1. 会議録本文
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000・会議録情報
昭和三十一年二月十四日(火曜日)
午後一時二十六分開議
出席委員
委員長 高橋 禎一君
理事 椎名 隆君 理事 高瀬 傳君
理事 福井 盛太君 理事 佐竹 晴記君
小林かなえ君 世耕 弘一君
林 博君 古島 義英君
松永 東君 横川 重次君
片山 哲君 菊地養之輔君
武藤運十郎君 吉田 賢一君
出席政府委員
法務政務次官 松原 一彦君
検 事
(民事局長) 村上 朝一君
委員外の出席者
検 事
(民事局参事
官) 平賀 健太君
判 事
(最高裁判所事
務総局家庭局
長) 宇田川潤四郎君
参 考 人
(早稲田大学教
授) 中村 宗雄君
参 考 人
(最高裁判所判
事) 岩松 三郎君
参 考 人
(弁護士) 山口 貞昌君
専 門 員 小木 貞一君
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本日の会議に付した案件
家事審判法の一部を改正する法律案(内閣提出
第二号)
—————————————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/0
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001・高橋禎一
○高橋委員長 これより法務委員会を開会いたします。
家事審判法の一部を改正する法律案を議題とし、参考人より意見を聴取することにいたします。
本日出席の参考人は、早稲田大学教授中村宗雄君、最高裁判所判事岩松三郎君、弁護士山口貞昌君の三名であります。
この際私より簡単に参妻入各位にごあいさつを申し上げます。本日は御多用中にもかかわらず御出席下さいまして、まことにありがとうございました。厚く御礼申し上げます。すでに御承知のことと思いますが、当委員会においてただいま審議中の家事審判決の一部を改正する法律案は、家事債務の特殊性にかんがみ、新たにその履行確保の制度を制定せんとするものでありますが、この種の改正は、一般の民事判決、調停及びその執行等についても関連する基本的問題を含む重大なものと考えられます。本日出席の参考人各位におかれましては、それぞれの立場から忌憚のない御意見を発表して下さいますようお願いいたします。なお、御意見の発表は約二十分程度とし、委員への質問は許されませんから、念のため申し上げます。
それでは、参考人中村宗雄君より御陳述を求めます。中村宗雄君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/1
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002・中村宗雄
○中村参考人 私、早稲田大学の中村宗雄でございます。このたび当法務委員会から、家事審判法の一部を改正する法律案を拝見させていただきまして、これについて何か意見を述べよということであります。拝見いたしますると、まことに家庭裁判所のお立場からは希望するところの案であるというふうに考えられます。また、人事法の立場から言っても、家事審判を能率化するがためにはぜひこういう規定がほしいと思われるのはごもっともだと思います。しかし、家庭裁判所もまた日本の司法制度の一環を占める。この裁判制度、司法制度という立場から見ますると、必ずしもこれは全面的には賛成しがたい点があるように思われるのであります。
と申しまするのは、家事審判制度というのは、実は大陸法である日本のドイツ法系の司法制度とはまことにマッチしない制度であります。これは終戦後に実現されたのでありまするが、基本的な考え方はすでに大正十年の親族・相続法改正の要綱を作る当時からあったのでありまするが、何分この家庭事件は一般の訴訟事件とは違う面がありますので、特殊な扱いをしなければならぬということは、われわれも十分考えるのであります。しかし、家庭事件にはいろいろな極数がありまして、われわれといたしましては、この家庭事件を扱うのに一本の審判制度で果してうまくいくかどうか、この点について十二分の疑問を持っておる次第なのであります。御案内のように、現在の家事審判法は一本建になっておる。事件としましてはいろいろありまするので、そこで、審判、調停、さらにそれ以外に旧人事訴訟手続法を残してあって、訴訟事件もそのうちにある。しかも、この審判事件は甲類、乙類に分けてある。この甲類、乙類は実は全然性格が違うのでありまして、旧法時代に非訟事件と訴訟事件の両方がこの中に入っておる。家庭事件のうちにもやはり訴訟事件すなわち利害の相対立するところの事件があまたあるのでありまするが、それが、そういう事件及び利害の相対立しない事件、これをも含めてこの審判制度ということになっておるのであります。
そこで、この審判制度の対象は広いのでありまするので、審判手続というものは勢い行政的な措置が必要になってくる。いわゆる便宜主義が各方面に行われる。しかしながら、やはり、裁判所の名において、裁判の形式において行われるのでありまするから、その結果として、この裁判制度、広い意味の裁判制度として考えた場合に、非常に裁判所の職権というものが進出しておる。しかも、一般の訴訟事件のごとき二当事者の対立、すなわち原告、被告の対立というものはないのであります。結局裁判所が自己の責任において実体的真実を発見する、こういう形になっておって、しかも、この手続には、ただいま申した通り、職権が非常に高度に進出しておる。しかもその審判に対しては不服申し立てが非常に限定されておる。いわば審判事件は行政的な機能と裁判的な機能と両方を備えておるというのがこの審判制度の特徴でありますが、この特徴はまた逆に一つの弊害をももたらしておると私は思うのであります。
もとよりこの審判制度には多くの功罪があります。家庭事件についてよい意味の、あまりにも法律的でない解決をつけておるという点については十二分の功績を私は認めなければならぬと思うのでありまするが、しかし、家庭事件のうちに利害の相対立する事件、——たとえば財産分与が一番その顕著なものと思います。扶養事件もそうでありまするが、当事者の利害が相対立しているにかかわらず、訴訟の形式としては原告、被告が対立していない。裁判所がその責任において実体的真実を発見しようとする。結局裁判官の人格識見に待つところが非常に多いのであります。いずれも裁判官諸氏は優秀なるお方でありまするがゆえに、十二分にその実体的真実を御発見になるべく努力せられておると思うのでありますが、やはり当事者と裁判所の立場は違う点がある。一般の訴訟でありますと、原告、被告相対立して、お互いに言うべきことを尽して、負ければ控訴、上告。結局、最後においては、これだけ言ってもかなわないなちばというあきらめがあるのでありますが、この審判事件については、もし当事者の満足いくべき審判を受けなかった場合に、当事者の不満を買う可能性が多いのではないか。ことに、不服申し立ての道が非常に閉ざされておるのでありまして、裁判所のお気づきにならない点にこの審判制度に対する当事者の不服が潜在しているということを私は考えなければならないと思います。
さてそういう特殊な制度のもとにおける審判、これまた裁判所の名においてなすのである。ゆえに、これには裁判としての効力がある。執行力がある。これは債務名義として強制執行力があるのであります。その強制執行力がある上に、さらに今回の案のように過料——一種の行政罰まで課する必要があるかどうかという点が、訴訟制度の体系の上から考えてみる必要があるのではないか、こう思うのであります。
本人が履行しない場合において、過料をもって威嚇をして、これを自発的に履行させる、これは一種の間接強制であります。この間接強制というものは元来執行の本道ではないのであります。日本の民法はフランス民法の系統を引いておりまするので、この間接執行に関する規定はございません。直接執行をなして、しかも債務の本旨に従う履行をし得ない場合は民法四百十五条によって損害賠償を請求できるというのが日本の民法の建前であります。しかし、これが、民事訴訟法の制定の際にドイツ法系を入れて、民訴の七百三十四条に間接強制の規定を置いております。すなわち、直接執行の不可能な債務については損害賠償をもってその本人の自発的履行を強制する、すなわち民訴七百三十四条がそれでありまするが、これは特に民事訴訟法でドイツ法系の規定を入れたのでありまして、日本の強制執行の体系から言うと、実は傍系に属するのであります。でありますがゆえに、大審院の判例では、直接執行の可能なる際には間接執行は許さない、すなわち、執行吏を用い執行裁判所によって強制執行できる際に損害賠償をもってその自発的履行を要求する執行方法は許さないというのが、最高裁判所の判例に出たかどうか記憶ありませんが、少くとも大審院当時の判例であります。しかも、この損害賠償は、将来履行した場合には、その損害賠償は債務履行の中に吸収されるわけでありまするが、今回の案を見ますると、過料は国家の手に入ってしまう。すなわち、債権者の手には入らないのであります。同じ間接強制でも、この点において民訴七百三十四条と違う。民訴七百三十四条は直接執行を許されない場合に許されておるのであります。この案は、直接執行ができるのだが、これは事実上行われないから、この過料の制裁をもって自発的履行を求める。これらの点において民事訴訟法の七百二十四条の間接強制よりはさらに強力なるものと言うことができましょう。同時に、過料は一種の制裁であります。この家事審判事件について制裁まで課して、自発的履行を強制する必要ありやいなやという点に、われわれは十二分の考慮をめぐらす必要があるのではないか、こう思うのであります。
この提案理由説明書を拝見いたしますると、この家事事件については強制執行がほとんど困難である、というのは、債権者に当る者が多くは婦人であり、子供であるので、強制執行ができないという。これはまことにごもっとものことに思うのでありまするが、しかし、統計を拝見、たしますると、相当数の自発的履行がなされておるようであります。すなわち、第四表を見ますると、履行済みが一九・一%、履行中が二八。八%、合計四七・九%が履行されているのが現実であります。不履行はわずか一四%ということになっておる。これらを見ますると、この一四%について果してこういう強力なる制裁を課する必要があるかどうか。これをさらに第五表の職員の活動の結果の表について見ますると、これらは履行されなかった事件をば家庭裁判所の職員の方の御努力によって履行さしておるものでありましょうが、いわばスムーズに履行されなかった事件でありましょうが、それらの千二百二件の中についに債務不履行に終っておるものが二百四十五件、二〇%であります。これらの事件について全体から見ますると、この二〇%は、私の目の子算でありますが、家庭事件の一〇%以下ではないかと思うのでありすす。これらについて、このように過料の制裁まで課してこれを強制することはいいか悪いか、他に方法がありはせぬかということが問題なんです。
ただいま申しました通り、審判は裁判所が実体的真実を発見してこれをなすのでありますがゆえに、当事者から見ると実は天下りの判断であります。この点、民事訴訟の当事者主義、原告・被告対立の訴訟における判決とは、俗な言葉で言えば、同じ天下りの判断としても、そこに性格的差異がある。片一方は、当事者双方が主張して、その結果としての判断であるが、片一方は、当事者は単なる利害関係人であり、単に訴訟材料を出して、裁判所の責任において判断した。それの執行、すなわちこの審判は裁判所が全責任を負って、これをさらに裁判所が矢面に立って過料の制裁まで道具にして裁判所自身が強制執行の責任を負うべきかどうか。ここが問題なのであります。もっとも、この案によりますと、履行命令を出すのはやはり当事者の申し立てが必要とある。当事者の申し立てが必要ならば、当事者の意思に基いて当事者に強制執行さしてもいいじゃないか、こういうことが考えられる。何も一国の強制執行の体系を乱してまで特にそういう方法を設ける必要があるか。婦人の保護は必要であるが、保護の過剰ということも考えなければならぬ。しからば、どうしたらいいか。これは、私に申させれば、現在の強制執行をもっと簡易にすることも考えられる。あるいはまた、家庭裁判所には多くの外郭団体がある。この外郭団体が強制執行について助力を与えるという方法をとることの方がよりよい結果を生むのではないか。私は他にそういう方法があると思う。ことに、家庭裁判所の外郭団体は真に御活動下さる工うでありますがゆえに、その外郭団体が、必要の際においては強制執行の手続まで代行してやる。こういうような方法の方がよりいいではないかというようなことも、私はこの案については考えております。
この家庭事件というのは特殊のものでありまするがゆえに、裁判所が相当内容に立ち入っていろいろめんどうを見ることも、これは許されなければならない。また望ましいことでありますが、おのずからそれには限度があるのでありまして、裁判所で自己の責任をもってなした審判、——案外これに当事者に不服がある場合があり得るのではないか。それに対しさらに過料の制裁をもってこれに追い打ちをかけることに、私は問題がある思う。とにかく、家庭事件は裁判所の御努力によって納得をもって大体成り立っておりまするが、それなるがゆえに履行の成績がよろしいのであります。強制執行の段階にまで至らずして自発的に履行されるものが、この統計に見えまするように約五〇%に及んでおる。あとの約一〇%弱の不履行は、一つはこの統計にも現われておりますように事実上履行不能なんです。たとい少額の債務といえども履行不能なものがある。と同時に、この統計を見ますると、裁判所職員の活動の結果というところに、債務者の不誠意が、千二百二件の取扱い事件のうち五百二十三件、四二%になっておりまするが、この不誠意ということについてもう少し分解が要るのではないか。当事者としては、相手方に対する反感もありまするが、案外審判に対して十分納得しないということがあり得るのではないか。これは、こういう公けの席でありまするがゆえに、私は資料としては持ち出しませんが、しばしば相談を受けるうちに、どうも審判に対して十二分の満足をしない例に往々出会っているのであります。何分審判制度というものは当事者の納得の上に立つのでありますから、この職員の活動をぱさらに強化して、自発的な履行をさせ、それでもいけなければ外郭団体が強制執行をば代行するというような方法でいかがかと、私はこう思うのであります。
そこで、家庭裁判所並びにその外郭団体の活動に便せしめるために、履行の勧告、これなどは現在法規上の根拠がありませんが、置くことは非常にけっこうなことである。この履行命令も、置き方によっては必ずしも私は反対いたしませんが、直ちにこれをば行政罰、過料をもってその命令を確保しよう、そういう実効をあげよということに対しては、遺憾ながら私は賛成しかねるのであります。理論的に言うならば、これは行政罰であるがゆえに、一つの事件について何べんも課せられる。当事者が不服ならば一万円の債務について行政罰を何べんでも課せば、その債務額とほとんど同じ過料を国家が召し上げるということにもなるわけであります。この点については、私は若干考えなければならぬと思っております。もっとも、英米法においては、扶助料その他について過料の制裁を課する。これはおそらく法廷侮辱罪、コンテンプト・オブ・コートの系統を引いておるのではないかと思います。この法廷侮辱罪の基本となるものは、英米法における原告、被告対立主義であります。原告と被告と対立させてあくまでも争わせる。しかしながら、その訴訟は国家制度なるがゆえに、国家の裁判所の指揮のもとにフェア・プレーで争い、しかもそのフェア・プレーの原則に反するがゆえに処罰するのであります。が、日本の家事審判制度は当事者対立主義をとっておらぬ。裁判所の責任においてやっておる。しかもそれに対して権利を要求するということは、当事者の納得するゆえんでない場合があり得るということを私は申し上げたい。だから、英米法が扶助料について制裁を課しているがゆえに直ちに日本の審判制度においてもそうせよという早急な理論は成り立たない。訴訟制度の構造の上から比較しなければならない。私は、日本の訴訟制度、日本の審判制度の性格から、どこまでも過料の制裁をもって審判の実効をあげることは遺憾ながら賛成しかねるのであります。
次に寄託でありますが、これはまことに便利な制度であります。家庭裁判所の係とすると、こういう案を設けたいと思われるのも無理ないと思うのであります。現在の家庭裁判所はやはり裁判所でありますから、裁判所というものはあまり事件に深入りしてはならないものであります。元来裁判所組織というものはそういうものを扱えないようにできているのでありますから、それをばことさらここで寄託の制度を設けてこれを扱うことがよいかどうか。こういうことは必要でございません。当事者とすれば裁判所が扱ってくれることは非常にけっこうでありましょうが、裁判所の性格として、おのずからそこには限界がある。この点について、当事者の支出すべき金がもっと敏速に本人の手に渡るような各種の方法がもとよりほしい。これだけは確かであります。この制度を設ける一つの理由としては、現在の供託ということは非常に不便であるということでありますが、これはもっと大きく供託それ自身を改正するお考えはないのであるか。金というものは魔物でありまして、金の出入りということは非常に慎重な態度を要する。そこで供託法なんというものは精密にできている。これは当事者の方が場合によってはすこぶる不便だということである。これを何とかもう少し機動的に動かすようにならないかということが一点。もう一つは、この金の扱いを外郭団体にさしたらどうか。私は裁判所自身がこういう金の出し入れについてタッチすることについては必ずしも賛成できないのです。ただいま申した通り、審判制度というものは、行政的機能を営むと同時に裁判的機能を営む二元に立っているから、行政的機能という面から見ますと今回の案はいずれもごもっともでありますが、何といっても裁判所であります。その裁判所というものにはおのずから行動の限界があるということを考えなければならないのではないか。こう考えますと、現在の家事審判制度それ自身の再反省が必要なんじゃないか。
この制度は、ただいま申した通り、行政機能と裁判機能とを営む。その裁判機能を営むためには訴訟における二当事者対立主義が揚棄されておる。御案内のように、刑事訴訟はかつては糾問主義であった。ところが、これが現在においては原告、被告の対立主義になっておる。これは被告人保護のためであります。ところが、家事審判法は、それと逆行いたしまして、当事者なき制度になっておる。これは一種の糾問主義なんです。糾問主義といいますると、刑事における糾問主義のように、すなわち被告のみあって原告なき訴訟制度であると思われるのでありますが、コーラーは、「プロッェス・アルス・レヒツ・フェアヘルトニス」——法律関係としての訴訟という本に糾問主義というものは元来当事者のない訴訟であるということを書いておる。審判制度はそれ自体これに当てはまるものですが、すなわち、裁判所が実体的真実を発見する、つまり当事者はそれを助力するという点から当事者ではなく利害関係人にとどまる。こういう制度によって多くの場合経済的弱者である妻、子供を擁護する。それはけっこうでありますが、こういう糾問主義に通ずる訴訟制度にはおのずから限界があるということを考えなければならぬ。だから、さらに行政的機能を高めようとすれば、どうしても裁判の効力というものは限定して考えなければならぬ。裁判の効力を幅広く考えようとすれば、行政的機能を制限してかからなければならない。これをば、行政の機能も高めよう、裁判の効力も高めよう、こういう両兎を追うということは、家事審判制度の破壊になりはしないかということを憂えるのであります。
今後においてこの制度はどうしたらよいか。私は、家事審判制度はさらに行政的機能を高めることを要望したい。それがためには、裁判機能というものを後退さす。いわゆる英米法に言われる準司法委員会、たとえば労働委員会のごとき準司法委員会組織にいたしまして、それに不服なる者はさらに当事者対立の訴訟をもって争えるという道を設けてやる。この方向に将来向くのが私は望ましいのではないかと考える次第でございます。
これは将来の問題でありますが、こういうふうに、家事審判制度に対して現在反省の時期にあるということだけは確かだと思う。そうなるならば、この今回の法案は、この結果を要望せられるという点においてはまことにごもっともであります。しかし、これは、われわれ訴訟制度の立場から言うと必ずしも御賛成いたしかねるのでありまして、この過料による制裁、これによって履行を確保しようという制度は、強制執行法との関連において何か方法を考え、ことに外郭団体を活動させるという面に方向をお考えになったらいかがか。それから、この寄託も同じくでありまして、現在の段階においては裁判所御自身がお扱いになることは必ずしも適当ではないのではないか。というのは、その目的はけっこうでありますが、他の方法に、たとえば外郭団体にこれを扱わすというような方法も考えられるのであります。現在は家事審判制度がそういった反省時期にあるとするならば、こういう行政的機能を高める方向にのみ一路邁進しないで、この点は若干の考慮をしていただく方がいいのではないか。参考人としてはそういう意見を申し上げます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/2
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003・高橋禎一
○高橋委員長 中村参考人の陳述は終りました。質疑を許します。佐竹君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/3
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004・佐竹晴記
○佐竹(晴)委員 一、二伺っておきたいと存じます。ただいまの御説明でよく理解されましたが、さらにいま一つ、裁判制度と執行制度の関係について御所見を承わっておきたいと存じます。
先ほどの御説明の中で大体もう説明し尽しておられまするけれども、私どもの考えから言いますと、旧来、裁判をする者は裁判をする、第三者の立場にあって超然と裁判をする、それから、執行する者は別に執行する機関を置いて執行せしむる、こういう建前をとっておるのでありますが、今度は、裁判をする者に、その裁判をした内容の履行を確保せしむるために行政罰を与える権利までも与えるということになりますと、裁判をした者は、みずからなした裁判の権威とその内容実現のための熱心の余り、その行政罰をむやみやたらに乱用をして、ここに弊害をかもすおそれはないか。すなわち、裁判制度と執行制度というものを二分いたしましたことの根本に対して相当動揺を来たすおそれはないか、並びにこれに基いて弊害を生ずるおそれはないかということが、当委員会において論議されております。この点についていま一度御所見を承わりたいと思います発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/4
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005・中村宗雄
○中村参考人 ただいまの御質問のこと、実は私が申し上げたいところ所ございます。ただいま申し上げたつもりでありますが、言葉が足らなかったのであります。裁判制度はあくまでも裁判の効力を強大化しなければならない。しかしながら、それが当事者の納得がいくためには、その裁判の強化の背景をなすものは当事者主義であります。二当事者が対立して、お互いに言うべきことを尽さして、そうしてでき上った国家の判断であるから、あくまでもこれをば強制する。だから、それはあくまでも執行力を持つということが建前であります。と同時に、これはフランス法の原則でありますが、裁判職の純正、ラインハイト・デス・リヒテルアムツと申しますが、裁判官は他事に触れない。判決裁判所の判事はほかのことには触れないというのがフランス法の建前になっております。現在の訴訟制度は判決手続と執行手続と分けておるのであります。判決手続の基本になりますのは、あくまでも当事者主義であります。当事者主義のもとに、判決は国家意思の判断である、これをあくまでも強制するというのが建前なのであります。ところが、この家事審判制度は、先ほど申し上げましたように、裁判所の名においてこれをいたしておる。この点において裁判をしております。しかしながら、実質においては行政的機能を多分に営んでおる。その行政的機能を営む便宜のために弁論主義は捨てられておる。当事者対立主義が捨てられて、コーラーの言う当事者なき訴訟制度、結局その裁判は裁判所一人の責任になる。当事者はそれに対して責任を負っておらない。普通の民事訴訟なら、当事者の争い方が悪いか負けたということになるのでありまが、この当事者なき訴訟制度の裁判では、全面的に裁判官の責任。しかも、そういう責任にある者がみずからの行政罰をもってさらにこれを執行しようということは行き過ぎではないか。私は基本的に申せばそこまで参るのであります。しかして、この行政罰を課するということは一つの間接強制でありますゆえに、訴訟理論としても、間接強制と直接執行とを併存させることは無理があるのではないかという点を特に強調いたしたのでありますが、私といたしましては、歯にきぬを着せないで申すならば、この糾問主義に相通ずる、すなわち当事者なき広い意味の訴訟制度である審判について、さらに過料をもってその執行を確保するということは、あまりにも裁判所が事件に入り込み過ぎるのではないか。この点において後退しなければならない。しかしながら、行政機能を発揮しようといたしましたら、どこまでも事件の中に入り込まなければならない。そういう場合には、私は裁判所という看板を一応撤回するのがよろしいのではないかと思う。すなわち、準司法委員会として活動する。そうして当事者の納得のいくまで争う。その当事者が納得すれば強制執行をすればよかろう。どうしても納得しないものには、今度は訴訟的救済の道をあけておく。審判制度は、進んで行政的の面にさらに拡大するか、退いて裁判的機能をさらに拡大するか、いずれかにすべきであって、現状にとどまるべきではない、こう考えております。
それから、なお、裁判に対して行政罰を課することによって、どこまでも過度にわたりはしな、かということでありますが、これは結局人の問題であります。現在の家庭裁判所の裁判官はいずれもりっぱなお方でありますから、私はそういうことはないと思うのでありますが、しかし、何分ハマートンの言うように、われわれ知識階級にはインテレクチュアル・プレジュディス、知的偏見というものがございまして、裁判官また人の子でありますがゆえに、そういう憂いなしとは言いかねる、私はこう思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/5
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006・佐竹晴記
○佐竹(晴)委員 最高裁判所から提出されました資料によりますと、昭和二十九年度における家庭裁判所に対する調停の申し立ての総件数が三万八千六百四十九件でございます。そのうち調停の成立したものが一万八千九百二十九でございまして、調停成立の数より不調停の方が多いのであります。そこで、御承知のように、調停が成立をいたしませんものについては民事裁判所に救済を求めるのほかはないものがあります。民事裁判所に訴えて、そこで判決になります。すると、判決が下された場合におきましては、今回の改正のような履行の勧告も履行命令も、不履行者に対する制裁の規定も適用がございません。そこで、ごく軽く調停のまとまった場合においては、裁判所がアフター・ケアでめんどうを見ます。ところが、不調に終った事件で民事裁判所へ行って判決になりますと、判決に対してはアフター・ケアをやらない。しかもその不調事件が総数においてはむしろ多い。こういったことは相当弊害をもたらすおそれはないであろうか、こういう懸念をいたしております。つまり、もし家庭裁判所の審判並びに調停に対してアフター・ケアをやるならば、一般裁判所の判決に対して、あるいは一般裁判所の調停に対して何がゆえにアフター・ケアをやらないのか、ほうっておいてよろしいものか、裁判のしっぱなしでよろしいものかという疑問が起きておるのでありますが、これに対する御所見はいかがでございましょう。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/6
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007・中村宗雄
○中村参考人 今の御質問、実は司法制度のことになりますので、最高裁判所の方のお方からお答え申し上げるのが本筋かと思うのでありますが、家庭事件は審判と調停と訴訟になっております。調停か不調の場合——審判は甲類と乙類になっておりまして、甲類は調停が適当しないもの、乙類が調停可能なものであります。そこで、乙類について調停の申し立てがあって、これが不能であるなら、これは当然審判の方に回るわけであります。一般訴訟事件にならないのであります。なおそれ以外に審判法にかからざる家庭事件は一般訴訟にかかるわけであります。なお、ちょっとこれは中間のものがございますので、そこで家事審判法の二十四条の規定もあるようでありますが、調停にかわる審判がそれであります。結局、審判法の精神としては、家庭事件はすべて審判で片をつけてしまう、できるならば調停をさせる、調停が不能なら審判に持っていく、こういうことでありますが、むしろ問題はそこにあるのではないか。調停が不能なものを、裁判所が当事者にさらに争いをさせないで、裁判所の責任において、すなわち当事者なき訴訟において裁判所の責任において審判をする、そこに問題があるのではないか。それらが、これはほんの私の推測にすぎないのでありまするが、ちょうだいいたしました資料の第五表によりますと、当事者の不誠意によって履行しないというのが千二百二件のうち五百二十三件、四〇何%に当るわけですが、そのうちの主要なる原因をあるいは占めはしないか。すなわち、調停ができない、当事者の対立が依然ある、それを対立的に争いをさせないで、言葉は悪いですが、当事者なき裁判所の全責任における審判によって片をつける。当事者が言わんとして言えざるところがある。これらが下構として現われる。これが裁判所の方から見ると不誠意として現われるというパーセンテージが相当あるのではないか。私は、むしろ問題がそちらにあるのではないか、こう思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/7
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008・佐竹晴記
○佐竹(晴)委員 私の質問が悪かったかもわかりませんが、具体的に申し上げますと、たとえば婚姻予約不履行の事件で慰謝料の請求をするといったような場合に、これを家庭裁判所に持って参りますと調停はしてくれます。しかし、不成立の場合には婚姻予約不履行の慰謝料請求事件として民事の裁判を求めるよりほかはありません。また、離婚の事件等におきましても、離婚に関して調停を求める、できないときには結局一般裁判所で離婚の判決を願うよりほかにはないのでございます。こういうような工合に、家庭裁判所で解決した事件については今回のごとき救済手続が加えられるが、一般裁判所へ回された、つまり家庭裁判所の事件よりももっと質の悪いと言っては語弊がありますが困難な事件で、そうしてより保護を必要とする一般裁判所へ参りました事件が、判決のしっぱなしでよいものであろうか、こういうことであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/8
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009・高橋禎一
○高橋委員長 ちょっと委員各位に申し上げますが、中村参考人は学校の方の都合で非常に時間をお急ぎのように承わっておりますので、できるだけ早く帰っていただくようにいたしたいと思いますから、御協力を願います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/9
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010・中村宗雄
○中村参考人 まだ時間はございますから、御遠慮なく。
今の御質問、ごもっともでございまして、私、言葉が足りませんでした。前に申し上げましたように、家庭事件というのは非常に幅が広いので、審判、調停、一般訴訟と分けて、少くとも三種類あるわけであります。今の御質問は、家事審判法による調停ができなかった場合の訴訟にかかる事件についての御質問、こう伺いました。この場合、まさしく仰せられたようなアンバランスができるのであります。この家事審判法によって審判される限りにおいては、ただいま申した通りの行政的な機能によってあらゆるめんどうを見る。またアフター・ケアの方法もとれる。しかもそれが好ましいことである。ところが、一方訴訟になると、そういうことはとられない。そこに非常な断層があるのであります。この断層は、一つは現在の訴訟制度が必ずしもわれわれの日常生活にマッチしていないということであります。この意味において、強制執行法の改正ということが刻下の急務でありまして、昭和五年に当時の司法省が強制執行法改正の要綱を各方面からお集めになったのですが、それが現在そのままになっておる。これは強制執行法をあくまで改正しなければならぬのであります。家事審判法は、ただいま申し上げた通り、行政的機能と、裁判の効力、裁判制度と、二兎を追うのであります。そこに無理がある。この二つの無理が合わさって、そこに著しい断層ができたのであります。そこで、私が申し上げた結論として、この審判制度は、もう少し根本的に反省していただく必要があるんじゃないか。そこで、反省して、準司法委員会制度のごとき性格のものに移っていくならば、ただいま申したようなアンバランスはなくなって参ります。また、それは行政官庁としてそういうアフター・ケアをするのであるから、裁判所の強制執行手続と変っておるのは、これはまた別問題で、そういう場合にさらに準司法委員会の権限をばそういう一般家庭事件まで及ぼすということも可能であります。少くとも家事審判法の性格に再反省が加えられ、家事審判制度がさらに行政的な機能を前面に押し出してくるならば、今申したようなアンバランスもなくなってくる。あるいはまた、行政機能は後退して裁判制度としての本質を発揮するようになれば、またそのアンバランスもなくなるでしょう。だから、その過渡期としては、私は、今回の改正案のごときは、むしろその将来の改正まで見送られて、これにかわるべき方法をお考えになったらいかがか、その意味として、先ほど申し上げたような強制執行制度、これに外郭団体が参加する、そういうような非裁判的、裁判所の機能を離れた方法で、この法案の望むがごとき結果をあげられる方が無難ではないか、そういう趣旨でございます。御質問のように、訴訟事件になったものと、審判事件になったものとの間にアンバランスを生ずるということについては、私は全面的にそうであろうと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/10
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011・佐竹晴記
○佐竹(晴)委員 時間の関係もおありのようでありますので、これで終ります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/11
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012・高橋禎一
○高橋委員長 吉田賢一君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/12
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013・吉田賢一
○吉田(賢)委員 ちょっと一点だけお伺いしたいのですが、ただいま、家事審判制度の一つの方途といたしまして、行政的機能を高めていく方法として、職員の活動をもっと強化してはどうか、第二には、外郭団体の活動をもっとさせてはどうか、こういった趣旨のことをお述べになったと思いますが、何か具体的にお考えがございましたら、その点お示しを願いたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/13
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014・中村宗雄
○中村参考人 私の職員の活動機能を高めると申しましたことは、この第五表にありますように、これは、最高裁判所から職員が履行の悪い事件についていろいろな勧告なりその他の方法をおとりになって、そのおとりになったお方の勧誘者としては、ここに審判官、調査官等々があげてございます。またその措置もここに出ております。結局こういう措置をもっと強化せられたらいかがか。しかも、その勧告は、現在は法的基礎がないゆえに、この法的基礎を置くべき家事審判法に勧告の規定を置くのもよろしゅうございましょう。また、場合によっては、この履行の命令の規定を置くのもよかろう。ここの第五表に掲げられてある、このやり方をもっと強化されることがいいのじゃないか。さらに具体的に申し上げますと、本件の場合は過料の制裁をもって自発的に履行させるというのですが、これは、私としては、間接強制をもって履行させるということは必ずしも賛成できない。そうすれば、女、子供は自分で強制執行はできない。こういう場合に外郭団体がかわって強制執行の仕事をしてやるということも一つではないかというのが一点であります。また、寄託の方も、この外郭団体が国庫の補助を得て相当の施設を設けてこの金を預かるというようなことをせられた方が、先ほどの委員の方の御質問のように、裁判所の機能をばあまりにも複雑にさせないためにも、こういう外郭団体を利用するという方法を考えたらいかがか。余談でありまするが、現在裁判所は非常に事務過剰であるというので訴訟促進その他非常に御苦心になっておるのであります。それにさらにまたこういうような仕事をばかかえ込むよりは、むしろこれは補助金でも与えて外郭団体に仕事をさせ、裁判所としてはさらに裁判機能の増進に進まれたらどうかなんということは、実は腹に思った私の参考意見であります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/14
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015・高橋禎一
○高橋委員長 他に中村参考人に対する質疑がなければ、次に山口参考人の御陳述を求めまする。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/15
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016・山口貞昌
○山口参考人 私は弁護士の山口と申します。実は昨日突然ここべまかり出るような話を受けたのでありますが、私は実は皆さんから御質問を受けてお答えをするのじゃないかと想像して参りまして、自分の意見を取りまとめて先に申し上げるということは予期しておりませんでした。今順席を伺ってそういうことを発見いたしました。それからまた、私はもう老人でありまして無学の者でありますが、中村先生、岩松先生、それぞれ双方の学者がおいでになりますから、学問的の問題は両先生におまかせいたしまして、私としては三十有余年間弁護士として訴訟事件なり審判事件、調停事件に関係いたしました事実上の問題について御報告申し上げて、お尋ねを受けてまたお答えしたいと思います。
私は、弁護士として三十有余年でありまするほかに、調停委員としても三十年以上その職に携わった者でありまするが、調停に携わる者の立場から申し上げますれば、家庭裁判所における実際の取扱い事件と地方裁判所、簡易裁判所その他における、同じような金銭債務であっても、取扱いの事件とはその雰囲気が全く違うのであります。家庭裁判所に現われます事件は、ほとんど必ずや一方の当事者は女もしくは老人というような社会的に弱者であります。しこうして弁護士のつき添いを原則といたしません。また、簡易に費用のかからぬようにやるために本人出頭が多いのであります。この本人は、御承知の通り社会的知識も少く、法律上の知識はもちろんなし、それを結局補って指導して、とにかく調停にまとまる、あるいは審判にまとまるということは、これについてそこに調停委員というものが関与して補助しておるのであります。審判についても、重大なる審判事件は参与員というものがありまして、これが判事のほかに関係いたして、実際判事の仕事を援助しておるのであります。審判は裁判所が一人で職権でやるのだというようなことはこれは実際に合わない。実際は参与員というものが携わっております。そこで、当事者のわからぬことを言う人を指導し、どうやら軌道に乗せて調停なり審判が成り立っておる次第であります。さて、その場合に、金銭的債務の履行を命ずる審判なり調停ができたといたしまして、統計上それが何分の一になるか、半分になるかということは、資料が出ておるわけでありますから、その統計によって御判断を願えばいいのですが、実際におきましては、大体金額が小さくて、そうして、一時払いの場合は議論がないのですが、月賦などで不履行の場合に、いわゆる権利者の側で非常に困るのであります。むろん、金銭債務については強制執行という方法があって、執達吏が強制で取りますけれども、現在の強制執行におきまして、執達吏に強制執行の事件を頼んだところが、それで決して目的を達するものではありません。執達吏のほかに立会人というものをつけてやる。その立会人が活動しなければ、執行の目的はとうてい達しられないのであります。これは一方から言えば強制執行の弊害でございますが、それによってその立会人というものは一日に日当を東京辺では少くとも千円もしくは二千円近く取るのであります。わずかの月賦金や扶養料について、こういう人を使って執行するということは実際において行われない。ただいま伺えば、それについては調査官というような者が活動しろとおっしゃいますけれども、調査官が執達吏のかわりをするということは、これはいけないし、執行の場合にその立会人の資格で調査官が行くということは、行われないことなんです。もう一点は、外郭団体にやらしたらいいだろうとおっしゃいますが、そういう外郭団体はありません。私は存じません。家庭裁判所の関係においては、調停委員の会というものはありますが、これはただ調停委員の会合で、調停の仕事の改善・発展を目的としておるだけで、外郭団体としてそういうことはいたしません。それからまた、外郭団体が金銭を取り扱う、あるいは執達吏のまねをする、これは弊害の起る最大原因だと思います。
そこで、理論的に私はわかりませんが、とにかく、実際におきましては、家庭裁判所に関係しておる職員、調停委員また家庭裁判所に来る当事者の大多数の呼び声は、何とか助けて下さいということなんです。もう少し調停なり審判なりの結果が事実上実現するように国家が助けてくれ、この法案の規定の趣旨がいいか悪いかということは、学問的にいろいろ議論はありましょうが、その点の批評はしばらくさておきまして、とにかく現在せっかく宝が与えられておっても実現しない、何とか助けてくれというようなことが呼び声であります。この意味において、どういう規定になるか存じませんが、現在の審判なり調停に、その紙の上の規定が実際実現するような御案をやっていただきたいということが、確かにこれら関係者一同の願いであり、信念であります。実際、調停されて、金をもらうことができるという調停はできても、執行しない分がたくさんあるというような統計もここにありましたが、その一例として、私自身遭遇した事例を一つだけ申し上げてみます。それ、は、板橋区のある相当の実業家の後妻でありまするが、嫁入りしたところには先妻の子供もある、自分の子供もあるが、まあ平和に生活し薫りました。ところが、夫が精神病にかかりまして、その細君が姦通した、こういう全くあられもない疑いをかけられまして、不安になりまして、とうとう細君をうちから追い出した。それについては一つのお家騒動的な話がそこにありますが、それは別といたしましてうちを追い出された。それは私の友人のある銀行の幹部社員の娘でありましたから、私がその事件を引き受けて取り扱って、家庭裁判所べ調停を申上立てまして、一年以上かかりましたけれども、どうしても調停ができない。結局審判を受けまして、その審判を受けることについてもなかなか判事さんが聞かないので、ずいぶん強く主張して、ようやく数年かかって、月々扶養料を幾ら受けるという審判を受けました。私は、さあこれで目的を達したから強制執行をしようじゃないかと奥さんにそう言ったところが、そのときにその奥さんが申すのには、強制執行をやって執達吏をやったら、あとで残っている子供がさぞいじめられるだろうから、私はいたしません、こう言われたので、実は私もはっと思って、親心とはこういうものかと感服いたしました。結局その奥さんは今よそのうちで女中奉公して生活しておりますが、そういうような類はこれに限らず往々にしてあると思います。つまり、調停なり審判なりで権利を得ても、実際において強制執行ができない、これを何とか勧告とかなんとかいう方法で助けてやるならば、多少の人は助かるものだろうと思います。つまらないことですが、私としてはそういう実情を申し上げるだけでよろしかろうと思います。
御質問があればお答えいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/16
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017・高橋禎一
○高橋委員長 山口参考人に対する質疑をお許しいたします。椎名君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/17
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018・椎名隆
○椎名(隆)委員 山口参考人にお伺いしたいと思います。理論はさておきまして、実際上の取扱いですが、今強制執行制度を改正するといいましても、なかなかすぐに改正するというわけにも参りません。といって、零細な金額を権利者が一々執達吏に委任してやるということも、おそらく実際上は不可能である。そうしましたときに、この第十五条の三でございますが、もし履行命令を出しまして支払わなければ五千円の過料に処するぞ、それがいやならば履行命令に基いて支払ったらどうだという規定を設けることは、実際の取扱いにおいていかがでございましょう。いいことであろうか悪いことであろうか、その点だけお伺いしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/18
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019・山口貞昌
○山口参考人 実際の取扱いでどうかと御質問を受けましても、これはまだ行われないことで、何ともわかりませんが、従来、それに類することで、たとえば調停の場合に呼び出しても出て来ないから過料にする、あるいは事前命令をしたけれどもその事前命令に応じないから過料にする、こういう規定がありますが、そのうちで一番多く行われるのは、調停の場合に呼び出ししても出て来ない場合、これは、私どもは、調停委員とし、もしくは調停の申し立ての当事者として、二、三回以上呼び出しても出て来ないと、判事さんに向って、一つ過料を課して下さい、こう言いますけれども、実際としては判事はなかなかうんと言わない。さらにもう一ぺんか二へん正式呼び出し、すなわち郵便によるあるいは執達吏による、はがきの呼び出しでなくて正式呼び出しをやらなければ、実際としては判事は過料の規定を課さないのです。そうすると初めてそれによって出て来るわけです。出て来て相当のことを言って、実は病気をしておりましたとかいろいろなことを言うと、とにかくその過料の言い渡しはしない。取り消してくれるのです。そういうことが普通調停では行われている。今度の制度はどういうことになりますか。やはり履行したら取り消しを言うだろうと思うのです。そこは立法者においてお考え願いたい。あの場合は取り消しているのです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/19
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020・椎名隆
○椎名(隆)委員 私は、そうではなくて、まだやっていないからわからないとおっしゃられますが、法律というものは将来に向って効果を持つということは当然のことで、やってみなければわからぬということになったら法律というものは作ることはできないと思いますが、こういう規定があることが、履行を確保する上において、ないということよりもいいか悪いかということを聞いているのです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/20
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021・山口貞昌
○山口参考人 それは、お言葉の通り、ある方が有効だと思いますが、それはもちろんのことだと思います。これによって義務者に若干脅威を与えるわけです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/21
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022・高橋禎一
○高橋委員長 他に御質疑がなければ、次に岩松参考人の御陳述を願います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/22
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023・岩松三郎
○岩松参考人 私も改正案の全般に対して意見を先に述べるということを考えて参りませんでした。すでに中村さん、山口さんから理論的な面と実際的な面からお話がありました。大体この案に対する私の気のついた点だけを簡単に述べて、御質問に応じたいと思うのであります。
この第十五条の二といういわゆる勧告をきめた条文、これは、大体、私ども地方裁判所所長をいたしました経験から調停委員の方の空気というものを感ずるところは、どうも自分がやった調停というものはそれが実際履行されているかという、その事後の状況というものに対して非常に関心を持たれる。熱心にやられる結果だろうと思うのですが、非常に関心を持たれる。私が大阪の所長をしておりましたころに前の所長の藤田君か、調停のあとがどうなっているかということを調査するという意味で、何か百件ばかりの事件をあげて、その事後の履行がどうなっているかというようなことを調査した。調査を命じて先生は転任された。私はあとから行って、その結果だけ出されてみると、大分前のことでありますからはっきりした記憶はないのですが、行方不明になってわからないというのは何でも一〇%ないし二〇%くらい、つまり八〇%くらいはわかった。わかった部分では大部分その当時は履行がされておったようでした。ところが、その後私が今度は東京の民事所長になりましてから、これは、戦争中、訴訟はやれない、強制執行はやっちゃいけない、調停をやれ、一億火の玉だなんといって、訴訟をやってけんかするときじゃないといって、やらせなかった時代です。調停が盛んに奨励されたころなんです。そしてまた調停が非常に役立っていたときでございます。そのときにも、やはり調停委員というものが非常に熱心で、どうも事後のことに入りたい、首を突っ込みたいという意向が私どもには大分看取されたのです。けれども、私ども裁判所に長いこといた者としては、調停委員というやや公的なものでありますが、そういう人が訴訟でも調停でも済んだあとの内輪にまで入り込むということはあまり好ましいことではないのではないか、弊害があるのじゃないかということを心配しておったのであります。どうも熱心になれば熱心になるほど少し過激な干渉になる危険もあるのじゃないかと思いまして、そういう空気は看取しながらも、何かほかのいい方法でやらなければいけないんじゃないかということを考えたのでありまして、それで、今度のように義務の履行を勧告する、また義務の履行を家庭裁判所が調査するということ、これは審判によるものについてはもちろんでありますが、調停の方にも書かれるというようになれば、調停委員自身がやるよりは非常に弊害が少くなる。そうしてまた実際の履行の確保に役立つ。ただ、この条文を見まして思ったことは、これは申し立てに基いてやったらどうかなということを感づいたのでありますが、いろいろ実情を聞いてみますと、その申し立て権の行使ということは、債権者としては弱い地位にあるので完全に行使できないんじゃないかという心配があり、財的にも相手方との身分的関係からも、かえって申し立てがない方がいいので、実際上裁判所まで来て履行状態を話をする、それに基いて調査してやるという意向でこういう条文を設けられたらしいのであります。それで、実際は調停でもそういうものの履行ができなくなったというのは前からそ差のかどうか、それは科学的に調査したわけではございません。毎年統計をとっていて調べたわけではございませんからわかりませんが、どうも、私どもが考えているのでは、こういうことをやるようなら、今の方がだんだん履行率が悪くなってきたからこんなことをやるのじゃないかとも思うのであります。そういう状況なら、家庭裁判所がこの条文に書かれているような意味で履行を勧告するというのはそう弊害がないんじゃないかというように、この条文については考えます。
それから、十五条の三の方は、期限を定めて義務の履行を命ずる、そうしてこの命令が実行されなければ五千円以下の過料に処すということで、間接強制をする、こういう意味だろうと思うのでありますが、この間接強制、過料ということで、金銭債務の履行、そのほか財産上の給付を目的とするものの履行を強制するということは、立法例の上ではそういう例がないわけではありません。たとえば、今のドイツの民訴の八百八十八条でもストラーフゲルト、罰金と訳しております。これは刑罰ではないのですが罰金、それから勾留で間接強制などいたしておるようであります。そして、しかもその罰金の最高額はウンベシュレンクト、無制限だ、幾らでもいいのだというように規定されております。これは、但し、金銭債権ではなくて、代替執行もできない、債務者の意思のみにかかっておる行為の強制執行なんでありますが、強制執行としては起るべき場合が非常にまれな場合であります。そういうときに間接強制をいたしております。日本では、先ほど中村さんも言われましたが、七百三十四条の、一定期間定めて履行しないとその遅延の期間に応じて直ちに損害賠償を命ずるというような規定になっておりますが、そういうので間接強制をやっておるわけであります。これは金銭債務とか財産上の給付を目的とする債務名義の履行なんで、実際の今の強制執行法から言いますとそういうことができない筋合いになっておるものを、この家庭審判所のいわゆる家事債務だということの性質から、これだけに例外的にこういうことをしたらどうかという考えだろう、こう思うのであります。これは、ほかの立法例でも、アメリカではやはりこういう間接強制の制度を認めて、過料に処する制度を認めておるようでありますが、これはみな主として、先ども中村さんがおっしゃったように、裁判所侮辱という意味でやっておるようなんであります。裁判所侮辱、裁判所の命令に従わない、けしからぬからその履行を強制するという意味なら、私は、この家事審判とか調停だとかいう、債務名義をそういうものにおいておる債務よりは、国家が訴訟で判決したその判決に従わないという方が、さらに裁判所侮辱の精神から言えばそうなるのじゃないか。だから、判決の執行の方へこういう制裁を課さないでおいてそしてもっと軽い意味でやった審判とか当事者がやった調定というものに、それの履行を命じ、この命令に従わないからといってその点だけに法廷侮辱という観念を認めるということは、少しへんぱじゃないか、こういうように考えるのであります。それからまた、審判と判決というものについて先ほど中村さんから、審判は非訟事件的なもので争訟でないというような区別表論じられておったようでありますが、とにかく判決は丁重な訴訟手続のもとに成立した国家の裁判であります。その判決でさえも、こういう間接強制するということは日本の訴訟法ではやっておりません。ドイツも八百八十八条の場合だけがあるのでありますが、判決でさえもやらないことを、このもう少し軽い意味でやられている裁判あるいは調停の執行にそういうことをするというのはどうか。これもやはり権衡を失するのではないかというように考えられるのであります。
こういうことを私どもは実務家として実際に取り扱っていられる調停委員の方だとかあるいは家庭裁判所の判事の方なんからいろいろ聞くところによりますと、実際は、先ほど山口さんがおっしゃられましたように、その債権者が非常に弱い、そしてしかも零細な金なんで、普通の強制執行の方法でやっていっては、どうもそういう手続を利用することが非常に困難だし、やりにくい地位にあるのだということで、実際上意味をなさないことになるということを聞くのでありますが、そうだとすれば、現に、調停に関しては、民事調停の場合でも調停前の処分というものを命じまして、これは執行力はないのだけれども、これに従わないとやはり過料に処するということになっておりますし、家事審判法にも二十八条ですかにそういう事前の命令処分は出せることを予定して、家事審判規則の百三十三条あたりにやはりそういう事前の処分を命ずる規定がございます。そうして、それにはやはり過料に処するということになっております。これは、民事調停の方ではかなり事前の措置の命令をやっておるようでありますが、家事事件の方では実際上は民事調停の実際よりはあまり行われないようであります。特に家庭裁判所で過料を言い渡したという事件は一件か二件くらいしかないのじゃないかというように聞いております。非常に実際には過料には処さない。でありますが、こういう事前の措置の履行というものが、たとえば処分を禁止するとか、そういうような命令が割合に順奉されているのは、やはりこういう家事の事前の命令に対する制裁規定のあるために、多少効果があがっておるのではないか、そうしてまた、実業邑智に処する場合は非常にレアなんで、実際の弊害もないのじゃないかというように、実際の取扱いの者からは聞いております。そうだとすれば、私どものように訴訟を見る者から言いますと訴訟と強制執行法とのバランスはどうも工合が悪いというように思うのですが、さしあたって家事事件の際に一それから、もう一つ考えることは、家事債務の性質から特にこういう措置が必要なんだというのだったら、それはこの審判とか調停とかばかりではなく、そういう債務名義の方の性質で制限するという特別な取扱いをするということは、私は意味をなさないと思うのです。実体的な、つまり家事債務、どういう種類の債務でも、それは訴訟による判決の場合でもやはり同じように特別な取扱いをすべきなんで、家事債務なるがゆえにというのだったら、実体的の面でこういう取扱いをすべきなんで、同じ債務で、判決でやっても同じことだと思うのです。債権者が実際上できない、そうしてまた弱い、強制執行もできないということは、債務名義が審判だから調停だからできないのじゃなくて、判決でやってもできないのだろうと思う。そうなれば、強制執行の方にもこういう考えを持っていくべきなんで、それが正当ならば、そっちの方にも同一にしなければおかしいのじゃないか。どうも理論的に統一はできないのじゃないか。まあしかし、家事審判の大ぜいの非常に弱い者が現に今多くて困っているのだから、このことはまず先に措置をして、強制執行の方のこととかあるいは実体法でどういう特別の規定を設けるというような措置は別にやってもよろしいので、理論的に強制執行の方まですっかり直さないうちはこれは手をつけないというのも、その間は現に困っているやつが迷惑しているという意味だけでも救いたいという考えから、こういう立法案が出たのじゃないかと思うので、そういう点で、強制執行とかそういう方の関係のバランスはあとにしても、これくらいのことをやることにおいては、実際上の調停前の措置に対する過料の制裁をやって履行が確保されている現況から言って、いいのではないかというような考えを持っております。
それから、十五条の四の寄託の方法でございますが、これも実際上は寄託をした方が履行が確保される、どうも別れた女房のところへ金を持って行くということは工合が悪いから、裁判所で渡してもらいたいというので、裁判所に預けることになっている。裁判所が預かっていないと、使い込んで今度は不履行になるということで、非常に便利なことなんだそうですが、裁判所としてそういう預かる施設がないので法文化したいのだという話だったと思うのであります。現状ではこういう規定を設けなければいけないと思うのであります。ただ、寄託を受けることとなっておりまするこの寄託は、一体それはどういう法律関係になるのか。第三者のためにする契約として、離縁の意思表示でもあったときにはもう取り戻せないとか、どういう関係になるのか、中身の点はいろいろ考え方があるのではないか。供託を利用すればそれでもいいのだが、供託の制度がややこしいので、それも債権者としては工合が悪いというのでこういう特別措置をするのだろうと思うのであります。この寄託の法律関係をどう構成するかということはいろいろ考えられておるだろうと思います。これも、それがないと、裁判官が法律の規定によらないで実際金を預かっているという不合理なことも困りますので、こういう規定を設けて簡単に履行の確保ができる方法になれば非常にけっこうではないか、そういうふうに考えております。
大体この法案に対して私の考えたことはそのくらいのことでございますが、御質問があればまたお答えいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/23
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024・高橋禎一
○高橋委員長 岩松参考人に対する質疑があればお許しいたします。佐竹君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/24
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025・佐竹晴記
○佐竹(晴)委員 二、三お尋ねをいたしておきたいのでありまするが、この法案が、ごらんの通り、財産上の給付に限ってこういう救済上の手続をすることができることになっております。ところが、私どもの最も必要とするものは、たとえば夫婦同居を求める件であるとか、子供の引き取りに関する件であるとか、あるいは財産管理に関する件であるとかいったような事件について審判ないしは調停のあった場合に、金銭債務のときのように強制執行をやることはまず困難である、こういったような場合にこそ勧告をしてみたり履行命令を出してみたり、聞かなければ制裁命令を与えるといったようなことが必要ではないかと思うのであります。今回の提案では、そういう場合には何のめんどうも見ない、ただ金銭債務の財産上の給付そのものを目的とする場合に限ってこういう保護規定を置こうとするのであります。これはどうも不権衡であるし、また家事事件を中心としての考えとしてま、そういった身分上の関係を今回の改正案のような保護規定で救うことがむしろ本来の精神ではなかろうか、かように考えますが、参考人の御所見はいかがでございましようか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/25
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026・岩松三郎
○岩松参考人 お答えいたします。ただ身分上の関係は、たとえば同居の義務の履行というようなものは、実は強制執行の方でも執行不能の債権と考えられているのじゃないかと思うのであります。つまり、金銭、物の引き渡しでもない、それから代替作為の理由でもないし、債務者の意思のみにかかっている行為でありますが、間接強制しても夫婦の同居の義務なんかは強制執行ずることがいけないのじゃないかというように言われ、またできないとされておるのであります。そういうものが多いので、そういうふうなものまでこれで命令を出すかどうか。夫婦の同居義務というような、一体そういう執行に適しない債務のために給付判決ができるか、給付判決まではいいが執行はできないという学説上の議論はあります。これは、私どもは、判決まではいいのだが、ただ履行を強制できないだけだというように考えております。そういうできるという考えから言えば、命令まではいいのじゃないか、こういうことも言えないことはないのですが、実際上から言いますと、強制執行ができないようなものに債務命令をこしらえておってはいけないのじゃないかという考え方、こういう考え方も実際あるようです。判例でもその点はいろいろになっております。ただ、間接強制とか代替執行というものは任意履行をしないときの処置ということに法律上なっているものですから、判決は債務面ばかりでなく任意履行を命ずる意味もありますので、判決まではしてもいいのじゃないかと私どもは思っております。そういう点で、議論もあるくらいならというので、むしろ避けたのじゃないか、こう思うのであります。強制執行、これは斤手落ちだと言えば片手落ちですが、債務の本質上あまり強制に適しないものが割合に身分関係ではあるので、そうでないものはまあいい、たとえば子供の引き渡しにいたしましても、ほんとうに意思能力のないようなものは実際は動産として執行しておるのであります。人間扱いじゃない。意思があるようになって人間扱いになれば、強制刊行はできるが、これは犬や何かと違いますから、本人の意思に反して強制私行はできない、こういう考えになつて、人格はあるのだが意思能力のないと思われるような程度のものは動産の伊制執行でやっている。そういうような子供は、執行命令をやっても、それはいいかもしれない。だが、そういう特殊なもののほかが大体多いので、そういうことを除いたのじゃないかと思うのであります。すべてを権衡を失しないようにバランスをとって立法するということは、これは立法する以上は考えなければいけないと思うのであります。これも、ヒューマニズム云々と言っても、そういう例はそうないのじゃないかと思います。この点はよく考えておりませんから、ちょっとお答えできません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/26
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027・佐竹晴記
○佐竹(晴)委員 強制執行のできないものは判決もできないじゃないかというのならば、まことに筋が通るのであります。それだったら調停もこれはしない方がいいし。いやしくもこういう審判が出、調停が出た以上は、これを実行せしむるように努力をする、ここにアフター・ケアをやるということは、これは自然に出てくることでありますので、そうすると、金銭債務だけはめんどうを見るが、その他のものは審判なり調停なり、やりっぱなしでいいどいうのはどうも筋が通らないではないか、こう疑問に思うのであります。
それはそれといたしまして、そこで、先ほどこれはお説にも出ておりましたが、財産上の給付に関する問題で履行命令を出したがこれに応じない、そこでさらに履行命令を出す、そして再三再四履行命令を出した場合に、各履行命令に対しておのおの数回制裁を加えることができる、こういうふうに理論上としては考えられるということに過日来の答弁はなっておるのでありますが、これは法理上許されるものでございましょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/27
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028・岩松三郎
○岩松参考人 これは、一ぺん期間を定めて履行を命じ、そしてそれに従わなかったという、いわゆる命令に服しないということのための、刑罰ではありませんが一つの間接強制の手段としてやっていることなのだと思うのでありますが、従って、それは命令に従わない数ごとに理論的には命令が出せるのじゃないか、そしてそれはやむを得ないのじゃないか。ドイツの八百八条の実例でも、またドイツの大審院の判例もございますが、それはやはり繰り返しできる。そうしてしかも罰金と拘留があるものでございますから、罰金をやっておいて、聞かないと今度は勾留をやるというようにまでできるのだというように、学説も判例もその点は問題はないというふうに考えられております。従って、こういう規定を設ければ日本でも何度でもできる。そして、先ほどちょっとお話がありましたが、本来の債務よりはもっと大きな額の過料が課せられる。そしてその科料は国庫に行くので、債権者の利益にちっともならないということにはなるかもしれませんが、間接強制の性質からどうもやむを得ないのじゃないかと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/28
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029・佐竹晴記
○佐竹(晴)委員 ただ、こういうことを考えるのです。ここに債務不履行がございます。履行命令のあるとないとにかかわらず、債務者としては不履行をしているというただ一つのことなんです。たとえば三十年の十二月十日までに支払えという調停があったといたしまするその以後払わぬとすると、ただ払わぬという事実が一つあるだけです。それに対して支払えという命令を出したとする。一個の不履行の事実については一個の履行命令——これは裁判の形式でなさるのでございますから、一つの事実に対して一個の裁判が与えられたならば、それで一応済みではないか。もしも数個できるということであったならば、判決の場合だって、これこれについて一定の金額を支払うべしという判決を下した、払わぬというときにまた第二の支払えという判決ができるということになりはしないか。もっとも、履行の勧告につきましては、これは事実行為だとおっしゃるのですから、事実行為は幾らでもできます。履行命令は決定でな去る、つまり裁判によってなされるというのでありますが、一個の事実に対して一個の決定が与えられたときは、一応その不履行に対してはケリはつくではなかろうか、それにまた数個の決定が与えられても法理上何の矛盾もないものであろうか、こういうのでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/29
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030・岩松三郎
○岩松参考人 お答えいたします。その点は、債務の不履行に対する制裁じゃないのです。債務不履行は、これは期間が前からあるので、債務の不履行は一個であるが、その履行を命ずる命令に対する違反というものの数で行くのじゃないか。これはドイツの考え方でも同じことなんです。もっとも、ドイツではこういうことになっております。罰金の強制執行、それから勾留の執行も、実は国とかそういうものがやるのじゃなくて、債権者が当りまえに強制執行のように申し立てて、債権者が強制執行をやることになっております。罰金のも勾留のも債権者がやるということで、罰金の執行とかそういう点が日本の法律と違いますが、そういう点で履行時効の問題などに、罰金の執行の時効とかあるいは勾留の命令の執行の時効が、主たる債務が時効にかかったときには一緒にかかるのだというふうな判例にもなっており、学説にもなっております。そういう点で主たる債務と罰金とか勾留とかの命令というものとの関連は認められる部分もありますが、罰金の方の繰り返しは、期間を定めてやるものですから、この期間内に履行しろと言って、その期間内に履行しないと、また命令に対する不履行、不服従という関係から制裁は繰り返してなされる、こういうように考えられておるようです。それから、もう一つ、なるほど、判決の場合とこういう場合との関係ですが、判決も命令はしておるのでありますね。判決に現われておる給付命令の名あて人が一体だれだ、債務者に給付を命じておるのか、執行機関に執行しろという職務命令をしておるかという学説上の議論はあります。だけれども、法律上そういう義務があるのだということは宣言をしておるのでありますから、法律の規定上から言えば、お前はこういう金銭の支払い義務があるのだ、法律は支払い義務を命じておる、こういうことになりますが、実は判決の場合は多くの場合契約とか債務を負担したときから判決まで割合に時間がかかっておる。つまり支払い能力に非常に変動が多いのであります。ところが、審判だとか調停の場合は、そういう債務命令ができたときから支払い能力は、——もちろん、調停をしたときはちょうど金があったのだけれども、その後非常にすってしまったというような場合がありますが、判決の場合ほど履行能力の差がないのではないか。従って、そういう関係から、特に判決だって命令かあるのだ、それに不服従でやらないという点もその点で過料に処するのは当りまえではないかという考えも起ります。これは、調停なんかに限っては、最近の状態で払えなくなったというような場合は、ここにも十五条の三にありますように、「相当と認めるときは」とあるのですから、これを相当と認めなければいいので、命令を出さなければいい。そういう点で各事情をしんしゃくすることが盛られておるので、そういう点で調整ができるのではないか、こういうように考えるので、この「相当と認めるときは」云々というこの字句はぜひ必要でもあるし、これがこのアンバランスを調整する一つの安全弁にもなると考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/30
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031・佐竹晴記
○佐竹(晴)委員 それについてなお私はいささか意見がありますけれども、省略いたしまして、いま一点、寄託の点でありますが、政府の答弁によれば、第三者のためにする契約だと、こう解釈をいたしております。そうして、その寄託をいたしました金銭は国家の所有になる、消費寄託である、かように解釈をいたしております。つまり、予算外の歳入になって国庫に帰属すると解釈をされておるようであります。ところが、それを寄託いたしました人に対しては弁済の効力が生じません。第三者のためにする契約でございますから、権利者が受益の意思表示をしません限り、その金はまたもとの義務者に返還をするよりほかにはないのであります。こういっためんどうなことをするよりも、なぜ供託を世話するといったようなことにしないのかということが当委員会において問題になっておりますが、先ほど供託のお話も出ておりましたが、むしろ供託の世話をするというふうに規定をいたしました方がいいではないかと思います。参考人の御所見はいかがでありましょう。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/31
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032・岩松三郎
○岩松参考人 第十五条の四というのは供託の排斥はしていない。もちろん供託はすればできると思うのであります。そして、供託の世話というのはどういう世話のやり方ですか、私ちょっとわかりませんが、事実上世話するのならやれないこともないのではないか。そして、そのほかになおこの寄託で預かって——私が実際上の必要の話を聞いたところによりますと、そう長く寄託を受けているわけではなくてほんのわずかな間だけ預かっている場合が多いのだという話のように聞いておるのでありますが、供託のほかにこういうことがあっても、このために実際上便利になっておるというのなら差しつかえないことではないか。そして、これは預けた者の弁済にはなるまいと私は思うのですが、また勝手に受け戻しができたり何かする、その法律関係はもし少し何とか規定しないとわからないのじゃないかという点はございます。供託の世話というのはどういうことをおっしゃるのか、私よくわかりませんが、事実上の世話ならやれないこともないのじゃないか。こういう工合にしてやるのだよといって教えるとか、供託の実際の書類を書いてやるとか、そういったことなら事実上できないこともないと思う。ただ、法律の規定がないのにあまりやりますと、先ほど申しましたように、勧告や何かのようにどうも弊害をかもすおそれがあると思う。まあ供託があるのにこういうものをそう切実に必要だとも私どもは考えませんけれども、あってもじゃまになることではないのじゃないか、こういうふうに考えますが、いかがでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/32
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033・佐竹晴記
○佐竹(晴)委員 金を持って来ると、それを供託べ——供託手続は御承知のように書類も非常に複雑でございますし、めんどうでございます。だから、とてもしょうとしない。ところが、裁判所に行ったら、もう印刷物があって、よろしい、こっちの窓口で出したらそっちの供託の方に回してやろう、判さえ持って来たらいいのだといったようなことで、そういう世話をすることでも目的を達しますし、また、こちらの窓口で受け取ったものを供託の方へ回す法律上の何か手続規定を設けてやってもいい。ことさらにこういった寄託などという法律上の効力について多大なる疑問を残すような規定を置きませんでも、供託取次の世話をするなり、国家としてそういう金を受け取るのでございますから、それを直ちに供託の方に回して供託の効力を発するような工合にしてやるなり、これは当事者の意思にもかかわることではございましょうが、これらを忖度して適当に処理してあげるような方法はないものだろうか、こういうのでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/33
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034・岩松三郎
○岩松参考人 まあ、そういう点では、私、大体そう必要な規定だとも考えておりません。先ほど言ったように、供託をすることが便利だという点では、今の強制執行の規定にも五百十三条で執行上の保証とか供託による便利な規定を設けてあるので、この場合に特別に簡易な供託を認めるとか、これにかわる手当をすれば、それでもいいのじゃないかと思うのですが、この条文の適用される場合は、私どもの聞いたところによりますと、そんなに長くやる意味でない場合、普通の供託のようにいつまでも金だけ置いておいて弁済供託のような責めを免れて、受け戻し権、取り戻し権はいつ発生するか、そういう状態まで確保されているというような長い権利関係の存続を予定されていないような応急の、ちょっと預かってくれというようなものを処理する条文じゃないかというように聞いておるのでございまして、それならば、供託のほかにこういうものがあってもじゃまではないのじゃないかという考え方です。それは、供託していましても、今日供託して明日受け戻ししてもいいし、取り戻してもよろしいでしょうけれども、そういうのには割合にめんどうな手続はしないで簡単にやっておこう、こういう必要に応じて、またそういうことが非常に多いのだというように私ども聞いておるので、そういう意味で、長い間寝かしておく関係で処理する条文じゃないように聞いておったのでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/34
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035・高橋禎一
○高橋委員長 他に御質疑もないようでありますから、これにて参考人よりの意見聴取は終了いたしました。
参考人各位にはいろいろ貴重な御意見を御開陳下さいまして、まことにありがとうございました。御礼申し上げます。
次会は明十五日午前十時三十分より開会いたします。
本日はこれにて散会いたします。
午後三時十九分散会発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/102405206X00719560214/35
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