職をするのだ、この指令は受け取ってはいないとおっしゃるけれども、あなたが受け取っておられぬはずはございません。受け取っておられるはずでございます。しかし、否認されるから、それは差しつかえはございません。私は、かようなことが当然だと思われるはずはない、こう思うのでありまするが、総辞職断行については、教育委員会としては、教育の重大性にかんがみて、いま少しく御反省になる余地はございませんかということをお聞きしたいのです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/167
-
168・尾形猛男
○尾形公述人 私たち、ただいまおっしゃっていただいたような気持を持って、決して軽挙盲動はしたくないのであります。ただ永遠に教育を守っていこう、こういうことを考えるとき、それもなおやむを得ない、追い込まれた状態である、こういうことで御了承願いたいと存じます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/168
-
169・伊東岩男
○伊東(岩)委員 この問題については、議論をいたしまするならば限りがございませんから、時間も制限がありまするので、この程度におきまして、最後にお尋ねしたいことは、これは教職員の早退の問題でございます。教員組合がこの法案に反対するために一斉早退をやるという戦術に出るということは、これはもう指令が出ておりますから間違いはございません。これで実行された場合に、教育委員会はどういう処置をされるか。私はこれに同意したのがこの総辞職であるとも考えまするが、この点はいかがでありまするか。一体、総辞職をするというような考え方で監督ができましょうか。私はできぬと思うのであります。こんな方々が公選制の委員としてまた出てきても、これは役に立たない、考え方自体が間違っておるのだ、私はかように考えるが、いかがでありますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/169
-
170・尾形猛男
○尾形公述人 早退の問題は知ってるだろうと何回かおっしゃいますが、私は絶対知っておりません。先ほど申し上げましたように、少くともわが千葉市の教育委員会においては、この二法律に抵触した場合においては適当の処置をとる、こういうことに私は考えております。
それから、お前たちは公選であるにかかわらずやめるなどとは不謹慎だ、こういうお話でありますが、さようでございますかと私は聞く以上の何ものも持っておりません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/170
-
171・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 小林信一君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/171
-
172・小林信一
○小林(信)委員 尾形公述人が、二十三年教育委員会が設置されて以来、これに終始健闘された体験から、この法案に対する御意見を開陳されたわけでございますが、非常に敬意を表するわけでございます。今までたくさんの公述人に対して、この法案を基礎にして将来予想されるものについて多くの論議をされたわけでございますが、私は、今までの現行法における教育委員会のあり方というふうなものを尾形さんを通してお聞きして、今後の法案審議に参考にしたいと思うのでございます。
尾形さんが申されるように、今回の法案の趣旨というものは、いろいろ説明がなされるけれども、それは弁解にすぎないものであって、その趣旨がまことに明確でない、こうおっしゃられたのですが、私たちも今のところまだ政府の的確な趣旨というものがつかめないような状態でありまして、ある場合には、中立性を確保するためだ、ある場合には、経済的な面から行政の一元化をはかるのだ、あるいは、今後の政界というものは二大政党対立になるために、それによって生ずる弊害を除去するためだ、まことに一貫しないものがあるのですが、とにかく、そこら辺の目標のあることは確かなのです。そこで、論議されますこの中立性の問題について、私は尾形さんがつかまれました過去の事実からお考えを述べていただきたいのです。
まず最初昭和二十三年に教育委員会というものが設置される場合に、もちろん、占領軍の方では、しろうとがよろしいというふうな意見が出ました。しかし、事教育の問題であるために、教育経験者が出た。しかし、そういう者にとられてはならないというので政党人からも出た。結局、当初の占領軍が意図した、しろうというような者が割合に少くて、政党人とか、あるいは教育経験者とかいうふうな者の対立になったような感がございました。しかし、私の見るところでは、教育委員会が当初の目的を達したようでございます。予想するような問題がなく進んできたように思います。それから今度は地方教育委員会が設置される形になりました。そのときに、どういう目的をもって出されたかと申しますと、これはもう私、はっきり申し上げてよろしいと思いますが、教員の諸君の政治活動というものが非常に激しくなってきて、これをこのままおくというと非常に問題であるという政党の考え方から、地方に教育委員会を置いて、この教育委員会によって教員の政治活動を押えていこう、一面はそうでございますが、ある意味におきましては、自分たちの悪政というようなものを、これらによって押えようというふうな形までも持たれたわけです。一方にそういう政党的な意図があり、またそういう、つまり教員の政治活動の激しいという現象があったのです。それを押えるということもあって作った地方教育委員会というものが、今日に至って当初のようなおそろしさというものがあったかどうか。私の見るところでは、地方教育委員会というものはそういう目的でもって出されましたけれども、私はきのう申し上げたんですが、やはり事教育ということになれば、一般父兄の関心も常に注がれております点からして、教員を押えるんだというような考えできたものが、自分たちの使命というようなものを考えれば、とかく弱い校長さんや教員諸君が何をしたいからといって村長や校長に要望するよりも、自分たちは教育首長であるという立場に出た方たちが、その本来の目的というものはただ教員を押えるだけの仕事だったのですが、そうじゃない、教育的な立場というものを堅持されて、そうして教育者にかわり、父兄にかわって知事に施設を完備することを要望するというような形になってきて、私は、最初のようなおそれというものは全然なく、かえって本来の教育委員会のあり方を示したと思うのです。そういうふうに、この教育委員会の問題につきましては、その最初生まれてきてからをずっと考えてみますと、いろいろ予想されたんですが、結局教育委員会というものは、あぶないと思うのは、必ず中立性というものを確保してきているわけです。だから、革新的な人たちがおそれることもなくなってきたわけです。あるいは保守の人たちが心配するようなものもなくなってくるという工合に、教育委員会は発展してきたと思うのです。それを、今日のままでは教育の中立性を失うからという意見が、この提案の理由になっておることは、私は過去の事実を考えてもまことに残念なものがあるのですが、尾形さんが当初からこの教育委員会に席を置かれ、しかもこれに対しまして非常な御熱意を持っておいでになったわけなのですが、そういう点をできましたならばお述べになっていただきたいと思うのです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/172
-
173・尾形猛男
○尾形公述人 まず初めの方について申しますと、私の方の教育委員の組織——組織と申しますか、選挙された者は、私は先ほど申しましたように学務課長をやった人間でありますが、そのほかにお医者さんが出ておりますし、それから婦人の方が出ておりますし、農業をやっておられる方がおります。この四人であります。しかも昭和二十三年以来この四人の顔ぶれはそのまま継続しております。そういう意味において、私たちは合議して最も中正な道を歩んできたつもりでありますし、たとえば、市町村長との関係におきましても、市長が考える市の財政と、教育委員会が考える市の財政とで隔たりがあるとのみは私は言えないと思うのであります。常に接触を密にして今日に至っておるのでありまして、政党色があるからとか、または教員の経験者であるからとかいうようなことは、私の教育委員会に対する非難として聞いたことがございませんことを申し上げたいと思います。
それから、政治的中立の問題でありますが、私は、政治的中立というのは、先ほどどなたかおっしゃったように、二通りの意味があるのじゃないかというようなことも考えるのであります。上からくるところの政治干渉というものがあってはいけないということと、下から持ってくる政治的な偏向、政治的な偏向状態があってはいけないということ、この二通りあると思いますが、私たちが現行法において最も心配し、またその意味において働きましたのは、あの義務教育諸学校における云々の、政治的中立の確保ということにおいて苦労して参ったのでありまして、その点において、現在千葉市また千葉県の地方教育委員会においては、絶対にさような問題は問題にならなかったことを申し上げたいと存じます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/173
-
174・小林信一
○小林(信)委員 私は今千葉県だけの事例をお聞きしたわけなのですが、そういうふうに、教育という問題、しかも世論というものが常に注目して、不当な干渉を受けないために教育委員会があるのだという、この目的がある以上は、そういうふうにそのものの構成も中立性を確保するようになるし、その意味から、その委員会の行う教育行政というものが、そういうふうになって、このままでいくことが今後ますます中立性を確保していく姿だと私も思うわけなのです。
大体その点でその問題はおきますが、先ほど尾形さんの御意見にありましたように、政府は、今まで、教育委員会というものを育成強化する、これ一点張りで主張をしてきたわけなのです。しかし、今回これをただいま提案になっております法案通りにする場合に、まあだれが見ましても、これは決して育成強化でなくて、退化させることになるわけなのです。しかもまだこれにいろいろと理由をつけて、やはり育成強化だというようなことを言っているわけですか、教育委員会の委員としてお働きになっている方たちとすれば、まことに遺憾なものがあると思うのでございます。また、その一つの理由でございますが、これは結局行政の一元化というような形で、つまり財政的に教育委員会が地方財政を苦しめるので、これを廃止して、現在地方財政の赤字が強調されておるときにこれを救済しなければならぬということから、だいぶこの法案の提出が強められてきたと思うのです。これを私たちのつかんだところから申せば、地方自治の面から地方自治庁が大蔵省その他と提携いたしまして、文部省というものをいつもいじめておるわけなのです。私は、今日、文部省あるいはとにかく教育行政を考える人たちは、育成強化しなければならぬということは本心に燃えておると思うのです。与党の諸君といえども相当の方たちがこれは真実考えていることだと思うのです。ところで、やはり地方自治というふうな面から圧力を受けて、これは日本の文部行政の大きな欠陥ですが、後退せざるを得ないという形になっていると私は思うのです。この問題につきまして尾形さんの経験をお聞きするのですが、とかく、この法案審議の中では、教育委員会があるがために地方財政が食われるということを言うのですが、食うだけの、つまり、食うという力が教育委員会にありとお考えになられるのか。私はこの点がまず第一番の問題だと思うのです。私たちの見るところでは、いかに送付権という権限が与えられておりましても、知事に折衝を重ねて、知事がどうしても納得してくれない、やむにやまれずして送付権を行使した例はございますが、大体知事がうんと言わなければ、うんと言うまで頼む、そしてある程度まで自分たちの方が譲歩して希望を達するというふうな形できたもので、教育委員会がいかに権限がございましても、決して財政を食うという力はなかったと私は思うのですが、しかし今日そういうことが言われておる。その食う事実は、さっき尾形さんも言われましたが、教育委員会の事務局費、これが、三十万あるいは八十万、百五十万というふうな金がかかるかもしれませんが、尾形さんの言うように、たといどの教育委員会になりましても同等の金が要るわけなのです。これは法的に設置しなければならないものですから、当然そのための費用は支出しなければならぬ。これすらも食うと言うのか。あるいはほんとうに教育委員会に力があって地方財政に今日赤字を生ぜしめるようなところまで食ってきたのか。そんな力がまずあるのか、一体食ったと言われるほどたくさんに教育費の上に地方財政が行ったかどうか、これを私はお聞きしたいのです。
そこで、私の今までいろいろと経験してきたものを申し上げるならば、あなた方の教育委員会は、ことに県教育委員会でありますが、六・三制が実施されましていろいろな施設をしなければならぬ大事なときにお生まれになって、今日までいろいろな苦労をなさっておるわけなのですが、危険校舎の問題といい、あるいは不正常授業を解消するための国から補助金を出させる問題といい、町村合併をして、町村合併の第一歩の目標であります学校の統廃合、こういうことをしっかりとうたっておきながら、それに対して予算が計上されない。予算を計上して学校の統廃合をすべきであるということについては、皆さんが教育市長あるいは教育知事という立場にあるために全国的な組織の力をもちまして当局に陳情されたことを私たちはたびたび伺っております。そのための大会等にも私たちは出向いたことがございますが、こういうような力に国の政治も動いて、もう小学校の施設は老朽しておるけれどもどうしようもない、従来の法の建前からすれば市町村の費用で建てなければならぬものを危険校舎に関する制度を作ってこれを補助金を持ってくるとか、あるいは増築しなければならぬようになりましても、従来の建前からしては自力でやらなければならぬものを、不正常授業というような名前で補助金を獲得するというような仕事をなさってきたわけです。こういうふうななみなみならない教育施設の完備、内容の充実をやってきたのも、当然しなければならないものを、あくまでも地方財政に全部ゆだぬることなく、国の費用によってこれを確立しようというような御努力こそ、私たちは認めておるわけですが、しかし、地方財政を食って困るというふうな言い方をしておるのですが、これについて尾形さんの御一言あらんことを私は期待するわけなんですが、お願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/174
-
175・尾形猛男
○尾形公述人 先ほど申しましたように、六・三制実施のためと、もう一つは戦前、戦時中をかまえて、学校の建設が十分でなかったという点から、戦後学校の建設は相当苦しかったことは事実でございまして、千葉市の実情を申しますと、二十三年から二十九年までにおおよそ一万六千坪の建設をやっておるのであります。ところが、現在なお百二十四教室を不足しておるのであります。これをどうして解消するかというようなことで相当苦労するのでありますが、これは、市長も住民も私たちも先生たちも、みんなで苦労を重ね重ねやってきている成果でありまして、決してこの間に取りやりの問題で問題になったことは一向ございません。そういう点は地方教育委員会はどこでも同じ実情でないだろうかと私は思います。たまたま県の教育委員会の場合、二本建予算の提出を聞いたことがありますが、この実情を聞きますと、子供がふえてきて学級を増さなければならぬので、先生が必要である、二百人だけどうしてもこれを採ってもらいたい、こういうことを知事に申し上げますと、知事は、財政上困るから、何とか圧縮して五十人の定員なら七十人にしてもというような無体な要求をしてくるときに二本建になるのではないでしょうかと私は思うのであります。そんなことを考えますと、やはり文部当局におきまして相当めんどうを見ていただくことが、六・三制というものをほんとうに実施していくためには必要なものであろうと私は考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/175
-
176・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 なるべく要点だけ簡単に願います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/176
-
177・小林信一
○小林(信)委員 大へん時間をとりましたから、あとは簡単に申しますが、ただいま御質問申し上げましたのは、要するに今日の日本の学校教育が、ことに地方学校教育というものがだんだんよくなってきておる。もう一歩だというのは皆さんのお力であって、これは当然国が責任をもってやるべきことを、なるべく国の力をよけいに出させて、地方の財政を苦しいから出さないようにして今日まで来たのだ。これにもかわらず、地方財政を食うからというようなことで、皆さんの御意思に沿わないような措置に出ることは、私は皆さんとともにまことに遺憾に思うわけであります。ただいま定員の問題が出ましたが、今あなたのおっしゃったことはちょっと違っておりますが、どこの府県にもあるのです。国の方では、定員の増加を認めている。しかし県の方に、それに出すべき金がないというふうな理由でもって断わっているのです。こういう形を首長というものがとりながら、地方財政を食うからというふうなことが多いわけです。託児所は学校教育じゃないかもしれませんが、関連しておるような問題でございますが、国が補助金を出す、県も補助金を出して、町村が二割か何ぼ出すのですが、国から予算が来る場合には、その予算だけを町村に渡して、県の出すべき予算というものは町村が出しなさい、こういうふうな形に地方というものは常に教育行政をいじめておりながら、教育委員会にいじめられるというふうな見解を待っておることは非常に遺憾に思っておるわけです。
そこで、最後にお伺いしたいのですが、今度の法案によりまして切りかえられる場合には、現在の首長、知事あるいは市長あるいは町村長、こういう方たちから新しい教育委員が任命されるわけです。ところが、この首長はどういうふうにして出てきたかと申しますと、教育行政を除いた他の一般行政に対してその地方民の負託を受けたもので、教育行政に対しては私は負託を受けておらないと思うのです。それはここでもって法律が作られるからだけれども、現在の首長というものは権限がないと私は思うのです。教育行政に対する権限というものが、その権限のない教育首長から任命されるということを私は非常に心外に思うわけなので、こういうでたらめなことをこの法案がするということは、法の趣旨にも私はもとると思うのです。これに対しまして、あなたがもし任命されるというふうな場合にはどういうお考えを持たれ、どういう態度をとらなければならぬか。あなたが再度任命されるというような場合の御意思を私は承わりたいと思うのです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/177
-
178・尾形猛男
○尾形公述人 まあ任命される心配はないようでありますが、かりに任命されましても、私は任命された教育委員は何事ができるかの意味において私は辞退いたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/178
-
179・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 これにて尾形公述人の公述及びこれに対する質疑は終りました。
尾形公述人には両法案に関して現実的な立場から貴重な御意見をお述べ下さいまして、ありがとうございました。
最後に塩沢公述人より公述を承わるのでございますが、この際一言ごあいさつ申し上げます。
塩沢公述人には御多用中にもかかわりませず早くから御出席下さいまして、ありがとうございます。午前中よりの公述人及び委員各位の御熱心な御発言によりだいぶ予定の時間よりおくれましたが、両法案は御承知のごとく重要法案でございますので、教育に最も関心をお持ちのPTAの会長の立場から忌憚のない御意見を十分に御開陳下さいますようお願いします。なお、公述その他につきましては、お手元に差し上げてあります注意書の要領でお願いいたします。
それでは塩沢公述人の発言を願います。塩沢公述人。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/179
-
180・塩沢常信
○塩沢公述人 公述に先だちまして身分、姓名を明らかにいたします。日本PTA協議会の会長をいたしております塩沢常信と申します。政党には何ら関係がございません。
PTAにおきましては、この問題は結論を出しておりません。従ってこれに対する意思表示はいたしておりません。御承知のごとくPTAの組織は、思想の異なる方、あるいは政党を異にする方々が、子供の教育という一つの目的だけに集まっております団体でありますために、意見が非常にまちまちでございます。過日の理事会におきましても、非常に熱心な討論が続けられましたけれども、採決をしますことが不適当だというふうに感じましたので、採決をいたしませんでした。それはPTAの中におきましては、問題が政治問題化してきたから、これに触れないようにしようという意見と、もう一つは多数の意見をもって少数の意見をつぶすようなことをするのはPTAの会議じゃないという考え方、ことにたとい少数の方々の意見であっても、多数の意見を押しつけるような、統一を無理に強要することは避けるべきであるという建前から、結論は出しておりません。従って意思表示もいたしておりません。しかし事教育に関し、あるいは子供の問題に関しますると、きわめて熱心に研究討議が重ねられますので、その間たくさんの意見が出ております。私は皆さん方にその意見の数数をお伝えいたしまして御参考に供したいと思います。
申し上げます意見の中には、父兄の考えといたしましてきわめて幼稚な考え方もあり、あるいは皮相な見方もありますけれども、その幼稚な考え方、皮相な見方こそ純粋な父兄の声でございます。いわば神の声がみこの口を通じて言われるように、私を通して皆さん方にお伝えするのであるということを御承知の上で、お聞きいただきたいと思います。
父兄が今最も心配いたしております問題は、戦後教育基本法に基いて、教育の中立性ということが確保されてきました。一般の行政から切り離されて、そうして政争の渦中から離れて歩んできたが、最近何かしらもとに返るんじゃないかという不安を持っておる。これは先ごろの文部大臣の、新聞に出ました言葉が取り上げられまして論議されたのでございますが、そのときの文部大臣のお言葉の中に、党議を第一主義とするというようなことが言われておった。そうすると教育が一つの政党の方針によって動くようなことになるならば、次に政変があったときに、また教育の根幹が動くのではないだろうか。政変のあるごとに、父兄が教育に対する一つの動揺を招くということに対する非常な不安でございます。ことに、先ほども他の方が申されましたように、教育の偏向ということが父兄の最もおそれるところでございます。今の政府の方々もおっしゃっておることでございますが、その偏向が左のみならず、今度はまた右にいくおそれがあるのではないだろうかということも父兄はおそれております。むしろ右に偏せず左に偏せず——まことにむずかしいことでございまするが、中道を歩むところの教育をしてほしいということが、今の父兄の声でございます。
もう一つは今回の法律案がもし成立したならば、今後教育が政争の具に供されるのではないだろうかという心配を非常にいたしております。これは二大政党の対立は非常に喜ぶべきことではあるけれども、教育が政党政派を超越したものである限り、むしろ政党の争いの中に教育が取り込まれるならば、二大政党の対立は、教育のためには悲しむべきではないだろうかという意見も出ておりました。
さらにこのたびの法案の提出につきまして、いろいろな意見が言われております。ある政治家の方は私どもに説明いたしまして、今度の法律を作るのは赤字財政を克服する手段であるということをおっしゃっておりましたが、私どもはもし赤字財政を克服するためにこの法律を出されるならば、今後教育費の中に赤字の財政のしわ寄せがくるであろうということを、父兄は非常におそれております。と同時に教育費に赤字財政のしわ寄せがある限りは、PTAの負担の軽減どころではなくて、今後増加していくのではないだろうかということを非常におそれております。(拍手)
もう一つ、ある方のおっしゃった言葉の中に、今度の法律はある一つの権力を押えるために余儀なくとった手段であるということを言われておりますが、もしそうであるとすれば、教育がその方面の道具に使われておるのではないだろうかということも、やはり父兄の心配の種でございます。と申しましても、今までの教育委員会の制度があのままでよかったかと申しますと、これに対しましても父兄は相当の不満を持っております。たとえて申しますならば、地方の先生方の異動に際しまして、いい先生を持ったところはいつまでもその先生を持っておる。あまり芳ばしくない先生を持ったところでもいつまでも押しつけられておる。いわゆる教員の交流という面において、非常に不便があったということが叫ばれておりました。
さらに陳情の政治が行われておる限りは、父兄のいろいろな陳情が教育委員会のあることによって余分な時間を費して困る。むしろ一本であった方が陳情が楽である。もとより陳情しなくてもやっていける政治が生れてくるならば、この声は消えるわけでございますが、現状におきましては、そういうことが父兄の中にあるわけでございます。
それから第四条の中にございます任命制の問題につきましても、父兄は父兄なりの考えをいたしておりました。これは選挙を通じて教育委員を出したいということは、父兄が教育につながる唯一の道である。この道を断たれるということは、父兄が教育だけに対して意見を述べる、意思を通じる機会を奪われたものであるという印象を強く持っておりました。
さらに教育委員の任命に対しまして、条文の中に二人以上ですか、一つの党に偏しないようにということが書いてございましたが、私どもは教育の中に政党色の入らないことを望んでおるにもかかわらず、法律の中には、何か党の色彩を持っておるということが明らかにしるされておるというような印象を与えております。これはしろうとなりの考えでございますから、果して当っておるかどうかはわかりません。
さらにもう一つは、公共団体の長が選挙で出て、そうして教育委員の任命を行う場合に、あるいはこういうことはないかもしれないけれども、選挙の論功行賞的な教育委員が出てきやしないだろうかということが、やはり心配の種になっておるようでございます。
それからもう一つは、第十六条でございましたか、教育委員が互選をもって教育委員長となり、さらに教育長になるということを見たとき、三人のうち一人が教育委員長になり、一人が教育長になって、普通の教育委員がただ一人になる。しかも教育長が監督する教育委員会の構成委員であり、そうしてまた監督を受ける教育長になるということは、一体どちらが正しいのだろうか、私どもは非常にこの点の解釈に困っております。適当な機会に御指示をいただきたいと思っております。
なお三十三条の教材の問題につきまして、私ども父兄にわからない点がございます。今の教育はいわゆる経験教育と申しますか、周囲のいろいろな教材を取り上げて教えております。たとえて申しますならば、映画あるいは放送、新聞等が社会科の勉強に現在非常に多く活用されておるのでございますが、
〔委員長退席、山崎(始)委員長代理
着席〕
こうしたものがあらかじめ前もって承諾を得ておかなければ使えないということになるならば、教材が常に古いもののみが使われるようになり、新しいものが使われないというおそれがあるのではないだろうかということを心配いたしております。これによって教育の水準が下ってくるようなことはないだろうかということを父兄なりに考えております。
さらに最後に私どもが申し上げたいことは、世論が非常に沸騰いたしておりますにもかかわらず、何ゆえに急いでこの法案を作らなければならないだろうかということが、私どもの間では不可解になっております。むしろもう少し時日を置いて、多くの人々が納得いくような線において、この制度を直してもおそくはないのではないだろうか。教育の根本を変える重大な問題を急いでするよりも、もう少し時日を置いて十分に検討して、多くの人たちが納得のいく段階において法律の改正をなさるようにやっていただきたいものであるということが父兄の声でございます。
なお教育委員会の制度を通じまして、私ども父兄が感じておりますことは、教育が非常に軽視されておるのではないだろうかということであります。地方教育委員会の制度ができてから三年余り、中間に一回半数改選があったようでございますが、その改選も中止してしまっておるようないき方が、何か教育を軽く扱っておるという印象を与えております。ことにこの法律ができて早々その育成のときもなく生まれっ放しで、そのままにおいて今度改められるということに対しまして、何か私どもには割り切れないものがあるように思うのでございます。いろいろ申し上げたいこともございますが、先ほど委員長からも短かくという前もっての御通知がございましたので、この程度で私の公述を終らしていただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/180
-
181・山崎始男
○山崎委員長代理 以上で塩沢公述人の公述は終りました。
これより塩沢公述人に対する質疑に入ります。質疑を許します。伊東岩男君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/181
-
182・伊東岩男
○伊東(岩)委員 最後の公述として塩沢さんから公正なる御意見を拝聴いたしまして、私はここに深く敬意を表します。ただいまの御意見はあなた個人の御意見のようで、PTA会長としての御意見でないようでございます。お話のうちには考えてもよろしい点もあろうかと思います。
〔山崎(始)委員長代理退席、委員長着席〕
そこでPTAの立場から一つお答えを願いたいと思います。きわめて簡単でございます。もしこの法案が成立したとすれば、PTAの活動にどんな悪影響があるかという問題が一つであります。これを具体的にお述べを願いたいと考えます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/182
-
183・塩沢常信
○塩沢公述人 先ほど申し上げましたことが私の意見のようだとおっしゃいましたが、前もって私申し上げましたように、研究会あるいは協議会に出てきました父兄の声をメモしておいたものをお伝えしたのでございまして、私の意見ではございません。
それからこの法律ができた場合に、PTAの活動にどういう影響があるかということでございますけれども、PTAの活動は直接教育の内容には入っていきません。私どもは、PTAの活動は学校教育の外において、学校の教育が家庭において破壊されないように、社会において破壊されないように守っていくのがPTAの仕事でございますので、直接の影響はないと思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/183
-
184・伊東岩男
○伊東(岩)委員 あなたは今度の法案は関係がないとおっしゃいますけれども、非常に直接の関係がございます。たとえば教科書法案に関連して申し上げますならば、もし教科書として、たとえば山口日記等の不都合な教材が学校に使用されるおそれがあるとき、これを許してよいと思うのでございますか。また悪いとするならばどうすれば父兄の立場からいいでしょうか。
もう一つは新教育法が通れば、教科書はよく流通されることになります。従って負担等も軽くなると私は思うのでありまして、一般のPTAの諸君はこの点などは非常に御歓迎されておることと思うのでありますが、これにも御反対でございましょうか。
もう一つは、これはあなたも御賛成のようでありますが、人事権の問題でございます。私どもは現在のような人事権が市町村の段階で行われることはよくないと考えております。この法案によって初めて県の段階において行われるようになりますので、非常にけっこうだと思いますが、そのいずれをあなたはよいと思われるのでありますか。もう一ぺん御意見をお伺いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/184
-
185・塩沢常信
○塩沢公述人 お答え申し上げます。先ほど山口県の日記の問題が出ておりましたが、私ども父兄はむしろ皆さん方以上に偏向教育をおそれております。こういう問題が起りましたときには、学校の先生もPTAの会員でございますので、私どもはできるだけ話し合ってこの問題を解決していきたいという方針をとっております。
それからもう一つ教科書の問題でございますが、これは教科書の値段が下るということ、あるいは同じ本を使えるということだけを考えてこれに賛成をしておるというような父兄もございますが、それは教育の内容を深く調べなかった父兄でございまして、今の教育の制度からいって教科書は自由選択にいった方がいい、しかし個々にやられては何ですから、自然によい教科書が悪い教科書を駆逐していくという形で統一されることを望む。それから教科書の値段が下るということも私どもいつぞや証人として出ましたとき申し上げましたが、教科書が高いのではなくて、教育費の負担が多い。従って教科書も高いというのが私どもの考え方、しかも教科書の値段の中に父兄が負担しなくともよいと思われるようなものが含まれておるのではないだろうか。従って教科書の値段の合理化ということを私どもはいつも言っております。値段が下りまして、よい教科書が自由に選択できるようになりますれば、父兄はこの上もない喜びとするわけであります。
さらに人事権の問題につきまして、今の地方教育委員会のように、小さな区域におきまして人事が行われておりますと、どうしてもいい先生が一つところにまとまってしまう、あるいは僻陬の地に入った先生が動けないという問題もあるので、これは県に移った方がいいのではないだろうかというのが父兄の意見でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/185
-
186・伊東岩男
○伊東(岩)委員 それから一番おそるべきことは教育の偏向でございます、この教育の偏向を防止するために今度の新らしい教科書法案も出て参ったのでありますが、それが中心だと思うのであります。あなたも御承知だろうと思いますが、ただいまの教科書にはかなり偏向的な点もあるのでありますから、かような点は改むべきだと思いますが、やはり現在のままでよろしいとお考えになりますか。
もう一点。これは先ほど違う公述人の方にもお尋ねいたしたのでありますが、教職員組合がこの法案に反対するために一斉早退をやるという戦術に出る意思だろうと思うのでありまするが、PTAの立場からさような日教組の行為に賛成ができるのか、あなたはPTAの立場からこれを是認されますかという点でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/186
-
187・塩沢常信
○塩沢公述人 教科書の偏向ということでございますけれども、私どもはやはり偏向しておる教科書というようなものはできるだけ避けていかなければならないと思っております。それから今の制度では偏向した教科書もあるではないかという御意見のようでございますけれども、私は日本PTAの一つの機関を通して研究をいたしました結果を中教審並びに文部省方面に提出したのでございますが、その中に、教科書の採択に当って父兄も交えた研究をしてほしい、そうして父兄の意見も取り入れて参考にしていただきたいということを申し入れております。これはそうした一つの偏向というような行き方を避けて、私ども親が子供のためにどういう教育を望んでおるか、どういう教科書を希望しておるかということを参考意見にしていただきたい。これはあくまでも参考意見としてであって、学校行政の中にまで立ち入らないというためにそういうような意見を申し述べてございます。それによって御了解がいただけると思います。
それから教組の動きに対して是認するかどうかということでございますが、私どもは教組に対しましても、いつも申し上げますことは、教壇を守る先生になってほしいということでございます。
これをもってお答えといたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/187
-
188・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 三鍋義三君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/188
-
189・三鍋義三
○三鍋委員 時間もだいぶ経過いたしましたので、塩沢公述人に対しまして一点だけお尋ねしたいと考えるものでございます。
私は一昨日以来各公述人の方々のそれぞれの立場におけるお考えを慎重に拝聴しておったのでございますけれども、一番私が期待し、そうして注意深くお聞きしなければならないと思うていたのは、いわゆる子供を現在直接教育に預けていられる立場の全国のPTAの代表者の方々の御意見、それを一番期待し、そうして慎重に参考にせなければならない、このように考えておったものでございます。先ほど来父兄の声としてるるお述べになりましたのを聞いておりますると、私たちのひとしく心配をし、憂えておりました点を余すところなく御開陳になったように感ずるものでございます。私は三十二年間学校の教職にあったものでございますが、どうして政治家となったかと申し上げますと、あの昭和二十年八月一日に富山が空襲において焼け野原になりました。そのときに時の県知事が、中学校の校長をただ一つ残された県庁に集めまして、私たちに訓辞をされたのであります。そのときはまだ戦闘帽で巻ききゃはん、周囲はえんえんとしてなお焼け野原の燃え残りの戦陣といいますか、戦火に焼けただれたところの煙が燃え上っているときでありました。そのときの声を私は忘れないのであります。何と言われたかというと、今日のいわゆる敗戦は、学校教育の責任である、先生に自主性があったならば、こういうみじめな戦争をし、こういう悲惨な目にあわなかったであろう。この言葉を聞いて、ここで私は決然として全然未知の世界のこの政界に突入したのでございます。ところがだんだんとあの憲法の精神と教育基本法の精神がゆがめられ、現在それをまた根本的にくつがえす憂えの多分にあるこの改正法案が出てきたのに対しまして、国民とともに心から憂えているのでございます。今までの法案審議の過程を見ますと、国民の声がこれに対しまして強く反対した法案がみな通っているのであります。スト規正法にいたしましても、あるいは教育二法律にいたしましても、警察法にいたしましても、秘密保護法にいたしましても、新聞の世論、文化人あるいは学識経験者、国民の世論をあげて反対している法案がみな通っているのでございます。こういう点からいいますと、今度のこの改正案もこの大きな世論を踏みにじる方向へ行くのではないかという憂えが多分にあるのでございます。そこで私が塩沢さんにお尋ねいたしたいのは、父兄の声として御開陳になりましたその内容が、全国のPTAの総意として聞かれなかった点に、多少何か物足りないものを率直に感ずるのでございます。それはいろいろの面からはっきりとした態度をお示しになることができない立場にあらせられることはよく了解できます。しかしあなたのお子様が道路で遊んでいる、そのときに向うからトラックが猛烈なスピードで走ってきたときに、あなたはこれに対してどうされるか。これは親として当然でございまして、何物もさておいてはだしで走り出してこの子供の危急を救うというはっきりしたところの態度があると思うのでございます。現在のあなたのお子様はもとより、これから何千、何十万と生まれてくる子供さんの将来を考えたときに、この子供さんがトラックにひかれようとする危険に遭遇していたときの態度というものは、親として当然に出てくるのではないかと思います。こういう意味におきまして、あなた方の声こそほんとうの国民の親の声として国会を動かすことも可能であると私は思うのでございますが、これに対しまして御所見を承わることができますればと思うのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/189
-
190・塩沢常信
○塩沢公述人 先ほど申し上げましたように、個人の考えといたしましては幾つかの考え方を持っておりますけれども、会の意見を、結論が出ていないものをまとめて結論づけて申し上げるということが私にはできないということは、はなはだ遺憾に思うのでございます。それはたとえば理事会の協議過程におきましての空気を見ましたときに、今の政府の提案する法律案に反対する空気の方が圧倒的であった、けれども、態度を留保する地方の代表があり、また反対を唱える代表のある中で、それを多数の意見だからといって、少数の意見を統一づけるということは、PTAの会議にはあり得ないのでございます。従って先ほど申し上げた通りでございます。個人としての考え方から言いますれば、私も先ほど申し上げましたように、子供の親といたしまして、あくまでも教育が中立であり、政争の中に巻き込まれない、あるいは特定の権力の支配下に服しないようにということを心から願っているわけでございます。従って、今日のごとく議論が沸騰しており、賛否がさだかでない、しかも提案されている党の中にも反対している方もあるというような空気の中で、なぜこれを無理やりに決定しなければならないかということが、私どもにはふに落ちないのでございます。私は皆さん方にこの機会にお願いしたいことは、事教育に関する限りは、ぜひ超党派的であっていただきたい。そうしてこの混乱の中に無理やりに、早急にきめることなく、先ほど申し上げましたように、もう少し時日を置いていただいて、そうして多くの父兄が納得できるような段階において、この法律を改められるようにしていただきたいということが、私のお願いでございます。(拍手)発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/190
-
191・三鍋義三
○三鍋委員 ただいまのお言葉を聞いて私たちは百万の味方を得た思いで、この法案阻止のために、政党政派を超越いたしまして、国の将来のために、私たちはあくまで慎重に審議を重ねていく決心を新たにしておるものでございます。これで終ります。(拍手)発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/191
-
192・佐藤觀次郎
○佐藤委員長 これにて塩沢公述人の公述及びこれに対する質疑は終了いたしました。
塩沢公述人には、両法案についてのPTAの立場から、貴重な御意見をお述べいただきまして、ありがとうございました。
これをもちまして、両法案について予定されておりました公述人の公述及びこれに対する質疑は、全部終了いたしました。
一昨日及び本日の両日にわたりました公聴会における公述人の公述及びこれに対する質疑を通して、両法案についての問題点をより明確になし得ましたことは、委員会における今後の審査に多大の参考になるものと存じて厚くお礼申し上げる次第でございます。
以上をもちまして、両法案についての文教委員会公聴会を終ることといたします。
これにて散会いたします。
午後七時三十三分散会発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405085X00219560409/192
4. 会議録のPDFを表示
この会議録のPDFを表示します。このリンクからご利用ください。