1. 会議録本文
本文のテキストを表示します。発言の目次から移動することもできます。
-
000・会議録情報
昭和二十八年七月五日(日曜日)
午後一時十七分開議
出席委員
委員長代理理事 山花 秀雄君
理事 丹羽喬四郎君 理事 持永 義夫君
理事 高橋 禎一君
荒舩清十郎君 池田 清君
田渕 光一君 三浦寅之助君
山中 貞則君 吉武 惠市君
黒澤 幸一君 多賀谷真稔君
井堀 繁雄君 熊本 虎三君
出席国務大臣
労 働 大 臣 小坂善太郎君
出席公述人
一橋大学教授 吾妻 光俊君
東京大学教授 石井 照久君
和歌山大学教授 後藤 清君
委員外の出席者
専 門 員 浜口金一郎君
—————————————
本日の公聴会で意見を聞いた事件
電気事業及び石炭鉱業における争議行為の方法
の規制に関する法律案について
—————————————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/0
-
001・山花秀雄
○山花委員長代理 これより労働委員会公聴会を開会いたします。
本日は赤松委員長は事故がありますので、私がかわつて委員長の職務を行いますから、御了承願います。
それでは公述人の皆さんに、私より委員会を代表いたしまして一言ごあいさつを申し上げます。
本日は公私御多忙のところ、わざわざ御出席いただきまして、まことに感謝にたえません。本日御意見を聴取いたします電気事業及び石炭鉱業における争議行為の方法の規制に関する法律案は、当労働委員会におきまして目下慎重審議中でありますが、何分にも重要な法案でありますので、本日公聴会を開会いたし、皆様の隔意なき御意見を拝聴いたすことといたしたのでございます。
なお、審議の都合上、御意見の公述には、はなはだ恐縮でありますが、公述人各位におかれましては、大体二十分ぐらいで御意見をお述べになつていただきたいと存じます。
それでは吾妻公述人よりお願いをいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/1
-
002・吾妻光俊
○吾妻公述人 電気事業及び石炭鉱業における争議行為の方法の規制に関する法律案、世上いわゆるスト規制法案といわれますこの法案につきまして、私の意見を申し述べたいと存じます。
実はこの法案につきましては、従来からたびたび意見を発表する機会を持ちましたし、また解散前の国会においても、私としてはこの法案に対する意見を申し述べております。従いまして、この公聴会におきましては、私として、できるだけ今までとの重複を避けるために、問題をしぼつて私の意見を申し述べたいと存じます。
電気事業及び石炭鉱業における争議権の方法に関する制限というものが、この法案に盛り込まれました根拠として、まず第一に取上げられておりますのは、停電スト、電源スト等の電気の供給を阻害する争議手段及び石炭鉱業におきます保安要員の引揚げという形における争議行為の行使、この二つの争議行為の行使と方法は、いわゆる公共の福祉に反するという考え方が、この法案の基礎をなしておると考えられます。われわれといたしましても、争議権の行使が絶対的ないということ、すなわち争議権の背景としては、公共の福祉とその調和をはからなければならないということについては、われわれもごうも疑いを持つておるものではありません。ただ問題は、この法案におきます電源スト、停電スト等の禁止また保安要員の引揚げという方法を法律によつて禁止いたしますことが、この公共の福祉という観念から、はたして是認されるかどうかという点に、問題の焦点があると考えます。電気事業の場合と石炭鉱業の場合において、規制されますストの方法について、やや趣を異にしておりますので、電気事業における停電スト及び電源ストの問題と、石炭鉱業における保安要員引揚げの問題とをわけて、私の意見を申し述べたいと思います。
まずこの法案が、電気事業の電源スト、停電スト等に関して、これを禁止しようという考え方のもとには、これらのストライキが公益を害する、あるいは公衆の生活に非常に大きな影響を与えるということが、この法案の骨子となつております。しかし、私の考えますところにおいては、公益事業におけるストライキが、国民大衆、公衆に対して、いわばマイナスの影響を特つということ、争議の状態いかんによつては、非常に大きな影響を国民生活に及ぼすということは、疑いのないところでありますが、しかしその争議行為の背後には、必ず労使関係の中に紛争があり、賃金その他労働条件をめぐつての紛争が存在すること、この紛争のいわば派生的事実として、あるいはその紛争を有効に解決するための手段として、争議行為が用いられるということを考えて参りますと、何といつても問題の焦点は、労働争議それ自体の解決になければならない。しかも、世界各国の法律は、この点について、公益事業に関して特別の措置を講じておることは、皆さんも御承知の通りであろうと思います。日本の現行法について申しますと、争議予告期間の設置、十日の予告をもつて公衆の迷惑をできるだけ防止しようという考え方、また公益事業のみに関する制度ではありませんが、緊急調整の制度によつて、五十日間のストライキのストツプを伴う特別の調整制度の設置、こういう形において公益事業その他重要産業におけるストライキというものについて、その紛争の解決についての特別の措置を講じておることは、皆さんも御承知の通りであろうと思います。この法案が、昨年の電産、炭労のストライキを機縁として制定されたことは、まぎれもない事実でありますが、あの争議において、ストライキが公衆の生活に非常に大きな影響を与えたということの背後には、あの争議が、きわめて長期間にわたつて、しかも政府ないしは中労委の介入によつて容易に解決しなかつたということが、その根本にあるわけであります。従つて、公益事業の争議においても、いわば公共の福祉との関連において法律として干渉し得る最大限は、むしろ特別の調整手続によつて紛争を解決するということになければならないと考えます。もとよりその反面において、争議行為も、その正当な範囲を逸脱するということがございますと、これに対して個人の法益を守るという目的のために、刑罰法規その他が発動されるということは、これは当然のことであります。しかし、刑罰法規等によつて個人の法益を守るという観点においては、具体的事件に即して、争議行為の具体的内容に応じて、その正当性の範囲を逸脱しておるかどうかということを決定するのが、いわば法治国家の争議権と個人の法益との調和に関する最善の制度ではなかろうかというふうにわれわれとしては考えております。従いまして、この点については、性急にある法規によつて具体的な争議行為の正当性のわくをきめるということに、私は大きな疑問を特つております。現在の判例の動きというものには若干不満な点もありますけれども、むしろ判例によつて目休的事件に即して、その争議行為の正当性のわくというものを定めこ行くというところに、実は個人の法益と争議権の保障という法理、これを調和する最善の方法があるのではなかろうかというふうに考えております。ことに電産のストライキの規制に関しましては、いわばこの争議権を制限されますことによつて、労使間のバランスが失われるということ、従つてこのバランスが失われるということに対して、何らかの積極的な対策が講ぜられることなしには、このようなストライキ規制法案というものは、まつたく労働者側に非常に大きな束縛を課する結果になるということが、私の考え方であります。従つて、現行の制度といたしましては、緊急調整の制度が五十日間のストライキのストツプを伴うという形においてこれももとより労働者側に有利であるということはいえない、むしろ不利であると考えなければなりませんが、この制度のもとにおいて、この制度の適当なる運用によつて問題を解決するということが、ストライキに対する法規による干渉として望ましき、少くとも望ましき形態ではなかろうかというのが私の考え方であります。
第二に、石炭鉱業における保安要員の引揚げの問題について、私の見解を申し述べたいと思います。この法案の第三条に、鉱山保安法に規定する保安の業務の正常な運営を停廃する行為、しかも鉱山における人に対する危害、鉱物資源の滅失もしくは重大な損壊、鉱山の重要な施設の荒廃または鉱害を生ずる、こういう効果を伴う行為を禁止しております。もとより、われわれといえども、鉱山の保安要員の引揚げによつて、鉱山が廃鉱に帰するといつたような事実をもし仮定いたしますと、このような争議行為は、その争議行為の運営の方法のいかんによつては、私個人の考えとしては、場合によつては所有権侵害という問題を提起する場合があり得るということを認めております。しかし、このような形において、一定の形式的なわくにおいて保安要員の引揚げというものを禁止するということについては、やはり私としては、電産の場合とひとしく大きな疑問をこの法制に対して持つものであります。すなわち、先ほども申し上げましたように、具体的な保安要員の引揚げの実態というものとこの結果等を総合的に勘案して、むしろあるときに行われた保安要員の引揚げというものが、正当性の範囲を逸脱するかどうか。あるいは言葉をかえて申しますと、争議権の濫用として違法と判断されるかどうかということが定められるべきものであつて、このような形式的なわくにおいて問題を決定するということは、一つには、このような法律の存在によつて、必要以上に適用の範囲を拡大されるという危険がある。それよりも私としては、電産の場合と同じく、具体的事案に応じて、むしろ判例によつて個人の法益と争議権の保障というものとを互いに限界づけるといいますか、お互いに調和せしめるということが妥当な方法ではなかろうか。むしろこのような法規は、労働組合の側においておそれておりますように、公共の福祉という名において、保安要員の引揚げをこのような形において禁止するということは、将来、場合によつては、たとえば溶鉱炉の火を落すとか、その他これに類似するような意味を特つ行動に対して、法律的な規制が加えられる一つの根拠になりはしないか。将来の立法によつて、そういう取扱いがなされる危険があると同時に、いわば類推的に、そのような争議行為が当然に違法とされるといつたような見解を引出しはしないかと労働組合側がおそれておりますのも、私としては無理からぬことではなかろうかというふうに考えます。一口に申しますと、要するに形式的な法律のわくによつて問題を解決するということは、争議行為のようなきわめて流動的な形において行われる集団行動に対しては、はなはだしく危険であるというのが私の見解であります。
なお、この法律は、その自体において罰則を設けておりません。政府の見解としては、この法律に違反した場合には労働法上の保護、いわば争議権の保障が剥奪せられ、いわば裸のままで刑法とか、あるいは鉱山保安法等の保安法規、あるいは民法というようなものにさらされるという考え方をとつておるようであります。しかし私としては、このような形においてこの法案が制定されますことは、実は従来の鉱山保安法その他の保安法規の予定しておらない争議行為、労働争議という事態に対して、それらの法規を実質的に拡大する、いやそれのみか、刑法その他の運用においても、なおこれらの法規によつて違法とされる範囲を拡大するという効果をこの法律に持たせるというのが、この法案のねらいでありましようし、またそうでなければ、この法律を制定されようとする意図がわれわれには理解できないということになります。しかし私としては、この法案自体の中に、そのような争議行為に対する罰則を含んでおらないということは、実はこの法規の解釈というものが、はたして政府側で説明されておりますように、この法規に違反した場合に、当然に労働法上の保護を奪われるかどうか、あるいは当然に鉱山保安法等の法規の適用があると考えるべきかどうかという問題については、多大の疑いが存するわけでありまして、むしろこの点については、私繰返して申しますと、具体的事案に即して、争議行為の正当性のわくを判決によつてきめて行くと同時に、そのわくの外にはずれた争議行為については、それぞれの事案において鉱山保安法等の保安法規の適用の要否ということを決定するのが、私としては正しい態度ではなかろうかというふうに考えておるわけであります。
最後に、ごく簡単にこの法案の社会的効果というものについて考えてみたいと存じます。この点は、法律論を離れまして、むしろ一種の政策論の領域に入るわけでありますから、ごく言葉短かに説明したいと存じますが、このような法規の運用について、私は先ほど申しましたように、この形式的なわくをきめるということ自体に、争議権の保障の精神との関連においても。問題があるということを申しましたが、このような法規を制定することの社会的効果は、もしこの法案が万が一可決されるということになりましても、この法規の定める制限というもの自体は、きわめて莫然としたものでありまして、従つて、労働組合の運動方針としては、この線すれすれのところで合法性の限界を求めようという方向に、労働組合運動を追い立てることにはならないであろうかということを、私としてはおそれることが一つであります。
もう一つは、これは根本的な政策として、いわば争議権の保障を通じての労使対等の原則というものに、この法案が何らかの形において介入し、あるいは介入するとおそれられるような事態のもとにおいては、これはむしろ将来の労使関係というものは、必ずしもこの法案が期待しているように、いわば秩序立つた、むしろ合理的な平和的な労使関係という方向に動いて行くという保障は全然ないのではなかろうか。むしろ争議権の保障を支えるという方面における政府の努力、労働政策の努力というものが払わるべきではなかろうか。この点は、しばしばさまざまの機会にさまざまの学者において論ぜられておりますので、私としては、こまかい点には触れませんけれども、たとえば、社会保障制度の確立であるとか、最低賃金制度の確立であるとかさまざまの打たるべき手が、いわばこの労使対等の原則というものを維持し、労働組合をして争議権の濫用という方向へ走らしめない最大の保障となるのではなかろうかというのが私の見解であります。
以上ごく簡単でありますが、私としてこの法案に対する見解を申し述べました。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/2
-
003・山花秀雄
○山花委員長代理 吾妻公述人は御都合があるとのことでございますから、まず吾妻公述人への質疑を許します。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/3
-
004・高橋禎一
○高橋(禎)委員 ちよつとお尋ねいたしますが、憲法第二十八条の勤労者の団結する権利、それから団体交渉をする権利、これについては、私どもややはつきりした考えを持つておるつもりでありますが、団体行動をする権利、その中に含まれておる争議権というものは、ちようど憲法第二十九条において「財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。」こういつておる。それと同じような趣旨で、この争議権についてもやはり一応法律をもつて定められ得る限り、公共の福祉に適合するように争議権の内容を定めておいたらどうかという考えがするわけでありまして、またそうすることによつて、ほんとうに勤労者の争議権というものが、権利として法律的に一つの内容を持つたものとなり得る、こう考えるわけであります。もちろん労働組合法その他において、若干それに触れてはおりますけれども、もつとはつきりとした制度がここに見られるべきではないかと考えられるのでありますが、それについての御意見はいかがでございますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/4
-
005・吾妻光俊
○吾妻公述人 ただいまのお話は、財産権に関する憲法二十九条との関連において、争議権のわくといいますか、幅を法律によつて定めることの可否いかんという御質問だと受取りました。抽象論といたしましては、私も、もしさような線が発見できるものならば、これを定めるということ自体、必ずしも異議を申し立てるものではありません。と申しますのは、争議行為の行使といえども、労働組合法の言葉によりますと、正当性いかんということが問題の焦点になりまして、その正当である争議行為及び正当でない争議行為というものの間に、載然と一線が引かるべき性格のものであるということを、われわれも考えておるからであります。ただ、その点についてわれわれが問題といたしますことは、争議権というものを、形式的なわくにおいて、財産権におけるごとく客観的な基準をもつてそのわくを定めることができるかどうかという問題に、私は根本の疑問を持つておるわけでありまして、もとより、きわめて極端な例を引きますれば、いかに争議権の行使といえども、殺人、傷害あるいは暴行、脅迫にわたるような行為、これが禁止されることは当然であります。ただ、それらの限界というものは、たとえば現行刑法なら刑法のわくというものによつて明確に定められる性格を持ち、その上にあえて争議権というものについてのわくを決定するということは、きわめて流動的な労使関係の中で、しかも労働組合のいわば生命ともいうべき争議権というものにわくをつける危険性というものと比較考量いたしますときに、私先ほど申しましたように、判例を通して徐々にその軌道というものを確立する方向こそ、実は法治国家として最善の方法ではなかろうか。むしろ、立法者が机上において一定のあり得べき形を考えて、それによつて争議権のわくづけをするということは、きわめて危険な行き方であるということを申し述べたわけであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/5
-
006・高橋禎一
○高橋(禎)委員 先はどのお話にも、またただいまの御説明にも現われたところでありますが、判例を通じてということは、確かに非常に間違いのない、きわめて妥当性の結果が得られる、こう考えるのでありますが、ただしかし、判例を通じて、すなわち裁判を通じてということは、一度ここに具体的な事件、本法案に関係いたしますと、刑事事件が起つて、そうしてそれが裁判によつてさばかれて、そうしてそこに判例ができるわけです。私どものそれ以上に考えますことは、少くとも国民が刑事事件、すなわち犯罪の疑いをもつて起訴をされ、裁判を受けるということは、これは決して望ましいことではないと思うのです。ですから、そういうふうに刑事の被告人として裁判を受けるという立場に立たないで、そういう犯罪を国家の正しい制度によつて予防することができるのであれば、その道を選びたいと考えるのであります。従つて、裁判の結果をまつという行き方よりも、正しい線が見出されるものであれば、事前にその限界線を明らかにしておいて、そうして裁判を受けるような事態を引起さないようにしたいという考えがあるわけであります。そこで争議権の限界というものをわれわれの努力によつて発見をして行こう、こういう考えもあるわけでありますが、その点について、どのようにお考えになりますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/6
-
007・吾妻光俊
○吾妻公述人 その点については、こういうふうに考えております。もちろん判例に現われる事件というものは、ごく限られた事件であります。おつしやいましたように、その事件が起つてみなければ、刑事事件であれば、実際に起訴されるというところから、それに対して判決が下され、そこに軌道が見出される。それまで、いわば待つておれないという考え方でありますが、もちろん私といえども、労働組合の争議戦術というものに、おのずから一つの軌道があるであろうということは期待しておるわけでありまして、まあそれゆえにこそ、労働組合がその争議の戦術に対しても、機会があるごとにいろいろな批判も加えるし、またおのずから昨年の電産、炭労のストに、輿論というものが適正に確立されるという段階に到達いたしますと、労働組合が、その輿論を無視して、争議行為を行うことはきわめて不利であるということに、そうあるべきでないということに、次第に、いわば教育されて行くのではなかろうか。その前に、いわば立法によつて一つの線を打出すということは、逆効果ではなかろうか。むしろ線を打出されたことによつて、労働組合が輿論を尊重し、また自己の争議戦術というものを宣伝しながら、その争議行為というものの行き方を形づくつて行く、そういうよき慣行をつくるということに対して、いわば逆効果を生ずるのではなかろうかということが、われわれの最もおそれておるところでありまして、そのような意味合いにおいて、いわば教育的効果をねらうのみの訓示的規定であれば——もしこの法律というものが単なる訓示規定であつて、この法律に違友するということが、必ずしも当然に違法あるいは保障を剥奪されるといいますか、効果がないということであれば、私は実は労働法規の中に教育的効果を目的をする規定というものはあつていい、むしろ善良な慣行を育成しで行くために、あつてよろしいという考えでありますが、これに法律的効果を伴わせる、ことに違法という考え方をとるということは、むしろ逆効果の方をおそれておるというふにお答えしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/7
-
008・高橋禎一
○高橋(禎)委員 大体先生のお話でわかりますことは、これは憲法二十八条の勤労者の団体行動による争議権の内容及びその行使は、やはり公共の福祉ということによつて制限を受けるものである、すなち争議論は、絶対的な手放しのものではないということだけは明瞭であると思うのであります。そこで、先ほどお尋ねいたしましたように、国家としては、国民に対して、その争議権の正当、不正当の限界を見出すことに努力をして、そうして国民にこれを明らかに示しておくことが、この場合で申しますと、国家のためにも労働者のためにもなると私は考えるのです。ただその線の定め方が誤つては、たいへんな結果になりますけれども、正しいものを見出して行こうということのために、国としては努力をしなければならぬと思うのであります。特に今の日本の実情から考えまして、その限界が明らかになつていないために、ことさらに政治的な目的を持ち、あるいは破壊手段に訴えて行こうとするような特殊な人たちが、限界を明らかにしておらないがために、その点に十分の認識を持つておらないがために、まじめなる労働者がとりこにされて、そうして、こういう集団的な行動でありますから、やはり知らず知らずにその線を越えて、刑罰法規に触れるような事態が起ることをおそれておるわけであります。そこでこれは昭和二十五年の十一月十五日の最高裁判所の大法廷における判決でありますが、争議行為が正当であるかどうかということは、具体的に個個の争議につき、争議の目的並びに争議手段としての各個の行為の両面にわたつて、現行法秩序全体との関連において決すべきである、こういう判決を下しております。これは争議行為の正当、不正当を決定するのに、きわめて有力な意見であると思うのでありますが、この判例のいつておりますところは、すなわちその争議行為によつて生ずるところの結果というものをどのように考えておるのであろうか。すなわち、その争議行為を行うことによつて当然起るであろうということを、常識上認識しなければならない。または認識して、そうして争議行為をして、それが国家の経済、国民の日常生活にきわめて重大な影響を及ぼすような結果が生ずる、その結果というものについてこの最高裁判所の判例はどのように考えておるのであろうか。争議の目的、手段としての各国の行為の両面を見なければならぬといい、そして現行法秩序全体との関連においてこれを決定しなければならぬと、こういつておる中にその争議行為によつて当然起るところの重大なる結果というものを、この判例はどのように見ておるのであろうか。また判例を抜きにして先生はどのようにお考えになりますか、その点をお伺いいたしたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/8
-
009・吾妻光俊
○吾妻公述人 今争議行為の結果という点について特に御質問がありました。おそらく御質問の趣旨は公益事業、特に電産の電源スト、停電ストあるいは鉱山における保安要員引揚げということによつて巻き起される効果ということとの関連において、問題を御指摘になつたのであろうと考えるわけであります。これは、私最初に時間の関係もあつて申し上げなかつたのですが、ある業務の停止なりあるいは一般にストライキにおいては、特に電産の場合には完全なストライキというものはできない。いわば封じられておる業種であるために、停電スト、電産ストというようなストライキ手段が行われるわけでありますが、総じて争議行為の効果というものは、公益事業においてはきわめて大きい。国家的に見てもあるいは個人との関係においても、個人の家庭生活あるいはある企業についても、特に電産のストライキをとつて考えますと、その効果が相当大きいということは、一般的常識的に言われると思います。ただわれわれが考えますことは、ストライキの社会的効果といいますか、結果ということは、これはスト権というものが認められておる限りにおいては、いわば必然的にそれとの関連において、ある一定の社会的、経済的な効果が生ずるということは当然ではなかろうか。ただその当然生ずるところの結果をいかにして防ぐかということは、私さつきも申しましたように、労働争議を早期に解決する仕組みを考える、あるいは別に労働者の生活安定のための補強工作を講ずる、そのような手段によつて、スト権の行使が濫用にわたらないことについての保障を見出すというものであるべきではなかろうか。たとえば電産のストの場合においても、あるいは停電ストによつて、ある工場だけをねらい撃ちをするという、こういうような意味の争議行為であれば、もとよりその効果というものを、いわば特にねらつたということにおいて、正当なるスト権の範囲を逸脱するというふうに考えますけれども、ストライキの行使によつて、いわば自然の流れとして起つて来る社会的損害というものは、これは労働者の生活安定のための施策を拡充して行くことなしには除き得ないという認識を、国家の労働政策としては要求したいと私は考えております。お答えになつたかどうか、少し角度が違うかもしれませんが、私としてはそういうふうに考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/9
-
010・高橋禎一
○高橋(禎)委員 私の今お尋ねしました点は、争議行為によつて、国民多数の日常生活にたいへんな結果を及ぼし、あるいはまた日本の産業に対して格段の悪影響を及ぼす、こういつたような結果を生ずるところの争議行為は、憲法で考えておる公共の福祉に反するものではなかろうか、そういう点をお尋ねいたしたわけであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/10
-
011・吾妻光俊
○吾妻公述人 その点は、私こう考えております。つまり、現在のところ、あるいは政府のお考えの中にも、あるいは一般輿論の中にも、争議行為それだけを取出して、その社会的な影響を論ぜられるのが常のように考えられるのですが、私としては、先ほど申しましたように、労働争議あるところ、争議行為がある。つまり労使の紛争という場面の中で、当然労働組合としては、使用者に加えるべき圧力、その手段として争議行為を使うわけでございますから、従つて争議行為が起る源を追究して行きますと、これは労使双方に、責任という言葉はいけませんけれども、その原因があるというふうに考えなければならない。従つて、派生しました争議行為だけをつかまえて、その社会的効果がマイナスであるというところから、争議権を剥奪するとか、制限するということを考えて参りますと、結局あらゆる争議権の行使、ことにこれは組合組織が大きければ大きいほど、争議権の行使に当然そういう制限が課せられなければならぬというような論理が生れて参りますが、このことは、実は労働争議を解決するための最も拙劣な手段であつて、私先ほど申し上げましたように、もしそのような重大なストライキが起ることが困るというのであれば、その争議を解決する特別の仕組みはいろいろあると思います。たとえば、日本では緊急調整という制度を考えておりますけれども、この是非についても論がありますし、また昨年の経験では、これが十分な経験を見ないままに昨年の炭労ストは終つてしまつた。諸外国でも、たとえば強制調停であるとか——これはいろいろ是非の議論がありまして、私も必ずしもその制度には賛成しておりませんけれども、あるいはドイツ的な一睡の協議会制度、たとえば消費者代表を交えたような形の協議会というようなものを構想し得る。そのような形において、要するに労働争議の解決をはかるということによつて、あるいはそれを未然に防止するということを考えることによつて、問題を解決することが最善の策ではないかというのが、私の考え方であります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/11
-
012・山中貞則
○山中(貞)委員 一言だけお聞きいたしたいのでありますが、先生のお話の中で、先ほどわくで規制することはよくない。すなわちこの法律の適用によつて、将来その適用内容の拡大されるおそれもあるしあるいはまたその他将来に類似的な規制が拡大されるおそれ等も現実に考えられておる。あるいはまたその他の関連する既存の法律等の適用も当然拡大されるおそれすらある、こういう御意見があつたのであります。現在のこの立法の基礎といたしますところは、公述されましたことく、昨年現実に起つた二大争議の国民経済並びに国民生活に及ぼした現実の影響を基礎として、これを制定しようとするものでありまして、しかもこれは三箇年の期限つきの立法として提案を見ておるわけであります。従つて日本の現在の経済あるいは社会人としての労使双方を含めたところの現在の労働関係者、もしくは一般社会の水準が知的にも向上いたします場合には、当然先生の言はれるような理想的な運営がなされて行くものと考えられるわけでありますが、三箇年の制限立法であることについての先生の御意見は、まつたくなかつたように記憶いたすのであります。三箇年間の立法であることについての御意見を、承りたいと思うのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/12
-
013・吾妻光俊
○吾妻公述人 私が特に三箇年ということに触れませんでしたのは、この法案全体について、その内容が私として合理的でないというふうに考えていることは、先ほど申し上げた通りでありますので、この三箇年という点には、むしろ特に触れなかつたわけでございます。なお、昨年の炭労、電産ストの経験ということがお話に出ましたけれども、炭労ストの場合は、これは遂に起らなかつた事象でありますから、いわば仮定論になつてしまうので、はなはだ恐縮でありますが、現に保安要員の引揚げということは、どのような形においても、あのようなスト宣言とつり合うような形においては行われなかつたわけであります。また電産のストにいたしましても、あの電産のストが、一体どのような影響があつたかということについての調査も、非常に不十分でありますし、また何があの争議をああいうふうに長期化させたかといい根本の原因の探求についても今までの日本の労働争議の重大争議といわれたものについても、実質的なデータが、いわば政治的主張を抜きにして、生のまま検討されたという経験が、非常に乏しいのではなかろうか。むしろ、われわれ前々から問題としておりますのは、たとえばある委員会組織というようなものによつて立法を案ずる場合には、十分なデータの上に議論が展開されませんと、結局水かけ論になり、政治的主張の対立に終る。そういう意味合いにおいて、むしろ確実なデータを収集し、しかもそれが立法の準備機関になり得るような組織というものが、日本の労使関係の場合に特に必要でないかということを、特にわれわれとしては考えております。そのような意味において、昨年の炭労、電産の一回だけのストライキ、しかも一方は不発に終つた、こういうようなものを取上げて、この法律を制定するということは、どうも問題の検討として不十分にすぎはしないだろうかというふうに私どもは考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/13
-
014・多賀谷真稔
○多賀谷委員 政府が今度提案いたしました趣旨の中に、停電スト、電源スト、職場放棄等は、現行法でも違法であるけれども、それをさらに明確化するために出したのだ、こういうことを説明しておるわけです。それに関連いたしまして、三点ほどお尋ねいたしたいと思います。下級裁判所におきましても、さらに東京高裁においても、停電スト等は機宜に適した正当なる争議行為である、こういう判決が出ておるわけであります。これに対する先生の御所見を承りたいと思います。
それから、さらに普通の法律では、新しく立法をして、今まで合法であつたものを違法にする。こういう場合でございますと、それは列挙規定になりまして、たとえば停電ストととかあるいは鉱山保安要員以外はこれは罰せられない、こういうふうに普通は解せられると思うのです。ところが、今度出しました形式は、すでに違法だけれども明確化するのだ、こういう形式で出て来ますと、先ほども少しお話がありましたが、鉄鉱あるいはメタルマイン、それからさらに私鉄の交通、こういうものが法益均衡性において同じようなものだ、こういうわけで、後になつてこれが新たに立法化することなしにそのまま類推解釈される、こういうおそれを感ずるわけですが、それに対する御所見を承りたい。
それからさらに、限時立法についてでございます。政府は三箇年間の期限つきである、こういうのでありますが、三年後に法律がなくなつたとするとどういうことになるかと質問いたしますと、やはり違法だ、こういうわけでございます。一体そういつた宣言的な法律の規定が今まであつたかどうか、それについてお尋ねいたしたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/14
-
015・吾妻光俊
○吾妻公述人 最初の問題で、停電スト、電源ストの合法性と申しますが、この問題については、実は正直に申して、おそらく労働法学者の間にも、どの程度のものが、そしてどのような意味において合法的であるか、どの程度のわくを越せばどこからが違法になるかという点については、定説がないというのが事実であろうと思います。この点は、後の公述人の方々が、また触れられる機会もあるかと思いますけれども、私としてはそう考えております。従つてこの停電スト、電源ストに関する合法性の問題は、実は現在の判例法においても、いまだ十分に確立されておらない、しかも学界においても確定的な理論が形成されておらない困難きわまる問題であろうというふうに私としては考えております。かるがゆえに、私はいわば立法によつて容易にこれを違法だときめつけるということは、そのような判例、学説の態度というものと関連して、問題ではないか。たとえば判例法の上ではつきりと停電ストは違法であるとか、合法的であるとかいう筋が確立するということを、まずまつべきではなかろうか。われわれ学者として、別に理論的な考察をいたしておりますけれども、しかしその学説といえども、判例によつてはたして支持されるがどうかということについては、これは必ずしも自信はないという状態であります。そのような意味において、われわれはやはり法の番人である裁判所にその軌道を形成することをまかすべきではないかというふうに考えておるわけであります。
次は、三年間の期限つきという点であります。これは私その辺の議論を伺つておりませんので問題でありますが、私の見方によりますと、この法律をつくられたときの態度というものの中には、確かに事態を明確にする、ほんとうは違法なんだが、しかしそれを明確にするという考え方があるやに実は感じたわけでございます。ただしかし、立法というのは、立法者がどう考えたかということよりも、むしろその立法がいかに運用されるような形態を持つているかということに、問題の焦点がありますので、これを限時法にして三年の後に落すということになりますれば、その点はむしろ違法でないということの論拠をそこに提供するというような客観的効果はあるのであります。まあこの程度のお答えで許していただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/15
-
016・高橋禎一
○高橋(禎)委員 先ほどお尋ねしたことに関連するわけでございますが、私はやはり先生のおつしやるように、取締り法規をもつて、労働争議の問題が全面的に解決されるなんていうふうに考えておりません。刑罰法規の効果によつて抑制して行くには、限度があるわけでありまして、しかもその限度たるや、現在の日本の制度のもとにおける労働争議ということを考えますときに、きわめて範囲の狭い程度の低いものであるというふうに考えております。この点については、先生のおつしやることと同じ意見でありまして、結局問題は、政府の労働政策の立て方いかんによつて、労使双方の均衡を保つ、いわゆる契約自由の原則が、文字通り法律的に、形式的にでなくして、実質的に経済的にそれが解決して行けるようにならなければならない。そこに労使双方の力の均衡調整ということが必要であつて、これによるにあらざれば、根本的の解決はつかないものと考えておるわけでありますが、ただここでお尋ねをいたしたい点は、やはり労働争議の限界を定め、方法を規律することは、一つの使命のあることだということは、これは是認せざるを得ないと思うのであります。まして、先ほども一言いたしましたように、単なる労使間の純正な意味における労働争議でなくして、特に破壊的な、下法的な、政治的な意味を持つた争議に、えてしてまじめな労働者がとりこになつて、そうしてその限界が不明であるたに、知らず知らず群衆心理の影響も受けて、この限界線を越えて、法の制裁を受けなければならないというようなことになることをおそれて、その点の是正にも相当役立つものである、こういうふうに私は考えて、先ほど来のお尋ねをいたしたわけであります。そこで、先ほど公述せられました中にございましたところの、現在の刑罰法規を拡大するものであるという御意見についてでありますが、お話のように、旧公共事業令あるいは鉱山保安法等によつて処罰すると規定しておるところの刑罰法規は、これは個人の行為に関するものであつて、労働争議ということを考えての立法でないことはもちろんであります。そこで、日本の国民は、罪刑法定主義によつて定められたところの犯罪によつて処罰を受けるということは、これは憲法の認めておるところなのでありまして、すなわち、鉱山保安法や、あるいはまた公共事業令等が定めておるところの犯罪要素を充実すれば処罰を受けるということは、これは憲法上当然のことであります。それを、労働争議の場合にはこれを除外するのだということも定めていない。ただ憲法は、労働争議については勤労者に権利があるから、そこで——ここに問題が起りますが、それは具体的には刑法の第三十五条の問題になつて来ると思うのであります。そういたしますと、先生のおつしやつたような、刑罰法規を法律的に拡大するものだということはいえないのであつて、ただ、この法の運用いかんによつては、誤つてその限界線を越えて、拡大したと同じような結果になるものだということは、私は考えるのでありますが、そこのところを、これは法律自体によつて刑罰法規を拡大するものであるというお考えであるか、この法の運用よろしきを得なければ、拡大したと同じような結果になるものだというようなお考えであるか、その点をひとつお尋ねいたしたいのであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/16
-
017・吾妻光俊
○吾妻公述人 拡大したかどうかということについて、私は拡大する効果があるということを申したのであります。その趣旨は、今おつしやいましたように、拡大の危険があるという意味におとりになつてけつこうであります。
それからその前に、非常に危険な傾向のものが全体をひつぱる傾向があるから、それについてこの法律が効果があるとおつしやいましたが、その問題は、むしろ労働組合の組織自体の問題なので、一体、現在の日本の労働組合の組織の中に、たとえば少数のものが多数を引きずる傾向があるかどうかという、その一般的問題に帰着いたすのだろうと思います。従つて、その点について、法規をもつてそのようなことを労働組合に、しかも間接にストライキを規制するというような形で要請するといいますか、これはどうも筋の違つた考え方であつて、そのスト規制の問題は、規制の必要性の有無ということだけから御判断なさるのが正しいのではないか、こういうふうに私は考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/17
-
018・山花秀雄
○山花委員長代理 ちよつと諸君にお諮りいたしますが、先ほど申し上げましたように、吾妻公述人はちよつと御都合がございますので、特に御質疑がなければ、吾妻公述人に対する質疑はこの程度で終えたいと思いますが、いかがでしようか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/18
-
019・井堀繁雄
○井堀委員 ごく簡単にちよつとだけお尋ねをいたしたいと思います。
先生は、御公述の際、スト権と公共の福祉を調和するという立場について、あまり多く触れられていなかつたのですが、私どもの考えまするところでは、公共の福祉という言葉の中には、労働者の団体行動が正しく取上げられているところに、基本権をなしているのではないかと思うのであります。公共の福祉というものが別にあつて、そうしてまたストライキが別にあると考えるというようなことは非常に矛盾しているのではないかと思うのです。そこで、公共の福祉と労働者の団体行動、すなわちスト権の問題はそう深く考えられない。そこで、この調和をはかるという問題については、むしろこういう問題とは別個に、たとえば労働者の団体である労働組合が健全な成長を遂げることを願う他の方法を講じて、そうして公共の福祉の中で矛盾が起つたり摩擦を生じたものを解決するという行き方が、やはり公共の福祉を推進して行くためのものではないかと、かように考えて、公共の福祉と労働者の団結行動を一応別に扱うという考え方は一体どうかという疑問を持ちましたので、お尋ねいたしておきたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/19
-
020・吾妻光俊
○吾妻公述人 ごく簡単にお答えいたします。争議権の保障そのものが、公共の福祉の精神の上でなければ理解できないということについては、その公共の福祉という言葉の用い方でございますが、わからないわけではございません。ただ、われわれ言いますのは、あらゆる権利の背後に、むしろその権利の存在をささえておる——ことに争議権というものは、労働者が自分の生活を安定するための、いわば武器手段といつた立場にあるので、むしろ争議行為それ自体が問題ではない、その背後にある労働者の生活安定ということが問題なのである。従つて、その背後にあるものをささえる武器としては、やはり何らかの法律的なわくというものが、争議権については認めなければならぬのであろう。同じく財産権についても、もちろん程度の差、憲法の表現の差はありますけれども、そのような意味において、所有権その他の財産権についても、これはその背後にこれをささえる一般的な法原理と申しますか、根本理念と申しますか、そういうものがあるべきだという考え方から申しておるのであります。ただ私先ほど申し上げましたのは、公共の福祉ということは、公衆の生活に影響があるから、すぐ公共の福祉に反するといつたような安易な考え方で、もし公共の福祉という言葉が使われるならば、そのような意味合いにおいては、実は今おつしやいましたように、争議権の保障それ自体も、やはり一つの公共の福祉という観点からこれを守らなければならぬという主張が、当然出て来るだろうと私は考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/20
-
021・高橋禎一
○高橋(禎)委員 私はこうした問題を、政治的対立の問題として考え、かつ解決して行こうというのでなく、国家国民全体の立場に立つて、冷静にかつ純粋に一つの制度の問題として考えて行きたいと思うのであります。ただ参考のために外国の事例を伺つておきたいと思いますが、ある雑誌にこういうことを書いておるのです。元来世界各国を見渡しても、停電ストなどというようなものは、ほとんどその実例がない。今から三十年ほど以前、米国で五分間ばかり停電ストが行われたが、そのときは大衆の憤激によつて労組も事業家もつぶされたと聞いているなどといつているのですが、こういうことについて、先生はどういうふうにお考えになりますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/21
-
022・吾妻光俊
○吾妻公述人 私、最近アメリカの強制仲裁に関する文献を見ましたのですが、その中にあげてある例の中には、停電ストをあげておるものが、かなりありましたことだけをお答えしておきます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/22
-
023・山花秀雄
○山花委員長代理 次に石井公述人に御意見をお述べ願います。石井公述人。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/23
-
024・石井照久
○石井公述人 今回のいわゆるスト規制法につきまして、最初にいわゆる労働三権、ことに争議権と公共の福祉という問題であります。この点今の質疑応答でも取上げられておりますが、私は法律的に申し上げまして、労働三権に公共の福祉の制限が来るかという問題を考えますときに、当然に憲法の十二条及び十三条の公共の福祉に関する規定の適用があるという前提のもとに議論をされておることに、根本的な疑問を持つわけであります。私どもは、憲法十二条、十三条は、精神規定と解しております。これが東京大学の憲法研究会の通説でございます。その意味におきまして、公共の福祉といつたようなきわめて簡単な概念をもつて労働三権を制限できるというふうには考えておらないということを、簡単に申し上げます。
しからば、労働三権は絶対に制限できないのかというと、そうも考えていないわけであります。結局争議権にいたしましても、労働者の生存を確保するための基本的な手段であります。それ自体目的ではない。それ自体目的ではないところの手段というものは、それ自体内在的に制限をその中に含んでおる。その制限が何であるかということを、われわれは研究すればいいのではないかというふうに思います。しかし、目的ではなく手段であると言つてみましても、労働者にとつてきわめて重要な手段でありますから、基本的な手段としてこれを簡単に制限することは、きわめて慎重でなければならない。すなわち、他の国民一般の生活を危うくする、そういうふうなときには、争議権も制限されてやむを得ないけれども、非常に莫然とした公共の福祉ということでもつて制限をするならば、これは旧憲法と新憲法との間に何らの相違もないことになつてしまうというふうにわれわれは考えております。
一般論はそのくらいにいたします。
そこで、次にスト規制法についてでありますが、今回のスト規制法につきましては、現在このような形でこのような法律が出ることには賛成いたしかねます。それはなぜかと申しますと、法律的にもいろいろ問題がありますし、労働政策的にも疑問が多いからであります。法律的に申し上げますと、私どもどうも納得しがたい点がありますし、この法案自体の考え方に、悪く言いますと思想の分裂があるように思います。よく言いまして、考え方にすつきりしないものがあるということを指摘したいと思うのであります。要するに、この法律は、電産ストと炭労ストという二つのストの形態の違つたものをとらえて、これをともに公共の福祉という形で押えようとしておるところに無理があるわけであります。問題が違いますから、電産ストと炭労ストとをわけて、今申し上げました点を総合的に御判断できるような形で申し上げたいと用います。
電産ストについて考えてみますと、公衆の保護をはからなければならないから、公衆に非常に迷惑を及ぼすようなストは、何らかの形において規制しなければならないという気持は、よくわかるのであります。争議行為によりまして第三者に不当な損害を与えるということは、これはできるだけ避けねばならないことであります。しかしまた、同時に考えなければなりませんことは、争議行為を押えることと関連しまして、その電気事業というものに対する社会的な規制ということを、どこまで考えておられるかということであります。公益事業ではありますけれども、その事業の経営に対する社会的規制という点は、必ずしも十分でなくて、現在は割合に自由主義的な経済の中に置いておるわけであります。ことに労働者にきわめて重要な武器であるところの争議権が奪われますと、それはなるほど公衆の利益のために奪うのではありますが、結局団交の威力を欠くという事実は否定できない。そうすると、その公衆の利益をはかるということの結果として、使用者もおかげをこうむる。団体交渉が威力のない団体交渉であつて足りるということで、使用者がその利益をこうむる。その点に対する社会的規制をお考えになつておられるかということが疑問であります。
同時に、さつき吾妻君も言われましたように、労働者の賃金に対する配慮その他を総合的に考えて、今度の制限をなされるのかどうかという点に疑問を持つわけであります。法案の提出理由を拝見いたしますと、今度の争議において労働者の賃金の喪失その他の損害が少い——私の聞きましたところでは、労働者の電源ストによる賃金の喪失は、二千百万円しかないのだというふうなお話も聞いております。しかし、そのときに問題は、電源ストなどの場合に、その電源ストをやつた以外の労働者が賃金を得ておられる。このことが法律上しかく当然のことであるのかということについても、使用者は権利意識のもとに立つて、その点をはつきりやつてごらんになつたかどうか。これがそうしかく常識的に当然であるかどうかという問題についても、使用者としての権利意識のもとにつつ込んだことをやられたかどうか。これをやらないで、その数字だけを掲げるということに私は疑問を持つております。
それから次に、先ほどもお話が出ましたが、世界にこういうストがあるか、全然ないとは、吾妻君も言われたようでもありません。けれども、少いであろうことは事実であります。しかし少いであろうという事実そのことが、法律の力で少くなつておるのかどうかというこを、われわれは反省してみる必要があります。いかなる国の立法をわれわれが見ましても、公益事業その他の争議が、それでもつて少くなるようにできておるりつぱな法律はございません。しからば、何で少くなつておるか。これは労働組合自身の良識の問題、そしてそれに対する輿論の批判、そういう社会的地盤のもとに少くなつておるのでありまして、そのことからただちに法律をつくるというところに飛躍がないかということを、私は疑問として申し上げたいのああります。
それから次に、何ゆえにそれならば電産だけを取扱われたか。その他の機関についても同じような問題があるのではないかというような点も、何か納得できないものを感じます。
次に、時間もございませんから、炭労ストの点を申し上げますと、この炭労における保安要員の引揚げということにつきましては、今度のスト規制法の一条と三条とのつながりが、私にはよくわからないのであります。と申しますのは、保安要員の引揚げというような場合に、それをピケツトでもつて使用者が維持しようとするのを妨げる、そこまで行きますと、私は違法だと思つています。すなわち労働争議というものは、労働者が使用者との交渉で争議行為をするのでありますが、けんかわかれをするものではないので、やはり争議をして、いい条件を闘いとつて職場に帰るということを、論理的前提にしておると思うのであります。だから、争議に勝つても帰る職場がないというような行為は、争議行為としては、それ自体自殺的なものであります。その意味において、私は争議行為の概念に入らない、違法な行為であると考えております。しかし、それではどのような行為がそういうものであるかということは、きわめて慎重に判断しなければならないのでありまして、法律が形式的に、しかも抽象的に保安要員の引揚げは違法だと書きますと、運用の面においていろいろな問題を起し、それが広く安易に濫用されるおそれがあるので、私はこれを簡単に立法化すべきではないという結論を持つておるわけであります。たとえば、保安要員の引揚げにつきましても、どの程度の保安要員が人数の上において必要であるか、また時間的にどういう形で引揚げたら鉱山の保安が保てないかということは、各種の鉱山ごとに、きわめて技術的でありましてむずかしく、これをだれが判断するか。最後は裁判所だと思いますけれども、下手をすると、鉱山保安監督官がこれを判断する。そうしますと、行政官庁がストに介入するという結果も出て来ますので、きわめてこれはむずかしい運用上の問題をはらんでおる。それを非常に抽象的に規定することに疑問を持つのであります。のみならず、職場復帰を不可能にするような争議は違法であるというならば、どんな小さな団交においても、これは違法であります。それならばそれがなぜ第一条の公共の福祉に反するのかという問題であります。これが納得できない。すなわち職場復帰を不可能にするような争議が違法であるということは、それ自体労働組合にとつて自殺的な争議行為であるから違法であるだけでありまして、公共の福祉という問題とのつながりがないということであります。
そこで政府の説明では、結局資源の保護というふうなことが頭の中に出て来て、鉱山資源を維持することが結局公共の福祉であるというふうに考えられるのではないかと思うのであります。ところが、この点についても疑問があるわけでありまして、鉱業についての社会的規制というものは、これまた貧弱であります。たとえば、鉱業法を見てみますと、鉱業法の六十二条に、一年以上事業を引続いて休止する場合には、通商産業局長の認可がいるとあります。これで監督をしておるつもりかもしれませんが、この程度のことは商法の会社法にもあるのであります。会社法の方がもつときつい。一年以上引続き事業を休止すると、会社の解散命令が出て来るのであります。ところが鉱業法の方は通商産業局長の認可を受ければ、解散をしないで済むというゆるい形であります。であるから、一年未満の事業の休止は自由にしてある。それほど大事な企業なら、なぜ社会的規制をしないか。社会的規制をしないで、経営そのものは自由主義的な形でほうつておいて、労働関係だけに何ゆえに公共の福祉という見地から社会的な規制をするのかという点のつじつまが、私には納得できないのであります。
それから、もう一つ問題なのは、国内資源を守るために争議行為を制限する。これはきわめて重要な問題であります。ですから、日本のような国で国内資源を守るために争議行為を違法として制限するというのならば、相当慎重な研究をして、何がそのような国内資源であるかという判断をしてからなさるべきでありまして、たまたま炭労ストがあつたということから、炭労の争議行為をそのような形でつかまえて一般化することは、国内資源を守るためには、争議行為の制限が相次いで出て来るという危険をわれわは感ずるのであります。なるほど石炭は大事であります。普通の三年という期間はありますけれども、外国から安い石炭がどんどん入つて来るというときに、政府は保護政策をおとりになるつもりかどうか。それらの点も十分検討されて、その上において国内資源の維持のために争議行為を制限するという立法措置をとられたのかどうか、どうも私にはその点が十分に理解できないのであります。
そういうふうに考えて参りますと、結局炭労、電産が、この前あのようなストをしたその実績に対する措置であるということ以外には、理論的な根拠はないというふうに思わざるを得ないのであります。この点につきましては、あのようなストがしばしば行われるということについては、私は遺憾であると思います。そして争議行為としては、確かに行き過ぎがあつたということは、私個人としては考える。しかしながら、ただ一回のあのような事柄があつたからといつて、すぐ法律をこしらえるということが、また私の納得できないところであります。日本の労働組合運動は、まだ若いのでありますから、多少の行き過ぎがあつてもしかたがない、徐々に正しい労働慣行が確立するように政府その他が育てて行くべきでありまして、すぐ法律で処置しようという態度に疑問を持つわけであります。ことに、たとえば炭労ストについて例をとつてみますと、保安要員の引揚げの禁止ということが問題になつておりますが、あのときに国民を困らせたのは、保安要員の引揚げではなかつたのでありまして、炭労ストが長くなつたことが困つたことであります。今度の法律は、炭労ストや電産ストがあのように長くなつたことを押えることについて、何とお考えになつておるか、やややぶにらみではないかという感じを受けるのであります。あのように国民を困らせた炭労のストが長くなつたということを考えないで、ただ保安要員の引揚げを抑えようというところに筋道が違つていはしないかという疑問を私は持つのであります。
次に、あのようなストが長くなつたことについて、あれは労働組合だけが悪かつたのかどうか、この点も問題であります。旧労調法三十七条の運用におきましてあの規定がうまく動かなかつた原因の一つは、公益事業などにおきまして、組合が争議権を獲得して争議行為に出るまでは、使用者もまじめに相手にならない。いよいよ争議行為になつて初めて本腰を入れて相手にするというふうな形がなかつたと断言できるかどうか、私は疑問だと思います。結局公益事業でありながら、組合がストという行為に出るまでは、使用者もまじめにならないということがあつたとすれば、あのストが長くなるということについては、使用者側にも責任がある。そしてあのような形において長く放置したことについては、政府も責任があるし、労働委員会も反省すべきだと私は思うのです。そういうふうにあらゆる関係者が、あの事態について反省をすべきであります。しかるに、その方面の反省か現われないで、ただ組合だけに争議権を奪うという形は、何となく片手落ちでないか、どうも私は納得できないという気持を持つわけであります。要するに、法律でものを縛る、あるいは争議関係をはつきりさせる。それ自体は悪いことではないにしても、国民に十分に納得された法律でなければ、そのような法律は守られません。納得されない法律を無理に出して、国民にこれを守れということは、無理ではないかという感じをつくづく持つわけであります。そのような意味におきましては、とりあえず今回のスト規制法は停止して、もう少し慎重な審議と研究の後で、この方策を練つてしかるべきだと思う。そしてまた、労働組合がだんだん成長することを、気長にもう少し待つということが、これは政策になりますが、適当ではないか、私はそういうふうに思う。そういうような見地から、今回のスト規制法には反対であります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/24
-
025・山花秀雄
○山花委員長代理 次に、後藤公述人の御意見をお述べ願います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/25
-
026・後藤清
○後藤公述人 最初に総括的な意見を述べさせていただきたいと思います。
まず第一に、私は立法当局に対して、すべてにわたつてそうでありますが、ことに労働関係については、慎重な態度をお願いしたいと思うのであります。私たちは、すべて労働問題については、世界のうちで最も早く労働運動が発達し、従つてまた労働法が一番早く進んだところの英国の例を、相当に参考にしてしかるべきだと思うのであります。たとえば、英国の労働組合運動史についての権威であるウエツブ夫妻が、有名な労働運動史に関する本の中で言つておりますことに、こういうことがあるのです。それは英国において、一八六六年にシエフイールド事件というのがあります。これはシエフイールド爆発事件というような事件でありまして、これに対しては、労働組合というものが、革命の陰謀あるにあらざるかというような疑惑を社会から投げられた。従つてそういうような行き過ぎの労働運動に対して、制限的な立法をつくれというような声が、一部にあつたのでありますが、この場合に、英国のとつた態度は、翌年の一八六七年から九年にわたる二年間、ローヤル・コミツシヨン——これはわれわれは勅命委員会と訳しておりますが、このローヤル・コミツシヨンにおいて、事実関係その他すべての事情を詳しく調査しておるのであります。そうして、その調査の結果、どういう結論になつたかと申しますと、ここにウエツブのしるしておるところを引用しますならば、次のように言つているのです。『勅命委員会の調査の結果として、労働組合について「多くの知識と広い経験」とが得られたことに基いて、支配階級の側の態度には変化がもたらされた。』こう言つておる。そこで英国の最も中正な意見を発表するところのタイムスが、社説においてこのように言つている。それは「正しい政治的手腕は、組合の影響力を増したり減らしたりしようとすることにあるのではなく、組合の力を事実として受取り、その発展のために自由な活動を認めることにある。」こういう社説を出したわけであります。その結果いかなることが起つたかと言いますれば、むしろ、かえつて労働組合の活動を法的に認めたところの、かの一八七一年の労働組合法ができた、こういうことになつているのです。このことは、このたびの法案についても、われわれとしては大いに三省すべきじやないかと思う。といいますのは、昨年の第十三回国会において、種々論議の結果、緊急調製という制度がとらたているわけです。私個人としましては、緊急調整のあの最後に現われた法的な形式については、必ずしも全般的に賛成するわけはないのでありまして、その点については、当時参議院の同じような公聴会において、意見を述べる機会も持つたものでございますが、とにかく緊急調整がとられたそのあとで、電産あるいは炭労のストが起つた場合、今度はそれらをつかまえて、やつぎばやに今度のような法案がつくられている。しかもその場合に、昨年の電産、炭労の争議のあらゆる具体的な事実関係というものは、われわれ国民は知らない。新聞あるいはその他の記事によつては知つておりますけれども、先ほども吾妻教授が述べられたように、純公正な調査機関によつて発表されたところのあらゆる事情、たとえば炭鉱労働者あるいは電産労働者の賃金その他との関係とにらみ合せて、生活条件はどういうものであるか、これに対して経営者側はどうであるか。たとえば電力再結成による会社分割というものは、はたしてどうなつているか、あるいはあの当時に、緊急調整というものがどのくらいの効果を発したかというような百般の事情、特に炭鉱労働者というものは、非常に悪い環境のもとに労働せられておりますから、ある意味において、早期にその労働力をすり減らすものでありますが、それに対して彼らの老後の保障というものがどの程度のものであるかというような点については、われわれ国民は知らない。またおそらく当局にもその点に十分なる調査がないのではないか、こう思うのであります。この点、私としてお願いしたいところは、先ほど引用しましたような、英国のような慎重なやり方で、あらゆる事実関係の調査の上で、その上ですべて立法というものはとつていただきたいということ、これが第一点。
第二には、昨年の電産、あるいは炭労ストということに基いてこの法案がつくられたわけでございますが、実は日本のような経済の底の浅いところでは、ほとんど、あらゆる産業にわたつて長期の労働争議が行われるならば、国民生活というものには、多かれ少かれ、不便と不利益をもたらさないものはないわけであります。最近の例を見ましても、ある製紙会社において労働争議が行われますならば、ただちに新聞紙がその紙面を減らさざるを得ない、こういうような結果が現われておる。同じような意味において、たとえば金融機関が数日間ストをするならば、また同じように国民の日常生活というものが、ある程度そこに不便あるいは不利を受けるというわけであります。このたびは、たまたま昨年に電産、炭労のストが行われ、その結果にかんがみてこういう法案がつくられるならば、将来同じような、また別の面において労働争議が行われれば、また同じような法案が用意される。こういう次第でありますならば、憲法で保障されたとはいいながら、ほとんどそこに労働者の基本権というものが、次々に現われる法律によつてくずされて行くのではないか。こういうことを考えまして、私はこのたびの法案に対しては疑問を持たざるを得ないのであります。まずこれが総括的な私の考え方であります。
次に、多少各論的なことを申しますならば、先ほどからたびたび公共の福祉と争議行為権との関係が問題になつておるのでありますが、新憲法に現われた公共の福祉という言葉は、これは明治憲法における安寧秩序あるいは公益というものとは、そこには別な内容が盛られておるものであると私は考えるわけであります。すなわち明治憲法は、はなはだしい国民の基本権というものを保障しておつたわけでありますが、そこではそれを制限するものと考えられたのは安寧秩序——これは結局のところは、支配階級的な立場から見ての一つのある秩序というものを考えているのではないかと考えるわけでありますが、明治憲法に、所有権は公益のため必要ある場合においては制限される、こう書いてある。ところが新憲法の二十九条の第二項においては、「公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。」こう書きました。またそれに基いて民法の第一条にわざわざ「私権ハ公共ノ福祉二遵フ」こういうことが書かれておる。ここに公共の福祉という概念について、われわれが考えなければならぬのは、たとえば福祉国家という概念に見られますように、そこに盛られるものとしては庶民階級、ことに勤労者階級というものの幸福を増進するというものが、そこに新たな内容として盛られておるのではないか、こういうふうに思います。従いまして、公共の福祉という場合には、そこに当然勤労者の生存そのものがやはり確保されねばならぬという要求が盛られておるわけでありますが、この点何か公共の福祉というものが、労働者と別にある、こういう考え方に対して、私は疑問を持たざるを得ない。たとえば、戦時中は、ことにその傾向が強かつたのでありますが、従来、ともすると社会というものと、それに対する個人の利益というものとを対立させて考える傾向がありますが、民主主義の発達したる西欧流の考え方としては、個人なくしては全体はない、だから公共の福祉という場合には、やはりその中には個人の生存というものが無視されるべきではないという意味を含んでおるわけなんです。この点から考えまして、たとい公共の福祉というものを理由にして、労働者の基本権を制限するにしても、そこには当然やはり労働者の生存そのものを無視して公共の福祉というものはあり得ない、こう私は思うわけであります。
もちろん先ほどの公述人が言われましたように、私も争議行為権というものは、これは絶対無制限なものではないと思う。すなわち労働者の生存のためであるならば、やはりこれは他の社会人の生存ということのためには制約を受けざるを得ないわけでありますが、しかし、そこに労働者自身の生存というものを守るためには労働者の基本権を制限する場合には、そこに厳重なる条件がいると私は考えます。たとえば緊急調整に関する規定においては、特に労調法の第三十五条の二でございますか、「国民の日常生活を著しく危うくする虞がある」——わざわざそこに「著しく危くする」こういうことが出ておる。この点について、また一つ英国の例を持ち出したいのであります。最近私が世界各国のゼネストのことを研究したあるアメリカの著者のものを読んだわけでありますが、その中に、一九二六年の英国のゼネストの際に発表された意見が盛られておる。もちろんその中にはハロルド・ラスキのように、あのゼネラル・ストライキは決してこれは非合法ではないという意見を述べた人もありますが、保守的な人は、あのゼネラル・ストライキというものは非合法である、こう結論した。ところが、そのうちの一人に——実はただ保守系の人であるということを書いてあるだけであつて、それ以上その人の社会的地位の説明はないのでありますが、ロード・オツクスフオード、その人がブリテイツシユ・ガゼツトという新聞紙へ発表した意見にこういうことを言つているのです。ストライキとかロツクアウトというものは、われわれの日常生活に対してある程度の不便をもたらすかもしれないけれども、しかしそれは非合法でない、またときとしては必要でさえある、こういつておる。しかしこのたびのゼネラル・ストライキというものは、全社会の日常生活を脅かすことに対して直後向けられておる。そういうわけであるから、自分はこれを非合法と見るのである、こう言つておるのであります。そこに全社会の日常生活に対して、直接これを危うくする、こういう一つの条件つきで、これを非合法と判断しておる。こういうことが、同じような保守系の人といいながら、一つの見解を示しておるわけであります。その点から見ますと、このたびの法案というものには、緊急調整に関する労調法三十五条の二の条件と比べますと、その点が非常に軽々しく扱われておるように考えております。すなわち法案の第一条には、ただ「国民の日常生活に対する重要性にかんがみ、公共の福祉を擁護するため、」こういう条件があるだけであつて、緊急調整の場合のように、「国民の日常生活を著しく危くする」ということもなければ、あるいは「その虞が現実に存するときに限り」こういう厳重なる条件もついていない、非常に物事が軽く扱われておる点、この点に対して私は立法技術としましても疑問を持たざるを得ないわけであります。
次に、先ほど申しましたように、労働者の基本権というものは、かれらの生存のためのものであります以上は、たといそこに公衆の日常生活の危害を予防するという点において、基本権を制限する措置をとられるにしましても、私は他に何らの方法がないというときにおいて、許されるのじやないかと思うのです。これは例の刑法上の緊急状態に関する一つの学説でありますか、緊急状態というものは、いわゆる補充性の原則と申しまして、他にとり得る方法がなかつた、そういう場合において、その緊急状態というものは免責の事由になり得るのだ、こうされておるのであります。同じような論理をこの場合に用いるならば、たとい公共の福祉を理由にして、労働者の基本権というものを制限あるいは禁止するにしても、その場合、他に方法がないというような条件ある場合のみ許されるのじやないか。その点から考えますならば、決してこういうようなストを禁止するという方法をとらなくても、現にすでに緊急調整の制度というものがある。これが先ほど申しましたように、なぜ役に立たないかということが、一般われわれに対しては明らかにされていない。また私は根本的には、理想としましては、これは先ほども吾妻教授が触れられたわけでありますが、ほんとうはすべての事実関係を明らかにし、社会の輿論の審判にまかせる、非常に気長い方法でありますが、こういう方法が私は最善ではないかと思う。しかし労働争議においては、そこによい慣行を積んで行くというためには、これはやはり民主主義の国としては、輿論の審判というものが必要であつて、現に従来とてもある一定の冷却期間を過ぎれば、公益企業におきましては、たとえば私鉄なんかは争議行為は自由であるといいながら、やはりそれは輿論というものに遠慮して、彼らは相当に自粛しておるわけであります。こういうような輿論の審判というものが最善の方法であります。しかし、もしそれが非常にまわりくどいというようなお考えなれば、少くとも私はそこに強制仲裁というような方法があり得るのではないかと思う。もつとも私は、これはそこに一つの条件があると考えます。それはその仲裁というものが、労使ともに納得の行くような仲裁であることが必要だ。その意味において、現在の労働委員会というものが、はたしてそれだけの十分なる調査の資料とまた人員とを持つておるかは疑問であつて、たびたび全国の労働委員会会議で決議されておるように、労働委員会のその方面をもつと充実するということが必要ではないか。その条件のもとに、それに向くような方法があるのではないか。先ほど高橋委員から御質問をされましたが、ここに一つの例を出しますならば、第一次大戦のワイマール体制時代のドイツにおきまして、実は当時の電気産業の労働者が停電ストをやつた。ところが、その場合に政府のとつた方法は、これはワイマール憲法によつて大統領の緊急命令という方法をとつたのであります。その緊急命令によつて強制調停という方法をとつたわけでありまして、この点何かの御参考になるのじやないかと思うわけであります。
また次に、私として申し述べたいことは、かりにその場合に、何らかの労働者の基本権を制限する方法がとられたら、ここに私はそれにかわるべきものを与えることが必要だと思う。公共の福祉に非常な関係のある産業の労働者だから、労働者の基本権が制限されつぱなしであつては、これははなはだ筋の通らないわけであつて、ことに炭鉱の労働者なんかについては、彼らの老後の生活の安定ということも考えて、十分なる生活の保障を与える意味における社会保障が必要ではないかと思う。たとえば、現在商業、金融部面においては、停年後においても、一応安楽に過せるだけの健康を保ちつつ、なお相当にゆたかなる給与を与えられているのに比べて、いささかその点は、基礎産業であるといつて非常に花形選手であるようにおだてながら、実際は彼らの老後の生活なんというものは、あまりに無視されておるのではないか、このことを私はおそれるわけであります。この点は、私は一つの治安の維持としても、根本問題だと思います。たとえば、炭鉱につきましては、御案内のようにすでに明治初年から、九州の高島炭鉱を初め、数回にわたつて血なまぐさい暴動事件が起きております。今この際、炭鉱労働者の生活の安定あるいは生活の保障ということを考えないで、基本権を押えるというこの弾圧の一手のみを用いるなら、彼らの不満及び生活の困窮というものは、それこそまさに政府当局が憂えられておるところの爆発的な暴動の形をとつて現われて来る。これこそ私は大きな考うべきものではないか、こういうことをお考えを願いたいと思う。
次に、この法案の第三条を見ますと、たびたび法益の均衡ということが言われているわけでありますが、この点は先ほども石井教授が御指摘になりましたように、一方においては労働者の基本権を抑えられておる。ところが公共の福祉という面において、片方の企業者の側において、はたしてどれだけの制限があるだろうか、こういうことが非常に疑問になるわけであります。たとえば、現在の企業は、電気にしましても、公益企業と言いながら、そこにやはり営利的な私企業の形をとつているわけであります。もちろんこれに対しては、公共事業令という形において、若干の官庁の監督はありますけれども、しかし、官庁の監督というものは、とかく形式的なものに終りやすい。さらにそこに厳重なる監督というものが必要ではないかと思うのです。現に私たちが日常生活をしておりまして、停電によつて迷惑をこうむるのは、必ずしも労働者がストをやつたばかりではない、われわれはしばしば説明のつかない停電に見舞われておる。最近の例を申しますならば、私の関西において、この春でしたか、朝ちようど通勤者が出勤の時間に、突如として郊外電車で数時間の停電をやつておる。あとで新聞紙の発表によれば、その朝は非常に霧が深くて、送電線の碍子か何かに古いものを使つておつたので、その霧のために故障を起してああいう停電を起した。これが、たとえばジエーン台風とかいう非常に大きな災害の場合に、電気施設に故障を起して停電を来したというならば、話はわかりますが、およそ普通の霧の程度でただちに停電が起る、そういうような施設が放置されている。しかもその場合に、何ら経営者側に対しては制裁が行われていない。こういう点に対して、私は現に一市民として義憤を感じた次第であります。結局この点については、そういうような公益に関する事業であるならば、最も効果あるところの業務の執行、あるいは経理の監査の方法として、労働者の経営参加というものがそこに考えられるべきじやないかと私は思うのであります。
たびたび昨年の電産あるいは炭労のストの場合に、ドイツが同じような戦敗国でありながら、日本に比べて労働争議が非常に少いということを引合いに出されたわけでありますが、実は少いには、やはり少いだけの理由がそこにあるということをお考え願いたい。御承知のごとく、ドイツにおいては共同決定法があります。ある程度そこに、労働者に対しては、事業あるいは経理について監査の権利を持たせておる。現に労働者に対してそのような企業経営に協力さすということが望ましいことは、すでにこれは鉱山保安法の規定にも現われておるわけです。すなわち鉱山保安法の規定を見ますならば、鉱山につきましては、そこにたとえば保安委員会というものが置かれて、その保安委員は、労働者がその委員になることになツておる。また通産大臣あるいはその下の監督局長ですか、それの諮問にこたえる機関として鉱山保安協議会がありますが、これは三者構成なのであります。かくのごとく、すでに鉱山保安法において、保安という面においてやはり労働者側の他方を得ることが望ましいということが法的に確認されておるならば、さらにこの点を進めて、労働者に対して経営参加という方式を一つ考えるべきではないか。昨年この法案が国会に出ましたときに、私は新聞紙によつて、時の労働大臣が労働者の経営参加というものは大いに研究の必要があるということを言明されているように伺つておるわけであります。ところが、このたび出ました法案は、その点については何ら御研究が、まだ終つていないのかもしれませんが、改良の跡が見られない、こういう点は、私は非常に期待はずれの感を持つたわけであります。
次に、先ほどからも申されておりますように、この法律は、すでに当然に不法であるところの争議行為を、ただこれを文書によつて文字に表わしただけであるというような見解が、しばしば述べられているように承つておるのであります。これは吾妻教授あるいは石井教授の申されたことと重複しますから、私は説明を省略しますが、実は保安要員の引揚げということが、はたしてただちに非合法であるかどうかということについては、これはちよつと問題だと思う。たとえば、鉱山保安法によつて保安ということが経営者の責任であるならば、たとえば労働協約によつて、争議の起つた場合に、中立的な立場に立つべきところの者を、あらかじめ準備しておくという方法もあるわけであります。その場合に、経営者側がそういうことに努力したにかかわらず、労働者側が理由なくしてこれを頭からけ飛ばしたならば、これは問題でありましようが、しかし、必ずしもすべてがそうでない場合があります。また保安要員が引揚げたからといつて、ただちに鉱山の保安が害されるとは限らない。たとえば保安要員の引揚げ方にしましても、あらかじめ予告し、経営者側に十分の手配をする余地を残すようなやり方もあります。またその場合に、一応ピケツトを引きましても、労働者が平和的なピケツトのやり方をしますならば、経営者側としても、そこに応急的な人員の手配ができないものでもないわけであります。こういう点から考えますと、保安要員の引揚げがただちに非合法であるということは、断じがたい。また一般社会の公共の福祉という点から考えましても、先ほどすでに述べましたように、必ずしも全国的とは限りませんが、広い社会の国民の日常生活を著しく妨げることを直接の目的とする、あるいはそこに非常に直接的な関係がある場合には、これには非合法であるということは疑いないでありましよう。しかし場合によれば、そこには間接的な場合もあり、また公衆の生活というものが単なる不便にすぎない場合もあります。こういうことから考えますと、一概に公衆の日常生活に不便あるいは不利益を与えたから、これがただちに非合法とは断じがたい、こう思うのであります。
最後に、この法律の立法技術の点にわたつて、若干感想を述べますならば、公共の福祉を理由にして労働者の基本権を制限あるいは禁止するにしても、その要件が厳重さを欠いているということ。ことにこれは第一条について申し述べたいのであります。
第二には、第三条が比較的具体的にしるされているにかかわらず、第二条の規定というものがいささか抽象的に過ぎる。この表現をもつてするならば、電気事業労働者の争議行為というものが、解釈によつては非常に幅の広いものになる危険があるのではないだろうか、こういうことが感得されます。
第三には、これの違反の場合の制裁でありますが、結局これは数々刑罰法令が動員されるわけです。われわれとしては、この点に疑義を持たざるを得ないわけでございます。たとえば、現在最もストライキ権の制限のきびしいものとされている国家あるいは地方公務員法にしましても、これは単に解雇されるにすぎない。また公労法もしかり。地方公労法に至つては、単に解雇することができると書いてある程度であります。ところがこのたびの法案によると、制裁あるいはそれに対する処罰として、いかなるものが飛び出して来るかわからない。われわれは明治、大正、昭和にわたつて、かつて警察犯処罰令ごときものが労働者の弾圧に動員されたということ、あらゆる刑罰法令が総動員されて、労働者に対して非常な重圧を加えたことを知つているだけに、この点非常に大きな危惧を持たざるを得ないのであります。
結局、私どもとしましては、この法案に対しましては、種々の点から見て、疑問を持つております。要するに最善の方法としては、先ほど申しましたごとき正確なる輿論の審判を受けしめるというために、そこに厳重な調査機関を設置するということが、最も理想的であると思います。もしそれがなまぬるいとか、あるいは待ち遠しいというようなことでありますれば、そこには緊急調整の制度の利用、あるいは強制仲裁の方法というような方法をおとりになることをお願いしたい、こういうことが私の考えでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/26
-
027・山花秀雄
○山花委員長代理 それでは両公述人に対する質疑を許します。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/27
-
028・高橋禎一
○高橋(禎)委員 後藤教授にお尋ねいたしたいと思います。これは奇想天外の質問というふうにお考えになるかもしれませんが、憲法の二十七条に規定しておりますところの「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。」——この義務を負うという規定と、憲法第二十八条の規定の中に含まれております勤労者の罷業権とかあるいは怠業権とでもいいますか、そういうものとの関係があるのかないのか。あればどういう関係なのか、御説明を願いたいと思います。
次に、先生のおつしやつた御意見のうち、私も大いに共鳴する点も少くないのでありますが、第一に、この規定ができるから、すなわち刑法第三十五条による違法阻却ということがなくなるからと申しましても、実は違法阻却の場合を総動員すれば、まだ相当他に残つたものがあると思います。特に労使双方の均衡が保てないという場合に、労働者にその法律を実践することの期待が、社会的に見て全然不可能でないという、いわゆる刑法の期待可能性の理論を十分働かすことによつて、私は違法を阻却する場合もあり得る、こう考えております。また法律が非常に抽象的であるために、これは争議行為の範囲に属さないものであつて、しかも労働者のその場合における義務の行為として当然やらなければならぬというようなことによつて、違法を阻却するという場合も考えられますので、ここに法案に書かれてあることの行為か、もうすべて処罰をされるのだという考え方は、これは刑罰法規の運用上、相当考えてみる余地が十分にあることを私は思うのでありまして、すなわちこの法規をいかに運用して行くかということによつて、すなわち正しい運用、先生のおつしやつた輿論の審判を受けても、正しいという支持を受けるような法の運用によつて、いろいろの御懸念は救い得るのではないか。すなわち法律運用の問題であるというふうにも考えられるのであります。その点はどういうふうにお考えになるかという点であります。
それから公共福祉の問題について、もちろん勤労者の生活権を無視することはできないと思うのであります。すなわち公共の福祉の中には、国民全体——労働者をも含めての国民全体の生活権擁護ということが、やはり私は基本になると思うのでありまして、そういう点から見ますと、この法律の運用にあたつては、この公共の福祉という理由で制限することは、やはり国民の一人として、勤労者の生活権をも大きい立場において擁護するんだというような意味が、そこに考えられなければならぬように考えるわけでありますが、そういう意味において、公共の福祉ということをもつてここに争議権の限界を設けることは誤つたものだというふうに、そう簡単にもいえないと考えるのでありますが、以上の三点について御説明を願いたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/28
-
029・後藤清
○後藤公述人 第一点でございますが、私は憲法二十七条第一項にあげてある労働の義務というものと、第二十八条に掲げているところの労働者の三つの基本権、これと関係はないものと理解しております。と申しますのは、実はすでに御承知と思いますが、この労働の義務に関する規定は、原案になかつたのが、社会党の提案によつて挿入されたそうでありますが、当時は敗戦後いろいろの事情で、中にきわめて一部にしましても、資本家のうちで生産サボというような非難をあびる人があつたということにかんがみて、いわゆる働かざる者は会うべからずというところの道義的な原則をうたうというような意味においてこれは掲げたのであつて、むしろその当時のほこ先はそういう生産サボをやつているような一部の資本家に対する一つの警告的な意味があつたのではないか、こういうふうに私は考えておるのであります。
それから第二点につきましては、お説のように、この法律が適用されたからといつて、労働者というものは八方すくみになるとは限らない。いわゆる期待可能性の理論もある、あるいはその他の場合もあるから、やはりある程度労働者のストライキというものも許され得るであろうという御見解でありますが、実は先ほど吾妻教授が言われたように、判例を重ねて行くことによつて一つのルールができ上るということは、私は理論的には賛成するわけでありますが、日本におきましては、私は過去の判例を見まして、それには相当の時期がかかるということを覚悟しなければならぬと思うのであります。ということは、先ほど御引用になりましたあの最高裁利所の判例は、例の生産管理に関する山田鋼業事件の最高裁の判決であつたと思うのでありますが、あの山田鋼業事件に関する最高裁の判決は、私自身大阪の労働委員としてあの事件を扱つた関係上、具体的のことをよく知つているのでございます。これは非常に乱暴な生産管理のやり方であつて、その意味において、具体的にもあの判決は妥当と思うのですが、次に行われた理研工業の生産管理事件について、あの判決がそのまま引用されて結論を出している。ところが、理研工業——これは新潟の工場の事件ですが、あの事件は高等裁判所の記録によりますと、当時理研工業は、会社全体としては黒字の状態にあつた、ところが新潟にある一つの工場についてのみ、独立採算制ということを言い出して、そうしてこの企業は成り立たぬから労働者を整理する、こう言つた。またその場合に、労働組合において、会社の整理案を受けるか受けないかについて議論がわかれたのでありますが、一部の組合員が、非常に非民主的な無理押しな方法で、組合規約を無視して会社案をのんでしまつた。そこで一部の強硬分子が、そこに立てこもつて生産管理をやつた。高等裁判所では、生産管理は非合法であるといいながら、そのように会社が一面において全般黒字であるにもかかわらず、妙な独立採算制で犠牲を労働者に課そうとした。一方、労働者というものは、たび重なる給料の遅配欠配に追い込まれ、またそこに組合の内部の事情もあつて、結局彼らは生産管理をやらざるを得なかつたであろうという期待可能性の理論で免責したわけです。最高裁はその点非常に物事をすげなく扱つているような例があるのです。その結果から見まして、実は私は一つの制度論として、日本に労働裁判所というものを、別に置くか置かないかということも一つの問題でございますが、もう少し私は最高裁判所の裁判官諸公に、労働事情というものの経験を持つている人がおつていただきたいと思います。遺憾ながら現在の最高裁判所の裁判官の中に、過去において労働法あるいは労働問題について専門的であつた方は一人もおられない、また労働事情について詳しい知識を持つておられる方もおられない。その点私は吾妻教授の言われたような、あの行き方につては、長い年月がかかるんじやないか、こういうことをおそれるわけであります。
それから第三番目の公共の福祉に関する問題でありますが、私の申し上げたいことは、公共の福祉を理由として制限する場合には、そこにただ日常生活に不便であるとか、その程度のものであつては困るのであつて、非常に要件を厳重にしていただきたい。さもなければ、先ほども冒頭に申しましたように、日本のように経済の底の浅いところでは、ほとんどあらゆる事業について長期の争議が行われるならば、ここに労働者の権利というものは、公共の福祉の名をもつて押えられるような事態が発生するのじやないか、こういうことを私は考えるわけであります。
以上であります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/29
-
030・多賀谷真稔
○多賀谷委員 政府は社会通念ということを盛んに言うわけですが、この社会通念という言葉を、単なる国民感情というように使つて引用するには、非常に問題があると思うのであります。それは市民法系の中にならされております国民が、労働法のように、まだできて間もない、しかも十分に理解されておらない状態において、単に国民感情によつて、これは社会通念上いけないのだ、こういう言葉を濫用するには非常に問題がある。なおそういう言葉を濫用して、常に基本的な人権を制限するならば、基本的な人権である争議権なるものはほとんど奪われるのじやなかろうか、こういう危惧を持つものでありますが、この社会的通念というのを、もう少し具体的に御説明できたら、していただきたい、かように思うわけであります。後藤公述人にお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/30
-
031・後藤清
○後藤公述人 社会通念という言葉は、しばしば裁判その他の関係で、法律家が用いる言葉でございますが、たとえば日常の私法的な取引関係では、きよう売主になる人は、あしたは買主の立場に立つというようなほぼ共通の地盤もあり、また長い取引慣行があるというようないわゆる法の世界において、私は一応そういうことは、慣行というようなものの確立にかんがみていえると思う。しかしながら、日本のように一応労働法というものが戦後新たなる形を整えて、そこに労働問題というものが法律の問題として全面的に登場した、こういう日本においては、簡単にはそういう社会通念ということはいえない。社会通念というものは、その場合何よりも大切なものは、先ほど申し上げましたように、事実の正確なる知識と認識の上に、そこに初めて社会通念というものが生れて来るわけであつて、その基礎的な事実というものを国民全般に対して明白に、かつ具体的にさらけ出されていない現在においては、軽々しくそういうことを言うことは非常に危険ではないか、私はこういう考えを持つております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/31
-
032・多賀谷真稔
○多賀谷委員 続いて後藤さんにお聞きしますが、現在の日本の組合は、産業別組合でありまして、現在停電ストを取締つても、事務スト寺が残つているという説明でございます。しかし、これは技術者のみが組合をつくるということを仮定しました場合に、何ら代償がなくて、補償するものがない場合に、全然禁止されるわけでございますが、この場合には憲法違反の疑いはないですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/32
-
033・後藤清
○後藤公述人 これは先ほども申し上げましたように、大体憲法二十九条第二項で、所有権あるいはその他の財産権というものは、公共の福祉に従うように法律でこれを定める。その場合に、結局既存の財産権というものは、もう一つ次元の高い公共の福祉というもののためには、制限はやむを得ないという観念に立つておるわけでありますが、その公共の福祉というもののうちには、先ほど申し述べましたように、勤労大衆の生存権というものが大きな要素をなしておることは、私が先ほど述べた通りであります。そこで、その関係において、労働者の三大基本権というものは十分に尊重さるべきでありますけれども、しかしそこにはやはり労働者というものは社会の一つのグループであり、また部分社会である以上は、他の全体のものを無視できない。だから、決してそこには絶対的な労働者の権利というものはあり得ないと私は思う。その点、私は制限されたからといつて、これをただちに憲法違反とはいえないと思うわけです。ただしかし、その制限の仕方というものは、厳重な要件のもとに行われないならば、結局は憲法で与えられた権利というものが、単に名目的なものにのみ終るということになる、こう考えるわけであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/33
-
034・多賀谷真稔
○多賀谷委員 公務員の場合は勧告、あるいは公労法の場合は仲裁その他の制度があるわけですが、もし技術君の組合ができた場合には、それらの制度が制度化としてないわけですが、そういう代償を全然与えないで、奪うだけ奪う、こういうことが許されるかどうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/34
-
035・後藤清
○後藤公述人 その点は、先ほどすでに申し上げておる点でございますが、争議行為権を制限するにしても、他に取り得る適切有効なる方法がない、ただ最後の一つの手であるという場合にのみ、私はそれは許されるということが一つ。またかりにその場合に制限あるいは禁止するにしても、そこにはやはり代償というものが必要である。でなくば、公共の福祉に関係ある事業に従事するところの労働者というものは、結局奴隷的な労働条件に甘んずることをしいられるということは、この点は憲法十八条でしたか「奴隷的拘束も受けない」というあの規定から見て、私は一つの問題のある点じやないかと、こう考えております。
御参考のために申しますと、これは古い本でございますが、アメリカでは、公務員に対してはいろいろな制限を各州において置いておる場合は、そこにはそれにかわる十分な補償制度が考えられている。こういうことがあることを御参考に申し上げておきます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/35
-
036・多賀谷真稔
○多賀谷委員 労働組合法あるいは労働関係調整法と、現在ございます鉱山保安法あるいは電気ガス臨時措置法、さらにそれが引用しております旧公共事業令、こういつたものの関連でございますが、鉱山保安法にいたしましても、鉱山保安法が争議中に適用あるいは発動されるのは、労働組合法あるいは労調法の発動があつて、その労調法の範囲内において逆に生きて来るのだ。もう少し換言して申しますと、一応争議中はそういう法律は停止されるのだけれども、労調法あるいは労組法の範囲において逆にそれが生きて来るのだ、こういうように解釈しているわけですが、それに対して先生の御意見を伺いたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/36
-
037・後藤清
○後藤公述人 たとえば旧公共事業令におきましては、第八十五条ですか、公益事業に従事する者が供給を取扱わないとか、あるいは不当な取扱いをした場合に対する処罰のことを書いておりますが、そこには「正当の事由がないのに」という条件をつけております。この「正当の事由がないのに」という裏においては、正当の事由がある場合においては、これは処罰の対象にならないということだと思つておりますが、その正当の事由の中には、私は当然争議行為によつてやるというものも含んでいると考えるわけであります。また同じことは鉱山保安関係についてもいえるのじやないか、こういう見解を持つております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/37
-
038・多賀谷真稔
○多賀谷委員 次にこの鉱山の保安の関係でありますけれども、——第三条に違反したかどうかということの判定は、まだ十分政府にも問いただしておりませんけれども、どうも政府の考え方が、第一次的に、いわゆる鉱山保安監督者ですが、これは業者です——経営者にある、こういうことになると思うのです。そうしますと、かつてに首を切る、こういう事態が起つて、後に救済について裁判所その他に訴えましても、御存じのように実際上の救済というのは期間がすいぶんずれて参りますから、できない。第一次的な判定権が経営者にあるということになりますと、レツド・パージの憂いがあると、われわれは非常に危惧しておるわけです。これに対する見解をお尋ねいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/38
-
039・後藤清
○後藤公述人 その点は同感でございまして、たとえば労働基準法の第二十条に、労働者自身に不都合な行為があつた場合などにおきましては、予告なしに即時解雇ができる。但し、その場合には、労働基準監督署の認定を得た上でなければならない。こうすることによつて、そこに一つの予防的な線を引いておるわけです。元来労働法というものの一つの特殊性というものは、事後救済というものにおいては、労働者は十分に彼らの利益というものが守られない。だから、できるならば事前的な措置によつて労働者の利益を擁護しようというところに一つの意味があると思うわけであります。その点から考えまして、今の第三条に関連しまして、おそらく御指摘のような危険があるのではないか、こういうような考え方であります。私は、この法案につきましては、反対の立場をとつておりますから、そういうような、かりにこの法案が認められるとしたならば、さらにもつと具体的に、いかなる点について修正すべきかについては申し述べなかつたわけでありますが、もしこの法律を通さなければならぬという不可避性があるならば、その点については立法技術的に、御指摘のようなくふうというものが必要じやないかと考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/39
-
040・多賀谷真稔
○多賀谷委員 この法律は、今まで指摘されましたことく、罰則がないわけであります。そういたしますと、当然鉱山保安法あるいは旧公共事業令の適用を受けることになると思います。そういたしますと、個人罰を科す可能性が多い。それで、たとえば鉱山保安法規その他の戦術を立てる場合には、団体の行動権として意思決定をする。ところが、その場合に個人罰が科されるということになりますと、現在の労調法の争議行為の禁止の罰則と、非常に不均衡を来すと思いますが、その点について御所見を承つておきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/40
-
041・後藤清
○後藤公述人 その点も、私は先ほどのような線から、こまかい意見は申し述べなかつたわけでありますが、ただ私が先ほど一言触れましたように、国家公務員法と比べても、労働者にとつては非常に残酷な気がする。国家公務員あるいは地方公務員あるいは公共企業体、そういうところには、ただ解雇があるのみです。しかるに、この法律がもし用いられるならば、労働者というものは、解雇された上に、さらに個人的に処罰される。この点について、非常に処罰が苛酷に過ぎるのではないか、こういう感じを持ちます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/41
-
042・山花秀雄
○山花委員長代理 ほかに御質疑ありませんか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/42
-
043・田渕光一
○田渕委員 私は石井さんにちよつとお伺いしたいのですが、たとえば憲法二十七条の権利と義務、または対等の権利というような点から考えまして、今日のすわり込み戦術に対して、一体どういう御意見を持つておられるか。(笑声)先ほど後藤公述人が申されたことく、この労働三権というものに対しては、働かすんば食うべからずというような御意見だと思いますが、たとえば漁村、山村、農村の者がすわり込み戦術をやつたのでは食えない。ところが、官庁の公務員あるいはその他の者は、休暇をとつてすわり込みをする。休暇というものは、休養を目的とするのが休暇であつて、すわり込みをするために休暇をとるのじやなかろうと私は思う。(笑声)こういう点から考えましても、これは今日のいわゆる憲法で保障しておるところの権利と義務あるいは労使対等という点から、どういう御意見を持つておられるか。これについては煙突あるいは鉄道のすわり込み、道路のすわり込み、いろいろございましようけれども、まずもつて今日流行いたしておりますところのすわり込みというような点から、ひとつ伺いたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/43
-
044・石井照久
○石井公述人 お答えに困るわけでありますが、憲法の勤労の権利と義務というのは、私はさつき後藤さんが言われたようには理解していない。やはり労働者についての権利と義務だと思います。ただしかし、どこの国でも勤労の義務を法律上の義務としてきめた国はございません。ソ連があるくらいて、日本では祖国防衛の義務もありませんから、法律上勤労の義務はないと考えております。その意味におきましては、これは精神規定というふうに思いますから、これが濫用されるという心配はしておりません。その点と今の点がすぐ結びつきますかどうか、非常に問題でありますが、官公労のすわり込みはどうかということで、本日呼ばれました目的を離れるやに思いますが……。(笑声)これは結局争議権の制限が官公労にあることから、ああいう現象が起つておるので、官公労の争議権の制限そのものがどうであるかという問題に、一つの問題を提供しておるということだけを申し上げておきます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/44
-
045・田渕光一
○田渕委員 今の多賀谷君に関連してお伺いいたしますが、たとえば争議権の個人罰であります。というのは、一万組合が決定した争議が、かりに不当なる決定であつて、その争議のために経営者側に大きな損害をかけた。その場合に、個人に対する損害を要求すると、これは莫大な要求が補償されたが、この場合に、組合に対する規定がないのであります。こういう点に対しては、どういう御意見を持つておられるか、これも石井さんにお伺いいたしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/45
-
046・石井照久
○石井公述人 先ほども問題になりましたが、もしこのスト規制法が、これに違反した場合にどういう制裁で臨むかという問題でありますが、ただちに罰則をもつて臨むとするならば、これは強制労働のきらいがあると思うのであります。ですから、おそらく法律的にはそういうことはできない。違反した場合の制裁は、何かといえば、民事上、刑事上の免責を失うということだけだろうと思います。政府の立案の趣旨は。そうだとすれば、刑事上の免責を失うという問題は、先ほど御質問がありましたけれども、だから当然に鉱山保安法の罰則を適用されるということではないが、適用される可能性がある。すなわち労働者の組織運動としてつかまえられなくて、その組織運動が違法であるために、ばらばらの行為が偶然的に集団的に行われたものとして鉱山保安法の適用がある、そう考えるのが法律的ではないかと思います。民事上の問題については、結局民事上の債務不履行による損害賠償責任を免れないから、そういう意味において普通の違法の争議と同じように、損害賠償責任は組合員及び組合に対して使用者がやつて来るかもしれない。そういうことが今度の法案のこれに違反した場合の効果と、私は理解しております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/46
-
047・田渕光一
○田渕委員 後藤公述人に伺いたいのでありますが、これは先ほどの保安要員の点であります。保安要員がもし引揚げるという場合には、ただちには危険が来ない。それは予告を与えておるから、予告時間もあるし、交代する人員も交代ができる可能性があるというような御意見でございましたが、私はこの保安要員の予備員と申しましようか、これも争議団に入つておられるので、そうすると、この場合、保安要員を引揚げますときに、ただちにその争議団以外のものを入れるとするならば、たとえばその山に対しては、よその山から連れて参りましても、その山の地質その他の経験から、しろうとと見なければならぬ。そんな者を交代として入れるということによつて危険が免れるかどうかという点に、非常な疑義を持つわけであります。こういう点に対しまして、今日までの御経験、古く九州の炭鉱その他の例も御経験になつておられる先生でありますから、こういう場合にはただちに切りかえて交代させて、それで坑内保安の危険が除去されるかどうかという点について、もう少し御意見を伺いたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/47
-
048・後藤清
○後藤公述人 今御質問の中に、九州地方のいろいろなことを経験されておるというようなお話でございましたが、実はその点は御期待に沿わないのであります。非常にその点は浅薄な知識しか持つていないのであります。しかし、たとえばこの前の炭労ストの場合でも、最後には何か職員の連中がストから離れて、自分たちは保安施設の運転をやるのだということを言い出しておつた例もある。だから、必ずしも常に絶対的に労働者というものが引揚げれば残された道がないという、絶体絶命のことばかりでないと私は思います。
さらに私が申し上げたいことは、つまり労働協約というものが十分に平素から用意されておつて、あらかじめ中立的な保安要員というものを若干協定して残しておくということも、それは可能の道があるわけであります。ただ問題は、そのような労働協約というものが、まだ日本においては慣行が浅いものでありますから、あらゆる部面にわたつていないうらみがございますが、しかしこれは漸次、たびたび労働省あたりで労働協約の締結促進運動というものをされておりますので、その運動が展開されるならば、そういう方面にも一つの備えというものができる可能性が現われるのじやないか、こういうことを私は考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/48
-
049・田渕光一
○田渕委員 大体わかつたのでありますが、もう一つ、私の疑点、危惧は、たとえば事務的部面を担当しておつた者が、これに交代して今のような場合に入るけれども、必ずしもそれは完全に行われないと思うのであります。非常に深度の深い、あるいはまた掘進の長いところにおいて、それらの部署になれないところの職員、事務員が交代して行つても、私は完全には保安の目的が達せられないと思うのであります。昨年の何はそこまで行きませんでしたが、これを仮定いたしまして、万一そこまで行つたときに、先ほど多賀谷委員からの御質問に対するお答えでは、事後救済の方法はやつとやらなければいかぬ。いわゆる勤労階級に対する事後補償あるいはその事後防衛をしてやれば、経営者側にもその場合に——保安要員が、たとえば電気のスイツチを切る、あるいは排水の点に対して設備を切つた。これが最も経営者にこたえる点をねらつておるのでありますから、この点に対するあなたのおつしやる余裕と交代時間がなくてただちに来た場合に、この事後の補償というものがないと、経営者側には私は非常に危険じやないか、こういうことを考えるのであります。かような意味において、先生のお持ちになつている御意思と申しますか、御理念と申しましようか、つまり交代をさせる、あるいは予告期間があるという点も、これは運用の妙味がありましようけれども、一歩誤つて濫用された場合に、ここに大きな危険が来る。その場合に経営者の事後補償というものは、一体だれがしてくれるか。結局組合がやつてくれるわけではない。このような点を危惧するのでありますが、この点に対して、交代予告あるいは予告期間とか交代人員というような点について、いま少しく進化したような方法がないか。これはもちろんわれわれは考えなければなりませんが、御意見はございませんか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/49
-
050・後藤清
○後藤公述人 なかなかむずかしい問題で、非常に答弁に困るわけでありますが、たとえばこういうことが言われているわけなんです。一般的に従来の民法とか商法とか、あるいはその他の法律体系に対して、われわれが労働法というものを立てる場合、そこにわれわれが事後救済ではどうも労働者には不完全であると思えば、一応抽象的な立場でございますが、論理の立て方としては、一応資本家側においては財産というものがある、あるいはただちに生活というものの危険にさらされる身分でない。これに反して労働者というものは労働力を売つて食う以外は生活の手段は立たぬ。そこに別の法律の仕組みというものが必要である、こういう考え方に立つておるわけでございます。今御指摘のように、事後救済においては使用者側というものの損害は償わないであろうというような御意見はごもつともでございます。しかし、これは既存の法律体系については、あらゆる部面がそうでございまして、だから特にこの場合に、労働者の関係においてその面を御危惧になるからといつて、だからといつて、それを労働者の権利を制限する理由にするということは、少し私は一応法律の体系全体というものから見て、疑問になるじやないか、こういう考えを持つております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/50
-
051・山花秀雄
○山花委員長代理 ほかに御質疑ございませんか。——御質疑なきものと認めます。
本日は、公述人各位におかれましては、長時間にわたつて御出席願いまして、まことにありがとうございました。本委員会を代表して御礼申し上げます。
本日はこの程度にとどめまして、明六日午後一時より再び公聴会を開会いたすこととし、本日はこれにて散会いたします。
午後三時五十五分散会発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/101605292X00119530705/51
4. 会議録のPDFを表示
この会議録のPDFを表示します。このリンクからご利用ください。