1. 会議録本文
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000・会議録情報
昭和二十七年三月七日(金曜日)
午前十一時三分開会
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出席者は左の通り。
委員長
梅原 眞隆君
理事
高田なほ子君
木内キヤウ君
委員
木村 守江君
黒川 武雄君
高良 とみ君
高橋 道男君
堀越 儀郎君
山本 勇造君
荒木正三郎君
矢嶋 三義君
岩間 正男君
事務局側
常任委員会專門
員 石丸 敬次君
常任委員会專門
員 竹内 敏夫君
参考人
東京教育大学教
授 竹田 復君
評 論 家 阿部眞之助君
東京都教育庁指
導主事 安藤信太郎君
都立第五商業高
等学校長 石田 壯吉君
日本教職員組合
文化部長 北濱 清一君
都立小石川高等
学校長 澤登 哲一君
法政大学教授 長澤規矩也君
国立国語研究所
長 西尾 實君
都立戸山高等学
校教諭 福島 正義君
都立白鴎高等学
校教諭 渡邊 茂君
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本日の会議に付した事件
○教育及び文化に関する一般調査の件
(漢文教育に関する件)
—————————————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/0
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001・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) これから文部委員会を開きます。
これから漢文教育に関して参考人のかたがたから御意見を伺いたいと存じます。参考人としておいでを頂きました各位に対して一言御挨拶を申上げます。
本日は御多忙の中、本委員会のためにおいで下さいまして誠に有難うございます。厚くお礼を申上げます。漢文教育の問題は、衆議院文部委員会におきまして最近しばしば議題に上つたようでありますが、これに関連して去る二月二十三日、衆議院本会議におきましてお手許に差上げてありますような東洋精神文化振興に関する決議案が出ているのであります。その趣旨弁明によりますれば、東洋の古人、先哲によつて残された古典文化は、学生生徒の精神生活の糧となるものであるから極めて重要であり、この意味で高等学校においては漢文を必修として一週二時間を課するということは当然のことである。これは單に学校教育の一科目の問題であるばかりではなくて、実は国民精神文化の確立如何という大問題に繋がるものであつて、我が国の学問の形式には、漢文教育の徹底なくしては到底不可能であるというのであります。文部大臣はこれに対しまして愼重に研究する旨答弁しております。本委員会におきましても東洋古典教育振興に関する請願というのを受取つておりますが、主として漢文教育に連関を持つているようであります。本委員会といたしましては、本問題に対して今述べたような事情の有無にかかわらず、極めて愼重な態度を以て対処すべきであるということに意見の一致を見まして、今日ここに各位の御意見を承わるわけであります。
つきましては漢文教育に関連して、例えば、一、東洋精神文化と漢文教育との関連性。一、日本文化の向上、特に民主化の過程における現在の学校教育から見て漢文を必修とすることの是非。一、高等学校の国語教育の上に占める漢文教育の地位、これは漢文を必修とすると仮定したとしても、果してどの程度の内容を持たせるべきであるか。一、中学校における国語科教育との関連性から見て、高等学校に漢文科を必修とすることの是非などの諸問題が検討を要するものと思われるのであります。これらの諸点のいずれかにつき、或いは又その他の点につきましてそれぞれの立場から御自由に御意見をお述べ頂きたいと存じます。発言時間は人数その他の点からいたしまして、甚だ恐縮且つ残念でありますが、御一人約十五分ぐらいにお願いをいたしたいと存じます。参考人の御意見を一応承わりましてから、各委員から御質問申上げると思いますが、よろしくお願い申上げます。なお委員各位に申上げます。先に本問題について検討すべき諸点を御参考に申述べましたが、これは一例を申述べたに過ぎないのでありまして、もとより各委員の御質問につきましての範囲を限定したわけでは断じてありませんから、御了承をお願いいたします。それでは御意見を伺うことにいたします。発言の順序としましては、公報に載つておる順序によらせて頂きたいのでありますが、但し竹田復さんは職務の関係上時間がありませんので、特別に最初に発言を願うことにいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/1
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002・竹田復
○参考人(竹田復君) 私竹田であります。今日は只今も委員長からお話がありましたように漢文教育について私の考えを申述べる機会をお與え下すつたことを厚くお礼を申上げます。私は中国文化を専攻いたしまして、漢文教育にも長い間携わつておるという私の立場を先ず申上げておきます。私は先頃御申出の幾つかの箇條がございましたが、その中で漢文教育の振興が日本の将来にプラスになるか否かというような点を中心といたしまして、漢文教育について私の考えておることを申述べたいと思うのであります。御承知のごとく漢文は明治時代から中等学校、高等学校で必須として教科目に加えられていたのであります。これは勿論生命のあるものとして扱わるべきものであるという趣旨であつたと思うのであります。併し公平に反省をして見ますと、それがとかく形式的文化として、單に古い知識を知るというように扱われたり、又は日本人であるが故に伝承された言葉や詩や文章に対して形式的な悦びを感じたり、或いは無自覚的にそれに盛られてある道徳的内容に便乗したり、甚だしきは自分の考えを言葉の中に押し込んで、大言莊語とか美辞麗句とかいう内容空疎のそしりを受けたりした点が確かにあると思うのであります。併しこれらの点につきましては今日我々の間においても嚴密なる批判を加えまして、只今この漢文教育に携わる者は、漢文は教育として如何にあるべきかということについてはかなり深い認識を持つておると存じております。漢文教育の意義は何であるかと申しますと、一口に申すと古典的教養への自覚ということに帰着すると思うのであります。言葉を換えて申しますれば、古典に内在する精神に現代的意義を見出すということであり、実践的知識としての真実性に甦えるということであります。漢文には言葉に含まれた精神があります。これは英語にも魂があり、又国語のうちにも心を見出し得ると同様であると思うのであります。漢文を学ぶということは、單に精神の形成を操作する技術ではなく、現物にぶつかつてその精神に触れ、これと交流するのでなければその意義はないと思うのであります。訓読という読み方が漢文にございます。この訓読という読み方は、とかく漢文はこうして読むものだという與えられた形式主義になつておりますが、そうではないのであります。本質的に言えば、漢文の中に潜む真実性なり精神なりに触れるために考え出されたものであります。用いられてから長い歳月を経て、今日ではただ與えられたものとして無意識的に受取つておるに過ぎなくなつたのであります。ここに漢文の書下し論も現われ、漢文の口語訳も頭を持ち上げて来るということになると思うのであります。それではその漢文教育の意義に徹することはできないと思われるのであります。我々は漢文という文体の中に潜んでおる精神に直接ぶつかるため訓読法によつて活きたものとしてこれと対決して行くのであります。一体私の考えでは翻訳は知識を伝えるものと思います。併し漢文を構成しておる文語は要約され、簡潔にされた言葉であります。即ち芸術的の良識で選ばれ、洗練され、そして結晶されたのでありまして、これを無駄を省いた形に配列したのが漢文であります。でありますからそれ自体に真理の光もほの見せ、又精神的の匂いを漂わしておるのであります。それを我々の先人はこれに応じ得る言葉を選んで読みくだいたのであります。それ故この方法で読むときには作品の精神に触れると共に実践的知識としての真実性をも知識として吸收し得るのであつて、これは中国文に対して我が国独得の翻訳法であると思うのであります。勿論時代の変化による語感を考慮することが必要でありますが、併しながら教育として飽くまでもこの形は崩したくないのであります。又崩してはならないのであります。考えて見ますと、我が国は中国文化の影響の下に文化の発展を見たのでありますが、中国文化は数千年の長い歴史を持ち、人間生活のあらゆる面で鍛えられた生活文化でありますから、種々複雑な内容を持つておるのであります。我々の相先はその中で我が国の国家社会の機構に適合するものを取入れて、これをば文化の創造力と批判的精神とを鍛える材料として、漸次日本文化へと進展させて行つたのであります。私は日本文学は日本人の一つの自覚の歴史であると考えることができると思います。而してこれができたのは、漢文によつて自覚のあり方を突きとめたからでありまして、これなくしては日本人の基本的自覚はできなかつたことであろうと思うのであります。この意味から言つて漢文は日本人の自覚と批判とを先ず確立したもので、ここに基礎を置いた相先の文化能力を探つて行くということは、我が国民の教養として是非とも欲しいことであります。
言うまでもなく我が国の文化は漢文文化から道の精神を、又仏教文化から法、即ち達磨の精神を学び取りまして、この両者を調和融合して世界観的の基礎を固めて、その上に優れた同化文化を形成して来たのであります。この道という言葉は與えられた規範的のものではないのであります。言い換えればこれは人間の自覚としての良識であり節度である、節度という言葉は一定の標準というくらいの意味でありますが、節度であり、又誠実であり、愛であります。言い換えれば人間の思慮と分別とを現わした言葉でありますから、これを内容とした作品に接するときには、人々の精神内容にも照応して、ここにみずから生命的のものを感ずるようになるので、そこで倫理的要求も満足されるというわけになると思うのであります。漢文の本国であります中国でも時代の政治的方向によつて経典の解釈が変つております。例えば漢の時代の解釈、或いは唐の時代の解釈、これはその時代の政治理念の方向によつて変つております。我が国の文化形成におきましても歴史的変遷があつて、その間いわゆる封建的と称せられるもののあつたことは事実であります。併し今日においてはその偏狭と歪められた面とを是正しまして、道という具体的な批判のよりどころを自覚させることは決して保守思想でもなければ、又安価な懐古趣味でもないと思うのであります。いな、それどころか将来の文化形成の基盤を見出し得ることとなると信じております。かくて漢文の教育はおのずから過去の文化遺産への価値判断にも役立ち、過去から現在への文化の本質的な繋りを意識させ、進んでは良識、高度の文化形成に役立
つ一つの要素となり得るものと思うのであります。私は決して漢文のみがそれであるとは申しませんが、少くとも漢文の中に含まれておることは、そういつた意味において一つのものとして役立つということを申上げたいのであります。前にも申しましたように、漢文文化は我が国語、国文文化の発展に対しては母体的の位置を占めておるのでありますから、語彙においても、文体においても、又表現の方法においても自然切離すことのできない深い関係持つておるのであります。従つて言葉とか或いは文章とかいものの理解には大きく役立つものであるということを私ははつきり申上げておきたいのであります。今日一般の若い人たちの読解力が大変低下したということがありますが、これはいろいろの理由もありましようが、こうした面、即ち外国のものを日本に取入れる、その基盤の国語というような面の広さを考えないことから起つて来ておるのではないかと思うのであります。終わりに一言附加えたいことでありますが、それは中国語の白話文と申します現代文のことであります。とかく漢文が中国の文体であるか故に、そういうものを読むよりも、時代と共に進む新しい物を読ませるほうがいいだろうというような御意見をお持ちのかたがあるようでありますが、これは中国語という面においてなされることでありまして、無論両者において相関関係のあることは認めるのでありますが、上に申述べたような立場からいたしますというと、現代の白話文であるとか、或いは中国語というのは、別に領野を持つものとお考えを願いたいのであります。勿論唐の人の詩なんかにも白話的の要素は入つております。そのほかただ一見古文と思う中にも国語的、俗語的の要素は入つておるのでありますから、教授はそれに対して一応の知識を持つということは、これは漢文教育を運用する意味において極めて望ましいことではあります。併し両者を混同してはならないど私は思うのであります。
私は以上のような立場で、是非この漢文教育というものをやはりお考えになつて頂きたいということを申述べて、皆さんに参考の意見としてお聞きを願つた次第であります。
—————————————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/2
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003・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) 次は阿部さんに願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/3
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004・阿部眞之助
○参考人(阿部眞之助君) 私は数十年新聞の仕事をやつて来て、漢文について教育的思想的、そういうふうな面にどういうふうな関係があるかというふうなことについては特に考えたこともないのでありますが、新聞をやつて来た関係において少しくこの問題を考えて見たいと思うのです。
この漢文科復活の問題は、直接ではないが、併しながら直ちに漢字制限の問題と深い連関性を持つて来るように思うのであります。文部省が先に漢字制限を発表しますこ、それから新かな使い法を発表しますという、全国の新聞雑誌社が一言もなしにこれに協力することになつた。詳しく内容を調べて見まするというと、あの制限にも過不足があつて、しなくもよいものを制限したり、又すべきものが残つていたりするようなことがあるかも知れません。又かな使い法についてもいろいろ議論はあつたことだろうと思うのです。ところが新聞雑誌においてはそういう議論するいとまなしに、殆んど無批判にこれを受入れてしまつたということにどこにあるかと申しますると、もうそういう議論を三年も五年もするには待つていられない、もう実に漢字の持つておるあの弊害にはやり切れなくなつたということなんでありまして、文部省がこういうことをやる前に、実はもう私どもは十数年前からしばしば漢字制限をしようということをほうぼうの新聞社で銘々考えついてやつてみるのですが、銘々やるからつい長続きしないので、やはりもとへ戻つて来てしまうというようなことで、しばしばやつてしばしば失敗し来たことなんであります。ところが今度は文部省が音頭取りになつて、全国の新聞雑誌がこれに協同するということになつて、大分漢字制限ということ、及びかな使いというものが実際に行われつつあることによつて、又文体も変つて来る、言葉の話し方も変つて来る。つまり言うと、新しい文体と新しい言葉というものがだんだん行われかかつて来るというような形になつて来たわけなんです。第一皆さんが漢字制限でお気付になることは、新聞で最近は振りがなというものがつかなくなつて来た、ルビが。これは漢字制限以来の新しい現象なのでありまして、日本の新聞というものは従来むずかしい漢字を用うるために読めない。読めるためには振りがなをつけなけりやならん。このために非常な複雑な操作を必要としたわけなんです。世界中でどこの出版物を見ても、どこの新聞を見ても読み方を書く振りがなをつけるというような、そんな新聞を持つておる国は世界中にありはしない。漢字を拾う、一つ一つ拾う、その間に又かなというものを挾む、又その漢字の横ちよへ振りがなをつけなければならんという、二重にも三重にも実に厄介千万な手数をかけて来たわけなんです。私は先年毎日新聞におりまして、社の命令でアメリカ、ヨーロツ六辺の新聞社の模様を見に行つたわけですが、新聞の印刷機械とかその他の設備においては、もう機械化においてはまあアメリカに多少遜色を見るばかりで、ヨーロツパ、イギリス、どこの新聞でも日本の新聞は最も優秀な機械設備を持つことになつている。ところが遺憾ながら文字の関係において相変らず昔のままの、そこで行詰つているということなんです。機械化ができない。文字で……。例えて申しますというと、東京から静岡まで汽車で行く、静岡から名古屋の間がお駕籠で、昔ながらのお駕籠で以て揺られて行かなければならん。それから名古屋から大阪まで又汽車に乗つて行くというような形、つまり言うと活字を拾う、文字の関係においていつまでも徳川時代の駕籠に乗るというようなことで、機械化ができない。それですから活字工場に入つて見ますと、新聞社の工場に入つて見るというと、日本の工場の人間の多いことには実に驚く。だからいわばアメリカやヨーロツパの新聞社に、工場に人のいないこと、森閑としていることには実に驚き入つた。どこで仕事をしているかというほど人間が少い。というのはこれらの国々が音標文字を使つているために皆タイプライターを使う。インタータイプを使う。極めて少数の人が叩けば簡單に文字を拾うことができるが、日本の新聞においては複雑な漢字を使つているために、非常なたくさんの人を使わなければ急速に仕事を行なうことはできない。今でも新聞社に行つて御覧になればわかりますが、実に驚くばかりのたくさんの人が右往左往しているのを御覧になつていると思う。これではとてもやり切れない。而もその上に振りがなまでつけなければ一般の民衆にはわからないような、そういうような新聞を作つておつてはどうにもならん。
これは教育というものは学校でおやりになることかも知れませんが、併しながら教育というのは、私は学校の八年とか五年とかいうものでなしに、一生涯のことだろうと思う。つまり八千万人に対してなされることが教育だろうと思う。学校以外の教育、それは何によつてなされるかというと、新聞教育によつてなされるほかしようがない。だから教育とかそういうものを余り狭い目で御覧になられずに、広い八千万人を相手にする、そういう教育を対象として考えるというと、むずかしい漢字がどんどん出て来るということは、甚だどうも国民教育を害すること甚だしいことだろうと思うのです。これは日本の新聞雑誌にとつては複雑な漢字があるということがどんなに禍いをしているかわからん。先年、戰争中でしたが、デーリー・メイルのノースクリツプ、あの人が日本にやつて来まして、日本の新聞を見て驚きました。実によく機械化ができている。これはイギリスが日本へ見学に来なけりやならんな……そんな冗談を言つていたが、私はデーリーメイルを見て知つておりますが、実に古ぼけた機械を使つている。日本の新聞のほうが遥かに優秀な機械を使つている。この印刷機械は……。もうロンドン・タイムスのごときに至つては一時代前の古くさい、古色蒼然たる機械を以てやつている。こんな機械をというくらいなんです。併しながら文字の関係においては一つ一つ今以てそうなんです。その他通信の関係においてもそうなんです。一々我我は書かなければならん。手で書かなければならん。ハンドライテイングしなければならん。ところがもう近頃アメリカあたりの新聞記者が新聞社で手で書くということはない、みんなタイプライターを使う。そのタイプライターは一個所で叩けば、仮にニユーヨークなら、ニユーヨークで一つの通信社で以てタイプライターを叩けば、全部の新聞社にこの通信を送ることができるという、実に簡便な方式によつておる。これが我々の場合は、一々これを電話で以て呼出して書いてもらう、手で書いてもらう。自分で手で書いたものを又電話で以て呼んで相手方に書いてもらう。手で書くよりほかに漢字というものは始末が惡いものである。近頃邦文モノタイプというものができておる。併しながらこれでも字が非常に多いために限りがあつて、そんなに何千とか何万とかいう無制限にたくさんの字を一時に送ることは到底できはしない。結局は千とか千五百とか、少数の漢字を選んで、いわゆる利き字を選んでそれで叩くということになつておる。でこれはときどきはタイプライターにない字が出て来る。ない字はあとで以て書き足す。手紙などを書くときによくやりますね、そういうことになつて、まあ日常生活の不便というものは大変なものである。これはどうかというと、この漢字というものを無制限に、野放図にもなく日本人は使い出して、我々の生活というものをみずから邪魔しておるということなんである。成るほど私はこの文字を現在のまま千とか千五百に限るならば、思想を制限するという、そういうふうな心配が私はあり得ることだと思う。思想が複雑になれば、これを表現する文字というものが複雑化をするのはこれは当然なことであると思う。そうだから永久に日本の文字が千とか千五百で以て制限されたらこれは大変なことである。
併しながら私どもの理想とするところは、こういう厄介な象形文字は、日本の実用文字としては御免こうむつて、遠い将来においてはどういう文字を採用されるか知らないが、とにもかくにもこの音標文字を利用することでなければ、もう世界の文明に私どもは遅れることだろうと思うのです。その一つの段階として、今のような日本のこの複雑な言葉を持つていたならば、これは一とびに飛んで行つたならば、仮にかな文字にしようがローマ字にしようが……今の言葉をそのままかな文字やローマ字にしたならば、これはわけがわからくなつてしまう。その一つの前提として言葉を整理して行くということがなされなければならない。従来は言葉の整理が足らなかつた。野放しにされておつた。そういう意味で一応これは不自由を忍んでも、私は文字はできるだけ少くして、そうして日本の音韻による、そういう表現の文字を採用する時代に備える必要があるのではないかと思うのです。
私の関係しておる毎日新聞では、めくらのために点字新聞を出しております。点字新聞は御承知の通り音標文字ですから、このめくらを教育してみますというと、少くとも半年かもう一年もやれば、最低限度一年もやれば完全に読み書きに関する限りはめくらの人は卒業してしまう。ところが日本人の目あきは(笑声)不幸にして、五年なり十年やろうが、大学を卒業しようが、死ぬまでも完全に読み書きができないということになる。そんなばかなことがありましようかね。塙保己一が目あきは何と不自由なものかなと言つたそうですが、日本においては漢字を用いる限りにおいては、未来永劫目あきは不自由なものかなで以て終らざるを得ないだろうと思います。そういうふうな意味で、私は遠い将来においてはこれはどうしても漢字というような、ああいう象形型の文字は廃止して音標文字を採用する、そういうときが来なければ、日本の文化というものは遅れるだろう。もう学校教育においても少くとも読み書きを教えるだけでも欧米に比べれば二年や三年、少くとも五年や六年遅れるかも知れない。そんな遅れを八千万人が毎年々々積重ねて行つたら、私は世界の文化に追つ付くことはできないだろうと思う。
そういう意味から申しましても私はどうしても文字を余分に使うというような方向には持つて行きたくない。そういう意味から申しますると、この高等学校、少くとも普通教育において文字を余分に使うような傾向のある、そういうふうな教科目は成るべくならば私は置いてもらいたくないというのが私の考え方なんであります。殊に何か東洋の古典を学ぶこと云々、成るほど私は最大の愛読書の一つは論語、孟子のああいうものは私の今でも手から離さない。というのはおかしいですが、絶えず見ています。併しながらこれを学科に置くと、普通教育にしてそういうものを教えるということは、私は必ずしも適当だとは考えない。これはそれ以上の学校に教えるなり、自分が研究するなりすることは、私は非常に結構なことだと思うが、併しながらこれを普通教育の中へ取入れるということが適当なりや否やということは、一つ專門家のかたがたの私は御研究を願いたいと思うのでありま旧す。
特に考えなければならんことは、日本が現在において何が一番大切な題目であるかという問題です。私はこれは一口に言えば民主化、この民主化ができ上らなかつたら日本は近代国家に成り得ないだろうと思う。私はどうして戰後において漢文科というものが廃止されたかという理由は余りはつきりわかりませんが、少くともこういうものがあるということは民主化に余り役に立たん、場合によると民主化の邪魔をするという理由で私は漢文科というものが普通教育から閉め出されたものだろうと理解しておる。そういたしまするというと漢文科を廃止したその理由が、今消えてしまつたかということが一つと、消えないならば、この漢文科を廃止したということが非常に大きな誤りであつたということがはつきりしたかということなんです。このことが論証されない前ににわかに漢文科を復活するということは、これは如何なものでございましよう。これは私はよくわかりませんが、專門外だからわかりませんが、少くとも漢文科を廃した理由というものが間違いであつたということがはつきりしない前に、而もまだ日本の民主化というものが甚だ遅々として、まあ私に言わせればまぬるいほど民主化というものが行われない前に、余り民主化には役立ちそうにもない、そういうものを今にわかにあわてて復活しなければならない理由がどこにあるかということなんです。もつと民主化に役立つ私は科目がほかにあるんではないか。一週何時間といいますが、一週何時間を割いてまでも漢文のために普通教育を捧げなければならんかという理由は、私どもには今のと
ころではわからない。まあそういう意味で、私は少なくともここ暫くというものは漢文科を普通教育の間に取入れるということはよほど愼重なる御検討が必要だろうと思うのですが、仮に取入れるとしても、漢文科の持つあの古典の香というものは、我々が新しい時代を作るのに非常に邪魔をする文章が多いから、そういう文章を取除くには非常な努力が要るだろうと思う。天野文部大臣か誰か知りませんが、新聞で見ますというと、そういう思想的な関係はないのだ。ヨーロツパでラテンやグリークの研究を課する意味と同じような意味合いで東洋の古典を課するのだというようなお話なんですが、ラテンやグリークの場合には、少なくともあの研究が始つてからヨーロツパにおいてはルネツサンス、文芸復興というものが起り、この文芸復興の自由な精神によつて自由主義の運動が起り、人権を重んずる、そういう近代的の思想がここから生れ出して来た。併し漢文によつてはそういう近代的の新しい運動が起り得る見込がありや否や、それはあるかも知れませんけれども、併しこれは将来のことで、これから学校で教えてルネツサンスを、日本のルネツサンスが漢文によつて起るということを期待し得るということはこれは先のことでないかも知れない、あるかも知れないということなんで、そういうものを私は期待するわけに行かないだろうと思うのです。もとより私が先ほど申した通り、論語や孟子なんかは愛読書なんですけれども、これによつて人格を作るとか人間を文化人として高めるという力はあることは認めるけれども、これを一般にまだ思慮の熟さない子供に教えるということは非常に危險性が伴うということを知らなければならんし、同時に教える漢文の先生という者が、そういう新らしい頭を持つた漢文の先生という者が幾人あるかということなんです。これを全国の学校に割当てたならば、随分いかがわしい先生が現れて来て、又いわゆる逆コースということをますます私は盛んにするというような慮れも多分にあるのじやないか。だからこの問題というものはなかなか軽々に断ずることはできないということが私の持え方なんです。大変失礼いたしました。
—————————————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/4
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005・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) 次は安藤さんにお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/5
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006・安藤信太郎
○参考人(安藤信太郎君) 私は多年国語漢文の教育に従事した者であります。それから又文部省の国語科の学習指導書の編纂にタツチした者でありますが、現在高等学校の教育全般に関係しておりますので、高等学校の教育全般に興味を持つもの、関心を持つものという立場で申上げます。
漢文二時間を必修にするという問題は、高等学校の教育課程全般から考えなければならんと思います。根本的には高等学校の教育課程を再検討する時期に来ておるのではないかと思います。一、二理由を申上げますと、高等学校の教育課程は五單位が基本になつております。これは言うまでもなく五日制を基礎にしておるのだと思いますが、日本は社会が五日制でない、従つて高等学校の五日制、従つて五單位を堅持するということは非常に不便であります。五日制を採用したところもだんだん六日制になりつつあるという現状から、若し單位を基本に考えるならば一週六時間或いは一週三時間、六單位とか三單位を基本にするほうがよほど便利じやないかと考えるのであります。それから二、三の科目について考えて見ますというと、保健体育は必修三單位、選択が二單位となつております。それは国語と同じような関係にありますが、体育は保健が加つて、自分の健康を維持し増進する、そのための知識などがかなり重んぜられておるようであります。更に柔道とか剣道とかというようなものが新しい意味で加えられるようになりますと、果して三單位で牧まるかどうか、恐らく収まらないという主張が保健体育の立場から成立つのではないかと考えます。芸能科は音楽、図画、工作、書道とありますが、これはいずれも選択になつております。高等普通教育で芸能を全然やらなくても卒業できるというようなことが果していいかどうか。従つて芸能科は少くも必修選択にして、それぞれの興味、必要、能力に応じて音楽を選ぶとか、書道を選ぶとかいうことが妥当ではないかという、そういう意見もあります。そのうちの書道は、今東洋精神文化振興に関しては漢文に相似た主張の立場を持つているかと思いますが、書道のほうでも是非これは必修にして欲しいというような請願をしたとかしないとか、責任者からそんな話も聞いておりますが、そういう主張も成立つわけであります。これは要するに高等学校の教育課程全部を再検討して、その上で漢文もその枠の中から考えなければならないかと私は思つております。
次に国語教育という大きな立場を一応離れまして考えてみますと、東洋精神文化振興に関する決議が、私はそれを拜見する機会を得たのでございますが、その四番目に漢文を必修として課している具体例というのがあります。日比谷高校とか北園高校とか、教育大学附属高校とか、たくさんの例が挙げてございますが、それを見ますというと、必修三單位を守つているところはリベラルコースではありません。国語乙二時間を必修にする、併せて漢文二時間を必修にする、或いはそれを分離してしまいまして、漢文一時間、国語乙一時間を必修にする、つまり五時間を必修にする、或いは七時間を必修にするというような行き方をしております。これは恐らく必修三單位では少い、どうしても五時間なり七時間なり国語教育を必要とするという、そういう見通しの下に、こういうことを実施しているのではないかと思います。つまり現在の実情は三單位では少い、五單位にしなければならない。現状を肯定するのではありませんが、五單位くらいはどうしても必要ではないかというようなことがこの具体例から見られるのであります。ところで国語乙は、これは古典とは限りませんけれども、実情は殆んど国語の古典を勉強しておるようであります。この具体例を冷静に見ますというと、国語として五單位を必要とする。そして若し二時間殖える、二單位殖えるというならば、機械的ですけれども漢文一時間、それから本来の日本の古典一時間、合せて五單位ということが妥当ではないかというふうに考えられるのであります。指導要領では漢文は日本の古典と位置づけられましたが、では日本本来の古典をどうするのか、三時間のうちで日本本来の古典を勉強できるのかどうか。漢文が二時間要求するならば、日本本来の古典を学習するコースも二時間くらいを要求する権利があると思います。このことは結局国語は三單位では少い、五單位くらいは必要とするだろう、併しその内訳は漢文二時間というふうにすぐならないように思います。
もう一つ根拠があります。国立大学協会で、大学に進学する生徒にどういう教科目を選択したほうが好ましいかという調査があります。これは文部省でやつたのでありましようから、文部省でもらつたんですから、権威あるものと思いますが、それによりますというと、国語乙と漢文との割合がはつきりわかります。ここに百分比がありますが、文科系では、国語乙を選択することが好ましいというのが平均しまして五一%、漢文を選択するというのが五二%、つまり文科系においては、日本の古典と漢文とを選択することが望ましいというのが同じくらいであります。これが理科系になりますというと、国語乙は一四%、それに対して漢文は三%であります。芸能系は国語乙が五〇%、漢文を選択して欲しいというのが二三%、その他の諸系統の学校では、国語乙を一応古典として三五%、漢文は一九%に過ぎません。医学系統においても国語乙をというのが二〇%、漢文は七%に過ぎません。高等学校の教育は完成教育でありますから、それで一応の完成を見るのでありまするけれども、半数くらいが大学に進学するならば、大学のほうのことも十分に考えなければならない。又それが高等学校の諸先生の関心の最も大なるものであります。高等学校ではつまり漢文よりも国語乙、日本の古典をより多く学習することを希望しておるということも、この調査が語つておるのであります。国語三單位では少いと、国語五單位ということがまあ常識的な見通しではないかと思うのでありますが、その内訳は今も申しました通りでございますから、五單位のうち二單位をすぐ漢文にするという結論はどうしても出て来ない。国語五單位にしてその内容をどうするかということは冷静に研究する必要があるのではないかと、そういうふうに考えます。
—————————————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/6
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007・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) 次は石田さんにお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/7
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008・石田壯吉
○参考人(石田壯吉君) 本日漢文教育の問題にそうつきましてお呼出しを頂いたのでありますが、私はこの問題につきましては全然素人でございまして、御期待に副い得るような意見を述べることができないかと存じ上げますが、折角のお呼出しでございますので、高等学校長として一高等学校を管理しておる責任者、特に普通課程のほうは本日澤登君が参つておりますので、職業課程の高等学校長として私の意見を述べてみたいと思います。
順序といたしまして、先ず第一に漢文教育が将来の日本にプラスするかどうかという点について申上げ、次に第二点は現在の高等学校の制度下において漢文を必修とすることの可否、それから第三に漢文教育と国語政策の問題について述べさして頂きたいと思います。
第一の項目につきましては、結論的に申しますと、教材の選び方とか或いは教授の方法が適正でありますならばプラスになるのだという確信を持つております。その理由は、これはもうすでに一般に言われておる通りでございますので、改めて申上げる必要はないかと思うのでありますが、第一に漢文は我が国言語文化の背景となつておるものであつて、我々の言語や文学の中には漢文的の要素が多く融け込んでおりますから、日本の国語や或いは文学、広く文化一般を正しく理解するためには、これを学習することが必要であると思います。取り分け高等学校の段階になりますと、理解力の程度も相当高くなつておりますから、是非こういうものを学習させたい、こういうふうに考えております。併しこのことは先ほども阿部先生から縷々お話になりました、この国語政策の問題とも関連したものでございますので、無條件に是認するものではございませんけれども、ここでは一応国語教育の一環としての漢文の重要性というものを強調いたしまして、将来の日本にプラスになるという理由の一つといたしたいと思います。第二の理由といたしましては、精神文化の振興に資することが大きいということをよく言われておるのでありますが、戰後我が国の思想の混乱は、これは覆うことのできない事実として各方面から注目されておるのでございますが、この際日本民族の思想の故郷ともいうべき東洋の精神文化を振興することは、刻下の急務であると考えます。これによつて初めて東西文化を融合した新しい日本の文化を創造することができるのではないかと考えます。この意味で漢文教育を振興することは、これ又日本の将来にプラスになるという理由の一つといたしたい。ただここで注意しなければならないことは、この教育が或る政治的の意図に利用されて、一部ジヤーナリズムが警告いたしておりますようなことにならないように十分配慮しなければならないことは申すまでもないことでございます。
次に第二の項目であります、漢文必修可否の問題について申上げます。現在の高等学校の教育におきましては、御承知のように卒業に必要な單位は八十五單位以上となつております。そのうち国語、体育、社会、数学、理科、この五つの教科目で三十八單位を必修しなければならないことになつております。この三十八單位のうち国語は九單位を占めておりますから、まあ約四分の一が国語ということになるわけであります。それに我々農工商水産等の職業課程の高等学校になりますと、この三十八單位の上に更に職業関係の教科を三十單位以上を必修することになるわけでありまして、そうなりますと選択に充てられるところの單位数は僅かに十七單位、或いは少し幅を広げても二十二、三單位くらいしかないというわけでございます。従いましてこれ以上必修時間を殖やすということは困難でありまして、若し国語を、只今安藤君からのお話のように五單位とするとか、或いは別に漢文科を二單位ずつ加えるというようなことになりますと、現制度の最も特色であるところの選択制度というものの意味は殆んどなてなつてしまうといつても言い過ぎではないのじやないかと思います。現に去る四日に都下の商業高等学校長が集りました会がありましたので、その席上、別にこの問題を討論しに集つたわけではありませんから、簡單に皆さんの意見を聞いたのでございますが、漢文必修についての賛成という校長は殆んど一、二の校長だけで、残りの大部分の校長は反対であつたのであります。又選択の幅の割合に広い普通課程におきましても、必修の三十八單位中において数学と理科はおのおの五單位でありまして、それぞれこれらは四科目に分れておりますが、そのうち一科目しか必修の中に含まれていない、こういうことになつております。そうなつて参りますと、これは先ほどもこの国立大学協会のほうからの調査を一部お読みになつたのでありますが、大学側の要望その他から申しまして、どうしてもこの最小……数学、理科についてもう一科目ずつを必修をさせるということはどうしても必要でありますし、英語もこれもどうしても必修に準ずることになりますので、結局これ又商業課程の場合と大差ないことになるわけでございます。なお定時制課程の場合を今度考えてみますと、その対象が勤労青年でございますという特質から、むしろ教科目の整理統合によつて学習の機動性を発揮するということが必要ではないかと考えるぐらいでございますから、これに漢文を必修に加えて独立して課するというようなことは無理じやないかと考えます。このように考えて参りますと、少くも現在の高等学校の教科課程の基本的な組織を是認する限りにおきまして、漢文科を必修とするということは当を得たものであるとは言えません。併し先にも述べました通り、その重要性というものは、これを十分に認められるのでございますから、必修国語九單位の中で以てできるだけ時間を割いて能率的な漢文教育を行うようにする必要があり、又更に選択漢文の制度というものは、今後一層これを活かして行くように努力しなければならないのじやないかと思います。必修国語の中で漢文を課することについては、これはすでに文部省の学習指導要領に明記されているようでございますが、必修国語の教科書には漢文がないためとか、或いは又教員組織の問題とか、或いは国語教育そのものの問題もございましようが、そういうことでとかく疎んぜられている傾向が見られるのでありまして、従いましてこうした点につきましてもいろいろ善処して、国語教育の一環としての漢文教育の正しい成長を助けて行くようにする必要があると存じます。
最後に漢文教育の振興と国語政策の関係について申上げます。上述いたしましたように我が国文化の母体であり、国語とは不可分の関係にある東洋の思想や漢語、漢文を正しい意味において学習させることは教育上極めて大切であることは申すまでもありません。従いまして私も現在校長といたしまして常に国語科教員にこの旨をお話をいたしまして、その線に沿うように努力いたしておるのであります。併し今回の漢文教育振興の問題が、戰前行われたような難解な字句や文の構成を主張するようなことでございますならば、現行の国語政策、取り分け先ほどお話になりました教育漢字制定の趣旨と背反するところが少くないのではないかと存じます。そうかといつて教育漢字なり或いは当用漢字なりの範囲を出ないようにすれば、これは取材はひどく制限されて、極めて狭い範囲内のいわゆる書き下し文と申しますか、或いは平易の原文にとどまる、こういうような結果に陷るのでありまして、漢文教育の効果を十分挙げ得ないのではないかと存じます。従いましてこの間の調整をどうするか、こういうことが誠に大きな課題と言わなければなりません。普通課程の高等学校は暫くおきまして、我々職業課程の高等学校におきましては、卒業生の大部分が直ちに実業に就くことになりますので、必修国語の中で漢文を課する場合におきましては、平易な無理のない文学の範囲内で、わかりやすく本当に血となり肉となるようなものによつて高い教養を養うようにしてやりたいと念願いたしておるわけでございます。
時間もございますのでまだ申上げたいことがございますが、後刻質問の際に讓らして頂きまして、これを以ちまして私の陳述を終ります。
—————————————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/8
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009・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) 次は北濱さんにお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/9
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010・北濱清一
○参考人(北濱清一君) 日本教職員組合の教育文化部長の北濱でございます。
私の手許に昨年の今頃自由党の一議員のかたから、自由党に対して東洋文化高揚に関する特別委員会設置の要望という文書があります。この中に盛られてある内容は社会道義の確立、道徳教育の確立、国字国語問題の再検討というような項目を掲げてございますが、その内容を検討いたしました場合に、今回衆議院において決議として出されたものの内容と大変よく似ておるのでございます。私は今日漢文教育の振興が、日本の将来にどういう関係を持つかということを先ず考える場合に、先般来衆議院の文部委員会においてこの問題が取上げられた過程においてこういうことを言われた議員がございます。青年諸君がパチンコとかジヤジとか或いはダンスという面、必ずしも惡いとは思いませんけれども、そういうところにのみ娯楽や快楽を求めるよりは、朗々と青年諸君が漢詩を朗詠するというような意気軒昂たるそういう面が、私は社会教育の面からも必要であると思うのであります。こういうような一節があるのでございまして、こういうようなことを聞きます場合に、私は今日の日本においてそういうことを考えるということは、どうしてもいわゆる民主主義というようなものの立場から立つて合理精神、或いは批判的精神というようなものを必ずしも
一致するものではないというような考え方になるのでございます。従つていろいろ御意見はございましようけれども、漢文教育の振興、それ自体が日本の将来にプラスするかどうかというようなことについては、むしろ時代逆行の傾向を持つことが多いのではないか、こういうふうに考えております。徳川時代における武士の教養として漢文というようなことが取上げられておりましたけれども、それはその武士の装飾的な教養というようなところにも意味があつたのではないかというふうに考えられる節もあるのでございます。漢文教育を学課科目編成並びに時間割の配当の上から見ての問題については、先般来いろんなかたから仰せられておりますが、秋はやはり現在の高校三年通じての必修單位、或いは選択必修というようなものと関連をして考えた場合には、これは相当重要な問題であると思います。つまり必修にするということになるならば、さつき安藤さんがおつしやつたように、教科課程全体の問題として考えられなければならん。その全体の中において漢文教育というものが果して必要であるか、どの程度にその時間を割き得るかというようなことから全体的に考えて行かなければならないというふうに思うのでございます。そのためには現在文部省には教育課程審議会というものがありまして、そこでいろ意見が聞かれるというような段階になつていると考えるのです。更にこの必修にするというようなことと関連すれば、やはり学習指導要領の問題も当然触れて来ると考えるのでございます。今日もうこの三月においては高等学校の生徒は、来年度の自分の教課科目というものをどういうふうに選択するかというようなことも当然考えており、校長さんがたにおいては、教員の編成というようなことも当然考えられていると思うのですが、この段階においていわゆる教育課程審議会というようなところ、そういうような政府が設けた諮問機関というようなところの意見を聞かないで、文部大臣というようなかたが若し漢文を必修科目にするというようなことを言う、或いは文部大臣の言葉としてそういうことが流布されるということになつて来ると、これはつまり教育界に無用の混乱を来たすものであると、こういうふうに考えておるのでございます。従つてこれはそういう手続の面からも十分に考えられなければならないと思われますし、その他の面から考えましても、私は漢文教育を必修にするというようなことは必要がないのではないかというふうに考えておるのでございます。
更に漢文教育の振興が今日の国語政策というものとどういうような関係を持つかということについては、私どもが義務教育の生徒に対して、子供たちに対していわゆる教育漢字、或いは当用漢字というようなものを学修させておる立場から考えて、これは仮に漢文教育というようなものが行われるというようなことになると、それが必修として普通教育において行われるということになりますと、生徒の重大なる負担になるというふうに考えられるのでございます。成るほどずつと昔においては教課科目というものの範囲内容というものが極く單純であつた時代においては、読み書きというようなことが言われたかもわかりませんが、今日の教課科目というものはその範囲を拡め、非常に複雑になつておる、このときにおいてなお子供に負担をかけるということは、教育上から考えて非常に困つた問題であるというふうに考えておるのでございます。今日一方においてはいわゆる文字の読解力というものが非常に低下しているというようなことを一般に申されておりますけれども、その低下というものは、やはり教師自体が自分で一つの評価基準というものを持つて、その基準に照して子供の学力が、基礎学力が低下しているというふうに言つておるのでございますが、事実漢字の習得の力というものは戰前の時代に比してそう大差はないという結果も考えられておるのでございます。又併しながら一面においては一今日の若い先生自体の間において、当用漢字或いは教育漢字の範囲においても、その授業の仕方、或いは子供に学習のさせ方がまずいというような点は、これはお互いに反省、批判さるべきものを含んでおると思いますけれども、それは又別な面から考えられる、いわゆる基礎学力の低下の実態、それに対してどういう対策をするかというようなことは非常に範囲の広い問題であると思うのでございます。このことを考えました場合に、私はつまり政府の政策の中に、例えば現在は検定の教科書というものが行われておる。それに対して文部省の管理局の中には検定課或いは刊行課というものがあつて、教科書の検定制度の育成強化というものをやつておる。にもかかわらず一方においては国定の教科書を作ろうとする気運を見せ、そういうような予算を組むといつたような行き方、つまり一つの仕事に対して全く反対のような仕事が行われようとする。このことは重大な問題だと思うのです。つまり一方において当用漢字或いは教育漢字というようなことを十分徹底させようというようなことを考えながら、又一面においてその漢字を殖やして行こうというような考え方、これは決して両立するものではなくて、むしろ現場において混乱を来たす問題であると思うのであります。
更に第四番目に、国文教省と漢文教育の関係というようなことを考えて、明治時代のいわゆる文人が、立派な文章を書いた。それは漢文の基礎学力があつたからだというようなことを言われるかたもございますけれども、仮に夏目漱石をとつても、或いは森鵬外をとつても、一方は英文学の教養があり、一方はドイツ文学の教養というものがあつて、そこから立派な文章が生れて来た、こういうふうに考えられるのでございます。漢文の表現が非常に便利であるというようなことを言われ、何か精神的なものを含んでおるというふうに言われるかたもございますけれども、十分私どもは、この漢文教育というものに対しては、愼重な考え方をしなければならんのではないかというふうに思うのであります。新聞の報道するところによりますというと、全国の教育委員会の指導部長会議において、この漢文教育について、学校によつては漢文は選択科目だけで学習するように考えているところもあるが、漢文は古典の一部として行われなければならない、併しこれまでの検定国語教科書には漢文の教材が少ないようだから、教師はプリントその他の方法で別に適切な教材を作つてもらいたい、こういうようなことを言われておると報道いたしておりますが、これは教師諸君に更に一層の負担を加えるというようなことになるのではないかというふうに思うのであります。本当に漢文の教材そのものが、日本の国民の育成に役立つものであるとするならば、それが日本の言葉に直されても十分意義を持つものであるというふうに考えるのでございます。そういうような点から考えまして、私はこの漢文教育を日本の学校教育の中において、高等学校において必修科目として取入れるというような行き方については賛成はできないのでございます。今日の日本の教育界のいろいろな状態について考えました場合に、読売新聞ではございませんが、いわゆる逆コースというようなことをよく言われておる。例えば教育委員会制度の問題、或いは六三制の問題にしても、それに対して六二制にしてはどうか、ところが世間の反撃に会つて六三制を維持するというような答弁をしなければならないというような状態、或いは「君が代」を復活する、紀元節を復活してはどうか、或いは国民実践要領というものを作つて、その中においていろいろなことを考えようとする行き方、或いは大学の学長官選の問題、或いは形は変つておりますけれども、国家再建青年運動といつたような一連の動き、そういうものの中において、やはり漢文科の復活、倫理科の復活というようなものを私はどうしてもその一連の中の一つとして見なければならないというような感じがいたすのでございます。而も国民実践要領が出て来て、それが一旦振り出しに戻つて考えるといつたその考えと、いわゆる漢文科の復活というものが、どのような関連にあるかということを考えた場合に、つまり漢文科の復活は、衆議院の文部委員会における文部大臣の答弁の節々に見られるところでは、いわゆる国民実践要領の形を変えた現われであるというふうに見ておるのでございます。そういうふうに考えました場合に、私どもは今日の日本の現状において、私どもはここでじつと立ちどまつて考えなければならないのではないかというふうに思うのでございます。今日日本の運命というものが実に重大な段階になつておる。この重大な段階において、新らしい日本の憲法、自由と平和の理想、この自由と平和の理想を飽くまで実現し、守り通して行くというようなことを考えました場合に、本当に漢文教育の復活ということが、それとどのような関係にあるかということを十分考えなければならんと思うのであります。今日お隣り中国の状況をよく知るということは、非常に大事な問題でございますが、そのためには、漢文教育の復活というよりも、むしろ中国語の勉強といつたようなことで、お互いに善隣友好の精神に立脚した具体的なことを進めなければならんのではないかというふうに考えておるのでございます。つまり現代中国の論文、小説といつたようなものが取上けられて研究されるというような方向に行くべきではないかと思うのです。併しながら、私は大学或いは大学院において專門として、或いは世の中一般の人が自分の趣味として、教養として、漢文を学ぶということを何も否定するというものではないことを附加えておきたいと思うのでございます。以上でございます。
—————————————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/10
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011・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) 次は澤登さんにお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/11
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012・澤登哲一
○参考人(澤登哲一君) 私は都立小石川高等学校の校長をやつております澤登でございます。大学で国文をやりまして、昭和二年以来国語の教師をやつておりますが、その実際の場面で私が生徒と接触して得た結論を、ここに挙げられました箇條について考えて行きたいと思います。
私自身は国文をやりましたけれども、自分の師事しました沼波武夫先生の言いつけで、私が主として研究しましたものは古事記伝でございまして、その関係で私自身は漢文に対して非常に興味を持つており、恥かしい話でありますが、源氏物語を読みかけても、到頭通読するだけの頑張りが続きませでしたけれどんも、むしろ漢文のものですと、余計いろいろなものを読んでおるというような過去を持つておるのですが、先日も漢文懇話会の或る人と会いまして、澤登君は今度の漢文復活についてどう思うかと聞かれたのですが、私は、自分が教師になつて見て、そうして自分が教師として喜んで仕事をやつておりますが、自分の伜に教師になれと勧める勇気はない。それと同じように自分が漢文は好きでも、自分の生徒に漢文を強制しようとは思わないという答えをしたのです。漢文の、今までの学校でのあり方で考えますと、これは一番の問題は、若し漢文を今までのような取上げ方をいたしますと、漢字の字引を実際は徹底的に引かなければ、漢学の意味はなさない。ところが漢字の字引を引くということは、非常な学力を要するのです。殊に音韻だけで見当のつくものは、近頃の字引は簡單に引けますけれども、国語審議会で漢字の整理をやりましたおしまいのほうの数回に、私は関係したのでありますが、それから教育漢字を選ぶときに、私も委員の一人に列席したのですが、部首引では、あそこに集まつた大家さえもすぐに、この字がどこの部首で……、部首の字と合せて考えなければならないというような問題が起つたときに、すぐ発見できない場合が随分ありまして、音訓式の字引を探して、それから漸く発見するというような場面がしばしばあつたのでございます。私自身なんかも部首引じや全然字引が引けない。二十五年間やつてまだそういう状況であります。で、そういう点から考えますと、漢文の授業を強制するということは生徒の極めて過重な負担になる。くだらない虎の巻が跋扈して、生徒の研究心を猛烈に阻害する結果を生むに相違ないと信じます。私自身は字引を引いて漢文をやらなければならないというのは、これは当然英語の語学を考えてもそうなんですが、実際問題としては生徒に字引を引くことは強制できない、私はもう虎の巻を持つて来させて授業をやつたのであります。そうして虎の巻の誤りは必ず試験に出して、虎の巻を丸覚えした者は必ずそこで引つかかるという方法を講じておつたわけであります。(笑声)そういう面から考えましても、将来においてはなおのこと、これはマイナスの面が多くなるのじやないかという考えであります。
それから学科編成のことでありますが、普通課程の、殊に都会地の都立の学校などにおきましては、私の学校のような山の手のいわゆるインテリ階級の子弟というものは、親から残す財産のない、商業関係の人が少いので、月給取りですから、せめて学校にやつて教育して、それを「おまんま」の種にしようという悲願を持つているわけであります。(笑声)そういう子弟でありますから、漢文が試験に出そうだという噂が去年の春飛びますと、途端に漢文の選択が殖えまして、今度なんかそれが文部大臣の一語で電撃のごとくに生徒を震え上らせまして、選択の希望が極めて多くて、現在の国語の教師だけでは二進も三進も行かないくらい余計とつております。こういう点から考えましても、これは必修にするということは、ただでさえ苦労しておる受験生を考えますと、これは猛烈な負担であります。やりたい者がやる、漢文までやつたら国語の試験を受けるのに都合がいいという、試験の中でも選択が認められておる現状のままで、必要にして且つ十分だと思います。
それから新聞に書いてありました昔の石碑やなんかの漢文が読めなくなつて、過去のああいう記念的なものの意味がわからなくなるということでありますが、これは読めないのが当り前なんで、恥かしい話ですが、生徒なんか連れて旅行して、これは何の碑でしようかと、こう聞かれて題がわかつたらまあいいほうで、何とか氏、字は何とかまでわかるのですが、もうそれから先になるというと、つつかかつておるうちに首が痛くなる。あれをおしまいまで読めば脳貧血になると思います。わからないから何となくえらそうに、こう思われるというような意識がああいうものを書いた人にあるんじやないか、俺が読めないんだからお前たちはわからなくていいんだというのが、いつもその結論であります。なかなかちよつとやそつと漢文をやつたつてそれは意味をなさない。で、好きな人がやればこれは上手になるので、生徒の大部分に聞けば漢文は嫌で嫌でたまらない、選択で事実とらない。
それから漢文がいろいろ我々の過去の精神生活に影響があるということは、これは事実であります。確かにいいものがあることは事実なんで、国語のうちに採入れてやるとすれば、私はもう書き下しで十分だと思う。で、明治時代の古典が読めなくなるのは、文化財を受継がなければならない若人にとつて非常に今の状況では心細いと言われますが、私、燒出されてありますが、お見舞に朝日文庫を父兄から数十冊頂きました。頂いたからこれは読まなければ義理が惡いと思いまして、露伴先生のものを読んだのでありますが、まあ私が燒出されてから集めた字引じや引いても内容が理解できないほどむずかしいのです。現在私の娘が高等学校の二年におりますが、今の実際の状況は国語につきましても、もう文語で書いてあれば……小説でも何でももう文語であれば、これは文語だからわからないというくらい、現在口語の世男になつておるので、ここで漢文を扱うということになりますと、普通教育の最後の三年間だけじやこれは二進も三進も行かない。仮名で書かれた古典を国語の教師が教えるにいたしましても、中学でやつて来た人に歴史的な仮名遣いから教えて、文法を教えて、それからでなければ日本の古典さえも読めない、これが実情であります。ここに漢文を押しつけたらば、これは国語の能力が伸びるどころじやなくて混乱するだけだと考えますし、殊に定時制の課程では漢文の時間を入れるということにも非常な困難があると考えます。
それからこの国語政策についての問題でありますが、確かに漢学は制限されるべきものだと私は考えます。我々が小学校から中学に行くときに、一生懸命書取りを練習して、それから職業にしてやつてみても現在この程度にしかならないのですから、これが非常に無制限な漢字が採入れられる漢文を考えた場合には、これはもう字を忘れるために習うようなもので、全く逆効果を呈すると思います。現実問題としてそういうふうになると思います。
それから私、前の十五中時代から留学生を教えました。校長室に呼びまして、六人を……、蒙古人が三人、満洲人が二人、中国人が一人、その人々を教え、それから現在も、うちの学校に留学生が五人来ております。この間も話したのでありますが、そういう人々が日本のいわゆる漢文はこれは読めない。殊に返り点を付けたり、送り仮名を付けるような馬鹿みたいな試験があればこれは極めて成績不良になるのです。で、若し漢文がどうしても引つくり返つて読まなければならない、そうしなければ精神がわからないのだつたらば、やめちやつたほうがいいと私は思います。それから現在の生徒は、大体、我々のところへ入つて来るまでの間に、中学の先生からの話を聞いても大体五、六百の漢字が使えるというのが精一杯らしいのです。ですから答案の文字が非常にでたらめである。というのは、これは各科の先生が痛感しておるわけであります。これの欠陥は恐らく小学校の基礎教育においてあるのだろうと思うのです。とにかく限られた僅かな字でさえも覚えられないのですから、これ以上教えたらなお混乱してしまうだろうと思うのです。我々のところの教師の試験問題を見ましても、近頃はあの○×式ですから、長い文章を理科の先生あたりが書くのですが、ときどき気を付けて見ますというと、これは文字の誤まりは実に多いので、第一番に出した問題の字が違つておるなんというような滑稽なことがたひたびあるくらいで、それは大学を出た先生なんです。ですから、そういう面から考えましてももつと限られた、そして正しい日本語で使われるやさしい文字を以て、正しい日本語を書くということの訓練をするほうが、よほど大事じやないかと思います。これは国語のほうの教師のまあ今までの教育の欠陥が現れたのじやないか。それから言葉そのものの政策から考えまして、私の考えておるところは、この漢字が入つたために日本語本来の、大和言葉の発達が停止してしまつた。それで漢字を便利に、便利にと言うのですか、でたらめにと言つたほうがいいのですか、でたらめに使用したその結果、同音で意味の違う言葉がやたらに殖えてしまつて、今、日本語を聞きますと註釈をつけなければわからないようなことがしばしばあるのであります。よく議論なんかして昂奮して来ますと、その点でお互いが違うことを言つておるのに、音が一緒のために混線しちまつて、つまらないところで叩き合いまで発展するというようなところに……、国語の正しい発達が阻害されるその一番大きい原因は漢字だ、ですから漢字を制限することによつて正しい日本語が作られて行くということになろうと私は思つておるのです。そうしなければ、日本の文化は正常な発展はできない。それから私自身の見通しでは中国のほうのことを聞きましても、中国の御本家自身が漢字の制限ということ、漢字の略化ということも考えておるわけです。それと同じように我々も、この象形文字を離れて音標文字になるべきものだというふうに私は考えております。まあ大体私の感じておりますことは以上であります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/12
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013・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) これを以て休憩いたしまして一時三十分に再開いたします。
午後零時四十五分休憩
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午後一時四十二分開会発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/13
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014・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) これから文部委員会を再開いたします。最初に長澤さんの御意見の御発表を願います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/14
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015・長澤規矩也
○参考人(長澤規矩也君) 支那学の研究家といたしまして、又一通り古今の支那語に通じております者の一人というつもりでございますが、そして又一方では敗戰後に司令部の当局と直接にいろいろと折衝をいたしまして、先方から漢文教育を曲りなりにも普通教育の中に残す了解を得ました責任者である私が、漢文学の教師という立場に囚われませんで、日本人として日本の学校教育の効果という観点から、この問題に関連した事柄について個人的意見を述べたいと思います。
先ず漢文教育と言われますが、漢文が何であるかという、漢文教育が何であるかということを度外視して議論が進められているんじやないかと私は思うのでございます。漢文は元来南と北とで言葉が、話し言葉が違つておりました漢民族の間に必然的に起りました共通の書き言葉でございまして、やがては漢字文化圏内のいわばエスペラントでございます。その漢字文化圏内の我が国がこれを取入れまして訓読という形を作りまして、我が文語文の一種といたしました。で、後世の我が書き言葉には勿論のこと、話し言葉にも大きな影響を及ぼしたものでございます。その一面、その内容が我が精神文化に影響を及ぼしたところは非常に大きいと思うのでございます。そこで漢文教育には言語教育の面と、今日の言葉で言えば社会科の面とがございますが、後者の目的を達するためには、必ずしも原文で学習しなければならないということは起り得ないと思います。
一口に漢文教育とは申しますが、この二方面のどちらを取るか、又形式的に申しますると、原形のみに限るか、或いは書き下し、翻訳まで含むかどうか、実は私ども漢文教育を主張しております人々の間にも必ずしも意見の一致は見ていないのでございます。は
次に、漢文というものはどういうものであるかということをもうちよつと述べさして頂きます。第一に、漢文は西洋におけるクリークやラテンとは違いまして、現代語の中に生きておるのでございます。司令部は、漢文はデツド・ランゲージだということを初めは申しておりました。後に私どもが、今の日本の言葉の中には、漢字は勿論のこと、論語や孟子の言葉も入つておる、又漢民族が使つておつた故事も入つておるということを述べましたらば、成る程グリークやラテンとは違うものだということを理解してくれたのでございます。第二に、漢字や漢文教育の一連でございます漢字漢語教育でございますが、漢字漢語というものは、国語に少い簡潔な表現をし得る特性を持つておるのでございます。それでございますから、皆さんも御承知の通り、いろいろなスローガンや何かには盛んに漢字漢語が使われるのでございます。第三に、漢文はその形式なり内容なりが、よくも惡くも、とにかく我が過去の文化に大きな影響を及ぼしておるということでございます。第四番目に、さつき申しましたように、漢文教育は語学的性質と、語学的性質が基本的と言つてよいかどうかわかりませんが、これには異論があるかも知れませんが、一方で又内容的な面も持つておるのでございます。精神文化に寄與しておるというような、そういうような面も持つておるということ、それから第五番に、国語の整理には漢字漢語の正確な知識、延いては漢文の知識が或る程度必要であるということが言えると思うのでございます。
次に古い型の国語漢文の教師が持つた誤りとでも言うべきものを羅列してみたいと思います。第一に、古い国語漢文の教師は、或いはこれは教育と言つたほうがいいかも知れませんが、作品を修身教育と余りにも深く結び付けてやつておつたのでございます。第二に、国語と漢文との間の語学的、文学的な繋がりを余り考えていなかつたということでございます。第三に、これは国語教育のみに限りませんが、英語でも同じと言えると思いますが、とにかく古くは言語教育と離れて、文学教育を中心にした観があるということでございます。第四番目に、東洋思想の文学作品は原文でなければわからない、これは日本の古典についても言えますが……、そういう考えを持つておつたのじやないか。特に五番目として儒教倫理は漢文の原形でなければ十分に理解ができないじやないか、そういう誤解を持つておつた。そういうようなことから国語の教師、漢文の教師というものがつまらない反目をいたしておりました。先だつて大町桂月の全集を何の気なしに見ておりましたら、あの大町桂月が自分は国文出身であるが、漢文が言葉の上から大切であるということを力説したところがあるのを面白く読んだのでございます。次に新らしい国語教育の持つ誤りとでも言つていいのでありましようか、そういうものを申上げますると、第一に国語整理と国語教育とを混同しておるのじやないか、途中の段階にある国語整理を国語教育に押付けようとしていると言いましようか、それとも国語教育のほうでそれを鵜呑みにしているとでも申しましようか、そういつた傾向があるのじやないか。第二に国語整理には純粋の漢文の学者なり教育者が参加協力をしていないという事実があると思います。これは先ほどのお話に漢字制限のときに或る辞書の部首を引こうとしたら、そこにいる人が誰も引けなかつたという、どの部首を引いていいかわからなかつたというお話がございましたが、その一事から見ましても專門家が入つていなかつたということがわかると思います。私は決して專門家ではございませんが、大抵の字は字引きで引けるつもりでございます。又画数なども或る程度頭で、例えば顧みるという字ならば戸という字は四画、佳が八画、頁が九画、それで加えて何画だというような計算を秋は專門ではございませんがやつておりますので、漢文に関係しておるような人ならば大抵そんなことはできるわけなんであります。誰もできなかつたということは一向そういう協力をお求めにならなかつたということを証明していると思います。第三番目に古典を持たないアメリカの国語教育を、そのまま古典を持つておる我が国の国語教育に、而も現代語の中にその国語が生きている我が国の国語教育に鵜呑みにしていられるのじやないか、私はそう思います。第四番目に、過去の言語教育が文学教育に偏しておつて、その反動として近頃の国語教育は余りにも言語技術に偏して、古典を無視しておると言えると思います。成るほどさつきもおつしやつたように、地方の現場においては選択で、国語に古典を使つておりますが、これは教科書がないから使つておるに過ぎないのでございまして、指導するほうの側では現代語でなければ国語教育はできないというふうに、必修国語は全部現代語というような誤まつた指導をしておる人もあるのでございます。こういつたようなことが今日の我が国の現状において、漢字、漢語に対する知識が非常に薄く、一方漢字制限を主張しておりながら、如何にも多くの新らしい、漢字と漢字を結付けた言葉が出ております。私は中央線に乘ろうと思つて、この電車は急行ですかと聞きますと、駅員は緩行車ですと言います。なぜ普通とか、急行でないとかいうことを言わないのか、教育の言葉にもそういうことが非常にたくさんございます。單元とか、挙げれば幾らでもございますが、一方では漢字制限を主張しておるかたが、そういう言葉をお使いになるということは、一方漢字漢語の持つ特性、簡潔性を知らず知らずに利用していらつしやることにしか私どもには考えられない。第五番目に、今の制度で行きますと、国語教師は漢文を学ばなくても国語教師になり得るという変な資格を作り上げた。どなたがお作りになつたのか詳しいことは存じませんが、そういつたようなことができましたために、国語教師が、かなり多くの国語の教師に漢文の知識が乏しい。そのために漢字、漢語の指導が十分できていないということが言えると思うのでございます。
そういつたようなことからいろいろと問題を引き出して見ますと、私は一応こういつた結論が出るのではないかと思います。第一に、漢文は元支那の書き言葉でありました。我が国での位置は日本の古典の一種であります。先ほど蒙古人が読めないというお話もございました。これは私、第一高等学校で中華民国の留学生を教えておりまするが、実際漢文の点は惡いのです。併しこれは惡いのが当然なんで、あの当時高等学校で教えておる漢文というものは日本語として漢文を教えておるので、支那学の原典として教えておるのでない。そういう違いがあると思います。我が国の古典の一穂である漢文というものの学習は、現代語を使いこなすという点から申しまして、高等学校で必要な現代語を十分使いこなすには、広い意味の漢文、漢字、漢語の知識は大切である。こういう意味で高等学校で必要だ。それですから、すでに高等学校の課程におきましては、漢文は必修になつておるのでございます。改めて漢文を必修とするとかしないとかいう問題がここに出たのではないのでございます。必修の国語の中に漢文が入つておる。ただどの程度入つておるか、時間的に、或いは資料の点からどの程度入つておるか、それだけの問題が規定されていないだけでございます。第二に東洋の文化とか、東洋の精神というようなものは原文によつてのみ伝えることができるという考えには、私は必ずしも賛成できないのでございます。むしろ現代語でわかりやすく書いたほうが本当に東洋の精神がわかるのじやないかと思うのでございます。一方から考えまして、現代の北京語を学習することによつて現代の中華民国を正しく認識し得るかというと、私の北京語に関する知識、それから支那学に関する知識から申しまして全然賛成することはできないのであります。これもやはり日本語でやれば一番よくわかると思います。第三に普通教育における漢文学習は、私個人の考えでは必ずしも原文にこだわる必要はないと思うのであります。生徒の負担が重ければ書き下しもいいだろうと思います。現代語訳もいいだろうと思います。支那思想などの十分な紹介は却つて現代語でやさしく説かれて、初めて効果を奏するだろうと思います。そうして、そういつた現代語で隣国の文化なり思想を子供に知らせるという点では、高等学校にとどまらず、中学校まで下つて、その教育をして差支えないのだ。これは隣国に対する考え方を正しくする一つの方法だと思うのでございます。第四番目に、このように広い意味の漢文は高等学校でどのくらい要るか、私は二時間ぐらいは是非必要だと思いますが、ただここで比率の問題は考えなければいけないと思います。純粋の国語三時間に対して二時間という比率が妥当であるということは、私は断定しかねるのでございます。私は、むしろ問題は漢文教育の問題なるものではないと思うのであります。古典を持つ我々の国の国語学習が、たつた三時間とか五時間で十分な効果を奏し得るかどうか、それを一つ皆さんに十分お考えを願いたいと思うのであります。私は、現代語しか持たないアメリカと違う、そのアメリカの使節団の或る一人の人が、個人的に、我が国語教育の現場のかたに、お前の国は国語教育は三時間で足りるのかという質問をされたということを聞いております。で、国語教育の時間をもつと殖やすということが先決問題であると思うのでございます。第五番目に、併し一方、請願などによりまして、各学科が順々に一科目のみの増加を主張して、それを御採択下さいますと、普通教育の一週間の時間は何時間あつても足りなくなるのじやないかという心配が起つて参ります。余ほど小刻みに時間割でもきめなければ皆さんの希望を容れることができなくなるのじやないかということが考えられるのでございます。
お手紙では、最後にこういつたような点について意見をということでございましたから、その点について附加えて私申上げておきますが、漢文教育の振興が日本の将来にプラスするものかどうか、これは先ほど石田さんの後発言にもございましたが、私はやり方によつてプラスにもなり、マイナスにもなると思います。併しマイナスになる面があるからと言つて、やらなくていいということは考えられないと思います。積極的にプラスになるようにやつて行くべきものだと私は思います。
次に、今日の学課編成並びに時間割の配当から申しまして、必修国語の中で学ぶというこの線は、私は先ず妥当なんじやないかと思うのでございますが、今の制度を前提におきまして議論を進めて行くとすれば、結局はつきりした線は出ないのじやないかと考えるのでございます。
第三番目に、漢文教育の振興が今日の国語政策に対して如何なる関係は影響を持つかという点、これは申すまでもなくお互いが協力をすれば十二分の効果が挙ると思うのでございます。ところが、現状ではお互いが協力していないと思うのです。少くとも一方的に、国語審議会は漢文側の協力を求めていらつしやらないということが断言できると思います。先刻のあの漢字の引き方というような問題もその一例でございますが、本当に漢文の代表者と言われているような者が私には入つているとは思えない。言え換えれば、説文学者とか、或いは辞書などを十分に使いこなせる人というような者が協力していないのじやないか。国語の整理には漢文の知識が必要だ、漢文の知識がないから教育上の言葉にわけのわからない訳語が飛び出して来るのであります。日本の国語を生み出したのは確かに漢語であるという議論が成り立ちます。が一方で、日本の言葉の中に、現代の言葉の中に多くの漢語を入れ込んだその人は明治初年の哲学者であると思います。むずかしくしたほうが何か哲学らしくなるという考えでしたかどうか知りませんが、盛んにむずかしい言葉を哲学用語にお入れになつております。併しあの当時のかたは、漢字漢語の知識は勿論、漢文の知識も十分持つていらつしやつたから、めちやくちやな使い方をしていらつしやらないのですが、この頃のかたは御自分が知識を持つていらつしやらない、勉強をなさらないで、そうして簡潔性に魅惑されて、やたらに新らしい漢語的な語彙をお作りになつておるのじやないか。私どもが書いております。これは專門の論文ではありません、一般に書いております言葉のほうがむしろ易しいのではないかと、うぬぼれていることがございますくらいであります。
第四番目に、国文教省と、漢文との関係、これについては、普通教育における漢文は我が古典の一部としての漢文を学ぶべきものと私は考えます。で、それは我が国の国語教育に資することは……古典の文学には役立つことは勿論のこと、現代の我が国の言葉の正しい使い方にも非常な効果を與えるものだろうと思つておるのでございます。根が漢文出身でございますので、言葉の中にお聞き取り難いこともござ
いましたかも知れませんが、そういう点はどうか後ほど御遠慮なくお直し頂きますなり、或いはおわかりにならない点は御質問なりして頂くことにいたしまして、これ以上私述べますことは皆様にも御迷惑と思いますから、この辺で御免をこうむりたいと思います。
—————————————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/15
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016・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) 次は西尾さんにお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/16
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017・西尾實
○参考人(西尾實君) 私は国文学を専攻いたしたものであります。そして国語教育に長らく従事いたしました。そういう立場からこのお尋ねの問題を考えてみたいと思います。と申しますのは今、長澤さんの言われたように、そういう自分の立場に引きつけて考えるというつもりではありません。そういう立場で国民の一人として、この問題をどう考えたらよいかというふうに考えようという、そういうつもりで考えますが、お聞き下さる場合に、私の本来がどういう立場と経験を持つておるかということをお含みの上に御批判頂きたいと思つて申添えたわけでございます。この問題を新聞で見ておりましても、又今日の御発言を伺いましても、漢文復活とか、或いは漢文必修という言葉でよく言われておりますけれども、漢文復活というならば漢文が廃止されているということを前提にしなければ意味をなさないと思います。ところが御承知の通り、制度の上からも、実際でも漢文は廃止されてはいない。従つて漢文復活ということは何かジヤーナリズムの上での景気のいい言葉かも知れないが、実体に触れた問題としては嚴密ではない、こういうことを我々は先ず考えて、この問題を考える必要があると思います。又漢文必修ということも今ここで長澤さんが言われた通り、只今国語の中の古典の一部分として必修になつておるわけであります。時間は少いにしても必修という意味を持つておるということは確認されておるわけであります。従つて今度改めて必修にするというならば、それと違つた意味で必修に考えるか、或いはその意味で必修になつていることを御存じなくておつしやるか、この辺が私にはよく呑み込めないのであります。で、この問題を考えるには、そこを十分に呑み込んで考えなければ、当を得た判断はできないのではないか。若し現在の必修のあり方が不適切であつて、別に必修というものを考えるとすれば、恐らく国語の古典の中にある漢文では物足りない、国語と並んで漢文というものの一つの教課として必修科としての独立が必要だと、こういう主張はあり得るのでありますが、併し今日の御発言を伺つていると、そういう主張をなさつているかたは一人もない。この間文部省でこの問題について国語関係者、漢文関係者が集まつて、そこでいろいろな意見の交換をいたしましたが、その席でも漢文の先生がたが、国語の中の古典の一部分としての漢文、つまり我々の古典としての漢文ではなく、一つの中国の文化としての漢文として独立教課を構成すべきだという主張をなさつたかたは一人もなかつた。そこで私は漢文必修ということは、そうなると現在行われている必修ということに対して、新らしく必修ということを言うことはどういう意味であるかということが私には了解できなくなる。問題は恐らくこの漢文が必修ということにはなつておりますが、誠に時間が乏しく不十分だというところにあるのではないかと思います。そういうふうにすると、この問題は極めて地味な、そうして又極めて実質的な、或いは又制度として言えば極めて技術的な問題であるとして考えるのが適当ではないだろうか。このような私は考えに立つて、以下私の所見を申上げたいと思います。
先ず第一に、漢文が今日のような制度上の位置と意義になつておるという経過を、私はその当時の関係者の一人といたしまして一言申上げたいと思います。文部省で昭和十二年に教授要目の改正をいたしました際は、国語漢文という科目であります。そうしてはつきりと国語をどれだけ、漢文をどれだけ、こういうふうに規定されておりました。ところが昭和十七年から八年に亘つて教授要目改正が行われました。このときの委員会、私の記憶では漢文のかたがたとしては塩谷さん、それから宇野さん、それから諸橋さんなどが委員でおられました。このときに国語漢文という科目の名前を国語と改め、漢文という名前がなくなつたということは、その国語の中に漢文は含まれるものと、こういう解釈になつたわけであります。で、なぜそういうふうに考えたかと申しますと、漢文というものは飽くまで我々の古典であるという意味、そのときのどなたかのお話として私の記憶にありますのは、若し中国文化としてこれを研究し、教育するならば、そういう一つの独立の教課としてやるならば、今までのあの訓読式の漢文では適当でないという御意見が出たのであります。つまり中国と我々の生活的な交渉をもつと適切にし、又中国の文化を本当に我々が研究するというには、むしろ中国語をやつて、支那学として今世界的にやられておるような、ああいうつまり中国語をやつて、支那学によつて研究すべきだ、ところが漢文は勿論それと深い関係がありますけれども、我々の伝統として、我々の古典として我々は学んで来たし、研究して来たのであります。それだからそれはむしろ国語の中でやるのがいいという御意見でありました。そのときに私、思い出しますのは漢学者の内藤湖南博士が、日本が漢文をああいう形でやつていなかつたならば、もつと日本の支那学というものは遥かに進んでいただろうと言われたということを、どなたであつたか忘れましたけれども言われたかたがあつて、私は非常に驚き且つ感銘を深くしたわけであります。そういうような話合いから飽くまで漢文は教課科目とすれば国語の中の古典として、そこに我々は古典としての国文、古典としての漢文、こういうように国語の中で並べて案を立てたわけであります。ところが昭和二十三年、今長澤さんからお話がありましたように、この間伺えば八月三十日だそうでありますが、終戰後司令部から漢文教育廃止の要求があつたのだそうです。当時私はそれは知りませんでした。その後長澤さんの今のお話を聞いてみると、そうであつたそうでありますが、とにかくそのときに二十人ほどの漢文学者と国文学者が集りまして、こちらにおいでの竹田さんと、加藤さんもお見えでありました。そこで国文側の者と殆んど同数の者が集りまして、この問題を討議いたしました。そこで私は漢文必修ということがそのときに問題になりましたが、私は今の国語は国語の中に現代文とそれから古典が含まれている。この古典の中には国文古典と漢文古典が含まれているという、こういう建前の国語であると私は考えている。で、この建前で考えれば当然古典の一部分に漢文があるべきである。併しその意味で漢文必修を考えるべきであろうか、それとも又国語から独立した漢文というものを考えるべきであろうかという御相談をいたしましたが、結論はその国語の中の古典の一つとしての漢文ということで、皆さんが御同意になつて、そうしてそれから後のこと、今伺つてみるとそれが司令部へ説明せられて、司令部でも了解されたということであります。このような経過を持つている現在の国語であります。小学校、中学校は又別な中味を持つておりますけれども、高等学校としてはそういう関係から、そこで必修三時間、只今の制度で申しますと必修三時間の中にも、漢文というものの存在というものはちやんと認められているが、そのほかにこれは足りないということは、これは何が理由で足りないかということは、私は相当検討を必要とする、單なる大学の入学試験に出されるから、それだから漢文をやつて欲しいという声があるということを先ほどから伺つているのでありますが、これは非常に日本の教育のために大事だと思います。が、とにかく選択として国文の古典をやり、漢文古典をいたしておるという、これが現状であります。ここには一つの選択制度というものの妙味というものをも、教育課程の中味に考えられているわけであります。この現状が一体よろしいか、この現状ではいけないのか、このところを私はこの事実に立つてはつきり考えることか我々の大事な課題だと思うのであります。そこでそれならばこれからどうしたらよいかということについて私は一、二の感想を申上げたいと思います。先ず一つは、これは教育一般に関することでありますが、とにかく教育は次の世代に備える計画でなければならんということなんです。つまりこれが大事な原則である。どうかすると我々の過去においては、過去の重要性のために教育を計画する傾きがなかつたわけではない。これは反省すべきであると思います。過去のことが要らないというのではありません。その過去の重要さは飽くまで将来の基礎として、発展の基礎として必要であるという意味において考えなければならん。過去のために過去を、という行き方も私はなかつたと言えないのではないか。この点において我々は一つの確信を、はつきりとした、将来のために一つ備えてやるというこの立場が大事だと思うのです。その点で国語教育なんかの計画についても申上げますと、戰前と戰後と私は非常に変つたと思うのであります。それは戰前、殊に戰争中はこの古典へという、古典というものが最終目標であつたと言つてもいい傾向があつた。而も国民のすべてをできるならばみな古典が読めるように、古典に親しめるよう、この古典の中から何らかの、つまり将来の発展の原動力が生れて来るという確信を持つてではありますが、とにかく国語教育なんかで申しますと、その古典はむずかしいからできるだけ最高学年へ、そこへと持つて行く、下のほうはそこへ持つて行く準備という意味で考えられるという傾向が非常に強かつた。ところが私どもは、戰争の前から戰争中の体験を通して見まして、それでよかつたかという一つの反省が、つまり我々は古典へというよりも、むしろ古典からという立場に立たなければならないということは、一つの大きな私は国語教育なんかでも変化だと思う。従つてつまり近代文化とか、近代学術とか、こういうところに、つまり我々の現在と将来というものに教育の中心点を置いて、そのための古典である、その土台としての古典であるという、こういう意味になつたために、時間数から申しますと、又教授の材料なんかから申しますと、非常にそこに変化が起つておる。これは只今の教科諾なんかがその通りだと思います。それならば今の教科書なんかはそれで十分であるかと申しますと、決してそうではない。同時に又、そういう方向をとるものとしても不十分なものが多いと思いますが、とにかく方向としては私は近代文化とか、そういうところに中心点を置いた、そういう方向に立つて来たということは著しい変化であると言わなければならないのじやないかと思います。で、そのように考えますと、そこに一つの問題が生れて来る。私はそれが今度の請願の一つの大きな理由にもなつているのではないかと思います。それはこの請願を拜見いたしましても、ここに東西文化の融合による新文化というものを築くことを考えておられる。つまりただ東洋の文化のために東洋文化を説いてはおられない。東西文化の融合による一つの新らしい世界的な文化を築くというこの課題のために考えておられる。私はこの点は非常に大事な点だと思います。で、私の言葉で申しますと、つまり只今私が近代と申しましたが、その近代文化なり、近代と我々の古典との間に大きな断層があるということが問題である。そこからこのような請願の根拠も起つて来ておるのではないか。具体的な例で申しますと、先ほど長澤さんから電車の例が出ましたから私も引きますが、この桜木町事件があつてから後、電車で一般乗客に知らせるものとして、一腰かけの下のコツクのハンドルを」と書いてある。これは「コツクのハンドルを」ということは、恐らく近代科学技術、それは少し大袈裟な言い方過ぎますけれども、とにかく今の工場、そういう所ではもう普通使つておる言葉だろうけれども、それはその職場の方言であつて、国民大衆誰にも、乗客に知らせるために私は「コツクのハンドル」は適当ではないと思います。「この腰かけの下の栓の把手」と書いてくれたら誰もわかるのでありますが、それは私がこれを近代文化の例に引いては大変浅薄な引き方だと思いますが、どこかにそれを象徴しておる。それからもう一つ、私はこの間も新宿駅であつたのでありますけれども、「この電車は遺失物捜査のために暫らく停車いたします」と言う、私は暫らく考えなければわからなかつた。あれを「忘れ物を捜すために」と言つてくれたら誰にもすぐわかつたと思います。つまり成るほど先ほどからおつしやる通り、我々は千何百年間国語と漢文の御厄介になつて、それによりかかつて発達された文化で、決して漢語や漢文と切り離すことのできない伝統を持つておることは、皆さんのおつしやる通りであります。併しそれほど我々のものになつて来たはずの言葉でも、「遺失物の捜査をいたしますから」では通じない。これはどうしても「忘れ物を捜しますから」という我々の生活の言葉に媒介されなければならない。断層はここに起つておるわけであります。「遺失物捜査」と「コツクのハンドル」に、これが譬喩的に……我々の伝統と我々の近代生活とのギヤツプはそのようにして起つて来る。私はこれを媒介し、なかだちし、埋める方法は我我の生活に誰でも使う言葉というものをもつと文化の上にも活用することだと思います。そうして、それは幾らでもやろうと思えばできるのであります。併しどうも「忘れ物を捜す」では何だか駅員の沽券にかかわるとでも思うのでしようか、(笑声)ほうぼうの職場でそういう意識があることはこれは私ども非常に重大な問題だと思う。私は古典と近代とのこの溝を埋めるためにはどちらからでもこれを突破しなければならん。私はそのためには古典というものがただ置き去りにされないで、ここで古典というものをもつとはつきりと討議をする必要がある。その意味で私は大学なんかで漢文学も、国文学の古典も十分に研究して、そうして選ばれた優れた人たちによつて解決をしてもらいたいと思います。そのためには勿論高等学校文科はそこへの入口として、何らかの古典を手がかりに、古典とはどんなものであるかを知らせる程度は必要であると思うのであります。古典なしでよいとは言えない。そこに私は高等学校の古典の意義というものがある。古典へのここで一つの理解と手がかりを得るということが大事だと思うが、その意味は私は今申上げたような意味で考える以外には考えることはできない。現在中学校の教科書も多少漢文教育的なものが国語教科書の中に年と共に入つて来ております。二十七年度の教科書にはもつと又多く、今までよりも幾らか多くなつております。そうして、必修という意味も出て来ているかと思います。高等学校へ行つて少いあの時間でいいかどうかということは大きな問題だ。この点では今長澤さんがおつしやつたような教育計画全般の上で、一体どれだけの教科目を必修にし、そうしてどれだけの時間をそれに配当するかということは、私は改めて大きな全体の立場からお考えを頂かなければならんことだと思いますが、私がその漢文教育の問題点についてどう考えているかという点を一応申上げて、なお後ほどの又いろいろな御意見を伺いたいと思います。
—————————————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/17
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018・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) 次に福島さんにお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/18
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019・福島正義
○勢増人(福島正義君) 私は戸山高等学校の福島であります。浅学な身にかかわらず本日ここに意見を述べる機会を與えられたことは身の光栄とするところであります。
顧みますと、昭和二十年八月十五日我が国未曾有の事件である終戰以来、漢文は文部当局の暴挙とも言いますか、漢文は廃止ということにまで直面しまして、遂に私ども教員の微々たる信念はあつても、微々たる力では駄目であるから、遂に憲法の第十六條、国会法第九章に基いて、参議院議員にその頃田中耕太郎先生初めほか数名の実に了解ある、理解あるかたがたがたくさんおられたので、参議院に請願してはどうかという多くの要望がありましたので、参議院に請願をさせて頂きました。ところが幸いにして三月一日受付が完了しまして、五月に文部委員会で満場一致これが可決されまして、そのときの矢野酉雄紹介議員が大きなる喜びを以て電報をくれたのであります。更に七月一日遂に参議院の本会議で請願が採択されたことは事実でありまして、それは国会の図書館の中にあります公文書綴りの中に調査室長が保管してありますから、それを御覧になれば明瞭であります。かくして参議院の理解ある議員のかたがたによつて亡び行かんとする我が漢文の維持されたことは、誠に感謝に堪えないのでありまして、当時の請願者代表である私としましては厚く感謝を捧ぐるものであります。本日ここに更に念を押すためか知りませんが、参考人として意見を求めると、こういう有難いお志でありますが、実はこの請願の代表の中には、この方面の世界的に聞えた東大の某教授もおられますが、然るにそのかたが今日の参考人でないことは残念であり、又請願者の一人で国語、漢文の関連性においては恐らく日本で最高のかたであると私が考えている山岸教授もここに出席願いたいと思つておつたが、これも駄目でありまして、その他言語学方面と漢文の権威である松井教授、宗教授、漢文方面で吉井教授というような先生が皆推薦はしておりましたが、私のような浅学な者が一人選ばれたために非常に責任を感じます。見るところによると、漢文のほうは一、二人を除くほかないようでありまして、私は学問は浅いから申しませんが、私の申上げられることは、実地に漢文授業を担当しており、而も日夜精魂を打込んで確乎たる信念を持つて、高等学校の教育に携わつているところの一人として、信念を以て私は披瀝したいと思うわけであります。
即ち結論を申上げますならば、漢文教育の必要性、絶対に必要であるという不可欠の信念を、欠くべからざる信念を私は持つているわけであります。然らばどんな工合で過去においてあつたかということは、御承知のごとく高等学校における漢文の学習は、選択のほかに必修国語の中において行うようになつておりますが、只今西尾国語研究所長の御意見の通りでありますが、ただ併しここに至るまでは五カ年間苦鬪して、もう教師の力ではいかん、文化団体の力でもいかん。国語審議会に訴えてもローマ字や仮名文字ばかりやつているところに持つて行つても絶対に受付けない。かかるゆえんを以て苦圖しましたが、数回国会に請願しまして、採択はあつても明示されなかつたが、一昨年八月三十日、今の西尾国語研究所長を中心としまして、国語漢文界の懇談及び進駐軍の了解、こういうもので漸やく漢文は日本の古典である、日本の国語は古典を含む、故に漢文は必修で修めることができる。簡單に申しますと、三段論法で示して、国語の中に漢文を加えることができることとなりまして、先頃できました国語指導要領の中に、高等学校における国語というところの中にはつきりと出ているのであります。
漢文体の文章は元は漢民族の書き言葉であつたが、訓読された漢文体の文章は我が古典の中に入る。故に漢文は国語科の中において学ばなければならない。これが文部省の指導要領の第一條による漢文学習の範囲であります。その意味におきまして先ほど誰か言つておりましたプリントででもやれというのはおかしいと思う。文部省の主義に則つた国語指導要領が徹底していないから、全国の指導主事会議において普及徹底せしめることは文部省としては当然のことでなければならないのでありますから、先ほど誰かが言われたのは誤まりであるということをちよつと附け加えておきます。かくして必修国語の中における漢文については時間数も明示されていない。実際には必修として実施されていない。何故かというと実際多方面における必修国語の三時間の中において漢文の実習を行うことの不可能であるということは誰でも肯定するところと存じます。かくのごとく実習ができないような状態においてこれを学習させようということが、すでに名前だけ必修ということを與えておきながら実を奪つているのであります。この点が甚だ遺憾の点であつて、西尾さんと同じでありまして、もうすでに必修の中に入つているのであります。然るにジヤーナリストの「さくら」か知れませんが、新たに復活するかのごとき言葉が出されておりまして、私ども六カ年間この中に没頭していたような者はおかしくてしようがない。忿懣さえ感ずる。今までなかつたのじやない、あつたのだ。復興したのではない、あつたのだ。それを三時間では足らないから五時間に殖やして頂きたい、こういうことが……。その中において漢文の学習ができるように時間数を明示してもらいたい、そういうことが請願の目的であつて、なかつたものを復活するのだと、紀元節の復活と結付けるというのは以てのほかでありまして、紀元節のことが起る五年も六年も前からこれはやつたのです。だから御了解行くと思います。
余り脱線すると趣旨を失いますから、この辺で本論へ戻りますが、甚だ脱線するものでありますから……。然らば若しこれを現在のごとく必修の名ばかりで、その学習が行われぬようなことを続けられるならば、永遠不滅の価値を有するところの東洋の古典、特に日本の過去の文化を、小学校から大学に至るまでの学校の教育で、どの過程において一体授けることができるのか、私は甚だこれは残念だと思うが、これはどこにもない。特に高等学校においては、精神発達の過程においても将来の日本の新文化建設の中心となる人物の育成、こういう立派な大事な位置を占める高等学校である。年齢の上から言えば少年期から青年期に移る時期、人間というものに対するいろいろの問題を真劍に考えるときであります。陶冶力最も旺盛な精神のときであります。高等学校に真劍なものを與えることが最も肝要なことでありまして、なかんずく国語や漢文はその大きなものを負担しておると思います。かるが故に、漢文をなくしてしまつてどういう弊害が起されたかという簡單な例を述べますると、東洋及び我が国の古典や文化に盲目になりつつある、こういう危險がある。国語の全面的理解の欠如、一例を挙げますならば、あの「三五夜中新月色二千里外故人心」というあの深い詩味がわからずしては源氏物語の中の「一千里外の心地こそすれ」の文句の意味もわからないのであります。こういう不可欠のものを知らない、これ以上例を言うのはやめますが、読解力、表現力の低下、これは就職試験においても誤字がおびただしく、文章又体をなさず、試験委員をして唖然たらしめている。履歴書も書けない、手紙も満足に書けない者が就職戰線に殺到しておることは御承知の通りであります。或いは他の教科学習上の困難の増大、これは都立園芸の例を申上げますると、植物の名前も読めない、肥料の名前も読めない、そうしてただ国語の程度を上げよ、上げよ、と言われる、国語の教師は何をやつている、植物の名前も読めないではないか。こういう非難の声は、ここのところ漢文の教師の中に押込まれている状態であります。かるが故に、三時間の中で強制的に一つをやる、自然の要求として一時間は漢文をやつてもらいたい、こう都立園芸、各実業学校においてこういうことを言つておる。その他電気、機械、化学、工業、皆この言葉なくしてはできないのであります。それがないために学習上に、他の学科の学習上に重大なる困難を来しておる、こういうことが言えるのは事実であります。東洋史学の大家である有高巖氏が請願者の中におる、漢文の理解なくしては東洋史の勉強はゼロである。かかる信念を持つて請願者一万三千人の中の一人に加わられたのはそのゆえんであると考えます。漢文は人間形成の基盤的要素として、古人或いは先人先哲が身を以て綴つた尊い人生体験の記録として、漢文はこの上もないこよなき指針である。これを強制するのではなく、自然の自覚の下に先哲はこう考えた、かくのごとき資料が何ものもない、基盤的栄養という言葉が一番よく当てはまるわけでありますが、それを失つておる青年にとつて、大学進学に大なる支障を来しておる。進学した場合においては、漢文を全くやらない者が入つて来ておるために、哲学も、倫理も、宗教も、経済、法律、一切このような字間においては殆んどの学生は大なる困難に直面しておるのであります。而も文科系統ではなお更であるが、理科系統にも影響を及ぼしておる。確実な例を申しますと、学校の名もはつきり申上げますが、早稻田の工科方面においても必修学科として入学後二カ年は必ず修めなければならんということが教授会満場一致で本年の二月に通過したことは事実であります。これは何を物語るかは私は説明を省きます。かくのごとく大なる価値を持つておる漢文をゼロにすることは甚だ不可解至極のことである。次に選択漢文について申上げます。過去における当局の漢文軽視、漢文を侮るところの施策に禍いされて学校によつては全然設けてない所があります。生徒の漢文の学習が甚だ阻害されておる。そのために選択を選ぶものは極めて少数なものだから、東洋古典乃至は日本の古典に全く触れる機会がなくして卒業してしまう者が多いのであります。これは如何に当局が漢文を軽視されたかという例で、その例を挙げようと思えばたくさんありますが、そのうち一つ二つ重大なものを簡單に申上げます。図画、工作、音楽、体操、漢文を合わせて二十單位を超えるを得ずというのは、他の重要なる学科がおろそかになる、漢文、図画は軽んじてよい学科であるということが文部省の通牒によつて数年前出されたことは事実で、ここに証拠物件があるのであります。かくのごとき文部省の通牒が金科玉條として地方では受取られる。軽んじてよい、他の重要な学科がおろそかになる。如何に修めようとしても二十單位をはみ出ることはできない。入学しても学校の教務主任がお前たちは芸能科を捨てなくちやならん、こうして図画、工作をやりたいが漢文を入れて合計二十單位だけであると言う。こういう通牒が出たことは否定できない。それから入学試験を見るならば、漢文は含まず、いつの間に出たか知りませんが、漢文を含まず、選択科目であるから。併し英語は随意選択である、絶対に修めないでも卒業できる制度でありながら、入学試験においては官公私立を問わず全学校が必修としてやつておりますから、名目は選択の名前を借りておりますが、十五單位以上を修めておるのは、全国統計の九五%であります。かくのごとき有様でありますが、一体何がために漢文に限り入学試験に出すことができないか、数学は何か、数学は法規においてはたつた一科目あれば卒業できる。あとは随意選択、ところが入学試験では二科目を要求しておるから、全生徒は数学々々でやらなければならん。理科も生物だけならば生物だけを修めればいいが、あとは選択であるのに、入学試験においては二科目は出されておる故に、生徒は理科だ理科だと言つておる。本家の国語はどうであるか、魂を築き、国民の中核をなして行くべき本家であると言つても差支ない。それが軽んじられて三時間。私はマツク・マラン氏にも会いましたが、彼は私の尊敬する一人の学者でありますが、その人たちは実に驚いているのであります。よく私は訪問しまして、イギリスのあのギリシヤ、ラテンの香り高き品格の高い本当のスポーツマンのような堂々たる教授に接して、私は漢文の全国大会にも講演をお願い申上げまして教育大学の講堂において堂々たる演説をしてもらつておる。その方が古典を尊重せよと言われておる。外国人がかくのごときことを言つておるのであります。あとは御質問に応じて答えますが、かくのごとき状態であります。
次に漢文学習の内容について申上げますが、現行の漢文教科書は、その教材の内容においても、内容は今衆議院の文部委員室に山と積んでありますから御覧になればわかるが、どこに封建制度の文字があるか、どこに自由を束縛する文句があるか、学習方法についても、戰前におけるがごときものとは町趣きを全く一新しております。我が国古来の文化の現状を明らかにするために、その国語の理解を助け、人間育成の上において役立つものとして要望しておるのであつて、漢文の教育が時代逆行であり、時代と相容れざるものであるという考え方は、認識不足も甚だしく、現行の漢文教育の内容を知らないものの痴言であると言つても差支ない。或いはそうでければ曲学阿世の徒によつて歪められたままのもの、利用された或いは何とか軍閥によつて運用された禍いだけを強調するものと信ずるのであります。漢文教育のめざすところは、決して世上に誤解されておるようなものではない。片一方に偏したものでなく、又復古でもない。新時代に処するあの正しい教育に立つておるということを認識して頂きたいのであります。
又漢文の学習の方法につきましても、新らしい学習方法を考慮し、成るべく平易に、成るべく興味深く、学習のできる方法をとつておりまするので、その困難、負担という点は世上に噂されておるようなものでは全くありません。他の学科も同様と存じますが、要は指導の仕方一つであります。教育者の信念に基く立派な指導法如何によつて生れるのであります。むしろ学習意欲に燃え、新しい知識を求めようとする段階にある青年たちは、却つて興味こそあれ、決してこれを厭うものではありません。これを具体的に例をとりますならば、教育大学の附属中学、附属高校に例をとつてもわかりますが、大木、尾関氏あたりが熱心に指導法の研究をして、如何に興味ある学習をやるか、実力をつけるかという研究をしておる。その研究の現れがありますが、ここにおいては省きます。嬉々として生徒は喜んでこれをやつておる姿が躍如としております。本件はたくさんあります。又江北、北園の高等学校におきましても如何に面白くやつておるか、私はこの間ラジオを聞きまして、女子の生徒もやりたいというような要求があることを聞きました。又全国大会において私は身を以て漢文を如何に面白く学習されておるかということを現実に見て頂きたいために司馬遷の講義をさせたりしました。更に血となり肉となるように生徒に創作をやらせまして、非常にまあおこがましい話ですが、各方面から絶賛の手紙を頂きました。こんな漢文教育でも人間陶冶として文学の鑑賞において、人間の形成における深い東洋的な司馬遷のような何千年かに一人しか出ないであろうところの立派な考えを持つた内にひそむものをおのずから生徒の度に応じてできるのだと、こうした大きなことも私は発表したことがあります。或いは選択が少いからと言つて、ないからと言つて漢文の学習が喜ばれてないというようなことは断定できないのであります。その例を更に教育大学の附属高校にとりまするならば、全く一年生でやつておらないときに二年に上るときに選択を選ばせたら三十名しかありません。然るに一年生で必修としてやらし、二年に上るときに選択を自由にとらしたら三倍半になつておる事実もあります。かくのごとくして課さないでおつて。わからないで厭がつておる、厭だと言つておるのはこれは絶対によろしくないことであります。その他ほかの学校に例をとりますと、選択が実に多過ぎて、一年は学校長の裁量によりまして云々というあの條項を用いまして、五時間必修にして漢文を必修の中にやらしてもらつておりますが、二年に上るときに選択者が多過ぎて四百名中三百八十五名という選択者でどうにも困るだけのものであります。昨年は抽籤によつて半減しましたから、非常に父兄のお叱りを受けました。ここにも私の父兄が一人おられますからそれは事実であります。このようなもので決して厭がつてはいない、先ず與えてみる必要があります。正しい指導によつて指導するならば必ずや生徒の学習意欲を起し、その効果を挙げることは絶対的であります。漢文の学習とはむずかしい漢字、漢語があるから新らしい国語教育と相反するというのが反対側の御意見のように承わります。又本日も伺つたのでありますが、読みがなを多くふり、或いは解釈を項中に加えたりして煩わしさを避けるようにし、又読む言葉と話す言葉とは別個のものでありまして、漢文を学習したからと言つてむずかしい漢字、漢語を使用するという結果に必ずなるとは言えないのであります。却つて語彙を豊富にするものであります。このことは国語の古典についても言えるのでありまして、古代の言葉を学習したからと言つて、日常の言葉に古代の言葉は使用されないと同様であります。徒然草を習つたからと言つて、明日から何々こそあんぬれと言う生徒がどこにありましようか。こうしたことは従つて漢文の言葉や古代の言葉は古語であり、死んだ言葉もありましようが、漢語はむしろ現代日常の言葉として生きておるのであります。これは私どもがハルパン氏らに会見しましたところ、ギリシヤの古典は死語であるが、日本の漢文は生きておる。二千何百年前の孔子の言葉はそのまま今日に使えるのであります。これは日常用いる言葉や新聞の記事を御覧になりましたならば、その漢語の今日の生命というものは明らかにわかると思います。現代国語を撹乱するというようなことは心配はないという確乎たる論拠はたくさんありますが、時間がありませんからそれは省きます。言うまでもなく漢文は我が国の古典の一つとして学習するのでありますから、若し漢文教育を否定するならば、我が国の古典、即ち国語古典を否定する結果になるのであります。
最後に申上げたいことは、漢文を必修として漢文のそのやる時間でありますが、指導要領に述べられた、誠に結構な指導要領ができております。安藤新太郎氏や長澤規矩也氏らの苦労であると思います。非常に立派なもので、これでこそ日本の国語の本当の生命が躍如としてここに盛られておることがわかりますが、然るにこれを徹底的にやるためには、現在の時間三時間合計してある中でおぼろげにやつたのでは駄目であります。少くとも一週間に二時間程度の時間は絶対に必要と信じます。従つて必修国語五時間とし、そのうち漢文を二時間にするというようなことは、請願の要求があるのはこのためであります。必修国語を五時間とする理由は、必修国語の内容から見て、必修三時間を創つて漢文の授業に当てることが困難な実情にあり、他面新らしい学科として学習する漢文は、少くとも一週二時間の授業がなくてはその効果を挙げ得ないからであります。必修国語は、必修漢文を除いて三時間で妥当であるか否かは、勿論国語側の御意見があるところであると存じますが、とにかく漢文としては以上のごとく一週二時間を要望しておるのであります。この要望については、他の教科課程から見て実施できるか否かということが最も重大な問題と思いますので、本当にこの数カ月の間は心血を絞つて高等学校の教員、我々同志が集りましたり、或いは又教育機関の学校として養成機関の最高学府といつてもいい教育大学の附属高等学校、大学教授の合同委員会を催して徹頭徹尾研究をしました結果、絶対に他の学科には影響はないという結論に達しておりまして、その統計や数字的な論拠はここに明らかであります。簡單にその一、二を挙げますと、影響なしという論点を申しますならば、石田校長が言われたところと若干重複しますが、必修は二十三、選択必修合せて三十八、内訳を申しません、略しますが、総單位数は八十五、その差額は四十七、これが残余の自由選択の單位数であります。これを私どもが考えておる五時間に殖やしたらどうなるかといいますと、必修の総計は四十四、残余が四十一であります。その内容は四十一に含まれ得るものが、国語二乃至三、数学五、理科五の最大限をとつたと仮定しまして、芸能の二から六をとつたと仮定しましても、以上のほかになお残余があります。従つて家庭科なども十分余裕があつて、国語は五にいたして絶対に差支えないのであります。初期の課程の六十八單位のこの中で十七というのが自由選択の下にありますが、この八十五は最低の線でありまして、指導要領の一般篇を見ますと、実は單位は最低三十時限、できれば三十三時限が望ましい。従つて総計の單位は九十乃至九十九單位となるというのが望ましいということが書いてあります。今の計算は八十五單位で計算して余裕があり、恐らく国語を五時間に殖やし得ることができるのであります。而もこの要求は一部の要求だけではなくて、日夏耿之介氏を始め文士のかたがた並びに各方面のかたがたの意見であり、絶対必要なことであり、今のままでは駄目であるという要求であり、うず高き書面に久米正雄氏ら文士を始め大学の総長級は殆んど連判しております。これも衆議院のほうに出してありますから、御覧を頂けば、如何なる妥当性があるかということがわかると思います。結論として以上なんら差支えなくしてやれるのであつて、こんなに縮小しないで、五に拡げて絶対に他の学科に影響はないのでありまして、あとで中央審議会ができまして、全体的に削られようと、それは結構でありますが、とにかく国語教育を正道に返して、新日本文化と東西文化と融合し得る堂々たる国家を建設する青年を養成して頂きたいのが私の念願であり所存であります。
—————————————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/19
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020・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) 次は渡邊さんにお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/20
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021・渡邊茂
○参考人(渡邊茂君) 他のかたがたと同じように私も立場をちよつと申上げておきます。
私は東京都立の白鴎高等学校の教員をいたしており、国語を教えておるものでございます。それからそのほかに東京都の国語教育協議会の委員長をしておりまして、それと兼ねて全日本国語教育協議会という文化団体の運営に当るということで、全日本国語教育協議会の委員長をやつております。そうして全日本国語教育協議会は、戰後去年で第四回をいたしました。東京都の国語教育協議会は終戰後直ちに立ち上りまして、昭和二十一年の十月六日でございますか、結成いたしましてずつと続いて第六回を去年いたしまして、今日に続いております。そういうような関連を持つておりまして、その間にいろいろ現場の我々同僚の意見や、その他先進のいろいろな話を耳にいたしまして、考えておりますことを個人として申上げたいと存じます。
先ず第一に漢文教育の振興が日本の将来にプラスするものかどうかということでございますが、これに対して結論を先に申上げますが、漢文教育の振興は従来のごとき方法をそのまま用いるときは、日本の将来にプラスとはならないであろうと私は考えます。それならば従来のごとき方法というのはどういうことかというと、当用漢字を無視して漢文教育を強行して来たという傾向がございます。そういうようなことをして参つたのでありますから、そういうような方法を先ず排除しなければいけない。
それから第二番目には、漢字の功罪を考慮せずして漢文教育を行うというようなことがあつてはプラスとはならない。そのことは今前にいろいろのかたがたが申されましたので、くどくどと皆様お疲れのところを更にお耳を煩す必要はないと存じますが、谷崎潤一郎氏なども去年出しました谷崎潤一郎随筆選集第一巻の中においても、現在口語文の欠点についてという中においてよく述べておられますから、皆様御覧になつたことと存じます。やはり漢字には功罪ともにあることでございますから、そこをよく考慮して漢文教育を行なわなければならない。
それから更に第三には、生徒の興味と必要とを考慮せずして漢文教育を行なうこと、こういうことが従来行なわれておつたのでございます。そういうような諸点に注意して、そうしてここに漢文教育をどうしてやつたらばいいかということを、漢文を教える私たちがよく考慮して、そして漢文教育の振興を図つたならば、国本の将来にプラスするであろうと私は考えます。
その次に漢文教育を学科編成並びに時間割の配当の上から見て、必修科目とすることの可否というお尋ねでございます。漢文科だけをとり離して必修科目とすることは適当ではないと私は考えます。先ほど来漢文はすでに必修になつているとか、なつていないとか、いろいろ御議論がございました。請願の趣旨によるところがはつきりしないところがございますが、私はそれをどういうふうにとるかというと、何だか独自の漢文科というものを必修科目として設定せんとする請願のように解釈しているのでございます。そういうことならば、漢文科だけをとり外して必修科目とすることは、適当ではないということを言わざるを得ないのであります。国語科の時間割から見て、現段階においては必修国語の中の学習單元でございます、御存じのかたが大多数あると存じますけれども、或いは細かいことは御存じないかたもございましようが、まあ今高等学校において、国語は必修單位で九單元、と申しますのは、一週間における教授時間の上で言つているのでありまして、その一週間九時間というのは、各一年、二年、三年にあてはめますと、一年三十五週としますと、一年では約百五時間の時間が要るわけでございます。百五時間で指導して行きますときに、最近單元学習ということで單元を立てるわけでございますが、大体十乃至十二の單元を立つておるのが普通でございますが、そういう各学習單元の中に漢文に関する單元を立てて学習時間の一部を充てようとしているのが一般の趨勢であると申して差支えないと存じます。で、その際の時間の配当はどのくらいにしたらいいかというと、私は一割乃至二割と考えておるのでございます。でございますから一年の学習單元を十立てるといたしますと、その中の一軍元か、多くても二單元くらいを立てたらいいのではなかろうか、現に東京都国語科教科課程試案というのが出ておりますが、その東京都の教科課程の試案によりますと、時間の上では明確に言つていないが、單元の立て方から見て、このように私には解釈され、この解釈が妥当であると私は考えております。なお改訂版の国語科指導要領等出ましたのですが、それに基いて実施するとなりますと、現在の国語科の必修時間は余りに時間不足、そこで先ほど来そういうお話もありましたが、現場においては、国語の必修時間を増加して九單位を十五單位くらいまでにしなければなかなか完全にできないという声が強いのでございます。併しこの場合でも十五單位の中の六單位、この請願を見ますと、二時間殖やして漢文に、二單位殖やして漢文に充てるということでございますが、そういう比例から申しますると、十五單位の中の六單位を必修科目とするような結論になるようでございますが、そういうことは適当ではない。日本の古典に比較して、その均衡を失わないようにすべきであると、こういうように考えます。で現場の要求は、もうすでにこれは問題になる以前、昨年からそういう問題が現場においては問題となつて参りまして、昨年、即ち昭和二十六年の九月二十三日に開催いたしました第四回全日本国語協議会がございましたが、その高等学校部会においては、国語の時間が少な過ぎるというので、決議となつて私のほうへ出ておるので、その高等学校部会のほうで考えておりますところは短いものでありますから、ちよつと読み上げますが、「高等学校の国語科教科課程は、現在一カ年三時間三カ年、計九單位を必修とし、その外に国語、漢文各々一カ年二時間計六單位宛を選択履習できるようになつているが、新制度実施以来、四カ年の経験の結果は、必修時間の不足ということが、現場一致の声として叫ばれている。たまたま新しい指導要領は、従来多く選択でのみ履習されていた漢文も、ある程度必修国語中に加えるべきことを明らかにしたのである。しかし前述のように唯さえ不足な現在の時間中では、せつかくの指導要領の趣旨もこれを具体化することが甚だ困難で、なかなか実施されかねている状態である。本部会は、」本部会と申しますのは高等学校部会でありますが、「全国から集まつた高等学校部会、四百名の会員が熱心に討議を重ねた結果、絶対多数を以て左の通り決議した。関係当局は、この決議を直ちに制度化して、以て新指導要領の円滑なる実施を促し、自立日本の正しき国語教育の進展を図られたい。」そうして決議といたしまして「一、高等学校の必修国語を一カ年五時間、三カ年計十五單位に改めること。」附記といたしまして、「右に伴う詳細な改正内容については、われわれは当局の諮問に応じる用意がある。昭和二十六年九月二十三日全日本国語教育協議会高等学校部会」こういう決議がなされておるのでございます。それでまあそういうわけでございまして、併しながら、全日本国語教育協議会は、これを直ちに議会へ請願するというようなことはいたしませんでした。それは先ほど来お話のある通り、こういう教科課程の改編というものは、文部省にございます教科課程審議会を通して、ただ国語科だけの問題でなく、全体の教科課程の上から愼重に考慮して決定さるべきものである。こういう考えで、これは教科課程研究審議会ですか、そちらのほうへ議長増淵君から申上げるように考えて、着々進んでいる次第でございます。そういうような意味におきまして、最初結論を申上げました通り、この漢文だけをとり離して必修課目とすることは適当ではないと私どもは考えます。
それから第三番目に、国語教育の振興が今日の国語政策に対して如何なる関係又は影響を持つかということでございますが、従来のままの方法で漢文教育を行うことは、国語政策と当然矛盾するところが生じて来ることは、もうすでに幾多のかたがたが言われた通りでございます。従つて愼重に研究して、この矛盾を克服するような工夫を加えて、漢文教育をしなければならないと私どもは考えます。このことについても申あげたいのでありますが、もうすでに十二分を経ましたから省略いたします。それから国文教省と漢文教育の関係でございますが、これはもうすでに今までお話のあつたところで、討議し盡されておりまして、皆共通な点を持つておられるようでございまして、申すまでもなく、漢文教育は国文教省の古典として課すべきである、こう考えます。そして最後に、この漢文ということが、どういう内容を漢文というのかということについて、人によつていろいろの解釈の相違があつて、議論の紛糾を招くのでありますが、私はこう考えます、漢文は中国の古文の原形プラスの和訳というものが、漢文の内容をなしておるものと考えるのであります。従つて漢文は中国の古文が日本に輸入されて、日本的に翻訳され、解釈されて、特別な発達を遂げた、日本のみに存在する特殊な学問である、こういうふうに考えます。その内容を分析いたしますると、いわゆる漢文なるものの中に、文学的なるもの、倫理的なるもの、哲学的なるもの等を含んでいると考えます。文学的なるものの中の国文学に影響を與えたものを高等学校の国語科で採択すべきものであると考えます。勿論倫理的なるもの、哲学的なるものを含んでおりまする論語とか、孟子とかというものは、それなら除外するかというと、そうではございませんでして、いわゆる文学の中にも抒情詩もあれば、論文もございますので、その中の文学作品として、文学として結晶性のある言葉は一つの語録の中にも見当るのでございまして、そういうものは採択するのでございますけれども、そういう倫理的なるもの、哲学的なるものを單行本などとして読まして、その思想体系を把握せしむるということになりますと、これは文学のほうに與えた影響もございましようけれども、それは倫理的なるもの、哲学的なるものは、東洋倫理史とか、東洋哲学とかいうようなことに考えまして、それは高等学校で取扱うとするならば、高等学校の社会科でやるべきものであると考えるのであります。そういうふうに考えて参りますると、指導の方法がいろいろと問題となりまするが、先ほどから申上げました通り、国語政策の点などを考えますると、やはり書下し文の形態から入つて行くのが順序である。そうして書下し文にいたしますると、措辞その他の点から、漢文の本当の元の意味がわからないとかいうようなことができて参りますので、それは参考として原形を註のような形で付けておくような程度にいたしまして、そうして内容把握にもつぱら努める。そうして原形はむしろ副とする。そうして指導して行くうちに、好きな生徒は原形も見たくなるでございましようから、そこらは生徒の自由な活動に任しておいて、そうして三年間親しんでいる間に、だんだんに原形を読み得るようになつて行く、そうして平易なる漢文というものを読めるようになる。こういうようにいたしまして、そうして漢文をそのままのときには、置字など、いろいろな語彙の負担をかける、いろいろな漢字を覚えさせなければならないことになるのを、書下し文でやることによつて、その難点を避けまして、成るべく当用漢字の範囲内において内容がキヤツチできるように、書下しなども成るべく仮名書きにいたしまして、止むを得ず読ませなければならないような固有名詞等は、ルビを振るとかいうことにいたしまして、そうして国語政策と矛盾しないように工夫を凝らし、そうして漢文が日本の国文における古典としての位置を飽くまでも逸脱させないように、そうしてその影響の與えたところを重要視して、そうして国語の中で漢文を古典として学習さして行くというように図つたならば、いろいろな点の摩擦、障害、矛盾というものが克服されるのではなかろうか、こう考える次第でございます。
時間になりましたので私はこれだけにいたします。
—————————————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/21
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022・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) これを以て本日おいで頂きました参考人のかたがたの御意見は、全部終了いたしました。なお中島健蔵さんは御出席できないが、文書を以て意見書を出されておりますが、これをここに朗読いたしましようか、それとも又本日の委員会会議録のあとに添附いたしておきますかお諮りをいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/22
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023・矢嶋三義
○矢嶋三義君 会議録のあとに添附することに……。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/23
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024・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) 他に御意見ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/24
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025・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) それでは添附いたすことにいたします。
参考人のかたがたに付しまして御質疑のおありのかたは質疑を願います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/25
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026・矢嶋三義
○矢嶋三義君 先ず安藤参考人にお伺いいたしますが……と申しますのは、参考人は高等学校教育の指導の立場に立たれておりますので、その角度からお伺いするわけでありますが、先ほどから参考人のかたがたの御意見を承わ
つておりますというと、学力の低下ということが非常に大きく叫ばれているようでございます。これについては私は前提をはつきりと把握していないのじやないかというような反省を私は持つているんです。と申しますのは、今の大学の学生並びに高等学校の上級生というものは、太平洋戰争華やかなりし当時旧制中学校の二年生、それから小学校の四年、この間の学生であつたわけですね。従つて太平洋戰争の犠牲によつて、今高等学校の上級から大学の学生というものは殆んどまとまつた教育は受けておらないわけです。そこにね、私は学力の低下しているという根本的な原因がありやしないか。更に少し飛躍するようでございますが、最近東大事件とかいろいろ起つておりますけれども、東大事件の学生の心理状況というものを私はメスを入れて行けば、そういうところに相当大きな原因があるのじやないか、そういうことをお互いが余り前提としてはつきり把握しないで論じている向きがありやしないかとこう私は考えます。指導の立場に立つておられるあなた様として、先ほどから国語の必修の九單位、これではどうしてもうまくやつて行けないというような意見が各方面からあつたのでございますが、現在の六三三の中で、この経済状態も落ちつき、人心も安定したこういう状態下に、小学校の一年から逐次進学して行つた場合もやはりそうなんでございましようか。そういう点をどういうふうにお考えになるか、一応それを先ず第一に承わりたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/26
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027・安藤信太郎
○参考人(安藤信太郎君) 只今の御質問の二つとも前提はおつしやる通りだと思います。六三三が充実した場合、高等学校に入つて来るものは日常生活の聞く、話す、読む、書く、そういつた国語力は随分高まつて、六三で一般社会人として必要な国語力はつくのじやないか、これは充実した場合でございます。その根本基礎に立つて、高等学校の国語教育は漢文もやるべし、古典もやるべし、そうなければならないと思つております。お説の通り、戰争中及び戰後の混乱から来る非常なギヤツプができて、高等学校の生徒が入学した時に、あるべき国語力を持つていない、そう考えます。同時に学力が落ちたということなんですが、その学力が落ちたということを、必ずしもそれを是認しない御意見もあつたと思いますが、それは文字なら文字について申しますと、私は不必要な文字をたくさん知つておるとか知つていないかということではなくて、日常使う、つまり自分の文章生活に必要な文字、漢字を確実にキヤツチして、それを使いこなすということが、それが本当の文字力ではないか。当用漢字を制限したということは、必要欠くべがらざるものだけでこれを自由自在に書きこなして、そうして自分の文字生活を律し得る、そういうときに立派な字を書きこなし得たということで、不必要な漢字をたくさん知つておるということではないと私は考えます。それで答弁になりますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/27
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028・矢嶋三義
○矢嶋三義君 次にお伺いいたしたい点は、先ほど参考人から非常に貴重な御意見を承わつたのでございますが、それを裏返して聞きますと、次のように私は聞こえたのでございますが、そうでございましようか。と申しますのは、新学制の下に高等学校の單位制を謳う制度をしたが、その施設も十分することなく、それに必要な教員数ということも與えることなく、ただ更に必修三十八單位と、卒業に必要な八十五單位、そういうものを検討することなく、ただ漢文教育をもう少し徹底しなければならん……言い換えれば、復活というような形で取上げて行つたのは、天野文部大臣はどう言われたかわからないが、それは非常は軽率であつて、指導当局に当つておるものでは困るということに裏からはとれたのでございますが、そうなんですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/28
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029・安藤信太郎
○参考人(安藤信太郎君) 高等学校のすべての教育課程を再検討しなければならないと私最初に申上げたのは、只今の御質問の趣旨と合つておるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/29
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030・矢嶋三義
○矢嶋三義君 これにちよつと関連しますので、石田参考人にお伺いいたしたいと思うのでございますが、と申しますのは、先ほど小石川の澤登高等学校長さんからも御発言がございましたが、我が国の教育というのは、全く入学試験によつて左右されて来た過去において大きな弊害を持つておると思います。言い換えますと、人間育成のための教育か、上級の学校にパスするための教育かという、そのどちらかわからないような大きな弊害を持つておつたと思うのでありますが、その弊害が今でも天野文部大臣の一言によつて、新聞記事の一行によつて、それが直ちに小石川高等学校に反映したというように承わつたのであります。それだけにこういう問題は重大であると考えるのでありますが、職業課程の学校の校長としての石田参考人にお伺いいたしたい点は、更に漢文必修の問題が出た場合、果してそれでやれるかどうか。と申しますのは、国立大学協会のほうのこの書面を見ますというと、大学に入るのには総單位八十五單位の中で、六十九單位を欲しいということを大学協会、大学のかたがたで申合せておるわけですね。そうなりますと、職業課程の学校としては、完成教育という立場から、少くとも三十單位は取らなければならないということを考えて来ると、これだけでも私は新学制の精神は蹂躪されて、転業課程の学校の学生は大学へという、上級の学校べ行くということは事実上道を塞がれたことになるのではないか。これは教育の機会均等の新教育制度の基本的のものに触れておるかと思う。そこへ持つて来て更に漢文を生徒の必修として見る。それが国語の中に二となるか、三となるか。二として加わるとした場合、戰後に発足したところの教育の機会均等のその理念というものは、これで果して通せるかどうか。その点を承わりたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/30
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031・石田壯吉
○参考人(石田壯吉君) お答えいたします。只今矢嶋議員からの御質問は誠に御尤もな御質問でありまして、実は私も大学進学協議会の委員をここ三、四年やつておりまして、この問題についてはいろいろ高等学校の側に立つて意見を述べておるのです。併しながら一面から、大学側のほうの、つまり受入側の考えというものもこれは十分尊重して行かなければならん問題だと思うのです。それでこのたび国立大学協会が高等学校における履修科目選択に関する参考資料というようなものをお作りになりまして、そして大体こういうようなことが望ましいのだというような調査をされたことに対しては、私としては個人として敬意を表しております。そしてでき得る限りこういう趣旨に副うて行きたいと考えるのであります。けれども現状の教科課程の上から申しますとですね、こういう要望というものは尤もであるけれども、併しながら現状から言つたらばこの要望そのものは鵜呑みにするということは、これはたたに職業高等学校だけでなくて、普通の課程の高等学校においても非常に大きな無理があるのじやないか。ましてや只今お話のように、三十單位余計に職業科目を必修しなければならない職業高等学校におきましては、事実上進学の機会を阻まれるというような結果になるものである、こういうふうに存じます。その際更にこの漢文科の問題が必修として課せられる。而もその課せられるということになりますと、大体において、こういうことを申しては言過ぎかも知れませんが、国語の場合でもそうなんですが、非常に難解なものを大学側は出す。そうしますとどうも高等学校の側は非常に弱いですから、結局そのほうに引ずられて受験準備をしなければならんというような結果になりまして、いよいよ先ほど澤登君の御説明にもあつたように生徒の負担を重からしめる、こういうような結果になりますので、現状、即ち教科課程の再編成というようなことがなくてこのままの状態といたしますならば、漢文を必修の中に加えて、而もそれを受験科目で出す、こういうようなことは私としては反対でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/31
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032・矢嶋三義
○矢嶋三義君 私は新学制下において最も盲点であつた高等学校教育が、この漢文の問題をきつかけにクローズアツプして来たことは我が国の教育界に非常に幸いであつたと思いますが、今後十分皆さんの意見を承わり研究して行きたいと思いますが、御両人には質問をここで打切りまして、福島参考人に御意見承わりたいと思います。私別に反駁するのではなくて、あなたの御意見を承わりたいと思うのですが、率直にお答え願いたい。先ず第一点は当用漢字制限ですね、こういうものをどういうふうにお考えになつていらつしやるかということです。それから将来のことを考えて文字並びに言葉の簡素化というようなものについてどういう御見解を持つていらつしやるか。それから高等学校を卒業下るのに必要なのは八十五單位になつているわけでございますが、その中の必修三十八單位で、その必修の中にも又選択必修の中にも芸能即ち書道、図画、音楽、そのようなものは一單位も入つていない。これは單位制度の考え方から最低限のものを必修にして、あとは選択必修にするという建前から行つたのだと思いますが、そういう芸能科が選択必修の中に一つも入つていないということと漢文の必修……、更に多くするということをどういうように関連性をお考えになつていらつしやるかということ。それから失礼かも知れませんが、あなた様のお言葉を承わつておりますと、国語或いは漢文の力だけが低下したように聞えるのでございますが、他の大学の先生がたから承わるところによるというと、理科系統に入つて来る生徒すら、昔の中等学校の二、三年生がじやんじやんやつているとろの因数分解さえできない生徒が入つて来て、微積を教えるのに非常に苦労をしているということを承わるのですが、そういうことをお聞きになつたかどうか。又そういう関連性をどういうふうにお考えになつていらつしやるか。と申しますのは、私は曾つて数学の教員をやつたことがあるのですが、これは世界的に皆様がたもそういう教育を受けたと思うのですが、すべての人を如何にも数学者にするような数学教育というものが中学から高等学校と行われていた。これは大いに反省されて数学教育の革命がスミスあたりから行われて、それが今の日本に流れて来て、今の日本の数学教育というものを転換して来たことは御承知と思いますが、あなたのお言葉を承わつておりますと、やや漢学者に近い人を育成するということを非常に重くお考えになつていらつしやるのじやないかというような点を感じますので、そういう点お考えになつていらつしやるかどうかということであります。それから最後にあなた様にお伺いしたい点は、さつき西尾参考人からのお言葉がありましたが、忘れ物云々と言えばすぐわかるのに、遺失物云々と言うのでわからないという御発言がありました。私先ほどから参考人の御意見を承わつておりまして、あなた様の言葉が一番むずかしく、速記録を見ないとわからないような言葉があつたのですが、この漢文を今の国語甲の三の中で若干漢文を入れて教育する。そうして漢文をずつとしたい人は、更に漢文として二時間乃至六時間の選択をやる。こういうことでなくて、理科系統にも、あらゆる方面に進む人にも全部あなた様がお考えになつているような、というのは、この請願書に書いてある趣旨の漢文必修をやつた場合に、これはまあそういう人は高等学校以上の卒業生でしようが、そういう人が話す言葉はこれは中学校きり出なかつた人にはわからないのじやないかと思う。私は政治家ですから考えるのですが、選挙運動というときに国民にわからせるような話をするのは非常に苦労するのですが、さつき遺失物云々といつた例と同じように、相当国民同士の不便というものが出て来るのじやないかということを考えるときに、あなた様と渡邊参考人の意見とは随分と距たりがあつたのですが、そういう角度から渡邊参考人のような御意見をどういうふうにお考えになつていらつしやるかということを承わりたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/32
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033・福島正義
○参考人(福島正義君) それではお答えいたします。これは個人福島としての考えであります。当用漢字と、漢文必修の関係をどう考えるか、こういうお言葉であつたと思います。一体当用漢字は、最定限千八百五十字は知つておくべきものというのが、当用漢字であると私は解釈しております。それ以上は覚えることはならんという法律的禁止はこれは成立しないのじやないかと思います。ただ法律的根拠のあるのは戸籍法第五十條によつて、当用漢字八百五十字以外の文字は使えないというような、泰の始皇帝ですらやらなかつたであろうところの、法律によつて漢字を使うことができないという……。四千年来の暴君すらやらなかつたことが、今日の日本においてこれが法律できまつたということは不可解至極だと考えております。当用漢字は私はそういうふうに解釈しておりますから、千八百五十字は知つておかなければならない。それから以上は高等学校、大学だんだん必要に応じ自由自在であるべきであると私は信じております。但し戸籍法の第五十條が改正撤回にならない限り、日本国民でありますから法律に従わなければなりませんから、それは私は従いますが、当用漢字の件は漢文必修に対しては、必修でなくても選択としてやればもうこんな千八百五十字以外の字はどんどん出て来る。これを使うことはならんということはどこから考えても不可解至極とするところであります。それで私は当用漢字という考えは、必修になろうが選択であろうが、一向差支えない、一つも影響ないのであります。そうして更に私の苦言を呈しますならば、当用漢字という法的に縛つても、自然の必要であれば覚えて結構であると思います。文字は簡略であつて成るべくわかり易い……。私がわかりにくい言葉を使うのは惡いのですが、ここにおられるのは有識階級とみなしたから私はむずかしい言葉を使つたので、高等学校の生徒に向つてはわかるようにいたします。小学校の教員も私はしましたが、小学校の生徒は私を一番尊敬して愉快な授業をやりました。子供には子供の、大人には大人の……。ここにおられるのは有識階級、而も国家の最高機関の国会議員でありますから、私はあえてむずかしい言葉を使いましたが、要するに自然淘汰で漢字はだんだん簡略になつて行くのであれば、これはもう一番結構なことであると私は思いまして、法的根拠を以て彈圧をしてこれは強制したところで、どれだけの力があるか。一体千八百五十字でやつておつたところが、新聞が悲鳴を上げて新漢字を増してもらいたいという要求があつたことがあると承わつております。間違つておつたら訂正いたしますが、要求があつたということを聞いております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/33
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034・矢嶋三義
○矢嶋三義君 お伺いいたしたい点は、この当用漢字の千八百五十字ですね、そういう行き方を肯定されるのかされないのか。又あなたさまが学校で授業されておるときに、こういうものを尊重されておるのかおられないのか、あなたのそういう見解だけを承わりたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/34
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035・福島正義
○参考人(福島正義君) 課目として必要な場合には使わなくちやいけない。成るべく平易なものですめばそれでよろしい。漢文授業において、漢文の李白、白楽天の幽玄な詩を解釈するのに漢字の意味がわからなければわからない。そのために必要があるときは書きますが、それを黒板に書いたからといつてすべての面に……。読めるだけの字と、話すだけの字と、又象形文字のようにこれはこんな意味だというこういう種々な意味がありまするから、人により目的によりで、当用漢字の必要はどういうふうにでもなるとこういうふうに考えておりますから、必修になつたから殊更に当用漢字の枠を破つてやるという反抗の意識は全くありません。指針に則つた、こういう考えを持つて当用漢字に対しては持つております。要するに選択として認められておる以上は、すでに当用漢字だけでは到底学習できないことを意味しておりますから、今回の請願してある趣旨と全く相反することはない、こういうことを考えます。
二番目の文字言葉の簡素化というのは今のと重複しますから、できるだけ簡略な文字を、簡略なわかりやすいところの言葉を使つたほうがいいというふうに私は考えております。
八十五單位必修、三十八選択、必修の中に入つていないのをどうするかという問題は私は……、例えば或る人が言いました。お前たちは漢文を必修にしたら物理も必要である。図画も化学も日本歴史もみんな必修々々に持込んで来るじやないか、そういうことをして一体どうなるかという意見を承わつたことがありますから、今の質問と殆んど一致する点があると思います。その点に対する私の見解は、新たなる選択を必修に加えるにあらず、三の中に入つておる、三の輪廓を拡げること、これはもう常識から考えて中央の指定がないと、地方でやれるようにしてもやれません。指定がないと……。ですから時間をはつきり明示して相当やれるだけの時間を與えてもらいたいというのでありますから、何ら新たなる選択を必修に持込んだのではない、こういうことを明言しておきたいと思います。又更にそんなに必修がみんな必要であるならば、国民の要求によつてやるべきでありましようから、それだけ全面的な国民の声であれば、何ら文部省の一官僚と言つちや失礼ですが、文部省だけでそれを放つておく必要はないから、今度教育中央審議会委員などは全部高等学校においては選択廃止、最小限度の必修は全部やめる、こういう方針をおとりになつても差支えない問題であつて、私は実はそこまで行けばもつと六三制を批判しなければならん。我々の要求はどこを指しておるかわからなくなる。ほかに影響を與えずそれだけをする。何とか自分たちの国のためになる、日本のためになることをやらしてもらいたい。ほかのものに影響しないように考えてやつたわけでありますから、選択必修の問題についてはそういう見解を持つております。私は私的な考えでは、高等学校は昔の中等学校或いは考えようによつてはそれ以下の力しかありませんのに、選択だというのはおかしい滑稽の至りであります。おれは数学が嫌いだから数学は一つしかやらないで卒業しようとか、日本歴史は嫌いだからやらんとか、物理は嫌いだからやらんと、あたかも蛋白、脂肪、澱粉のうち脂肪が足らないで、脂肪は嫌いだからと食べないで大きくなれるか、こういう考えを私は持つております。
次に私は必要であるならば全部必修で……、昔の中学のほうが妥当であると思います。何ら定見もない者、選ぶ能力のない者が勝手に日本歴史は嫌だ、漢文はちんぷんかんぶんだから嫌だ、そうして訳もわからないのに自由選択をすることが間違いだ、私の私的見解はそうであります。
四番目の国語、漢文の力の低下はほかの学課にも同様にあると思うが、これは六三制の批判になりますが、私は府立の四中時代から十年目でありますが、昔の府立の四中と今の戸山高等学校を考えてみますと、驚くなかれ学力は全部低下でありまして、昔の中学といつたときのことを考え……、これは澁谷高校の先生にも私的にお伺いいたしましたが、或る権威のある人が……、高等学校の一年は昔の中学校の二年以下の学力しかないというようなことを聞きまして、私の学校だけではないと思いまして、名前は高等学校になつておりますが、実際には英語を中心として本当に何でも驚くほどの力である。(矢嶋三義君「簡單で結構ですから」と述ぶ)だからほかにも相当な影響がありますが、ただ漢文からの特色は……、先ほど申上げたような不当なる、恐ろしい言葉で言うと彈圧といいますか、やつてはいけない、やれないようなことになつたときに、一番恐れるのは漢字の読解力の不足であるのじやないかと思つたものですから、どこの学課も低下しておるが、特に国語、漢文の読解力の点は一層著しいと考えておるのであります。遺失物、忘れ物、この問題は非常に同感でありまして、やさしい言葉は……、やさしくしてできるものならば、これは平生においてはこれは話言葉として、一般大衆であるならば忘れ物で結構であると思います。その他話す言葉、書き言葉という問題でありますが、この最後の御質問がはつきりわかりませんでしたが、最後が遺失物の問題でありましたですか。(矢嶋三義君「結構です」と述ぶ)それではその程度をお答えいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/35
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036・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) 他に御質疑ありませんか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/36
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037・高田なほ子
○高田なほ子君 ちよつと福島さんに一点だけお伺いいたします。先ほど漢文を強いる先生の頭は非常に問題であるという渡邊さんの御発言がありましたが、又長澤さんからは漢文教育の過去の誤り、漢文教師の犯して来た過去の誤りというものは、素朴な意味で取上げられたと思うのであります。そこで、あなたにお伺いしたいと思うことは、先ほどの御発言の中に、終戰後この漢文が廃止されたということについて、一つの暴挙というような言葉み使われたように思われますし、更に精神の栄養の元素は、もうあらゆる精神の栄養の大本はもう漢文にあるというように、非常に漢文教育のいいところ、又戰後廃止されたことを暴挙とあえて言われるというようなことは、これはちよつと解せないところがありますが、過去の漢文教育というものをすぐ今日そのままここへ持つて来たらいいというようにお考えになつておられるのか、精神栄養の本家本元はもう漢文でなければならないという、いわゆる過去の思想統制に使われた漢文教育のこういう誤謬というものを、どのくらいあなたは御認識されておられるのか。つまり、過去の漢文教育の誤つた点、それをどういうふうに今後是正して行かれようとするのか、この点を大まかに伺いたいと思う。その一点で結構です。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/37
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038・福島正義
○参考人(福島正義君) それでは第一番目の、戰後における漢文を廃止する暴挙という言葉の説明でありますが、これは実は大変この内容を申すとその筋のかたが迷惑されるかも知れんと思つて、実は内容を申さなかつたのですが、実は今委員から要求がありましたからその一端を申上げます。あえて申上げます。それは昭和二十三年の五月におきまして、全国から集りました漢文の先生がたの幹事の総会を開きました際に、文部省からときの監修官の名前も申上げて差支えありませんが、お二人がお見えになりまして、進駐軍の最高司令官の命令により、いわゆる至上命令により、漢文は禁止彈圧になつたからそういうふうにして考えてもらいたいというお伝えが五月の七日だつたと思いますが、はつきりした明示がありました。差支えなければそれを言つた人のお名前も申上げて差支えありません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/38
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039・高田なほ子
○高田なほ子君 それは結構であります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/39
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040・福島正義
○参考人(福島正義君) そういうことがありまして、果して本当でありますれば、暴挙ということが言えると思いますが、それはおかしいという、そういうことをマツカーサー最高司令官が言われたかどうか確めてみようというので、実は名前をあえて申上げますならば、教育大学の山岸教授が最高司令官の最高顧問と懇意であるから聞いてもらつたところが、何らそんなことはないのだ、こういう事実がありまして、更に私はここにおられる長澤先生の友人であり、参議院の当時專門員であられました岩村忍氏を通じまして、ハルパン氏に面会を求めまして、会つてもらいましたが、お国の言葉はお国で決定すべきであるということで、何ら彈圧はありませんでした。こういうような恐ろしいことが言われまして、新聞もラジオも禁止だ、禁止だと伝えられたことは御承知の通りで、このことを私はあえて暴挙と言つたのであります。それであえて暴挙と言うことに全然これはふさわしからざる言葉であれば変えますが、内容のその一端は……、そのようにして漢文はあとを絶つたのであります。それが田中耕太郎委員長によつて漸く参議院のほうにやつと請願が本会議まで通過させて頂いて、辛うじて選択として残つている。そうして去年から必修の中に、指導要領の中に入れて頂いたという状態であります。これで暴挙という言葉はおわかりだろうと思います。
次に精神栄養は、問題は漢文だけではありませんが、私は特に我々東洋人として、日本人として、西洋の中にもなかなか立派な詩もあれば哲理もあるのでありますが、やはり東洋人としては、なお更東洋においては、四千年の間に出た立派な先哲の意見もありましようが、その中にたくさん含まれておる。併しそれを強制すべきものではない、私は先ほどから教育は自然の性格である、自然でなければいけない。巧言令色少し仁というような生徒に教え方をしてはいけない。成るほどおべつかをつからことはいけないならば、やはり顔色だけ、表面だけ作ることは惡いかというように感ずる、自然にあるべきそういうところにおいて倫理感は自然に生れるものがあつたらそれでよし、なかつたらそれでよし、こういうような面で精神的栄養という一例を申上げたわけであります。特に文学の豊かさに対して老宋はどう考えたか、人生の困難なときに古人の先哲はどういう行き方でこれを切抜けたか、こういうわけであります。そういう意味であります。
それから過去の漢文教育上の欠点というものはこれは大いに認めます。確かにこれは軍閥に利用された点もたくさんあつたと思います。本当に惡いところだけ利用すればどの学科でも惡い面はありますが、特にそれに利用された。今後は教育者はしつかりした研究をして、本当に立派な研究をやつていかなければいけない。軍閥に左右されたものは漢文教育だけじやない、一昨日投書が来まして、福島県の或る学校から、仮名文字論者から国家を亡ぼすところの漢文をどうして主張する、ガダルカナルの敗けたのも漢文のためじやないかというような脅迫的な手紙が来ましたが、一切を漢文がおい被つておるように思うが、勿論惡い点はあつたと思いますが、だが戰争が漢文のために負けたかどうかはこれはお考えになればわかると思います。さような過去における誤りはたくさんあるが、ここにおられる竹田博士以下非常に最近は日本の最高級におられるかたも自覚しておられる……。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/40
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041・高田なほ子
○高田なほ子君 どういうふうに考えて行かなければいけないか、今後はどうしてなおして行かれようと思われるのですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/41
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042・福島正義
○参考人(福島正義君) 例えば道徳を強制しておつたとするならば、それは自発的に自然の脈動の中に、自覚の下に、これを順応させて行こう、そういうやり方でなければいかんが、特に長澤氏から先ほど言われましたように、道徳教材を余り持つて来ないで、文学の中に自然の人間の豊かさを盛つて行こう。文学教材の中にもこういうものが大変多いようであります。私も文学的な豊かさというものを特に考えるものでありまして、そういう自然の中にふんわりとしたものということを考えておるわけであります。これで大体お答えといたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/42
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043・堀越儀郎
○堀越儀郎君 渡邊さんにお聞きしたいと思います。あなたのお考えはよくわかるのですが、当用漢字を基礎にした国語教育と矛盾しない漢文を教えられた場合に、現在の漢文を文学的な内容のあるものを主に教えるというお考えらしいのですが、それで十分できますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/43
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044・渡邊茂
○参考人(渡邊茂君) 十分できるかどうかということは、これはちよつと人によつて考えがお違いになるだろうと思います。まあ私どもは漢文を日本の古典として考えるときに、例えば枕の草子の中に出て参ります有名な清少納言の香炉峰の雪と言われて御簾をかがげて見るというあの句を思い浮べてやつたというような気軽ですね。あれの文学随筆枕の草子の中に書いてある、そのときには必らずしも詩の原形をイメージとして頭の中に浮べて書いたものではないと思います。和訳された一つの詩の句を頭の中に浮べて書いたものである、こういうふうに考えます。そういうような意味におきまして、まあ余り原形にとらわれないほうがよろしい。その他そういう例は奥の細道の例を見ましても、随所にそういうことはとらえることができます。そうなつて参りますると、まあ余り原形にとらわれないで、そうして国文学の中に痕跡をとどめておる影響を基にして漢文をやるのが最も適切な行き方ではないかと私は考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/44
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045・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) ほかに御質疑はございませんか。他に御質疑もないようでございますから、参考人のかたがたに対しまする御質疑は終了いたしたいと思いますが御異議ございませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/45
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046・梅原眞隆
○委員長(梅原眞隆君) 御異議ないと認めます。
終るに際しまして、委員会を代表して参考人のかたがたにお礼を申上げます。本日は公私御多端の中をこの委員会のために御出席頂きまして、優れた御意見を拜聴させて頂き、且つ委員各位からの質疑に対しても懇切なお答えを頂きまして誠にありがとうございます。我々が漢文教育の問題につきまして、今後調査いたして参りますについて、皆さんがたの御意見を十分参考にいたして参りたいと存ずる次第でございます。本日は参考人のかたがたは早朝からおいで頂いたにもかかわらず本会議が開かれておりまして、本委員会会の開会時間が大変遅れましたことにつきましては、深くお詫びをいたす次第でございます。
これを以て本日の委員会を終りたいと思います。
午後三時五十九分散会発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101315115X01419520307/46
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