1. 会議録本文
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000・会議録情報
昭和五十九年七月五日(木曜日)
午後一時三分開議
出席委員
委員長 片岡 清一君
理事 池田 行彦君 理事 戸塚 進也君
理事 深谷 隆司君 理事 宮下 創平君
理事 小川 仁一君 理事 松浦 利尚君
理事 市川 雄一君 理事 和田 一仁君
石原健太郎君 内海 英男君
大島 理森君 奥田 幹生君
鍵田忠三郎君 菊池福治郎君
塩川正十郎君 月原 茂皓君
二階 俊博君 山本 幸雄君
上原 康助君 角屋堅次郎君
嶋崎 譲君 元信 尭君
渡部 行雄君 鈴切 康雄君
山田 英介君 田中 慶秋君
柴田 睦夫君 三浦 久君
出席国務大臣
文 部 大 臣 森 喜朗君
国 務 大 臣
(総務庁長官) 後藤田正晴君
出席政府委員
内閣法制局長官 茂串 俊君
総務庁行政管理
局長 古橋源六郎君
文部政務次官 中村 靖君
文部大臣官房長 西崎 清久君
文部大臣官房総
務審議官
兼内閣審議官 齊藤 尚夫君
文部省初等中等
教育局長 高石 邦男君
文部省教育助成
局長 阿部 充夫君
文部省高等教育
局長 宮地 貫一君
文部省学術国際
局長 大崎 仁君
委員外の出席者
内閣委員会調査
室長 石川 健一君
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委員の異動
七月四日
辞任 補欠選任
中山 正暉君 鍵田忠三郎君
鳩山 邦夫君 綿貫 民輔君
左近 正男君 元信 堯君
和田 貞夫君 渡部 行雄君
矢追 秀彦君 山田 英介君
中野 寛成君 田中 慶秋君
経塚 幸夫君 三浦 久君
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本日の会議に付した案件
連合審査会開会に関する件
臨時教育審議会設置法案(内閣提出第四七号)
派遣委員からの報告聴取
————◇—————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/0
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001・片岡清一
○片岡委員長 これより会議を開きます。
内閣提出、臨時教育審議会設置法案を議題といたします。
この際、本案審査のため大阪府へ委員を派遣いたしましたので、派遣委員から報告を聴取いたしたいと存じますが、便宜私から御報告いたします。
派遣委員は、団長として私、片岡清一と、池田行彦君、戸塚進也君、深谷隆司君、宮下創平君、小川仁一君、松浦利尚君、市川雄一君、和田一仁君、柴田睦夫君の十名でありましたが、現地参加委員として、奥田幹生君、中山正暉君、二階俊博君、左近正男君、和田貞夫君、矢追秀彦君、中野寛成君及び経塚幸夫君が参加されました。
現地における会議は、大阪赤十字会館において開催し、まず、私から、派遣委員及び意見陳述者の紹介並びに議事の順序等を含めてあいさつを行った後、意見陳述者より意見を聴取し、これに対して各委員より熱心な質疑が行われました。
意見陳述者は、芦屋大学教授小笠原暁君、関西大学教授鈴木祥藏君、大阪大学人間科学部助教授・文学博士梶田叡一君、京都大学法学部教授勝田吉太郎君の四名でありました。
以下、その陳述内容につきまして簡単に御報告申し上げます。
すなわち、入試制度に敗者復活制を導入する問題、能力に応じた多様で弾力的な教育の実施、行政改革と教育改革との関係、公立学校における一貫教育の導入、高齢化社会及び科学の進歩に対応した生涯教育、臨時教育審議会の適正な運営と委員及び専門委員の厳正、多様な人選、画一的教育の是正と創造性をはぐくむ教育、パイロットスクールの段階的導入等、広範多岐にわたる事項について、それぞれの立場から意見、要望が述べられました。
次いで、各委員から、陳述者に対し、いわゆる落ちこぼれの原因及び道徳教育の方途、第三セクターによる学校の設立、教員の質の向上、教育荒廃の原因、臨時教育審議会の会議の公開問題、六・三・三制の検討、教育改革の根源たるべき大学改革、社会構造の変化に対応する教育改革のあり方、学習指導要領の功罪、いわゆるマンモス校の解消問題、国公立と私立高校の格差是正、教員免許制のあり方等、教育改革の諸問題について質疑が行われ、滞りなくすべての議事を終了いたしました。
以上が会議の概要でありますが、議事の内容は速記により記録いたしましたので、詳細はそれによって御承知願いたいと存じます。
なお、今回の会議の開催につきましては、地元の関係者を初め多数の方々に多大の御協力をいただきました。ここに深く謝意を表し、報告を終わります。(拍手)
お諮りいたします。
ただいま御報告いたしました現地における会議の記録が後ほどでき次第、本日の会議録に参照掲載したいと存じますが、御異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/1
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002・片岡清一
○片岡委員長 御異議なしと認めます。よって、さよう決しました。
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〔会議の記録は本号(その二)に掲載〕
—————————————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/2
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003・片岡清一
○片岡委員長 質疑の申し出がありますので、順次これを許します。元信堯君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/3
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004・元信堯
○元信委員 六月二十六日に徳島盲学校の件について一部保留をしておいた件について質問を続行したいと思います。
先日の私の質問に対して、詳細承知しておらぬので、なお調査を行って後ほど報告をするということでございました。御報告いただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/4
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005・高石邦男
○高石政府委員 先生の御指摘がございまして、重ねて徳島県の教育委員会を通じてその実態を調査したわけでございます。
調査いたしましたところ、当初の報告と違っておりまして、現に在学する生徒の中に、御指摘のように、学校教育法施行令第二十二条の二に規定する盲者と言えない者が五十八年度入学以前の者にいるということが判明したわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/5
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006・元信堯
○元信委員 この前の委員会では、そういう者はおらないというような報告があったという御答弁でございましたから、私も次の日に早速徳島県へ出かけました。盲学校へ赴きまして、校長先生以下、学校の幹部の皆さんに直接お目にかかりましていろいろ調査してまいりました。時間の関係で詳細申し上げられませんが、一部なんというものじゃない、大部分と言ってもいい学年もあるようなありさまであって、極めて遺憾なことと言わざるを得ないわけであります。
そこで問題になりますのは、例えば今お話のあった五十八年入学のクラスについて言うならば、その当時の一クラス十七人中、身体検査の結果によれば視力が悪いのはわずかに三名、あとの十四名は視力障害者とは言いがたい状態にあるということでございます。このこと自身極めてでたらめな運用と言わざるを得ませんし、また過去にさかのぼってもこういうことがずっと行われていたというふうに言わざるを得ないと思うのです。
そこで問題になりますのは、現在在学をしております学生の中のこういう者、さらに過去において卒業した者の中にこういう人もたくさんあったと聞いておりますが、視力障害者でなかった人、こういう人たちが入学し在学している、あるいは卒業して、その卒業資格をもとに理学療法士の国家試験を受けて、それに合格して資格を取っておるということがございます。こういう者に対していろいろな見方はあると思いますけれども、こういう誤った運用の責任は学校あるいは教育委員会、こういうところにあると考えるべきだろうと思います。その責任が過去にさかのぼって学生、卒業生に対して追及されるのもいささか酷だと思いますが、地元では随分大きく新聞にも報道されたようでございますし、心配をされていると思います。
そこで、文部省から、こういう在学しておる、あるいは卒業した人の卒業資格、身分について見解を承りたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/6
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007・高石邦男
○高石政府委員 先生御存じかと思いますが、盲学校の高等部に専攻科として御指摘の施設が置かれているわけでございます。したがいまして、専攻科として置かれている理学療法科の受験資格の問題をどう考えるかという法律上の問題があるわけでございます。
学校教育法では、盲学校の幼稚部、小中高等部につきましては、先ほど申し上げました学校教育法施行令第二十二条の二の規定によりまして一定の基準を明確に定めているわけでございます。専攻科につきましては、そういう定めが学校教育法上ないわけでございます。しかしながら、本来の性格、趣旨、目的からいいまして、盲学校の専攻科として置くわけでございますから、そういう人たちの職業訓練のために置かれたという趣旨に理解しなければならないと思うわけでございます。また、そういう形で運用していかなければならないと思うわけでございます。
しかしながら、法制上明確にそういう者しか受験資格を認めないという規定があるわけではございませんので、要は徳島県立盲学校専攻科としての理学療法科の入学資格をどう定めるかという、まず設置者が入学資格を明らかにするということが原則でございます。その設置者も、入学案内等で一応の基準を決めているわけでございますが、これも二十二条の二の規定の内容と若干差がございますので、その点の問題も残るわけでございます。
ただ、一般的には学校が正式に受験を受け付けて、正式の手続によって受験をしそして入学の許可が行われたということになりますと、本人にその責任を負わせるというわけにいかないと思うわけでございます。したがいまして、そこの学校の課程を修了して卒業した者の資格の問題に影響を与えるということはないと思います。また、現にそういう正式な手続によって入学が許可され学習中の子供に対しても、その考え方は適用していくべきであろうと思うわけでございます。
したがいまして、今後の課題といたしまして、この学校の運営をもう少しシビアに、厳格に考えていくという方向で県会でもいろいろ議論が行われているようでございますので、その趣旨に沿って教育委員会も改善をしていきたい、こういうような意思表示をしておりますので、そういう状況が的確に行われるよう文部省としても指導してまいりたいと思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/7
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008・元信堯
○元信委員 それでは、在学生、卒業生の資格については、本人の責任、すなわちこれを認めないというようなことはあり得ない、こういうふうに確認をいたしておきたいと思います。
ところで、先ほど局長の御答弁にもありましたけれども、さきに私が通告をいたしまして質問をした、文部省から当然徳島へそういう見解を問い合わせたろうと思うわけでございますが、そのときは、そういうことはない。そうして、しようがないから私も現地へ出かけました。これこれと学校に問いただして、結局証拠が出てきてそういう事実を渋々認めるに至った。その調査の過程でも初めは頭から否定してかかる。例えば、身体検査をやったはずだからその結果によって答えてほしいと言っても、身体検査で視力検査をやっていないというようなばかなことを言い張る。また、募集要項に書いてある入学時の身体検査から故意に視力検査を落としている、こういうことも次々に出てきたわけでございます。
そこで、これは文部大臣にちょっと伺いたいと思うのですが、昨今学校のあるいは教育の荒廃ということが言われていると思うのです。今私が申し上げましたような事実で言いますと、徳島盲学校では、校長先生、教頭先生、そういう幹部の先生を含めて全部の学校でと言わなければならぬと思いますが、言うならばこういう不正を、これも昨今のことじゃございません、長年にわたって続けてきたわけであります。そうしてそれが内部から、それではいかぬという人があって、私どももそういうことによって承知をしたわけですけれども、文部省から問い合わせても知らないと言う。これは教育委員会から学校にまた聞いて、知らないと言ったと思うのですね。そういう学校ぐるみで不正を押し通そうという姿勢ですね。こういう姿勢について一体どういうふうにお考えになっているか。教育の荒廃というものは、まさにこういうところに及んでいるのではないかと私は言わざるを得ないわけであります。
最近の世相、風潮ということにも責任はあるだろうと思います。ロッキード事件を引き合いに出すまでもなく、あるいは正義が正義として行われない。学校においてもまた例外でない。何でも世の中には表があれば裏がある、こういうことを学校みずから言って歩いているようなものだと私は言わざるを得ないと思うわけであります。教育委員会も同じ責めに任じなければならぬというふうに思います。教育委員会へも既に、こういう事実があるということを直接教員の中から訴えられた方がある。にもかかわらず、教育委員会も学校現場に責任を預けるような形で、文部省の質問に対してそんなことはないと言って平然としておる。教育委員会、学校を含めて現場に至るまで、まことに嘆かわしい風潮があると言わざるを得ないと思うわけであります。一つ徳島県の問題だけではないと思います。
文部大臣、教育の荒廃ということとこういう事態について、今日までの質問を聞いてどういう御感想をお持ちになったか、承りたいと存じます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/8
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009・森喜朗
○森国務大臣 徳島県の今御指摘の盲学校につきましては、私の方も詳細を承知いたしておりませんが、先生がわざわざ調査に行かれましたことにつきましては、国政の場で調査をなさるということで、御苦労でございましたとまず申し上げておきたいと思います。
一般論でございますけれども、学校におきましては、やはり教育の場としてふさわしい基本的な秩序が確立されていなければならぬということはもとよりでございます。そして、校長の監督指導のもとに教職員が互いに啓発をし合い、創意を重ね合って、熱意を持って生き生きとした教育活動を展開していただくということが極めて大事であると私も思います。そうした面でそうしたことが行われていないということであれば、今先生がおっしゃいました教育荒廃とかいろいろな面から言えるわけでございますが、学校の現場がそうした、校長さんを中心にした教職員活動が生き生きとして行われていないということであれば、極めて残念なことだと言わざるを得ないわけでございます。
私どもといたしましては、そういうことがないように教育委員会を通じ、校長、教員のすべてがこのような方向を目指して努力してくれるように努力をしてまいりましたし、また、なお一層このことを強く指導していかなければならぬ、こういうふうに考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/9
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010・元信堯
○元信委員 そもそも徳島県立徳島盲学校にこういう専攻科を設けて、県内の児童生徒だけでは進学者に無理があるというのが根本にあったと思うのです。それを事態を糊塗するために無理に無理を重ねたのが今日の事態だろうと思います。もう視力障害者のための職業訓練機関であるということは明らかなことでございます。いろいろ存立の方の都合を言い立てて弾力的運用を求めるような口ぶりがまだ見えるわけでございますけれども、学校設立の本旨に立ち返って、障害者の職業教育の拡大のためになお一層格段の御尽力をこの問題についても賜りますようにお願いをいたしまして、この件に関して私の質問を終わりたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/10
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011・片岡清一
○片岡委員長 嶋崎譲君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/11
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012・嶋崎譲
○嶋崎委員 今国会に提案されております臨教審法案も、今日まで予算委員会、文教委員会、内閣委員会といろいろなところでかなり論議が行われてきて、文部大臣を中心に大変御苦労だったと思います。我が党二人の委員と公明党を控えているだけでありますから、衆議院のいよいよ大詰め段階でございますので、今までの予算委員会以来の質問と重複する点があるかとは思いますけれども、少し問題点を詰めて今後の課題や対応についてお尋ねを申し上げたいと思います。
中曽根総理は施政方針演説で「教育改革は、全国民の皆様の御支援のもとに、長期的かつ国民的すそ野をもって進められるべきものであります。」と述べておられます。また、この間の答弁でも、国民の御参加、御意見等をよく拝聴してとか、全国民の監視のもとに、またその御協力のもとにと常に発言をされてこられました。教育改革というものを進めるためには国民的な合意の形成が必要であるということを、こういう形で述べられてきたものと私は読み取るわけでありますが、文部大臣もそのようにお考えですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/12
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013・森喜朗
○森国務大臣 嶋崎さんから今、総理の施政方針あるいはまた答弁の中から基本的なスタンスについてのお尋ねがございました。私も予算委員会あるいはまた文教委員会、そして当内閣委員会等を通じまして、今嶋崎さんがお尋ねのような形で私も答弁をしてまいりました。基本的には、教育改革は日本の将来の命運を左右するという極めて大事なものでありますだけに、幅広く国民的な合意を得るということがまず第一でありますし、そのためのいろいろな努力はしなければならぬ、私はそう思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/13
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014・嶋崎譲
○嶋崎委員 二月二十一日の予算委員会では、これはたしか民社党の中野委員の御質問だったと思うのですが、それに答えて「新機関ができた場合には、それはあらゆる手段を用いて国民の意見をお聞きする、じかに把握する、そういう努力をすべきであると思います。」そして例えば、参考人とかアンケートによる調査とか公聴会であるとか、そういう国民的コンセンサスを形成するために意見を聞く、恐らくこの審議会の最初のうちは大部分こういう仕事になりはせぬか、こう答えられておりますが、文部大臣も同じお考えですね。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/14
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015・森喜朗
○森国務大臣 今の御指摘の点は総理の答弁ですか。(嶋崎委員「そうです」と呼ぶ)私もたしか委員会でそのようにも申し上げた記憶がございますが、この問題が国会に提案されましてからというものは、総理もそうですが、私も随分いろいろな方から手紙をいただいたり、あるいは投書をいただきます。一日に多いときで十通ほどありまして、いかに国民の皆さんがこのことについて大変関心を持っておられるかというのは、非常によくわかるわけです。特に教育関係者の皆さん方からも、自分の個人的な案だがということで多くの紙にしたためて書いていらっしゃいますから、私はそういう現実を見ながら、こうした問題を進めていくに当たってはいろいろな工夫が必要であろうと思いますが、多くの国民の皆さんの意見をできるだけ聴取できるような方策をとるべきであろうな、こういうふうに私も感じております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/15
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016・嶋崎譲
○嶋崎委員 文部大臣も二月十五日の予算委員会で、国民の立場に立っていろいろな議論をしていただいて、そこで出てきた角度を新たに検討してまたフィードバックしていくというような趣旨の御発言もございますから、多分今申し上げた趣旨で総理とは意思統一、同じ御意見と思うわけであります。そんなわけで、今日の我が国の教育改革の必要性は、これはでき上がった審議会で中味を論議していただくわけでありますから、その器の問題を中心にして、その器が今後国民的コンセンサスを得るものとなって形成されるのかどうか、この設置法の性格について、これから質疑を進めたいと思います。
そこでもう一つ確認しておきますが、総理は、教育臨調という言葉は適切でないというふうに述べておられます。もともと教育臨調とは総理が言い出したものだけれども、しかし、いわゆる臨調、第二臨調との継続という観点で誤解を招くと考えられて、総理は行政改革と教育の改革とは全く性質を異にしているからと言う。その理由として、行政改革は政府自身の問題であるのに対し、教育は主として地方自治体の事業であること、文部大臣はそれを指導助言する立場で他の省庁と異なることがあるという点を挙げておられますが、そう理解して間違いがないですか、大臣。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/16
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017・森喜朗
○森国務大臣 嶋崎さんの方が御専門でお詳しいだろうと思いますが、教育もいろいろ幅広く家庭教育、社会教育、学校教育もございます。また学校教育の中には、その設置の責任を持つ地方の自治体というものもございますし、直接国がかかわり合いを持つ高等教育の面あるいは私立大学の面、国公立含めましてございますが、そういう面からまいりますと、すべてが今申し上げたように主に地方の事業であるというふうに必ずしも申し上げることはできません。角度をいろいろな立場で置いて見れば、いわゆる義務教育諸学校等の教育がもし教育の主であるというふうな認識を持てば、当然地方自治体の事業であるという見方もできると思いますが、すべてをそういうような形で教育全体のほとんどがそういうものであるというふうに必ずしも申し上げていいかどうか、これは見方がいろいろあるのではないかと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/17
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018・嶋崎譲
○嶋崎委員 ここで文部大臣と法律論争をやる意思はありませんが、地方自治法の固有事務に教育の事務があるのです。文部省設置法では、それに対して指導助言をするというので、わざわざそれを限定的に説いております。また、例えば社会教育法をとっても地方自治体が主であって、しかもその地方自治体がやる場合もあくまで指導助言であって、命令をしてはならないと書いてあるわけであります。
こうして戦後の我が国の教育という場合の一つの重要な点は、戦前の国家主義的教育に対して民主化ということを前提にしましたから、地方分権と住民自治の中で教育の固有の事務を位置づけた、そういう考え方に立っているわけでありますが、その根本は憲法であり、教育基本法にあるわけであります。したがいまして、大臣の今おっしゃったことをめぐって追及はいたしませんが、今度の臨時教育審議会というものを設置するに当たって、行政改革は国の政治の問題であるが教育は主として地方自治体の事業であると総理が言われている意味は、我が国の教育の民主的性格といいましょうか、制度の民主化された性格を前提にして、単なる行革の問題ではないよというふうに区別をされたのだと思います。
したがいまして、総理も文部大臣も、この教育改革に当たっては繰り返し、国民の合意、国民の合意ということを今日まで言ってこられているわけでありますが、その根本は、憲法二十六条並びに教育基本法十条一項が基本にあると考えてよろしいと思いますが、いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/18
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019・森喜朗
○森国務大臣 基本的にはそのとおりでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/19
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020・嶋崎譲
○嶋崎委員 そこで、教育基本法十条一項、二項の正確な解釈その他はここではやらないことにいたしましょう。世に言われている通説を前提にして、御承知のように、教育基本法十条一項は教育について説き、二項では教育行政のあり方について説いて区別をしているわけであります。その趣旨を前提にして文部省設置法、私立学校法があり、また社会教育法、地方自治法がある。そういう一連の教育法の体系ができ上がっているということを前提にして、これから設置法の中身について議論を進めていきたいと思っております。
さて、この臨時教育審議会設置法案に入る前に、ここでは審議会というものが前提になっておりますから、審議会の制度一般からまず議論を進めてまいりたいと思います。
審議会というのはそもそも何のために設けられることになり、特に審議会制度が非常に発達してきている今日の現状をどうお考えですか。総務庁長官にお尋ねをいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/20
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021・後藤田正晴
○後藤田国務大臣 審議会は現在二百十三ございます。それで審議会は、仕事の中身、幅あるいは性格、こういうような点からいろいろなものがございます。
したがって一口に申し上げることはいかがかと思いますが、分けて申しますと、一つは、各種の専門的知識の導入を図ることを目的にしておるもの、同時に民主性の確保というものもその中に入っているのじゃないかな、こう考えておるものがございます。もう一つは、公正を担保するという性格の審議会、いま一つは利害の調整をするという性格のもの、それから関係行政機関相互の連絡調整を目的とするもの、大きく分けるとこの四つばかりございますから一口には申し上げられませんが、いずれも国家行政組織法の八条機関として法的な位置づけがなされておるわけでございます。
今御論議になっていらっしゃるいわゆる教育の審議機関、調査機関は、私が第一に申し上げました部類に属する調査、諮問にこたえる機関である、かように理解をいたしておるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/21
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022・嶋崎譲
○嶋崎委員 よく整理されてあります。しかし、もう少しお尋ねします。
今世紀の初め、先進国の民主主義諸国家では、地域の代表制とでもいいますか、そういうものを補完するために、アメリカでもイギリスでも西ヨーロッパでも、続々と審議会制度というものが行政の外側にでき上がってきたわけでありますけれども、この審議会というものが登場してきた背景は何ですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/22
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023・後藤田正晴
○後藤田国務大臣 日本の審議会は先ほどお答えをしたとおりでございますが、御質問の趣旨を私なりにかみ砕いて理解をして申し上げれば、役所がルーチンワークをするときは別として、何らかの政策を打ち出すという段階では、役所の窓の中からだけの考え方ではいかぬのではないか、やはり専門的な知識を持っている人の、しかも幅の広い立場からのいろいろな意見を聞いた上で調査立案をするのがいいのではないかといったようなことで、各種の審議会がどんどん生まれてきつつあるのではないか、私はかように理解をいたしております。
ただ、このときに、我々政府の人間として本当に気をつけなければならぬことは、とかく批判がありますように、一種の隠れみのみたいな存在にややもすればなりがちである、これでは意味をなさぬわけでありますから、この種の審議会をつくる場合、そしてまたその運営に当たっては、そこらは十分注意をしていかなければいかぬ点ではなかろうか、私はかように考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/23
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024・嶋崎譲
○嶋崎委員 審議会が出てきた背景というのは、長官は一番大事な点を落としておりますが、一つは、現代国家として行政が肥大化してきて、政策立案の過程でいろいろな命令の制定権というものが行政に委任されることになります。そうした場合に、いわば命令制定権とでもいいましょうか、そういうものに対する行政権の委任が行政の勝手気ままにならないために審議会の意見を聞くという意味での一つの重要な側面があると思います。
もう一つは、社会がこのように高度に発展してまいりますと、事態に対して非常に専門的知識を必要とするがゆえに、その専門家を集めるという意味で、意見を聞いて政策立案の過程に寄与していく。ある意味では、審議会というのは政治と行政を調和させる機関というふうに言ってもいいと私は思います。行政が恣意的にならないために、政治との関係で調整していかなければならぬものだと思うのです。
しかし、審議会というのは、一番大事な側面である一方の専門的な知識というものを必要とするがゆえに生まれたが、他方でもう一つ大事なのは、長官が落とされました行政への世論の反映、国民の参加という問題をどのように位置づけるかが、現代国家における審議会制度が有効に作用するかどうかという重大なポイントであります。そういう意味で審議会の歴史的な形成過程を考えてみると、専門的知識の確保と他方で行政への国民の参加ということを念頭に置いて審議会が形成されてきていると私は判断をいたしますが、いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/24
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025・後藤田正晴
○後藤田国務大臣 私のお答えは、嶋崎先生が御質問の中でおっしゃるように端的に申し上げなかっただけの話で、役所の窓からだけ見た考え方で政策の立案、そういうことはできるだけ避けて、幅広い意見を聞いて立案をすべきではないのか。同時にまた、先ほど四つばかりの区分けをいたしましたが、その中に専門的な知識そして同時に民主性の確保ということを申し上げたのも、重点の置き方は嶋崎先生と多少違うかもしれませんけれども、趣旨は同じつもりでお答えをしておるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/25
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026・嶋崎譲
○嶋崎委員 そこで、国家行政組織法の三条、つまり国家組織を別表一で規定したものと第八条の審議会の組織的性格の相違点はどこにありますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/26
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027・後藤田正晴
○後藤田国務大臣 これは御案内のように、八条の方には大体調査、諮問とこう書いてありますから、そこの権限が違いますね。つまり、三条はそのものずばりで権限が決まってしまう。ところが八条の方は、御答申を受けてやる、最終の責任は政府にある、こういう点が基本的に違うのじゃないか、私はかように理解いたしております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/27
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028・嶋崎譲
○嶋崎委員 つまり、僕の質問が、三条の行政機関に附属するものとして審議会が出てくる、八条機関ですね。ところが、いわば三条の行政機関は上と下のヒエラルキーを持った官僚制度の中での機関でありますが、それに対して審議会はその外にあって国民の意見を聞き、より高い専門的な知識を聞く、つまり縦の組織ではなくて横の合議制を基礎にした機関であるという点が極めて重要ではないかという意味で三条と八条の違いをお聞きしたのでありますが、それでいいですね。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/28
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029・後藤田正晴
○後藤田国務大臣 おっしゃるとおりでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/29
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030・嶋崎譲
○嶋崎委員 ところが、三条と八条のいわば国家行政組織法で言うところの縦割り政府機関と横の合議制の機関である審議会が出てくる歴史的過程の中で、長官がおっしゃられましたように民主化、つまり国民の世論をよく反映させ参加さしていくという民主化の問題、同時にまた利害の対立を調整していくという役割、同時に専門性というものをいかに吸収していくかという原則を持って審議会が運用されていくものだというふうに、長官の意見を私流に整理すればそうなるのではないかと思うわけであります。
ところで、日本の現在ある審議会は、おっしゃるような民主化と利害の調整と同時に専門性というものを備える横割りの審議会として機能していると長官はお考えですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/30
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031・後藤田正晴
○後藤田国務大臣 審議会のあり方、運営、そういった問題については、御案内のように第一次の行政調査会いわゆる佐藤調査会、あの中にもいろいろ改善の御意見をちょうだいしておりますし、同時にまた、第二次の臨調からも御答申をいただいておるわけでございますが、そういった趣旨に沿って政府としては今日まで精いっぱい努力をして改善を進めておる、私はそう考えておるのです。
いろいろ御批判はあると思いますが、そういった御批判は素直な気持ちで受けとめて、今ちょうど行政改革を推進しているさなかでございますから参考にさせていただくつもりでおりますけれども、現状はどうかといえば、今ぐあいが悪いものがあるとは私は申すわけにはまいらないので、ともかく私どもとしては適正に運用をしておる。現に、例えば委員の構成等について関係行政機関の職員をできるだけ減らせ、減らしましたし、かつては二百七十七ばかりありましたが、現在二百十三に整理をしておりますし、委員の数もできるだけ簡素にしなさいといったことがございまして、一時と比べますと千人ばかり委員の数を減らしておる。同時にまた、余り審議会が活用されてないものがありはせぬかといった点をも考えまして、統廃合等もやっておるということで、政府は精いっぱい努力しておるということを御理解願いたい、かように思うわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/31
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032・嶋崎譲
○嶋崎委員 長官そうおっしゃるけれども、日本の行政法学者の文献を見ましても世の批評を見ましても、長官自身が先ほどおっしゃられたように、官僚の隠れみのになっているというのが世の批評でございます。元文部大臣だった永井さんも、中央教育審議会というのは文部省の隠れみのと言ってお去りになりましたから、かつての中教審もその隠れみのであったということを大臣みずからおっしゃったわけであります。
さて、そういう世の批評があるわけでありますが、政府の審議会のあり方については、第一次臨時行政調査会はその報告として、日本の審議会のあり方について立派な答申を出しておられることは先ほど長官述べられたとおりです。その特徴点を御説明ください。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/32
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033・古橋源六郎
○古橋政府委員 お答えいたします。
第一次臨調は、先ほど先生が御質問になりましたような審議会の役割につきまして、まず審議会はこういう点から設けられるべきであるということで「行政運営上、各種専門知識の導入、公正の確保、利害の調整、各種行政の総合調整等の目的をもって設置される。」べきであるという基本原則を述べまして、いろいろな提言をいたしておるわけでございます。
その場合の提言の考え方といたしましては、整理の仕方がございまして、まず第一に「制度の合理化」をすべきではないかという考え方から、設置の政令化等でございますとか、委員の数は原則二十人以内にすべきであるとか、委員の常勤制を廃止すべきであるとか、そういう制度の合理化という観点をまず打ち出したこと。それから二番目に「設置の規制」という考え方で、新設を抑制するとか、設置目的の類似する審議会等の統合であるとかを提言いたしておるわけであります。それから三番目に、制度だけではなくて「運営の改善」も行うべきではないかということで、行政機関職員の委員からの排除であるとか、その他公正を確保するために関係議員は排除しなければいけないということ。それから四番目に「総合調整にかかるものの整序」ということで、いろいろな特別の機関に関係するところに審議会を置きなさい、総理府にある審議会は特別に関係ある機関に持っていきなさい。
こういうような四つの考え方から審議会というものについての提言をしているわけでございまして、審議会に関しまして総合的にここで分析をして提言をなされた、こういう意味におきまして、第一次臨調の答申というものは大きな特色を持っているというふうに私どもは考えておるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/33
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034・嶋崎譲
○嶋崎委員 先ほど長官が整理されました審議会の民主性、第二番目に審議会の持つ利害の調整、専門性、こういう審議会の持つ基本的な三つの性格という観点から見て、第一次臨調の答申がその三点について具体的にどう示しているかというふうに整理してお答えにならぬと議論にならないし、問題の所在が明らかにならないのです。
だから、この第一次臨調の例えば「審議会等に関する問題点」というところで何が問題かというと、「行政運営の非能率、行政責任の不明確、割拠性の助長」というような問題の弊害を克服せよ、これは大前提です。そして、審議会の運営の面では、特に重要なのは、「委員の構成、議事の運営、答申・意見の取扱い等に問題がある。」こう指摘しているわけです。
そして、議事の運営についてのあり方並びに意見を内閣や主務官庁に提出した場合の扱いや、それから審議会の意思を尊重することなどについて、もっときちんとした運営をしなければ審議会は意味がないよということを、「審議会等に関する問題点」の運営のところで明らかにしています。
そして、「勧告にあたっての基本的な考え方」のところでも同じです。「委員の構成を、審議会等の制度の趣旨に即し、実効ある適切なものとするとともに、答申・意見を真に尊重するようにすること。」ということを基礎に置きながら、今政府の説明がありました「制度の合理化」その他が述べられております。その場合に、「運営の改善」についても「調査審議を実質的高度なものとし、行政に対する国民の意思の反映を効果的なものとするために、次の措置をとるものとする。」と書いてある。つまり、民主性という問題について我が国の審議会はほど遠い。だから「ア」「イ」「ウ」「エ」と四つの原則を挙げて、そして審議会の運営について改善すべき課題というものが提起されているわけです。
そのほか、総合調整の考え方についても、後で議論いたしますが、人事の基準を考えるに当たっても、行政側が恣意的に委員を選ぶことができる仕組みではなくて、きちんとした利害の調整をできるような仕組みの委員の基準を考えろということも言っております。
また同時に、最後に問題にしていますのは、中央教育審議会のあり方についても、「委員は広く国民を公正に代表する者をもって構成」しなければならないと、委員の構成のあり方について注文をつけているのであります。
こういう一連の第一次臨調答申の結果が出ていたが、これがなぜ実施されないのですか。長官、どう思いますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/34
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035・後藤田正晴
○後藤田国務大臣 今御質疑のとおり、第一次臨調と言うのは適切かどうか、要するに佐藤調査会ですが、専門、公正、総合、参加、こういったようなお立場での答申があったわけでございます。
そこで、審議会としては、制度の合理化、設置の規制、運営の改善、こういったことで広範囲な御提言がございました。これを受けまして、昭和四十二年と四十四年、さらに五十二年と五十三年度において、政府としてはこの趣旨に沿った審議会の統廃合、あるいは運営の改善、委員構成の是正、こういったことに努力をしてやってきた、かように考えておりますが、さらにまた土光臨調からも御答申がございましたので、この趣旨に沿って政府としては取り組んでいく、こういうつもりでおりますから、嶋崎さんのおっしゃる、やっておらぬではないかというのはいささか酷ではないのか。政府としては精いっぱいの努力をしておるということはひとつぜひ御理解をしていただきたい、かように私は思うわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/35
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036・嶋崎譲
○嶋崎委員 では、一つお聞きしますよ。
この答申で言っている、委員の構成、議事の運営、答申、意見の扱い等について提起されたことが、その後のあらゆる審議会においてどういう検討が行われたか。例えば委員構成、委員を選ぶ基準について、今日本にある審議会の中の委員の選出基準というのは幾つタイプがありますか。どんなタイプがありますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/36
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037・古橋源六郎
○古橋政府委員 具体的に委員の選出基準というものをどういうふうに考えるかということについての基準というものを私どもは持っておるわけではございませんけれども、委員を選出いたします場合においては、まずその委員会がどういう目的で設置されるのであるか、その委員会の仕事の役割はどういうものであるか、それに最もふさわしい委員というものを選ぶのが適当である、そういうのが大きな原則だと思います。
したがいまして、利害の調整をするというような審議会の場合でございますれば、相反する利害を有するグループ、それに対して中立の者というようなもの。あるいはまた、国民一般の方から広く御意見を承るというような審議会でございますれば、できるだけ広範囲に国民各層からの意見を述べていただける方を選ぶというようなこと。あるいは、役所側が非常に専門的なことについて意見を伺いたいというようなことでございますれば、各方面にその道に通じておられる方の御意見を伺うというようなことが、一般的に委員を選ぶ場合の基準ではないか、こういうふうに考えるわけでございます。
なお、第一次臨調のときに、委員の構成につきましては行政機関からの職員の排除、行政機関の職員が委員になっておったのでございますけれども、これにつきましては、当時行政諸機関の職員を構成員とする審議会が百二十三ございましたけれども、これをその後の努力によりまして、現在は本当に行政機関の職員が必要である場合ということで、三十九にまでそれを減少いたしておるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/37
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038・嶋崎譲
○嶋崎委員 時間がないから、こんなすれ違いな議論をしていたってしようがないですから、少し具体的に入っていくことにしましょう。
やはり物事を考えるときに大切なことは、ある時代まで制度や組織が発展したときに、その組織や制度が最初に意図したものに対してなかなかそう機能しないようになる、人間の努力にもかかわらず。そういうときに我々が一番心しなければならないのは、古きをたずねて新しきを知るということだと思うのです。最初にどういう考え方でどうしようとしてきたことがなぜそうならないか、もう一遍古きをたずねて、それから新しいものを模索する。温故知新というのは、そういう意味では物事を考えていく場合の大変いい一つの考え方ではないかと思っているわけであります。
そこで、森文部大臣にお聞きしますが、中央教育審議会を最初につくろうとした時代の中央教育審議会の考え方と、典型的に言えば昭和二十六年の時期を境にして、教育審議会の委員構成その他のあり方に変化が起きたということについて、その変化の中身、大臣、御存じでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/38
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039・森喜朗
○森国務大臣 お尋ねの問題はかなり昔の問題でございますので、経過もございますし、その当時の記録についても詳細に事務当局の方では承知をいたしておりますので、答弁をさせます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/39
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040・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 先生のお尋ねの趣旨は、中央教育審議会発足のとき、それ以前の審議会と中央教育審議会の委員構成の仕方について考え方に変化があったのか、こういう趣旨にお聞きをいたしましたので、その趣旨に沿って答弁させていただきます。
戦後できました教育刷新委員会の委員の構成につきましては法律に規定がございまして、政治、教育、宗教、文化、経済、産業等の各界における学識経験のある者から選任をするということになっておったわけでございますが、この教育刷新委員会及び刷新審議会の審議を通じまして、関係団体の利害というのがかなり前面に出されてまいりました。そういうことを踏まえまして、そのような各界の分野の構成ではなく、高い識見を持ちあるいは高潔な人格を持つという抽象的規定に変えたというふうに承知をいたしております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/40
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041・嶋崎譲
○嶋崎委員 それでいいんです。その回答でよろしいのです。しかし、そこには重大な問題があるわけです。
教育刷新委員会から、当時中央教育審議会というものをつくるときには、今齊藤さんがおっしゃられましたように、委員選出の基準は西欧の先進国法制を見習って利益代表的考え方をとっていたのであります。典型的なのはフランス法制です。全世界で、先進国の中で審議会制度が最も発達していて、そして日本にも参考にされた審議会の発展の典型としてフランスをとるならば、利益代表という形であったから、最初は、中央教育審議会というものを考えるときには、教育刷新審議会、大学設置審議会、日本学術会議、社会教育審議会等の団体の代表をさしあたって前提にし、そして全国教育委員会連絡協議会、さらには、今おっしゃられた委員の選出に当たってはそういう団体を頭に置いた上で、教育、学術、文化の分野から並びに政治、社会、産業、宗教、経済などの分野からという形で委員の基準を決めていたわけであります。これはそういう意味では、教育ということに関連するインタレストグループですね。利益代表的考え方を採用していたわけであります。ところが昭和二十六年の天野文部大臣を境にしまして、中央教育審議会の委員の選出基準が変わったのであります。
今日、文部省設置法二十七条で言っているところの考え方の基礎がそこでできたわけであります。条文は読みません、省きますが、そこで非常に抽象的なものになったのです。人格識見がすぐれているとか、そういうことになったわけです。ここに、最初行管庁長官が問題にした国民参加という意味の民主的性格というものと委員構成との間に現実に矛盾が起きてくる一つのきっかけが始まったと私は判断をいたします。
そこでお聞きしますが、中央教育審議会を幾つかの時期に分けてみましょう。中央教育審議会の時期を幾つかに分ける基準を今申し上げます。中央教育審議会の一期から仮に十三期なら十三期までをとるとして、幾つかの時期区分をやってみて、今問題になった天野文部大臣の時期の前と後で学識経験者の中身は変わったのか変わらないのか、文部省の官僚OBはふえたのかふえないのか、それからまた同時に、教育関係の団体の利益代表的な者がふえたのか減ったのかということについてのデータをとったことがありますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/41
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042・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 大変恐縮でございます。一期から十三期までの委員そのものの数は持っておるわけでございますが、先生が今お示しのような基準で分類したものはございません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/42
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043・嶋崎譲
○嶋崎委員 そこで、私は基準を示しておきますから、これからの参議院の審議の材料になりますから、こういうタイプの資料を提出してください。
第一期から第十三期までの中教審の委員構成並びに委員になった大学教授の専攻研究領域、臨時委員の中の教育学研究者、専門委員の中の教育学研究者。今言ったのは普通の委員の中のもの。それから同時に、専門委員もありますから専門委員のもの、こういう資料を各期ごとに整理して提出してほしい、これが一つ。
もう一つは、委員の構成を検討するに当たって私の一つの物差しは、一番目、大学教授、二番目、小中高校長、三番目、財界、経営者、四番目、評論家、五番目、文部省関係者、六番目、マスコミ関係者、七番目、教育委員会関係者、自治体首長の関係者、労働組合の関係者、日本学術会議の関係者、元文相にあった人、十一言いましたね。わかりましたか。わからなければ後で私のところにまた聞きに来てください。もう時間をとりますから省きます。この基準に従って中教審の委員が一期から今日までどういう変動があって構成されてきたかということのデータを資料として提出していただきたい。いいですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/43
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044・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 先生の基準に基づきまして精査をいたしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/44
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045・嶋崎譲
○嶋崎委員 御迷惑ですが、仕事がふえて申しわけないが、資料提出をお願いいたします。
今の私の基準に基づいて私流に分析をすれば、正確かどうかわかりませんから後でデータで突き合わせてみたいと思いますが、委員総数のうち大学教授は約三〇%、小中高の校長さんが一七%ぐらい、財界が約一二%ぐらい、大体大ざっぱに言って、全体に共通している特徴はそこにあります。
そして、一期から十三期までに任命された教授八十四人のうち、教育関係を専攻領域とする学者、教育学会に籍を置く教育学者、私立、国立の大学の教育学部に主にいる教育を専門にしている学者というのはわずかに五人しかおりません。専門委員の中でも五十人の中でわずかに十七人であります。臨時委員の中では五十九人の中にわずか十一人であります。教育関係の学者が極めて少ないのはどういう理由ですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/45
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046・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 先生の御指摘で、かねての教育刷新審議会や刷新委員会の当時と現在の中央教育審議会の委員構成との比較の上で、教育関係の学者の数が少ないという御指摘かと思います。
教育学関係と申しますと範囲がかなり限定されますし、あるいは教育心理学関係その他を加えますと、広い意味での教育学の関係の方、もう少し数がふえるのではないかというふうに考えますし、正規の委員の中には、おっしゃるとおり教育学の先生は少ないわけでございますが、特に専門委員につきましてはそのことを一貫して配慮してきておるというふうに理解をいたしております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/46
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047・嶋崎譲
○嶋崎委員 こんな事情があるのですよ。
教育学という学問は第二次世界大戦後に発展した学問です。だから、戦後は大学における教育学者は少なかったのです。しかし、今日は違います。戦後四十年近い今日は、日本の教育学の水準も国際級になっております。かつて大学における教育学部の相対的地位が低かった時代は、教育学部専門家は必要でないという理屈で法、経だけをいじったかもしれません。しかし、今日の中央教育審議会を考えるに当たっては、その後の我が国の学問の発展や教育学界の発展を考慮するならば、委員の中には相当専門家を投入すべきであると私は考えますが、いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/47
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048・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 つい最近の第十三期の審議会では、特に臨時委員の中に教育学の関係の方をお願いする、それから学者のほかに学識経験という形で現場の先生方もその中に参加していただく、教育の場のいろいろな問題が教育審議会の中に反映されるようないろいろな工夫をしてきたというふうに考えておるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/48
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049・嶋崎譲
○嶋崎委員 数字を挙げて反論をしたいところでございますが、正確なデータを見てから、いずれ参議院で議論していただくことにいたしましょう。
大体教育学の専門家は、非常に不思議なことに文部省の中教審委員にはならないという特徴が、意識的かどうかは知りませんが傾向的にある。それは古い戦後の教員免許の制度はオープンシステムですから、法学部や経済学部だってちっとも構わないのです。だけれども、伝統的な法学部や経済学部の方々が圧倒的に多くて、戦後発展した教育学界のスタッフの投入が相対的に少ないという事実だけは御指摘申し上げておきます。
さて、文部大臣にお聞きします。中央教育審議会は幾つかの答申を出してまいりました。その出した答申がうまくいっているときもある、うまくいかなかったこともあろうが、答申は実効があったとお考えですか。いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/49
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050・森喜朗
○森国務大臣 中教審の答申は、いろいろ出し方にもよるわけでありますけれども、すべてそのままダイレクトで実施をいたしておるものもございますし、もちろんそれをまた専門分野に分けて、専門の研究の場でいろいろと御討議をいただいて、あるいは政策として取り上げた場合もございますし、政府がそのまま実施をいたしたものもありますが、逆に政府としてなじみにくいというようなものは、例えば私学助成法などのような形のもので党として立法したようなものもございます。概して中教審の答申は、もちろん国会の議論もございまして形の上で多少変化したものもございますが、おおむね実施に移されているというふうに私は理解をしております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/50
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051・嶋崎譲
○嶋崎委員 例えば何がありますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/51
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052・森喜朗
○森国務大臣 大変多くの答申でございますから、例えばというふうに申されて何を申し上げていいか、もっとも嶋崎さんが何を構えてお尋ねなさっておられるのかということがちょっとわかりにくい面もございますが、今申し上げた例えば私学助成法もそうでございましたし、あるいは教員の待遇の改善というものも、一つ挙げればというふうに申し上げればそういうものもございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/52
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053・嶋崎譲
○嶋崎委員 僕が正確であるかどうか知りません、記憶が間違いかもしれませんが、教頭法案の出てくる前提はどうでしたか、主任制はどうでしたか、教員養成大学はどうでしたか、筑波大学、新構想大学はどうでしたか、それから放送大学はどうでしたか。こういう一連の私が全部国会で扱わさせていただいたものは、ことごとく中教審の答申と密接不可分と理解いたしますが、いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/53
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054・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 先生今御指摘の幾つかの点につきましては、そのほとんどが四十六年の中央教育審議会答申にかかわりがあるというふうに考えます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/54
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055・嶋崎譲
○嶋崎委員 この答申を教育の利益に関係する、さっき言ったインタレストグループの人たちや国民の中では、それぞれどういう受けとめ方をされたか。言葉を変えて言うと、国民的コンセンサスを得ることができた事案でございますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/55
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056・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 先生、どういうような基準で御指摘になっているのか定かでございませんけれども、私どもは、この四十六年中央教育審議会の答申といいますのは、その当時、幼児期から高等教育までの学校教育全般にわたる改革と、そしてその拡充整備の基本方向を示したものというふうに理解をいたしております。極めて重要な意義を持っている。文部省といたしましては、それ以来今日までこの答申の趣旨を尊重しまして、あるいはこれを指針としまして、各界の御協力を得ながら答申に盛られた事項の実施に積極的に取り組んできたと考えておるわけでございます。中教審の審議によりまして現に実施できましたものにつきましては国民的なコンセンサスを得られたもの、得て実施したものというふうに考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/56
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057・嶋崎譲
○嶋崎委員 文部大臣は予算委員会かどこかで、ここに正確な日にちとあれは入れておりませんが引用は正確でありますから、「昭和四十六年のいわゆる第三の教育改革と言われた中教審答申がなぜ実行されなかったかということについて、内閣挙げて取り組む態勢になかったというのが本当のところ、中教審自体が国民の合意を形成するプロセスを欠いている」。かつての中教審が内閣挙げての取り組み態勢がなかったと、そこで昭和四十六年第三次教育改革について実効が上がらなかった一つの理由と挙げておられますが、今もそうお考えですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/57
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058・森喜朗
○森国務大臣 前後のやりとりのところが、後というよりも先の方がいいかと思いますが、その辺がちょっと定かじゃありませんが、私の認識といたしましては、先ほど申し上げたように、おおむね四六答申は数の上では実施をいたしておる。ただ、項目の中には、かなり大きなウエートのかかる面から見ますと、ある意味では、各党のそのときの御質問にもよりましたけれども、何もやられてないじゃないかというような御質問もございました。そういう角度もいろいろ含めて答弁を申し上げたのではないかと思います。その中で行政各部にわたるようなものがございました。そういうようなものはやはり文部省だけではなかなかやりにくい、どうしても各省の調整ということが非常に難しい、その調整の中で結果的には何となくオブラートに包んだ答申で、そのままになっていくようなケースもあるという意味も含めて、私は内閣挙げてこれに取り組む、ある意味では関連する行政各部がそれに対して、これを尊重して受けていかなきゃならぬというようなことを何かの形ではっきりさせていく方が実効が上がるというような意味を持って、私はそういう答弁をいたしたという記憶をいたしております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/58
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059・嶋崎譲
○嶋崎委員 総理も、今までの文部省設置法に伴う文部省の枠の中の、確かに二十七条の他の審議会よりも独自に起こした重要な審議会として位置づけてますね。しかし、それでもやはり文部省内部にできた審議会だったから、他の例えば自治省との関係もあればあるときには労働省との関係もあれば、広範な官庁の利害もありますし、同時にまた、国民諸階層のいろいろな関係も含めて見て教育改革の実が上がらなかった、一つの限界だ、だから今回は国家行政組織法第八条審議会で、総理直属でやる方が教育改革が進められるんだという趣旨のことはたびたび御発言があっておりますから、多分そのような考え方が底流にはおありだろうと私も推察をいたしますが、そうでしょう。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/59
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060・森喜朗
○森国務大臣 これも視点のとらまえ方がいろいろあると思いますけれども、私どもはおおむねそういう理解をいたしております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/60
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061・嶋崎譲
○嶋崎委員 中央教育審議会の、例えば四十六年答申をめぐって非常に国内で多くの意見が出ました。単に教員団体ではなくて、例えば教育学者の中からも、それから教育関係者の中からもいろいろな意見がありました。特に先導的試行というものは、やってみないとわからないところもあるが、大体物事の制度を変えるというのは保守的な方が主流でありますから、革新という意味では、立場がいろいろあっても制度改革には国民はちゅうちょするものだと思います。それだけに、先導的試行に伴ういろいろなものが成功しなかったという意味で、いろいろ実現できなかった隘路が一方にあることは私も認めますが、しかし、それが中央教育審議会というところで文部省内部の審議会なるがゆえに全体的に見ることができなかった、ないしは全体的な力にならなかったというところに問題をすりかえてはならないと私は思うのであります。
なぜかというと、もとへ返ります、委員の構成です。最初の教育刷新委員会やその当時の委員の選出基準は、利益代表的性格の人選なんです。それが天野文相を境にして、利益代表という考え方を意識的にはっきり文部大臣は捨てられたのです。議事録に残っています。利害を調整するような者にはだめなんだ、第三者の権威ある者を持ってくる方がより効果があるというふうに変わって、いわゆる人格識見ともにすぐれた者というふうに基準が変わったのであります。ここに問題の所在がありませんかと私はお聞きしたいのです。どうお考えになりますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/61
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062・森喜朗
○森国務大臣 私は、歴史的にその当時、もうちょっと大人であったら少し客観的に判断もできたと思うのですが、私も御質問のそういうお話があるということで当時の天野さんの答弁を読んでみているのですが、人格が高潔で、いわゆるそういういろいろな各専門分野の利益代表ではなくて人柄あるいは学識、こういうふうになると、やはり結果的には、さあ今日本の国の中で大変な識見を持っておられてそして人格もすばらしいというと、教育者というところになってくるのではないでしょうか。これは先生も教育者であったわけですから、ちょっとお世辞を言うわけではありませんが、大体一般概論として教育者というふうになるのです。しかし、その教育者が選ばれてくると、やはりこれは国立大学を背景にしている、あるいは私立大学を背景にしている。義務教育のそういうことによく精通しておられる人というと、やはり校長さん方から選ばれてくる。私もあなたも同じ石川県ですから、石川県で高い人格を持つということでぽっと選ぶと、校長経験者みたいな人を選ぶ。やはり校長さんの利益代表という形になってくる。
ここは非常に難しいところで、専門分野からもお願いをしなければならぬが、人格識見、専門分野という形で選べばどうしても利益代表の発言になる。しかし、高い人格識見だという形で、そういう選び方でお願いをいたしますのですよ、こういうふうな決め方をすれば、発言にもあるいは審議をされる委員の議論の中にも、おのずから個人のお気持ちの中で一つ制約がかかってくる。そういう意味では、人格高潔で、広く高い識見をということは私は大変よく理解できますし、そういう形で選ばれたのだろうと思います。
しかし、現実の四六答申のことに置きかえて私もいろいろな話を聞いてみると、どうしても議論の中には、そうはいうものの、やはり現実には自分の立っている基本的な土台がそういう利益代表の立場にならざるを得ないという人間的な弱みも私はあると思うし、特に学校教育の制度なんかの議論がだんだん世の中で大きく浮かび上がってくればどうしてもいろいろな形で、ちょうど今臨調などの答申を書いたり行革審の答申を書くとき、正直言って私どもいろいろな形で働きかけなどもいたしますから、そういういろいろな形として、まあ多少は、すべて理想どおりのものはでき上がってこなかったといういろいろな経緯もあると思うのです。
率直に申し上げて、先生のお尋ねは私、答弁する場合非常に難しいです。しかし、そういう意味で四六答申の際は人格識見で選んだのにどうだったのか、あるいは先生の立論の構え方がどうか、私もまだちょっとはっきりつかめないものですからお答えがしにくいのですが、今の先生の御質問からそういう感想を持ちます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/62
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063・嶋崎譲
○嶋崎委員 つまり、我が国が第二次世界大戦後、戦前の日本の教育のあり方を民主化していくという際に、教育の法制として中央教育審議会という提案があった。その法制を考えるときには、先進国で築きあげてきた、つまり一口で言いますと、学識経験者・公益委員的なものを基準にするのか、それとも利益代表的な性格で委員を構成するのか、制度論をやるときはこれがポイントなんです。
つまり簡単に言えば、前者の中教審の委員の選び方は行政当局が自由に選べる選び方なんです。その選び方は、学識経験者の中でも例えば大学、高等教育を考えて、一九六〇年代の終わりにあれだけ全国に大騒動がありましたね。大学で全部、教育改革が提案されましたね。そのときの一つの大問題は何かというと、高等教育における教養学部、教養というものをどう位置づけるかということで、これはいまだに解けていないのです。今度は解かなければいけませんけれども。ところが、教養をどうするかということの中には、教育に携わっている人、日本の高等教育を考えている人の中にも意見の対立があります。そのときに、ある一つの考え方の学識経験者が出ているということは、しかも、それを文部省当局によるいわば恣意的な選出が可能な人を選んだとすると、それは国民代表的性格でなくなってしまうのです。国民的合意を得ることができる委員の選出でなくなってしまうのです。そう私は思うのです。
そこで、西欧先進国では今世紀の初めから長い間かかっておるのです。利益代表というのは決して私益を代表しているのではないのです。私的な利益を代表する者をぶっつけていくうちに、審議会のいわゆる総合調整ですが、総合調整の結果、より高い公益というものが追求されて方向が出てくるのです。それに基づいて行政が考え、立法府が考える。これが審議会なんです。だから、先進諸国の法制の持つそういうものを受けているからこそ、戦後の中央教育審議会の委員選考の基準は利益代表的性格というものを持っていた。それを天野文部大臣が、そういう考え方でいくとまずいということで学識経験者に切りかえたのです。学識経験者に切りかえたということは、それ以降は、先ほど私が大ざっぱに挙げましたが、大学教授が三割くらい、財界が一七、八%いても、あるいは校長さんはいるけれども、現場の教師の意見は一つも入らないのです。父兄の意見というものも、学識経験者で含んでいるように見えるが、しかし、これだって仮に子供さんをお持ちでない専門家がいたとしたら、子供を育て、子供の教育で悩んだ時期の経験をみずからの生活で持たないでいて、頭だけでわかるものではないと思う。学識経験者というものを選ぶにも一つの基準があるはずです。
したがって、昭和二十六年の天野文部大臣を境にして中央教育審議会の委員の選考基準が変わったということと、その後の中教審のメンバーを先ほどの出していただくデータでさらに分析してみると、この構成につまり国民的コンセンサスを得る人が集まっていなかったという面も否定してはならない。私の方で見ているデータでも、特に後期に行けば行くほど文部省のOBはふえっ放しである。文部省をやめた役人がどんどん委員にふえてきているのです、最初は少なかったのに。なぜふやしたのか。これはもはや隠れみのということを実証している以外の何物でもないと言わざるを得ないと思う。そうしますと、隠れみの的審議会は行政の恣意的人事基準によって決められたものだということで、出た答申に対して国民からなかなかコンセンサスが得られないという問題点を含んでいるのではないですか。これが、今まで議論してきたところの私の整理したかった論点であります。
ですから、先進諸国の場合は大体職能代表から始まるのです。そして今度は団体代表になりますが、その団体代表の場合には、団体の中で選挙をやるか団体の中で推薦をするかというふうに、利益、私益というものをぶっつけながらより公益的なものにするにはどうするかという、最初に申し上げました三条審議会と違う八条審議会の持つ横割りの民主的性格というものを組織構成に持っていくための努力が行われてきているというふうに私は理解しております。そういう点で、この中央教育審議会について問題があったればこそ、第一次臨調答申の最後に中央教育審議会を挙げて、委員の構成について問題がありますと指摘されている背景があるんじゃないだろうかというふうに勝手に総括をいたしたのです。勝手にしたのです。そうでないかもしれません。別の立論をすればそうでないかもしれません。しかし、私の考え方は、一つの考え方としてそう大変な間違いを犯していないのではないかと思っております。文部省のOBが勢いよくふえるというのはおかしいでしょう。どうですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/63
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064・森喜朗
○森国務大臣 嶋崎さん御承知のように、私も党で、予算の編成の際あるいはまた政策を進める上でいろいろ文部省とも議論をいたしたことはございますが、確かにそういう面で、審議会がこういうふうな考え方をしておるんだ、ではその審議会のメンバーはだれがなるんだというふうに見てみると、確かに御指摘のような面もございました。先生の立論は何かというのは大体わかりました。ですから私も終始答弁で申し上げてまいりましたように、私自身もまだその基準を——この間、鈴切さんの御質問の際に、こんなふうに分野をちょっと考えてみておりますと申し上げましたが、それはまだまだ確定したものでもございません。したがって、たびたび申し上げておるように、この国会におきます議論を踏まえて考えなければならぬだろう。本当に国民の合意を得るような、また理解と協力を得なければ何にもならぬわけでありますから、今先生が何を私に求め、そして何を先生が主張しておられるかということは、私はよく理解をいたしました。
そういう面で、私の今の立場で、過去の中教審の選び方はどうであったとか、それはこういう指摘と非難があるがそのとおりだと思わぬかと言われると、私も、そのとおりでございますとも言えるものではないわけでございます。それは先生が一番よくわかってくださると思います。要は、先生に御指摘をいただいた点は非常に大事なところだというふうに私は理解をいたしておりますので、その点については十分留意をいたしながら、国会で御論議をいただき、成立をさせていただければ、最大限そうした問題点について十分国会の考え方というものを生かして判断をしていきたい、こう考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/64
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065・嶋崎譲
○嶋崎委員 そこで、二つ注文を出しておきます。
一つは、確かに人格、識見、これは学識がなければだめですね、必要でしょう、権威というものがありますから。それは必要です。それの構成要素として利益代表的考え方を導入する、検討する意思はありや。利益代表的なものを含めて今のような人格識見という問題と結びつければ、今の升目、はかりと違った基準が出てくる。これが一つ。
第二番目は、歴代の中教審の委員の中で問題にしてまいりました、例えば教育学界というようなものを念頭に置いて、同じ学識経験者の中でも選考に当たって一つの重要な升目として基準になり得ないかどうか。少なくとも中教審がいいか悪いか、今から先へ進まなければいかぬのですから、そういう際のいわば基準。
この間文部大臣がどなたかの御質問にお答えになっていたのは、あれは代表選出のタイプをおっしゃっているのであって、法制度上の基準を言っているのではありません。したがって、法制度上の基準として、その利益代表的性格という問題と、それから事教育に関する問題として学識経験者の中での——何も教育学者だけを選べと、そんなことを言っているのじゃなくて、今までの中教審の委員構成の反省の上に立って、そういう観点の選び方は一つの基準にならないかということを提案申し上げて、検討していただけるかどうかという点をお伺いしたいのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/65
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066・森喜朗
○森国務大臣 たびたび御質問をいただきまして、その際にも申し上げておりますが、基本的には、私は、いろいろな団体の代表という視点で選ぶということはとるべきではない、こう思っております。ただ、さっき、中教審で文部省が多かったではないかという御指摘もございましたが、恐らく教育の行政の専門的な分野、いろいろな意味で議論をしていきますと、どうしても過去の、そうした権威ということで、そういう意味では識見なのかもしれませんが、専門的知識なのかもしれませんが、文部省からのOBが選ばれたということも、安易だったかもしれませんが、やはりより誤りなきようにという意味もあったのではないか。これは別に弁護するわけでもございませんが、そういう過程があった。そういう意味では、教育制度を考えていくということでございますから、基本的にはやはり教育の事柄について精通しておるという人が非常に大事だというふうに思います。
そういう一環としては、例えば学問分野で今先生が指摘されましたような学問は、確かに戦後大きく発展をした学問であるということにかんがみて、従来の、昔のままの考え方で教育の分野を見るということは誤りであろう。この法律の提案理由にも書いてございますように、二十一世紀を担う子供たち、端的に言えば二十一世紀の日本の教育のあるべき姿ということに議論の一つの大きな指針があるわけでございますから、そういう意味では教育の分野においても、古きもの、新しきものということのえり分けではないけれども、少なくともこれからの将来の方向を十分考えていくという教育の分野というものも重要な一つの視点であろうというふうに考えるわけであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/66
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067・嶋崎譲
○嶋崎委員 そこで、ちょっと法律の条文に入りますが、中央教育審議会の方は、三条二項によりますと、専門委員は「学識経験のある者のうちから、会長の意見を聞いて、文部大臣が任命する。」ということになっていました。今度の臨教審は「文部大臣の意見を聴いて、内閣総理大臣が任命する。」つまり、中央教育審議会は学識経験者の中から会長が決めておるわけですよ。専門委員を選ぶときには、専門的な中教審の会長が選んだ者について文部大臣が決めるのに対して、今度のものは、文部大臣の判断に基づいて総理大臣が決めると変えた理由はどこにありますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/67
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068・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 専門委員の任命の件でございますが、正規の委員につきまして任命権者が総理でございますので、同様に総理が任命をするということにいたしました。それから、正規の委員と同じように教育に係る問題が中心でございますので、教育について責任を持つ文部大臣の意見を聞くという手続をとることといたしました。
御指摘の、会長の意見を聞いてということでございますが、これは現実の問題として、事実上会長の意見を聞くことは当然考えられるというふうに考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/68
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069・嶋崎譲
○嶋崎委員 そこがやっぱり今度は屋上屋なんですよ、簡単に言って。今までは中央教育審議会というものは文部省設置法でやったのです。それを今度は国家行政組織法八条へ持ってきて総理大臣に持ってきたものですから、専門家の会長の実質的な発議が条文から消えて、政治家の推薦で総理大臣が決めると変わったのですよ。これは人事における公権力の介入の危険性をはらんでいる疑いがある。もちろん、おっしゃるような大学の教授の人事とかは知っていますよ、法律用語の解釈として。しかし、これは専門家が読むのではないのです、国民が読むのですから。なぜ、かつての中教審は会長で文部大臣が決めたのに対して、今度は会長が抜け落ちて——実質はそうだと言ったって、そんなものは通じません。文部省の方でお手盛りで決めた者を文部大臣が総理大臣に言うかもしれません。今、縦割り行政なんですから。審議会というものは民主的参加になっていませんから。だから、そういう意味で、変えた理由というものを今の理由では私は納得できません。だからこの点は検討するかどうか、これを一つ問題として出しておきます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/69
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070・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 ただいま申し上げましたような理由で専門委員の任命の仕組みを考えているわけでございますので、これがベターな方向であるというふうに考えておりますので、それを再検討するという考えはございません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/70
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071・嶋崎譲
○嶋崎委員 それならば、運営細則の要綱はありますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/71
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072・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 審議会が発足後、審議会の運営についての規定を設けるということでございますので、現在はそういうものはございません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/72
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073・嶋崎譲
○嶋崎委員 では、法律が通り次第、運営細則の要綱をつくる際に、条文はおっしゃるような意味なら、細則のところでそれを明記しておく、できますね。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/73
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074・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 先生の御指摘の趣旨を十分体して考えてまいります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/74
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075・嶋崎譲
○嶋崎委員 では、それは細則のところできちんと中教審における専門委員選出の手続に学び、その趣旨を体して細則に明確に記すということを約束させていただきたいと思います。
さて、今度は新たな観点を申し上げます。
今度は二番目の問題、つまり今度できる審議会がもはや国民的コンセンサスを前提にすることはおっしゃったとおりですね。同時に、その基本は憲法二十六条、教育基本法十条に基づいているということも御確認いただいたとおりであります。
そこで、行管局長の古橋さん、ほかの審議会でも日本の審議会というのは、審議会の議事について公開という考え方に対して非常に消極的だと思うが、どうですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/75
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076・古橋源六郎
○古橋政府委員 日本の審議会の公開に対する考え方について私の方からコメントするのは差し控えさせていただきますけれども、審議会の議事を公開するかどうかということは、その審議会が最も効果的にその業務を遂行するかどうかということにかかってくることだと思います。したがいまして、その審議会自身がお決めになる話でございますので、その審議会の目的から見て、公開する方がいいというお考えならば御公開なさいますし、公開をいたしますと個々の委員の発言がいろいろと差しさわりがある、自由濶達な議論ができないという見地から、審議会の公開をしないというふうにお決めになった場合についてはそれを発表されないということになっていると思います。
しかしながら、日本の審議会におきましても、大体において審議の内容につきましてはその審議会の都度、大体どういう議事があったかということを発表するということについて大変意を用いているというふうに私は考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/76
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077・嶋崎譲
○嶋崎委員 法制局来ていますか。
内閣法制局にお聞きしますが、国民の知る権利について裁判所が判示したものが我が国に存在していますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/77
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078・茂串俊
○茂串政府委員 お答えを申し上げます。
知る権利につきまして、最高裁の決定あるいは判決で何かこれを判示したものがあるかという御質問でございますが、それはございます。
昭和四十四年十一月二十六日の最高裁の大法廷決定におきまして、報道機関の報道は、国民の知る権利に奉仕するものであって、報道の自由は、表現の自由を規定した憲法第二十一条の保障のもとにあること、そして次に、報道のための取材の自由も、憲法第二十一条の精神に照らし、十分尊重に値するものと言わなければならない、という趣旨の考え方が示されておるわけでございます。
ただ、この最高裁決定では、いわゆる知る権利につきまして述べているのは極めて簡潔でございまして、その法律的な性格とか内容とかいうものが、必ずしもそこで具体的かつ明確に表明されているわけではないわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/78
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079・嶋崎譲
○嶋崎委員 今おっしゃられましたように、一九六九年十一月二十六日の博多事件に関する最高裁の判決では、まさに憲法二十一条の精神に照らして十分尊重に値するものと言わなければならないと言って、知る権利について判示をいたしております。
この知る権利は、国民主権の原理、表現の自由を初めとした我が国憲法の基本的人権の保障規定に照らして、国民に知る権利が備わっていると考えているのは憲法学界の通説だと私は思いますが、この考え方と憲法の法源に基づいてこのような判示が行われていると理解してよろしいでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/79
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080・茂串俊
○茂串政府委員 ただいま判示の内容、最高裁決定で示したその内容を申し上げたのでありますが、先ほど申し上げましたように、知る権利につきましては、その内容を事細かに判示しておるわけではございません。また、嶋崎委員御承知のとおり、憲法に直接いわゆる知る権利につきましての規定はないわけでございますが、憲法第二十一条の保障する表現の自由とか、あるいは憲法のよって立つ基盤である民主主義社会のあり方と結びついたものとして、このいわゆる知る権利というものは十分尊重されるべきものであると考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/80
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081・嶋崎譲
○嶋崎委員 ありがとうございました。
そこでお聞きしますが、諸外国で国民のアクセス権を保障するための情報公開に関する法令を定めている国がありますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/81
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082・古橋源六郎
○古橋政府委員 お答えいたします。
今手元に資料はございませんけれども、情報公開法を制定している国はございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/82
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083・嶋崎譲
○嶋崎委員 最も進んだ例はアメリカにありませんか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/83
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084・古橋源六郎
○古橋政府委員 まだその内容につきましてつまびらかにここで御説明するだけの今資料を持っておりませんので、御容赦賜りたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/84
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085・嶋崎譲
○嶋崎委員 我が国の行政管理庁はなくなったけれども、総務庁長官のところの局長さん、古橋さんが、こんな世界の重大な法律が問題になっていることを知らないということになると、我が国の審議会は公開にならぬはずですね。これはえらいこっちゃ。
代表的なものは一九七二年にアメリカで制定された連邦諮問委員会法という法律がまずあります。そして、そこで行政機関の会議の公開を定めた新たな法律として、行政を太陽にさらすという意味でサンシャインと呼びましょうということで、いわゆるサンシャイン法があるということを、周知のことですが、御存じではないですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/85
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086・古橋源六郎
○古橋政府委員 突然の御質問でございますので、今お答えすることはできませんので、御容赦賜りたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/86
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087・嶋崎譲
○嶋崎委員 この奥平先生の書いた「知る権利」という情報公開そのものに関しては大変権威のある本だが、行管の皆さんは一遍も読んだことはないのですか、どうですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/87
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088・古橋源六郎
○古橋政府委員 情報担当部局におきましては大いに勉強しているはずでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/88
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089・嶋崎譲
○嶋崎委員 局長いじめたってしようがありませんからね。
ただ、我が国の審議会、最初に言いましたね。長官おっしゃったでしょう。何のために審議会という制度が今日出てきたかというと、縦のビューロクラシーに対して横の審議会、それは民主主義、二番目は相互利害の調整、三番目は専門性、これを備えなければ審議会というものの存在の意味がない。これは一貫している行政法学界の定説でもあれば、第一臨調そのものがそれを確認して、日本の審議会のあり方について答申をしてきたところであります。
その第一の民主性という問題に関して、我が国の最高裁の判例にも、憲法を法源として知る権利というものを民主主義の権利として判示し始めている。他方、アメリカでは、今申し上げた連邦諮問委員会法というのはどこに限界があって次のサンシャイン法になったかというと、行政と行政が話し合っているようなメモや話し合いというようなものが裏にあって、表だけの審議会の議論ではどうも国民にどういう動きになるかわからないということから、それをサンシャインにするための新たな法律ができたのです。つまり前の諮問委員会は、今皆さんがおっしゃったように、審議会というところで公開で自由な議論をするとプライバシーの問題が起きる、自由な発言ができないという行政側の抵抗はアメリカにもあったのです。しかしアメリカでは、その行政側の抵抗をより国民に知らせることによって、合議制機関である審議会の内容については国民の前に公開しようということに踏み切ったのです。こういう先進的な経験がある。日本とアメリカは土壌が違いますから、同じことができると私は言っておるのじゃないのです。しかし、それだけ我が国の最高裁の判例でもその方向が出始め、先進国の中では、民主政治の発展のためには審議会の持つ民主性というものをできるだけ公開しよう。非公開のときには、理由をつけてそれをみんな国民の前に明らかにするのですよ。今度の場合は、ここは非公開にします、なぜかと理由を言って国民の前に明らかにするのです。確かに大統領命令で適用範囲の除外例があります。防衛とか外交とか幾つかあります。しかし、事国民生活に関係するものについては、サンシャイン法は国民の前にさらしているのです。
こういう経験から見て、我が国の審議会のあり方について、公開という問題について今後検討する用意ありや否や、まず行政管理庁の方にお尋ねをいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/89
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090・古橋源六郎
○古橋政府委員 その御質問の前に、先ほどの、諸外国において情報公開をやっておりますのは、既に九カ国で法制化をいたしております。
今後の情報公開の問題につきましては、臨時行政調査会からもいろいろと御答申をいただいております。それから行政管理庁といたしましても学識経験者の方々からいろいろ意見をいただいておりますが、日本的な風土に適した情報公開という制度はどういうものがいいかというようなことを今検討いたしておりますので、そういうことを踏まえまして慎重に検討をいたしてまいりたい、こういうふうに思っておる次第でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/90
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091・嶋崎譲
○嶋崎委員 日本社会党は一九七六年に、成田元委員長の当時に情報公開について提案をし、国会には情報公開法の要綱案を提出したのです。公明党も同じく一九七六年十月に、ロッキード事件に関連して、情報公開についての法案を提出いたしております。日本共産党も一九七六年に提案が行われております。民社党も一九七六年に行われております。新自由クラブも情報公開についての提案を行っております。野党は全部そろっているのです。情報公開という問題は今や我が国の民主政治の根幹だと、一九七六年から野党は全部そろっているのです。やっていないのは自民党だけじゃないですか。ということを踏まえたら、こういう立法府の中の動きを見たら、行政側ももっとスピードを速めにゃいかぬ。もちろん国会で法律ができなければできぬことはあっても、これこそ審議会というものがあるのですよ。世界じゅうの先進国や何かで、英米流のコモンローではどんな判例が出てきているのか、大陸型の大陸法の中ではどういう問題が今出てきているのか、我が国の国内の政治の動きはどうなっているのか、それを見て、日本の民主政治の発展のために前向きに対処するというのは当然だと私は思う。七六年ですよ。どうなっているのでしょう。
そういう意味で、今後とも情報公開という問題について積極的な姿勢を大臣にくれぐれも伝えるようにして、いつか参議院の段階で我が党の委員に御回答を願いたいと思います。局長、いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/91
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092・古橋源六郎
○古橋政府委員 情報公開につきまして、その重大性につきましては私どもも認識しておるところでございます。したがいまして、この一月二十五日に閣議決定いたしました行革大綱におきましてもその点について、「文書閲覧窓口の利用状況、文書管理に関する職員の意識等の把握を行い、閲覧窓口制度の整備、文書管理の適正化等、行政運営上の改善に関する具体的方策を更に推進する。また、制度化の問題についても、研究体制等を整備し、引き続き検討を進める。」ということを決定しておるところでございまして、現在、政府部内におきまして、その関係の方々にお集まりいただいて、鋭意検討をしておるところでございます。
しかし、この場合におきまして、諸外国におきますいろいろな行政情報に伴います問題点、あるいは地方公共団体におきます情報公開に伴います問題点等もございますので、そういうものを見きわめた上で、我が国に最も適した情報公開制度というものを検討してまいりたい、こういうふうに考えておるところでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/92
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093・嶋崎譲
○嶋崎委員 そこで文部大臣にお聞きしますが、今度の臨教審の審議会は公開の意思がありや否や、まずそこから伺います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/93
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094・森喜朗
○森国務大臣 たびたび当委員会でも申し上げておりますが、公開をするかしないかについては、基本的には審議会自身で御判断をいただくことでございます。私といたしましては、今の嶋崎さんの御指摘の中で、情報の公開という大きな前提、民主的運営、あるいは国民に広く理解と協力を求める、こういういろいろな立場から見まして、公開制という一つの考え方も十分理解はできますが、しかし一面、こうした御論議を続けていただきます委員一人一人のお立場、自由濶達に御論議をいただくというその大きなねらいも国家国民のためである、また教育を幅広く自由に御論議をいただくという見地に立って、自由な論議をしていただくという意味で公開制をとらないというふうに考えておるわけでございます。
ただ、議論の中にもございましたように、当然さまざまの工夫をいたしまして、国民の意見が反映できますようにとか、論議の概要でありますとか、どういう事柄が議論されておるかということなどは適宜公開をしていくという形がとられることが一番いいというふうな判断をいたしております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/94
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095・嶋崎譲
○嶋崎委員 そこでまた最初の根本論に返るのですよ。
まず憲法二十六条はこう書いてありますよ。「すべて国民は、」子供たちだけじゃないのですよ。年寄りもお母ちゃんもおばあちゃんも青年も「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」そして、後に子女を教育させる義務を言った上で、義務教育の無償をうたいました。それを受けて教育基本法の十条には、第一項で、教育は不当な支配に屈することなくすべて国民に対して直接責任を負うと言って、それで二項では、したがって教育行政は外的条件の整備よ、中には立ち入りませんよというふうに言ってきた。この憲法と教育基本法の精神からして、事教育に関する大改革を目指して二十一世紀の日本を開こうとするなら、最初におっしゃられたような国民的合意というものを得るためには、どうしてもその討議というものが逐一、一定程度国民に知らされて議論が起きることが、将来合意に到達していく非常に重要なプロセスだ。
だから他の審議会、例えば公開というのが公害審議会で問題になったことがありますね。それは、企業があることを知ればそれによって利害が絡む。しかし、それでもアメリカはやったのです。日本はそういうことが現実にあった。しかし、いろいろな審議会の中でも、特に総理直属であるがゆえに、総理自身が改憲論者だと言われているだけに、国民は非常に不安を持っている。その教育の審議会というのは、教育基本法の考え方からしても、積極的にここだけは公開に向かって一定程度前向きの姿勢で進むべきだと私は思う。いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/95
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096・森喜朗
○森国務大臣 確かにいろいろな見方ができるわけでありますが、私どもが期待をいたしておりますのは、二十一世紀を担うべき青少年たちのためへの教育全体に対する見直しといいましょうか、改革を御論議をいただきたい。したがって、論議をしていただくその審議委員になる人の立場は私どもは考えてあげる必要がある。その皆さんが人前でも堂々と何でも話せばいいということも、これは委員会の中でも議論は出ましたけれども、やはり人間というのは非常にメンタルなものだと思うのです。そういう意味で、広く、本当に自由な、何にもとらわれない御意見を出していただくということ、その委員の立場というものを考えてみた場合には、御自由な論議をできる、今法案をお願いしている形がいいというふうに私どもは判断をしているのです。
ただ問題は、それはとらえ方はいろいろあると思いますし、嶋崎さんは逆の立場で見ていらっしゃいます。それはそれなりの御見識だろう、私はこう思います。ですから、逆に言えば、先生が心配されるようなところがクリアできるように、解消できるようなさまざまな工夫というものは審議会自身がやってくれるのではないだろうか、そして発言する人たちの立場というか、その人たちのお立場を考えて私どもは非公開という考え方をしていく、こういう基本的なスタンスでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/96
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097・嶋崎譲
○嶋崎委員 足して二で割って、少し妥協点を見出しましょう、具体的提案は後でいたしますから。
憲法調査会というのがかつてあったのは御存じでしょう。私は昔大学におりましたけれども、憲法調査会の議事録というのは大変勉強になりましたね。憲法調査会の内部の議論は全部わかったからです。多数意見もあれば少数意見もある、第三者の意見もある。やはり、事憲法というものをどうするかというのは日本の重要な柱を問題にすることですから、議事録をつくったんだと僕は思うのですね。そして公開したんだと思う。公開というのは直ちに新聞記者が入るということじゃありません。詳細な議事録をつくったのです。そして、後ろにちゃんと意見を述べた人の文章がみんな載っております。第一次臨時行政調査会の先ほど挙げました資料、答申で、審議会の民主的なあり方で一番強調しているのはそこなんです。僕はここに話を持っていきたいから最初は言わなかったのです。
審議会というものの運営の改善に当たってのポイントは何か。「議事運営を明確化するため、委員の意見(賛否、少数意見等)を議事録上明らかにすること。」一般的に言っているのですよ、審議会一般に。このときは全体について言っているのです。私が今言っているのは、例えば労使、それから公益委員のような審議会がありますね。そういうタイプのものもある。公害の審議会のようなタイプのものもある。しかし、運輸審や米審みたいなのは、第三者、学識経験者ですね。そういう日本のいろいろな審議会にいろいろなタイプがあります。そのタイプを連ねて審議会というものは、最初に申し上げたように、我が国の現代国家にとって、民主、総合、専門という観点からしたらこの運営というものを検討すべきだという重要な柱として、昭和三十六年に戦後の経験の中で出てきた改革文書なんです。それの運営のポイントはどこかと言えば、「議事運営を明確化するため、委員の意見を議事録上明らかにすること。」「委員の代理は認めないものとすること。」中教審のあれなんかを見ますと、よくサボっていますね。出欠表を見ますと、不思議なことに偉い人に限って出ておらぬがね。
それで、今度は報酬。今のは安過ぎるのじゃないですか。報酬なども、それは行革のときですが、やはりそれが相応のことを考えなければだめですね。答申もちゃんとそう言っています。
そして、「答申・意見と異なる方針・措置をとる」、つまり審議会が、今度は答申になっていないのです、これは後で詰めますが。審議会が結論について総理に申し出たとしましょうね。その場合の答申や意見と異なる方針や措置を行政側がとろうとするなら、答申したことができない、これはやれないというときには「内閣または主務官庁は、その理由を公にするものとすること。」なぜ審議会の答申が現実にできないかということを検討した上で国民の前に明らかにしなさい。そのくらい審議会の持つ民主性、専門性と総合性というものを大事にしたのです。
それにプラスして、審議会一般の議論であると同時に、先ほど申し上げましたように事教育に関する審議会ですから、二十一世紀を目指して日本の国民が総がかりで、高度情報社会に対応していかなければならぬでしょう、技術革新に対応していかなければならぬでしょう、高齢化社会に対応しなければならぬでしょう。そういう大きな日本の二十一世紀を目指す政治の方向の中で基本になる教育のあり方というものを決めるのは、一種の憲法調査会的性格を持った審議会だと僕は思う。
そういう意味で、森さんは歴史的に大変いい仕事を今なさっていると僕は思っています。それだったら、かつて憲法調査会がやった程度の議事録というものを作成して公開する意思があるか否か、これを詰めましょう。できるかできぬか。なぜできぬのですか。
〔委員長退席、戸塚委員長代理着席〕発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/97
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098・森喜朗
○森国務大臣 憲法と並び称してといいましょうか、並べて比べてみてもいいくらい大事な教育制度であるという御認識は、私は大変敬意を表します。そしてまた、それくらい大事なものであると思います。
ただ、今憲法と調査会との比べ方を先生がされましたけれども、憲法という一つの国の基本的な法律、これの是非論というものと教育制度の論というものと、私はかなり角度が違ってくると思うのです。これはまた、物の考え方によっては現在ある制度がいろいろな形で変わってくるという面もございますし、それによって利害得失というものが出てくると思うのです。そういう面も十分考えて、私がさっき申し上げたように、発言する人たちはそれぞれ感情を持っておられる、あるいは高い識見とそして人格というふうなことも、先ほど議論しましたけれども、やはりいろいろなお立場というものがあります、全く立場のない人間というものはないわけでありますから。幅広くすばらしい人格と言ったって、嶋崎さんにも、それぞれのお立場というのはあるわけですから、そういうお立場の方々がこうした議論、諸制度の改革というようなことに取り組んだ場合には、やはり本当の自由な論議というものはしにくいという面が出てくるのではないか。お考え方としては私は非常に理解をいたしますし、また先生の御見識というのは私はよく承知をいたしておりますが、今日まで中教審でも議事録の公開というやり方はいたしておりません。一つのお考え方として十分承っておきます。当然これは審議会が判断することでございます。
ただ、先ほど申し上げましたように、いろいろな角度でいろいろな工夫をして、国民の皆さんがそうした御心配がないような形ですべての御論議をいただいた、そうした経過あるいはまとめ、そうしたものが適宜国民の前に明らかになるような方法は、十分この国会の論議というものも踏まえ、あるいはこの国会の会議録等も恐らく審議委員あるいは会長が十分精査をされるであろうというふうにも考えております。先生のお考えというのは、私はそういう意味では十分承っておく貴重な御意見であるというふうに考える次第です。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/98
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099・嶋崎譲
○嶋崎委員 議事録というのは、発表には猶予の期間があるものなんですよ。きょうやってあした発表するものじゃないですよ。だから、これは仮に一カ月後でもいいんです。もっと短ければ短いほどいいですが。つまり、新聞記者が中に入って公開にして議論すべきというのは、我が国のカルチャーから見ると合わぬところがあると私は思う。しかし、議事録をつくる際には、この人の人格識見から見て失言したというようなものは削除できるのです。その程度のことはおわかりでしょう。したがって、何が大筋として議論され、その専門委員はどういう議論をしたかぐらいのことが国民に知らされないで国民のコンセンサスなんか得られません。最初、国民のコンセンサスなんという大前提を総理や文部大臣はおっしゃるけれども、その程度の議事録も出せないような審議会なら何を議論したかわかりゃしない。
今まで臨調のやったことをごらんになったでしょう。何遍でも私はおかしなことを経験しましたよ。途中で、ここまで来ておりますと発表するのです。まだ官房の知らぬうちに臨調は発表しておるのです。民主的なように見えるのです。ところが下は、行政はてんやわんやになっておる。そんな発表の仕方は民主主義と言わぬのです。議事録というものは、何もきょうやったことをあした発表するという話ではないのであって、少なくとも一定の期間を持つのは当然のことです。そして委員の発言の中には、ときには自由に物を言うために不用意な発言もありましょう。そんな不用意な発言が全体をリードするようなことにならぬはずだから、そんなものは削除すればいいのです。しかし、基本になる問題について、それぞれの専門委員、見識ある人たちの発言が議事録に残されない、国民の前に公開できない、そんな審議会がどうして国民の支持を得ることができますか。
しかも人事は、私が言ったように、残念ながら行政当局の自由裁量人事なんです。学識経験者といってもそうです。お互いに立場が違えば、何もイデオロギーを問題にするのではなくて、高等教育の改革のあり方について意見が違う場合に、一つだけとったのでは国民のコンセンサスを得られるはずはないのですから、二つの意見がなければいけないのです。というように、人事についても基準としては自由裁量です、学識経験者、公益委員という考え方は。そして議事そのものは、新聞記者を入れるという意味ではない、知る権利があるから公開にすべきだと私は思うのです。そういう民主主義が徹底すべきだと思うが、日本の条件の中ではいろいろあるでしょうと言っていることもわからぬわけじゃない。
だから、最低の条件として議事録をおつくりなさいと言うのです。発表の時期をちょっと延ばせばいいじゃないですか。それがなぜできないのですか。私は、これにこたえられないといったら、最初に国民のコンセンサスを得ると総理や文部大臣が言っていることはうそとなります。そう思います。いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/99
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100・森喜朗
○森国務大臣 一つのお考えであるということを先ほどもお答えを申し上げました。御意見として十分承っておきますが、どういう議論の公開といいましょうか、国民に明らかにするかという方途については、審議会自身がお決めをいただくことであろうと思います。したがいまして、審議会が皆さんの御理解で成立をさせていただきまして発足ができましたならば、審議会自身が国会のいろいろな御論議、とりわけ今嶋崎さんが御指摘をなさいましたようなそうした御意見等を踏まえて、自由に国民の皆さんの前に議論の概要が適宜に、形はどういうふうになるかわかりませんけれども、よく理解がされるような方向をぜひ見出していただきたい、こういうふうに思います。
あえて嶋崎さんに反論するのは失礼でありますが、文部大臣の言っていることはうそになるという、これはありがたい友情のお諭しであろうというふうに受けとめさせていただきますが、私は国会の場でうそをつくような、そういう政治家になりたくないと思っておりますから、文部大臣はそう長くやっておるわけじゃありませんけれども、私は十分そうしたことが間違いのないような運営ができるように、スタートに当たりましては最大の注意をしたい、こう考えております。まあ先生と選挙区を一緒にいたしまして、一回は先生がちょっと残念ながら負けられましたが、私にとってはある意味では同期生だと思っておりますから、その社会党を代表する、政策の代表者があえてきょうの委員会でお立ちをいただいて、いろいろと先生の識見からいただいた御注意や御意見は私にとって大変貴重なものでございまして、心から感謝を申し上げる次第です。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/100
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101・嶋崎譲
○嶋崎委員 委員は自由裁量でなければ、少なくとも野党の側が推薦する、否という手続は別として、国民的コンセンサスのためには、国会内部における政治勢力というものが一定程度反映する委員はどこかで裁量されると私は善意に解釈しています。その委員の中からは、我々がもし推薦することができれば、そういう委員が出られるということがあれば、議事録作成は必ず議題になります。それだけに、その場合に多数意見、少数意見も含めて、ちゃんと国民の前に明らかにされる方が私はいいと思う。もしそういう意見が出ない審議会なら、これは最初から国民的コンセンサスを得る人選じゃなかった、こう申し上げて、この問題は終わりたいと思うのです。
最後に、もう時間がありません、ちょっと逐条審議します。今度の臨教審の法案は、不思議なことに臨調法案と条文の数も同じものがいっぱいあるわけです。それは御存じですね。そこで言います。
第一条、これは教育ですから「教育基本法の精神にのつとり、」これは違っているのは当然。
次に第二条、今度の臨教審は「内閣総理大臣諮問に応じ、」「調査審議する。」これが第一項。そして二項で「審議会は、前項に規定する事項に関して、内閣総理大臣に意見を述べることができる。」こう書いてあります。今度は前の臨調法、同じく二条は第三項で「調査会は、前項の意見又は答申」片一方は答申ですね。「意見又は答申を、内閣総理大臣から国会に報告するように、内閣総理大臣に申し出ることができる。」臨調法の方は、審議会が答申ないしは申し出たらそれを国会に報告するということまで含めて二条では規定があるが、臨教審はなぜないのですか、それを説明してください。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/101
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102・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 答申等の国会報告につきましては、御指摘のように、臨時行政調査会の方につきましては当該規定が設けられていることを承知しているわけでございますが、現在二百十三あります全審議会のうち、国会報告の規定を置いておりますのはたった一つ、社会保障制度審議会だけでございます。
また、事教育に関しましては、国政の重要課題として常に国会で御審議を願っていること等も考慮いたしまして、あえて規定を設けなかったわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/102
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103・嶋崎譲
○嶋崎委員 恐らく公明党や民社党や、自公民で修正の中に生きてくる一つの問題だと思います、まだ私は拝見しておりませんが。この点の違いというものをもう一度この審議会の権威のために、最低、臨調法並みの国会に対する報告義務的性格を入れておく必要がある、これが一つ。
次に第五条。人事の両院の同意です。臨調法は第五条で「両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する。」とあった。今度の臨教審は「文部大臣の意見を聴いて、内閣総理大臣が任命する。」国会承認人事でない、なぜないのですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/103
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104・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 委員の任命に関します国会同意につきましては、一つには、教育について審議する本審議会委員の選任に当たりまして、その適、不適を個別に御判断いただくということは、委員候補者の立場もあり、いかがなものかと考えたわけでございます。
国会同意の規定は、現在文部省に設置しております中央教育審議会を初め文部省に置かれております審議会にはございませんし、それから沿革的に見ましても、戦後、内閣総理大臣の所轄として設置されました教育刷新委員会、それから総理府に設置されました教育刷新審議会においても設けられておらなかったということでございます。それから、現在各省庁に設置されております審議会二百十三のうち十九機関が設けておる、それ以外については設けておらない。これらのことを勘案しまして、規定をあえて設けないこととしておるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/104
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105・嶋崎譲
○嶋崎委員 これも修正の可能性があるのに、今のような回答をしておっていいのですか。後で変わったら今の答弁と違うことになるよ。そんな答弁でいいのですか。現段階という意味ですね。そんな主張ばかりせぬで、検討しなければなりませんね、くらいほのめかしておいてちょうどいいのじゃないですか。
今度は、専門委員の扱い。これは臨調の場合は、「学識経験のある者のうちから、会長の推薦により、内閣総理大臣が任命する。」のです。私がさっき言ったものです。ところがこっちは、文部大臣の意見で内閣総理大臣が任命する。さっきは運営細則で決めると言いましたね。大体そういう方向を検討したいと言っているから、まあ実質はいいでしょうが、これも違っている。この根拠だって一つは問題だと思う。
もう時間がありませんから問題点だけ言っておきます。
第八条の資料の提出その他の協力に関しても、臨調法の方は、運営状況、専門委員の調査に当たってはかなり綿密な権限の規定があります。ところが第八条は、教育は幅広いしということでぼやかしたのかもしれませんが、国の関係行政機関の長に対して資料の提出、必要な協力を求めることができるようになっています。これも違っている。これはなぜなのかを詰める議論を、今後我が党は参議院の委員会でしたいと思っています。
さて、今指摘した四つくらいの条項を挙げてみても、臨調法の段階までも臨教審の方は詰まっていないと判断をしますが、どうですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/105
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106・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 答申等の国会報告あるいは委員の任命に関します国会承認等の手続規定が臨時行政調査会と異なっておるということは御指摘のとおりでございますが、それぞれ先ほど御説明しましたような理由のもとに、本法案としてそれが一番ベターであるというふうに考えまして作成したものでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/106
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107・嶋崎譲
○嶋崎委員 三時間と通告しているのに二時間に制限されて、時間がないから質問はやめますけれども、中央教育審議会の人選の基準から見ても臨教審の基準の方は大ざっぱなんです。比べてごらんなさい。まさに行政の自主裁量権は拡大しているのです、私に言わせれば。
結論を申し上げます。我が党はなぜこの法案に反対するのか、今まで説明してきたとおりであります。教育臨調の前の第二臨調は何をやってきましたか。第二臨調は国会に報告しましたよ。人事も報告しました。その程度修正して、第二臨調と違う臨教審がより国民の合意が得られるというような判断はできないということです。もちろん行政改革の中には、賛成するところ、反対するところ、いろいろありますよ。つまり、ある日結論が出て、混乱するようなことをいっぱいやってきました。事教育というのは、先ほどるる申し上げましたように、法の体系からいっても行政一般とは違うのです。文部省の皆さんはよく知っておるはずです。逐一論争したって、私は細かい論争ができます。その違う教育法を前提にしている、教育権や教育というものを前提にしたこの審議会が、国会の同意人事、今のものをちょっと修正するか直そうやないか。公開をしない、人事の基準は今までどおり、これで国民のコンセンサスを得られるはずがない。中央教育審議会よりどこが進んでいるのですか。中央教育審議会よりもどこが進んでいるかと言えば、官庁の関連する人たちや学識経験者が前より少し広がりを持っただけです。
かつて中教審が、国民的なコンセンサスを得られないという限界があった。それを克服しようというのでしょう。克服しようというなら、事教育権に関する審議会は、他の行政審議会とは違った、より民主的な、より専門的な、より総合的な審議会にしなければ国民のコンセンサスを得ることはできません。その意味で、私は逐条審議にしたのは——もっと時間があれば細かに議論しますよ。もう時間がありませんから省きます。
しかし、臨調法並みの人事の国会の同意やその程度の修正でもって、この審議会が国民的コンセンサスを得られるような運営になるとは思われない。なぜならば、かつての臨調がそうだったからです。したがって、事教育に関する審議会は、教育専門の所轄官庁である文部省のもとで、文部省設置法二十七条を改正して、今日までの中央教育審議会が国民的なコンセンサスを得られなかったことを反省して、新たな国民のための審議会をつくる、そして私の言う利益代表も学識経験者も含めて人選が行われ、最低議事録がつくられるというぐらいのことがなくしては、今日の教育審議会が国民のための審議会にはなり得ないのではないかという危惧を申し上げて、我が党は、その意味で、教育というものを論ずるなら、もっと国民の前に重要な問題を事前に提起しながら討議していく、そうして利害の対立を調整していく。そういう積極的なことをやらないと、これから先二十一世紀に向けての社会は技術革新の社会、高齢化の社会、高学歴の社会です。そして、日本は国際的任務を果たさなければならない、そういうことに必要な人間を養成する教育に関しては、もっと希望のある、国民がこれならいいなというような組織原理と運営の方法と、国民的コンセンサスを得る努力が必要だということを最後に申し上げまして、私の質問を終わります。
あと文部大臣の感想を聞かしていただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/107
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108・森喜朗
○森国務大臣 最後に嶋崎さんからお話のありました高学歴化、高齢化、国際化、技術革新社会等、私どももこの国会に法案をお願いいたしましてから、いわゆる社会の変化というもの、すべてここに視点を置いたわけでございまして、まさに先生と私どもとは、二十一世紀のある視点をとらえては同じ考え方であろうというように思います。そういう意味で、私どもは、あくまでも自由濶達な論議を幅広くやってもらいたい、こういう立場をとってこの法案をお願いいたしております。先生は逆に、これが国民に本当に広く理解を得られるためにもう少し法律の整備をすべきではなかったか、あるいはそこのところを変えたらどうか、そういうお考えの披瀝であったというふうに考えます。
私どもは、国民の理解を求めるという点については最大の努力をしてまいりたいと思いますし、私の一番主眼といたしておりますところは、幅広く自由な論議をしてもらいたい、こういう考え方でございます。先生から御指摘いただきました点につきましては、審議会に意見が十分反映できるように私どもとしても指導していきたいと思います。
あえて感想ということを申し上げますと、何か久しぶりに学校に行って、大学の先生からいろいろと御指導をいただいたというような感じで、大変充実した時間をとっていただいたという感じで、感謝をいたします。
ありがとうございました。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/108
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109・嶋崎譲
○嶋崎委員 どうもありがとうございました。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/109
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110・戸塚進也
○戸塚委員長代理 市川雄一君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/110
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111・市川雄一
○市川委員 先日の最初のこの委員会の議論で総理大臣と、言ってみればこの法案の骨格というか、それから中曽根総理の教育観というか、そういうものを中心にお尋ねをいたしました。きょうは、テーマとしてはダブる問題もありますが、文部大臣にもう少し突っ込んだ形でお伺いをしたいと思います。
公明党並びに民社党がこの法案について修正要求を三日の内閣委員会の理事会で出しましたところ、本日、自民党から正式に理事会の席で回答がございました。この回答された文案を拝見いたしますと、答申の国会への報告義務につきましては、「内閣総理大臣は、答申等を受けたときは、これを国会に報告するものとする。」総理大臣が答申を受けたときには国会へ報告するということがはっきり義務づけられた文言になっております。また、委員の人選につきましては、「文部大臣の意見を聴いて、内閣総理大臣が任命する。」こうなっておりますが、これに加えて「内閣総理大臣は、前項の委員を任命しようとするときは、両議院の同意を得なければならない。」両院の国会での同意というものがうたわれているわけでございます。
これからそれぞれ党の手続を済ませて、後ほど正式に自民党に回答することになると思いますが、基本的に私たちの修正要求はこれで入ったというふうに私は理解をしておるわけでございます。先ほど第二臨調よりも臨教審のこの規定が何かちょっとおくれているという御指摘もございましたけれども、むしろ答申の国会への報告義務では、第二臨調よりはるかに前進した規定がここにうたわれているというふうに私は思うわけです。
そういう前提でお伺いしたいと思いますが、委員の任命の国会の同意、あるいは答申の国会への報告ということは、この修正でほぼ基本的には我々の主張は通った、あとは、今も議論がございましたが、審議の公開という問題でございます。もちろん私たちも、何かそういう新聞記者を含めて議論するということはやはりちょっと問題の性格からいってなじまないというふうに考えております。ただ、ある一定の適切な区切り——テーマによって必ずしも三カ月とか半年とか決められないと思います。テーマによってその期間も変わってくると思います。したがって、何カ月というふうにあらかじめここで固定したものではなくて、適切な区切りにおいて審議会の審議の状況、概要というものが国会に報告される。どんなテーマでどんな議論をしているのかという、いわゆる概括的な報告というものを国会にぜひやっていただきたい。そういう国会に報告するということは、また同時にマスコミを通じて一般の方々の目にも触れるわけですから、もちろん概要の報告ではあるにせよ、それについての意見が、また反論なり批判なり賛成なり起きてくるわけですから、それがまた審議会にフィードバックしていく。こういうことがやはり審議の公開という一つのあり方ではないのか。昨日の大阪での公聴会におきましても、公述人の方々はそういう形での、国会での議論がまた審議会に戻っていく、あるいは国民のいろいろな考え方がそれによって触発されて起きてきて、それがまた審議会に戻っていく、こういう往復があった方がいいのではないかという御意見も強く出されておりました。
そういう考え方から申し上げるのですが、総理大臣も文部大臣も既に大体同じような趣旨の御答弁はされておりますが、ある適切な区切りで審議会の審議状況についての概要を国会へ報告していただくということについて、文部大臣は同意なさいますか、どうですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/111
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112・森喜朗
○森国務大臣 審議の内容等は適宜いろいろな形で国民の前に明らかにされる、これはさまざまな工夫があってしかるべきである、私はこう答えを申し上げております。
したがいまして、今市川さんがおっしゃったように、ある意味では一つの区切りの期限的なものもあってもいいでしょう、一カ月とか二カ月。私は、むしろ場合によればその都度になってもいいのじゃないか。御議論をいただいて成果を得た、あるいはこういう問題が今大変な議論になっておりますよということなども、国民に関心を持っていただくという意味で、どういうやり方をするか、これはあくまでも審議会の委員の皆さんでお考えをいただくことでございますが、公正に適宜公表されるような工夫が凝らされるのではないかと期待をいたしております。
ただ、一つの区切り、期間を持ってその都度概要を国会へ報告をしたらどうか、これも一つのお考え方であろうかと思いますが、今、私どもが提案をいたしました法案につきまして御修正ということの御意見でございまして、委員が国会で同意をされる、あるいはまた最終的には国会に報告をするというようなことで、一つの国会との関係がなお一層明らかにされているわけでございますから、その都度国会で中間的に御報告するという形を明記してとるということよりも、適宜内容がいろいろな形で公表されていくわけでございますから、そういうことなどが国会でいろいろな形で論議を自然的にされていくのではないかというふうに私は考えるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/112
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113・市川雄一
○市川委員 いや、法案の修正という形で申し上げているのではなくて、総理も、審議の公開についてはいろいろ議論が分かれる、しかし区切りのいいところで公表するとか、そういう方向をぜひ趣旨をいかしていただきたいと思うわけです。その点はよろしいですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/113
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114・森喜朗
○森国務大臣 一つの考え方として、審議会にいろいろな公開の仕方というものが考えられるでありましょう。そういう国会での御意見もあったということも、当然会長以下審議会の皆さんも踏まえていかれるだろう、こういうふうに思います。先生が別に、修正をして国会にその都度と言われたのでないことも私よく理解をいたしております。いろいろな方法で審議の概要が公開をされていくということは大変大事なことだと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/114
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115・市川雄一
○市川委員 それから、この臨教審は三年という期限がついているわけですが、テーマによっては三年たたないでも中間答申という形で出てくると思うのですね。あるいは、どういうことがあるかちょっと予測はできないのですが、答申の国会への報告というように修正されるわけですから、当然、これからの三年間の中で審議会から中間答申が総理になされた、あるいは文書の形で総理に意見が出てきた場合に、それをいち早く国会の我々が知り得るということも十分に考慮していただきたいというふうに思うのですが、その点はどうですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/115
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116・森喜朗
○森国務大臣 お考えの点は十分大事にしていきたい、こう考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/116
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117・市川雄一
○市川委員 それから、第二臨調のときは部会制をとりましたね。今回臨教審では部会長とか第一部会、第二部会、そういう部会制をとるのかとらないのか、その辺を伺いたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/117
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118・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 審議会は二十五人の委員で組織する総会ができることは明らかでございますが、その具体の運営につきましては審議会自身で御判断いただくことではございます。しかし、大変広範な問題を扱う、そして基本的事項を扱うわけでございますから、幾つかのテーマを決めまして作業を行うことが予想されておりますので、そういう意味で部会というふうな断定ができるかどうかわかりませんが、そういうブランチを設けるということはあり得るものと考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/118
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119・市川雄一
○市川委員 よく臨教審は、臨教審が教育改革をやるわけではない、教育改革の草案、たたき台をつくるということだ、そのたたき台をつくる臨教審という器の議論である、こういうことが言われているわけですが、また単なる器づくりではなくて委員がどういうメンバーになるかということ。それから、総理大臣の方の審議会に対する諮問の仕方、例えば、現在の教育荒廃について教育がどういうふうにあったらいいのかという非常に大きい諮問の仕方なのか。あるいは、二十一世紀を目指した日本という形でどういう人間にしていけばいいのか、そういう意味での教育のあり方。あるいは共通一次試験は今のままでいいのかどうか、あるいは大学の入試制度はどうあるべきなのか、ここでもいろいろ指摘されておりました中高での英語教育のあり方はどうなのかとか、そういう個別のテーマで諮問していくのか、それとももっと大きい総括的なテーマで諮問していくのかによってまた答申の仕方もニュアンスが変わってくるのではないか。そういう意味で、臨教審というものがただ単に器づくりではなくて将来の教育改革の方向とも結びついている、こう私は考えているわけです。
ですから、委員については国会の同意ということを私たちは求めたわけでございますが、どういう諮問の仕方になるのか、個別のテーマでずっとやっていくのか、その辺はどうですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/119
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120・森喜朗
○森国務大臣 このたびの教育改革は、二十一世紀の我が国を担う青少年が、今後におきます社会の変化や文化の発展に主体的に対応する能力をぜひ持つことができるように、そういうことがねらいでございます。したがいまして、先生から今幾つか例を挙げてお尋ねでございますが、個別の問題を個々に諮問をするということではなくて、これは国会の数々の御審議を十分踏まえながら、基本的、包括的なものになるだろう、このように考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/120
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121・市川雄一
○市川委員 もう一点、この間総理との質疑の中で、現場の教師の臨教審への参加あるいは父母の参加ということを申し上げました。それは今もここでいろいろな方々から御指摘がございましたが、何といっても小中高という学校での授業経験を持った方の意見というのはやはり重要だと思うのです、現場ですから。あるいは家庭でお子さんを育てている、しかも同時に、それなりの教育に対する学識なり御意見を持っていらっしゃる、そういう何らかの意味で、今、子供の教育あるいは育てることに強いかかわり合いのある方、父母の代表、こういう方々をぜひ臨教審の委員の中に参加させていただきたいということを申し上げました。趣旨としてはそういう趣旨でやっていくという御答弁があったわけですが、そのときに、特定の団体の代表を選ぶという形はとりたくないということを文部大臣、さっきおっしゃっていましたね。日教組の代表というのは特定の団体の代表に該当するのですか、どうですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/121
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122・森喜朗
○森国務大臣 該当いたすと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/122
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123・市川雄一
○市川委員 学識とか授業経験とか、人物本位で選んだ現場の先生がたまたま日教組という組合に所属している人であった、これはどうなんですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/123
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124・森喜朗
○森国務大臣 幅広くいろいろな角度から人選をお願いをするということになります。その結果、その方が今御指摘がありましたように日教組のメンバーであるあるいは校長会のメンバーであるということであっても、その団体を代表してお選びするということではございませんので、それは問題はないと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/124
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125・市川雄一
○市川委員 むしろ私は、日教組の代表を入れたらどうかと思っているくらいなんです。それなりに今の教育界において一つの大きな力を持っているわけですから、そこを外すというよりもむしろ参加していただいた方がいいのではないのか、こういう気持ちを持っております。そういう考え方だということはわかりました。
きのう関西の公聴会でいろいろな意見が出ました。例えば、一々名前を挙げませんけれども、一つは、文部省の管理主義を緩和したらどうだという意見も強く出ました。それから一方においては、日教組のあり方、日教組の組織率の高いところに教育荒廃の事件が多いという意見も強く言われておりました。私は公明党の立場ですから、そんなに日教組と深いかかわり合いのない立場でございます。公平と言うのはちょっとおこがましいのですけれども、客観的に見て、今の子供たちの意見を聞いてみますと、学校の管理主義、何でも規則規則というやり方、これにもすごい, うんざりするくらいの子供の反発が一方にあることは事実でございます。あるいは文部省の方を前にして非常に口幅ったいのですけれども、文部省には行政はあるけれども教育がないという批判が強くございます。行政と教育は違うと私は思うのです。しかも、文部省のお役人の方の中には小中高の授業経験を持った方がほとんどいない。例えば国鉄なんかですと、どんな方でも現場を一回経験なさる。そういう意味では、文部省と現場が断絶しているのじゃないのかということを感じさえするわけです。ですから、行政が余り教育に介入しない方がいいのではないのか。そういう意味では、文部省の今までのあり方も臨教審でもんでいただいていいのではないのか。行政がどのくらいの関与をするのか、そのくらいの思い切った議論をしていただきたいと思うし, また同時に、非行が起きた事件を見ておりますと、組合員であったかなかったかということが一つの要素になっているように私には見えるわけです。
例えば新幹線の中で生徒が先生をぶん殴った。二年の担任のくせに三年生を注意するとは何事だと。ところが、同じ車両の中に学校の教師がいた。その先生は何も手を出さないし、口も出さない。あるいは、ナイフで生徒を刺した先生がいましたけれども、これも実際、事の始まりは教員室の中にほかの先生がいるわけですね。ほかの先生がいて、その先生が生徒から暴力で襲われている。それを見ながらほかの先生は黙っている。何も言わない。あの人は組合員でないから、あるいは組合員でも派閥が違うからと。教師の世界がこういう形で分裂をしているということ、それは、子供の目から見た場合に非常に悲しむべき実態じゃないかと私は思うのです。
そういう意味で、私は、日教組が戦後教育の中で果たしてきた一定の役割、例えば一学級の生徒数を少なくしていくとかマンモス校を解消していくとか先生の処遇の改善をかち取っていくとか、そういうことに果たした役割を評価することにやぶさかではないのですけれども、やはり私は、ここで文部省も行政としての教育に関与し過ぎたということについての反省、また日教組も、そういう面では評価されていい面もありますけれども、また同時に、教育現場を混乱させてきたという厳粛な事実についての反省、こういうものがなければ私は教育改革はできないのじゃないか、こう考えておるものでございます。文部大臣、どうですか。答えをと言ってもちょっと御無理かもしれませんので、その辺についての文部大臣の感想を聞かせてください。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/125
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126・森喜朗
○森国務大臣 市川さん、御自分でちょっと例えておっしゃいましたけれども、極めて公明な正大な御意見であろうというふうに私は伺っておりました。
確かに、もっと自由に伸び伸びと、どうも規制が多過ぎるのではないかというようなお考えもございます。しかし、ある面、国民の目から見ると、文部省何しているんだと。いろいろな混乱が起きる、問題児が出てくる、教育が原因ではないかと言われる社会的ないろいろな現象が起こると、文部省は何をしていると、こうしかられる。しかし、市川さんも一番おわかりのように、文部省が今そんなに権限などは持っていないわけでございまして、さっき嶋崎さんとの議論もございましたように、まさに指導と助言なんです。実際の教育の責任は教育委員会、そして教育の実際の展開は校長を中心にした先生方なんです。その校長や先生方が規律正しく、子供たちにまず——私どもの求めているこの国は自由主義国家なんです、自由主義というのは、お互いにみんながみずからを制していく、そのおのずと自分を制するという気持ちがまず第一でありますが、できる限り法律がなくて、みんながお互いに自制し合える世の中なら最高でしょう。やはり人間というのはわがままなものでありますから、そこのところを法律で厳しくやっていく全体主義的生き方も諸外国にはございましょう。その国に自由があるかないかというのは、それぞれ皆さんのお考えによっては違うだろうと思いますが、私どもはそうした国を志向していないということでございます。したがって、子供たちには学校教育を通じて、やはりその年限の中で、またその年限の心身の発達度合いの程度に応じて、人間というのは守るべき事柄、そういうやはりいろいろな制約というものの中で自由にお互いに意見を闘わせ、そして自由な生活を営んでいくことを目的としているということを教えることも私はとても大事なことだろうと思います。
あえてここで日教組のことについて感想云々と言われるのは、市川さんの方がよくおわかりのとおりでございまして、やはり法治国家でございますから、国で決められたその法律に基づいていろいろな規則というものがあるわけでございまして、その規則はいけないんだ、国の定めた法律は、それは無視してもいいんだという基本的な考え方であっては、教育を展開する責任というものは持てないのじゃないでしょうか。やはりあなたの御心配のとおり、今日までそうしたことの議論が、いろいろな立場は異なりましたけれども、今日の日本の中の教育論議の中で必ずこうしたことが一つの論議の底辺にあるということは、やはり大変悲しい現実であったんだろうなというふうに思います。
あえて感想ということでございますから、この程度にいたしておきます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/126
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127・市川雄一
○市川委員 今の御意見にもいろいろ申し上げたいことがありますけれども、教育改革の一つのポイントとしまして、小中高の教育が大学入試を目指した準備作業化してしまっているという点が一つあると思うのです。これが大きな問題。
本来なら、中学、高校時代は非常に感受性の強い、また知的に一番知識欲旺盛で、ぐんぐんぐんぐん伸びていく、あるいはまた青春を謳歌するという、人間として自分を形成していく上において非常に重要な時期なのですけれども、本来のそういう中学校であるべき教育、高校であるべき教育あるいは小学校の高学年であるべき教育というものがなかなかできない。どうしても大学入試、小学校では中学の入試、中学では高校の入試、高校では大学の入試、結局最終的に行き着くところは、大学入試というものを目指しているとも言わざるを得ないような小中高の教育の実態、これをどう改革するかということなんですよ。私は、この間も申し上げたのですけれども、中学にせよ高校にせよ大学にせよ、入試制度、受験制度というものの改善には限界があると思うのです、大臣。共通一次試験に改めたら、また別の弊害がわあっと出てきてしまった。今アラカルト方式にと言われておりますが、しかし、仮にアラカルトにして四教科にしたとしても、それで受験地獄は最終的になくなるかといったら、これはなくならないのではないだろうか。また新しい受験競争が起きてくるのじゃないか。自由な社会ですから、競争というものがあって当たり前と言えば当たり前なのですけれども、そこに過熱していく、こういうことだと思うんですね。ですから、そういう意味で入試制度を幾らいじくっても、大学入試を目指した高中小の教育のあり方を変えることには限界があるのじゃないのか。この辺についてどうですか。限界があるという御認識ですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/127
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128・森喜朗
○森国務大臣 私どもは、よりよき制度を求めて努力をしていかなければなりませんので、あえて限界があるというふうに、こう短絡的に物を言ってしまうということはどうもとり得ない立場でございまして、やはり人間社会でございますから競争原理というものは働いてまいりますから、競争を目的として、その競争に打ちかった者だけが評価されるという世の中であってはならぬわけでありまして、しかし、やはりそれぞれの人生においていろいろな角度で競争するという、このことは、人間の生きざまにとってもまた大事な過程の一つだろう、こういうふうに私は考えております。しかし試行錯誤を繰り返して制度はいろいろと改善を求めてきておりますから、そういう意味では、私どもは常に制度を改善をしていくということはより大事なことだというふうに考えておりますので、限界だというふうなことを申し上げるということは、私はなかなかとり得ない立場でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/128
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129・市川雄一
○市川委員 まあ文部大臣の立場で言えないかもしれませんが、恐らく文部大臣は頭の中では、限界があるとお考えになっているのだろうと思いますね。これは限界がありますよ。だれが考えても、もうみんな言っておりますから、入試制度をいじくってももう限界がある。
そこで文部大臣、やはりこれは大学のあり方を変えなければだめなんですよ。そういう意味で私は、大学の教授——教授が憎いわけじゃありませんよ、自分がどうこうというのじゃなくて、大学の教授に課せられた教育改革の責務は重いと思うんですね。あれだけ大学紛争が起きた。学生たちが大学のあり方を教授に問いただしたわけですね。大学の教授は、あの若い学生たちのエネルギーを真っ正面から受けたか。みんな逃げ回っちゃったじゃないですか。中には立派な方もいました。あの学生たちと六時間も八時間も議論してやった方もいますけれども、大体みんな逃げちゃった。大学教授は大学の改革を嫌うんですよ。そこに私は一つの問題があると思う。そういう大学教授の方が臨教審に入ってこられても、教育改革を語れるのか。理論はおっしゃるけれども、実際は大学のあり方を変えなければだめだと思うのです。今高中小の学校教育は大学受験を目指した準備作業化している。被害を一番受けているのは大学のはずなんです。大学に入ってきたときはもう疲れ果ててしまっている。さあ東大に入った、早稲田に入った、やれやれ、五月病、もう自分の人生の目標を半分失ってしまったみたいに腑抜けになってしまう学生が多い。さあここで新しく学問を学ぼうなどという意欲がかなりなくなってしまっている。受験戦争の中で疲れ果ててしまう。そういう意味では大学が一番被害を受けている。ですから、大学こそ大学の自己改革に立ち上がらなければいけないと思うのです。そういう形の受験で入ってくる学生でない学生が大学に入ってこられるような大学改革をやるべきだと私は思う。
例えば、極端なことを言えば今の大学には教育がないのです。大学にあるのは卒業資格を与えることだけで教育がない。本来大学というのは、みずから学ぶ力を育てる最終の場所だと私は思うのです。みずから学ぶ力、問題意識を鋭く持つ、そしてその鋭く自覚した問題意識を育てていく。それは自分で学んでつかんでいくものだと思う。自分で学んでつかんでいくものを大学の教授が一緒になって同じ問題意識で議論し、研究していく。そういう力を育て上げる場所だと理解しているわけです。したがって、学問を学ぶということは、学問を通じて自分をもう一度再形成する、あるいは自分を鍛え直すという厳しい作業がそこにはあると思うのです。ところが一年に一回か二回の試験で点数を与えて、単位をそろえさせて卒業資格を与える。これは教育じゃないですよ。学ぶ意思があろうがなかろうが単位さえ取れば卒業させますという大学のあり方を変えない限り、私は受験の制度を幾らいじくってもだめだろうと思います。
大学には入れたけれども卒業ができないという大学にしなければいけないと思う。学ぶ意思のない人、本気で勉強しない人は卒業できない、こういう大学のあり方に大学を改革しなければ教育改革は始まらないのではないか。幾ら大学に入れても簡単には卒業できないということになれば、大学に行く希望者はかなり減ってくるのではないかと私は思う。卒業資格だけを目当てに大学に入るという入り方ができなくなってくる、その辺に教育改革の一つの本質的なポイントがあるのではないかと私は考えておるのですが、この臨教審で果たしてそういう本質に踏み込んでいくような切れ味の鋭い改革論というものをやるのかどうか、その辺を文部大臣にちょっと伺いたいと思うのです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/129
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130・森喜朗
○森国務大臣 大学教育のあり方、大学制度のあり方、高等教育機関のあり方という個別的なことを臨時教育審議会で御論議をいただくというふうに今申し上げる立場ではございません。しかし、私の個人的な考え方といたしましては、市川さんのお考えとまさに軌を同じゅういたしております。
私どもも、今日までの教育のいろいろな制度の改善、知徳体、私はいつも体徳知と言いますが、バランスのとれた人格形成ということを考えてみますと、やはり余りにもその方向とは今は違った方向に行っていることは否定できないと思うのです。そういう意味で、例えばゆとりある教育、これもまさに詰め込み教育じゃなくて、カバンを軽く、教科書を薄くしてやったけれども、現実には世の子供を持つ親にはむしろ不満になっている。それでは受験に臨めないじゃないかという理由になる。
共通一次試験もまさに悪の権化のように言われますが、高等学校時代はゆとりある教育をやって、文化活動やスポーツ活動やボランティア活動をやりながら勉強をしていく程度で大学に入れていただいて、そして今市川さんがおっしゃるように、大学に入ってから大いに勉強してもらうということでこの共通一次を考えましたが、これはまたひとり歩きをしてしまいました。この原因はいろいろあると思いますが、先生も先ほど御指摘になりましたが、大学の教育者、教授というのは——嶋崎先生、さっきおられたけれども今いらっしゃらぬので大分またおしかりをいただくかもしれませんが、大学の先生というのは学問に対しては非常に不屈不偏の考え方を持っている、私はそれは正しいと思うのです。学者は考え方がぶらぶら変わらされたらたまらぬわけです。確かにそういう面が研究者はございますが、対社会的なことになりますと、またそこに柔軟な対応が見られないという面が一面あると思うのです。そのことがどうも風通しの悪い大学の形をつくっているのではないか。それが今日まで大学紛争等々でも何かこうかたくなに、そして問題があれば逃げてしまう、そういうところがあったと思います。
そういう意味で、この教育改革の論議を進めるに当たっては、最初は幼児のときから積み上げていくのかもしれませんが、逆に言えば一番最後の高等教育のところの論議をして、そこの方向をどういうふうにするかということは、私は今この立場では申し上げられませんが、やはり多様なあり方でしょう、そういうシステム、制度というものを考える。基本的には、先生が御指摘ありましたように、大学はまさに高等教育で研究を深めるところなんですから、大学に入ってそれで事足れりというのは——現実の今の社会での就職試験を見ておりましても、なぜ十月一日に約束でありながら会社訪問も現実にはいろいろな形で進めているか、あるいは十一月一日の解禁日というものをなぜ設けなければならなくなったのか。それがなぜうまく守られていないのか。端的に言えばペーパーテスト、紙一枚では人物を評価できない。受け入れる企業側は、今の大学教育を受けた人たちを人格的には試験の仕方で人物の評価が定まらないという、そういう焦りがある。そういうことが今日的な違法といいますか約束違反、そうした形で進めておるという面から考えても——大学教育は現実にはそれぞれの分野によって違います。技術関係、お医者さんの関係、それは違うと思いますが、全体的に言えば大学教育に対して不信の念が出ておることは、これは否めない現状であろうというふうに考えます。そういう意味で、高等教育を中心にした論議がこの臨時教育審議会で高まっていくのではないかということを私も期待をいたしておるわけであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/130
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131・市川雄一
○市川委員 なぜ申し上げるかといいますと、小中高の教育のあり方を直したい。それにはもちろん大学のあり方というのは、私は入り口の改革だと思うのです。
もう一つは、教師のあり方、教師の育成の仕方、これも二番目の問題だというふうに考えております。河川の改修をする場合、よく例に出るのですけれども、河川のはんらんを防ぐ護岸工事とかそういう修理は河口からやらなければできない。川底をしゅんせつするとかは河口、下流いわゆる川が海に接しているところから直していかなければできない。しかし、流れている水をきれいにするには上流から直さなければ川の水はきれいにならない。河川の改修に例えて大変恐縮ですけれども、教育も、制度の改革は河口から着手しなければならないと私は思うのです。そして、水質に当たる教育の中身の改革は、小学校から、小中高という下から積み上げていかなければできないと思うのです。しかし、その小中高の教育のあり方を直すためには、河口の制度が変わらない限り直しようがない。幾ら立派な先生がいても、今のような受験一点張りの全体の風潮と制度の中で人間としての教育をやろうとしても、どうしても限界が来てしまう。
そういう意味で、大学改革というのが最初になければ教育改革はできないのじゃないかというふうに私は考えるわけでございます。大学の改革があって初めて、そこへもちろん今の共通一次試験の問題点等のよりよき入試制度への改善というものが加わってくる。大学が本来の大学に戻るということで高校が本来の高校に戻っていく。高校が本来の高校に戻れば中学校も本来の中学校に戻っていく。小学校も戻っていく。制度的には上から直していくしかない。そしてそういう制度を直すことによって、今度は下から、幼児から教育の中身を考えていく。こういうことになるのではないのかなと思うのですが、大臣はどうですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/131
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132・森喜朗
○森国務大臣 先ほど申し上げましたように、基本的には市川先生のお考えと私個人といたしましては同じ考え方を持ちます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/132
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133・市川雄一
○市川委員 公聴会でも、大学の先生ばかりだったのですけれども、大学の改革がなければだめだということをあえて申し上げました。すると、大学の先生はこういうことをおっしゃっておりました。教授の中には、教授に任期制が必要だ、三十年間論文を書かない人が教授で通ってしまっている、そういう先生も現実にいる、そういうことをおっしゃっている方もおりました。
これは大学の教授だけでなくて小中高の教師にも通用すると思うのですが、社会経験がないですね。もちろん日本の国に生活しているわけですから、そういう意味での社会経験はあるのでしょうけれども、早い話が、二十二歳で教師になれば、教師になった瞬間に先生、先生とみんなに言われるわけですね。同僚の先生もそんなに注意はできない。あなたと私は教育観が違うからと言われてしまえばそれまでの話です。二十二歳で社会経験がなくて、先生、先生と言われ、ちやほやされる。しかも再試験はない。社会を知らない。社会の厳しさがわからない。こういうことで果たしていいのか。
しかも、教員免許を与えるというか、大学が教職課程で教職単位を与える与え方にも問題がある。これも公聴会である先生が言っておりました。全く形骸化してしまっている。要するに、この学生が将来教壇に立って教師として学校教育に携わっていく資質、トータルで資質があるのかないのか、だれが責任を持って見ているのか。その責任が今のシステムには欠如してしまっている。全くないとは言いませんけれども、大学の先生は自分の教職課程の科目だけ出席をとる、講義する、テストをする。テストに合格すればその単位は取れる。その課程に、もっと人間トータルで教師に向いているのか向いていないのか、あるいは教師というものは、もちろん職業に貴賎はありませんけれども、銀行や商事会社に勤めるのと教師になるのはちょっと覚悟が違うよ、教師というものはもっと大変な仕事だよというくらいのものを、そのときにもっとたたき込めないのかどうか。そういう覚悟がないなら教師を選ばない方がいいよ。大学の教職課程にそういう課程があるか。教職課程の単位を与える課程を見た場合に、そういう責任はだれが持っているのか。学長なのか、講義を担当する教授なのか。これはないんじゃないですか。ただテストに合格すれば単位を与えますという体制はできているけれども、教師として適性かどうかを責任を持って見ている人がいないんじゃないか。その辺にも教師の養成課程に一つの問題があるんじゃないかというふうにも思います。
あるいは社会経験がないというのは一つの問題だというふうに思うのです。公聴会でも、例えば四十代の社会経験を持った人が教師になれる、そういう道をつくったらどうだ。小中高で百万近い先生がいるわけですけれども、仮に幾ら養成方法を改善したとしても、百万人の先生がすべて理想的な先生にというのは現実的には恐らく無理だろう。制度を変えることによって得るプラスというのは二割ぐらい、こう言われておりますから、二割か三割か知りませんけれども、ですから、教育の担い手の多様化というのですか、教師の育成の多様化というのですか、四十代で社会経験を持った人で、ある一定の学術的あるいは学力的なテストによって、中学なり小学校の先生になりたいという人が社会経験を生かして教師としてやっていけるような道を開くとか、何か教師の養成の仕方にもっともっと頭を痛めて考えていいんじゃないのか。生徒にとってはいい教師にめぐり合うかどうかで、ある意味では学校の教育は決まってしまうと思うのです。ですから、そういう教師の養成についてもっと前向きの改革の考え方というのを、ぜひこの臨教審に反映していただきたいと思うのですが、その点についての文部大臣の御所見はいかがでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/133
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134・森喜朗
○森国務大臣 あえて所見ということでございますから自分の私見を交えてでございますが、非常に難しい問題だと思います。
例えば、教師のお話をされましたが、学校の先生というのはこれとこれとこれだけの学問を持っていなければできないのか。したがって、その学問をとるために勉強もしなきゃならない。その勉強するキャパシティーが高等学校そして大学まで、それ以上余裕がないのだ。ですから、ほかの面は一切問わない。例えば高等学校時代にクラブ活動の経験があるのか、集団で一緒に訓練をしたことがあるのかどうか、そんなことも本当は問うべき条件ではないんだろうか。しかし、余りにも先生になる資格の学問の量が多いので、それで精いっぱいでありますから、スポーツのこと、クラブ活動のことまでやれないのが現状でございますから、そこだけ見るという形がいいのか、これは非常に判断が難しいところだと私は思います。概して、今教育に携わっておられる方々は、今の制度からいえば、学問のレベルをパスすればなれるんだということが一般的な選抜の仕方ではないだろうか。そういう中で教師になる者はもう少し多様な面、もっといろいろな角度で社会の勉強をしていく、あるいはもっと人間の心理をつかみ取る訓練をしていく、そういうことがあってしかるべきではないだろうか。こうしたことなどもやはり教職員の資質を高める条件としての大事な基本的な考えだろうというふうに思います。
あるいは大学の教授にいたしましても大変難しいところだと思いますが、私が承知しておりましたある大学で紛争があった。小さな紛争でございますが、なぜこの紛争が起きたのか調べてみましたら、さっきおっしゃったように教授が論文をなかなかお書きにならない。やっと書いた。その書いたのは実質的に全部お弟子さんに書かせた。だから、若い、新しい時代の感覚を持ったお弟子さんは、偉そうなことを言うな、うちの教授が書いたのは実質はおれが書いたのじゃないか、こういう意識を持つ。教授にすると、おまえがそれぐらい書けるようにしたのはおれではないか、おれはそれを世に問うて当たり前なんだ。これは非常に難しい見方だろうと思うのです。新しい現代っ子から言えば、それはおかしい、おれが書いたんだ。僕が書いたのを先生が表題と名前をつけて出しただけじゃないか。しかし出した教授にすれば、そこまで書かせたのがおれの力なんだよ、これが今までのやり方なんだと言ったのかどうか知りませんが、そんなことで何かストライキまでやっておる。これは医科大学でございましたが、ございました。
この辺の判断も非常に難しいところだ、こう思いますが、要はやはり常日ごろ改善をしていく、改革をしていく。さらに、高等教育というものが、学問をして、その学問研究の成果を後世へ残す、これが高等教育の一番基本的な正しいあり方だろう、私はこう思うのでありますが、どうも、えてして高等教育は、先ほどあなたがおっしゃったように資格試験だけを通って、世の中に出ていくためへの勲章というようなとらまえ方をしておるということも、これは現実的な問題として否定し得ない。そういったところも高等教育のあり方についての論議の一つの視点になるのではないかな、こういうふうに考えます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/134
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135・市川雄一
○市川委員 皆さんもよく経験されると思うのです。新幹線に乗るときに修学旅行の生徒が大勢いますね。先生が全然統率力がないし、整理する力も持ってない。手伝ってあげようかなという気が起きるくらいでございます。毎朝、国対で国会見学に会うのです。三階の廊下いっぱいに向こうからわあっと生徒が来る。僕ら歩けない。先生がついてないのかなと思ったら、先生が三人ぐらいいましたから、この生徒さんの先生ですかと聞いたら、そうですと言うから、廊下というのは大勢いるときはどっちかに寄せるか何かだれかがしないと歩けませんよ、ちゃんと左側なら左側にきちんとやってくださいと先生に御注意を申し上げた。先生はあわててやりましたけれども、みんながなかなか言うことを聞かない。声も小さい。迫力がない。あれを見ていて、これで本当の教育ができるのかなということを思いました。皆さんもほとんど見ていらっしゃると思うのです。廊下を歩いているあの姿、あれは若いからしようがないと思うのです。あの人たちにとってはエネルギーがあり余っているわけですから、こうやって動きたい、二列三列、そんな列なんかもう冗談じゃない、それは当然だと僕は思う。やっている人たちというより、そういうことを本当にしつけようという意識が教師にないのです。どうでもいいことかもしれませんが、そういうことをよく廊下で目撃するわけです。この間、余りひどいので、学校の先生はいないのですかと聞いたら、はいと言うから、こういうのは注意したらどうですか、そういうことを申し上げたのですけれども、もちろん学校の先生が頭が悪いというのは困ります。もちろん学問ができなければ困りますよ。教えるのですから、教える側がわかりませんというのでは困ってしまう。だけれども、頭がいいだけの先生というのはまた困る。そこにもう少し先生の養成の仕方というものを大いに考えていただきたいというふうに思います。
それから、今の入試を目指した制度の中ではとても無理なんだろうと思うのですけれども、本来大学の改革が行われて、大学に入っても学ぶ意思と学ぶ力を持っていなければ、意欲を持っていなければ卒業できないという大学になれば、大学の希望者がかなり減っていくだろうと思うのです。今の大学は、どちらかというと経営の方にかなり力が入っていて、たくさん入れよう、単位は与えて卒業させようという感じもないわけではない、私立の場合ですけれども。その辺、すべてきれいごとで済まないとは思いますが、その辺の改革をしなければとは思います。
きのうの公聴会でも、今の教育は記憶させることに重点があって、一定のものを記憶させる、どのくらい記憶したかテストで調べてみる、何点取ったか、これを点数で評価する、そうでなくて、もっと本人自身が物を考える力を養わなければいけないということをいろいろな方が言うのですけれども、私はそのとおりだと思う。そのとおりだと思うのですが、その物を考える力を養うのにはどうしたらいいか。まず本を読むこと、教科書という意味ではなくて。それからもう一つは、この間も申し上げましたが、文章を書くことだと思うのですね。
今、小学校、中学校、高校で作文教育はきちんと行われていますか。この点をちょっと文部省に伺いたいのですけれども、私は今の小中高の学生たちに作文教育の実態というものを二、三聞いてきたのですけれども、作文教育があるのか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/135
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136・高石邦男
○高石政府委員 小中高それぞれ国語の教科の中で作文教育を行っているわけです。総時数の大体十分の二から三程度を作文の指導に充てるといったような形になっておるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/136
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137・市川雄一
○市川委員 要するに、うちの子供を見ていてもそうですし、この間ちょっと聞いてみたら、宿題で感想文書いてこいというのが多いんですよ。そんな作文教育じゃ物を書ける人が育たないと思う。
ここに一つの例がある。小学校二年生の例です。もう皆さんも釈迦に説法だと思いますが、物を書くときは何か模倣から始まりますよね。模倣して文章を覚えていく、そして自分の文体を完成していくというのが文章を覚えるのに必要な過程です。例えば学校の先生が小学校二年生にこういう文例を示すわけです。
おとうさんが「太郎、ヒヨコがかえったよ」と
おっしゃいました。ぼくが行ってみると、かわ
いらしいヒヨコが親どりの羽の下から顔を出し
て、ピヨピヨとないています。ぼくはヒヨコが
かわいらしくてたまりません。
こういう文例を小学校二年生に示して、この文章を使ってヒヨコをほかのものに当てはめて自分が日常的に感じているもので書いてごらんなさい。そうしたところが、ある生徒は、
おねえちゃんが「サブちゃん、子犬が生まれた
よ」とおっしゃいました。ぼくが行ってみると
ちいさい子犬が、親犬のはらの下から顔を出し
て、クンクンとないています。僕は子犬がかわ
いらしくてたまりません。
ところが、もっと進んでいる子は、
お兄さんが「次郎、タマゴがゆだったよ」とお
っしゃいました。
タマゴにかえている。
おかあさんが「花子、朝顔が咲いたよ」とおっ
しゃいました。私が縁側に出てみると、かきね
の間に、赤いのや白いのやいろいろの朝顔が咲
いています。私は夏の花で朝顔が大好きです。
こんなことを小学校の二年生で書くようになっちゃう。これを小学校二年、三年、四年、五年、六年、中学校というふうにやっていきますと、相当生徒は自分でいろいろなものを、日本語の美しさとか表現力というものをかなり鋭い感受性で吸収していくわけです。どんどん作文力が上がっていく。これは本当の一つの例でございます。
そういう徹底した作文教育というものがあっていいのではないか。だから、大学を出ても物が書けないということになってしまうのではないかと思うのです。それは、小中高という人間を基本的につくる年齢において、物を書くということで苦しんでいないからだと思う。物を書くことで苦しむ、物を書く力を養うという過程で、私はその人が物を考える力を同時に養っていくのではないかと思う。ただ漠然と本を読んだというのと、その本を読んだ感想を書くという前提で読むのとは、あるいはその本を批評するという前提で読むのとは、本の読み方が全く変わってきてしまう。書くことによって読むという動作が完了するとも言われている。そういう意味では、小中高で例えば漢字を丸暗記させるよりも、一方で文章を書くということが行われればいやでも応でも漢字は覚えざるを得ない。いい表現を覚えていく。敏感に生徒自身が自分の力で覚えていく。
それが、今むしろ作文の教育というものは非常に形骸化されてしまって、一方ではテレビの時代ですから、目と耳に入ってくるものにどんどん子供はいってしまって、むしろ読んだり物を書いて考えたりする方へなかなかいこうとしない時代であるわけですね。ですから、そういう意味で、小中高における作文の教育というものを何かもっときちんとした体系をもっておやりになった方がいいのではないか。ただ、作文を国語の時間の中で入れなさい、そうすると、先生が、どこかへ行った感想を書いていらっしゃいなんという程度のものじゃないでしょうけれども、そういうところも実際はあるわけでして、もっと作文教育というものに力を入れるべきじゃないのか。
この点について、ここはこれから臨教審でどういう御議論が行われるか、こういうこともぜひとも議論をしていただきたいなと思っている一つでございます。あえて文部大臣の御所見を伺っておきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/137
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138・森喜朗
○森国務大臣 市川さん、いろいろとお話しになりましたので、そのすべてに対し所見を申し上げるのは時間の御迷惑になりますが、やはり基本的に人格の完成を目指すということでありまして、それには学問を身につけて、その学問をある程度身につけなければ次のランクの教育を学ぶことができないのか。あるいは人格を身につけ、あるいは体験をしていく、そういう体験の中から、先ほどあなたがおっしゃったように、考える力、そういうものをある程度マスターしていけばいいのか。どっちなのか。どうも日本の今の教育のシステムから見ますと、何か時間がなくて、焦って、どんどん——それだけ学問も領域が広くなってきたせいかもしれませんね。私たちの時代と違って、最近は子供たちにはテレビゲームやワープロまで、学校の中にはコンピューターなども入っている。そこまで全部マスターしなければ本当にいけないのかどうか、私自身もこの辺はわかりません。これこそ、さっき嶋崎さんがおっしゃったように、教育学という見地から大いに議論をしてもらわなければならないのかもしれません。
しかし、私は、要するに先ほどあなたが指摘された点は全部「読み書きそろばん」という基本のところだと思うのですね。そこのところをもう少しきちっとやる、そういう手間暇かけた教育の体系というものが必要なんじゃないだろうか。どうも限られた中で何もかも全部入れていかなければならぬ、そのために知識だけを身につけてどんどん上へ上げていってしまうということになる。
私は、大臣に就任いたしましてから国大協の学長さん方とも意見を交わす機会がございましたけれども、正直申し上げて、これだけの学問を身につけなければ上に進んでいけないのですか、それとも学問というものを一つの機会として頭を訓練させるというためにこの難しいことをやらすのか。私自身高等学校で習ったことの、解析や微分積分、コサイン、タンジェント、ボイル・シャルルの法則だ、ピタゴラスだなんということは、名前は知っておりますけれども、高等学校を出てから一遍も世の中で使ったことはない。しかし、この学問を修めなければ大学に入れてもらえないというなら、これも一つの納得ですけれども、しかし、それをやらなければ絶対入れないんだというふうに決めつけることはいかがなものか。もっと時間をかけて作文をやったらどうだろうか、もっと時間をかけて絵をかかせたらどうだろうか、もっと時間をかけて農耕をやってみたらどうだろうか、もっと自然のことをやらせてみたらどうだろうか。それには、受験があって、そんなことやっておれないのですというのが現実の教育の現場ではないだろうかな、こういうふうに考えます。本当に人格形成を目指すということが一つ。
もう一つは、日本の学術というもの、科学技術というものは、二十一世紀にとって日本の最大の安全保障でありますから、そういう意味ではすばらしい学者を育てていかなければならぬ、学問研究を深めていかなければならぬ、これもまた真理だろうと思います。
そういうところで、やはり多様な選択があっていい。そして、どのような選択をあわせて体験をしても、世の中では正しくそれぞれの立場で評価してあげるという社会の仕組みにしなければならぬ。
私は、今先生のお話から、そういう感想を申し上げておきます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/138
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139・市川雄一
○市川委員 国会での議論をぜひ臨教審で反映をしていただいて、いわゆる教育改革が単なる制度をいじくるだけの改革に終わらないように、制度をいじくるにしても、がんになっているところ、例えばさっきの大学のあり方なんというのは私は最大のがんだと思う。大学を変えなければ、高校教育は絶対に変えられませんよ。そこには大胆なメスを入れていいと思う。中教審にはそういう思い切った改革の気風がなかった。利益代表が多くて、しかも安定性とか継続性ばかり問題にしている。だから、大学の教授でも、七十歳とか六十歳以上の方というのはちょっと御遠慮いただいた方がいいのじゃないのか。やはり四十代、五十代、これから未来へまだ行くぞ、そういう勢いのある人、そういう人にぜひ二十一世紀の教育のあり方を議論していただきたいと思いますし、もちろん、長い人生の経験をお持ちになった方も全然要らないとは申し上げませんけれども、そうでないと、学識、識見、人格なんというと、六十五歳とか七十歳とか、自分の人生大半終わりかけている方が、未来の青年の教育のあり方と言うのも、ちょっとどうかなと思うわけですね。やはり若い方の意見というのはそれなりに生きていますよ、情熱があるし。そういうことを御要望申し上げて、質問を終わりたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/139
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140・戸塚進也
○戸塚委員長代理 小川仁一君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/140
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141・小川仁一
○小川(仁)委員 臨時教育審議会問題も、他の同僚議員、ほとんどあらゆる観点から御質問を終わられましたので、私はそういった皆さんのお話をある意味では確認しながら、そしてまた一つ一つ御注文をつけながら、お願いを申し上げることをいたしてみたいと思います。
今までの御論議を聞いておりまして、総理も御出席なさいました本会議でも申し上げましたが、非常にすばらしい単語を駆使なさって、きれいな御返事が返ってくるんですが、どこかもう一つ我々庶民の心にぴたっとこないという感じがするわけです、それは私自身の理解の問題かもしれませんけれども。
なぜかと申しますと、選挙中にはいろいろな公約をなさいました。この選挙中の公約というのは、一番国民が悩んでいる偏差値の問題、あるいは大学入試の問題等をお話しになった。伊勢に行って神様を拝まれた後、がらり変わって、今度は二十一世紀におなりになった。こうなると、選挙のときは国民に一番関心のあるもの、選挙が終わって総理におなりになったら、今度はそこを捨て去られたという感じが実はするわけであります。
これは森文部大臣にお聞きするのは大変意を得ないわけだろうと思いますけれども、なぜこのように選挙中に公約なされたことが、それはある意味では文部省の現在非常に重要な施策、課題であったものが、漠とした二十一世紀の教育に変わったか。大臣は、総理とよくお話し合いをしてこの臨時教育審議会をおつくりになったわけでございますから、この辺の、心境の変化と申されるのか、あるいは政策の変化と申されるのか、その辺についてお話し合いした経過がございましたら、最初にお聞きしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/141
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142・森喜朗
○森国務大臣 小川さんも教職として大変経験を持っていらっしゃいますので、何もかも御承知の上で私の試験をするぐらいのお気持ちでお尋ねなのかもしれませんが、あえて総理とそういう話があったのかということでございますので、お答え申し上げます。
偏差値にゆだねられた日本の今の教育、あるいはまた受験地獄と言われるような入試の選抜の問題、いずれもこれは緊急な課題なんです。しかし、なぜこういうものをあえて是正をしなければならぬのかというのは、やはりいい人間づくりをしたい、人づくりをしたい、こういうことにくるわけです。その人づくりの行き着くところは、今の視点から見れば二十一世紀でありますから、これはすべて関連性あるわけでございまして、選挙だから偏差値を是正、六・三・三・四制教育云々、共通一次をどうすると言った、選挙が終わったから途端に二十一世紀へ行った、そういうことではないわけでございまして、そうした事柄の一つ一つを解決することが二十一世紀へ大きく飛躍する青少年のための施策である。すべてそういうふうに関連をいたしていることでございますので、選挙のときに総理が申し上げたいろいろな教育の課題と、そして今臨時教育審議会をお願いして新たに日本の教育を展望するということは、まさに同じレールに乗ったことであるというふうに御理解をいただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/142
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143・小川仁一
○小川(仁)委員 そういうお話でございますと、これは臨教審に入る前に同じ路線上、同じ政策上の問題として、事前に幾つか片づけなければならない問題があると思います。
〔戸塚委員長代理退席、委員長着席〕
それは、今まで文部省がやってきた幾つかの残された課題であると考えます。それで、その幾つかの課題があるわけでありますが、先日の新聞の世論調査によりますと、父母の方々が非常に多く希望しておられるのは、四十人学級の早期実現であり、過大学級を早く直してくれということである。あるいは学校給食費について増額してくれ、減額をやめてくれ、あるいは私学の補助を削減するのをやめてくれといったような、財政上の幾つかの片づけなければならない課題。もう一つは偏差値教育、大学入試、こういったようなものが幾つもあるわけでございます。既に、大勢の方々がこういう課題について御質問をなさっているわけですから、私は端的にお伺いをしたいと思います。幸い、総務庁長官もおいでになっておりますので、まずこういう財政的な課題について一つ一つ御見解を伺ってまいりたいと思います。
四十人学級は、ことしで臨時のあれが終わって来年から実施されるわけでございますが、文部省は今までの答弁で、もちろんこれは絶対やる、予算要求もするというふうなお考えと私聞きましたが、行政改革等を受け持っておられる長官としてはどうでしょうか。この四十人学級について今後も、来年以降ですよ、行政改革の枠内に入るとお考えでしょうか。今までの審議やあるいは経過の中で、これはもうこれで終わり、来年からは四十人学級の教員増を含めた実現に乗り出す、こういうふうなお考えでしょうか。お二人からそれぞれお伺いしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/143
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144・森喜朗
○森国務大臣 私どもといたしましては、どの程度の教室が一番いいのかどうかといういろいろな論議がございますが、欧米先進国等いろいろな学校の現状等も考え、四十人を一つの目標としてその四十人学級の実現を期すために、六十六年度を最終目標として十二年計画におきますいわゆる第五次の定数改善計画を実施いたしておるわけであります。
今御指摘がございましたように、行革関連法によりましてこのことについては今抑制をいたしておりますけれども、この考え方の全体計画、そしてまた最終年度というものは変更いたしておりませんので、何とかこの実現に少しでも努力し近づけていきたい、このように私どもは考えているわけであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/144
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145・後藤田正晴
○後藤田国務大臣 この四十人学級の問題は、大平内閣、私ちょうど自治大臣をやっておりましたが、そのときに四十人学級の問題についての政府としての方針を決めたと思いますが、それだけに私もこの四十人学級の問題には大きな関心を持っておる一人でございます。
ただ、その後の財政の厳しい状況、そして同時にまた第二臨調等からのいろいろな御意見もあり、時限立法として五十九年度まで一応抑制をする、こういうことが決められたわけでございますけれども、今後この問題をどう扱うか。一応時限立法でございますから、その期限到来を待って新しい事態にならざるを得ない、こう考えますけれども、今後の問題につきましては、明年度の予算の編成もだんだん準備を進めなければならぬということで、行革審で現在、明年度の予算編成に当たって行財政改革についての推進をどうするかということで、各方面の御意見を聞きながら御検討中でございます。したがって、それらの結果を待たなければ、私の口から今日どうなるということを申し上げるわけにはまいりません。御意見等が出た段階で、財政当局を中心にしながら文部御当局とも十分お話し合いをなさってその扱いをお決めになるであろう、かように考えておりまするので、きょうのこの段階で私の口からどうするということをお答えするのはいささか時期尚早であろう、かように考えるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/145
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146・小川仁一
○小川(仁)委員 ただいまの御答弁をお聞きしながら、第二臨調では第二臨調の精神をもって時限立法で本年度で打ち切り、これはそういう意味においては第二臨調の精神が通っているわけでございます。行革審というのは、それがどのように実施されているか、まだ実施されていないのはどこかといったような臨調答申自身の中にある問題の実施項目その他を見ている、いわゆる後始末の役と言っては失礼な言い方になるが、そういう役割を持っているだろうと思うので、これは既に臨調答申の精神をもって時限立法という形で終わっているわけでございますから、そういう点を考えますと、行革審の意見をと再度問うということになりますと臨調と行革審の性格問題にも触れてくると私は思いますので、これは臨調精神どおりおやりになる、こういうお考えをここでいただきたい、こう考えて総務庁長官においで願ったのです。それらを含めて、ひとつ再度お話を伺いたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/146
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147・後藤田正晴
○後藤田国務大臣 御案内のように第二臨調というのは、本来的な行政改革ということになりますと、行政内部の組織、機構、運営の簡素合理化、効率化といったようなことをやるわけですけれども、いわゆる土光臨調というのはそれのみならず国政全般にわたって、つまり守備範囲の見直しというようなことから政策分野の諸選択といったようなことにまで触れての御答申をちょうだいしたわけです。その背景には厳しい財政状況があった、私はこう思います。したがって、それだけに実施ということになれば、いわゆる本来的な意味と言うと多少言い過ぎかもしれませんが、第一回目の佐藤調査会あるいはアメリカ等でのやり方よりは少し踏み込んだ答申になっておりますから、実現性ということになるとよほどしっかりしたやり方でないといけない、私どもはこう考えております。つまり聖域は設けない、こういうことになった御答申でございます。
それを受けて、ただいま申したような四十人学級の問題についても三年間の時限立法、こうなったわけでございます。その後の状況は、五十九年度で特例公債の依存体質から脱却をするということになっておったわけでございますが、その後の世界経済の情勢あるいは国内経済、したがってまた財政状況等から見て、残念ながら五十九年度にはその財政再建の目標は達成できないということで、それが延びたわけでございます。六十五年度までかかるということになったわけですから、それらを考えますと、この段階で四十人学級の問題について行革審がどのような意見を出すかということ自身わからないわけでございます。そこで、先ほど申したように、そういったことについて今の段階で私の口からどうこうだと言うことは時期尚早であろう、もしそういった問題についての意見が行革審で出ればその段階で検討が行われるのではないか、かように申し上げておるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/147
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148・小川仁一
○小川(仁)委員 けさの新聞を見ますと、地方の警察官から教員、消防職員まで減らす、こういう作業の進行状況が出ておりました。教員と言う場合、これは小中学校の教員ですから、減らすとなれば四十人学級どころか四十五人学級というような格好にもなると思います。
私は、今のお立場で総務庁長官がおっしゃるそういう状況もわからないわけではないのです。ただ、今回内閣直属で、総理大臣みずから教育を大事にする、教育改革をする、こうおっしゃって、それは一文部省にとどまらず、教育改革をするためには各省庁の意見を含めて責任を持ってやるんだという形でお話をお出しになっている前提としての四十人学級の時限立法の終結、こういうふうに理解しますと、行革審のお話もさることながら、内閣としての責任においてこういう政策を実現していくという態度があっていいのではないか、そういう意味でお聞きしているのです。
ですから、ここでお答えいただくことは、行革審の審議は審議とし、内閣の政策として教育改革を中曽根内閣の非常に大きな命題として考えているならば、ぜひこれは、四十人学級は時限立法で、行政改革の目的は、第二臨調の答申は達した、これからは教育改革の立場で四十人学級を考えるというお考えをお持ちいただきたい、こういうふうにお話し申し上げるところでございます。ですから、改めてお二人の簡単な御決意をいただいて、次に移りたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/148
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149・森喜朗
○森国務大臣 私といたしましてもこの計画は何とか実現をしたい、こう願っておるところでございまして、全体的には私どもは、財政の基本的な方針というものをちょうだいをいたしましてから文部省の所要の予算を定めていかなければならぬ、その作業を始めていかなければならぬということもございますが、現在の段階といたしましては、まだ基本的には財政当局の方針をちょうだいいたしておりません。しかし、私としましては教育を何とか大事にしたい、そして教育の現場の条件をでき得る限り整えていきたい、そういう気持ちで今もそのように一生懸命努力をいたしておるところでもございます。なお一層そういう基本的なスタンスでこの問題に取り組んでいきたい、今の時点ではこう申し上げておきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/149
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150・後藤田正晴
○後藤田国務大臣 私も、けさ初めて新聞で地方行革について読みましたが、しかし、あの中で別段削減ということは私は承知しておりません。抑制とか凍結とかといったような言葉はあったと記憶しておりますが、いずれにしても行革審御自身が、総理大臣の直属の、直属と言ったらおかしいのですけれども、内閣のもとに設けられた各種の調査会がございます、これは例えば財政審であるとか税制調査会であるとか地方制度調査会であるとかあるいは社会保障制度審議会ですか、いろいろな同じような、内閣が所管しておる審議会、調査会がございますが、恐らく行革審としても、これは私の口から申し上げるのはいささか出過ぎかもしれませんが、当然のことながら各種調査会、審議会等と事前に十分なお打ち合わせもなさるであろうと私は思います。
同時にまた、御質問の四十人学級等の大変重大な課題がありますから、これらについてはやはり審議会としては、文部当局なり何なりから十分な御意見も聞いた上で意見を出されるであろう。そして同時にまた、これはいずれにせよ最終は国会で御審議を願うわけですから、与党あるいはまた野党の政策担当の幹部の方等は当然お話し合いをなさるのではなかろうか、私自身はさように判断をしております。これはいずれにせよ、行革審御自身のお考えによることでございますから、私からここでどうこうと言うことは行き過ぎかもしれませんが、当然審議の過程においてはあってしかるべきもの、したがってまたその御意見というのは、国政全般に目配りをした上での適切な御意見が出されるのではなかろうか、私はかように考えておる次第でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/150
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151・小川仁一
○小川(仁)委員 教育改革が問題になりました。幾つかの教育現場における、例えば非行とか校内暴力とかあるいは登校拒否、落ちこぼれといったような多くの課題があるわけでございます。その原因の中にかなり重要な一つの問題としてこの四十人学級あるいは過大学校の解消、こういったような問題が具体的にあるわけでございます。こういう問題が教育改革によって一つの方向性を見出そうというときに、その教育改革、二十一世紀を目指す同じ路線上にある前提条件としてのこれらの問題が解決しないでは、教育改革というのは本当に絵にかいたもちみたいになってしまうじゃないか。お話だけか、きれいなお話だったな、中身は何もなかったのじゃないかという結果になり得る。国民に与える失望感というふうなものが大変大きいのではないかと私は思います。そして国民は、今回提案された育英法の中で有利子制が出てきて、それも国会を通る、あるいは来年は教科書の有料化になっていくのではないか、次々とこういった、教育改革、教育をよくしようとするような大きな政府の政策とは逆の政策が一つ一つ実現をされていく、こういう形に非常な不信感と不満を持っていることは、行政を担当しておられる、特に文部行政を担当しておられる部署はおわかりと思います。このギャップを埋めなければ、教育改革というものは進まないと思うのです。
ですから、私は今のお話をずっと聞いていながら、結局教育改革を目指す臨時教育審議会というものそれ自身は、少なくとも財源的に言えば行革審の隷属下に存在する、こういう印象を与えてしまうのではないか。文部大臣も総理もそう考えていないと思いますが、先ほど来の御答弁を聞いていくと、私たちはそういう感じを受けておるのです。一体、臨時教育審議会というものは、本気で教育改革を考えているだろうかという疑問を持つわけなんですが、こういう我々国民の疑問に対して文部大臣はどんな形でお答えになろうとされますか、お伺いしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/151
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152・森喜朗
○森国務大臣 先生の前段のお話の中にございましたように、問題児が出ていること、あるいは教育のいろいろな意味での荒廃とか言われておるような状態は、例えば大規模高校あるいはマンモス校、もっと端的に言えば、四十人学級のようなことを後回しにしておるからそういうふうになるのだという御指摘もございました。確かに、そういう面も全くないとは言えないと思いますが、それだけで事を論ずるということはいかがなものかなというような感じが私はいたします。先ほど市川議員との議論にもございましたように、先生自身がもっと子供たちの中に入っていくということも大事だろうと思います。四十人だからできるので、四十五人だからどうの云々というようなことではないだろう。教育に携わる先生の基本的なお考えというものも、子供たちの教育にとってより大事なことだというふうに思います。
しかし、さはさりながら、教育の諸条件を整えるということは、文部省としても大事なことでありますし、文部大臣といたしましても最大限の努力をいたしておるわけでございます。しかし、財政全体をすべて無視をし、そして今総務庁長官もおっしゃいましたように、教育を聖域とするという立場を今の時点ではとっていないという考え方でございます。そういう中で、どうやって教育の条件をより適切に整えていくかということが、今日まで私どものとった大事な努力目標でもあったわけでございます。しかし、臨時教育審議会は、これから二十一世紀に向けて教育をいろいろな角度から見て議論をしていただくわけでございますが、いわゆる教育費の負担の問題を臨調が指摘をいたしております。そういう中で、教育に公の負担する費あるいはまた私的な面というものはどのような考え方を持つべきなのかということの議論も、教育の制度改革を考えていく以上は、財政の問題を全く触れずに議論できるものではないだろうというふうに、今の時点でも私どもには常識的に考えられるわけでございます。
先生のお立場から見ると、行政改革の枠の中でやろうとしておる、そんな中で教育の改革に何ができるのだ、それは結局、抑えられた現場というものを窮屈にし、そして教育というものにどんどん悪い条件を押しつけてしまうのではないか、そういうお立場で御議論をしておられるわけでありますが、私はそうは思わないのです。むしろ、日本の教育全体を、戦後を振り返りつつ、新しい日本の教育の制度がいかにあるべきかということを考えてみた場合に、逆に言えば、もっと躍動的な面が出てくることも十分考えられるわけでございまして、すべてがその枠の中でおさめられて、そして状況がなお一層悪くなっていく、そういう前提で私どもは議論をするのではない。臨時行政調査会が答申をいたしております行政改革も、あるいはまた財政計画も、たびたび申し上げておりますように、何もすべてをぶっち切ってしまうのだということではなくて、二十一世紀により飛躍ができるように、堅実に発展ができるように、日本の力というものの基盤、体制を整えたい、こういうことでございますから、そういう躍動的な新しい二十一世紀の方向を議論したいというのが臨時教育審議会でございますので、先生からいろいろと御指摘ございましたように、財政の枠の中ですべてをおさめ込んでしまう、より悪い方向に行ってしまうのだという立場を私どもはとっていないものであるというふうに、ぜひ御理解をいただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/152
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153・小川仁一
○小川(仁)委員 私も、小学校の教員をしました。一番多いクラスは百二十四人だったと思います。そんなクラスを受け持ったことがあるのです。そんなばかなとおっしゃるかもしれませんが、それは戦争中で、その百二十四人のうち約五十人近い女の子たちは、いわゆる学徒動員で工場へ行っていたわけです。ですから、普通の授業が終わってから、工場から帰ってきた子供たちに、五時から二時間の授業をしました。しかし、教えたのは何かというと、国語と数学でございました。教師としては非常に悔恨が残りました。それは、ああいう時代であったからといっても、やはり自分の心の負担として、そういうことがどうしてもずしりと重く響くわけでございます。そういうことを含めながら、私は教師の立場で申し上げているつもりです。
また、もう一つ。この前の同僚議員の御質問に対して、森文部大臣は、四十人学級は我が子のようなものだ、こういうふうにおっしゃった。私も実を言えば、四十人学級の社会党案の提案者でございます。これまた同じような感じでございます。それだけに、どうかしてことしで終わってくれればいい、これが大臣と私の共通の感覚の中にあるような気がいたしまして、こういうお願いを申し上げておるわけでございます。教師が子供に接する時間をどれだけ多くとれるかということが教育の基本、教師対子供の触れ合いの中の一番大事なことだと私は思っております。制度がどうこう変わるということの中で、ただ単に財政を言っているつもりではありません。教育というものについての自分自身の経験の中からこういう気持ちを言っているわけでございますので、この点はひとつ大臣と共通感覚に立って、大臣の御奮闘をお願いするとともに、総務庁長官にもわかっていただきたい。
ただ、幾つかの教育予算を見てみますと、教員が要らないと言う予算も政府の方でおつけになっている。要ると言ったものを削って、要らないと言うのをおつけになっている。例で申し上げますと主任手当でございます。あれは要らないと言うのです、現場の教員が。何で要らないものが無理無理押しつけられて、欲しい、欲しいと言うものは、しかも子供のために欲しいというものです、それはつけない。主任手当は教員自身のものですから要らないと教員が言っている。どうして行政改革によるこういう予算編成ができるものでしょうか。どうですか、これはこの次は行政改革の対象になりませんか。総務庁長官にお伺いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/153
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154・後藤田正晴
○後藤田国務大臣 私も、小川さんがおっしゃるように、教育の重要性というのはわかり過ぎるほどわかっているつもりでございます。御案内のように、人材確保の法律案の本当の立案者は私でございます。各省事務当局にはやはり大変な反対がございました。ただ、その後、三年目になりましたときでしたか、学校現場の状況から主任手当は必要であるということでああいう制度が設けられたので、この主任手当をめぐる議論については、残念ながら小川さんとは意見が一致をいたしません。
それから、同時にまた、先ほど申しましたように、四十人学級のときも、大蔵事務当局、自治省の事務当局は全員反対でございました。しかしながら、当時の谷垣文部大臣の非常な教育改革への熱情、それで私はこれに賛成をしたのです。私は、それくらい教育の重要性はわかっておるわけです。ただ、国政全体との関連で、今日の行財政改革の必要性ということをお考えいただければ、おのずからその中に調和の道もあるのではないかと私は考えておるので、四十人学級制度そのものをやめてしまうといったことではない、私はさように理解をしておるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/154
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155・小川仁一
○小川(仁)委員 財政が厳しいこともわからないわけではありません。私は、教育を聖域にしろとも言っておりません。しかし、本当に我々の次の世代を背負う子供たちによりよい条件を与えてやる、また、教育自身の本質からいってもそういうことを考えてみたいと思います。
岩手県では、都市部の先生は農村部に行きたいと言うのです。それは、農村の小さな学校では、校内暴力も非行も非常に少ないからです。疲れ果ててそういう人事異動の希望さえ出てくるという状況。私は、過大学校とか四十人学級とかいうことがそういう状況のすべての原因だとは思っておりませんが、非常に大きな要因であることもまたどたなも否定できない事実だと思うのです。とすれば、この際、ぜひお二人で四十人学級をきちっとお進め願いたい。それは本当に将来を考える場合必要だ。特に、中曽根総理と教育改革の同じ線上にある課題として、文部省がやらなければならないこういう問題があるとすれば、これはぜひ内閣の将来の政策をかけて実施していただきたいと思います。
そして、調和と言ったら、それは主任手当の問題をお聞きいたしましたけれども、しかし多くの場合、自分の食う分を捨てても子供に食わせようという親心があります。東京都では、既に教育費が家計費の二〇%を超えております。それは、塾あるいはいろいろなけいこごとに通わせるものを含めてであります。自分の子供がかわいいからであります。教師が、自分はもらわなくてもいい、子供たちに回してくれと言った心情というのはおわかりいただいて、主任手当は幾らでもいい、四十人学級ではなくたっていいのです、それは他の部分に使われてもいいから、こういう気持ちというものはぜひ酌んでいただいて——大蔵省へ参りまして、なぜこれをのせるのだと言うと、大蔵省の主計官の方は、これは予算単価とか予算上の問題ではありません、政治的な問題です、したがってぜひ党間でお話しください、こう返事をします。そうすると、これは自民党と社会党で話をすれば済む問題かというような気もするのですが、もし何かそこに主任手当が政治的な思惑などがあって存在するということであれば、これは誤解かもしれません、このお金の足りないときでございますだけに、なおさらそういうものは教育費の方にお回し願いたい、これが行財政の中における一つの調和だ、こう考えまして、お二人にお願いを申し上げまして、財政関係の課題を終わりたいと思います。
総務長官をいつまでも押さえるわけにはいきませんので、もう一つ臨調に関連して、財政問題ではない部分なんですが、後からの質問の関係がありますのでお願いをしておきます。
今資料がありましたが、臨調の中で、民間の力を利用するといったような答申がございました。教育の中に民間の活力を利用するというのは、具体的にはどんなことをお考えになっておられるのでしょうか。総務長官、ひとつお考えをお聞かせ願えればと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/155
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156・後藤田正晴
○後藤田国務大臣 民間活力の活用というのは、今ともかく行政の面からいろいろな制約、規制、これを許認可とかいろいろな枠をはめてやっておりますから、民間の創意工夫が必ずしも十分に発揮し得ないような状況にあるので、これらを解き放して、民間に発意と創意でどんどんやってもらった方がいいではないか、これが一般論としての話でございますが、教育の面から見ますと、今給食の問題があるのじゃないですか。そういったことについて、民間委託とか何とかということによってもう少し効率的な給食制度が実施できるのではないか、こういう御意見が臨調の中にあるやに私は承知をいたしております。恐らく教育の分野での民間活力というのは、そういう民間に委託をしてやれるものは委託したらどうだ、こういう御意見だと私は承知をしております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/156
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157・小川仁一
○小川(仁)委員 再度お尋ねいたしますけれども、そういうことは、例えば私立学校とかあるいは塾を含めたいわゆる公教育をどんどん、否定とは申しませんが、公教育にかわる形での自由化、教育の自由化というのは教育臨調の中にも入っておりますが、そういう形での御指摘ではないとお聞きしてよろしゅうございますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/157
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158・後藤田正晴
○後藤田国務大臣 私は、そのように理解をいたしております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/158
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159・小川仁一
○小川(仁)委員 では総務長官、ありがとうございました。
それでは戻りまして、教育基本法と臨調の関係に入ってまいりたいと思います。
まず大臣、「臨時」というのは、これはどういう意味ですか。三十一年の国会の議事録を読んでみても、「臨時」ということに対して、当時の議員の方々がなかなか理解がつかなかったようでございますが、どういう意味ですか。臨時というのはエキストラ。どういう性格づけですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/159
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160・森喜朗
○森国務大臣 臨時でない場合はやはり恒常的に、恒久的にということになるかと思いますが、臨時というのは、一つの年限を定めて、その期限を切ってという意味。私ども今お願いをしております法律の立場上から申し上げると、そういう解釈。もちろん臨時というのは、広義の解釈の仕方もいろいろあるだろうと思いますが、ちょっと辞典も見ておりませんけれども、今議論をいたしておりますこの法律に関して申し上げれば、期間を定めて、その定めた範囲の中でという意味だと考えております。法律との技術的な関連については、政府委員から答弁をさせたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/160
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161・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 ただいま大臣からお答えしたとおりでございまして、今回の審議会は三年という時限で行いますので、「臨時」という言葉にしたわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/161
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162・小川仁一
○小川(仁)委員 第一次共通テスト問題にいたしましても、あれが文教委員会で決まりまして五年たたないうちに変更を求められております。社会の進歩に従って、教育のやり方あるいは選抜の仕方といったようなものがどんどん変わってくるのです。これは、恐ろしいほどの変化じゃないかとさえ私は思うのです。だから、逆に恒常的なものが必要だ、これが今まで文部省が中教審をつくられた理由だろうと思うのです。その中教審に、ずっと体系的に考えておられたそういう機関に対して、この問題をいつまでにと期限を切っておやりになる方がむしろ全体的な視点が出てくるのじゃないか。急にここで集めて「臨時」と言われることは、これは時間を限った臨時という課題ではなくて、何かしらやはり急にその辺から寄せ集めてきてというふうな感じが一般的にするのです。
「臨時」という法律的解釈は私知りませんが、語感からくる感じ、非常に安っぽいと言うと失礼ですが、出てこられる委員の方もあると思いますけれども、そういう感じなんですね。私らが普通言う場合でも、例えば働いている人たちでも臨時職員、こういうふうな格好になる。その多くの場合は定員がないから入れないというのもあるだろうが、あるいは資格を取れないから入れないという別な意味の存在でもあるわけだ。ですから、時限を切ったから臨時じゃなくて、実はこんな安っぽい印象の名前をつけないで、何とかいい名前をつけるなり、あるいは今までのものをずっと拡大するなり、員数で足りなかったからこういう方々も参加さしてというふうに、大勢の方からと言うとおかしいですが、多くの方から御協力をいただくという形での審議会というものが考えられなかったでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/162
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163・森喜朗
○森国務大臣 名称につきましては、いろいろと政府にございます審議会あるいはまたこれまで教育にいろいろと関係がございましたような審議会等々、そしてまた、全体的に幅広く、自由濶達に二十一世紀を担う青少年たちのためへの教育の改革というようなことから考えまして、今の臨時教育審議会という名前をとったわけでございまして、端的に言えば教育審議会というふうになるわけでありますから、どちらかと言えばスマートなネーミングだろう、私はこう思っております。
「臨時」というのはどうも安っぽい、教育的ではないではないかという、そういう御指摘であろうかというふうに思いますが、「臨時」というのは「教育」に係っている言葉ではなくて、審議会が臨時なのでございまして、「審議会」に係った言葉である。先生を御体験の先生に、余り文法みたいなことを申し上げて恐縮でございますが、「臨時」は審議会が臨時だというふうにぜひ御理解をいただければというふうに思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/163
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164・小川仁一
○小川(仁)委員 「教育審議会」に係った「臨時」でしょう、その書き方から言えば。いろいろ御解釈があると思います。
それで、そういう方々が御審議をなさるとして、教育基本法の課題に触れまして今まで皆さんお話しになりましたが、「教育基本法の精神にのっとり」とお話しになった。大臣は、審議の過程で教育基本法に触れることも、触れるといいますか、討論が及ぶこともあるというふうな意味もお話しになった。しかし、お二人あるいは今までの御質問を聞いておりますと、教育基本法の精神、これは御承知のように憲法二十六条から来ておりますし、そしてそれは教育を充実し発展させるための考え方、あるいは憲法に基づいた日本の一つの方向性をより充実させるという意味で「のっとり」という言葉が存在をする。
また、大臣のおっしゃる触れるという例の中で、例えば義務年限九年、第四条の問題等がございました。これは低下させるという御発言ではなくて、どなたの御発言でも、九年を十年間あるいは十二年間というふうにより充実させようという考え方の御質問の趣旨のように私は受け取ってきたわけであります。そうしてみますと、これは義務教育の年限を拡大するとかなんとかというのは、あくまで「精神にのっとり」という中に入っているのではないか、こういうふうに考えますが、いかがでございましょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/164
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165・森喜朗
○森国務大臣 今の先生のお尋ねの点は、大変難しい問題だと思います。
私どもは、憲法と教育基本法の精神を基本として教育改革に当たりたい、こう申し上げております。そして法案におきましても、基本法の精神にのっとって行うということを明示をさせていただきまして、そしてたびたび国会でも総理も私も申し上げておりますように、現在の教育基本法を改正するというふうに考えてはいない、これも明確に申し上げております。したがいまして、九年の義務教育年限を変更するということも私どもは考えていない、こういうふうに申し上げているわけでございます。
ただ、先生の今お尋ねの中にお話がございましたように、御議論をいろいろしていただく中で、例えば制度上の義務教育の年限がふえるか減るか、いろいろな見方はあると思いますが、そういう議論を、そこのところはしてはいけないというふうにすることは必ずしも適切ではないのではないか。そういう意味では、たびたび申し上げておりますように、自由な幅広い御論議をいただくということが、日本の教育を少しでもよりよくしたい、今先生もまさしくおっしゃいましたように、より充実をさせるということで考えましたならば、その辺のところに全く触れてはいけないというものではないのではないか、こういうことを私は申し上げてきたわけでございます。したがって、この九年を変更するかしないかというところが法の精神に触れるのか触れないのかという解釈は非常に難しゅうございまして、これは一概に申し上げることは出来ないと思いますが、例えば九年を減ずるということであれば、これはやはり教育の理想を追求するという面から見ると、場合によればマイナスということになる。その場合は触れるのかもしれません。私の考えでは、そういうふうな見方もできると思います。私もそんな学問をした、法律をやった立場じゃございませんので、私の今の感想から申し上げれば。
逆に、今先生もちょっと指摘されましたように、ふやした場合はどうなのか。これはある意味では義務教育が充実する、年限をふやすから充実するという考え方がいいかどうかは別といたしましても、端的に言えばふやした場合には充実する。充実するということになれば、いわゆる普通教育をどう考えるかということでございますから、このことは憲法の精神あるいは教育基本法の充実するという精神から言えば、必ずしも私はそれは間違ったという言い方はできないのではないかというふうな考え方もいたしておりますので、今の段階でこのことが法に触れるのか触れないのかということは、政治家の私の立場としては非常にこの判断に苦しんでおるところでございますから、要はより充実したいい教育制度をつくりたいということが私の気持ちの根底でございますので、そういう意味で御論議を御自由に深めていただくことが日本の教育のためにプラスになるという判断から、私はたびたびそういう答弁を繰り返してきたわけでございます。
厳密に法に触れるのかどうかということの議論は、先生、どうぞひとつ法制局の方にでもお尋ねをいただければ大変幸せでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/165
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166・小川仁一
○小川(仁)委員 私は法律論を言っているつもりはなくて、教育を充実したいという気持ちの中から、しかし「教育基本法の精神にのつとり、」とあるからには、憲法から教育基本法のあの精神、教育基本法の精神というのは、子供たちをよりすばらしく育てよう、教育をより充実しよう、こういうことが前提で貫かれていると思っているのです。そういう意味で、義務教育問題にはお触れにならないこともわかっておりますけれども、委員の中で討議があって、より充実するため、こういう形で九年を十二年にという御論議が仮にあったとしても、これは「精神にのつとり、」ということの中におさまるのじゃないかという、これは法律論じゃないのです。教育を考える者の一つの論理として申し上げたつもりでございました。お考えはわかりました。
それで、審議委員を今度はお選びになります。いろいろ同意人事等のお話もございます。そういう中で審議委員をお選びになるときは、これは教育基本法の精神にのっとらない人はお選びにならないでしょうね。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/166
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167・森喜朗
○森国務大臣 ちょっとその辺、教育基本法にのっとらない人というのは、具体的にはどういうことなのかも、ちょっと私の悪い頭でなかなかすぐぴんとこないのですが、基本的には当然のことだろう、こう思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/167
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168・小川仁一
○小川(仁)委員 具体的に申し上げればよかったのですが、具体的に申し上げますといろいろ差しさわりもあると思って、基本をお聞きしたのです。基本はわかりました。
では、私が言っていることはどういうことかと申し上げますと、例えば義務教育は要らないなどとおっしゃる方、あるいは公教育を私学教育に切りかえてしまえというようなおっしゃり方の方、そういう形でお話をしておられる方、または論文をお書きになっている方、著書をお出しになっている方がいるわけでございます。私は、そういう方々の御意見を否定するという意味ではありません。私もそういう方々の御意見も十分お聞きをして自分では勉強しているつもりでありますが、今回の教育改革の中では、そういう御意見をお持ちになって義務教育は要らないと御主張なさる方をお入れになったのでは、これは教育基本法の精神にのっとるどころか、とんでもない討議が行われるのではないかという心配を持つわけでございます。
ですから、私は資格審査をしろなどという意味で申し上げているつもりはありませんが、大臣の御配慮の中に、今言ったような幾つかの例で精神にのっとらない、いわゆる教育基本法をいろいろな角度から否定なさるという方々は、論文、著書で大臣や文部省の方々、もうおわかりだと思いますので、そういう方は人選の対象にはならないでしょうね。中身を申し上げるとそういうことになります。人の名前とか著書名はあえて申し上げません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/168
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169・森喜朗
○森国務大臣 人選は、たびたび申し上げておりますように、幅広くということを申し上げておりまして、人格識見をということを法律の中に一つ明記をいたしておりまして、いわゆる資格審査をするということであってはならないと思います。
義務教育のことを議論するには、いろいろな角度からいろいろな意見を言われることがあっても、これはまた義務教育をより充実するということにもなるという見方もできると思います。したがいまして、我が国は表現、そしてまた思想、すべて自由に保障された国でございますから、その方がどういうものを書いたとか、どういう議論を持っておるというところまで審査の対象にしてそれを排除条件とするというようなことは、私はこれは適切ではないというふうに考えます。何といいましても、法律の中にも書いてございますように人格識見、そのことがすべて象徴をすると私は思う。そして、日本の教育をよりよくしていきたいという熱意に燃えていらっしゃるということがやはり一番大事なことではないだろうか、こう思うわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/169
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170・小川仁一
○小川(仁)委員 義務教育をより充実するという立場でというふうに大臣のお言葉の中にありました。そのことを私もお聞きをした。そして、人選については資格審査をしようなんという考え方は私もないのです。ただ、世の中には往々にして、奇をてらうわけでもありませんけれども、一つの着想みたいなものをぽんとお出しになる、事によって教育基本法の考え方とはちょっと違うな、あるいはこれを否定しておられるのではないかという疑念の論も幾つかあるわけでございます。
私は、今、義務教育というものは、あえて公教育だけとは申し上げませんけれども、しかし、日本国民のかなりの部分は、高い授業料を払って小学校の段階から私立学校その他へ行くというふうな方々もあるでしょうが、圧倒的多数は、義務教育の充実という中で国が責任を持って行わなければならない、こういうふうに考えておりますだけに、この「基本法の精神にのつとり、」ということは、今後人選過程で十分な御配慮をいただくことが必要なことだ、こう申し上げておきたいし、そのことも大臣、よくお考えを願いたいと思うわけでございます。
では、この辺は今後のいろいろな審議の中で一つ一つ具体的な検証が行われる状況も、いろいろ修正案等含めて存在するわけでございますから、私たちの意見はその際に具体的に申し上げることにいたします。
さて、審議会でございますが、審議会が開かれる。二十五人の委員でございます。三年間の時限で月何回ぐらいお開きになる予定でございますか、計画としては、考え方としては。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/170
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171・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 先生のお尋ねこそ、まさに審議会の運営の問題でございますので、今の段階で特別の予定をするということではございません。審議会自身で御判断いただくことだというふうに考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/171
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172・小川仁一
○小川(仁)委員 今までも、他の行革審もあればあるいは幾つかの審議会が政府の中にあるわけでございます。ですから、その標準的な月の開催日数なんというのは頭に描いて運営しておられると思うのですが、どの程度でございましょうか。その辺も含めて全然計算も目算もしておらないというお考えですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/172
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173・森喜朗
○森国務大臣 先ほど事務当局が申し上げましたように、運営方法等につきましての細目は審議会自身でお考えをいただくことが適切であろうと思いますが、三年という一つの区切り、これは長いという見方もできますし、普通の審議会の二年というような形から見れば少し長いというような形もございますが、領域が極めて広いというぐあいに私は考えましたから、三年という立場をとらしていただいたわけでございますが、そういう意味で余り冗漫に流れてはいけないと考えております。したがって、できるだけ精力的に回を重ねて、やはりこうしたものは連続的にやっていくことが大事だというふうにも考えておりますので、かなり回数も多くして、できるだけ精力的に論議をしていただきたい、こういうことを基本的に私としては期待をいたしております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/173
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174・小川仁一
○小川(仁)委員 ちょっと私、試算してみたのですが、一日御審議の時間が五時間として、二十五人の委員でございますと、欠席なさるような人はお選びにならないと思いますから、そうすると、一人平均十二分なんですね。六時間の御審議として十四分ぐらいなものですよ。十五分ぐらいですか。そうなると、かなり精力的に集まっていただいて審議を重ねないと、実は三年間審議会にいて何も一つもしゃべらなかったというふうな、時間的制約を受ける方も出てくるのではないかということを心配するわけです。
そうではなしに、かなり十二分な審議の時間、ただ専門委員が出してきた案に対して、はい賛成、反対というのじゃなくて、論議をしていただく時間は十分な保証というものはございましょうか。それは委員を選ぶ過程の中にもあるし、文部省自体のお世話を申し上げる状況もあると思うので、今の一日お一人十二分ないし十四分ぐらいの時間しかないということを含めて、開催回数といいますか、審議会日数をお考えいただいていいと思いますが、いかがでしょう。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/174
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175・森喜朗
○森国務大臣 今小川さんが御試算をされますとそういう数字になるのかもしれませんが、それぞれの分野というものもございますし、お話し合いがどういう形で進むかわかりませんけれども、短くてこれぐらいしか話せなかったというようなことでは必ずしもないだろうと思います。しかし、確かに先生のおっしゃるように二十五人という委員でもございます。二十五人になりますか、「二十五人以内」ということでございますから、その程度の規模ということになりましたならば、やはりできるだけ御論議が深まっていくように、回数とか時間とかそういうことにはやはり十分配慮をして、本当に密度の濃い議論ができるように事務当局としてもその対応をしておかなければならぬだろう、こういうふうに思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/175
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176・小川仁一
○小川(仁)委員 今までの審議会を見てみますと、多くの場合、専門委員の方々がそれぞれ諮問案その他に対して資料を用意したり、あるいは案を用意したりしてお進めになっているようでございます。今回の臨時教育審議会の委員の方々は、それをうのみにするような方はないと思いますけれども、しかし、やはり本当に、さっき議事録の話がありましたけれども、自由濶達なという御意見である限りにおいては、責任を持ってお話しなさる方々というふうに、お話をお聞きしますと、時間をとっていただきたい。なぜ申し上げるかというと、さっき言ったような専門委員の一つのサゼスチョンなり、違った言い方をすれば引き回しなりで審議がすっと行ってしまうことを恐れるからであります。
それで、この専門委員なんですが、この方々も教育基本法の精神にのっとった方々をお選びになるというふうに考えていいですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/176
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177・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 個々の委員の選任に当たりまして、先ほど大臣が御答弁しましたように、「教育基本法の精神にのつとり、」ということで判断をするということではないわけでございます。「教育基本法の精神にのつとり、」というのは、政府が教育改革を推進する場合に教育基本法にのっとって行うというのが一条の規定の趣旨でございますし、二条で、審議していただく場合に、審議全体として教育基本法の精神にのっとった審議を期待するというのが、繰り返し大臣が答弁したものでございますので、そのように御理解をいただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/177
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178・小川仁一
○小川(仁)委員 今の答弁、ちょっと私、腑に落ちないのですがね。一条では会が精神にのっとるのだ、会を構成する専門委員や何かは精神にのっとらないやつを入れるのだ、入ってもいいというふうに聞こえるんですよ。私は、会自体の性格が、教育基本法の精神にのっとって審議をするものであれば、当然審議会委員は先ほどの御答弁のとおり、そしてまた専門委員についても教育基本法の精神にのっとったというふうにお考えになる人たち、この方々が選ばれるのが当然だと思うのですが、そこの中に教育基本法の精神にのっとらない人が入る可能性があるのですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/178
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179・齊藤尚夫
○齊藤(尚)政府委員 先ほどもお答え申し上げましたけれども、審議会の審議として教育基本法にのっとった審議を期待をしているわけでございます。個々の人たちがどういう考えを持つかということで審査をするわけではございませんので、その辺、御了承いただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/179
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180・小川仁一
○小川(仁)委員 私は、審議会の委員の方々についての先ほどの答弁と専門委員についての答弁とは物の見事に食い違う、こういう感じがするのです。私は、入れ物をつくるのだということがありますから、入れ物の吟味をしているわけです。しかし、入れ物を構成するものは人であります。建物じゃありません。住んでいるところじゃありません。この審議会という入れ物を構成する場合に、審議委員というのは確かに決定権があります。その基礎になっていろいろなものをつくる専門委員、この人たちも教育基本法の精神にのっとった人、これが選ばれるのが常識だと思うので、今の答弁じゃ私、絶対納得できない。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/180
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181・森喜朗
○森国務大臣 専門委員につきましては、これもたびたび申し上げておりますように、審議会自身でいろいろと御論議をいただきました中で、専門的な部門につきまして、なおその中身といいましょうか、具体的な事柄といいましょうか、そうしたことなどについて十分な知識を持った方々に十二分に御検討いただくということで、審議会の会長が判断をしてお願いをするというものでございます。
したがいまして、その委員になる人は、先ほど小川さんから御指摘がありました審議委員のときと同様でございまして、もちろん御論議や、そしてまた教育の改革は、教育基本法にのっとって進めるということは当然のことでございますが、その資格については、やはり先ほど申し上げましたように、人格識見ということに準じていくものでございまして、いろいろなものを考えて、さっきの先生の引用から申し上げた場合に、こんな学説やこういう理論を言っているやつは、これは教育基本法に外れるのだからそんな者は選ばないだろうな、そういう御視点でさっき言われましたので、それと同様に考えまして、いろいろな考え方は、やはり我が国では思想も表現もすべてこれは自由でございますから、こんな学説をされたからこのことは排除要件だ、資格審査をして排除要件だということはとり得ないということでございまして、私から先ほど申し上げました審議委員の選び方と同様なスタンスで考えさせていただきたい、こういうふうに思います。
ただ、基本的に違うところは、やはり先ほど申し上げましたように、十二分に専門的な項目といいましょうか、そうしたことを審議会の中で議論して、会長が、そういう専門委員が必要であるという考え方で求めるということがもちろん一つ前提でございます。どうぞそういう意味で、もちろん論議をしていただくこと、そしてまた、改革の具体案を出していただくことは、教育基本法の精神というものを大事にしてお考えをいただくということは、もう当然のことでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/181
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182・小川仁一
○小川(仁)委員 ただいまの大臣答弁で考え方はわかりました。私は、選ばれる方々、それは審議委員の方でも専門委員の方でも、人格は否定いたしません。しかし、人格識見ということになりますと、私がいろいろ申し上げたように、それぞれのお考え、それぞれのお立場で、それぞれのすばらしいお考えは持っておられる。ただ、今やられようとするこの審議会の精神というものは、終始教育基本法の精神にのっとるという考え方、会自体がそういう性格ですから、そこの中に異質の者が入ってきたのでは入れ物は壊れてしまいますから、この点をただいまの大臣答弁をお聞きしながら了解をして次へ進みたいと思います。ぜひ今の点は十分な御配慮を改めてお願いをしておきます。
さて、大臣のいろいろな審議会その他、今度の審議の中で自由化という話がございました。あるいは国際化という話がありました。さっき後藤田長官からお聞きしましたから、民間活力の導入というのは、教育に対する民間活力のいわゆる学校設立その他に対する導入ではないというふうにお伺いいたしましたので、幾らか問題の臨調の考え方はわかっておりますが、例えば今民間活力の導入という形を通じながら、フリードマンが唱えたバルチャープランなどというものが盛んに言われており、そのお考えを持つことを否定をいたしませんけれども、何かしら自由に学校がつくれて、そうして生徒は来たければ来ればいいんだ、バルチャープランによると、教育券あるいは教育証券といったようなものを親に渡して、この券を提出することによって、どこの学校に入っても、一定の資格を持った教育機関で一定の規定の中で一定期間過ごせばいいんだというふうな考え方が出てまいります。
これは、公教育というものを一つの産業社会の教育市場という形でとらえられるという意味において、私はかなり疑念を持ちます。私的利益の増大のために教育市場が存在する形は、私には、私自身の経験の中からかもしれませんが、どうしても納得できないので、こういうふうな形というものは自由化というお考えの中に入っておられますかどうか、お伺いしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/182
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183・森喜朗
○森国務大臣 確かに教育論議がさまざまな形で指摘をされておりますが、その中には自由化というような議論もございます。しかし、学校の自由化という言葉はいろんな意味で多岐に用いられているということでございますので、学校の自由化ということはいろんな意味で、言葉はよくありませんが、あいまいだという感じもいたします。そういう意味では、私の今の立場から、自由化ということについての言葉の意味、これにつきましてこの際言及することにつきましては差し控えたいというふうに考えます。
ただ、先生も十分御承知のとおり、またそのことを念頭に置いてのお話でございますが、学校は教育基本法第六条で定められているところでございますので、そういう立場からまいりましても、学校というものは地方の公共団体とともに学校法人が認められておりまして、その学校法人の中には、当然民間の活力ということも生かされているわけでございます。したがいまして、今先生が学校の自由化という立場で議論をするのかという、そういう立場は私どもはとる気持ちはございません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/183
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184・小川仁一
○小川(仁)委員 中高一貫教育というのがうたわれております。現在の教育体系、特に中高段階を見てみますと、中高一貫教育というのは受験専用の高校になっております。
きのうの公聴会の中で、私学が二極分解しておるのだ、片や灘とかその他のように受験体制、片や公立高校の補助機関としての私立学校、こういうふうな状態になっているということをおっしゃっていますが、私の県を考えてみましても、学区の問題その他を含めて、中高一貫というのは公立高校では私はほとんど不可能だと思うのです。そこには新たな選抜という状況が入らなければ、公立高校では中高一貫という教育はできないと思いますが、そういう体制で、公立の中で中高一貫というのをお考えになったことはございますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/184
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185・森喜朗
○森国務大臣 公立につきまして検討をしてみたらという考え方を一応中教審の中で、先般の答申で考えているようでございますが、文部省といたしましてそのことを具体的に実施をしたり検討はいたしていないわけでございます。今日本で行われている中高一貫というのは、先生の御指摘のとおり組み合わせは上下分かれておりますが、教育の中身といいましょうかカリキュラムといいましょうか、そういうところにいろいろと工夫しているというのが現実の一貫教育の姿だろうというふうに私どもは承知をいたしております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/185
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186・小川仁一
○小川(仁)委員 ただ、さっきの教育の自由化、民間活力の導入、バルチャープランなんというのを聞いておりますと、私立学校に民間が大きな投資をして、中高一貫したエリート高校をつくり出していくんじゃないかというふうな感じがするわけであります。私の誤解であればいいのですけれども、そういう点やってまいりますというと、実は自由化という名前の最も不自由な状態、一定のエリートだけが入る学校が中高一貫の受験高として存在するという結果になりそうな感じが現在の状況の中でするので、この点はひとつ御留意を願いたいと思います。
なお、自由化問題について、大臣、ちょっとこれを見ていただきたいのです。——これは現在日本にある高等学校の写真でございますが、ごらんになったら御感想をお聞きしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/186
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187・森喜朗
○森国務大臣 これ、どこの学校かわかりませんが、写真のできぐあいから見ると、何か写真をまた写真で撮ったというような感じで、古いような感じもいたしますが、もし先生がおっしゃるように今ある学校の写真だということでございますと、かなり規律正しく厳しいことをやっておられるな、そんな感想を持ちます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/187
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188・小川仁一
○小川(仁)委員 御指摘のとおり撮った写真を再版したものでございます。ただこれ、剣は使っておりませんけれども、棒を使っております。指揮棒のようであります。私、かつて中学校のころはこういうふうに剣を持って分列行進をいたしたものです。こういう学校が現にあるわけです。そしてそこの中に、例えばクラブ活動で張っております短冊の歌にこういうのが一つあります。御紹介します。「この命捧げるものは大君と大和の国とそして父母なり」、こういう短冊があるんですね。この軍事教練的な——軍事教練だと思いません。小銃は持っていませんから、剣も持っていませんから。それとこういう歌。さらに、ここに神社にお参りをしている写真があるわけであります。これは学校の名前を余り言いたくないのですけれども、こうなってしまいますと言わざるを得ないから申し上げますが、静岡県にあります私立の高校でございます。
この学校の校歌をやはりプリントしてまいりましたので御紹介を申し上げますと、二番であります。ちょっとこれもごらんをいただきたいと思うのですが、「八紘一宇」という言葉が二番に入っているのです。ただし、ハッコウイチウとは読んでおりません。アメノシタとかイエとかというふうに読んでおるわけでございますが、そういう校歌でございます。(「すばらしい」と呼ぶ者あり)若い方々はかつての軍事教練を御存じないからそういうことをおっしゃると思いますが、大臣、こういうのがあるんですよ。どうお考えになりますか。自由化という課題で、こういう状況が現在の高校の中で文部省の規格なり教育規定の中に存在すると考えていいのですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/188
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189・森喜朗
○森国務大臣 御指摘をいただきました学校について申し上げるということではございませんが、公の教育を担います高等学校におきましては、軍国主義的な教育が行われるようなことがあってはならないというふうに考えます。しかし、今その写真等を拝見いたしまして、先生から御指摘がありましたように、それが実際には剣とか銃とかということではないわけでありまして、規律を重んじ、そして規律正しくそうした体験をすること、もちろん軍国主義的な基盤に立つということになれば、これは議論とは別ではございましょうが、そうした規律あるいはみんなと一緒に寝起きをともにして行動する、あるいはそうした整列をするということは、教育の一つの基本がしっかりいたしておりましたならば、青少年期の発達時期にも応じますけれども、そういう体験が全くあってはならぬという考え方は、私自身も持っておりません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/189
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190・小川仁一
○小川(仁)委員 幾つかお示ししましたからいいんです。これは全寮制でございますから、朝晩神社に礼拝をするわけであります。校歌は、二番にありますように「八紘一宇」であります。そして、確かに剣と銃は持っておりません。しかし、その服装と持っている指揮棒、これは昔の軍人が剣をささえたときと同じ剣の姿勢でございます。規律正しいということだけでこれが承知できるか。朝夕神社に強制的に参拝すること自体、既に宗教教育という課題について常識をちょっと逸脱しているのじゃないか。全寮制において朝晩必ずそこの神社に——それでその神社の設立の趣意書なんというのは、幾つも持っておりますけれども、時間がありませんから申し上げませんが、私はどう考えてもこれは行き過ぎだと思うのです、あえて学校の名前を出しておりませんけれども。
ですから、こういうところに文部省が設立許可を与えて、自由に昔と同じような閲兵分列のような行進をやらせ、そして校歌では「八紘一宇」。ハッコウイチウとは言いませんが、そういう言葉を使う。しかも、女の子の寮歌になりますと、「皇国(すめらみくに)」という言葉を使ったりした状況があるわけでございます。これはそれでいいんだというふうに軽くお考えになりますか、それとも宗教教育という観点あるいは軍国主義という観点から、文部省の現在の教育指導方針として非常に問題があるというふうにお考えになりますか。
ここは非常に大事な点です。今後教育の自由化あるいは私学がどんどん確立されてこういう形が存在していくということになると、大変なことになります。今でもミッションスクールはあります。しかし、ミッションスクールは礼拝を強要しておりません。また、幾つか男子だけの学校もあります。応援団の厳しいところもある。しかし、帽子をかぶって、ああいう軍人と同じような制服を着て、剣をここへ持って分列行進をするというほどの学校にも、私はお目にかかったことはないのです。これだけは特異だと思うのですが、十分調査をし、文部省として重大な関心をお持ちになるかどうかということをこの際はっきりさせておきたいと思うので、あえて御質問いたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/190
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191・高石邦男
○高石政府委員 私立学校は公立学校と違いまして、仏教やキリスト教などの特定の宗教の教義を信仰の対象として教え、儀式を行うことができるわけでございます。したがいまして、御指摘の学校がそういうような形の教育を行うことは、法律上許されるわけでございます。
ただ、憲法の保障する信教の自由の原則に照らして、信仰や儀式への参加を強制するというような形は許されないという解釈でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/191
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192・小川仁一
○小川(仁)委員 許されなかったら、具体的な事実を出したから、どういうふうに措置されますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/192
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193・高石邦男
○高石政府委員 写真だけでは、それを全体的にどういうプログラムでどういうふうにやっているかということがわからないので、ここで断定申し上げかねるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/193
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194・小川仁一
○小川(仁)委員 私は、文教委員会ならまだまだ突っ込むこともあると思うのです。しかし、きょうはそういう委員会でもありませんから、後で文教委員会で問題にしていただくことにして、あえて学校名は伏せます。後で文部省には、こういう学校だという名前は申し上げます。
それで、ここにある問題点をはっきり指摘しておきます。
一つは、宗教教育であります。確かに仏教もキリスト教も学校をおつくりになっています。しかし、礼拝は強要しておりません。朝起きたら全員がこの神社の前へ行って、さっきお見せしたように礼拝するのです。その時間の規則も、何時に起きて何時に何をするということも、写真で全部記録にとどめております。したがって、これは宗教教育上非常に大きな問題になる。教育基本法の中でも、宗教教育というものの考え方を、一つの宗教でもってすべての子供を律しろというふうには言っていないはずであります。教育基本法の違反でもあります。
二つ目は、軍国主義であります。八紘一宇という考え方は、日本のこの民主主義国家の中では議会において論議もされて、否定されているはずでございます。規律正しいということとそのこととははっきり区別して行わなければならないものだと私は思います。
したがって、この二点を文部省に指摘しておきますから、こういう形の教育というものに対する御見解は私にもお聞かせ願いたいし、後で文教委員会でも十分に御討議願いたいと思います。この問題点を二つ、指摘しておきます。
同時に、民間活力の導入というものがこういう私学という形で高校その他がつくり上げられて、これが許されるなら他の宗教のミッションスクール全部も許されるわけでございますし、場合によっては教師の個人的宗教観によって子供にそういうことを強要することが可能になることも考えられますので、この自由化問題について、審議会におかけになるかどうかは別として、文部省自身よほどしっかり考え方として、戒心という言い方は失礼に当たりますが、十分な御配慮と今後の御指導をぜひお願いしておきたいと思いますので、大臣のお考えをお聞きしておきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/194
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195・森喜朗
○森国務大臣 先ほども申し上げましたが、私どもは学校の自由化という考え方は持っておりません。自由化という言葉はいろいろ広義に理解されますので、今の立場でそれがどのような意味をするかというようなことについては、この際、この場所でございますので、私から言及は差し控えます。
ただ、学校は多様なニーズに応じていくことも大事でございますし、そういう意味で幅広く、先ほども御議論の中にございましたが、何か特定のエリートの教育にだけ入って、そこに行くことがあたかも社会で評価されるということであってはならない、いろいろな乗り物があって社会に出ていく。さっきたまたま市川さんが議論にされておりましたが、ちょうど川の水と同じだ。まさに川は大海に流れる。大海を社会だと考えれば、社会に出ていくその道のりはいろいろな形があるだろうと思いますが、出てからの評価というのは多様でなければならぬ。
そういう意味で、制度としては多様化の形が私どもとしてはよろしいのではないかという考え方は持っておりますが、それも先生の冒頭のお話にもございましたように、まさしく教育基本法第六条、この教育基本法を大事に守っていくということが私どもの教育改革の一番大事な基本でございますから、先生が御心配になりましたような点については、そのことについては十分踏まえながら教育改革を進めていきたい、こういうふうに考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/195
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196・小川仁一
○小川(仁)委員 続いて、大臣も含めて中曽根総理も、国際化ということを非常に言われております。私も、国際化という問題は大変大事だと思います。ただ、こうお話を聞いているのが私の誤解かどうかわかりませんが、教育論をやるというと西欧にだけ目を向けて、英語の語学教育をつけろというふうなお話だけのようでございますが、私は、日本の存在というものを考えると、アジアというものを国際化の対象の中に考えていく必要があるだろう。中曽根総理がおっしゃったような気がしますが、中国においでになったら、子供たちの目が輝いておった。まだアジアに子供たちの目が輝いている国が幾つもあるわけでございます。ですから、アジアというものをうんと大事にしていただきたい。英語だけが必修科目じゃない。中国語が教育課程の中にどうして入り切れないのか。十億の国民を持ち、そして日本と最も経済的にもあるいは将来も宿命的に共存共栄をしなければならないような中国並びにアジアというものに対しての国際化というものを具体的にどのようにお考えか、お考えを承りたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/196
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197・森喜朗
○森国務大臣 社会の変化という中で先ほど嶋崎さんからも御指摘がございました国際化という問題については、二十一世紀というものをとらえていけば当然考えておかなければならない社会の大きな変化の条件の一つでございます。今具体的に国際化に対応した学校の諸制度はどのようにあるべきかということは、これは別に逃げるという意味ではなくて、審議会御自身で当然お考えいただく大事なポイントであるというふうに私は申し上げております。
ただ、今私の立場から申し上げれば、二十一世紀に至るまでもなく、国際社会の中におきます日本の役割は極めて大きい。そういう意味では、まさに我が国は平和国家を世界に宣言をいたしております。そういう中で経済も大きな力を得て、国際的な責任も大変大きいわけでありますから、これから巣立っていくであろう若者たちが国際社会の中でどのように役割や責任を果たしていくのか、あるいは国際社会の中でどのように信頼を得るのか、そういう日本人であるのかというふうなことが、当然教育の一つの視点でなければならぬと考えます。
またもう一面は、国際化というのは、日本の教育が世界平和に貢献をしていくということであるならば、今日までの日本の教育は、日本人がまさしく教育を受けて世界に雄飛をしていく、まさに先進諸国に追いつき追い越せという一つの目標があったのが日本の教育でありますが、これからの日本の教育は国際社会の中でどのように役立っていくのか、あるいは国際人の皆さんに対して日本の教育はどのような役割を果たしていくのか。小さな視点から見れば子女教育ということもございましょう。留学生ということもございます。先般、参議院の予算委員会でいわゆる留学生問題について御指摘がございました際も、先生が今指摘の中でお話をされましたように、私はアジアを中心に国際社会というものを考えていくべきだというふうな答弁も申し上げておきました。
先生の御意見でございましたいわゆる語学をどのように扱うかというようなことについては、これは今後の教育の中身の問題でございますので、幅広くいろいろな外国語を学ぶということ、特にまた日本にとって近隣諸国等の語学というものが一番大事だと私どもは考えております。余計なことかもしれませんが、私は大学で、第二外国語で中国語を学びました。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/197
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198・小川仁一
○小川(仁)委員 中国語を学ばれた方だそうでございますが、これは大学でございまして、中高には英語がある。第二外国語というのは中高にはありませんけれども、しかし、あれは選択でございます。
そういう形の中で日本の将来を考えたときに、国際化の視点の中でアジアを非常に大事に考えていただきたい、私はこう思うからです。したがって、先日、同僚議員が行いました例えば教科書問題につきましても、いろいろ中国からかつて批判もありました。今後これは心して当たっていただきたい。今ここで私が幾つかの例示を申し上げれば問題はあるのですけれども、あえて申し上げませんが、心して当たっていただきたいということが第一。
それから、例えば文部省は教員の海外研修というものを行っております。アジアは入っておらないような気もしましたが、教育技術その他からいったら、確かに日本の方は進んでおります。しかし、日本の一つの文化とか現在に至るいろいろなものを含めて文化遺産等を考えると、中国に研修旅行にやったって、これは大きな力になるだろうというようなことも私は考えます。今ここで中国にやれというお約束をいただくつもりはありませんけれども、何かお話だと、西欧には追いつき追い越せで追い越してしまった、しかし、何千年の歴史を持つあの文化には、まだ追いつこうにも追いつき得ない歴史的な重みがあるわけでございます。
同時に、例えばアジアに国交を回復していない国があるわけでございます。教科書の中で、国際化の視点の中から、なぜこの国と国交を回復していないかというふうなことをどんなふうに子供たちに教えればいいのかということは、初中局長さん、おわかりでございましたら御答弁を願いたい。政治的な課題というだけでは済まされない、子供の疑問に対する答えがあるからだと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/198
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199・高石邦男
○高石政府委員 私も専門的に詳しく説明する能力はございませんけれども、ただ一般的に、教科書に書かれておりますのは、どういう事情下にあるかという事実を教科書に書いているということでございます。したがいまして、その事実をどういう形でそれぞれの教師が取り上げるかということは、取り上げ方は非常に難しいと思いますが、子供たちが客観的に公正にわかるような形で教えてもらいたいと思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/199
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200・小川仁一
○小川(仁)委員 その御答弁で初中局長はいたし方ないと思いますが、私は、今までの幾つかの教科書の検定過程を見ながら、幾つもの疑問を持っております。さっき言ったように、あえてそれは指摘いたしませんが、国際化を考えるときに、アジアが一番近い。近い国々との友好と理解、そういうものを教育の中では非常に大事にしていただきたい、こういう気持ちで先ほど来の質問をしているというふうに御理解願いたいと思います。
さて、教育という場合に、制度をいじることは確かに大事でございますけれども、教育という問題について言えば、制度をいじることよりも、やはり親や教師が子供の心の中にどう切り込んでいくかという先ほどの市川さんの言葉、私は非常に大事だと思っているわけでございます。当然のことながら、今問題を持っている子供、登校拒否をしている子供、その子供に教師自身が切り込んでいかないで、教育は成功しません。そこから教育が始まるとさえ言っていいと思います。
そういう立場で子供の生活あるいは教えられている子供たちのいろんなものを見てみますと、実はもう時間がなくなりましたから簡単に言いますけれども、例えば学習指導要領で拘束性を持って漢字の配当表というのがございます。これは学習指導要領で拘束性を持っているわけです。これを見てみまして、これじゃ教育が子供から嫌われるのは無理ないと思った。
子供がエレベーターに乗ります。ほとんどの子供は「開」という字と「閉」という字を知っております。しかし、「開」と「閉」がどういう格好で国語の教科書に出ているかというと、これがまた、もうおわかりだと思いますが、「閉」というのは小学校の六年生で習うのです。「開」というのは何年生かおわかりですか、初中局長。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/200
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201・高石邦男
○高石政府委員 三年生で教えることになっています。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/201
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202・小川仁一
○小川(仁)委員 なぜそうなるのでしょう。私は、教育と生活というものが密着していないと思うのですよ。エレベーターに乗っている子供が「開」と「閉」を知らないはずはないですよ。今みんな知っていますよ。情報化の時代です。そのとき、なぜ三年生と六年生に分かれなければならないか。
これはおわかりだから、意地悪なことは言わないであえて言いますけれども、例えば二年生で「父」「母」「弟」「妹」は教えます。「兄」は三年生にならないと教えないのです。おかしいと思いませんか。それで、子供たちの生活に最も身近なものは学校給食です。牛乳が飲まれています。牛乳の「乳」という字は小学校の六年生で教えます。同じ飲む物でも、お酒の「酒」というのは小学校の三年生で教える。これじゃ非行化なんといったって、どうにもならぬみたいな感じさえするのです。御飯の「飯」というのが四年生です。さっき兄弟の話をしましたが、「姉」が四年生です。「妹」が二年生で、「姉」が四年生でなければ漢字が出てこない。
こういうところに、何か文部省の指導要領なるものが、この一例に見られるように、実は生活からひどく遊離しているのじゃないか。今の子供たちはテレビも見ています。非常に情報が多いのです。また、お父さん、お母さんと話をしていて、兄貴の「兄」という字はまだ習っていない、「弟」という字は習ったというふうな話じゃ、これはどうにもならぬような気がするのですよ。指導要領、こんなものに拘束性を持たせるから間違いが出てくる。拘束性を持たせなければいいんだ。そうすれば教師は、「父」を教え、「母」を教え、「弟」「妹」を教えたときに「兄」を教えるのですよ。お酒の「酒」は後に教えて、牛乳の「乳」を先に教えるのですよ。
こういう生活からかけ離れたものをつくっておいて、指導要領の中の漢字配当表だなんという格好で現場を押しつけるのを画一教育と言います。画一教育を打破して、これからの新しい二十一世紀をつくり出そうとするときには、こんなのは一々臨時教育審議会にかけませんから、まず隗より改めよということがありますが、文部省自身のお役人の頭を切りかえていただきたい。いかがですか大臣、こういうふうなのをお聞きになってちょっとがっくりされたと思いますが、内部を改めますぐらいのお話をいただけないでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/202
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203・森喜朗
○森国務大臣 私は、基本的には漢字はできるだけ大事にしたいという個人的な考えなんです。
どうも漢字というのは、小川先生には理解をしていただけると思いますが、私なんかは小学校二年のときに終戦になりましたから、それまで随分いろいろな漢字をある程度覚えたのです。小学校へ入ってから片仮名で途中から平仮名になるのですが、むしろ平仮名を学校で出る前に覚えました。何で覚えたかというと、「のらくろ」が読みたかったからですね。「のらくろ」は平仮名で書いてあった。「冒険ダン吉」は片仮名で書いてありました。ですから、そういう形で字は結構覚えたものでありますが、どうも字の制限というのは非常に多過ぎるような感じがして、本当は私自身はもっと漢字というのは、何といいましょうか、表意、表音というようなとらえ方もございますが、表意という意味から見ても、文字としては非常に格調のあるものだ、非常に重いものだというような感じが私はいたしておりました。そういう意味で漢字を大事にしたい、こう考えます。
ただ、基本的には子供たちにできるだけ負担にならないようにという考え方が一つあるのだろうと思います。たしか参議院の文教委員会で、党を申し上げるとおしかりをいただくから申し上げませんが、なぜこんなに字をたくさん教えるのだ、なぜ漢字ばかりふやすんだと逆におしかりをいただいたこともございました。ですからそういう意味では、もちろん漢字をどうするかというのは私どもではなくて、国語審議会の幅広いいろいろな角度の、我々ともっと違ったそれぞれ学問的な見地の先生方が御議論をなさって定められるということでございます。しかし、確かに先生が御指摘をなさいましたような点は、私は漢字をもっと大事にする、漢字をもっと子供たちがしっかり覚えてほしい、それは単に文字を覚えるということだけではなくて、漢字には意味がある、そういう意味から漢字を重要視したいなという気持ちがございます。
国際化になればなるほど、外国の言葉を覚えるより以上に日本の言葉を大事に把握してほいしなという感じを私は持っておりますので、先生の御疑念の点は十分理解をいたしますが、今の段階でそれをこういうふうに改めるというようなことは私の立場では申し上げられないと思いますので、十分に留意をして事務当局を指導していきたい、こう思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/203
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204・小川仁一
○小川(仁)委員 時間がなくなりましたけれども、もう少しお許し願いたいと思います。
それで、私がそれを言っているのは、国語審議会というふうな人たちが決めるから間違いが起きる。むしろ、子供の日常生活を皆さんが見ておられて漢字を教える、あるいは数学を教えるということが、非常に大事なこれからの教育じゃないかと思うのですよ。子供が不思議に思いますよ。牛乳の「乳」は六年生で、お酒の「酒」は三年生だと言ったら、漢字自体の問題ではなくて、生活の問題としてやはり問題が出てきます。こういう配慮は、審議会に任せたら、この字はこうだとかあの字はああだとかいう、むしろ今度は言語学といいますか、そういう形から出てくる。教育というものはそんなものじゃないと思うのです。
私は、今度の臨時教育審議会についても同じだと思うのです。さっき市川先生がおっしゃったように、私を含め、私よりも年配の者が出てまいりますと、ワープロ一つたたくことも知らないで二十一世紀の教育を語ったりすることが出てくるわけなんです。ですから、もっと生活に密着した人を、今子供の生活をよく知っている人を、もし審議会ができたとしたらこういう人たちは十二分に配慮の対象にならなければ、今の漢字配当表と同じような過ちを犯していくんじゃないか、こういうことを恐れるからであります。
もう一つの観点は、実は前にも申し上げたことがありますけれども、文部省のお役人は教育現場を全然知らない。ほかの省庁の方々は、例えば大蔵省の方でも税務署長をなさる。農林省の方も、下まで行って、一年に一回ぐらいは米検査の場へ立ち会ったりする。文部省の方は全然教育現場を知らない。知らないから子供の心がわからない。子供の心がわからないからこういう指導要領、漢字配当表が出てくるし、同時に、制度だけを中心にして教育の中身、子供の中にどう切り込んでいくかということについて、失礼な言い方をしますが、非常に疎いような感じがする。やはり現場を体験し、本当に問題児とぱしっとぶつかってみて、初めて教育というものがわかる。
こういう観点からするならば、先ほどは教員の実習問題が問題になっておりましたが、文部省のお役人は、実習期間、ひとつ学校へ半年ぐらいお出かけになって、本当に子供とぶつかってみませんか。こういうことが文教政策を拡大し、発展させる非常に大事な方法だと考えるから、あえて御提案をする次第です。いかがでございましょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/204
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205・森喜朗
○森国務大臣 おしかりをいただくかもしれませんが、先ほど嶋崎さんの御質問の際にも申し上げましたけれども、学校の直接の指導の責任、これはもちろん現場であります校長と教職員が持っておられるわけでありますが、同時に、運営の責任というのは市町村あるいは県の教育委員会がやっておりまして、私の知る範囲では、恐らく教育委員会等のそれぞれの立場の方々が学校の現場に出て、学校の現実というものも見ながら、また教員になりながら勉強しておられるというふうな面も、私の選挙区などの例から見ましても承知をいたしております。
もちろん、だからといって文部省は現場を全く知らないでいいというものではないというふうに思います。当然いろいろな意味で勉強も進めていかなければなりませんが、文部省としては、現在の教育の姿勢については、あくまでも指導と助言をしていくということでございます。しかし、先生から御指摘をいただきました点なども、これから文部省としても十分勉強していかなければならぬ課題はたくさんあると思います。そういう意味で、画一的にならないように、多様的な教育のあり方というものを十分今後御議論いただき、御検討いただきたいという面もそういうところに盛られているというふうに私は理解をしていただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/205
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206・小川仁一
○小川(仁)委員 最後に一言。
今私たちの課題は、どうしたら子供たちや今の若い人たちにやる気を起こさせるかということなんです。これに尽きると思うのです。どうしたら今の子供たちや若い人たちにやる気を起こさせるか。それは決して勉強でなくてもいいです。スポーツでもいいです。大臣がおっしゃる社会奉仕でもいいです。問題は、いかにやる気を起こさせるかということについて、私たちは今後あらゆる場所で審議をしなければならない、これが一番です。単なる制度いじりでは教育改革はできません。やはり人間の、子供たちの心に深く分け入って討議を進める中で、どうしたら子供たちがやる気になるかということが出てくるような気がします。
この命題を抱えながら文部省の皆さんは懸命におやりになると思いますが、私は、最後に申し上げました、どうしたらやる気になるか、やる気を起こさせるかということをぜひ十分お考えおきいただきたい、こういうことを申し上げて、実は申し上げたいことはまだいっぱいあるのですけれども、時間を過ぎましたので終わらせていただきます。
どうも失礼しました。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/206
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207・片岡清一
○片岡委員長 この際、暫時休憩いたします。
午後六時三十三分休憩
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午後七時三分開議発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/207
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208・片岡清一
○片岡委員長 休憩前に引き続き会議を開きます。
この際、連合審査会開会に関する件についてお諮りいたします。
本案につきまして、文教委員会から連合審査会開会の申し入れがありました。これを受諾するに御異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/208
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209・片岡清一
○片岡委員長 御異議なしと認めます。よって、さよう決しました。
なお、連合審査会の開会日時につきましては、明六日午後二時から開会いたしますので、御了承願います。
次回は、来る十日火曜日午前十時理事会、午前十時三十分委員会を開会することとし、本日は、これにて散会いたします。
午後七時四分散会
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〔本号(その一)参照〕
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派遣委員の大阪府における意見聴取に関する記録
一、期日
昭和五十九年七月四日(水)
二、場所
大阪赤十字会館
三、意見を聴取した問題
臨時教育審議会設置法案(内閣提出)について
四、出席者
(1) 派遣委員
座長 片岡 清一君
池田 行彦君 戸塚 進也君
深谷 隆司君 宮下 創平君
小川 仁一君 松浦 利尚君
市川 雄一君 和田 一仁君
柴田 睦夫君
(2) 現地参加委員
奥田 幹生君 中山 正暉君
二階 俊博君 左近 正男君
和田 貞夫君 矢追 秀彦君
中野 寛成君 経塚 幸夫君
(3) 政府側出席者
文部大臣官房総
務審議官
兼内閣審議官 齊藤 尚夫君
文部大臣官房総
務課長 川村 恒明君
文部大臣官房政
策課長 野崎 弘君
(4) 意見陳述者
芦屋大学教授 小笠原 暁君
関西大学教授 鈴木 祥藏君
大阪大学人間科
学部助教授・文
学博士 梶田 叡一君
京都大学法学部
教授 勝田吉太郎君
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午前十時五分開議発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/209
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210・片岡清一
○片岡座長 これより会議を開きます。
私は、衆議院内閣委員長片岡清一でございます。
私がこの会議の座長を務めますので、よろしくお願いをいたします。
この際、私から、派遣委員を代表して、一言ごあいさつを申し上げます。
皆様御承知のとおり、ただいま内閣委員会におきましては、社会の変化及び文化の発展に対応する教育の実現の緊要性にかんがみまして、教育の目的の達成に資するための臨時教育審議会設置法案の審査を行っているところであります。
委員会といたしましては、本法案の審査に当たりまして、広く国民各層からの御意見を聴取するため、御当地におきまして、この会議を催し、教育問題に御造詣の深い方々から忌憚のない御意見をお伺いすることにいたした次第でございます。よろしくお願いいたします。
御意見をお述べいただく方々には、御多忙中にもかかわりませず御出席を賜りまして、まことにありがとうございました。厚くお礼を申し上げます。
まず、会議の運営について申し上げます。
会議の議事は、すべて衆議院における委員会運営についての議事規則及び手続に準拠して行い、議事の整理、秩序の保持は、座長であります私が行うことといたします。御発言をなさる方々は、必ず座長の許可を得て発言していただきたいと存じます。
なお、この会議におきましては、御意見を陳述される方々は、委員に対しての質疑はできないことになっておりますので、あらかじめ御了承をお願いいたします。
次に、会議の順序につきまして申し上げます。
最初に、意見陳述者各位から御意見をそれぞれ十分程度順次お述べいただいた後、委員より質疑を行うことになっておりますので、よろしくお願いを申し上げます。
次に、本日の出席委員及び意見陳述者の御紹介を申し上げます。
出席委員は、自由民主党・新自由国民連合の池田行彦君、戸塚進也君、深谷隆司君、宮下創平君、奥田幹生君、中山正暉君、二階俊博君、日本社会党・護憲共同の小川仁一君、松浦利尚君、左近正男君、和田貞夫君、公明党・国民会議の市川雄一君、矢追秀彦君、民社党・国民連合の和田一仁君、中野寛成君、日本共産党・革新共同の柴田睦夫君、経塚幸夫君、以上であります。
次に、御意見をお述べいただく方々を御紹介申し上げます。
芦屋大学教授小笠原暁君、関西大学教授鈴木祥藏君、大阪大学人間科学部助教授・文学博士梶田叡一君、京都大学法学部教授勝田吉太郎君、以上の方々でございます。
それでは、これより御陳述をいただきますが、御発言は座ったままで結構でございます。
まず最初に、小笠原暁君からお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/210
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211・小笠原暁
○小笠原暁君 それでは、意見を言わしていただきます。
この教育改革という問題が話題になりましてから、幾つかの通信社あるいはまた報道機関、調査機関が、国民に対して、教育に関してどう思うかという各種の調査をいたしました。その結果を見てみますと、共通して言えますことは、五十数%の国民の方々が、現在のままでは教育はだめだ、何とかこれを変えなくてはいけない、そういう意識を持っていらっしゃるということ。そして、何が一番問題になっているのかという設問に対しまして、非行あるいは校内暴力、それから道徳教育が不十分である、さらにまた入試制度に問題がある、先生の質をもっと向上しなくちゃいけない等々、問題点を指摘されているわけでございます。したがいまして、教育の問題点のキーワードと申しますか、主たる点は、今申しましたように、非行、校内暴力あるいは落ちこぼれ、入試制度、教師の質、道徳教育、こういったものが取り上げられようかと思うわけでございます。
そういったことをめぐりまして、子供の親にとりましてもあるいは本人にとりましても一番問題になることは、学校教育の中で落ちこぼれになることだろうと思うわけでございます。ここで問題になりますのは、少なくとも義務教育あるいは高等学校、大学を通じまして、一度落ちこぼれるとなかなかはい上がれない、永遠に落ちこぼれのままである、こういうことが他の問題にも随分大きな影響を投げかけているような気がしてならないわけでございます。すなわち、落ちこぼれてしまえば敗者復活ということがなかなかやりにくい、そのことから子供たちにフラストレーションが起こる、それが非行あるいは校内暴力、そして子供たちの無気力につながっていくんじゃないかというふうに思うわけであります。したがって、一度落ちこぼれても、もう一回本人がやる気を出せば敗者復活ができるような制度の改変ということが必要ではないかと思います。
例えば、中学校を出る、高校に進学する気をなくしてしまって、そして職業訓練校へ行った、あるいは専修学校へ行った。それでも、またもう一回勉強してやろうといえば、そういった職業訓練校なり専修学校から高等学校のある学年あるいは大学へ進学が可能になる、あるいはまた、各省が所管する各種の大学令によらない大学校等がありますけれども、ここから大学院に進学ができる、あるいは大学の学部の方に進学ができる、こういうふうな複線型と申しますか、そういう敗者復活が可能な進学制度というのを考えると、大分この落ちこぼれの問題が違ってくるのではないかというふうに思うわけでございます。
それともう一つ、第二点といたしまして、落ちこぼれということを考えてみますと、これは主として基礎的な教科、すなわち算数、数学あるいは国語、こういったものにおける落ちこぼれというのが多いようでございます。したがいまして、教育課程の中で基礎教科をもっと充実すべきではないだろうか。今の小中学校の教科というのを見ておりますと、余りにもあれもこれもとたくさんのものを教え過ぎているのじゃないか。もっと基礎教科に絞って、これをじっくりと時間をかけて、そして落ちこぼれのないように教えてやる、それが必要ではないかというふうに思うわけでございます。しかしながら、子供たちというのはそれこそ十人十色で、その伸展、学力のつき方というものには差があるわけであります。したがいまして、彼らの能力に応じた教育というものをきめ細かくやっていく、すなわち多様で弾力的な教育活動というものがどうしても必要だというふうに思うわけであります。
そうした中で、よくできる子はどんどん伸ばしてやる。特に数学の場合ですと、もう本当に仕事ができるのが大体二十五歳まで、こう言われているわけでありますから、いわゆる飛び級等でどんどん進ましてやる、そして世界的な仕事をしてもらうような人も養成しなければいけない、こういうふうに思います。
さらにまた、こういった中で、今公立、例えば県立、府立というようなところで中高一貫の教育をしようと思いましても、制度上いろいろ大変難しいわけでございますけれども、公立においても中高一貫教育ができるような制度の改変というものも、こういった教育改革にとって必要じゃないかというふうに思います。
それから第三に指摘したいことは、今まで日本は先進国に追いつけ追い越せということで一生懸命やってまいりました。したがって、教育もそれに合った教育と申しますか、要するに先進国で見出されたいろいろな事実、制度あるいはまた発見された事柄、科学技術、こういったことを教えてもらって覚えるいわゆるティーチ・ラーン、わかっていることを教える、そしてそれを覚えるというティーチ・ラーン型の教育であったわけであります。しかし、日本がここまで進んでまいりますと、もう自分たちで新しいものをクリエートしていかなければいけない。自分たちの頭で新しいものを生み出していかなければいけない。こういうことになってまいりますと、もちろんティーチ・ラーン型の、既成のいろいろな知識を覚えるということも必要でありますけれども、同時に、自分の頭で考える、新しいものを生み出す、そういうようなエデュケート・スタディー型の教育というものもこれから大いに取り入れていかなくてはいけないのではないか、こういうふうに思います。
それから、第四点といたしまして、まさに現代は国際化時代でございます。そして日本人の九四%以上が高校に進学する。ということは、少なくとも六年間英語の教育を受けているはずであります。ところが、六年間英語の教育を受けても、しゃべれる日本人がほとんどいない。これは今の語学教育にかなりの問題があるのじゃなかろうか。今や英語というのは、単に英語ではなくてインターナショナルな言語だというふうに私は考えます。すなわち、我々の考え方を外国の人たちにちゃんと説明ができる、そして相手側を説得できる、そういった語学力が必要であると同時に、相手側がしゃべることも十分受け取って、それに対していろいろ議論をしていく、そして主張すべきは主張する、そういった語学力がこれからの日本人には要求される。そういった意味で、語学教育を変えていかなければいけないというふうに思うわけでございます。今外国から何人かの、かなり多くの語学の教師が、日本の公立の中学校あるいは高等学校等にも、私立はもちろんでございますけれども、参っております。しかし、これはあくまでも補助教員としての形であります。すなわち、日本人の語学の教師がいて、その指導のもとで外国人の教師が教える。しかし、見ておりますと、相当教育力も持っております。やはりああいうネーティブスピーカーというものにもう少したくさん日本に来てもらいまして、こういった国際化時代の語学教育をもっと拡張していく必要があるのじゃなかろうか、これが第四点として思うことでございます。
それから、第五点といたしまして、今やまさに高齢化時代、そして余暇時代になってまいりました。人間のライフサイクルというものが全く変わってしまう。かつての人生五十年が八十年になっている。こうなりますと、延びた寿命あるいはできてきた余暇というものを有意義に過ごす、そしてそこの中から生きがいを見出す、そういうようなことの一助としての生涯教育というのが社会的に非常に大きな問題だろうと思うわけでございます。
そういった中で、やはり学校というものがどんどん社会に開かれていかなければいけない。特に大学あるいは大学院ということになりますと、まさにリカレントエデュケーションというような意味からいいましても、これだけ科学技術の進歩の発達が速い昨今でございますだけに、一回大学で習った知識、科学技術、こういったものの陳腐化が非常に速い、そうするとまた何回でも大学へ戻って新しいものを吸収する、そういうようなリカレントな教育というものもやりやすいような形で大学の受け入れ態勢を考えていかなければいけないのじゃないか、あるいはまた、その他の社会教育の充実というものも考えていかなければいけないのじゃないか、こういうふうに思います。
最後に、教員養成の問題でございますけれども、教員の社会というのを見ておりますと、ほとんどが学校社会しか知らない先生方の集まりでございます。すなわち、教員養成の課程を卒業するとそのまま学校へ入られる、そしてその日から先生になられる。こういうことになりますと、つき合う社会というのが主として学校の中になってしまう、あるいはまた父兄ということになってしまう。もちろん、そういう先生方も大事でございますけれども、同時に、世の中でいろいろな仕事をしてきた、しかし、私は教育を本気になってやってやろう、こういう三十代、四十代というような中年になってから教師を志す方々も数多くおられるわけでございます。こういった人たちが教師になりやすいような門戸を開くということにいたしますと、社会の常識というものがもっと教員社会の中に浸透していく、そしてそれがお互いの切磋琢磨の中で教育にいい効果を及ぼすのじゃないかというふうに思います。
さらにまた、医者の場合でございますと、医学部を卒業してからインターンという形で臨床のいろいろな実習をする、その上で医者になる、こういう制度があるわけでございますけれども、教員というものを見ておりますと、いきなり学校を卒業して教壇に立つ。そうしますと、早い話が、黒板の使い方一つ本当にわかっていない教師があらわれてしまう。あるいはまた、生徒たちが騒ぎ出す、これをどう静めていいかということが十分に会得されていない教師というものも現実にいるわけでございます。こういったインターン制度の導入ということで、十分な実習を積ました上で教壇に立つというようなことも考えていいのじゃないかというふうに思うわけでございます。
以上六点ほど申し上げたわけでございますが、道徳教育については触れませんでしたけれども、これは言わずもがなのことでございまして、単に学校のみならず、社会そして家庭全体でこの問題を取り上げなければいけないというふうに思います。
しかし、いずれにしても、今まで述べました問題というのは、ひとり文部省のみで解決のできる問題ではないと思います。各省がそれこそこういった観点に立ちまして、力を合わせて日本の国民の教育という問題を改善していく、そういった努力がぜひとも必要だというふうに考えるわけでございます。したがって、そういった意味で、このたびの臨時教育審議会の設置、これはまことに意義のあることだと思いまして、大賛成でございます。
以上でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/211
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212・片岡清一
○片岡座長 ありがとうございました。
次に、鈴木祥藏君にお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/212
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213・鈴木祥藏
○鈴木祥藏君 短い時間で申し述べようと思いますと趣旨が徹底しないと思いましたので、原稿を印刷して回しましたので、ごらんいただきたいと思います。
私は、この臨時教育審議会設置法案に反対です。
その理由の第一は、今度の臨時教育審議会は、臨調行革の線に沿って教育費の国家予算の負担分を極力制限しよう、そういう意図からいわゆる教育の切り捨てというような方向に向かう、そういう前提があって行われるのではないか。中曽根総理大臣が行管庁長官在任中から、臨調の次に必要なものは教育大臨調だ、そういうふうに発言しておられますが、今度の臨調の行政改革に関する第三次答申の文教関係のところにも、例えば自助努力をどうしても原則としたい、それから私学助成の削減とか育英資金の有利子制度を導入するとかいうことを挙げております。
また、新聞報道によりますと、七月中旬に行革審から中曽根首相に意見書が提出される予定とありますが、文教政策については、義務教育教科書無償制度の廃止、それから私学助成の抑制、四十人学級の凍結、奨学金返還免除の廃止、給食助成費の縮減、こういう点がうたわれています。これはもう既に路線が敷かれていると考えざるを得ません。もしこの線でいけば、社会権としての国民の教育権が著しく制限されることになると思います。
第二点、臨時教育審議会は民主主義的な教育行政の理念になじまないと思います。教育基本法の第十条の「教育行政」の項には、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。」第二項では、「教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。」とうたわれております。我が国の今の行政からいうと、教育行政は文部省が統括しておりますし、都道府県、市町村の教育委員会が実際には行政上の責任を負っております。文部省には中央教育審議会があり、教育委員会はまたそれぞれに各種の審議会を持っておりまして、これらの制度を十分に活用することが必要だと思いますが、今度は内閣直属の教育審議会をつくって、二十五名に意見をまとめさせて、それが内閣総理大臣を縛り、それからやがて文部省、あるいは議会までもこれに従っていくという方向をとらざるを得ないことになります。それは、言ってみれば、国民の総意を結集するというよりも二十五人の人に権限を委譲するという形になります。これは反対です。
それなら教育改革は必要ではないのかといいますと、私はやはり必要だと思います。
教育荒廃は極端なところまで進んでおります。御承知のように、三月二十三日に発表されました中曽根総理大臣の私的懇談会といいましょうか、文化と教育に関する懇談会の報告にも、例えば受験体制教育の弊害、画一教育の弊害、社会風潮の問題、それから幼児期のしつけや家庭教育の問題、これは放置できない状態だという報告書をまとめております。今、小笠原意見陳述者も言われたように、家庭内暴力とか校内暴力、いじめっ子、いじめられっ子、それから非行の低年齢化、多発化、自殺の低年齢化、こういうものが憂慮すべき状態にあると考えていいだろうと思います。
一九六三年に経済審議会は、当時の石川一郎会長が人的能力開発計画を池田首相に答申をいたしました。それ以来、文部省の行政もマンパワーポリシーに従って展開されてきまして、経済効率を高める、そういう観点で行われて、教育の公共性というのは社会権としての教育権をどう充実させていくかというところにあるわけですが、それが後退させられてしまった。
国連が一九五九年に採択しました児童の権利宣言の前文にも、人類は児童にその持てる最善のものを与えなければならないと言っています。その最善のものの一つは平和です。それからもう一つは、天が子供に与えた最善のもの、つまり原っぱです。もう一つは共同体です。それが家族共同体までが崩壊するような方向に行ったのは、背景に高度経済成長政策の効率主義だけで行ってきた政府の政策、それから文教政策があったからであります。こういう困難な状態の中にあってしかも日本の教育を支えてきたのはむしろ勤勉な親たちと良心的な教師ですが、この原因を突き詰めて、この際教育改革をすべきだと思います。
その教育改革の原則の一つは、無償化の原則の方向へ進まなければならないということだと思います。
国際人権規約のA規約第十三条の二の(b)、(c)において、中等教育並びに高等教育も、漸進的に無償教育を導入することによって、すべての者にひとしく開放されなければならないとうたってあります。政府は保留意見を述べて、ここだけを除外して国際人権規約を批准したわけですが、これは世界史の方向に反しております。
それから二番目には、平和と国際連帯の原則を基礎にした教育改革をすべきです。
世界で最初の被爆国として、我々は平和を維持する国際的な責務を持っていて、次の世代にこの崇高な任務をどうしても受け継がせることをむしろ強制をしなければなりません。
第三の原則は、子供の主体を最大限に尊重する原則です。
管理教育を強化する方向だけで、自由の主体としての子供たち、しかも仲間とともに育つ重要さを今までないがしろにしてきた結果が教育荒廃です。
それから第四の原則は、教育改革への国民の参加を促す原則です。
二十五人の審議会委員が選ばれても、この人たちだけで教育改革はできません。従来むしろ教育権を侵害されてきた人たちの代表、例えば障害者の代表、婦人の代表、在日朝鮮人、韓国人の代表あるいは被差別部落の組織の代表、労働者組織の代表、こういう人たちが十分に意見を述べる機会を与えられないままに教育改革が進められることは、これは歴史を後退させることになります。
以上のような理由で、私は、今回の臨時教育審議会の法案に反対します。
終わります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/213
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214・片岡清一
○片岡座長 ありがとうございました。
次に、梶田叡一君にお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/214
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215・梶田叡一
○梶田叡一君 私は、今回の臨時教育審議会の設置ということについて、基本的には非常に意義のあることだ、こういうふうに考えます。ただ、後で述べます二、三の点について十分に御配慮をいただかないと、これは非常にネガティブな機能を果たす可能性も大きい、こういうふうに考えております。
意義があるということはどういうことであるかと申しますと、日本が戦いに負けてからもう四十年近くが過ぎました。その中で新しい学校制度が発足いたしましてもう三分の一世紀、高等学校は、新制の高等学校初期のころは二人に一人も行かなかったわけですが、今九四%の子供たちが高校に行くようになりました。また、新制大学も、初めのころは十人に一人も行かなった。ところが今や三七%。こういう進学率の大きな上昇の中でいろいろなほころびが出ております。もちろん、ただ単に進学率が上昇したということだけでなくて、一九六〇年代からの高度経済成長の中で日本の社会のあり方自体も変わりましたし、子供のあり方も変わりました。そういう状況の変化の中で、校内暴力、落ちこぼれ、落ちこぼしあるいは遊び型の非行と言われるような形で、現実に多くのほころびが出てきている。これは抜本的に考える必要があるし、今そういう時期に差しかかっているのではないか、私は基本的にはこう思います。
ネガティブなものになるのではないかというふうなことを申し上げましたのは、よほど腰を据えて、体系的に取り組んでいただかないと、いわば今国民が持っております今の学校教育に対する不満、不安を横へそらしてしまう、こういうふうに政府も取り組んでいるのですというようなことでそらしてしまうことになると非常にまずいのではないか、私はこういうふうに思います。そういう安易な取り組み方をしてもらうとネガティブなことになると申し上げましたけれども、それでは、そういうふうにならないためにどういう点に特に御配慮いただかないといけないのか。たくさんあると思いますけれども、私は三点申し上げたい。
一つは、何が問題なのか、何が課題なのかを十分に把握していただく、あるいは議論していただく、焦点を詰めていただく。例えば、これが行政改革の次に位置づけられておりまして、行政改革のいわば次の段階は教育改革だということが言われますけれども、行政改革というのは話は簡単なわけです。今、国家財政が危機に瀕している、破産に瀕している。これだけ国債を発行してでなければ日本の国家財政はもっていけないとするならば、もうこれは二つしかないわけですね。入るをはかるか出るを制するかしかないわけです。つまり話は簡単なので、増税をするか、あるいは今まで出していたいろいろなお金をその必然性、根拠を洗い直して出るを制するか、こういうことで行政改革に取り組んでこられたと思うのですけれども、教育改革というのは現象的な問題はたくさんございます。しかし、一体何が問題なのかということを詰めないでやっておりますと、今、一億総評論家なんということが言われまして、野球の評論と教育の評論はだれもがやるわけです。かなりうがったことを皆さんおっしゃいますから、一つずつ振り回されてやっていたのではどうにもなりません。私は、非常に率直な言い方を許されるならば、下手な持っていき方をなさいますと、肩書の立派なおじいさんたちが集まって井戸端会議をやる、こういうことになるおそれがあるのではないかと非常に恐れます。
結局のところは、例えば入試が問題だとしても、入試制度だけをいじくったのではどうにもならないわけです。民主制の中では競争があることは当たり前なんです。私の理解するところでは、競争があるからこそ民主制でして、つまり、これは機会が多くの人に広く開かれているということであります。こういうような競争を機会均等の形ですべての国民に開いておくという原則を踏まえながらも、進学制度をどうやったら合理化できるか。あるいは社会の人材要求、これはマンパワーポリシーだなんということで批判もあるようですけれども、しかし、社会を維持していくにはそれに必要な人材を養成しなければどうにもならないわけです。そういうような総合的な判断の中でいろいろな問題を考えていただかないと、一つのひずみに何とか対応しますと、ほかのところでまた大きくひずみが来るということになるのではないかと恐れます。
したがいまして、今回二十五人の委員の方が任命されるそうです。そのほかに専門委員を各分野の学識経験者をもって充てるということになっているようですが、これはよほど考えて人選していただき、かなり充実した形でこれの運用を図っていただくということにしないと、先ほどのような、何が問題なのか、課題なのかわからないままで、あれも大変だ、これも大変だ、これも取り組まないといけない、あれも取り組まないといけない、そういう羅列型のものに終わってしまうのではないか。こういうことになりますと、国民の不満、不安をそらしてしまうだけのネガティブな効果を持つのではないかと思います。
第二は、教育の問題というのは、国民的な合意を確保しつつ行われないと、幾らいい案が出ましてもどうにもならない。こういうことを考えますと、先ほども御意見がありましたけれども、委員の人選はできるだけ各分野の方といいますか、いろいろな主張を代表する方々を選んで議論なさるのがいいのではないだろうか、こういうふうに思います。確かに、仕事をスムーズに進めていくためには、大体認識の共通する人たちを集めた方がいいに決まっているのです。そうなんですけれども、そういう議論を通じて何が妥当な主張であろうか、根拠のある主張であろうかということが国民の前に公になっていく、このことも必要じゃないかと思うのです。
もちろん、この審議会の中での認識が一つのものにまとまることは非常に望ましいことですけれども、それがたとえなかなかできないとしても、国会でその経過を報告し、また、その経過についていろいろな意見を徴しながら、繰り返すようですが、何が妥当で根拠のある主張なのか。先ほど申し上げましたように、どうもこの教育の問題をめぐっては今までは評論的なものが多いし、またきょうも来るところでデモがあったわけですけれども、自分たちが何をすべきかということを忘れて、あれが悪い、これが悪い、そういう議論が今まで横行し過ぎていた。この三十数年考えてみますと、いわば魔女狩り的な議論がどうも教育に横行していたように思うのです。そういうことではなくて、それぞれの立場で、例えば親だったら親の立場で一体何ができるのか、教師の立場で何ができるのか、行政の立場で何ができるのか、こういうことを本当に議論していかなければ国民的な合意ということができていかないだろう。そういう意味で、繰り返すようですが、委員の人選はくれぐれも多様な方々が入るようにしていただきたい。もちろん、この運営に当たっては、まさに寛容と忍耐をもって当たってもらわないといけないと思うのですけれども、そのことをやはりお願いしたい、これが第二点であります。
第三点は、ステップを踏んで取り組んでいただかないといけないのではないか。何か報道によりますと、この臨教審ではすぐ学校制度の改革ということが論じられるように言われております。しかし、学校制度を例えば今六歳から就学しているものを五歳から入れるようにするだけでもどれだけのお金と人とを動かさないといけないのか、これは大変なものであります。御承知だと思いますが、今全国には小中高が四万校あります。そうして、そこで毎日毎日百万人の先生が教えておられる。百万人というのは大したものだと思うのです。そうして、そこに毎日通っている子供たちが二千万人以上いるわけです。これは本当に大事業というか、大艦巨砲なんです。結論は、これを少しずつ何とかしていかないといけないわけなんですけれども、しかし、ここを変える、あそこを変えるということをすぐに結論的に持っていかれますと大混乱を来す。四十六年の答申が出たときも、あれはすばらしい点を含んだ答申だったと私は思うのですけれども、一番大事なところはなかなか手がつかないままになっている。したがいまして、ステップを踏んで、例えば今このままでできることは何なのか、この議論をまずやっていただかないといけない。次にはカリキュラムとかそのほか指導法とか、今基本的に、枠の中ではありますけれども、新しい工夫をすることによって何がどう変わっていくのか、こういう議論をしていただかないといけない。そして万やむを得ない、今のままの工夫でもだめだ、あるいはカリキュラム指導法を新しく開発してもだめだというような問題に絞って、では制度的にどういうふうなことを考えるべきなのか、こういうふうなことがされないと、すぐ五歳児就学だ、中高一貫させろ、あるいは入試の制度をこう変えろ、これは素人わかりがするのですけれども、これでは多分大きな花火は上がっても本当の解決にはつながらないんじゃないか、こういうふうに思います。
また、そのプロセスにおきまして、大胆にいろいろなパイロットスクールをつくっていただきましてここで試行していただく、試していただく、このことがもっともっとやられていいのじゃないか。現在でもこれはないことはないわけでして、学校教育法の施行規則の第二十六条の二を適用しました研究開発学校というのは、全国で幾つか動いております。しかし、残念なことに予算は毎年毎年減らされておりまして、数は少なくなっております。また、それの実際の運用に当たりましても、当初これが発足したときにはかなり大きな、例えば中高の連係をどうするのか、幼小の連係をどうするのか、いろいろなことを考えておやりになったようですが、現在のところは、他の文部省の教育課程の指定校と余り変わらない形で行われている、そういう実態がございます。したがいまして、この臨教審が、もしも私の今申し上げたような三点の御配慮をしていただきたいというこの点を踏まえた上で運用されていかれるとするならば、まずパイロットスクールというのをたくさんつくっていただいて、その中でやれることを大胆にいろいろと試していただく、こういうようなことをお願いしたいと思います。
以上で、私の意見を終わることにいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/215
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216・片岡清一
○片岡座長 ありがとうございました。
次に、勝田吉太郎君にお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/216
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217・勝田吉太郎
○勝田吉太郎君 それでは、最後に私の意見を申し述べさせていただきます。
私は、基本的に、今行われようとしております教育改革に賛成の立場であります。
言うまでもなく国民の圧倒的多数が、今のままの教育でいいのだろうか、そういう大きな疑問を抱いております。そういう国民の率直な声にこたえるという意味でも、教育改革は真剣に行われなければならない。それに教育費の問題を挙げますと、これは御承知のように国家の一般予算の中でほぼ一〇%は文部省関係ですね。各地方の、つまり都道府県、市町村といったところの使っている予算のほぼ四分の一ぐらいでしょうか、それがまた学校関係、教育関係に使われている。膨大な金が使われております。大ざっぱに申しますと、今中学生一人について五十万とか五十五万とかという金が、国から、あるいは地方公共団体も含めて、出されている。我々の税金です。それだけではございません。学習塾だ、受験塾だ、あるいは家庭教師だ、その他さまざま各家庭がそういう教育費を支出している。いろいろな統計がございますが、それが大ざっぱに言えば一人当たり二十万とか二十何万とかと言われている。教育の問題というのは、御承知のように、これだけの費用をかければこれだけ効果が上がるといったような費用対効果、そういうふうな経済的あるいは合理的な計算はなかなか簡単にはできません。できませんが、これだけ多くの国並びに個人のお金が使われておって、しかもなおそれにふさわしい教育効果あるいは結果というものが得られているかどうか、こういった点については、国民は非常に大きな疑問を感じております。こういった点でも、ひとつ教育改革というものを真剣に考えなければならないと思います。
ところで、今度の教育改革というのは制度いじりに終わってはならないだろう、こう思います。いや、制度の改革も必要でしょう。しかし、一番重要な点は、どういうふうな哲学があるのか。言葉を変えて言えば指導理念でしょうか。教育改革の指導理念、そういうものがしっかりしておって初めてどういうふうに制度を改めたらいいのかといったたぐいの診断もできるのです。私は、その点についてごく簡単に考えを述べさせていただきましょう。
これまでの教育、これは明治に国を開きましてヨーロッパに対して窓をあけたというところから始めまして、第一に、明治初年の教育改革、非常に大きな改革です。一言で言えば、国家指導型の近代化教育だった、そう言っていいと思うのです。何しろ日本は非常に後進国でございまして、一刻も早くヨーロッパの文物を取り入れなければいけない。そういう国家的な必要性というのがございました。そこで、国家指導型の近代化教育を行った。それは当時としては重要なことであった、必要なことであったと思います。それがためにヨーロッパの文物を一刻も早く手際よく自分のものにしよう、吸収しようというわけで、粒ぞろいの学校秀才というものを国家は必要とした。そういう国家的な必要に基づいて教育制度が生み出された。戦前は御承知のように官尊民卑です。官立大学というふうに言いましたが、官立校といったものが非常にとうとばれました。そういったところにも明治の改革の特徴があらわれておる。それは必要ではありましたよ。しかし、今やそういう時代ではない。
さて、第二番目の大きな改革と申しますのは、言うまでもございません、戦後の民主化改革です。その結果、教育の機会均等化というものが重要なテーマになっておりまして、今や九七%という非常に多くの人が高等学校まで行く、そしてさらに大学へ三七%入るというわけで、その結果、御承知のようにアメリカと並ぶ高学歴社会が生み出されました。率直に言って、教育の機会均等化といい、そして高学歴社会といい、これは誇るべき成果だと私は積極的に評価いたします。しかし、そうは言いましても、高学歴社会というのはある意味では高学歴低学力社会なんです。一つは、これだけ大衆化すればどうしても質的に落ちるというのはやむを得ないというところもございましょう。同時に、民主化教育というものはどうしても平等化というものが主な柱になっていきます。言いかえれば画一化と言ってもよろしゅうございます。一つの鋳型にはめ込んでしまうというような教育がなされております。大衆教育、そういうところでしょうか。
さて、今日求められます第三の教育というもの、その指導理念というものは、言うまでもございません、今や日本はもうヨーロッパに追いつくというような時代を過ぎたのです。後発国ではございません。そこで、独創的なあるいは創造性を開発するような教育に努めなければいけない、こういうふうに思います。単に先進国の欧米文明の文物を一刻も早く手際よく取り入れよう、そういう時代は過ぎ去った。そうでなくて、みずから創造的なものを生み出していく、そういうことを考えるべきだろう、こう思います。
同時にまた、民主化教育の一つの特徴としての画一化、無個性化、鋳型にはまったような働きバチの大量生産、そういう点をここで改めて、個性的な教育というものは何なのか、そういう点を考えるべきだろう、こう思います。
一言で言えば、今問題になっております第三の大きな教育改革、二十一世紀を展望するような改革、そういったものの指導理念といたしましては、私は、第一に個性化、それと密接不可分の関係にございますが、自由化、そして第三番目に多様化、そして最後に国際化、この四つの理念を挙げたいわけでございます。
さて、そういうふうな観点から今どういうふうになすべきか、これは短い時間ではとてもお話しし尽くすわけにまいりませんが、まず第一に、教育の分野において国家指導型といいましょうか、要するに国家の管理、それをできるだけ緩和する必要がある。もっと言ってしまえば、文部省の統制とか管理とか行政指導とか、そういったものを緩和する必要がありはしないか、こう思うのです。無論、義務教育の段階においては国家はちゃんとした責任を持つ必要がございますから、それは文部省の中央管理ということは必要でしょう。しかし、義務教育以後の段階におきましては、現在のレベルでいいますと高等学校から大学に至るまで、どういう学校を設立するのか、どういうカリキュラムを編成するのか、そういうことに関しては、もっともっと民間のイニシアチブに任せた方がいい、国がそういった点までありとあらゆる点で面倒を見るというような時代じゃない、そういうように思います。
これは私自身の体験がございます。比較的最近、ある大学をつくろうというので、私自身頼まれて、非常にユニークな学校をつくろうということで、カリキュラムもそういうふうにつくって申し入れたところが、文部省の窓口のお役人が言うことを聞かないというのです。結局のところ、ありきたりな、どこにもあるような大学になり終わってしまったという体験をしております。ちなみに、そういう文部省のお役人は何と私どもの京都大学の法学部の出身者で、私の弟子だというのですから、困ったものだとは思いますが、ともあれそういうものの発想を改めた方がよろしい。
今日、民間の活力という言葉を使いますと、そういう民間の活力というのが非常にゆがんだ格好で噴出しているのです。つまり受験塾だ、学習塾だといったような、言ってみればゆがんだ格好で噴出しております。それを今言いましたような多様化あるいは自由化、個性化、そういったような観点から民間のイニシアチブをもっと重要視すれば、非常にいい格好であらわれてくるのじゃないのか。そして、種々さまざまな学校がいろいろなカリキュラムを持ちながら提供されていく。無論、それに例えば教育バウチャー制度の導入等いろいろ考えてみる必要があるだろうと私は思います。そういう制度を導入することによって、多種多様な学校の間に競争原理が生まれるだろう、こういうふうな方向で改革を図っていったらどうだろうか、こういうふうに考えている次第なんです。
また、そういう観点から、例えば国公立共通第一次試験ですが、これは今大変評判が悪くなっております。実際、これは悪名高い教育産業の育成のみに貢献した、そういう感がございます。しかし、ああいう制度を導入すればこういう結果になるのだということはよくわかっていたのです。私は先見の明を誇るつもりはさらさらございません。そんなけちなつもりはありませんが、もう既に六年前、あの制度が導入される前に、あれはサンケイの「正論」でしたが、こういう制度を導入すればこういう結果になるぞと言った。そのとおりになっているのです。じっと考えれば、こういうことになるのはわかり切っている。あの当時、もしこういう制度を導入するならばせめてフランスのバカロレアというような、つまり大学入学資格試験といったものに改めるべきである、そして各大学、各学部、各学科、工学部や文学部はいろいろ学科がございます、そういう学科にそれぞれ入学の仕方、試験科目、またやり方、そういったものを任せたらよろしい、国家があるいは文部省が試験の問題まで、試験のやり方まで中央統制をやるというのは百害あって一利なしと、私は六年前から論じております。今も意見は変わっておりません。そういった意味で民間のイニシアチブというのでしょうか、そういったものをもっと重んずべきだ、こういうように考えます。
時間もございませんので最後に申しますと、今の受験過熱、これはいろいろな意味で非常に困った現象を生み出しておりますが、こういう過熱化した受験教育、それは学校制度をどんなに改めたってなかなかなくならないと私は率直に思います。その点に関しては悲観的です。むしろ、学校制度を改めるよりも、いや、改める必要もあるでしょう、いろいろ考える必要があるでしょうが、しかし、もっと社会の協力が要ります。
私は、これもまた十六、七年前から実はばかの一つ覚えみたいに言っているのです。つまり学歴抹消論です。今や有名大学に入るために有名高校、有名高校に入るためには有名中学、最後に、今では東京と大阪には有名幼稚園に入るための塾ができているのだそうですね。そういう俗悪なる受験過熱教育、これを何とか改めるため、学歴を抹消したらいいと私は考える。各企業、あるいは官庁でもそうです。新入社員を採用するときに各会社がそれぞれ試験を行っている。そして、いい人材を確保しようというので必死なんです。人事担当部長とか重役とかいう連中が面接もやって、一生懸命やっているのです。そういうときに実力本位、どういう大学を出たかといったような学歴を書かさない、それを私は十六、七年来主張しておって、最初に私のその主張に感応してくれたのがソニーです。次いで、わずか二年ほど前ですけれども、毎日新聞がやりました。大きな企業としては、私の知っている限りはこの二つ。うまくいっているのじゃないでしょうか。そういうことで、各企業とかあるいは官庁とかいうところで学歴抹消をやっていただくならば、実力本位という気風が固まってくるでしょう。要するに、学校制度を幾ら改めたって、こういう今の俗悪なる受験過熱体制というものはなくならないだろう。それよりは、学校を出たその出口のところで、社会の側でしっかりした協力が必要だろう、そういうふうに思っております。
以上で終わります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/217
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218・片岡清一
○片岡座長 ありがとうございました。
以上で意見陳述者からの意見の開陳は終わりました。
—————————————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/218
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219・片岡清一
○片岡座長 これより委員からの質疑を行います。
なお、質疑者は、質疑に先立ち、御答弁をいただく陳述者を御指名の上質疑されますようにお願いいたします。
奥田幹生君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/219
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220・奥田幹生
○奥田(幹)委員 四人の先生方には、お忙しいところを本日はありがとうございます。
私は、まず小笠原先生にお尋ねをいたします。
先生は、かつて兵庫県の教育長、そうして副知事、そういう貴重な教育行政の体験を積んできておられると伺いましたのでお尋ねをするのですけれども、教育につきましては、それぞれ国民一人一人がいろいろな経験や体験をもとに一家言を持っておると思うのです。その点におきましてはまさに百家争鳴といいますか、多様な論議が行われて久しいわけでございます。それで、教育改革というような国民的な課題を推進しますには、先生なり梶田先生がおっしゃいましたように、どうしても国民的なコンセンサス、合意が必要である。これは避けて通れない問題であると私も思うわけでございます。
そこで、今度の臨教審を私どもは早く誕生させていただきたいという立場に立つものでございますけれども、運営に当たりまして、こういう国民の期待にこたえてまいりますためにはどういう点を配慮していけばいいのか、これが質問の一点でございます。
それからもう一つは、時間の関係で先生がさらっとおっしゃいました道徳教育です。私は、この道徳教育も非常に大事であると思うわけですけれども、実際、現実の社会を見てみました場合には、かつてよりも家庭あるいは地域社会、それぞれ教育機能が減退しておるような感じを受けるわけなんです。減退即青少年の非行の増大、こういうようなことにもつながってきておりまして、道徳教育の充実は非常に早くやっていかなければならぬ。その道徳教育を進めていきますためにはどのようにやればいいのか、この二点についてお尋ねいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/220
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221・小笠原暁
○小笠原暁君 第一点の、こういった国民的なコンセンサスを得るためにどうすればいいかということでございますけれども、私も教育長の時代に入試制度の改革をいたしました。これは一応そういう学識経験者の方、それからいろいろな団体の代表の方に出ていただきまして、委員会という組織で入試制度の改革をどうしたらいいかということに関していろいろ意見を出していただき、そういったものを主としてマスコミ関係を通じましてできるだけ多くの県民の方に知っていただく、こういう形をとりました。そういたしますと、いろいろな形での意見が集まってまいります。その集まった意見を委員会にまた提出をする、こういうことをやっていけば、その審議の過程を国民に広く知らせるという手続さえとれば、それが国民の間に行き渡って、そしてそれに対する国民の意見というものがまた出てくる、それを委員会に反映する、こういうやり方でいいのじゃなかろうかというふうに思うわけであります。教育に関する意見というのは、まさに一人一人が教育評論家になり得るわけでございますので、全部を一遍に聞くということは確かにできない。したがって、委員会構成にして、委員会におけるいろいろな陳述や意見、こういったものを広く知らせる、そしてそれに対する国民の方からの反応を吸い上げる、こういうやり方が一番いいのじゃないかというふうに思っております。
それから第二点といたしまして、道徳教育でございます。
昨今、見ておりますと、どうも家庭が特に教育機能を放棄して、これを全部学校に背負わしてしまう。親が子供をしからないで学校の先生にしかってもらおうと思う、こういう雰囲気が非常に多いような気がいたします。私どもの県でも、この問題に関しては、「あすのひょうごっ子を育てるしつけの運動」というのを全県的に展開をいたしました。そして、言ってみればある意味の親学、親はどういう観点に立って教育すべきかというような教育資料を随分つくりました。そして、機会あるごとにそういったものを一つの材料にして地域地域で討議をしていただく、こういうような機会をよく持ったわけでございます。また、これが同時に非行の問題とつながってくるわけでありますけれども、特に校内暴力という問題を取り上げるときに、これは学校の中だけではまず解決をいたしません。特に、学校が臭い物にふた式の密室的な処理をしようとしたときには、こういった校内暴力の問題は絶対に解決しないわけであります。家庭と地域社会が一緒になってそういう問題と取り組んだときに、校内暴力事件あるいは非行の問題というのは相当大きな効果を発揮する、我々はそういった実際の経験を持っているわけでございます。したがって、道徳教育をやる場合には、単に学校のみならず、家庭それから地域社会が連携をとりながらやっていく、これが何よりも大事じゃないかというふうに考えます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/221
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222・奥田幹生
○奥田(幹)委員 ありがとうございました。
次に、私は、鈴木先生にお尋ねをいたします。
先生は、この臨教審の設置には反対であるという御意見だったと思いますけれども、それでは、教育の現場で起きておりますいろいろな問題を解決するには当面どうすればいいかという点についての質問でございます。
私は、近代の日本の教育というのは、明治の近代教育の創設、それから敗戦直後の現行の教育制度の発足、それに次いで、今度の教育改革は二十一世紀をにらんだ第三の教育改革であると思うのです。その第三の教育改革が必要であると考えます私の理由は、先ほどから先生方の中からも既に出ておりますように、例えば校内暴力の問題でございますとか、あるいは落ちこぼれ、偏差値、入学試験の過熱競争、それから道徳教育、こういう具体的な、我々が本当に頭を抱えるたくさんの問題があるわけなんです。私が文部省からいただいた数字を見ましても、校内暴力は、小学校、中学校合わせまして、昭和五十年度が六千八百件、これが五年後の五十五年には九千件、そうして五十七年には一万五千五百件、非常にふえております。しかもその内容は、高等学校よりも中学校に非常に顕著に多くなってきておるという事実がございます。
それから中学生の喫煙、これも大変な問題なんです。毎年、ことしもそうですが、五月には、担任の先生が家庭訪問をいたします。そうして六月には、来年の春から先生になろうとする大学生が中学校なり小学校へ教育実習に参ります。私が最近聞いた話ですけれども、中学校の先生が担任の子供の家庭を訪問いたしました。お母さんが恥ずかしながら先生に話しますのには、子供が学校から帰ったら、私は、はい御苦労さんと灰皿を差し出します、学校でたばこを吸うと先生にしかられる、長いこと学校でたばこは吸わずに辛抱しておったんだな、御苦労さん。ある母親は、別の母親ですけれども、毎日夕方になると子供の勉強部屋にバケツに水を入れて運びます、たばこで火事を起こされたら困りますから。こういうことを家庭訪問をした先生にしゃべっておる。その先生方は、恥ずかしいからほかの先生には、ましてや校外には他言いたしません。わかりましたのは、六月に大学生が中学校に教育実習に参りまして、その教育実習をしておる大学生の大学の先生が、うちの学生がお世話になっておりましてありがとうございますとあいさつに回ります。そのときに中学校の先生が、実はこんなことがちょいちょいあって困っているのです、恥ずかしながらと言いながら話をしている。これはつい最近のことなんです。
そういう問題もございますし、落ちこぼれでは、七・五・三という言葉が、先生御存じかどうか、はやっております。小学校では先生の勉強についていける子供は七割、中学校では五割、高等学校になるとまさに三割しかないということですね。こういうような問題がずっと数え切れないほどあるわけですけれども、先生は反対をされておりますので、教育者として、今私が申し上げた、道徳教育も含めての具体的な問題を解決するにはどういう手だてをすればよいとおっしゃるのか。特に、先ほど先生は、勤勉な親あるいは良心的な先生、教員というようなことをおっしゃいましたので、そういうお立場から御見解を聞かせていただきたいのです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/222
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223・鈴木祥藏
○鈴木祥藏君 家庭のしつけの問題とか親子の断絶とか、そういう現象が起こってきた背景には、我が国の核家族化現象、それも小家族化現象ですね、もう子供が二人とか、多くて三人、そういう状態。これは高度経済成長政策下で急激に人口移動が起こって、しかも若い労働者の賃金は、両親を郷里から呼び寄せて同居して住むというような条件を持っていない。ヨーロッパ、アメリカでは、例えば五・四人の家族が三・二人ぐらいの規模に減るのに約二百年かかっていますね。我が国では過去二十年間で急激にこういう状態になった。これは我が国の高度経済成長政策とパラレルに出てきていますね。
しかも、日本の労働者というのは物すごく働くわけでしょう。現在の日本の労働者の年間実労働の平均時間が二千百六十二時間、アメリカが千八百八十八時間、西ドイツだと千七百何ぼですね。七時間の労働として、一カ月以上アメリカよりも働いていますし、それから西ドイツよりも二カ月余計に働いています。だから、父親というのはもうほとんど夜の訪問者ですよ。少子家族になって、母と子が向き合って生活しているところへ父親が入らなければ家族共同体をなさないわけですけれども、夜の訪問者ですから家族は崩壊状態なんです。そして母親まで働かなければならないような状態でこの経済成長の、物価のどんどん上昇する中を生きてきた親たちは、子供を見ているなんという暇はなかったのです。そういう結果が、今の家族の崩壊とか子供の非行とかいうものの背景にあるわけです。だから、日本の労働政策をもうちょっと改めて、どんどん家へ帰さなければいかぬと思うのです。家へ帰すというのは、働くことをやめろということではなくて、まだ高度経済成長が成立した現状ですから、長時間の労働をやめて労働者を家へ帰す。これは資本家の皆さんも自分の抱えている労働者をどんどん家へ帰して、地域の教育条件をみんなで改めていく方法を考えなさい、そういう方向を出さなければいかぬと思うのです。家へ帰って相談しようにも夜中に帰ってくるわけですし、地域の集会にも出れないというのが今の日本の労働者の実情です。これを改めてください。そういうことをしないと地域の教育力を回復することはできないと思います。
もう一つは落ちこぼれの問題ですが、これも実は孤立させられた子供たちが落ちこぼれていく原因をしょい込まされているのです。母子家庭で、例えば団地の七階に住んでいる子供は、もう地域に出ていく時間を持たないのです。西ドイツの建築家協会が、集団住宅で三階以上の老人と子供を地階—二階に移動させる方針を政府はぜひとるべきだという勧告書を出しています。こういう条件についての手厚い考え方が必要です。原っぱはない、子供は地域に帰って遊ぶ仲間がいない、そういう状況になっている子供たちが、今度は進学塾へどんどん通っていきます。そして落ちこぼれてない子供たちというのがむしろ孤立感を深めているわけです。こういう孤立感がどういうふうなことを生み出すかというと、学校ではとにかく他人の足を引っ張ってでもいい成績をとろう、進学進学ということで拍車をかけられていって、仲間に対する温かい人間的な感情を持つことに失敗しています。これが道徳教育の欠如というような形での現象を生み出しているのじゃないでしょうか。
そういうことがありますから、従来学校教育からだけ見ていた教育という問題を、政治と経済の側面から大反省していくという発想の転換をしないと、日本の子供たちは救われないと思うのですね。ただ観念的に道徳教育をやれと言うだけでは何にもなりません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/223
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224・奥田幹生
○奥田(幹)委員 ありがとうございました。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/224
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225・片岡清一
○片岡座長 二階俊博君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/225
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226・二階俊博
○二階委員 最初に、小笠原先生にお尋ねいたします。
先ほど教育改革の向かうべき方向といいますか、問題点を具体的にお話しいただきまして、大変ありがとうございました。
そこで、先般、高等学校の職業教育の改善策を検討してこられた理科教育及び産業教育審議会が答申案を公表いたしましたが、その中で、社会経済の変化に対応して高等学校にも電子機械科、情報関連科あるいは農業経済科、国際経済科、福祉科などの高等教育についての見直しを提言されました。また、さきに高等教育機関の整備についての文部大臣への報告というのがなされましたが、その中で、いわゆる第三セクター方式による官民合同による大学の設置の方途を積極的に開いていこうというふうな意見も出されております。私は、これはいずれも時代の要請に的確にこたえたといいますか、それに対応した答申として高く評価したいと思いますが、こうした制度が新しくできて、いよいよそれに伴って学校ができ上ったころには、社会はさらに新しい時代への進展を見せておる。いわゆるそこに時差が生じてくるおそれがある。これについて、既に先端産業等においては、技術者の不足ということが言われておる。小笠原先生は教育界にも行政の面でも御経験を持っておられる立場から、こうした官民合同で積極的に取り組む問題の解決について御意見を承りたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/226
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227・小笠原暁
○小笠原暁君 職業高校の問題でございますけれども、私も教育長時代にこういった職業高校という問題に対して二点考えました。
一つは、こういった職業高校をつくると職業高校から大学へ非常に進学がしにくい、この風穴をあけることを考えなければいけないということで、私は県立の大学に頼みまして、こういった商業高校、工業高校、農業高校から、あるいは家庭科を持っているような高校から県立の大学の方に何%か採るという制度をつくりました。これをやりますと、かなり職業高校生の士気が上がると思います。勉強すればちゃんと大学に行けるのだということで、非常にいい効果を持ったというふうに覚えております。
それともう一つ大事なことは、こういった職業高校、特に工業高校でございますけれども、機械の進歩というのは非常に速い。古い旋盤とかそんなものを置いておいても、実際工場へ行ったときにもうNCマシンに変わっている、これを使った経験が全然ない工業高校生が生まれていく、これではしようがないということで、できるだけ新しい実習機材の導入には意を用いたわけでございますけれども、同時に、それをしょっちゅう補給していくということは財政の問題からいって非常に難しいと思います。したがって、民間と学校との協力ということがどうしても必要だ。むしろ学校の実習工場では基本的な機械に関してだけやって、最新の機械に関しては民間に協力をしてもらう、民間の工場へ行って見学をするなり、あいている時間に実習をやらせてもらう、こういうことをやっていかなければいけないということを非常に強く感じたわけでございます。
それから、第三セクターによる大学の設置でございますけれども、実は兵庫県の中の姫路というところは、かつて旧制の国立の高等学校があって今国立の大学が全然ない、こういうところでございます。言ってみれば播磨地域というところが大学設置の一つのエアポケットになっているので、姫路の市民の間で大学が欲しいという世論が非常に高まってまいりました。私も文部省といろいろ相談をさせていただいたのですけれども、そのときに、こういった第三セクター大学方式というのを考えたらどうか、まさに地域の大学として育成するためには、地元の地方自治体あるいは民間の会社が、例えば基本的な校舎であるとかあるいは用地であるとかこういったものを拠出する、そしてある意味でその拠出に応じて入学者に関する枠をもらって、その中で各市あるいは各町がそれぞれの入学者を選抜する、こういうような入学方式がとれないものか、そうすればまさに地域の中の大学ということでできるのじゃないか、こういうことを考えたことがありましたが、別の私学が進出してくるようになりまして、かなり市の方も協力するという形でこの問題は今解決しつつある。しかし、各地で大学設置の声が非常に高まっている。そういったときに地方自治体あるいは民間が出資をしながら学校法人をつくる。今は自治医大なりがそういう形になっております。あの方式をもう少し民間側を入れて広げたならば、時代に適した、活力のある、そして地域でみんなでつくった大学だという学校もできるのじゃないかというふうに考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/227
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228・二階俊博
○二階委員 次に、梶田先生にお尋ねしたいと思います。
何といっても教育のかなめは教師にある、これは万人認めるところであろうと思うのです。私どももお互いに経験したこととして、いい先生にめぐり会って薫陶を受けたという貴重な体験をそれぞれみんな財産として持っておる、このように思うわけです。梶田先生はかねて教育評価の意義を論じられている中で、学校教育において子供が現実にどのような発達を示し、どのような能力や特性を持っているかを見てとること、子供の示す態度や発言、行動について、どの点はそのまま伸ばしてやればよいか、どの点を矯正してやればよいか、また子供がどのような変容をしつつあるかということを見てとること、教育活動がどの程度に成功であったかを子供の姿自体の中から見てとることなどと述べられておりますが、私は御経験の中からの貴重な御意見であると考えております。
こうした立派な教員を得るために、今日まで自由民主党は教員の養成、そして研修の充実、さらに処遇の改善に力を注いでまいりましたが、さらに一段の努力が必要であると考えております。そこで、教員の養成、研修等について改めるべき点があれば先生のお考えをお伺いしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/228
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229・梶田叡一
○梶田叡一君 今お話がありましたように、私も教師の問題というのは決め手だろうと思います。ただ、非常に残念なことに、戦後多くの教員の方々の中には、教師は一体何をやらないといけないのかということを忘れてしまったかのような行動とか、そういうことがあったのじゃないか。何をやらなければならないかというのは、私は大きく言うと二点あると思うのです。
その一つは使命感ですね。どういうふうに言ってもいいのですけれども、相手は本当にまだ物のわからない子供なわけです。この子供たちをどう育てていったらいいのか。例えば行き過ぎの姿が幾つかありますね。自分の持っているある物の考え方を押しつける、これはもう本当に言語道断の問題だろうと思います。逆に、自分は待遇の面でもっと本当はしてもらってもいい、にもかかわらずそうではないのだからというので、勤務時間のことしか考えない。つまり教える、伸ばすということをほとんど考えないで、勤務しているだけという姿もなきにしもあらずであった。これはまず第一に反省しないといけない。第二の問題は、具体的な指導においての見識また知識、技術、これがどうであったのだろうか。
こういう使命感の問題と具体的な教える上での知識、機能の問題がございますけれども、私は、戦後の教員の養成、研修、両方の中で必ずしも十分だったとは思いません。教員の養成が開放制、いわゆる師範学校でなくてどこを出ても免許が取れてやれるようになった。これは一つの非常にいい面はあるわけですけれども、その中で教師というのはほかの職業と違って、違ってと言うとしかられるかもしれませんが、やはり小さな子供を育てるということで苦労もあるし、よほど熱を持って本気で頑張ってやらないとやれないという覚悟、これがどこでも教えられないままに現場に行ってしまったのじゃないだろうか。あるいは研修においても、そのことが言われないままに研修がなされてきた面があるのじゃないだろうか。そういう面で、その使命感を育てていく養成また研修ということを今後もっともっと考えていかないといけない、これを第一に思います。
それからまた、教員養成の中で、先ほど言いました開放制になったために、私も実は大学の一員としてなかなか言いにくいことでありますけれども、教員の免状に必要な単位を取る、しかし、それは読みかえ読みかえでなされていることが多いわけです。したがいまして、実際に教育の上で本当に必要な学問をやってきたのだろうか、あるいは技術を身につけてきているのだろうかということになりますと、私は、形の上ではそうはなっておりますが、実際には非常に空洞化していると思います。したがいまして、まあ今度は見合わせられたそうですけれども、新しい教員免許法等の問題もあるようですが、これも単に形の面だけでなくて、実際にそれがどういうふうに機能していくのか、こういう点で十分慎重にそういう使命と具体的な知識、技能を強める方向に何とか考えていただけたらと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/229
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230・片岡清一
○片岡座長 左近正男君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/230
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231・左近正男
○左近委員 きょうは各先生方、貴重な御意見を聞かしていただいてありがとうございます。
今日の教育の荒廃については何とかしなければならないというのは、もう国民大多数の世論だと思うのです。各先生方もその立場から貴重な御意見を聞かしていただきました。ありがとうございます。
そこで、教育の荒廃の原因については多様な複合的な要因があると思うのですが、各先生方、一番大きな原因は何か、一言ずつコメントいただけませんか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/231
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232・片岡清一
○片岡座長 各意見陳述者から順次お願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/232
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233・小笠原暁
○小笠原暁君 私は、社会の構造的な変化に対して教育の構造が対応できなかったことにあると思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/233
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234・鈴木祥藏
○鈴木祥藏君 一番ということになると、私は、先ほどから申し上げましたように、やはり政治の中に、人間を大事にして人間を育てる、しかも家庭とか地域で子供を育てるということがどんなに大変なのか、そういうことに対する配慮の欠如、それではなかったかと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/234
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235・梶田叡一
○梶田叡一君 私は、一番大もとは、急速に物質的に豊かになったことだと考えております。これが進学率の急速な上昇、教育爆発と呼ばれる上昇を生んで、その対応がなかなかうまくできていない。また家庭も変えてしまいまして、なかなかきちっとしたしつけができてない。子供の方も秩序感覚が育っていない。また世の中全体が悪い意味での価値相対化、何でもあなたがそう思えばそれでいいじゃないかというように、基本的な価値の軸を欠くようになってしまった、こういうふうに考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/235
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236・勝田吉太郎
○勝田吉太郎君 既に各意見陳述者のおっしゃったことにそれぞれ私は実は賛成なんで、何か私の言う幕がなくなった感がございます。
あえて言えば、民主主義というものと学歴競争というものとは実は深い因果連関があるのです。しかし、これが余りにも我が国においては過度に出てしまって、いわゆる一部の有名校、そういった高等学校や大学に集中しようとする、そういう過熱化した教育、受験合戦、これをひとつ改める必要がある。私が先ほどお話ししたのも、その一つの理由です。
もう一つは、先ほどの御質問の中で、教育荒廃の原因は何か、そういうふうにおっしゃられたのであえて申します。さらに、御質問なされた左近さんは社会党の立場ですからいささか耳に痛いかも存じませんけれども、しかし、言うべきことは言わなければいけない。
一昨年でしたか、文部省が発表いたしました公立の中学校の校内暴力の統計表、これは皆さんよく御承知だろうと思いますが、一番校内暴力の激しいところは大阪府ですね。発生校数二百四十九校で五八・三%というのですから、要するに十校のうち六校です。これは一昨年の統計です。それから次が滋賀県五二・九%、三番目が福岡県三八・八%、四番目が京都府三八・五%、福岡と京都はほとんど変わらないですね。次が奈良、それから兵庫というふうな順で、実におもしろいことに近畿に圧倒的に集中しているのです。
さらに事細かにこういうふうな校内暴力、荒れた教室というのをたどっていきますと、どうも日教組の組織率が非常に高い、高いということでなくても非常に運動が熱を帯びているというような地方にこういうふうな荒れる教室が出ているというのは、これはいろいろ考えるべきところがあるのじゃないでしょうか。すべてを私は日教組に罪を着せるなんて、そんなことを言っているのではないのですが、しかし、お互いにこういうふうな荒廃という現象に関して率直にいろいろ反省をすべき点は反省する、そういう点で申し上げているわけです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/236
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237・左近正男
○左近委員 それでは、また各先生方に一言ずつコメントいただきたいのですが、教育の改革については国民的な合意が何としても必要だ。そのために、今日まで教育の中立性の問題、あるいは教育に国家権力を介入させない、こういうことが教育基本法によって位置づけられておると思うのです。ところが、今回の臨教審の法案は、総理の直属諮問機関にしていく、あるいは委員についても総理が一方的に任命できる、審議の内容についても非公開である、こういうような点について大変私は危惧をしておるのです。先ほど先生方からいろいろな立場からコメントされたのですが、教育の政治的中立性、こういう観点から今回の法案について端的に各先生方どう思われるか、ひとつコメントをいただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/237
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238・片岡清一
○片岡座長 各意見陳述者から、順次お答えをいただきます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/238
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239・小笠原暁
○小笠原暁君 これは総理の直属の諮問機関であっても、選ばれる委員というのはやはり何らかの形で国民のコンセンサスが得られるような方々が選ばれるというふうに私は思います。従来の政府の各種委員の構成を見ておりますと、そうでございます。そういった方々の意見というものが何らかの形でマスコミを通じて報道される、そうするとそれがまた国民の意見を吸い寄せるもとになる、こういうことで構成をしていけば、決して政治的な中立性が失われるとか、権力が介入するというようなことはないと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/239
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240・鈴木祥藏
○鈴木祥藏君 国会があって、文部省があって、そういう制度の上にもう一つまた内閣直属の審議会をつくって、その関係がどうなるのか、そこが大変微妙でしかも危惧されるところだと私は思うのです。どうも行政改革と教育改革を一緒にしてしまって、二十五人の意見が内閣総理大臣を縛り、それから政府の各機関を縛り、文部省までそれに従っていかなければならない方向が打ち出されてくるような、権力的な方向へ行きそうな気配が感じられるので、この制度は民主的な教育を進めるための行政のやり方とは矛盾してくるような気がします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/240
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241・梶田叡一
○梶田叡一君 先ほど述べさせていただいたわけなんですけれども、私は十分に配慮していただかないとまずいことが起こらないわけではないという危惧は持っております。
一つは、委員の人選。各界からは確かに今までもいろいろと委員は選ばれておりますけれども、教育の問題ですから、よほど配慮して広範にいろいろな立場の方が入るように本当に考えていただかないといけない。これが第一点。
もう一つは、これの実際の経過が——私は必ずしも傍聴人がいてそこで話し合うということが公開だとは思っておりませんが、やはりしかるべきときに国会なりあるいは報道機関なりに経過が公開されて、そこでまたいろいろと批判を受け、注文を受けつつまた審議が進んでいくというような形をとらないと、いつの間にか結論ができ上がったところで、こういうことでしたというようなことで出されると、たとえ一番うまくいってその結果が非常にいいものが出たとしても、それはなかなか進まないのではないか、こういうふうに思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/241
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242・勝田吉太郎
○勝田吉太郎君 私は、小笠原意見陳述者のおっしゃったとおりだと思います。梶田意見陳述者の御意見にも全く賛成する点がある。それ以上つけ加える点は、実は大してございません。無論のこと、教育におきます政治的中立というのは非常に重要なことです。どれか一つの党派に加担するようなそういう政治的な傾向を帯びるべきではない、当然のことです。そして、教育改革というのは国民の幅広いコンセンサスが必要だ、それは皆だれしも言います。私も当然だと思います。しかし、日本的コンセンサスとは一体何でしょうか。だれか一人が反対したらすべて改革ができなくなる、一人の反対があれば橋もかからない、どこかの地方自治体の長がおっしゃったようですが、そんなことをやっておったら、百年河清を待つと言いましょうか、いつになっても改革はできないでしょうね。何らかの意味で、ある点で政権を担当している党は責任を背負って、泥をかぶってある時点で決断しなければ、改革はできません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/242
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243・左近正男
○左近委員 それでは、教育改革に当たり、戦後定着をしております六・三・三制問題について、各先生方はどういうお考えを持っておられるか、一言ずつコメント願います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/243
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244・片岡清一
○片岡座長 各意見陳述者から、順次お答えをいただきます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/244
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245・小笠原暁
○小笠原暁君 六・三・三制そのもののいろいろないい点と悪い点があると思います。特に悪い点というのは、一番児童生徒が心理的に微妙な段階にある中学校と高等学校の間で一つの切れ目があることです。したがって、これに関しては、一つは、例えば六・二か六・三で一つ切れる制度のほかに六・六という制度をつくるというような形をとったらいいのじゃなかろうか。すなわち、昔ですと、六年間小学校へ行って、その後に中学校に五年、同時に、六年間小学校へ行って、高等小学校というのがあった。これと同じような形で六・三及び六・六というような併用型の形に変えていけばいいのではないかというふうに思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/245
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246・鈴木祥藏
○鈴木祥藏君 戦後間もなく発足時は、六・三を義務制にして、三の高等学校は、これは当分の間、まだ余裕がないので義務制にしないけれども、国民教育に準ずるものだから入学試験制度も行わないという方針で、やがてこれは義務制にするのだという方向が出ていたのですけれども、それが、高度経済成長政策がこれだけ急テンポに進んで、余裕が出てきたといわれた段階でも一向に実施できていないということを私は大変残念に思うのです。だから、できれば六・三・三までこれは義務制にしていくべきだ。それで、地域の総合中等学校のような形のものをつくって、三年の中学校と三年の高等学校をひっつけて、もう地域で高等学校までは試験制度というものなしに進めるような条件をつくっていく、それが今の教育荒廃の一因と言われる受験競争に一定のブレーキがかかってくる重要な契機を与えるのではないかと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/246
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247・梶田叡一
○梶田叡一君 六・三・三制と子供の心身の発達の状況との関係において、私は大体三点ぐらい今矛盾が生じていると考えております。
第一は、就学の始期の問題。実際に五歳児というのを調べてみますと、六歳、七歳、今の小一、小二と比べて、能力的あるいは社会性の面でそう違わないようになっております。発達加速現象ということが言われますけれども、今の子供はそういうふうになっております。そうしますと、就学始期をどうするか。もちろんこれは、五歳から今すぐに入れるべきだということを言っているわけじゃございませんが、幼稚園のあり方の再検討を含めてこういうことが一つ考えられないといけないだろう。
もう一つ、やはり発達が早まっているために、昔は、思春期発達、急速に体が大きくなる、声変わりがする、初潮が来る、この大きな変化の時代をカバーしているのが中学の三年間であった。ところが、今や六年生終わるまでにほとんどの子供は初潮が来るというような状況になっております。したがいまして、中学校三年間が、昔と考えてこの区切りが少しおかしくなってしまっている。
第三点は、進学率が向上しまして、中学三年、高校三年でぶつ切りになっているということが非常におかしなことになっております。つまり本当を言いますと、中学生、高校生のころにはよく本を読んで、悩んで、友達と話をいろいろして、夢を育てて、それから自分のいわゆる主体性を確立していかないといけない。その時期に、すぐにもう受験、受験で、中学へ入りますと高校受験、高校へ入りますと今度は大学受験ないし就職の準備ということで、落ちついてそういうゆっくりとした青年期らしい自我の育て方ができなくなっている。したがいまして、今言った三点、子供たちの発達の状況と六・三・三制との間には実際にそごを呈している、こういうふうに思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/247
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248・勝田吉太郎
○勝田吉太郎君 私も、今の梶田意見陳述者の御意見と全く同意見です。余りに細切れに切り過ぎてしまって、よろしゅうございません。本当のところを言えば、六・六あるいは六・五とか、種々さまざま考えられますが、そういうふうにして、ゆったりしたところがあった方がいいと思いますね。
それと同時に、今や大学も三七%の人たちが行っているのですから、大学の教養課程、この二年間というのを本質的にもっと考え直すべきだ。高等学校でやったことのおさらいのようなことをやっているような感がございます。また、勉強すべきときに勉強しない、そういうふうな大学生が多うございます。だから、六・三・三のみならず四もひとつ根本的にいろいろ考え直すということが必要だと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/248
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249・片岡清一
○片岡座長 和田貞夫君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/249
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250・和田貞夫
○和田(貞)委員 意見陳述の先生方、きょうは本当に御苦労さんでございます。
私は、鈴木祥藏先生に三点ばかりお尋ねしたいと思うわけであります。
先生も先ほど御指摘されましたし、私自身もそういうように思うわけですが、今日の教育の荒廃のその根本的原因というのは、高度経済成長政策に伴う人的能力開発計画に基づく能力主義に沿って今日まで続けてきました文部省の文教政策そのものにある、こういうように思えてならないわけであります。
子供というものは、幼いときには幼いなりに、少年期には少年らしく、伸び伸びと自由に活動し生活する中でこそ、単なる知識獲得ということだけでなくて、人間としての立派な成長を遂げるものではなかろうかと考えます。しかし、現実の姿というのは、一部のハイタレント養成のために盛りだくさんな教育内容で子供たちを締めつけているという学校教育の今日のあり方であり、先ほど先生方も言われておりましたように、受験地獄のすさまじさ、こういうような教育政策の中にこそ多くの子供たちの心の乱れあるいは希望を失っていく原因がつくり出されていると言わなければならないと思うのです。教育の改革は、まさにこのような現実をどう打開するか、多くの国民の子弟が生き生きと学校に通えるようにするためにはどうするか、こういうように、今日までの文部省の文教政策の反省の上に立ってこそなされるべきであると私は考えるわけであります。
しかし、今回の臨教審は、なお一層人材開発に目を向けて、多くの子供たちをふるいにかけ、結果として放置するという動きに見えてならないのであります。
そこで鈴木先生にお尋ねしたいわけですが、現在の教育の実態に触れながら教育改革に着手するとしたら、それはどのような観点から、どのような視点で行うべきであるかということをお尋ねしたいわけであります。どうすれば子供たちが学校教育に明るさを取り戻すことができるのでしょうか。先生のお考え方をひとつお聞かせ願いたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/250
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251・鈴木祥藏
○鈴木祥藏君 第一回目の意見で申し上げましたが、未来を共有する大人がともに子供たちと地域で生きていくような条件をどういうふうにすれば整備していけるのか。そのときに、原っぱの喪失というのに象徴されるような——私が現在住んでいるところでも、二十五年前には目の前に相当たくさんの空き地があったのですけれども、この二十年間に完全に子供たちの原っぱがなくなりました。倉庫ができ、工場が建ち、住宅が建ち、それからパブリックスクールという名前のテニスコートができ、相当高い金を払わなければそこでテニスもやれないというような状況が進んでいます。子供たちを見ていると、学校から帰ってくるとすぐかばんを持って塾に行って遊び仲間を求めているというような状況が進んでいます。本当は、子供たちが学校から帰ってきて、学校の時間割りというのは一日何時間が適当かというのは、大体今までの経験から決まっているわけですから、五時間の授業を受けてきてなおかつ勉強をしに塾に通わなければならないというのは、心身の発達から見たってまさにおかしいわけです。本当は原っぱへ出ていって夕暮れまで遊んで、うちへ帰って家族と一緒に夕食をして、あとは宿題があれば宿題をやるというような、落ちついた、十分遊べるような条件を子供たちに確保してやりたい。ところが、高度経済成長政策というのは、子供たちから原っぱを全部奪ったわけです。しかも、それなら学校に原っぱのような条件をつくったかというと、そうしていないわけです。過密ですからね。校庭を使うときにも順番を決めて、クラスごとに、何時から何時までの休みにはおまえのところとおまえのところだけ出ていって遊べ、ほかはうちの中へ入っておれというような過密過大学校というのをそのままにして二十年間やってきたのですから、子供たちがおかしくなるのは当たり前だと私は思うのです。何とか早く過密の学級をなくし、過大学校をなくしてもらうような政策をせんならぬのに、この臨教審でいくとそれは望み薄なのではないか。というのは、行革の方針がもう教育費を削減しようという方向だけに行っていますからね。これではどうもならぬなという気がします。何とかひとつその辺から根本的に……。だから、文部省が悪いとかいう言い方でなくて、私は、政治の基本がそういう人間を育てるという全体の姿勢に欠けてきた、それがやはり反省されるべきではないかと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/251
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252・和田貞夫
○和田(貞)委員 先生、今もおっしゃいました過大校とそれから学級定数の問題ですが、確かに、世界の学級定数よりも、日本の場合ははるかに劣っているわけですね。アメリカの場合は、小学校の場合二十五人から三十人、中学校は三十五人、ソ連の場合でも小学校が四十人、中学校が三十五人、西ドイツは小学校三十五人、中学校二十三人から二十八人という学級定数ですが、日本の場合は、いまだに一部を除きまして四十五名、こういうことになっておるわけですね。そういうような中で盛りだくさんな教育内容を詰め込んでいくというような今日までのやり方。しかし、そういう中におきましても、現場の先生方の努力あるいはお父さん、お母さんたちの並み並みならぬ苦労、こういう結果によって戦後の日本の教育水準というものは高水準を今日まで維持しているということ、現場の先生方やお父さん、お母さん方に非常に感謝しなければならないと思うわけなんです。
そういうようなところから教育荒廃あるいは先ほどから先生方が言われておったような非行、校内暴力が出てきていると思うのですが、特に大阪の場合は過大校が極端に多いわけです。例えば大阪市内では、中学校百三十二校中二十四校、小学校三百八校中三十四校、隣の私の出身の堺では、中学校三十四校中十六校、小学校八十五校中三十四校に過大校が及んでいるという状況であります。こういうような具体的な状況を先生はどうお考えになっておるかということを、もう一度率直な御意見をお聞かせ願いたいと思うわけでございます。
なお、時間がございませんので、三つ目としては私学助成の問題です。
何としても我が国の教育というものは幼稚園から大学まで私学に負うところが非常に大きい。この大阪におきましては特にそのことが顕著であります。教育水準もまた私学教育を抜きにして考えられないという状況であります。これも先生先ほど御指摘ありましたように、臨調行革路線といわれる政府の政策の中で、私学の助成金を大幅に削減するということが話題になっておるわけですが、新しい時代に向けて教育を考えるときに、これは一体どういうことでしょうか。こんなことでいいのであろうかどうかということを心配するわけであります。この点につきましても、先生のお考え方をひとつ述べてもらいたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/252
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253・鈴木祥藏
○鈴木祥藏君 過大学校、いわゆるマンモス校がどういう教育的なマイナスをもたらすのか。
教育学の方で言うと、小学校ですと六年間あるわけですが、校長先生がクラスで一回も授業をしなくても、その子供たちが六年を卒業していくときには名前と顔が完全に一致してわかる、大体そのくらいの規模が小学校の場合の適正規模だ。ではどれぐらいかというと、大体一学年百人、六学年で六百人という規模、中学校の場合になると、やや人数は多くて三年間ですから、校長先生が三年間で覚えられる人数というとやはり五百人から六百人。それが千人とか、大阪の場合は二千人規模のマンモス校ができた。これも大変急速な高度経済成長政策の中で人口の都市への集中、大阪への集中、それから例えば千里ニュータウンの造成それから泉北ニュータウンの造成があって、堺なんかの場合には泉北ニュータウンで急激な人口増加があります。そういうものがあるときは土地の値段が急激に上がってくるから学校の校地取得が成り立たぬのでという形で、財政的な困難にその原因を求めて過大学校、マンモス学校をつくってしまった。こういうことがみんな重なってきた。前からレビンという心理学者はサイコロジカルバッファーリージョンということを言っていますが、三人集まると一つのエアポケットのような心理的な緩衝地帯が生まれる、四人になれば二つ、五人になれば三つというふうにだんだんバッファーリージョンがふえていってそこへすっ込んでいく。過大学級になれば心理的な緩衝地帯に逃げていく子供たちがたくさん出て、教師の教育力が及ばなくなっていく。これが過大学級、マンモス学校へも及んでくるわけですね。ですから、何ぼ力量のある教師でも二千人を超えるような学校では子供たちを掌握し切れない。しかも、その子供たちが全部そういうバッファーリージョンに逃げ隠れて、教師とまともにつき合う時間を持てない。それが教育荒廃の重要な原因になっていくということをいろいろな教育学者が指摘してきたにもかかわらず、行政官はむしろ無視してきた。金だけで教育を進めてきたのですから、その辺に教育荒廃の原因があると私たちは考えます。
私学助成の問題については、私学の人たちの大変な努力の結果として補助金制度をだんだんふやしてきたわけです。人口が膨れ上がってきて公立学校の造成ができない、それをぜひひとつ私学にもお願いしますと言って頼んでおいて、そこで私学に全部犠牲を背負わせておいて一向に助成しなかった政府の姿勢は間違いであったということに気がついて、やっと出し始めた。その私学助成も、経常費の半額までは進めますと言っていたのと裏腹に、もうそれはやめた、今度は減らすのだ、この文教政策はやはりなってないと私は思いますね。私学助成は公共性を持っているわけですから、それは国民の教育権を支えていく重要な施策ですから、公立あるいは国立とそんなに大きな格差をつくるということは間違いです。そこには格差のないように、国公立の学生の負担をふやすという方向でやるのではなくて、世界の動向からいったって無償化の方向へ近づけるような方法で努力する、そこが重要な国民に安心を与える方向だと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/253
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254・片岡清一
○片岡座長 矢追秀彦君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/254
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255・矢追秀彦
○矢追委員 先生方大変御苦労さまでございます。先ほど来数々の御意見を拝聴させていただきまして、心から御礼を申し上げます。
まず最初に、梶田先生にお伺いをいたします。
先ほども少しお触れになっておりましたが、教育改革で一番重要な立場というと、もちろん社会全体もそうですし、また大学もそうですし、あるいは家庭もすべて大事でございますが、教員というものが、教師の先生方が、非常に重要な役割をされると思います。私たちもここにいる先生方も皆さんそうだと思いますが、学生時代に接した先生というのは、学問も優秀であり、しかも人間的に魅力があり、教育熱心であった先生というのが今でも心に残っていると思います。そういう先生もたくさんおられると思いますが、最近の傾向の中で、使命感あるいは力量、そういった面に欠ける先生方をやはり見ざるを得ないわけです。
そこで、教師としての使命感と力量を備えた教員の養成。それも、ただ養成だけではなくて採用にも問題があると思います。ただ単なる教員免許の試験、これは主にペーパーテストですが、それだけで先生になってしまう、そういうのも問題があると思いますし、またその後の研修にも問題がある。先ほども梶田先生少しお触れになりましたが、養成と免許試験、それからその後の研修、この三点についてもう少し具体的にお伺いしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/255
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256・梶田叡一
○梶田叡一君 ただいま御指摘のように、本当に教師の問題というのは最後の決め手だろうと思います。
教師というのは、率直に言いますと、まず頭がよくないといけないし、よく物がわかってないといけない。教える中身がわかってないとだめなんです。そういう意味で、成績優秀な方がなるということは必要条件だろうと思います。しかし、それは十分条件ではない。やはり教えていくということは一種の迫力のようなものが必要である。あるいは熱が伝わっていかないといけない。心理学ではラポールあるいはラポートということを言いますが、心が通じなければ教えるということになりません。したがって、どんなに成績優秀な人でもそれに向かない方がいるわけなんです。そういう向かない人でも、今教員養成の大学が非常に難しくなったために、偏差値でもって自分はここに入れるからということだけで先生になろうかということで行くという風潮がある。これは非常にまずいことではないか。教師というものの適性とか、あるいはよほどの覚悟がなければやれないことであるとか、そういったことをもっともっと広くわかった上で教員養成のコースに入っていくということがまず第一に考えられないといけないだろうと思います。
そして第二に、教育実習等に行きますと、自分が教師に向いているかどうかわかります。余り短いとわかりませんけれども、ある程度やればわかりますので、教員養成のための大学とか学部で、自分は向かないと思ったら企業等に行くような道がもっと十分に準備されないといけないのじゃないだろうか。今、実際問題としまして、例えば東京学芸大学とか大阪教育大学できちっと教員になれるのは大体三割いるかどうかなんです。これは非常に厳しくなったせいなんですけれども、しかし残念なことに、そういう大学へ行きますと、なかなかほかの就職口が十分準備されていない。
〔座長退席、池田(行)座長代理着席〕
したがって、向いてないし覚悟もどうもということでも、この学部に来てしまったから、この大学に来てしまったから教員にならざるを得ないのじゃないかということで無理するというところが若干あるようです。そういうことを耳にしております。したがって、教員養成の学部だとか大学から、もっともっといろいろな分野に行けるような道も準備していかないといけない。逆に言うと、それだけの覚悟を持っている人だけが教員採用試験を受けるということにならないといけない。
それから第三に、採用に当たりまして今は各都道府県の教育委員会が非常に御苦労になって、昔に比べれば随分よくなったと思いますが、まだまだ成績第一という面もなきにしもあらずという部分があります。ただ、それだけではなくて、今はいろいろなところをごらんになっているようですけれども、やる気だとか熱意だとか、それから子供と一緒に遊ぶのが好きか、教えるのが好きか、そういう適性とか覚悟ということが採用に当たって大きな要素を占めるような採用の仕方、これをもっともっと工夫されないといけないのじゃないかと思います。
そして教員養成の中身とかあるいは研修の中身についても、今申し上げたようなところから言いますと、ただ単に教養講座のようなことをやっていったりあるいは教育学部とか教員養成の大学で読みかえ読みかえでやっていくのではなくて、もっと教育の実態に即したことが教えられないといけないし、研修されないといけない。そういう教員養成のあり方ということは、きょうは短い時間ですので余り具体的なことは申し上げられませんが、これから改善、改革の道を考えていただかないといけないと思います。
〔池田(行)座長代理退席、座長着席〕
最後に研修について若干申し上げますが、まだまだ一部の方々が研修ということを毛嫌いなさっております。官製研修だからいけない。官製であろうが何であろうが、身になることを積極的に求めていくような姿勢がないといけないのじゃないか。官製で何かイデオロギーを注入されるのじゃないかという危惧がもしあるとするならば、それは教師として主体性に欠けているのじゃないか。一週間や二週間がんがんやられてそれで考え方が変わっていくというのだったら、そのような人は私はもう本当に教師としてだめだろうと思います。ところが、そういうことを実は口実にしまして、まだまだ一部の地域では、私も行きまして随分嫌な目に遭ったことが何回かあるものですから特に申し上げますが、そういうことに対する反対運動を非常になさっている。私は、これは関係のある方は考え直していただかないといけないと思っております。その裏側には一部の教師のそういう自覚のなさがあるのじゃないか、率直に言いまして。
私は、こういう手紙をある県で見せていただきました。これは五年次の研修に対して反対している先生からの教育委員会に対する抗議の手紙です。こういうふうに書いてあります。
私は五年間ちゃんと授業をこなしてきました。教科書もちゃんと上げてきました。子供にも慕われております。こういう完成された教師に対してなおかつ研修しろというのは一体何事か。
これは教員の世界以外の世界では、笑い話としてだったら通用するでしょう。しかし、そういうことが事実あるわけです。これは一通の手紙だけではございません。多くの人たちが反対運動の一環としてそういう手紙を寄せておられました。それを私は読ませていただきました。私から言いますと、こういう自覚のなさが一部の教師にある限りもっともっと研修を強めないといけないのじゃないか、こういうふうに思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/256
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257・矢追秀彦
○矢追委員 次に、これも梶田先生と勝田先生にもお伺いしたいのですが、医学教育の問題でございます。
私どもは、人間を原点とする教育ということを非常に強く主張しておるわけです。どういったものを教育するにしてももちろん人間が原点でございますけれども、私は今の医療問題等に見られますお医者さん、歯医者さんの問題——私自身も医学を学び、しばらく大学の研究室で研究と教育に携わってきた経験を持っておるわけでございます。そういった意味で、どの仕事も人間性が一番必要ですが、中でも医学教育というものは特に病気と相対するわけですし、国民の健康保持のための仕事ですから、最も人間的な教育が必要であります。
現在、医学部へ入る学生というのは大体共通一次でも最優秀の人たちが入ってきます。ところが、何のために医者になるのだ、何のために歯医者になるのですかと今の学生さんに聞きますと、大体金がもうかるからとか、あるいは生活が安定するからとかと言うのが非常に多うございまして、本当に病気をなくすのだとか、患者の苦しみを救うのだと言うのは非常に減っております。これはどこの分野でも大体似た傾向があると思うのですけれども、特にひどいように私は思うわけでございます。そういう意味では、これもさっきの教員の問題と関連してくるわけですけれども、結局、入学試験、それから大学における教育、それから国家試験、それから卒後研修、生涯教育、こういった面で人間を原点とする教育をもっともっとやっていかなければならない。また、今の大学自身が、全体的にもそうですが、要するに就職の予備手段になっている。こういうような社会の受け入れ体制も変えていかなければならぬわけですけれども、特に人間性の教育。また、本人たちがただ共通一次の点数がよかった、そうして生活が安定するから医学部に行って医者になろう、こういうのではなくて、本当にその人が医者に向いているかどうか、本当にそういった使命感を持っているかどうかということをある程度入学試験でも選別をする、また、大学の教育でもそれをやっていく、こうしていかなければ、結局仁術から算術と言われているようなことが、これは医療制度の問題もございますけれども、出てくるわけでございます。
特に医学教育に見られる人間教育という面について、これは全体に絡んできますが、どうお考えになっておるのか、梶田先生と勝田先生にお伺いします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/257
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258・梶田叡一
○梶田叡一君 今、医学教育を例にとられまして、人間教育ということをこれからどういうふうに考えたらいいかということについてお話がございましたけれども、私も非常に同感です。これは医学だけでありませんで、どういう職につく、あるいはどういう学部を大学で選ぶというようなときに、まだ今のところは偏差値とそれからあとどれだけ収入が得られるかということで考える傾向が非常に強い。率直に申し上げますと、私は、共通一次が全面的に取り入れられて以降この傾向が非常に強まってきているのではないか、こういうふうに思います。
例えば予備校で、一番難しいのは東大の医学部進学の課程だ、次はどこだ、こういうふうに切って、学部に関係なく、自分はこのくらいの偏差値であるから、あるいは共通一次でとれそうだからこの辺に行くというような、非常に安易な考え方が横行している。これは非常に憂うべきことだろうと思います。どの職業に行くにしてもそれなりの使命感がないといけないですし、またそれについてよくよく中身がわかっていないといけない。したがって、共通一次のような一次元で進学を考えるような制度、これはいろいろな形で改善、改革が図られないといけないと考えております。
また同時に、今の教育の内容、方法で自分の将来を考えるなんという機会がほとんどないと言っても過言ではないと思います。私ども、今、自己概念の教育なんというようなことを申して、自分が一体どういう人間なのか、あるいは将来何に向いているのか、あるいは世の中どうなっているのか、それに対して自分はどう参加していくのか、これを小学校から考えていこうじゃないか。
私の好きな言葉に「一隅を照らす」という言葉があるのですけれども、我々は自分にできる範囲で、何かの形で世の中のためになるということを小さいときから考えて、そのための準備をしていかないといけないのじゃないか。そうして、自分は何だったらできるということ、自己認識ということを深めていかないといけないのじゃないかということを私ども考えますし、また、一部の学校の先生方と一緒に、こういうことをどう実践化できるかということを工夫もしているわけなんですけれども、そういう自分ということを考える、あるいは自分の世の中に対する、ほかの人に対する役立ち得る可能性を考える、そういうようなことをもっともっと小学校から実際のカリキュラムの中に取り入れていただきたい、こういうようなことを考えます。
また、これは実は今言った学校教育だけでは解決しない問題で、今のマスコミの一つの風潮として、いわゆる大衆社会化現象の中で、マスコミのヒーローというのは結局は芸能人に代表されるような方、あるいは大きな犯罪に関するような方であって、子供たちが伸びていく、あるいは我々自身にとってもですけれども、そういう型見本、モデルになるようなものが余りにもマスコミの中から出てこない。子供たちの周りには余りモデルにしてもしようがないような、しようがないと言っては語弊があるかもしれませんが、そういう型見本ばかりが準備されているのじゃないだろうか。マスコミを中心といたしまして、この世の中にもっとこういう生き方があるのだ、もっとこういう尊敬すべき、目指すべき、すばらしいあり方があるのじゃないか、これをどんどん出していただかないと、どうしても偏差値と収入で自分の未来を考えていってしまう、そういうことになるのじゃないかと私は思います。
不十分ですけれども、一応三点だけ申し上げさせていただきます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/258
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259・勝田吉太郎
○勝田吉太郎君 今梶田さんがおっしゃった御意見、私は全面的に賛成なんです。ほとんどこれにつけ加えるものはないと言っていいくらいなんです。
医学教育ということに関して矢追さんがおっしゃった、それは私も同感でして、偏差値が高いからあるいは収入がいいからということだけでお医者さんになっている人がいるとすれば、かなりいるかもしれませんが、そういった人たちに私の、あるいは皆様方もそうでしょうが、命を預けるという気持ちにはならないですね。
私は、本当に正直なことを申しますと、いろいろな友人知人から、京都大学の医学部病院に入院したい、しかるべくひとつ立派な、有名な先生に紹介してもらえぬだろうか、そういうふうな依頼を受けます。そのたびに、どういう程度の病気なのか私は素人だからよくわからぬですけれども、非常にこれは難病だなと思った人に限ってはそういう紹介の労をとります。しかし、私自身、京都大学の医学部病院に昔入院したことがございます。目が悪くて、非常な難病だったものですから、長い間入院しておったのです。そのときにひげが生えたのですよ。二十数年前です。このごろは学生までひげを生やしているのですが、私のやつは年期が入っている。ともあれ、そのときの経験からわかっているのですが、冷ややかですね、国立大学の有名な先生方のおられる病院というのは。人間味がないですよ。患者というのは、病院に入院された方はよく御承知でしょうけれども、本当に弱い立場なんです。白衣を着た人が何か我々を実験道具に使うのではなかろうか、そういうような思いがするのです。私はそのとき既にして法学部の教授でしたから、教授仲間ということで、随分向こうはそれなりに気を使って一生懸命やっておったようです。しかし、同じ病気で入っておった一般の方々は大変おどおどしまして、実験に使われる犬みたいな、そういう感じがしました。そういうようなお医者さんがこれからますます多くなってくるのじゃないでしょうか。私は、そういった意味で、むしろこれからは人間味のあるお医者さんは私学から出てくるんじゃないか、そういうように期待しているのです。ともあれ、偏差値だとかあるいは収入だけで医者になったというような人には、皆さん、病気になってもかからない方がいいですよ。本当に私はそう思う。そういった意味で、教育という問題は最後は人間教育の問題ですね。そういうふうに存じます。
以上です。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/259
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260・矢追秀彦
○矢追委員 勝田先生に簡単に一言だけお伺いしたいのです。
先ほどのお話の中で、教養課程が必要でないと言われました。もちろん六・三・三・四制全体の見直しという中でどうこうというのは別として、現実にある教養課程のあり方、私はやりようによっては生きてくると思うのです。
私自身、昭和二十七年に大学に入りまして教養学部に行きました。そのころはまだ医歯薬進学コースというのはもう一回試験がありまして、二年後にまた試験を受けないと学部に行けなかった時代でしたが、それでも私は教養の二年間はむしろ文科系の単位をうんと取りました。単位以上に日本史とか西洋史とかそれから語学も相当取りまして、そういった意味では理科系を目指しながら文科系の方をかなり多目に取ってやったことで、今こういうように人生が変わったせいもあるかもわかりませんけれども、私としては、あの教養時代というのは非常に伸び伸びといろいろな教養を身につけることができたと自分なりに自負しておるわけです、本もよく読めましたし。
ところが、今の教養はもうほとんど学部ストレートになってしまいました。しかし、仮にそうあろうとも、その中での工夫というものはできないものかどうか。私も今たまにある大学に行きますけれども、学部に入ってきたら確かに白痴化しているような状況がございます。英語が全然読めないような学生も出てきている。やはりこの二年間でおかしくなったことは事実です。しかし、やりようによってはできるのじゃないか。逆に理科系の人は文科系を勉強する、文科系の人は理科系も勉強していただくとか、何か方法があるのじゃないかと思うのですが、簡単にお答えいただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/260
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261・勝田吉太郎
○勝田吉太郎君 今のお話で、二十七年に入学された、こうおっしゃったですね。それはあの時期はまだよかったのです。
現在のように非常に受験過熱が厳しくなりますと、例えば京都大学なら京都大学、世間的にはいい大学だというふうに思われている。本当にいいかどうか存じませんけれども、しかし、これまでのところ、ノーベル賞が出ているのですからいいのでしょう。ともあれ、世間的にいいと思われている大学に入ると、もう我が事成れりと思って勉強するのが本当に少ないのです。例えば語学に関しましても、先ほど英語のことをおっしゃった。大学を卒業するまでに、英語の、外国語の本を一冊も読んだことがないというのがまず大部分ですね。しかし、英語はまだしも、第二語学としてフランス語なりドイツ語なり勉強するのですが、これがもうほとんどお話にならぬですね。教養課程でしっかり勉強しないのです。いわんやロシア語です。ロシア語は、御承知のように文法からいろいろな点で非常に違うのです。かつ非常に複雑な文法ですから、最初取りつきにくい。そういうふうなロシア語を勉強するのはほとんどいないですね。私は昔、ロシア語を勉強しましたからよくわかっておりますが、ともあれ、語学というのは若いころやらなければいけない。それが全然だめなんです。それが現在のありのままの状況です。
ですから、矢追先生のような方は、まだいいときに入学なさり、かつ、心がけがよかったのです。今だって、それは心がけのいい学生は必死になって勉強するのでしょうね。やり方いかんによってはいいとおっしゃる。それは御自分の体験からそうおっしゃるのですけれども、そして心がけ次第では立派に教養課程をうまく利用する学生もいると私は思いますけれども、しかし、大部分の学生に関しては、受験過熱したこの時代に目標としておったいい大学に入った、たとえそういう大学でなくたって、とにかく大学に入った、もう我が事成れりというので遊んでしまうというのがありのままの事実ですね。
それから二番目に、私は法学部におりますが、法律の方も、世の中が非常に複雑になりましてから、実にいろいろな知識がふえてきたのです。これは医学部の先生も同じことを言います。昔の医師国家試験には非常に簡単に通ったものだが、今は大変な努力が要るのだ。同じような意味で、私の方の法律の方からいいますと司法官試験ですね。私どもの学生の時代には、無論私は旧制大学で、三年間ですが、三年卒業するまでに司法官試験は猛勉強をやれば何とか通れたものです、率直に言って。ところが、今は司法官試験に通る合格者の平均年齢は二十八・何歳というのですから、私どもの大学に関して言いますと、卒業しまして二年ないし三年間いわゆる留年しているということですね。それだけ世の中が複雑になって大変知識が必要なんです。そこで教養課程に二年おりますと、あと残るところ二年です。二年間でとてもじゃない、そんな法律のまともな知識を吸収するということは不可能なんです。そういった意味でも、六・三・三・四という制度はいろいろな意味で、いろいろな分野から意見を出していただいて考え直すということが必要だろう、そういうふうに思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/261
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262・片岡清一
○片岡座長 市川雄一君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/262
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263・市川雄一
○市川委員 きょうは先生方、御苦労さまでございます。
今までの教育改革の議論で、どちらかというと教えられる側の改革という意見が割合多いと思うのですね。先ほど教師の問題も出ておりましたけれども、大学のあり方の改革というのですかね、大学の先生方に大変失礼な質問かもしれませんが、小中高の教育が予備校化してしまっている。その予備校化しているところにいろいろな弊害が起きていることが指摘されているわけです。ただし、大学の入試制度をどんなふうに仮に改善したとしても、入試という制度には限界があると思うのです。ですから、入試制度にはベストがない。そういう意味で考えますと、大学へ入ったときは、今のお話のように疲れてしまっている。学ぶ意思が大分なくなってしまっている。今の大学のあり方が、要するに教育というよりもむしろ卒業資格を与えることに大学の重点があるように見えるわけです。したがって、入りやすくて出づらい大学ということが言われておりますけれども、学ぶ意思のない学生は進学させない、あるいは卒業させない、そういう大学のあり方の抜本的な改革をしませんと小中高の教育の中身の改善はできないのではないのか、こういうふうに実は私は考えているわけでございます。入学と卒業を別個のものとして見る。先生方に口幅ったいことを申し上げるわけですが、私は、学ぶということは学問を通じて自分の人間を再形成するという厳しい作業が含まれていると思うのです。それは、ただ単にテストでいい点を取って、単位をそろえて卒業資格をかち取る、そういうものとは本質的に違うのじゃないのか。
ですから、大学が本来の大学に戻ることが教育改革だ。よく河川の改修の例で言われるのですが、川の水をよくするには上流から直さなければならない。しかし、護岸工事とかそういうものは下流、河口からやらなければならない。まさに制度の改革は大学のあり方を変えることから始めるべきではないのか、私はこう考えておりますが、先生方の大学改革についての御意見を一言ずつ伺いたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/263
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264・小笠原暁
○小笠原暁君 私は、やはり今の大学というものは、もっと社会に開かれた大学になるべきだ、そのことが非常に大事なことだと思います。先ほどちょっと複線型ということを申しましたけれども、高等学校からじゃなくても入れるような形に変える、そういう形で、入りやすいけれどもやはり安易には卒業できない、そういう大学に変えていくことが必要だ。
それからもう一つ、これは大事なことですけれども、先ほど、一度落ちこぼれたら二度とはい上がれない、こう言いました。これは学歴社会の中でまさにそうなんです、学校の中で。しかし、社会全体として見れば、いい学歴がなくても世の中で成功している人、立派にやっている人というのは何ぼでもいる。この国民的な迷信ですね、いい学校を出なければ社会的にちゃんといい仕事ができないという迷信を打ち破ること、このことが私は一番の問題だと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/264
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265・鈴木祥藏
○鈴木祥藏君 よく、入りやすく出にくい大学にした方がいいのではないか、そういうふうにいろいろの方がおっしゃるのですけれども、先ほどもちょっと問題になっていました例えば語学の問題を考えると、教養課程での語学がどうあるべきかというと、やはり小数に人数を分けて丹念に語学の教育ができるような方法にしなければならぬ。そうすると、例えば入学試験制度というのを改めて大学でたくさん引き受けましょう、こうなったときに、教養の先生は何名おっても足りない。語学の先生は今の三倍も四倍も雇わなければならぬ。それだけ供給してくれるのか、そういう人材がおるのかどうなのか、そういう問題にすぐぶつかって、なかなか実際の改革というのは難しいですね。ただ、試験制度というのを緩和していくための方法を考えなければならないとすれば、やはり大学の格差を是正して、地域の学校に大半の学生の場合は進んでいける、そういう道を開いていくことがやはり一つの方法ではないかと思うのですが、それもやはり金が要るのですね。だから、行政改革を基本にしてと言われると、いろいろな大学をこれ以上ふやすことは無理だ、そういう線がたちまち出てきて、この問題は棚上げにしましょうと言わざるを得ないような状況があるのじゃないでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/265
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266・梶田叡一
○梶田叡一君 先ほど小笠原先生がおっしゃいました、社会に開かれたものにしていかないといけない、これは私は、全体的な性格づけとして大賛成であります。そのほかに、ごくかいつまんで申し上げますと、二、三考えないといけない点があります。
一つは、大学も教師の問題が大きな問題であります。今十二万人ほど大学の教授、助教授というのはおるわけです。六〇年ごろはほんの数万人だったものが、これだけふえてしまっているわけですけれども、残念なことに、これが昔の大学の教師のイメージに、悪い言葉で言うとあぐらをかいておりまして、教育の点でも研究の点でも必ずしも十分とは言えないというのが現状だろうと思います。この点につきましては、衆議院の文教委員会で、二年ぐらい前でしょうか、鍛冶清先生が御質問になって、例えば大学の先生がどれだけ学会に入っているかとか、どれだけ論文を書いているかというと、非常にお寒い現状であるという事実が明らかになったことがございますけれども、私も教師の端くれといたしまして、教師がやはり頑張らなければいかぬだろう、これが一つあります。
それからもう一つは、今の日本の大学は割と画一化しておりまして、法学部も医学部も文学部も理学部も同じような規定のもとに運営されて、あるいは同じような形で考えられてしまっている。実は専門的職業医をつくる医学部の教育と、それから、私は文学部を出たのですけれども、私が出たような文学部の教育とでは、いろいろな意味で、単位だとか卒業の資格だとか、運営の仕方がおのずから違わないとうそだろうと思うのです。それを非常に画一的な形で、大学だからということでやっているのは非常にまずいだろう。これからは学部の特色に応じて非常に違った形で運営される、あるいは卒業や入学や、そういうことを含めて考えられるということをしないといけないのじゃないだろうか、こういうふうに考えます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/266
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267・勝田吉太郎
○勝田吉太郎君 先ほどの市川さんの御意見に私は全面的に賛成なんです。まず大学を改革しなければいけないのだ、そういうように思っております。では一体どういうふうに改革したらいいか。これはとてもじゃない、時間がございませんから、ほんの一つ、二つしか申し上げられません。
一つは人間の問題ですね。今梶田さんもおっしゃったのですが、私もこれで大学に三十数年間おるのです。ですから一番よくわかっているのです。まあ世の中にいろいろな職業があるけれども、大学の先生ぐらい気楽でレージーにやっていける職業はないです。これはもう三十数年間の経験者が言っているのですから。それくらい無能教授、怠慢教授というのですか、中にはタレントになっている教授、もう満ち満ちておりますね。だから私は、これもまた十数年前からばかの一つ覚えに言っているのです。任期制を導入せよと言っているのです。契約制というふうに表現してもいいです。五年ないし七年ぐらいの任期制で、そうやって勉強してくれなければだめなんですね。まずもって大学の場合には研究ということでしっかりとした業績を上げる。そういった人は必ずや、まず例外なく、ティーチング、教えるという点でも情熱を持って教えるのです。そういうふうな任期制導入ということを大学でまずもってやるべきだ。それからだんだんと下の方へ拡大していったらいいというふうに私は思っているのです。まず、これはぜひやるべきですね。
私はさらに、暴論というふうに思われるかもしれませんけれども、これまた、かねがね言っているのです。私は国立大学の法学部にいますが、国立大学の法学部、経済学部、文学部、教育学部、こういったいわゆる文科系、これはいっそ思い切って私立にしてしまえということです。一刻も早く近代化しようと思って、国家指導型で、国家が東京大学、京都大学といろいろな大学を建てたあのころとは違うのです。そのものずばり申しますが、一体、国立大学の先生に、国家公務員の身分にしておいて、例えばフランスやアメリカのポルノ小説の研究をさせておく必要はないじゃないですか。それは私立大学へ行ってやったらいいのですよ。だからいっそのこと、そういう学部は全部私立にしたらいいのです。授業料でほぼ賄えるのです。しかし、工学部とか理学部とか医学部とか、これは税立大学にしておくより仕方がないでしょうね。非常にたくさんの補助金を与えるか、ないしは税立大学にする。先ほど鈴木先生がおっしゃった大学に対する補助金ですか、大賛成でしてね。どうなんですか、これは。このごろつくづく思うのだが、国立大学あるいは公立大学に失敗してそして私立大学に行くと、まるで懲罰金みたいな入学金、授業料の高さ、こんな不平等。憲法十四条ですか、法の前における平等というのがたしか規定されていて、自民党はこれまでほっておいてよくまあ選挙に勝てたものだ、本当にそういうように思っているのですよ。そういった意味で、格差を是正しなければいけません。そうするための一つの道具として、いっそのこと授業料で何とかやっていけるというようなところは全部国立から私立に直してしまえと私は言っているのです。決して学問的水準が落ちはしない、今や明治時代と違うのだ、そういうように言っているのです。
それから最後に、大学を改める、改革することが一番必要だという市川さんの御意見は全く大賛成で、そういった意味で、私は、さらにその出た後の出口のところで、企業とか官庁とかいうところが学歴を抹消せい、実力本位で採用せよ、そうすれば今のような有名大学、一流大学へ入ろうなんという俗っぽい風潮は少しはよくなるだろう、そういうように思っているのです。
長くなりますから、これで終わります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/267
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268・片岡清一
○片岡座長 中野寛成君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/268
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269・中野寛成
○中野(寛)委員 民社党の中野寛成でございます。
きょうは各先生方には本当にありがとうございます。先ほど梶田先生もおっしゃいましたが、できるだけ肩書の立派なおじいさんの井戸端会議にならないように、少し整理をしてお尋ねをしたいと思います。
きょうここで論議をいたしておりますのは臨教審法でございます。何をどういう場所で、どういうやり方で改革をしていくか、いわゆる教育改革の土俵づくりについてきょうお聞きをしているわけであります。ゆえに、教育改革のどこをどうすべきかという内容についてはお尋ねをいたしません。ただ、その教育改革の理念といいますか、基本の考え方について一点お尋ねをしたいと思います。
それは、先ほど来各先生方に共通して言えると思いますが、学校改革よりもむしろ社会構造の改革こそ教育改革の基本ではないのかという御指摘があったと思いますし、また、例えば国際化時代への対応でありますとか、そしてまた、より一層クリエーティブな能力を引き出す教育をしなければならないとか、いろいろな問題が指摘をされました。まして非行の問題等々考えますと、社会的な責任の問題も大変大きいことが指摘をされました。そういうふうなことから考えまして、教育改革の基本は、また一番大事なことは何か、たくさんありますけれども、その一番大事なものについてどうお考えか、各先生方にお聞きしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/269
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270・小笠原暁
○小笠原暁君 先ほど申し上げましたけれども、今社会が非常に大きく構造的に変化をしている。そういった変化した社会をサポートするような教育の構造にしていくべきだ、こういう観点で考えるべきだと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/270
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271・鈴木祥藏
○鈴木祥藏君 私の場合は、人間のありようですね。人間が人間であり、人間に成長していく過程で一番大事なのは何か、そこのところを考えると、実は私たちは自然存在だし、社会存在ですから、自然と子供との関係、例えば公害現象なんというのは極端に子供に影響しますし、今の骨折事故の多発なんかは食糧公害の極端な進行と一致しています。こういうものを政治的に見詰めて、自然を子供たちに与えるような政策を出さなければ、学校教育だけいじってみたってだめだと思います。
それからもう一つは、先ほどから言っていますように、共同体を共同体として保持して、子供たちにその共同体が与えられるような関係を徹底して政策化する、そうしておいてでないと、学校を何ぼいじくっても問題は解決しない、そういうふうに思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/271
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272・梶田叡一
○梶田叡一君 教育改革を考えていただく上で一番のポイントは、五十年後、百年後の日本の社会、文化、そういうものをどう想定するか、その中での一人一人の人間の幸せ、と言うとまた何かきざな言い方になりますが、幸せといいますか、充実した生き方をどういうふうに構想するか、これがあるかどうか。これがないと結局は技術論的な話に終わってしまいまして、どうにもならなくなると思います。そういうところから、いろいろとこの辺は議論があると思いますけれども、長い見通しで考えていただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/272
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273・勝田吉太郎
○勝田吉太郎君 私は、最初から言っておりますけれども、大学のみならず、小学校から大学に至るそういう学校制度をどういうふうに改めたらいいのかを論議する、それが今非常に重要なことだと思います。しかし同時に、制度を変えてみたって変わりようのない面もあるのだということを指摘しているわけです。そういった面で、決して私は制度改革が無用の長物だと言っているのではございません。そうではなくて、制度いじりだけでは解決できないような問題もあるということを言っているだけです。
そういった意味で、きょうはほとんど話題に上りませんでしたけれども、やはり教師の問題が重要な問題だと思います。立派な、かつ情熱のあるいい教師をどうやってピックアップしていくのか、リクルートしていくのか、重要な問題だと思いますね。同時にまた、教科書の問題もやはり重要な問題だろう、そういうふうに思いますね。こういった点についても教育改革の問題の一つとして国民的な論議があってしかるべきだ、そういうふうに思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/273
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274・中野寛成
○中野(寛)委員 続いて各先生方にお聞きをしたいと思います。
確かに学制改革や学校の中身の改革、教師の問題も大切でございますし、私どももそのことを注目しながら今後とも努力をしていきたいと思いますが、幅広い問題、特に先ほど鈴木先生は共同体の問題や自然と子供、特に公害の問題等々政策的な選択の問題がこの教育改革に欠かせないということをおっしゃられたと思います。そういうふうに考えますときに、それではどこでやるのだということになりますと、例えば文部省、そして四十六年に答申を出された中教審、いわゆる文部省の諮問機関としてのそういう審議会というもので果たしていいのか。実行力も担保されなければなりません。そういう意味で、やはり内閣全体が責任を持つ。内閣全体に答申をする審議会か文部省の諮問に応ずる審議会かということになりますと、やはり今これだけの大きな問題を抱えているときには、内閣全体として責任を持たせる、それに答申をする審議会というのが必要ではないかという感じも持つわけであります。このことについて各先生方、いかがお考えでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/274
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275・小笠原暁
○小笠原暁君 私は、冒頭の陳述でも申し上げましたとおり、これは国民的課題であり、国家を挙げて取り組むべき問題だという中野議員の御意見に全く賛成でございます。かつて私も中教審の委員をしたことがございますけれども、中教審というのは文部省の範疇の中でしか問題を処理できない。やはり臨教審という形で国全体として取り上げるべきだというふうに私は思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/275
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276・鈴木祥藏
○鈴木祥藏君 内閣が全体で取り組むというときに、特にどうして二十五名の人に意見を聞かなければならぬのでしょうか。それが私はわからぬのです。内閣には各大臣を全部そろえていて、大臣が集まって自分たちの問題を出して、国民が今どんなところで悩んで困っているのか、それを論議するのが内閣だと思う。あるいは議会だと思うのです。そこでどうして教育の問題を全体としてやり得ないのでしょうか。そこが私はわからない。だから、全部でひとつやってください。何で二十五名の人たちの意見だけ聞かなければならぬのですか。京都座会では松下幸之助さんの意見がわっと出てくる。ああいう形でもっとどんどんみんなで出して、そこで出てきた意見をどうして内閣が——これは学校の問題ではなくて、国の次の世代の人をどういうふうに育てていくかという問題だから、全体の問題だ。それが今まで学校教育という範疇だけで教育の問題を考えていたからできなかったので、今度は政治の問題だったら内閣全体で、あるいは議会全部でやってくださればいいんじゃないでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/276
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277・梶田叡一
○梶田叡一君 制度そのものの問題だけで言うと、私は文部省が事務局になる中央教育審議会だってやれないことはないと思うのです。ただ、四十六年の答申は本当に総合的な、立派な、立派なと言うと語弊があるかもしれません、いろいろと御批判はあるのかもしれませんが、なかなか立派な、しかも全部を見通した一つの体系的な答申が出ております。しかし、一番大事な部分、私どもの考える一番大事な学制に触れる部分というのは、その後どうにもならなかった。こういう経緯を見ますと、制度としては中教審でもできるのかもしれませんが、やはり一段上げて内閣全体の力で取り組んでいただかないと、教育の改善、改革というのはなかなかであろう、こういうふうに思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/277
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278・勝田吉太郎
○勝田吉太郎君 私も小笠原さん、梶田さんの御意見に全面的に賛成なんです。もうほとんどこれにつけ加える余地はない。私はいつも最後にお話しすることになるので、これにつけ加えることはない。
ただ一つだけ言わせていただくならば、やはり内閣全体としてやるべき仕事だ、そう思いますよ。文部省の立場からいいますと、できるだけ権限が広い方がいいのでしょうね。できるだけやる仕事が多い方がいいのでしょうが、そういうような文部省の役割、権限を縮減するという方向も私は大いに論議してもらいたい。そういう立場からいいますと、内閣全体といいますか、そういう立場でこの問題を論議するのは大いに意味がある。文部省だけのこれまでの中教審のやり方では、文部官僚にはこういう言葉を使うのは大変失礼と存じますけれども、文部官僚がネグってしまうというおそれもございます。今の教育改革で一番抵抗する要素というのは、そういう既得権がございます文部官僚、そして日教組の先生方だろう、そういうふうに思われてならないのです。
以上です。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/278
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279・中野寛成
○中野(寛)委員 次に、また全部の先生にお聞きしたいのですが、順番を勝田先生からにしていただいてぜひお願いをしたいと思います。
今鈴木先生もおっしゃいましたように、なぜ二十五人の意見を聞くのかということなんです。この運営方法にも入っていくことになりますけれども、二十五人もしくは、私は若干少なくてもいいかと思ったのですが、この方々の意見のみを集約して答申するということではなかろう、またそうであってもらっては困ると実は私も思っております。むしろ全国民的な意見をでき得る限りその二十五人の方々が反映して、また、専門委員を設けるとすれば専門委員の方々の選び方、これもできるだけバラエティーに富まれた方々にして、広く国民の声を結集するその一つのキーポイントとしてこの臨教審というものが存在すべきではないだろうか。あとはその運営にまつところが大きいというふうに思うわけであります。そういう意味でもちろん国会もその仕事をするべきですし、文部省もその仕事をするべきであります。しかしながら、この教育改革の問題に特に視点を当てながら集中的に論議をしていただく機関があることは、他の審議会とて同じことですが、大変大きな意味を持つものだ、このように思います。
そういう意味で、私としては、人選のあり方と運営のあり方によっていろいろ御心配の向きがありますことが解消されていくのではないだろうか、このように思います。このことについていかがお考えでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/279
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280・勝田吉太郎
○勝田吉太郎君 先ほどおっしゃいました中野さんの御意見、私は全く賛成なんです。二十五人という人間が多いか少ないか、それは技術的な点ですから、いろいろ考える余地もあろうかと思いますが、ともあれ、これらの人々は非党派的な、どこかの政党のひもつきというのではなくて、できる限り国民的な良識というものを発揮していただくような方でなければならない、そういうふうに思いますね。こういう方々が実際問題としてこれまでのところでは種々さまざまな改革案を審議し、そして総理大臣に答申をするということになるのでしょう。結局のところ、こういう人々の識見とか人格等々が非常に重要だと思います。ですから、私はよく存じませんけれども、新聞の伝えるところでは公明党や民社党もこういう二十五人の委員の国会の承認ですか、そういうことを条件に出しておられるというのは大変結構なことだ、そういうように思います。社会党もぜひそういった方向でお考え直しをしていただきたい、こう思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/280
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281・梶田叡一
○梶田叡一君 二十五人というのは、私なんかのイメージでは何か少し多過ぎるような気もしないわけじゃないのです。まとめ上げるということになりますと、もう少し少ない方がいいのではないか。グループダイナミックスという社会心理学の一部門がありますけれども、本当言うと七、八人が一番いいのです。それより多くなるとだんだんまとまりが悪くなる。しかし二十五人というふうになすったということは、この教育の問題についてはいろいろな御意見があり、あるいはいろいろと利害の対立する部分もある。これは広くその議論の広場の中に入っていただいて、そしてそれを闘わせながらということでありましょうから、結果としてはこれでもやれるのじゃないかと考えます。
ただ、先ほどちょっと申し上げましたけれども、この教育の問題は、一つの現象だけをとらえて何か改善、改革の策をとりますと、必ず全く違うところに副作用が出てくる。一つの風船のあるところを押さえますと別のところがぷっと膨らんでくるようなところがございますので、そういう意味では、専門委員の方は、それぞれの分野で教育について広い立場から、しかも専門的にやれるような方を十分に集めていただいて、そこで分担してかなり詳細な審議をしていただいて、それが二十五人のところに上がっていくというような運営の仕組みをぜひとっていただきたい、こういうふうに思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/281
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282・鈴木祥藏
○鈴木祥藏君 私は、第一回目の陳述のときにちょっと申し上げましたが、もし教育改革をやろうとすれば、これは従来教育権を侵害されてきた人たち、その中には障害者もおります。障害者団体、それから婦人、それから被差別部落あるいは在日朝鮮人、韓国人、これは八十万人おるわけです。それから北海道にはアイヌの人たちがおります。こういう人たちの意見を十分に聞かないと、社会的権利としての教育権がますます不当にねじ曲げられていくというおそれが出てきます。これは国際的な動き、国際障害者年を経、私たちが気づかされたことはたくさんありますが、そういうものをきちっと、世界の動向に照らして恥ずかしくないような委員の人選を可能にしてくれるならば、私は二十五人だって構わない、そう思うのです。ただ、その可能性があるのかどうかを危ぶむものですから、今のところこの原案の臨教審の案ではとても賛成しかねる。
また、大変有名なお年寄りの方たちが二十五人集まって、中教審のときもそうですから、平均年齢が七十一歳というようなそういう委員になられたのでは困ると思うのです。ぜひ若い人たち、そういう人たちがどんどん将来の日本をしょって立つ意見を反映できるような方向で本当は人選してほしい。それが可能であれば賛成やぶさかでないのですけれども、今の案ではだめだ、そういうふうに考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/282
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283・小笠原暁
○小笠原暁君 私、かつて企画部長として県の総合計画をつくったことがございます。このときに、総合計画審議会の大きさを約百名ぐらいの大きさにしました。こうなりますと、非常に意見をまとめるのが難しい。場合によっては全然しゃべらないという方も出てしまう。それがむしろ委員の出席状態からいうと、どうせ行ったってしゃべらないのだから出なくてもいい、こういう現象になって出てまいります。そういった経験から申しますと、今の二十五人程度というのはちょっと大きい気もしますけれども、まず広く意見を聞くという意味からいえば適当じゃないかというふうに思います。
ただ、今もお話がございましたように、専門委員を充実していただきたい。それから、広報と広聴を十分やっていただきたい。人々は、こういった教育改革に自分も参加したのだ、コントリビュートしたのだという意識がありますと、後の実行に対してもそれが動機づけになってくる。できるだけ多くの人から意見を聞く、あるいはできるだけ多くの人に知らせる、こういうことを考慮していただければいいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/283
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284・中野寛成
○中野(寛)委員 私は、鈴木先生がおっしゃられたことについても、十分我々自身も心得てこの発足については努力をしたい、こう思っておりますが、そういう方々すべてを委員として二十五名の枠の中に吸収できない、参加していただけないという場合にも、でき得る限りそういう方々の声に二十五名の委員の方々が耳を傾けるという努力がなされることが大切だろう、そういう意味での努力を我々もまたしていきたい、このように思いますし、また今小笠原先生からおっしゃいましたが、私は、各地方に市民会議なり、国民会議なり、教育改革のためのそういう機関ができることは大賛成でございます。むしろそういうところが中心になってこの臨教審の方々が大いに地方公聴会等をやっていただく、そして大いに意見を吸収していただく、そういう運用をすることが大切なんだ、このように思います。そういう意味での努力を我々としてもしていきたいと思います。
しかし、そういう中で一部の方々には、中曽根さんが言い出したからこれはちょっと危ないということをはっきりおっしゃる方もいらっしゃいます。しかし私は、教育改革も臨教審も、一内閣や一政党の道具であってはならぬと思います。そして、そのことがもし侵されるという危険性があるならば、決して国民は許さないと思います。日本国民は決してそんなにばかではない、こう思うわけであります。そういう意味で、私どもとしては、運用面等が十分に発揮されればそういう問題は起こらないのではないだろうか、中曽根さんといえどもそうそうそこまでおごり高ぶった気持ちをお持ちではなかろうと思いたいのであります。
さて、先ほど来おっしゃられたかもしれませんが、戦後の教育の中で一つ、往々にして教育改革の大きなネックになったのは文部省対日教組の対決の図式ではないか、このように思います。中教審の答申も立派であったと思いますが、しかし、それの実行を阻害したものの一つにこの図式があったのではないか。もちろん財政的な問題があり、政府の熱の入れ方の問題があることは事実であります。こういう観点に立って、結局行政は文部省が、現場は日教組がということで、そういうところへ握られている。もっとも日教組の場合も組織率は五〇%を割って余り大した力ではなくなってきたと言う人もいますが、いずれにせよ、そういう図式を何とかして払拭して、国民のための教育、国民の教育を確立しなければならないと思います。
ややもすると、教育ということになりますと、国民の多くの皆さんが激しい対決になる。例えば私自身は文教委員会にも所属しておりますが、文教委員会というのは一番何か対決法案を抱えているみたいです。肝心の資本主義の殿堂みたいな商工委員会なんというのはまず対決法案がないというような、国会の中でさえ奇妙きてれつな現象があるのですけれども、こういうことを払拭するためにはどうしたらいいのか、このことが実は臨教審をつくる目的でもありますけれども、大変重要な課題であろう、こう思います。
例えば、行政改革という観点からとらまえて、行政改革の延長線上にこの臨教審はあるものだ、けしからぬという論議も一部あります。しかし、行政改革の単なる延長線上なら、行政改革のための行革臨調の中の一部門がそれを担当すればよかったはずであります。それをわざわざ臨教審を別に改めてつくるということは、逆に教育的な観点から行革さえをも見直そうという姿勢だと考えてもいいのではないだろうか、また私自身はそう考えたい、そう思っておるわけであります。
そういうことについて、恐れ入りますが、勝田先生から順番に各先生方の御意見をまたお聞きしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/284
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285・勝田吉太郎
○勝田吉太郎君 今おっしゃられました中野さんの御意見、私は全面的に賛成なんです。そのとおりです。そういう考え方でこの臨教審をやっていただくならば、必ずや国民の圧倒的多数は支持するであろう、賛成するであろう、そういうふうに存じます。しかし、先ほどもちょっと触れましたが、一人の反対でもあったらだめだなんと言っておったら改革は絶対できません。日本的コンセンサスというのは何だかわけがわかりませんから、デモクラシーのこの時代、議会制民主主義のこの時代なんですから、最後は政権党が、あるいは臨教審に賛成した各政党が、言ってみれば泥をかぶる覚悟で責任をとって改革を断行していただくことが必要だ。また、先ほど中野先生がおっしゃったようなやり方でやれば、国民は完璧にそれを支持して、また総選挙でそういう政党にたくさんの票を与えるだろう、そう思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/285
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286・梶田叡一
○梶田叡一君 今中野先生がおっしゃいました文部省対日教組の対立の図式、私は、戦後四十年間これが非常に現象的といいますか、直接的には日本の教育をだめにしてきた、こういうように考えております。やはり臨教審という一つのきっかけで、そこのところを対立から協調へという動きがもっと強まらないといけないだろう。ありがたいことに、最近両方とも少しずつ様子が変わってきているような面もあるようですけれども、結局は、どちらが悪いという話にするのではなくて、やはり過去のいろいろないきさつはあるでしょう、私もいろいろと申し上げたいことはありますが、過去ということよりも、教育の問題ですから将来へ向けて、それぞれの立場の人、これは日教組だけではなくて今いろいろな教育団体もございますので、それぞれの立場の方が一体どういうコントリビュートができるのかという、何かそういう議論の場に臨教審をぜひ持っていっていただきたい、こういうふうに思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/286
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287・鈴木祥藏
○鈴木祥藏君 戦後四十年間の推移の中で日教組と文部省が対立してきた、こうおっしゃいましたが、実は民主主義の中で少数意見をどういうふうに考えるのかという問題が一つあるのではないでしょうか。多数派がいつでも自分の意見に従って政策を出してきた、それが現実にこのような教育荒廃をもたらしたとすれば、その当時この政策に対して反対を言った人たちは何を言っていたのか、それにもう一回耳を傾けて、そして少数意見をやはり尊重して、あの意見に従っておればこんな結果は出なかったという、そこの反省をこの際ぜひやる。そうでないと、例えばどっちも悪かったで終わってしまう。教育の真にあるべき姿というものに対する少数意見がずっと続いて出てきていた、それについて我々が今どう対処すればいいのかという反省をしないと、また多数派で一挙にある一定の方向を目指して教育改革が推し進んでいくということになりかねないので、私は今やはり危ない、こう思うのです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/287
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288・小笠原暁
○小笠原暁君 私もかつて三年間、県の教育の責任者として県の教組と真っ正面から対決をしてやってきた経験がございます。しかし、教育という問題に視点を据えて、立場の違いを乗り越えて話し合う余地はあると思います。お互いに率直に意見を出し合う。形の上では対決という形になるかもしれません。しかし、お互いにある意味でわかり合える。向こうはそれこそ、けしからぬ教育長と言ってがんがん言ってきますけれども、やはりこちらの気持ちはわかってもらえる。そういうように教育というものにみんなが視点を据えて、日本の教育をよくするためにみんなで汗を流そうじゃないか、こういう形をお互いがとることが必要だと思います。決して組合が怠け者天国というような観点でこの問題を取り上げるべきでないと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/288
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289・中野寛成
○中野(寛)委員 どうもありがとうございました。
一言だけ申し上げます。今それぞれ先生方におっしゃっていただきましたが、どちらが悪いということではなくて、先ほど鈴木先生がおっしゃった少数意見の尊重も含めまして、この臨教審というものが十分耳を傾ける、その中で本当に国民のコンセンサスを得て運営される、国民の支持を得て運営される、そういうものにするように我々も努力をしたいと思います。そういう意味で、きょう貴重な御意見をいただきましたことを心から感謝申し上げて終わりたいと思います。
ありがとうございました。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/289
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290・片岡清一
○片岡座長 経塚幸夫君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/290
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291・経塚幸夫
○経塚委員 時間も大変超過いたしておりまして恐縮でございますが、私が最後でございますので、先生方、よろしくお願いをいたしたいと思います。
まず最初に、梶田先生にお尋ねをいたしたいと思っておりますが、私は、先生が書かれました「生き生きした学校教育を創る」という書を読ましていただきました。大変興味深く拝読いたしましたが、その中で、先生はこういうようにおっしゃっておられます。
今の教育問題について、明治二十年代から今日に至るまで、学校教育として展開される標準的な教育活動の基本的性格はほとんど変わっておらない。端的に言えば、規格化された教室の中で教師指導型の一斉授業という方法、国によってその大綱が定められた教科書を押し込む、こういうものである。これでは、一人一人の個性的な人格的、社会的成長発達をできるだけ多面的な形で援助し推進するといったあり方に照らして考えると、問題がある。こういう見解を披瀝されております。
確かに、個人差に応じた行き届いた多様な教育、それから最小限必要な水準にすべての子供たちを到達させる、一律的な学習単位の編成や画一的な授業ではなく、各人の到達度あるいは教科目の特徴に応じた弾力的な学習単位の編成、こういうことが非常に大事だと思います。
そこで、私お尋ねいたしたいと考えておりますのは、今日の学習指導要領によるいわゆる押しつけ教育あるいは教科書の検定に見られるような、あるいはこの問題の法制化などは、先生のお考えからしますと、どうも創造的な教育の発展にとってはむしろマイナスになるのじゃないか、これを改めるべきじゃないか、かように考えておるのですが、先生の御意見はいかがでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/291
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292・梶田叡一
○梶田叡一君 今経塚先生御指摘の点、私はこういうふうに考えているわけなんです。
明治以降、非常に定型的な授業をやって教科書中心でやってきた、もう百年やってきて、そろそろこれを変えないといけないという基本的な考え方を私は持っております。この前提には、こういうことがあります。学校教育というのはやはり社会的な事業ですから、ということは、塾のように個人間の契約じゃありませんから。つまり、その時代その時代でどのくらいの社会的リソース、つまり資金とか人とか物が学校教育に割けるかということでその形態というものにはおのずから限界があります。例えば明治時代でも、一番いいのは一対一で、それこそ古代ギリシャのソクラテスやプラトンやアリストテレスがやったようにやるのが一番いいのかもしれませんけれども、これはその当時のお金、物、人からいうと無理なわけです。したがって、あのときに追いつき追い越せで非常に効率的にやるには、かなり教科書中心で、一人の先生がたくさんの子供を定型的にやらざるを得なかった。こういうことは認めますけれども、今のような時代にこれを引きずっていていいものだろうか、これが私のまず基本的な考え方なんです。
では、そういうことで一人一人の先生が自由に、少人数を教科書を使わないで、学習指導要領なんか関係なくやっていったらいいかというと、私はどれだけお金があっても、物があっても、人があっても、これもまただめだろうと思います。どういうことかといいますと、今例えばアメリカなどのようにコミュニティーで教育をやってきたところが、どうやってナショナルカリキュラムをつくるかということを議論なさっているわけですけれども、実質的な教育の機会均等ということ、つまり学校に行って小学校六年間、おもしろくもない勉強を一生懸命やったらこれだけの力がつくという、そういうどの子にも実質的な教育の機会均等を保障していくためには、やはりこれだけは日本の国民として身につけてしかるべきじゃないかという何かの基準がなくてはどうにもできそうにありませんし、そのためにはこういう教材があった方がいいでしょうということになりますと、指導要領とか教科書をむげに追放するということにはなかなか賛成できない。
ただ問題は、その指導要領の性格とか教科書の性格ですね。私は、例えば小学校一年生であれば北海道から沖縄まで、だれもが六月から七月にアサガオの鉢植えをつくるという、率直に言うとマンガチックな画一化は、これから克服されていかないといけないと思います。ただ、具体的な活動、具体的な内容ということは先生方一人一人の創意工夫が生かされ、学校としての取り組みが生かされる、そういうことを前提にした上で、なおかつ国民として、小学校一年生はこういうことがやられて当たり前じゃないか、二年生はこういうことがあって当たり前じゃないかという意味でのナショナルプログラム、ナショナルカリキュラムということがこれからも必要になっていくだろう。それはどういうやり方がいいだろうかということは、これからもっともっと議論していかないといけないと思うのです。ただ、方向性としては、数年前の学習指導要領の改訂で少し学校の自主性が認められるようになった、先生方の創意工夫ということが認められるようになった、私は前進だろうと思うのです。ただ、これで私は十分だとは必ずしも思っておりませんで、それをもっともっと前進させないといけないと思います。
そういうことも含めて、私は先ほどちょっとパイロットスクールということを言いましたけれども、余り指導要領の拘束を受けない、余りというか全く受けないような学校が各県に一つや二つあって、そこで公立でありながらこれがやれるじゃないかという可能性を広げていって、そしてこれをナショナルカリキュラムの方にも提案するし、また近隣の学校にも提案する、そういう仕組みをもっともっとつくっていかないといけないのじゃないか、こういうふうに考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/292
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293・経塚幸夫
○経塚委員 引き続きまして梶田先生にお尋ねしたいわけですが、先生の著書では、個人差に応じた教育を非常に強調しておられます。そして、一人一人の個人差に応じた基礎的な教育と同時に、いわゆるその人の人間の将来をかけた教育というものも強調されておられます。この教育を実施していく上で非常に大事な問題として、先生の方ではいわゆる教育人間関係、単なる人間関係ではなしに、教える側は相手の向上を願い、そして教育を受ける側はみずからその熱意の上に立って努力をしていく、こういう教育人間関係を大変強調されておられますが、今の教育条件で果たしてそういう人間関係をつくっていくということが十分保障されておるのかどうなのかという教育条件の問題をちょっとお尋ねしたいわけであります。
私は東大阪市なんですが、ここに盾津中学校というのがございます。ここはマンモス校でありまして、四十四学級、千七百六十九人、しかもまだプレハブが五学級も残っておりまして、最近のように暑くなりますと三十八度にもなる。先生、頭がおかしくなった、たたいてくれと言う生徒も出てきておるようであります。この校区の成和小学校も同じく過大校でありまして、実に四十六学級、千八百人、体育の時間には運動場で四クラス一緒にやらなければならぬという問題もございます。一番問題なのは、先生の方で名前が覚えられない、顔が覚えられない。七学級ぐらいなら、三年まで持ち上がりますと大体手の平に乗るようでありますが、もう十四学級にもなってまいりますと、とうとう三分の一の子供さんは名前も顔も、対面もないまま卒業していかなければならぬ。特に非行問題が起きたときに先生方は大変困られるようであります。こういう状況は、いわゆる教育人間関係の確立の上にとって重大な問題だと思います。
先ほど別の先生の御意見の中で、大阪、関西は非行、校内暴力の率が大変高い、その理由として日教組の云々というお話がございましたが、今の大阪のこの過大校の率を見ますと、小学校が約一九%で全国でトップですね。中学校も二〇%でトップです。四十一人以上の学級数も、全国小学校二六・二%に対しまして大阪が実に三九・五%、中学校は全国五一・一%に対しまして大阪が六九・七%でございます。したがいまして、過大学級、過大校の率というものが大阪がとりわけ全国比率の中でも大変高い。ここに非行の率が全国水準よりも高いという一つの私は重大な要因があるのじゃないか、かように考えております。
過大校の解消、特に四十人学級の早期実現は、これはもう全国民的な課題でもありますし、法制化も見ておるわけでありますから、教育改革を論ずるならまず足元から、しかも今の最も緊急な課題の解決から手をつけるべきだ、かように考えておりますが、その点先生、いかがでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/293
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294・梶田叡一
○梶田叡一君 結論的に言いますと、今経塚先生のおっしゃったことに私は本当に大賛成であります。
今おっしゃいました中に二点ばかり大事な問題が含まれて、私に対するお尋ねの問題も入っていたと思いますのでごく簡単に申し上げさせていただきますと、一つは個人差ということです。私は個人差と言うより個性と言う方が好きなのですけれども、これからの学校教育の中で一人一人の個性が本当に生きるような形の教育ということを考えていただかないと、改善、改革を有効に画一化を進める方に持っていってもらいますとどうも困るという考え方を持っております。したがって、これから臨教審が発足しましたら、その個性の問題をどう育てていくかをぜひお考えいただきたい。その場合の私の申し上げている個人差あるいは個性というのは、単なる能力的な一次元のものではなくて、つまり横の違いなんですね。今はサラリーマンモデルでみんな考え過ぎていると私なんかよく言うのですけれども、いい中学校、いい高校、いい大学でいい企業、そういう人生だけじゃないのです。そういう人たちがあるいはかなりおられるかもしれないし、そういう人があって悪いとは思いませんけれども、我々が生きていく道はいろいろなコースがあるわけなんで、その中でどういう生き方をするのかを小学校から考えつつ自分なりの個性の伸ばし方をしていく、その教育のあり方をぜひ考えていただきたい、これが一点であります。
それから第二点の教育的関係ということなんですけれども、私は今の教育の諸条件というものが、確かに教育的な関係を育てていくのに、それを保障するのに十分なものであるかと言われますと、必ずしもそうじゃないと思うのです。ただ、私が強調したいのは、教師というものは、いろいろな条件が整ったからさあこれで教育的な関係をつくろう、熱を持ってやろう、これではどうにもならぬと思うのです。
例えば私なんか、鳥取県の米子市というところで小中高教育を受けたわけですけれども、とても寒いところで、朝三十分で火鉢の火が消えてしまうわけです。小学校のときは戦後すぐですから、そういう寒い寒いところに五十何人が入って、木造の古ぼけた校舎で、私は今でも覚えておりますが、小学校一、二年、手島金子先生という先生に教えてもらいました。しかし、私はこのときの教育が今まで受けた教育で最高でした。それは最高だったと思います。この先生の迫力といい、力量といい、最高だったのです。これは今から考えると条件は物すごく悪いわけです。一人一人の教師のあり方としてはいろいろな問題があるでしょう。それはそれでこれから改善していかないといけない。しかし、なおかつ、この目の前にいる自分の四十何人の子供をどうやって教えてやろうか、どう伸ばしてやろうかというその熱と迫力、そして、それに基づいて一人一人の子供との心のつながりをつくっていくという努力、これなくして教育というのはあり得ないだろう、こういうふうに私は思います。
それは、私がこう申し上げたからといって、例えば条件のことは二の次でいいとか、そういうことじゃないのです。ただ、そういうことを基本にしながら、なおかつその上で条件整備というのはこれは行政の方で、政治の方で進めていただかなければならない、こういうふうに考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/294
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295・経塚幸夫
○経塚委員 小笠原先生にお尋ねをしたいわけであります。
公私格差の問題でありますが、先生は兵庫県の方で教育長もなされ、また副知事もなされて、この点は、状況はよく御存じだと思いますが、例えば大阪の例を申し上げますと、高校で公立の場合、納付金を含めまして七万六千九百円、私学の場合は四十七万四千三百円で、その格差が実に六・二倍に上っております。金額上の問題だけじゃございません。私学を例にとりますと、学則定数を超えております学校が大阪八十二校中三十五校に上っております。中には学則定員千二百名に対しまして千八百二十七名という、五割もオーバーしておる学校もあります。一クラス五十人以上の学校が九校もあるわけなんです。校地の面積を例にとりましても、生徒一人当たり公立が二十七・七平米に対しまして私学の場合は二十・七平米、校舎も九・五平米に対しまして七・三平米、こういう状況であります。
こういう困難な状況の中で私学の果されております役割は大変大きいわけでありますが、問題は、急増期の後に急減期が参ります。大阪の例で申し上げますと、昭和六十二年度十四万七千人の中卒者が、十年後の七十二年には八万九千人、いわゆる五万九千人減るわけであります。一方では急増期に対して公立高校を増設していかなければならない。一方は十年後に急減期を迎える。公立高校だけで賄える、私学は数十校廃校しなければならぬという状況が生まれてまいります。これは十数年後の教育を考えてみますと大変な問題であります。
そこで、私は、現在の公私格差解消のためにも、それから迫りくる急減期の対応策としましても、国会で決議されております私学に対する二分の一助成をこの際思い切って実行に移すということが、私学の役割を高めると同時に公私格差を是正し、そして急減期にも対応していく重大な中身だと考えておるのですが、御意見いかがでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/295
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296・小笠原暁
○小笠原暁君 私は、今私学がある意味の二極分化の時代にあると思います。兵庫県でございますと、例えば灘、甲陽、六甲というようないわゆる私立の進学校、それに続くかなり優秀な生徒を集める私立の高校と、今度は公立の落ちこぼれを集める私立、この二つに分化をしているという現象が顕著にあらわれていると思われます。それで、特に公立とともに底辺もカバーしようという私学、これに対しては公私格差をできるだけ縮めるという形での援助が必要だと思います。
しかしながら、非常に特殊な教育をする、そしてまた学校としての強烈な教育理念を持って、ほかとは違う個性のある教育をしよう、こういうところが幾つかございます。それに対しては、むしろ父兄が望んでそこへ行かせる、こういうことになってまいりますので、それに対しても全く同じような公私格差をなくするということが本当に必要かどうか。これは、私も行政をやっておりまして、いつもその二つの分化を一体どう扱うかということに関していろいろ考え込まされたわけでございます。
しかしながら、今何かそういった二つに分化している私学を一つにしてしまって、それで事が論じられようとしておる。やはり分けて考えるべきじゃなかろうか。そして、私学はそれぞれの建学の精神もございまして、それぞれの特徴を出そうとしている。特に昭和六十四年以降は中学卒業生の数が全国的に減ってまいりますので、ある意味で私学が冬の時代と申しますか、非常に苦しい時代がやってくると思います。そのときにいかに特色を出すか、いかに公立とは違った教育というものをつくっていくか、そして、それが魅力あるものにするか、これが一つの私学の生き残る道じゃないか。これはこれで本当に尊重すべきことだろうというふうに思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/296
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297・経塚幸夫
○経塚委員 梶田先生にお尋ねをしたいわけでありますが、先ほどの陳述の中で、今教師は何をやるべきか、こういうことで使命感を強調され、そして知識、技能の向上を強調されました。大変結構な御意見でございますが、今日、教師集団が創造的に技能あるいは知識の向上を目指して、しかも一人一人の個性差に応じた教育を発展させていくためには、教師集団自身の集団としてのお互いの学習、向上、こういうようなものが大変必要だ、かように私は考えておるわけなんです。
教員免許法の改正問題、三ランクに分けるというようなことでございますが、これはどうも国民の非難の的になっております学歴社会を教員の養成現場にまで持ち込む、そしてこれが実際に教育の場になると、こういうランクづけをして一つの学校の中でそれぞれの教員が分類をされるというようなことが、果たして教師集団の集団的な英知と連帯に役立つのかどうなのか。むしろ逆行するのじゃないか。確かに、教師に対しましてはいろいろな注文、要望もあろうかと思いますが、何といっても重要なことは、集団として連帯と創造を発展させていくということが非常に大事だと思うのですが、この教員免許法のいわゆる三ランクに分類する改正問題については、先生どのようにお考えでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/297
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298・梶田叡一
○梶田叡一君 私は、三ランクがいいのか、二ランクがいいのか、四ランクがいいのかというのは、結論的にはよくわかりません。しかし、教師の中で実際にこれだけ勉強をしてこういう中身を持っておる、そういうことが何かの形で反映されるというのはいいのじゃないかと私は考えているのです。
それはどういうことかといいますと、確かに余り機械的になりまして学歴社会がそのまま持ち込まれるのは困ったことですが、今でも三十になり四十になって国内留学で三カ月間、例えば私の研究室にも四人の教師の方が現職のままで勉強に来ておられます。学部だけでも大分おられると思います。教員養成の学部ではございませんけれども、そういう方々がおられます。ある意味では余り力になりませんよとは言っておりますけれども、しかし教員養成の方の大学にも、三カ月とか六カ月とか一年とか、そういうことで随分勉強に行っておられます。あるいは今の大学院に、例えば教育委員会派遣という形だけではなくて、休職までして行っている人だっておられます。そういう、みずからの学ぶ意思で次々に新しい考え方を身につけたい、知識を身につけたい、方法を身につけたいという方々、そういう人に、それをやらない人と違う免許状のあり方があってもいいのじゃないかなと私は思っているのです。
ただ、これは一つ前提がございまして、そういうことがあるために教師集団としてのまとまりがなくなってしまうとすれば困ることなんですね。私は、これは本当に専門職だということを考えればそういうことはあり得ないと思うのです。なぜかといいますと、例えば私も研究者の一人として言いますと、私は助教授であり、つまり教授とか学部長という偉い方が上にいっぱいおるわけです。肩書は全然違うし、給料も違います。しかし、もし私が教授とか学部長という偉い肩書のたくさん給料をもらっている人に、あなた、これは間違っているようだけれども、私はランクが下だから黙っていますというような、そういうことをやったら、研究者としては終わりだと私は思うのです。相手がどういう肩書の方であろうと、もし教育の専門家であれば、この子にかかわるのはこういうかかわり方の方がいいのじゃないか、こういうことについて教えるのはこういう教え方の方がいいのじゃないかといことの議論が率直にできるようでなければ、少なくとも専門職の集団ではないだろう。もちろん、これは一つの理想的な姿でありまして、今学校がそういうふうであるかどうかということになりますと、必ずしもそうは言えない。特に大阪と東京、福岡というのは必ずしもそういう状態ではない。
ただ、私が今そういうふうな理想的な状態を申し上げたのは、この五年間ほど、学校現場で教師集団というのは本当によく勉強なさるようになった、工夫されるようになった、研究なさるようになったという印象を得ているのです。いろいろなところでそういう学校が出ております。それは、例えば研究会に校長も先生方の中に一員として参加して、座長に手を挙げて、私はこう思うのだけれどもとやるような学校が幾つもあります。そういうような実情を見ますと、免許状にたとえランクをつけたとしても、本当に専門職として伸びていかれるならば、そういうことは教師集団としての取り組みには障害にはならないだろう、こういうふうに考えます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/298
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299・経塚幸夫
○経塚委員 最後に一つだけ、梶田先生にお伺いいたします。
今問題になっております審議会設置についてでありますが、仮に審議会が必要だとした場合に、私は三つの条件が満たされるべきだと思います。一つは行政から独立した機関であること、それから二つ目には、委員につきましては民主的に選出をされなければならないということ、それから三つ目には、先生、必ずしも傍聴は必要かどうかということがございましたが、やはり傍聴を含めまして論議の過程が、国民の中でさらに論議を広げていくというような経過をたどりませんと、結果が報告をされるということだけでは意思形成過程に国民が参加できないという弱点がございます。そのいわゆる自主、民主、公開の三原則が必要だと思います。簡単にお答えをいただきたいと思いますが、どうでしょう。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/299
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300・梶田叡一
○梶田叡一君 まず最初の行政からの独立、これは私も賛成です。そのためにも、強力な委員と専門委員とを選んでいただきたい。今までは、まとめあげるとか進めていくというときには、一番詳しい文部省の方々のお助けがなければなかなかこういう委員会はうまくいっていないという実情があるやに聞いております。したがって、これは委員と専門委員が、行政に依存しないと言うとおかしいのですけれども、引っ張られなくて済むような、そういう方々を選んでいただくことが必要だろうと思います。
第二の、民主的な選出、これは私は大賛成です。ただ、もちろんどういう手続をやるべきか、これはいろいろとあると思うのです。そういう意味では、国会でやはり何かの形で了承もするというようなことが一つの民主的な道になるのじゃないか、こういうふうに考えております。
また、公開、これも私は大賛成であります。ただ、傍聴されておりますと、物によってはなかなかという、つまり議論というのは右往左往するわけですね、右往左往しておりますとなかなかということがございまして、そういう意味で私は、ずっと傍聴して云々というよりは、やはり期間を決めて定期的に報道陣に経過を発表する、あるいは国会でも報告する、そして同時にそれに対するレスポンスをまた審議の中に入れていく、そういうやり方での公開がいいのじゃないかなと思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/300
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301・経塚幸夫
○経塚委員 どうもありがとうございました。
終わります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/301
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302・片岡清一
○片岡座長 これにて質疑は終了いたしました。
この際、一言ごあいさつを申し上げます。
意見陳述の方々におかれましては、長時間にわたり貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。拝聴いたしました御意見は、本法案の審査に資するところ極めて大なるものがあると信じます。厚くお礼を申し上げます。
また、この会議開催のため格段の御協力をいただきました関係各位に対しまして、深甚なる謝意を表する次第でございます。ありがとうございました。
それでは、これにて散会いたします。
午後一時四十七分散会発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110104889X01919840705/302
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