1. 会議録本文
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000・会議録情報
昭和五十八年三月三日(木曜日)
午後零時三十七分開会
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委員の異動
二月二十三日
辞任 補欠選任
杉山 令肇君 中村 啓一君
二月二十四日
辞任 補欠選任
中村 啓一君 杉山 令肇君
三月一日
辞任 補欠選任
宮之原貞光君 本岡 昭次君
三月三日
辞任 補欠選任
世耕 政隆君 林 ゆう君
仲川 幸男君 高平 公友君
秦野 章君 林 寛子君
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出席者は左のとおり。
委員長 堀内 俊夫君
理 事
片山 正英君
田沢 智治君
粕谷 照美君
佐藤 昭夫君
委 員
井上 裕君
山東 昭子君
杉山 令肇君
高平 公友君
内藤誉三郎君
中西 一郎君
林 寛子君
林 ゆう君
本岡 昭次君
柏原 ヤス君
高木健太郎君
小西 博行君
前島英三郎君
国務大臣
文 部 大 臣 瀬戸山三男君
政府委員
文部政務次官 大塚 雄司君
文部大臣官房長 高石 邦男君
文部大臣官房審
議官 齋藤 尚夫君
文部大臣官房会
計課長 國分 正明君
文部省初等中等
教育局長 鈴木 勲君
文部省大学局長 宮地 貫一君
文部省学術国際
局長 大崎 仁君
文部省社会教育
局長 宮野 禮一君
文部省体育局長 西崎 清久君
文部省管理局長 阿部 充夫君
文化庁長官 佐野文一郎君
文化庁次長 浦山 太郎君
事務局側
常任委員会専門
員 瀧 嘉衛君
参考人
広島大学教育学
部教授 沖原 豊君
全日本中学校長
会生徒指導特別
委員長
東京都世田谷区
立若林中学校長 鈴木誠太郎君
日本放送協会報
道局社会部担当
部長 曽我 健君
東京都葛飾区立
小松小学校PT
A副会長
少年補導員 塚本千枝子君
東京都足立区立
第十二中学校教
諭
全国生活指導研
究協議会中央常
任委員 能重 真作君
東京都江戸川区
立小岩第四中学
校教諭 真鍋 親寛君
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本日の会議に付した案件
○参考人の出席要求に関する件
○教育、文化及び学術に関する調査
(文教行政の基本施策に関する件)
(昭和五十八年度文部省関係予算に関する件)
(少年非行・校内暴力問題に関する件)
─────────────発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/0
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001・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) ただいまから文教委員会を開会いたします。
委員の異動について御報告いたします。
本日、世耕政隆君が委員を辞任され、その補欠として林ゆう君が選任されました。
─────────────発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/1
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002・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) 参考人の出席要求に関する件についてお諮りいたします。
教育、文化及び学術に関する調査のうち、少年非行・校内暴力問題に関する件の調査のため、本日の委員会に広島大学教育学部教授沖原豊君、全日本中学校長会生徒指導特別委員長鈴木誠太郎君、日本放送協会報道局社会部担当部長曽我健君、東京都葛飾区立小松小学校PTA副会長であり少年補導員の塚本千枝子君、東京都足立区立第十二中学校教諭能重真作君、東京都江戸川区立小岩第四中学校教諭真鍋親寛君を参考人として出席を求め、その意見を聴取することに御異議ございませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/2
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003・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) 御異議ないと認め、さよう決定いたします。
なお、本件について参考人の出席を求める必要が生じた場合には、その日時、人選等につきましては、これを委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ございませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/3
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004・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) 御異議ないと認め、さよう決定します。
速記をとめて。
〔午後零時四十分速記中止〕
〔午後零時五十分速記開始〕発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/4
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005・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) 速記を起こして。
教育、文化及び学術に関する調査を議題といたします。
まず、瀬戸山文部大臣から文教行政の基本施策について所信を聴取いたします。瀬戸山文部大臣。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/5
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006・瀬戸山三男
○国務大臣(瀬戸山三男君) 第九十八回国会におきまして、文教各般の問題を御審議いただくに当たり、所信の一端を申し述べます。
今日のわが国は、引き続き、かつてない厳しい財政状況下にあって、いかにして活力ある文化国家を築いていくか、また、相互依存の度合いをますます深めつつある国際社会の中で、いかにして国際協力と国際協調を推進していくかを、国政の基本課題として考えていかなければなりません。
私は、国政の課題であるこの国づくりの基礎となる人づくりを、あらゆる場を通じて進めなければならないものと考えており、そのためには、学校、家庭、社会のそれぞれの教育機能を充実強化し、一方でわが国の未来を担う健全な青少年の育
成を目指すとともに、他方では、国民が、複雑に変化する社会環境の中で、生涯にわたってその個性、能力を伸ばし、自己の啓発向上を図り、生きがいのある充実した生活を送ることができるよう、また、国民が、進展する国際社会の中で信頼と尊敬を得て活躍できるよう図っていくことが文教行政の基本であると考えております。さらに、わが国のみならず、世界の発展に貢献し得る独創的、先駆的な学術研究を振興するとともに、わが国のすぐれた伝統文化の継承と新しい文化の創造に努めていくことも文教行政の重要な課題と考えております。
私は、このような認識の上に立って、長期的な展望のもとに、以下の施策を総合的に進めてまいる所存であります。
第一は、初等中等教育の改善充実についてであります。
初等中等教育の教育内容については、ゆとりのあるしかも充実した学校生活を通じて、人間性豊かな児童生徒を育成することを目指した新しい教育課程が小中高等学校において実施されているところでありますが、今後ともその一層の定着に向かって努力するとともに、昭和五十五年度から発足した小中学校における四十人学級の実現を含む学級編制と教職員定数の改善計画についても、児童生徒一人一人の能力と適性に応じたよりきめ細かな教育を行い得るよう財政事情を考慮しつつ、その改善に努めてまいります。
また、学校教育の成否は、実際に教育に携わる教員の資質と指導力にかかっているものであり、教員がみずからの行いをもって全身で教育を行うことにより真の成果が期待できるものであります。このため、教員の資質向上を図ることはきわめて重要な課題であり、教員が教育者としての使命を自覚し、その職務を遂行するよう、教員養成及び教員の現職教育の充実に意を用いてまいる所存であります。
教科書制度については、義務教育教科書の無償給与制度を引き続き存続させることとしたほか、教科書の検定について、今後ともその記述が教育的に適切なものとなるよう最善の努力を払ってまいりたいと考えております。
なお、初等中等教育については、社会の進展や過去の経験等に照らし検討を加え改善してまいりましたが、今後予想される時代の変化や児童生徒の能力、適性等が多様化している実態に対応するため、昭和五十六年十一月以来、中央教育審議会において、「時代の変化に対応する初等中等教育の教育内容などの基本的な在り方について」幅広い視野から長期的展望のもとに御審議いただいているところであります。
また、希望するすべての幼児が幼稚園に就園できるよう、幼稚園教育の整備充実に努め、心身に障害を持つ児童生徒に対する特殊教育の一層の振興充実を図るとともに、児童生徒の健康の保持増進と体力の向上を図るため、学校体育、学校保健、学校安全の充実、豊かで魅力ある学校給食の推進に努めてまいります。
公立学校の施設の整備については、児童生徒急増地域の小中学校校舎新増築費に対する国庫負担割合の特例措置を延長するほか、大規模改修費及び中高等学校セミナーハウス整備費に対し新たに補助を行う等、学校施設の整備を促進するための施策を講じてまいります。
次に、青少年の非行や校内暴力等の問題についてでありますが、こうした問題がなかなか後を絶たず、依然として大きな社会問題の一つともなっているということは、誠に憂慮にたえないところであります。非行や校内暴力の背景には、物質的な豊かさの中で心の大切さが見失われがちな社会の風潮、家庭におけるしつけ、学校における教育指導のあり方等、さまざまな要因が考えられますが、この問題に対しては、単に非行の防止等に終始することなく、長期的視野に立って青少年の健全育成の実を挙げるための総合的な対策をとることが肝要であり、そのためには、学校、家庭、社会がそれぞれの教育的役割りを十分に発揮しながら、その連携を強め、一体となって積極的に青少年の人格形成を図っていくことが大切であると考えます。
文部省といたしましては、来るべき二十一世紀のわが国を担う健全な青少年の育成が国民的課題であるとの観点に立ち、昭和五十七年度から、全省を挙げて青少年の豊かな心を育てる施策を総合的に推進し、この問題の解決に力を尽くしてまいったところでありますが、今後ともこれを一層推進すると同時に、学校教育においては、学校の指導体制の充実、教育相談活動の充実などにも積極的に取り組んでまいる所存であります。
第二は、高等教育の整備充実についてであります。
高等教育につきましては、社会や国民の多様な要請に適切にこたえるため、それぞれの高等教育機関の特色ある発展を図るとともに、高等教育を国民により一層開かれたものとしていくことが重要な課題であります。
昭和五十八年度においては、国立大学について高岡短期大学を創設し、三重大学に人文学部を設置する等の整備充実に力を注ぐとともに、公私立大学について、引き続き所要の助成を図ることといたしております。
さらに、近年急速に高まりつつある生涯教育への要求にこたえ、放送を効果的に利用した新しい教育システムの設立を目指して、本年四月に放送大学を設置し、昭和六十年四月の学生受け入れに向けての準備を推進してまいる所存であります。
大学入試については、入学者選抜方法の改善工夫にさらに努めるよう各大学の留意を促し、学歴偏重の社会的風潮の是正や国公私立の各大学の整備充実等の施策とも相まって改善の実を挙げてまいりたいと存じます。共通第一次学力試験を取り入れた新しい入学者選抜方法については、これまでの実施の経験をもとに、さらに適正な運営を期してまいる所存であります。
また、育英奨学事業については、引き続き充実を図るとともに、そのあり方について調査研究をさらに進めることといたしております。
なお、わが国の将来についての長期的な展望に立った高等教育の計画的整備のあり方につきましては、昭和五十八年度においても引き続き大学設置審議会に御審議いただくことといたしております。
第三は、私学の振興についてであります。
私立学校は、大学から幼稚園に至るまでそれぞれの学校段階において建学の精神に基づいた特色ある教育を行うことにより、わが国の学校教育の普及と発展に多大の貢献をいたしてきております。今日、私学に寄せられる国民の期待はますます大きくなってきており、私学においてもその社会的責任を自覚して国民の信頼にこたえていく必要があります。私立学校がその使命を達成できるよう引き続き私学助成の推進を図り、特に、わが国の高等教育において約八割を占める私立大学の質的向上に配慮する等、私立学校の教育研究条件の維持向上等に努めてまいりたいと考えております。
また、専修学校についても、その特色を生かした適切な振興方策について配慮してまいりたいと存じます。
第四は、学術研究の振興についてであります。
大学を中心とする学術研究の発展は、わが国の学問的基盤の確保と水準の維持向上を図る上で重要欠くべからざるものであり、したがってその振興を図ることは、国家社会のあらゆる分野の発展の基盤を形成するものとしてきわめて重要な課題であります。特に、近年社会的に重要な課題となっている資源エネルギー問題等の解決のためにも、独創的、先駆的な学術研究の一層の振興が強く要請されているところであります。
このような大学における学術研究の推進の重要性を踏まえ、科学研究費の充実等、研究基盤の整備に努めるとともに、エネルギー関連科学、加速器科学、宇宙科学、生命科学等の重要基礎研究の推進を図り、あわせて国内外における学術交流及び学術協力体制の整備を進める等、学術研究の一層の振興のために努力してまいる所存であります。
第五は、社会教育及び体育、スポーツの振興についてであります。
科学技術の進歩や情報化社会の進展、核家族化の進行、人口構成の高齢化、自由時間の増大といった社会的諸条件の激変に対応し、国民は、今日、生涯を通じて新しい知識、技術を身につけるとともに、生きがいのある健康で心豊かな生活を送ることを求めております。この国民的要請にこたえるためには、生涯教育の観点から、学校、家庭、地域社会を通じて国民の生涯の各時期に応じた各種の教育機会を充実していくことが必要であります。このため、まず、社会教育においては、国公立社会教育施設の整備充実、社会教育指導者の養成確保、地方公共団体等の行う社会教育事業の奨励普及等に努めてまいるとともに、青少年に対する教育に意を用いて、青少年の社会参加、団体活動の促進、青少年教育施設の整備、家庭教育の充実等の諸施策を進めてまいる所存であります。また、体育、スポーツについては、近年、青少年を初めとする国民各層において健康の増進や体力の向上等への願いが著しく高まっていることにかんがみ、生涯スポーツ振興の観点から、体育、スポーツ施設の整備、スポーツ指導者の養成確保、生涯スポーツ推進事業の拡充等の施策を一層進めることにより、たくましい青少年の育成と国民スポーツの振興に努めてまいりたいと考えております。さらには、国際競技力の向上やスポーツの国際交流の推進のための施策の充実にも力を入れてまいる所存であります。
第六は、文化の振興についてであります。
古来わが国は、進んで諸外国の文化を摂取する一方、固有の文化との調和を図りながら独自のすぐれた文化を築いてまいりました。私は、このような民族の歴史的蓄積である伝統文化の継承と新たな文化の創造は、私どもの重要な責務であると考えております。特に、近年、国民の間には心の豊かさを求めて、文化的、芸術的活動に参加し、高度な芸術を鑑賞しようとする機運が高まっております。
このような状況に適切に対処するため、昭和五十八年度においては、国立能楽堂、国立文楽劇場を開場することとしているほか、第二国立劇場の設立準備、すぐれた芸術文化活動の奨励援助を引き続き行うとともに、文化財の保存整備の推進についても諸般の施策を講ずることとしております。
最後に、教育、学術、文化の国際交流及び国際協力の推進についてであります。
教育、学術、文化の国際交流及び国際協力の促進は、わが国の教育、学術、文化の発展向上に寄与することはもとより、わが国が国際社会の一員として人類の福祉と繁栄に積極的に貢献し、諸国民との相互理解を深め、真の友好関係を築いていくためにもきわめて重要であります。
このような観点から、留学生の受け入れの拡充等、留学生事業の充実に引き続き努めるとともに、諸外国との学術交流及び学術協力、ユネスコを通じての協力等、関連する諸施策の充実を図ってまいる所存であります。また、海外子女教育の振興と帰国子女の受け入れ体制の整備にも格段の努力を払う考えであります。
以上、文教行政の当面する諸問題について所信の一端を申し述べました。文教委員各位の一層の御指導、御協力をお願い申し上げる次第であります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/6
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007・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) 次に、昭和五十八年度文部省関係予算について説明を聴取いたします。大塚文部政務次官。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/7
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008・大塚雄司
○政府委員(大塚雄司君) 昭和五十八年度文部省所管予算につきまして、その概要を御説明申し上げます。
昭和五十八年度の文部省所管予算につきましては、財政再建という厳しい財政状況のもと、臨時行政調査会の答申の趣旨をも踏まえつつ編成いたしたところでありますが、文教は国政の基本であるとの認識に立ち、教育、学術、文化の諸施策について予算の確保に努めたところであります。
文部省所管の一般会計予算額は四兆五千三百三十七億五千三百万円、国立学校特別会計予算額は一兆五千百五十九億一千二百万円でありまして、その純計額は五兆三百二十三億六千六百万円となっております。
この純計額を昭和五十七年度の当初予算額と比較いたしますと、百三億二千二百万円の増額となり、その増加率は〇・二%となっております。また、文部省所管の一般会計予算額は一・一%の減少、国立学校特別会計予算額は二・八%の増加となっております。
以下、昭和五十八年度予算における主要な事項について御説明申し上げます。
第一は、初等中等教育の充実に関する経費であります。
まず、義務教育語学校の学級編制及び教職員定数につきましては、昭和五十五年度から第五次改善計画が発足したところでありますが、昭和五十八年度におきましては、昭和五十七年度に行った五百人の定数縮減措置の復元を図るとともに、教職員定数の改善増につきましては、いわゆる行革関連特例法の趣旨を踏まえて、改善計画の第四年次分として九百三十人の増員を行うことといたしております。
また、教職員の資質の向上を図るため、新規採用教員等研修、免許外教科担任教員研修、教員の海外派遣、教育研究グループ補助、教育研究団体への助成など、各種研修を引き続き実施することといたしております。
次に、小学校及び中学校における新教育課程の実施状況について、昭和五十六年度を初年度として四カ年にわたり総合的に調査研究を行い、将来の教育課程や学習指導方法の改善に資することといたしておりますが、昭和五十八年度は第三年次として引き続き調査研究を進めることといたしております。
生徒指導の充実強化につきましては、新たに教育相談活動推進事業を実施し、児童生徒の教育に関しさまざまな悩みを持つ学校の教員や父母の相談に応じ適切な助言を行うこととしたほか、引き続き生徒指導推進体制の強化を図るための中学校生徒指導推進会議等の開催、生徒指導担当教員の研修、生徒指導推進校の指定等を実施するとともに、人間性豊かな児童生徒の育成に資するため、勤労生産学習研究推進校の事業を行うことといたしております。
義務教育教科書の無償給与につきましては、引き続きこれを推進することとし、定価の改定など所要の経費を計上いたしております。
幼児教育につきましては、特に私立幼稚園園児の保護者の経済的な負担の軽減を図るため、幼稚園就園奨励費補助について、保育料等の減免限度額を引き上げることとしたほか、引き続き幼稚園施設の整備を図ることといたしております。
特殊教育につきましては、重度・重複障害児のための介助職員の増員を図るとともに、心身障害児の適正就学の推進等を行うことといたしております。
学校給食につきましては、豊かで魅力ある学校給食を目指して、学校給食施設設備の整備を図ることといたしております。
また、児童生徒等の健康の保持増進に係る事業の推進に努めるとともに、日本学校健康会の業務についても充実を図ることといたしております。
次に、公立学校施設の整備につきましては、校舎等建物の新増改築事業について、必要な事業量の確保と補助単価の引き上げを図るとともに、児童生徒急増地域における小中学校校舎の新増築に対する国庫負担割合の特例措置の延長、危険建物改築補助基準の千点引き上げ措置の継続、非木造建物の耐力度測定方法の定式化を行うほか、新たに大規模改修費に対する補助及び中高等学校セミナーハウス整備費に対する補助を創設することとし、これらに要する経費として、四千四百八十億円を計上いたしております。
以上のほか、要保護・準要保護児童生徒援助の充実、地域改善対策としての教育の振興、定時制及び通信教育の振興、理科教育及び産業教育の充実、英語教育の振興など、各般の施策につきまし
ても所要の経費を計上いたしております。
第二は、高等教育の整備充実に関する経費であります。
まず、放送大学につきましては、一昨年七月、その設置主体となる放送大学学園を設立いたしたところでありますが、昭和五十八年度は、四月に大学を設置するほか、昭和五十九年十二月放送局開局、昭和六十年四月の学生受け入れに向けて諸準備を進め、広く国公私立大学との連携協力のもとに、放送を効果的に活用した大学教育の実施を推進することといたしております。
次に、国立大学の整備につきましては、高岡短期大学を富山県高岡市に創設するとともに、三重大学に人文学部を設置することといたしております。
また、地方における国立大学を中心に教育研究上緊急なものについて学科等の整備充実を図ることとし、大学学部及び短期大学の学生入学定員を三百九十人増員することといたしております。
大学院につきましては、奈良教育大学及び福岡教育大学に新たに大学院を設置するほか、研究科、専攻の新設等により、三百五十三人の入学定員増を行うことといたしております。
また、附属病院につきましては、新たに福井医科大学、山梨医科大学及び香川医科大学の医学部に病院を創設するほか、既設の附属病院についても救急部の新設など、その充実を図ることといたしております。
なお、国立大学の入学料、検定料につきましては、諸般の情勢を総合的に勘案し、昭和五十八年度にこれを改定することといたしております。
次に、公立大学につきましては、医科大学、看護大学等の経常費補助等について、引き続き所要の助成を図ることといたしております。
さらに、育英奨学事業につきましては、日本育英会の学資貸与について、政府貸付金八百六十八億円と返還金とを合わせて千百十八億円の学資貸与事業を行うことといたしております。
第三は、学術の振興に関する経費であります。
まず、科学研究費補助金につきましては、独創的先駆的な研究を推進し、わが国の学術研究を格段に発展させるため引き続き拡充を図ることとし、昭和五十七年度に対して十五億円増の三百九十五億円を計上いたしております。
次に、重要基礎研究につきましては、エネルギー関連科学を初め加速器科学、生命科学等の研究を引き続き推進することといたしております。なお、新観測船「しらせ」の就航に伴い、南極地域観測事業の充実について配慮することとし、これら重要基礎研究に要する経費として四百九十六億円を計上いたしております。
なお、学術情報等の学術研究基盤の整備及び国の内外を通ずる学術交流、協力につきましても各般の施策を進めることといたしております。
第四は、私学助成に関する経費であります。
まず、私立の大学等に対する経常費補助につきましては、臨時行政調査会の第三次答申もあり、二千七百七十億円を計上いたしておりますが、新たに私立大学等の研究装置等整備の補助として二十五億円を計上いたしております。
また、私立の高等学校から幼稚園までの経常費助成を行う都道府県に対する補助につきましては、基本的には昭和五十七年度と同額を確保しておりますが、高校生徒急減対策分については、生徒数の変動に伴う調整を行い、七百九十五億五千万円を計上いたしております。
日本私学振興財団の貸付事業につきましては、政府出資金十億円を計上するとともに、財政投融資資金からの借入金四百六十六億円を計上し、自己調達資金と合わせて昭和五十七年度と同額の八百五億円の貸付額を予定いたしております。
また、専修学校につきましては、教員の研修事業等に対する補助、生徒に対する奨学金の貸与、国費外国人留学生の受け入れ等の事業を引き続き行うほか、新たに大型の教育装置の補助を行うこととし、専修学校教育の一層の振興を図ることといたしております。
第五は、社会教育の振興に関する経費であります。
まず、地域における社会教育活動の拠点となる公立社会教育施設につきましては、引き続きその整備を促進することとし、これらの施策に要する経費として百五十四億円を計上いたしております。
また、社会教育活動の振興を図るため、社会教育主事、社会教育指導員等の社会教育指導者層の充実に努めるとともに、青少年、成人、婦人、高齢者など各層に対して、学習機会を提供し、地域連帯意識を醸成するための地域活動を促進するなど、社会教育の幅広い展開を図ることとして所要の経費を計上いたしております。
さらに、青少年の健全育成に資するため、新たに青少年社会参加促進事業を実施するほか、計画的な設置を進めております国立少年自然の家につきまして、富山県立山町に第八番目の少年自然の家を設置することとし、所要の経費を計上いたしております。
第六は、体育、スポーツの振興に関する経費であります。
国民の体力づくりとスポーツの普及振興につきましては、広く体育、スポーツ施設の整備を進めるため、社会体育施設、学校体育施設について、その整備に要する経費として二百十四億円を計上いたしております。
また、学校体育につきましては、学校体育実技指導者の資質向上に努め、格技指導推進校の拡充を図るほか、学校体育大会の補助についても引き続き所要の経費を計上いたしております。
さらに、生涯スポーツ推進事業について一層の拡充を図るなど家庭、学校、地域における体力づくり事業の充実を図り、たくましい青少年の育成と明るく活力ある地域社会の形成に資することといたしております。
以上のほか、日本体育協会の行う選手強化事業や国際交流事業等に対して引き続き補助を行うとともに、国民体育大会の助成など各般の施策につきましても所要の経費を計上いたしております。
第七は、芸術文化の振興と文化財保護の充実に関する経費であります。
まず、地域社会における文化の振興につきましては、こども芸術劇場、青少年芸術劇場、移動芸術祭など各般の施策について、引き続き所要の経費を計上してその促進を図ることといたしております。
また、芸術文化創造の援助等につきましては、芸術関係団体の創作活動に対する補助、芸術家研修、芸術祭について引き続き所要の経費を計上するとともに、中国引湯者に対する日本語教材を作成するための経費を計上いたしております。
次に、文化財保護につきましては、国民の貴重な文化遺産の保存、活用を図るため、国宝、重要文化財等の保存整備、埋蔵文化財の発掘調査、史跡の整備、公有化を進め、また、天然記念物の保護及び食害対策を充実するとともに、伝統芸能等の保存伝承を図ることといたしております。特に、能楽及び文楽の公開、伝承のため、国立能楽堂及び国立文楽劇場の施設を完成し、それぞれ昭和五十八年九月及び昭和五十九年三月に開場することといたしております。
また、文化施設の整備につきましては、地域社会における文化振興の拠点となる文化会館、歴史民俗資料館等の地方文化施設の整備を引き続き行うとともに、国立文化施設については、第二国立劇場の環境整備に要する経費を計上するなど、その設立準備を推進することといたしております。
第八は、教育、学術、文化の国際交流、協力の推進に関する経費であります。
まず、主として発展途上国への協力を促進するため、国費留学生の新規受け入れを引き続き拡充するとともに、外国政府がわが国に派遣する留学生のための予備教育への協力を積極的に進めるなど、留学生に関する事業を積極的に推進することといたしております。さらに、ユネスコを通じた教育協力等についてもその充実を図ることといたしております。
また、海外子女教育につきましては、日本人学校の増設等にも対応し派遣教員の増員等を行うと
ともに、新たに帰国子女教育受け入れ推進地域の指定を行うなど、帰国子女受け入れ体制の整備を図ることといたしております。
次に、学術の国際交流、協力を推進するため、二国間、多国間にわたる各種の国際共同研究を引き続き推進するとともに、拠点大学方式による発展途上国との学術交流事業、先進諸国等との研究者交流事業など日本学術振興会が行う学術交流事業の充実を図ることといたしております。
以上、昭和五十八年度の文部省所管の予算につきまして、その概要を御説明申し上げた次第であります。何とぞよろしく御審議くださいますようお願い申し上げます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/8
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009・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) 以上で文部大臣の所信及び昭和五十八年度文部省関係予算の説明の聴取を終わります。
なお、本件に対する質疑は後日に譲ることといたします。
─────────────発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/9
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010・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) 教育、文化及び学術に関する調査のうち、少年非行・校内暴力問題に関する件を議題といたします。
本日は、お手元の名簿にございます六人の参考人の御出席を願っております。
この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
皆様には御多忙中のところ御出席をいただき、まことにありがとうございます。本日は、少年非行・校内暴力問題について忌憚のない御意見をお述べ願いたいと存じます。
つきましては、議事の進行上、名簿の順でお一人二十分程度御意見をお述べいただき、参考人の方々の御意見の陳述が全部終了した後、委員の質疑にお答え願いたいと存じます。
それでは、まず沖原参考人からお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/10
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011・沖原豊
○参考人(沖原豊君) 私は、諸外国の校内暴力の実態を踏まえまして日本の問題について御意見を述べてみたいと思います。
私の研究室で、世界の八十七カ国の校内暴力の実態あるいは対策等について研究いたしました。それを四つの類型に分けましたが、その分類の基準は、校内暴力の三つの要素である対教師暴力、それから器物破壊暴力、生徒間暴力、この三つを基準にいたしました。
その三つが顕著にあらわれている国を一応重症国と名づけまして、アメリカ、イギリス。日本もその中に入ると思います。次の中症国というのは、そのうち対教師暴力が比較的少ない、あとの二つは顕著にあるというので、フランスとかあるいは西ドイツ、イタリア、カナダといったような国々であります。第三番目の軽症国、これは第三番目の生徒間暴力が顕著に認められるけれども、あとの二つは余りないというので、隣国の韓国とかあるいはインドネシア、あるいはメキシコ等がこれに入ります。最後の無症国と名づけましたのは、校内暴力の症状が余りないというので無症という意味でありますが、これは全くないというわけじゃありませんで、あることはあるけれどもきわめて軽微、少ないというので、大体ソ連、中国を中心とする世界の社会主義国、あるいはスペイン、ポルトガル等のカトリックの影響が社会的にも強い国、あるいはアルゼンチン、チリ、トルコ等の軍事政権下にある国といったようなところがこれに入ります。
以上の四つの分類からわかりますように、今日の世界の校内暴力は、先進自由主義国を中心として起こっておるということが言えます。別のデータから申し上げますと、OECD加盟国の八五%がわれわれの基準から言えば重症国または中症国に入るということから見ましても、世界の先進自由主義国において起こっておる。
では、なぜそうであるかということになりますと、いろいろな原因が考えられますが、やはり自由というものの大切さはもちろん認めなければいけないし、これは自由が維持されていかなければいけないのでありますけれども、余りにも自由を謳歌する余りに家庭とか学校におけるしつけあるいは規律、そういうものの重要性がとかく忘れがちになる。つまり自由と規律のバランスの崩れているところに起こっておるということが言えます。
そういう社会は、一方ではパーミッシブソサエティー、許容社会ですね。非常に許容的な社会であるとも言われておりますが、そういうところで行われている教育は、家庭教育、学校教育を含めまして四つの特色があると思うのでありますが、一つは、何事によらず強制したり制限したりしない教育である。強制してはいけないとかあるいは制限を加えてはならないといったような教育。第二番目が、大目に見る教育。子供の問題行動を非常に大目に見る。三番目が、しからない教育。戦後、しからない教育ということが非常に言われてきたわけでありますが、しからない。四番目が、罰しない教育。処罰をしない。
そういう特色があるかと思うのでありますが、そういう社会においてこういうことが起こってきていると私は考えるわけであります。
なお、私たちの調査では八十七カ国からの回答を得ましたけれども、同時にアンケート調査も回答していただきましたが、そのアンケート調査で、どういうことが原因であるか、あるいは対策ということも尋ねました。それで、それに対する有効回答は六十三カ国であります。中には適当でない回答の仕方もあったりしまして、そういうものを除きまして有効回答六十三カ国の中についてまとめますと、校内暴力の原因として第一に取り上げられてきていますのが家庭のしつけの喪失。これは世界的に家庭の崩壊、家庭基盤の崩壊現象がありまして、いわゆる家庭のしつけというのは世界的に失われつつある。第二番目に、学校の規律が欠如しておる。そして三番目に、マスコミの過度の暴力描写。それから四番目が、地域社会の連帯感の欠如。地域社会が昔のようないわゆるコミュニティーでなくて、非常に移動も最近は激しいし、連帯感が欠如しておる。五番目が、生徒自身が持っている攻撃的な性格ですね。これは、日本では生徒が悪いんだとか生徒にこういう問題があるんだということは余り言われないんですけれども、しかし、世界的に言えば生徒にも問題がある。特に生徒が持つ暴行を加えるといったような攻撃的な性格というもの、あるいは非常に自己顕示欲が強いとか、そういったような面も指摘されております。
こういうような原因に基づきまして、対策としてどういう対策が取り上げられているかと申しますと、六十三カ国で申し上げますと、第一は、家庭との連携を深める。これは当然のことであり、日本でも強調されているところでありますが、第二番目に、学校規律を重視する。学校の規律を回復するということが第二番目に挙がってきております。この場合は、ただ学校の規律をしっかりやれというだけじゃなくて、その規律を守らない者あるいは規律に違反する者に対しては、停学あるいは退学、あるいは警察との連携、あるいは学校保安員の配置、これはまあアメリカなどではもちろんそういうことをやっているわけでありますが、そういうもの、そういう対策を含んだ学校規律の重視、維持ということであります。
その具体的な例を国別に申し上げますと、アメリカでは、御承知のように世界で最も激しい校内暴力であり、日本と同じように重症国とはいえ、その度合いにおいては日本より数等激しいものがあるわけでありますが、そのアメリカで、連邦議会からアメリカの国立教育研究所に対しまして、校内暴力を克服する方途について研究し、報告書を出すようにという要請に基づきまして、一九七八年に「安全な学校の研究」——学校を安全な状態にするにはどうしたらいいかという意味でありますが、「安全な学校の研究」という報告書が出されました。
その中で、八つの対策が有効な対策として挙げられておりますので、一応読んでみますが、これは最も有効とされた第一番目が、規律及び監督の強化ということであります。学校の規律及び監督を強化するというのが最も有効な手段として挙げ
られております。二番目が保安職員、ガードマン等の保安職員の配置。そして三番目が父母、地域社会との連携。四番目が校風の改善。すなわち自分の学校に対する誇り、あるいは教師、生徒とも一体感を持って学校をよくしていこうという校風の改善。五番目が保安施設の整備。たとえば防犯ベルとかテレビカメラの備えつけとか、あるいは施錠、あらゆるところに錠前をつけていくということであります。六番目が教員の研修。生徒指導等に関する研修を深める。七番目が、教育課程及びカウンセリングを充実するということであります。日本ではこの七番目あたりが非常に強調されているんでありますけれども、非常に校内暴力の激しいアメリカでは第七番目になっています。そして八番目が校舎の改善。よい環境をつくることが望ましいということであります。
これでもわかりますように、八つの対策のトップに規律及び監督の強化というのが挙げてあります。
なお、アメリカでは一九七〇年からギャラップ教育世論調査と言われているものが行われておりまして、毎年一回、アメリカの公立学校に対してアメリカの国民はどのように考えているかという調査が行われておりますが、これはもう十年以上にわたりまして、規律の欠如、アメリカの学校の規律の欠如ということがもう最大の問題であるということを、アメリカの国民が十年以上にわたって指摘し続け、規律の回復を求め続けてきたわけであります。そういう背景もあって、先ほどの国立教育研究所の八つの対策のトップに規律が取り上げられたというわけであります。
なお、その場合の規律というものの内容は何かということでありますが、これも昨年のギャラップ教育世論調査でアメリカ国民が答えたものとして、主なものとして内容は三つありますが、一つは、学校の規則を守るということ、決まりを守るということ。そして二番目は、教師が権威を持って監督をする。この権威ということの考え方はいろいろありますのでまた議論の分かれるところかもしれませんが、いずれにしろ真の意味の、教師が本来備えているべき権威を持って監督をする。そして三番目が、教師への尊敬というものがなくちゃならない。つまり、具体的に言えば、教師が権威を持ち、生徒から尊敬され、そういうような中で規則、決まりが守られていくということが、アメリカの国民がギャラップ教育世論調査で答えた規律の内容であるわけであります。
なお、イギリスでは、主として中等学校教員によって構成されております男子教員組合あるいは女子教員組合が、非常に校内暴力が激しいものでありますので組合員に対するいろんな指針、ガイドラインをたくさん出しておりますが、そのいずれにも強調されていますのは、やはり教室の規律の維持、あるいは学校全体の規律が保たれなければ学校教育の本来の目的の達成ができない。つまり、学校教育の目的を達成するに必要な最小限の規律が維持されないと、毎日授業をやっているかのごときでありますけれども、大多数は教室の中から授業が妨害されている。あるいは日本の中学校でもいろいろありますが、常時一割の生徒が授業時間中でも教室の外でぷらぷらしておるというような学校はそう珍しくないと私は思うんですけれども、そういう状況では学校の本来の目的というものが達成できない。そういう意味で最小限の規律はぜひ維持されなければいけないということが、イギリスの中等学校の教師によって構成されている教員組合の主張であり、組合員に対する指針であるわけであります。
ソ連におきましても、御承知と思いますがソ連の育児の基本方針の第一に、自覚的な規律、日本で言えば自律心ですね、自分でみずからを律するという自律心の養成ということがトップに挙げられており、そして自覚的な規律を養成するということが社会主義教育の一つの大きな役割になっているわけであります。
なお中国におきましても、中学生守則の第七番目に、学校の規律を守り、公共の秩序を遵守し、国家の法令を守るということが国の定めた生徒守則の中にあります。
こういうふうに見てまいりますと、社会体制のいかんを問わず、今日、やはり学校の規律の回復維持ということが非常に重視されてきているということがわかるのではないかと思います。
それから、校内暴力対策の第三番目、六十三カ国が答えました第三番目はカウンセリングの充実です、カウンセリング。これは日本でも、戦後非常に子供の悩み事、あるいは子供の心情その他をよく理解してやる、あるいは相談に乗ってやる、そういう意味のカウンセリングというものは重視され、現在でも重視されているわけでありますが、これもまた非常に大切なものであります。けれども、日本の場合はえてしてカウンセリングの方に重点を置いて、規律ということについては現在それほど強調されていない。あるいは場合によっては拒否反応が示されるというところが違うのではないかと思うわけであります。
そして第四番目に取り上げられているのは、反暴力教育であります。暴力は絶対許さないという、暴力に反対する教育というものが、たとえば西ドイツのニーダーザクセン州では一昨年の九月から、五年生から十年生にかけて社会科の一部として反暴力教育というものが展開されております。これがその教科書の一つでございますが、要するに学校の中で暴力がまかり通っているということに対して、絶対これは許さないという、暴力に反対する教育をやはり学校教育の中で展開しなきゃいけないんじゃないかということでこれが挙げられております。
そして五番目が、授業の改善。授業を、わかる授業をやればいいんだということ。これは日本では非常に強調されておりまして、わかる授業をやれば校内暴力はなくなる、落ちこぼれもなくなってよくなるんだというような考え方もあるようでありますけれども、しかし世界的に見ますと、幾ら授業を改善してもそんなことで校内暴力が改善されるものではないというので、決して無視はされておりませんが、五つの対策の中の一番最後の順位になっているわけであります。
以上のことを総括的に申し上げますと、いまの五つの対策の中で、いまは六十三カ国を全部込みに申し上げましたが、これを先ほどの重症国、中症国、軽症国、無症国の四つの類型に分けて、どれが一番重視されているかということを見ますと、軽症国ほど、まだ校内暴力がさして問題になっていない国ほど対策のトップにカウンセリングが取り上げられているわけです、カウンセリングが。そして中症国になるとだんだんカウンセリングの度合いが下がり、重症国になるとカウンセリングというのは一番最後で、余り効果はないということになっています。逆に重症国の場合は、学校規律の維持ということが対策のトップに挙がっております。そして中症国になりますとそれが二番目、軽症国になるとさらにその順位が下がるというふうになっておりまして、これは常識的に考えても当然のことでありますが、つまり非常に校内暴力の激しい場合の対策はやっぱりどうしても規律を重視していかなきゃいけない、それほどではないときにはカウンセリング等も有効であるということでありまして、わが国でも校内暴力対策をとるに当たっては、一律に考えるのではなくて、その学校の状況に応じて、ある学校は厳しい規律重視、そうでない学校はカウンセリングでいくということもいいであろうという柔軟な対応が望まれるのではないかと思います。
一応時間が参りましたので、このあたりで終わりたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/11
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012・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) ありがとうございました。
─────────────発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/12
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013・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) この際、委員の異動について御報告いたします。
本日、秦野章君が委員を辞任され、その補欠として林寛子君が選任されました。
─────────────発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/13
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014・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) 次に、鈴木参考人にお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/14
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015・鈴木誠太郎
○参考人(鈴木誠太郎君) 御紹介いただきました若林中学校鈴木でございます。
いただきました時間が二十分でございますが、最初に、最近の問題行動に対してどういう考えかということ、次に、問題行動に対して校長会や校長はどういう対応をしているか、三番目に、今後の課題としてどんなものがあるか、あわせて行政その他に御要望を若干申し上げたいと思います。
横浜の事件を知りまして、人間が持っている何かそら恐ろしい部分を目の前に突きつけられた感じがいたしました。また、町田の事件につきましては、同じ校長として胸が締めつけられる思いでございます。自分の学校をとりましてみても、あの先生がうちではどうなんだろうということを自問自答いたしました。そういう危惧を抱かない校長さんもおられると思いますが、かなりの校長さんがそういう思いをされたと思います。
いわゆる問題行動について、私は、個人が生活環境に不適応の状態から脱出する行動であると考えております。特に中学生においては、学校や家庭の中で欲求不満あるいは疎外感、劣等感、罪悪感など、いわゆる情緒障害による不適応が多いわけでございます。しかし、たとえその情緒障害があったとしても必ずしも問題行動を起こしてはおりません。人生に対する自立的な意欲や態度が形成されていたり、知的探求心が強く、広く物事を判断できたり、また、クラブ活動に熱中したり、あるいは友人に支えられたりしているならば問題行動を起こさないのでございます。ところが、実際は学校やあるいは家庭において適応する力を持たず、情緒障害を乗り越える力を持たず、そういう生徒が大変に多く、反社会的あるいは非社会的問題行動を続発させているのが現状であり、それは最近の警察庁の統計あるいは私どもが統計をとっておりましても続発していることを如実に示しております。私たちは総力を挙げてこの問題に取り組み、健全育成に心がけているわけでございますが、なかなか思うようにまいらないのが実情でございます。
特に今度の事件について、浮浪者をおもしろいからといって集団で死に至らしめるということ、また教師が生徒に嫌がらせをされ、乱暴され、だからナイフで生徒を傷つけるに至ったということ、その特に弱い者をいじめるということ、これは小学校時代からそういうことが実際にはたくさんございます。その弱い者をいじめる、死に至らしめるということは、何としても心の歯どめをかけることが第一にいま必要になっていると思います。
もう一つは、私どもが組織をしております全日本中学校長会で調査したものによりますと、一年生から二年、三年になるに従って問題行動が重度化しております。たとえば喫煙、無断外泊、脅迫等は学年を追うに従って数がふえております。ところが、万引きについては一年からだんだん減っております。また、一年生の初めから学用品以外の不用品を教室に持ち込んだりあるいは宿題を忘れたり、授業中の私語や奇声が多く、教室をうろうろ回り始める生徒が、もう一年の時点から多数いるのが実情でございます。
〔委員長退席、理事片山正英君着席〕
こういう一年の入学の時点でしっかりした基本的生活習慣を立てなければならないと私たちは考えているわけでございます。
次に二番目の問題として、それではこういう中学生の問題行動の増加状況に対して校長会や校長は何をやっているのか、いろいろ申し上げたいと思いますけれども、時間がございませんので、特色あるものだけ拾い上げて御説明を申し上げます。
第一に、全日本中学校長会では、五十五年度に、そのころ頻発した校内暴力問題についてまず何としても実態を調べようということで実態を調べ、それに対して、校長はどうあるべきかということを全国に事例をもって指針を出したわけでございます。
〔理事片山正英君退席、委員長着席〕
五十六年度は、校内暴力が発生した学校において、鎮静化した学校の事例を百十二例集めまして、そして苦労されている先生方に御提供申し上げ、本年度は、校内暴力以外の全問題傾向についてその傾向を調査し、実際に日常の生活指導をどうやったらいいのかということを現在集計し、今月中には参考として出したいと思っております。
次に、各県や各地区の校長会ではどんな取り組みをしているのか、これは東京都の場合と私が属しております世田谷区の校長会の場合を申し上げます。
東京の場合は、まず、健全育成に対するこういうやり方、こういう仕方ということについての資料を校長会でつくりまして、全教員に配付をいたしました。第二番目に、東京を五つに分けて、五つのブロックでもって校長さん全員集まって研究協議会を開き、今月八日には、小学校、中学校、高等学校、身障の校長さん方三百五十名を中学校が集めまして、アンケート調査をもとにシンポジウムを開く予定でございます。
また世田谷区では、五十六年度に特別委員会をつくりまして四つのブロックに分け、一つのブロックが八校でございますが、その中に小学校を加え、いろいろやりましたんですけれども、一番私たちが願ったのは、もし緊急の事態が起こった場合には、その八つの学校が相寄り相助け合って情報を交換し、その手助けをしようというので、これはかなり効力を上げていると考えております。
次に、ある学校の一つの事例を通して、校長がどう対応したかということを御説明申し上げたいと思います。
これは学級数二十八、生徒数千二百のかなり大規模な学校でございますが、小学校のときもうすでに生徒がスプレーで落書きをし、卒業式のときには卒業生を五年生が殴るというような事件を起こした、そういう生徒が中学一年として入ってきたわけでございます。そして二年生、三年生となり手をつけられないような状態に立ち至りました。最初は十人ぐらいの番長クラスの生徒だったわけですが、だんだん数をふやして三十、四十、五十となり、服装はがくらん、カラーシャツ、エナメル靴、頭はパーマに脱色、ニグロ、廊下を肩で風を切って歩き、喫煙、落書き、立ち食い、器物破損、ありとあらゆることをやり、よそのクラスに行き、騒ぎ、エスケープをする。朝礼で大声で騒ぐ、先生がしかる。そうするとにらめっこが始まります。あるいはリンチ、他校との集団暴力、そして対教師暴力、そういうふうにエスカレートしていきました。
この時点で現在の校長が着任をしたわけでございます。そして校長さんが見たときに、その問題の生徒を指導している先生に対して、いまにも争いが起こるような状況に対して、ほかの先生は無関心、そういう状態を見て、この校長、フレーベルが言った「教師は子供の中に生きよ」を合い言葉に、校長自身が夜の夜中担任が家庭訪問をするのに付き添って一緒に家庭訪問をし、弱い先生の後ろに立ち、弱い先生の横に立って、そして生徒指導を進めたわけでございます。そのことが全教師、特に弱い教師を立ち上がらせ一致させていきました。その次に指導体制を確立し、よく言われておりますが、指導体制を確立するという形がやっととれるわけでございます。生徒理解や指導力の向上が少しずつ進み、入学期の指導をどうすべきか、あるいは遅進児の指導をどうすべきか、生徒会活動や部活動をどういうふうにしたらいいのか、あるいは家庭訪問はどうしたらいいのかということが具体的に共通理解として挙げられ、共通実践として挙げられるようになったわけです。
見る見るうちに学校は静かになりました。まだ本当には生徒と先生との信頼感が生まれたというわけではございませんけれども、少なくとも鎮静化したという実例でございます。
以上、校内暴力に対しての対応について申し上げましたが、多くの学校でそれぞれ全力を傾注して学校経営に当たっているわけでございます。しかし、こういう状況が起こるに至った原因は多様で複雑で、しかも長い年月かかって現在に至った
ものであり、簡単に即効薬のあるものではございません。私は特にこれを申し上げたいと思うんですが、やっぱり十年かかってできたものは十年かかるというふうに考えております。その意味で、小中高あるいは父母、地域行政、あるいはマスコミも一体となってその解決に当たり、健全育成に努めなければならない事態にいまあるというふうに思います。
最後に、現在私たちが曙光を見出すべく努力しているわけでございますが、まず第一に挙げなければならないのは、先ほどの例で申し上げたように、校長が率先して、前面に立ちはだかるかどうかはともかくとして、しっかりしたリーダーシップをとらなければならぬということだと思います。具体的にはどういうふうにしたらいいのかということは個々の学校によって違います。構成員によって違うと私は思いますが、たとえば現職教育を盛んにすることによって、あるいはさまざまな形態で教師の連帯感を図ることによって、少しでも指導上のそごのないように、たとえば私の学校なんかで申し上げますというと、学校に持ってきてはいけないようなものを持ってきて、教室の中でそれを授業中に広げたときにどう指導するのか。取り上げるのかあるいはしまわせるのか、あるいは取り上げた場合でも、それを放課後返すのか、あるいはそれに対して後どう処理するのか、一人一人全部違います。一人一人先生によって違うし相手によって違うわけです。それを簡単に同一歩調ということはむずかしいわけでございます。
それから第二番目は、学校生活の内容を充実させることだと思います。いろいろございますけれども、まずやらなければならないのは、先ほど申し上げましたように生徒の情緒を安定させることだと思います。問題を起こす生徒はいずれにしても情緒障害を起こしているわけですから、何らかの形で情緒を安定させる。それにはたとえば教育相談をやるとか、あるいはクラブ活動をやるとか、いろんな形があると思いますが、まず情緒を安定させる。暴力をふるってきたときにがんじがらめにやるんじゃなくて、一人静かに話をするというような形に持っていかない限りは無理だというふうに思います。その上に立って、たとえば基本的生活習慣とかあるいは学力の向上を図るとか、あるいは体験学習を通して耐性と意欲づくりをするとか、あるいは道徳教育を盛んにすることによって自尊感情を高めていくとか、そういうことがその次に考えられるのではないかと思います。
第三番目は、特に先ほどから申し上げました地域の小学校に対して、私の学校の場合でもそうでございますが、中学一年生が小学校、入ってくる六年生にもう呼びかけているわけです。そうすると、小学校の方ではこわいなということを言っているわけですね。そういうような状況にあるわけですから、小学校、中学校というような区別ではもうどうにもならない。言うならばたとえば小学校と中学校の共通目標を立てて、そして同一歩調で歩かなければならない。
それから家庭に対しては、いろいろございますけれども、問題の生徒を指導していきますと、最後は蒸発家庭、あるいは別居家庭、あるいは離婚家庭、あるいは仲の悪い家庭、ほとんどが家庭に問題があるわけです。御両親そろってきちんとやられているときには、問題があってもほぼ何とかなりますけれども、そういう家庭ではどうにもならない。それじゃ、どうにもならない、どうしたらいいのかということで、私がいまやっているのは、グループで一人のたとえば父子家庭の子供を抱え込む、二人三人でもって一人の家庭を抱え込むという形をとっております。それから地域においては、特に昔のことを言ってなんでございますけれども、たとえば高校生や大学生がなぜ中学生に対して働きかけてくれないのか。あるいはそういう組織がないのか。みんなその高校生や大学生は自分のことしか考えていない。そういうような状況じゃなくて、町会なりあるいは部落なりの中で大学生や高校生に活躍をしていただきたいというふうに思うわけです。
時間があと三分ぐらいでございますので、最後に行政その他につきまして二、三お願いを申し上げたいと思います。
第一は、教育は人によります。何といっても先生でございます。その点から、大学の教職課程をやっぱり改めていただきたい。特にいまのような中学生の実態、つまり人間があるいは小説が本当にわかるような、そういう大学生あるいは教員であってほしいというふうに思います。それから、教員の採用に当たってもそういう考慮をしていただきたい。
それから第二番目は、現在の両親は子供を育てる方法を知らない。わかってない。そのことに対して、子育ての方法について両親が学ぶような、そういう機会を拡大していただきたい。ここにもマスコミの方がいらっしゃいますけれども、マスコミの方にお願いをするわけですが、校内暴力の報道についてはぜひ教育的配慮をお願いをいたしたい。特にその後遺症が大変に大きいということ、そういう点から考えまして、むしろ積極的に立ち直った学校、あるいはすばらしい中学生、あるいはすばらしい中学生集団を積極的に取り上げて、全国の中学生がそれこそいいなと、私もというような、そういう新聞報道をぜひしていただきたい、そんなふうに思います。
以上三点について、要望を含め申し上げました。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/15
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016・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) ありがとうございました。
次に、曽我参考人にお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/16
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017・曽我健
○参考人(曽我健君) NHK社会部の曽我でございます。
もしごらんいただけておれば大変光栄なんでございますが、私どもNHKでは、いま「教育・何が荒廃しているのか」というタイトルで、NHK特集の「日本の条件」をこれまでに三回続けて放送してまいりました。いま四回目を制作中でございます。この放送のために、十人近いスタッフが半年ほどかけまして、海外も含めましてあちこちの教育現場を取材してまいりました。いま私がそのまとめ役を務めておりますけれども、そういった教育現場を取材いたしました率直な感想を述べさせていただいて、少年非行対策の一つの参考になればというふうに思います。
この教育問題につきましての「日本の条件」を放送いたしまして、私どもも大変びっくりいたしましたのは、その反響の大きさでございました。三本のシリーズをいままで放送したんですが、もう放送している最中からどんどんNHKの方に電話がかかってまいりまして、大変真剣な意見、感想が寄せられております。特に反響が大きかったのは、「いま教師が問われている」というタイトルで放送いたしました第二部でございます。放送の時点から翌日にかけまして私どもに寄せられた電話が六百件ほどございました。手紙もこれまでに百五十通ほどいただいております。ちょうど横浜の中学生の浮浪者襲撃事件、それから町田で教師がナイフで生徒を刺した事件が起きた直後でもありまして、内容はそれぞれさまざまでして、一つの方向を示すというところまでは至ってないんですけれども、とにかく国民の皆さんが真剣にそれぞれの立場でいまの教育を憂え、心配しているという状況が大変よくわかりました。ふだん九時十時になりますと、実は一杯召し上がった方の電話などで悩まされることが多いんですが、今回に限りましてはそういう電話は一つもございませんでした。
こうした視聴者の反応からうかがいますと、いま国民の教育に対する関心はきわめて高い、しかもその教育に対する不信感といいますか、不満が非常に限界に近くなっているというような構図が浮かび上がってくるように思います。
少年非行、校内暴力はいまに始まったことではございません。御承知のように四十年代の後半から少年非行のカーブはずっと上昇を続けておりますし、警察庁が校内暴力の定義を定めましたのも、もう昭和五十三年でございます。その間、こ
れまでさまざまな分析、それから情勢報告が行われておりますけれども、私どもこの番組ですでに活字で紹介されておりますいまのすさまじいと言っていいほどの中学の実態をできればテレビで紹介したいと、ありのままのいまの中学の姿、教師の姿を紹介して教育を考えるヒントにしたいというふうに考えました。荒れております中学を百ほどリストアップをいたしまして、各学校へスタッフが出かけたり、あるいは電話で連絡をとったりいたしまして、興味本位の番組ではない、プライバシー、人権には十分気をつけますということで取材のお願いに上がったのでありますが、まあ学校側とすれば当然でしょうけれども、すべて断られました。こういった取材の過程で、いまの中学校の閉鎖性といいますか、その辺を痛感させられたことでもありました。
たとえば、校内暴力で生徒が補導されたというような情報を持ってその学校へ行きましても、校長先生はなかなかそれを認めてくださらない。あるいは一度に六人もの若い先生がやめた、暴力事件があったという情報をつかみまして、その先生方の証言までとって学校へ出かけるんですけれども、校長先生はそんなことはありません、私の学校は非常に管理がうまくいっている学校ですというようなお答えで、取材さしていただけない。
たとえば、今度の町田の事件でも、私ども町田にあります十六の中学校の校長先生一人一人にアンケートをお願いいたしまして、いまの悩みとか解決策の提言をいただこうというふうに試みたんですけれども、これも町田の中学校長会の方で取材はお断りしますという御返事で、なかなかいまの中学を公開していただけない。敏感になっているということはよくわかるのですけれども、学校、教師の側がこういう逃げの姿勢ではなかなか事態が好転しないんではなかろうかという印象を強く持ちました。
こうした中で、一校だけ私どもの取材を認めてくれた中学校がございました。もちろんいい中学校ではなくて、荒れている生徒に悩んでいる中学校でございますが、たまたまいま鈴木参考人の話に出た部分と共通しておりますけれども、ちょうど四月に新しい校長先生と教頭先生が着任されたばかりの中学校でございまして、この校長先生が、学校としては正直恥ずかしいところがあるんだけれども、いまのままでは本当にだめになってしまう、思い切ってNHKの取材をきっかけにみんなで苦しみ、悩みながら、ひょっとしたら解決の道が開けるかもしれないという決断をしてくださいまして、私どもが何日も学校へ通いまして、反対なさる先生方、それからPTAの方々との話し合い、それから生徒会にも話をさしていただいて、ようやくわかっていただきまして、四カ月間この学校にカメラを据えまして取材をいたしました。
この学校の例を紹介いたしますと、東京の郊外にあります開設七年目の中学校でございますけれども、やはり当初静かだった中学校が、おととしの春ごろから荒れ始めました。荒れるパターンはどこも似ているようでございますけれども、最初三、四人のいわゆるつっぱりという子供たちですけれども、子供たちが授業をエスケープしたり物を壊し始めたりしました。これに対して教師がどうしていいかわからない。対応におろおろしているうちにあっという間にこのつっぱりグループが広がっていってしまった。その間、先生方も職員会議などを開いていろいろ話し合ったそうですけれども、厳しく対処しようという先生方、それから話し合いで説得した方がいいという先生方、それから無関心な先生方、非常に先生方の間の連携がばらばらで、ついには自分の担任のクラスだけよければいいというような形になりまして、生徒たちはその間に堂々と授業は抜け出す、たばこは吸う、シンナー遊びはする。それから蛍光灯、トイレの仕切りを壊す、ガラスを割るというふうに問題行動がエスカレートしていったそうであります。
逆に教師の方は、登校拒否症になりかけたり逃げ回ったりしていて、私どもが聞いたある先生は、あの当時、日本にピストルがないだけいいと思ったというような激しい言葉までおっしゃるような先生もおりまして、町田の八木先生と似たような事態がいまあちこちの中学校にあるんではなかろうかという思いを深くいたしました。
先生がこうなってしまいますと、一般の生徒にも無力感が広がりまして、つっぱりの予備軍がふえてまいります。
父母の方も、学校、教師に対する不信感がつのるばかりで、しかも学校側は父母たちに余り詳しい説明をしたがらないというような状況が続いていたところへ新しい校長と教頭が着任した。
新しい校長、教頭が立て直しに入ったんですけれども、立て直し方は、まずPTAの皆様に呼びかけて授業参観をしてもらった。逃げ出す生徒の見張り役も兼ねて連日授業参観をお願いした。それから、先生たちを説得しておやじの会というのをつくりまして、子供たちの特に父親を中心に各担任が学年ごとに話し合う会をつくった。それから、最初は校長みずからつっぱりの生徒を一人一人自宅に呼びまして勉強を教える。やがてそれが教師全体に広がりまして、授業の始まる前、朝——朝学習と言っておりますけれども、それから授業が終わって夜——夜学習、つっぱりの生徒たちには夜学習が大変人気があったようでありますが、朝学習、夜学習ということで、授業におくれている子供を引き上げる。その一方で、ガラスを割ったり、はめ板を壊したりした場合には、その生徒を校長室へ呼びつけて油をしぼりまして、父母からは必ず損害賠償をさせる、こうした取り組みで努力を続けたそうであります。
しかし、一たん荒れた学校はなかなかもとには戻りません。半年くらいたちまして、私どもが取材を始めたころもまだつっぱりの子供たちが大きな顔をして授業を抜け出したり、たばこを吸ったりしていて、カメラの前でも悪びれるところがないというような状態でございましたけれども、やがて三学期になりまして、こうした努力が実ったこともありまして、つっぱりグループを抜けたいという子供が一人あらわれたのをきっかけに、次々に職員室へつっぱりグループを抜けるという申し出が相次ぎまして、いますっかり落ちつきを取り戻しております。
ケース・バイ・ケースで、こういった中学の形がどの問題校にも当てはまるかどうかは疑問でありますが、幾つかの問題校の例を取材してみますと、毅然とした校長先生のリーダーシップ、それから教師たちの連帯、暴力に厳しく対処する姿勢、それから父母と力を合わせる、それから授業をわかるように生徒たちを指導するといったような共通した校内暴力対策のノーハウがあるように思います。この辺は後でお話しくださる現場の先生方からまた詳しく報告があろうかと思いますが、目の前の火を消す短期療法としてこういったノーハウがあろうかと思います。
取材を通じてもう一つ非常に気にかかったことは、いまの子供たちの置かれている状況がもっと根が深いんではなかろうかということであります。こうした表に浮き上がってくる子供たちの方はまだいいとして、この水面下に隠れている、水の下の氷山の部分がいまおかしくなりかけているのではなかろうかという感想を持ちました。
たとえば、東京の国立小児病院の精神科の分析でありますけれども、このところ患者の低年齢化が大変進んでいるそうであります。いままで臨床医では、小学生のうつ病に近い、抑うつ状態と申しますけれども、こういった抑うつ状態などは小学生にはないはずだったのに、こういった患者がふえてきている。受験を控えた中学生の場合ですと、男子の場合は髪の毛が丸く抜ける円形脱毛症、それから女子の場合はヒステリー性の視野狭窄といったような症状が最近きわめて多くなってきている。たとえば受験の志望校のランクを一つ落としなさいというふうに助言しただけで円形脱毛症がすぐ治ってしまうというふうなケースもあって、子供たちが学校でも家庭でも常に不安状態、いらいら状態に置かれているようである。
この病院の医長の話によりますと、逆に、この
ようにいま異常を訴える子供の方がおかしな言い方ですけれども正常で、むしろこういった受験社会に何の抵抗もなく適応している子供の方が気にかかるというふうなことをおっしゃっておりました。こういった無理なく適応している少年の方が自己中心的で他人のことに関心がない、あるいは情緒欠乏の、この先生はのっぺらぼう人間というふうなことをおっしゃっておりましたけれども、こういった子供たちが育っていることの方がむしろこわいんではないかというような診断をされておりました。
それから、こういった現象は都会だけではございませんで、いま地方の農村部の方にも広がっているようであります。秋田県の本荘市というところに由利総合病院というこの付近の医療センターがあるんですけれども、この農村部では、最近子供の心身症が非常にふえているというデータがございます。十五歳以下の子供たちの心身症が、たとえば昭和五十二年は六十二人だったそうですけれども、四年たった昭和五十六年では百四十人、二倍以上にふえております。それから、従来子供には大変珍しいとされております胃潰瘍とか十二指腸潰瘍といった症状もふえているそうです。家庭崩壊とかあるいは受験戦争といった影がこうした子供たちの後ろに感じられるというようなお話でありました。
子供たちの育つ環境が、社会環境も家庭環境もまるで変わってしまって、子供たちのストレスがそろそろ限界に差しかかっているのではないか、SOS信号を出し始めているのではないかというような思いで取材を進めておりましたところへあの横浜の中学生を中心とした浮浪者襲撃事件が起こりまして、弱い者いじめの構造がここまで来たのかというような思いで冷や水を浴びせられた思いだったんですが、こうした事態はいまきわめて深刻に受け取るべきではなかろうかと思います。
私ども今度の取材で、犯罪の面でも日本の大先輩格でありますニューヨークを取材いたしました。ちょうどもう三十年近く前になりますが、「暴力教室」という映画がございましたが、あの舞台もたしかニューヨークでございました。教師を射殺したり女性教師を強姦したり、質の悪さはまだ日本を相当上回っております。特に日本と違うのは外部から学校へ入り込んで犯罪を犯す、侵入者と言っておりますけれども、そういった事件が多いのが特徴なんですが、いまニューヨークでは学校保安官と言いまして、西部劇のようなんですが、学校保安官制度をつくりまして、たとえば一つの高校に十人以上の学校保安官がいる高校もございました。その学校の中には何十カ所にテレビカメラを置きまして、それを集中的に一つの管理室で画像を見ながら生徒を、学校の動きを見張る。あるいは、学校の窓を全部ふさいでしまいまして、外部からの侵入を防ぐというような暴力対策がとられております。
そのニューヨークの学校安全局と申しますが、局長にインタビューしたんですけれども、その局長がおっしゃるには、おかげでいまニューヨークの問題校が百六十校から七十校に減っている。最近自分は東京へ行って教育関係者あるいは警察と話し合ったんだけれども、ニューヨークのこの二十年間の動きと東京の動きが共通点があるように思う、東京はニューヨークの六十年代、ちょうど「暴力教室」が封切られた前後でございますが、この時点に似てきているんではなかろうかというような指摘をしておりました。そして日本への忠告といたしまして、われわれはやむを得ずに規則ずくめで若者を押えつけようとしたんだけれども、いまの若者は規則に対する反感が強い、非常に自己中心的だし権威に反抗したがる、むしろわれわれのやり方は失敗したかもしれぬ、東京がわれわれの失敗を繰り返さないように祈るというようなお話をしていられました。映画の「暴力教室」を見た当時はまだ遠い国の話というふうに受けとめておったんですが、いま日本ではそれが現実になってきております。横浜や町田の事件を見るときに、この局長の話が予言にならないようにというふうに祈る思いがいたします。
なぜこういうようになったかという点につきましては、すでにいろいろ論じられておるとおり、高度成長の落とし物といいますか、非常にさまざまな要因——政治もありましょうし、社会もありましょうし、家庭、学校、それから子供自身、そういった要因が入りまじった複合汚染とでも言っていいような状況かと思います。
たとえば横浜の浮浪者襲撃事件ですが、あのときにつかまりました十人の少年のうち、七人は離婚家庭でございます。離婚家庭いい悪いというつもりはありませんけれども、子供の立場からいたしますればやはり両親の離婚がいいはずはございません。
それから、町田の中学校の例でございますが、この中学校は昭和二十二年に三百人の生徒で発足した中学ですが、その後の地域開発で、四十年代から五十年代にかけてこの中学が五つに分かれております。しかも、現在の生徒数は千四百四十八人で東京一のマンモス校であります。職員室が二つにも分かれておりまして、先生が生徒たち一人一人の顔と名前が一致しない、学年ごとの先生の連帯もないし、父母との連帯もない。こういった状況の中でとても先生と生徒との心の触れ合い、父母の連携は望むべくもないのではないかというふうに思います。
それと、やはり取材を通じまして感じますことは、いまの学歴社会といいますか、受験競争の影が非常に根強く子供たちの胸の奥底に影を落としているということであります。御説明するまでもないと思いますけれども、偏差値が日本国じゅう行き渡りまして、それこそ極端に言いますと、一人一人の子供が背中に偏差値の番号をつけて、テストのたびごとに自分の順位を植えつけられていって、まあ言ってしまいますと、一番の子以外は全部劣等感を持ちながら育っていく、落ちこぼれ意識を持ちながら育っていくというような状況になっております。何のために勉強するのか、教育するのかということが忘れられて、とにかく一つでもランクのいい学校へ行くためだけというような状況になっているように思います。
こうした面から考えますと、少年非行、校内暴力の当面の対策も去ることながら、もう一度この機会に教育全体のあり方を見直すべきではないか、いまその大きな曲がり角にきているのではないかというふうに思います。
以上でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/17
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018・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) ありがとうございました。
次に、塚本参考人にお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/18
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019・塚本千枝子
○参考人(塚本千枝子君) 私は、いま二十になる娘と、高校二年、それから中学二年の男の子を持つ母親です。地域では、子供会のまとめ役といたしまして小学校から中学生に至るまでの子供と常に接触をしております。また、PTAとしても、十数年P連の事務局長などもしたりいたしまして、常に小学校、中学校の連帯を心がけております。きょうは、二十分という時間でございますので、私も傍ら少年補導員もしておりますので、その具体例を二、三お話しいたしまして、参議院の先生方に考え、そして御検討いただけたら幸いと思います。よろしくお願いいたします。
私は、現在、三件の家族の相談に乗っております。そのうちの一件なんですが、中学三年の男の子なんです。やはり非行歴がありまして、学校に余り出席しなく、その家族の相談に一月の初めごろから乗っておりました。家族構成はまた長くなりますので略させていただきますが、その担任の先生も大変心配いたしまして、常に私と話し合っていたんです。つい先日、雪の降った日に都立高の入試が行われたんですけれども、その前日、あす行くかなと思いまして、その担任の先生にお会いいたしました後、その子のアパートへ寄ってみました。アパートというとおやっとお思いになるかもしれないんですが、やはりいろいろ事情がございまして、その子のおうちは大変広い大きな地主さんの息子さんで、母屋に続いてアパートがあるんです。その棟続きのアパートの一階のところに三畳と六畳の部屋がございまして、そこに一人
で住んでおります。初めは母親がそこへ食事まで持っていったんですけれども、それはいけないということで母屋の方に食べに来るようになっておりました。
その日の夕方、水曜日でしたので、職員会議の間ちょっと先生とお話をしてから、帰りにその子のうちへ寄りまして、私は多分一人でいるだろうという観念的な考えでその部屋へ「こんにちは」と言って入っていったんです。そうしましたら、中はたばこの煙がいっぱいで、ちょっと奥を見ますと、その子のベッドの上で三、四人の大きな体をした中学の子が花札をしていたんです。手前の部屋のこたつには、そのA君と一緒にたばこを何人も吸っておりました。私も一瞬ためらいまして、何しろ個室ですし、よくよく見ますとその近辺の四つの学校の番長クラスの子ばっかりがいたんです。体が私より大きいですし、一瞬入るのどうしようかなと思ったんですけれども、足は自然に中に入っていきまして、手前の入り口のこたつに足を入れ、そのA君に話しかけました。そうしましたら、いままで何となくざわついていたのが何かしんとなりまして、私とA君の話に聞き耳を立てるような感じ。ちょっと顔を見ますと、あごを上げまして、斜めに人を見下すような感じでじっと私の顔を見ているんです。
でも、私も負けまいと思いまして、その子といろいろ話をしておりましたら、突然、私の目の前に物が飛んできたんです。物が飛んできましたので、私は、普通ですと体をよけるんですけれども、どういうわけだか、とっちゃったんです。とりましたらば、ダイナマイトが三本結わかれたのが飛んできたんです。私も一瞬手に持ちまして、よく見たら精巧にできたおもちゃなんです。私もちょっとくやしくなりまして、「あんたたちも子供みたいね、こんなものを投げつけて、私がキャーとでも言うと思ったの、単純」と、わざとそういった言葉を使ったんです。そうしましたら、その子が、ベッドの上から投げた子なんですけれども、「へえ、うちのおやじはそれを投げたらびっくりして、驚いてやがっておもしろかったよ」と言うんですね。そうしましたら、それまでしんとしていた子供たちが、声を出さない笑い、にやっとしたんです。それで、私はその機を逃がさないで、「あ、その目がいいわ。さっきの目つきはいやだったわ。今度その目でおばさんと話をしようよ」と言ったんです。そうしましたらその子が、「先公や学校の連中はいつもおれをそういう目つきで見ているんだ」と言うんです、だから反抗するという。もちろんそれは彼たちの勝手な理屈だと思います。まあそう思ったんですけれども、一部は残念ながら肯定できるような感じがいたします。
それは、運動会とかそれから学校行事、そういったときに、その子たちが行きますと、先生方がその子たちを追いかけて歩いているんです。それと、父母たちもその子たちを見る目つきが、何かするんじゃないかなという目つきでいるんですね。ですから、その子たちの反発心というのが、いまの話のように弱い先生に向けられるんだと思います。そして、現実に、中学の先生ですが、子供にパンを買いに行かせられたり——学校の給食はまずいからパンを買ってこいとパンを買いに行かせられたり、暴力もふるわれているんです。それをまた、先ほどの校長先生のお話にありますとおり、傍観している先生が実に多いのが情けないなと思うんです。それでいて、テレビとか何か報道が華やかにされますと、それから初めて教師と父母が協力して、朝のあいさつ、パトロール、懇談などを始めるんです。もちろんそれはしないよりした方がいいに決まっているんですけれども、でも私は、その前に教師とそれから父母の交流が密に行われていれば絶対そんな非行は起こらないんじゃないかと確信しているんです。
先ほど、中学もあれだけれども高校とか大学に行った子供たちがあとの子を見ればいいというお話が出ましたけれども、うちの近くの青年の話をここでさせていただきたいと思います。
その青年がちょうど大学生のときなんです。校内暴力で高校を退学させられた子がいまして、その子のお兄さんとその青年とが同じ大学の友だち同士だったんです。それで、どうか勉強を見てくれ、これではほかの高校へ編入できないからということで、その青年は、ちょうど八月、九月という大学の休みのときを利用いたしましてその子と二人で共同生活を始めました。その間に、その子の非行グループというんですか、その非行グループと手を切らせました。いろいろあったんですけれども。そしてようやくそのかいがありましてほかの高校にはいれました。その子といまもって交流を続けているそうなんです。もちろん両方とも結婚したんですけれども。その青年が教えた暴力と手を切った子供、といってももう結婚したんですけれども、その人がその青年にこう言ったそうです。現在の校内暴力の件についてこう言ったそうなんです。あいつたちはグループを組んで暴れていてもみんな孤独なんだよ。おれもそうだった。だから仲間とちょっとしたきっかけで暴れてみる。それを初め周りが戒めればいいのに——初め、一番初めが肝心だと言うんです。初め周りが戒めればいいのになまはんかだから、だんだんエスカレートしてもうやむにやまれぬ心境になり、そのときには今度、やることに対してだんだん快感を覚えてくると言うんです。やっているときには家族のことなんか全然頭の中にないそうなんです。そういうことをその人が言っていたというんです。
そのように、非行に走る子の共通点は、甘ったれでさびしがり屋で自立心がなく、そして感受性がすごく鋭いんです。家族そろっていてもほとんどすべての子供が愛情に飢えているんです。先生方は、愛情に飢えているといってもそういう親なんかいないんじゃないかとお思いになるでしょうけれども、確かに愛情はあふれるほどあるんです。あふれるほどありましても一方通行の愛情で、ことに幼児から、赤ちゃんのときから現在中学生に至るまでのその子の成長に合わせた愛情ではないんです。ですからいつも子供は受け身の愛情で育っているんです。目を向ければすぐ親がそれを持ってくる。黙っていても何でも全部周りがそろえてしまう。試験勉強していても何でも、時間どおりにおやつが来るというふうにです。ですからいつも受け身の愛情で育った子供は、今度、相手に対するいたわりの心とか、そして一番大切な社会のルールがわからないんです。そのまま大人になって父親、母親になったらもう本当にどうなるのかなと思います。ことに小学生時代の、私も母親なんですけれども、小学生時代の母親のけじめある愛情が大切で、中学生になってから非行が急に始まるものではないと思います。
そこで、小さいときから自分本位でなく、人のためになる社会参加活動に子供会を通じまして親子で空き缶回収、それから町の清掃に汗を流してみました。そういうときにスキンシップができるのですね。話しながら軍手をはめて暑いさ中にいろいろやりますと、後でのどがかわいて親子で笑いながら話し会う。こんなのわからなかったけれど、こんなところに空き缶があったとかという話で、大分ふだんの親子の感情というのが濃くなったような感じがいたしました。それも何回もしてみました。そこで気をつけてしたことは、大人が全部リードしないで、あくまでも子供が自発的に、そして楽しくできるように気をつけてあげたんです。
それで、昨年ですが、うちの地域に水元の老人ホームがあります。その老人ホームにうちの子供会が慰問を行いました。そのきっかけは中町——うちの町会の名前なんですが、町会の古い木造のアパートが取り壊されまして、そこで一人で住んでいたお婆さんがその養老院に行ったんです。そのお婆さんなんですけれども、一人で住んでおりまして、老齢年金が入りますと近所の子供たちにお菓子を買ったりして仲よしが多かったんです。それなので、子供たちに声をかけまして会いに行こうよと言ってみましたら、子供たちはすぐ乗り気になるんですね。そうしまして、こちらが何も言わないうちに、贈り物をするんだと言って、自
分で手づくりの物を、いまの子には珍しいと思うのですけれども、手づくりの物をつくり始めたんです。
大人たちも、それじゃということで遅まきながら、今度は子供につられて大人の方が後になったんですけれどもバザーを計画いたしました。計画したんですけれど、いまは同じ下町でも昔のように隣と行き来というのが少なくて、一軒ずつの家でも、ちょうどアパートに住んでいるのと同じように隣同士のつき合いがないんです。それでバザーの品が集まるかどうか自体も不安で、隣の家の名前も知らないというところも多いわけですので、話しましたところ、あにはからんや、もう子供がいない御夫婦、そういった人から何から町会の全員の方がいろんな品物を持ち寄ってくれました。中にはお年寄り自身が、ちゃんととってあったんでしょう、ちょっともう茶色になったような新聞紙に丁寧に包装したものまで持ち寄りまして、使ってくださいということで持ってきていただいたんです。そこで、私たちも町会の人のこれだけ協力してくださるという気持ちを本当につくづくその日は身にしみました。
おかげで成功したんですけれども、今度は、うちの方、新小岩なんですが、そこから水元までが遠いのでどうしようかと悩みました。交通費にかけちゃうとせっかくのバザーのお金がなくなります。そこで、声をかけたら所轄の本田署の人たちが、それではといって協力してくれまして、子供たちを全部車で水元まで運んでいただいたんです。
高砂園に着きまして、子供たちにゆかたを持ってきてもらったのでゆかたに着がえさせて、会場の隅に座らせておきました。子供ですからがあがあ騒いでいたんです。時間になりましたら、お年寄りたちが百名以上、百五十名ぐらいだと思うのですけれども百名以上のお年寄りが一遍に中に入ってきたんです。それを見て子供は、何かきょとんとした顔して、びっくりした顔して見ているのです。町の中で一人二人のお年寄りに会うのはなれているんですけれども、一遍にそういったお年寄りが各自の御自分の座る座布団を抱いたり、わきに抱えたりして入ってくるのを見て黙っちゃったんですね。私も心配して、大丈夫かなと思ったんですけれども、始めてみましたら子供たちも元気にやり始めました。全部その日も子供にやらせるようにいたしまして、あいさつから歌、それからいろんな作文などを読ませました。最後に盆踊りをさせまして、それも幼稚園の高年の六歳の子と小学校一年のきょうだいが大変太鼓をたたくのが上手なので、ねじり鉢巻きではっぴを着せまして太鼓をたたきまして、ゆかたを着た子供たちを周りに踊らせました。アラレちゃん音頭というのですか、それをさせましたところ、それまで黙っていたお年寄りたちが大きな声をかけ合ってどんどん輪の中に入ってきてくれたんです。中には九十歳以上のお年寄りの方も何人も入りまして、ちょうど孫のような感じで踊り始めました。一緒に行った本田署の人たちもぎごちない手つきで踊ってくれたりいたしまして、子供たちにとって本当にその日は何か思い出深い一日になったようです。
最後に帰りますときに、子供が期せずしておじいちゃんおばあちゃんたちと握手を始めました。そのときも、おじいちゃんおばあちゃん、また来年来るから長生きしてね。で、おばあちゃんやおじいちゃんの方も、あいよ、あんたたちもけがしないで元気で、また来年一緒に盆踊り踊ろうねと言って握手をしているんです。その握手も、子供と握手をしたその握手の手の上にもう一方の片手をおばあちゃんが重ねまして、そして涙ぐんで子供の顔を見ているんです。子供の方もつられて、涙ぐんだ顔をしておじいちゃんおばあちゃんと話をしているんです。それを見て私たちは何か胸がじいんとしてしまいました。帰りの車では子供がもう、また絶対来年来ようねと目を輝かしているんです。それを見まして、きょうはたしか御老人を慰問に行ったはずなのに、子供の心に大きなプレゼントをもらったような気持ちでした。
それから、翌日から子供たちと道で会いましても、いままで何げなく町で同じ町会の人たちが顔を会わしても知らぬ顔をしていたのが、みんなであいさつするようになりました。
それから、あるお年寄りのおられる家庭の方からこういう話を聞きました。いままでうちの子は年寄りの入ったおふろに入らなかった、汚いからと。前にもそういった浮浪者の件があったと思いますが、お年寄りが入りますと、汚いから入らないって銭湯へ行っちゃうんですね。それで困っていたのが、それからはお年寄りと一緒におふろに入って、そしてまたさらに用事もしてあげるようになったから大変助かりましたということで喜んでいるんです。それを聞きまして、私は、あっこれだと思ったんです。幾ら口でいろんなことを言いましても子供は馬耳東風、うんうんと返事をしていても頭の中に入らないんです。それが実際にそういう行動をしてみますと、それが現実になって子供たちの心にしみまして、そして老人に対するいたわりの心、やさしい心が芽生えたんではないかと思います。
途中になりましたが、初めにお話をしました中三の男の子ですが、その翌日、もちろん普通校の試験は受けられないような状態ですので定時制の高校の試験を受けに行きまして、それからきのうはうちの方の地域の中三の子供たちの最後の遠足がありまして、やっぱり雨が降ったんですが、朝六時半に起きて行ったということを母親から報告がありました。それで、何回も何回も裏切られるけれども、二歩進んで一歩下がる気持ち、あるいは二歩進んで三歩下がるかもしれないけれどもがんばっていきましょうねと、その母親ときのうも話し合いました。
繰り返すようですが、非行というとすぐ中学生へ世間の目が向けられるんですけれども、中学へ行って本当に非行が急に始まるものではないんです。小学校時代に人に対する愛情の交流があれば非行への道はたどらないと確信します。
それにはやはり、いろんな議論を言っていても、身近なところからすぐ手をつけ始めるのが一番いいんじゃないでしょうか。いまいろいろお話がございましたが、学校、家庭、社会、それぞれ学校は学校で子供に対する愛情があり、社会にも子供に対する愛情、家庭にももちろん子供に対する愛情がありますが、その愛情の輪がそれぞれいまの場合にはばらばらに三つの論が離れていると思うんです。それを、その愛情の輪を、重なり部分を強くして、それで皆さん周囲の人の善意ある努力がさらに必要だと思います。
今回も、周りの人の善意ある愛情に支えられてできたのだと思います。これからも私は、少年の社会参加活動にはまず四つのことを考えまして、無理をせず、きっかけをつかみ、子供が自発的に行う、そして楽しみながらできる、以上のことを常に考えて、愛情の目をもって気長に子供たちの成長を見詰め、ともに歩いていきたいと思います。皆様もよろしくお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/19
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020・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) ありがとうございました。
次に、能重参考人にお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/20
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021・能重真作
○参考人(能重真作君) 私は、現場に中学校教師としてことし三月末で二十七年になるわけですが、現場という立場から、今日の子供の少年非行並びにそれが学校の中でとりわけ教師に暴力という形で向けられて大きな社会問題になっていることについて、その実態、それからまた教師はそこで何をしているのか、学校教師が抱える問題は何か、そして、この事態を打開するのにはどうしたらいいのかということについて考えてみたいと思います。
まず、二十七年の教師生活の中で痛感しますことは、かつて夢に胸ふくらませて教師になった二十数年前の状況と、学校現場、とりわけ子供の様子が大きく変わってきているということであります。かなりの学校でいま教師たちが教育という仕事、子供との触れ合い、相手は人間ですから、本当に喜びを持ってできる仕事が必ずしもそうなっていない状況の中で、先ほど来お話もありますよ
うに、教師の心身症、登校拒否症、いろいろな病気で教師が苦しんでおります。そのために欠勤が多くなったり、あるいは休職をしたり、したがって、その代替の教師がなかなか見つからない間に子供たちは荒れていきますし、かわりの先生ですから十分子供の実態がつかめず、心もつかめない状況の中で、病気が治って復職した先生はさらにひどい子供たちと対面することになるという悪循環の中にほうり込まれております。
今日、これだけ大きな社会問題として子供の非行、校内暴力が取り上げられた直接のきっかけとなりましたのは、例の横浜の事件、そして町田の事件でありますけれども、ああいう事件が二度とあってはいけないというふうに私は思いますが、起きてしまったこの二つの事件から私たちは重大な決意をもって多くのものを学ばなければいけないというように思います。
まず、町田で起こった先生が生徒をナイフで刺すという全くあってはいけないような問題について、まず私が痛感しましたことは、事態がいよいよここまで来たかということであります。これほどまでに追い込められた教師の実態、そういうものを見る思いがいたしました。幸いにしてマスコミの報道の姿勢も単に教師の問題ということでなく、教師が追い込まれている状況にも正しく目を向けようとしていることについては、今回の八木先生の提起した問題というのは、それなりに意味あるものとして私たちは受けとめたいというふうに思うわけです。もちろんそういう事態になった教師にも大変問題はあります。言葉は適切でありませんけれども、欠陥教師、あるいは欠陥教師と言われる前の欠陥人間というような状況も私たち仲間の中に抱えていることも事実であります。子供にとっても親にとっても仲間の教師にとっても、これはと思われるそういった教師が間々見受けられることもあるわけですけれども、しかしそれはとりわけ今日顕著になった傾向ではありません。いま多くの教師たちは、この崩れていく子供の状況に対して、全く新しい現象ですので、どこからどう手をつけていいかわからない状態の中で、まさに手探りで体当たりでぶつかっているのが真相だと言ってもいいように思うわけです。
また、横浜の事件の場合、子供の荒廃きわまれりという印象を持ちました。遊び半分に弱い者とはいえ大人をけり上げて殺害に至らしめる、しかもそのことに対して余り心の痛痒を感じていないというこのそら恐ろしい子供の出現ということも先ほど発言されておりますけれども、しかし、そこまでに子供が追い込まれた状況というものを私たち大人は考えていかなければならないのではないか。これは弱者が弱者を襲うという、そういう構造の中で、家庭内暴力も学校内暴力も、そして今回地域社会に出て無差別に大人をねらうという状況にまでなってきているのではないか。これはある意味では子供の非行的事態ないしはもっと視野を狭めて見るならば、暴力の対象がまた一段と様相を変えて出てくる一つの兆しと見るべきであるというようにさえ私は感じております。
いま中学生が大変問題が多いわけですけれども、昔から、この思春期の入り口の子供には精神的に非常に不安定な状況がありまして、親も大変苦しんだ時期であります。第二反抗期というような言われ方をされているわけですけれども、しかし、第二反抗期の子供を抱えて苦しんだのは、学校の教師ではなくてかつては親であったわけです。つまり、子供の権威や力に対する反抗というのはまず親に向けられていたというように思います。ところがここ十年来、戦後の第三の非行を迎えるあたりから子供の反抗の対象が家庭の親からさらに学校の教師へと拡大されてきている。したがって、親に反抗するということや教師に反抗する、あるいは学校の校舎を破壊するという直接的動機やあるいは背景には、親の持つ問題あるいは学校、教師の抱える問題があるわけであります。
しかし同時に、先ほど来もこれは話されているように、子供自身の甘えが非常に強いということも指摘されております。現に、昨年度大変校内暴力が広がるだろうと予測した東京で、警視庁の統計によれば二三%も減少するという数字が出ておりますが、これは必ずしも事態が解決したと私は判断をいたしておりません。警察と学校が一体となった取り締まりがかなり効を奏したという警視庁の指摘でありまして、私はまさにそのとおりだと思います。この年、かなり荒れるだろうという予測に対して余り荒れなかったのは、いまのような力による取り締まり、これが強化されたという反映だろうと思いますが、同時に、その年の卒業式、東京は三月の十九日でありますが、マスコミ関係者がかなり、ある意味では事態を予測して学校にカメラを持ち込んでおりました。つまり、荒れる卒業式を予測したのであります。しかし、実態はほとんどないということで、報道陣も空振りに終わったようですけれども、そこで目に映る光景というのは、かつて一年間、さんざん苦しめた担任の教師と、あるいは殴ってけがをさせた教師と抱擁し、あるいは握手をして、涙を流して別れるつっぱりたちの姿であったようです。
つまり、学校も子供たちにとってはかなり強い依存の対象の教師ということから、甘えという領域が非常に拡大してきている。そういう意味では、構造としては家庭内暴力ときわめて似た構造を持ってきているように思います。それが、さらに今度は社会一般に対する甘えというような形で、たまたま横浜ではああいう事件として表面に出ましたけれども、あれは私は氷山の一角だというように思います。それは、死に至らしめたということで大きな社会問題になりましたが、ああいう社会一般の中にいる大人の弱者への攻撃はここ数年枚挙にいとまがございません。
現に私の体験した例でも、もう六十をはるかに過ぎる老齢のひとりで暮らしている洋服屋さんでした。このお店へときどき出入りをしては万引きで盗んだズボンを売りつけていた、買う方も買う方だったわけですけれども。しかし、そういう老人の弱さを逆につきまして、一人が話をしているすきに引き出しからお金を盗むとか、あるいはズボンの修理を頼んで、そしてでき上がる前にそのズボンをこっそり盗んで、その老人の仕立て屋さんに弁償させるというような悪質な手口まで考えていびり続けたという例もあります。さらには、これはやはり六十を過ぎた体のきかない老婆が経営する小さな駄菓子屋さん、あるいは小さなおもちゃを売っているお店なんですけれども、ここでさんざん万引きをします。そのうち見つかると、開き直って、火をつけるとかあるいは投石をするぞというようなおどしをしたり、あるいはもう万引きではなくて、堂々と箱ごとおもちゃを持って逃げていく。追いかけてもとても老婆の足では追いつかない。それを学校に通報し、家庭に通報しますと、また報復で、寝ているとき、深夜、窓ガラスから大きな石が投げられまして、もう少しで頭部に当たるというような事件も起きております。
そういったことで、いまの子供たちの荒廃の状況というのはまさに極にきている。そういう意味では、かつて高度成長期の後半期あたりから、いわゆる昭和元禄と言われたあのあたり、確かに東京の二十三区の中で私の勤務する足立区というのは、地域的状況というのはきわめて恵まれない状況にあります。昔から子供の非行と無縁であった日は一日もない、そういったような学校で勤務しておりますけれども、しかし、あの昭和元禄の時代は、三年ほど警察補導ゼロといった時期もありました。たまたま警察に補導されても、万引きあるいはよその学校の生徒と塾で知り会ったそのことからけんかになったという程度のこと、ささいな子供の世界にありがちな問題に限られておりました。ところが、たちどころにあの四十八年のオイルショックの秋から、当時三十校あった中学の中で二校、校内暴力、対教師暴力事件が報告されたわけです。
先ほどもマスコミの方から指摘がありましたように、学校というのは大変閉鎖的な体質を持っているというように私も考えます。マスコミに対してはかなり警戒を要さなければならないというと
ころがあるわけで、先ほども校長会の先生からお話がありましたように、マスコミ報道の結果、かなり深い傷を負ってそこから立ち直り切れなかったという学校もこれまた枚挙にいとまがないわけであります。
しかし、学校の持つ閉鎖的体質というのは、本来父母と教師が手を結んで一体となって教育に当たらなければならないところの学校の父母にまで広がってきているわけです。親が、学校ではこんなことがあったようですけれどもと学校の校長先生あるいは先生にお尋ねしても、いやそんな事実はありません。具体的な事実を突きつけられれば、それについてはもう当事者同士で話し合いで解決が済んでいるので外から余り荒立てないでほしいというような形で内々におさめてしまう。もちろん警察にも、かなりの傷害事件があっても通報しない、教育委員会にも正確に報告がなされていないというのがかつての実態であったと私は考えております。したがって、校長会あるいは教育委員会、そしてそれを統括する文部省、ここが一番実態を知らなかったのではないか。しかし、ここ二、三年の経過では、東京に限ってですけれども、そういった閉鎖的体質が事態を悪化させているという反省のもとに、校長会等でもかなり赤裸々にお互いに情報交換が行われ、教育委員会もかなり正確に校内の状況についてはつかんできているように思います。
そのことについては大変喜ばしいことであるとは思いますけれども、反面、それはある意味では開き直りの姿勢、もう学校の体面とか名誉とかいうようなことを考えているいとまがないという状況の反映だろうと思います。しかし、残念ながらまだ地方には、すべての学校とは申し上げられませんが、かなりその学校の持つ閉鎖的体質というのは残っておりまして、そしてそういう状況のところにどんどん子供たちの暴力がある種の流行として広がっていっております。これについても、マスコミ報道の姿勢ということについても先ほど来指摘されているわけですけれども、報道の仕方については慎重であっていただきたい。かなり流行現象をつくる役割りの一端を果たしているのではないかとさえ思われる状況があります。
私の学校で、私が二年生まで教えたかなり自主的な規律ができた学年だと自負していた学年、翌年私は他学年に移ったわけですが、授業を何クラスか受け持ちました。一月ほどたってある教室に入ったときに、いつも整然と私の来るのを待っている子供たちが窓際に鈴なりになって外を見物していたのであります。私はつい残念に思って大きな声でどなりました。子供たちはぞろぞろと自分の席に着いたわけですけれども、そのときに何名かの子供たちが歩きながら小さくつぶやきます、校内暴力、校内暴力。その子供たちと私とは二年間の人間関係ができております。また先生に殴りかかるような子供でないこともわかります。冗談で言っているわけですけれども、一種の流行として子供たちの中に言葉がまず入り込み、だんだん子供たちの心の中に意識としての校内暴力、したがって、いつ教師を殴っても決して不思議がないような状況がまず精神的な状況としてつくられていっていたということをその子供の冗談から私は感づいたのであります。そのうちやがて子供は、先生、そんなしかり方をすると校内暴力が起こるぞ、ちょっと厳しく言うとすぐ校内暴力だぞというようなおどしをかける。もちろん冗談半分でありますが、そういうことを言う子供がかなり出始めてきております。こういった面もかなり私は見ていかなければならないことではないかと思うわけです。
にもかかわらず、なぜいま子供が学校で暴力なのか、学校で非行なのかということを私は次のように考えるわけですが、一つは、子供の世界は変わったということに着目しなければならないと思います。かつては家の周りの地域を中心に子供の世界がありました。ですから、学校をひけると子供はさあっと帰って神社の境内やお寺の境内で遊んだり、たんぼや小川で遊んだ、これが子供たちだけの世界であったわけです。ところが、いま子供の人間関係というのは家を中心とした地域にはありません。ほとんどが学校の級友ないしは部活の仲間であります。学校を抜きにしては子供は人間関係がつくれない、こういう状況になっております。ですから、ある週刊誌が、番長は学校が大好きなんという見出しを取り上げましたけれども、本当に逃げの姿勢を持つならば大変厄介な事態になったわけです。
かつて子供は、だんだん非行化していけば地域にどんどん出て、学校に来なくなる。地域で悪さをしますから、警察につかまってそして少年院なりに隔離される。学校の教師は手を汚さずして子供を切り捨てることができたわけです。しかし、今日子供は、遊びの世界が学校の中に変わってきておりますので、学校の中で、しかも学校の中の一番長い時間は授業であります。その授業の時間はじっと耐えて休み時間だけ好きな遊びをするなんというがまん強さを持っていない子供ですから、授業の中もまた遊びの場になってしまう。しかもそれにきちっと対応できない弱い教師がふえているという状況がそれに拍車をかけまして、学校がまさに子供の遊びの世界になってきているわけです。もちろん子供というのは、学習する存在である前に生活する存在ですから、そういう社会状況の変化の中で、学校また子供の生活ということを真剣に考えてみなければならないという時代になったように思います。
そしてまた二番目の問題として、いじめの拡大、これは先ほど申し上げましたけれども、教師が弱いものであるというこのことをぜひ皆さんに知っていただきたいというように思います。かつてのように三尺下がって師の影を踏まずというようないわば儒教道徳によって外から支えられていた教師と違います。みずからの権威で教師の権威をつくらなきゃならないというようなそういう時代になっているわけですが、残念ながらこれは教師の弱さだと私は考えます。かつては先生であるだけであがめ奉られた、御無理ごもっともで先生の言うことはみんな通っていった時代、私たち教師はその上にどうもあぐらをかき過ぎたきらいがあるのではないか。みずからの人間的な魅力あるいは教師としての力量、その上に立った教師の権威、そして子供や父母の尊敬をかち取るという努力を全般としてどうも怠ってきたきらいがある。したがって、社会的ないろいろな外側からの支えがなくなったときに、教師みずからの、その権威が失墜したという状況として私たち教師としては、この子供の校内暴力というものは、教師の姿勢あるいは学校の体質を厳しく問う問題提起というように厳粛に受けとめたいと思います。しかし、問題はそこばかりでありません。
三番目の問題として指摘したいのは、学校がだんだん子供にとってやはり楽しい場でなくなってきているという、これは制度上の問題もかなりあるように思います。とりわけ中学校の場合ですと三年間しかありません。入った一年間は上二つつかえておりますから。また、新しい学校生活、いままで自由な服装していた子供たちが、あの詰め襟服を着せられていくわけで、状況が大分変わるということのためにかなり緊張をしております。しかし、やがて二年生あたりになりますと、もうすぐ目の前に受験という問題が控えてくるということで、あっという間なんですね。
ですから、子供の生活というのはいわば甲子園型になるか、あるいはもう一切の活動を捨てて子供らしい生活を犠牲にしていわば東大型になるか、あるいはその中間とでも言ったらいいのでしょうか、適当に子供たちの世界の中での活動をしながら勉強もやる、まあ文化祭型と私呼んでいるのですが、そういう幅広い学校生活を楽しみながら勉強もしていくというようなタイプ、大体この三つぐらいにまともな子は分かれるのであります。
しかし、この三つのどれにも入らない子供、余り好きな言葉でありませんけれども、落ちこぼれと言われる子供たち、これは必ずしも学力的落ちこぼれではありません。もうスポーツにもついていけません。今日の選手養成が非常に主目的に
なっている、いわば甲子園型と私が申し上げたのはそういうことであります。かなり学校の名誉あるいは顧問の教師の名誉というかあるいは趣味といいますか、それに生きがいを求めている教師、もちろんその中で子供がいろいろ変わっていく例もありますから、一概にそれは全面的に否定できないにしても、そういうことで子供が道具にされている、そういった傾向もないわけではありません。ですから耐性のない子、あるいは体のちょっとひ弱な子、これはいまの部活にはとても運動部の場合はついていけません。そういったことから早々と脱落をしていく。こうしますと、自我に目覚める中学生の時期、何ら他人に誇れるものを持ち得ませんのでつっぱるということが一番手っ取り早い方法である、こう考えるわけです。
非行とまあ一口に言いますけれども、ちょっとした出来心で連れ立ってやる万引きや、けんかのあげくちょっと相手にけがをさしてしまったようなものまで傷害事件として非行と扱われておりますけれども、どうも私たちがいま真剣に悩んでいる非行というのは、そういったものよりは、中学生あるいは中学に近くなる小学校高学年あたりから自我に目覚めてくる子供たちの自己主張型非行と言ったらいいでしょうか、これであります。しかも自己主張は、そういった形で暴力やあるいはさまざまな社会的な規範を破るということでいたしますけれども、しかしそれに対する厳しい大人の歯どめがないために、あるいは仲間同士の歯どめがないために際限なくそれがエスカレートし、いま新聞で騒がれるような大きな事件へと発展してしまい、何といいますか、もうもとの正常な道になかなか戻り得ないような状況に子どもたちは追い込まれております。したがって、その辺になりますと自己放棄型の非行と言ったらいいでしょうか、おれなんかもうどうでもいいということでかなり指導に困難を来す子供が多くなっているのも事実であります。
そういう中で、教師の問題についてはまだまだ厳しい御批判をいただかなきゃならない面は多々あるわけですけれども、同時に、そういう状況の中で悪戦苦闘している教師も大ぜいいることをぜひ先生方に知っていただきたいと思います。そして、そういう教師に対する励ましを、学校の中でもそれからまた地域、父母、そして社会的にも大きくしていくことによってそういう教師を一人でも二人でもふやしていくことがいまとりわけ必要なことではないか。
確かに校内暴力を初めとする子供の荒廃は、原因は単純ではありません。先ほど来言われているような複合汚染の産物ですから、本当に息の長い取り組みの中でしか解決されない問題だろうと思います。しかし、事態は私は一刻の猶予もならないところに来ているというように思います。どれだけ大きく声を張り上げて叫んでも残念ながら理解していただけない面があったわけですけれども、今回の事件を契機に、ある意味では民族の危機的状況だとすら私は受けとめたいというように思います。それに対して、政治経済あらゆる分野の課題が私たち山積しているわけですけれども、子供の問題、教育の問題はぜひ最優先さしていただきたい。お金のかかることでしょうけれども、かけがえのない子供、民族の未来を背負って立つ子供たちを最優先する行政もぜひお願いしたいということを強調して発言を終わります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/21
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022・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) ありがとうございました。
─────────────発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/22
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023・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) この際、委員の異動について御報告いたします。
本日、仲川幸男君が委員を辞任され、その補欠として高平公友君が選任されました。
─────────────発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/23
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024・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) 次に、真鍋参考人にお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/24
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025・真鍋親寛
○参考人(真鍋親寛君) 私は、非行に対する対応をめぐって二つの道がある、その片一方について発言をしたいと思います。
いま、非行をめぐってどうするかという点では、一つは管理と取り締まりを強めていく、そして警察力をもって鎮静化するという方法が考えられています。これは鎮静化することには確かに効果を上げるケースはあります。しかし、本来教師と子供の信頼関係を取り戻し、豊かな学力そして人格の完成を目指すような教育を考えたとき、果たしてどうなのかということに疑問を持つわけです。
もう一つ考えられているのは、子供たちの持っている力、そうですね、つっぱりがいれば批判する、そしてつっぱりが悩んでいれば励ましていくという、そういう子供たちの自主的な活動を伸ばしていくという形で克服をしている。この二つの道があります。
私たちが、小岩四中が校内暴力の嵐の中で再建をしたときに、幾つかのポイントがあったわけですけれども、その教訓を述べたいと思います。
結論から申しますと、四中を再建したときの大事なところは、さっき言いましたように、子供には教師が持っていない、大人が持っていない力を持っているわけですね。教師がやめると言ってもやめないけれども、子供が悲しい顔をしてやめてと言うととまるということがかなりあります。その子供の持っている力をうんと伸ばすということをすごく大事にしてきたわけです。ですから、子供をよくするのは教師の仕事なんですけれども、子供をよくするような子供をつくるのも私たちの仕事なんです。そういう点で子供の自主活動を大切にした教師、それにこたえていい学校をつくろう、いいクラスをつくろうということでがんばってきた生徒、それをバックアップし、応援してきた父兄や地域の人、この三つの願いと力がうまく歯車が絡んだということが、私たちの学校の再建の大きな教訓だと思います。
それで、私がどうして子供の持っている力を重視しなければいけないかという、強調する理由を述べたいと思います。
私も、校内暴力の中でずいぶん子供たちに立ちはだかれることがありました。そのときに、子供たちはたくさんいるんですね、私の後ろにはだれもいないんです。そのときに、おまえやめろ、先生が幾らそうでもやっぱりそこまでやったらおれはおまえと話をしないよという子供がいたら、きっと教師は殴られなくて済むと思うんです。校内暴力の荒れた中で、つっばりたちは一つのリーダーなんですね。つまり、学校がおもしろくない、先生が気に入らないといって反発をしています。そのもやもやを発奮しているからこそ彼らは評価され、目立つし、受けているから自信を持つわけです。この集団の力関係を変えない限り学校の本来の正常な教育活動は回復できないわけです。
たとえばどういう話をするかというと、私たちの学校が荒れた中で非常に教室が汚くなります。学校が汚くなります。非常に優秀な女の子のリーダーに掃除をやって帰ってくださいというぐあいに指示をします。そうするとその子は、わかりましたと言って教室からいなくなるんですね。で、だれもいなくなったのを確かめて教室に帰ってきて掃除をするわけです。なぜかというと、あいつは教室をきれいにしている、先生にごますりをやっている、あいつはぶりっ子だから、あいつらとはどうも口をきかないということをやるわけです。つまり学校をよくしようとしている子供が肩身の狭い思いをしながらがんばっている。ところが、学校を荒らす子供がしっちゃかめっちゃかに大手を振っている。こういう力関係を変えない限り本来の学校の正常な関係というのは回復できないと思うんです。
私たちは、とにかく学校を回復するために、子供の中であたりまえのことがあたりまえで通用するような環境をつくろうということに最大の重点を置きました。私たちが、この小岩四中を再建するときに、ここに持ってきていますけれども、二十八枚の分厚い議案書をつくりました。その一部を読んでみたいと思います。
今年度の私たちの基本的態度
1 もう「こんな小岩四中」はごめんです。一日も早く「こんな小岩四中」にサヨナラをし、
ほんとうに「学校らしい学校」に小岩四中をしたいです。あんな不安な気持ちや、「この先どんなことがおこるかわからない」というようなメチャクチャな毎日毎日がおこらないようにしたいです。これが「小岩四中生の共通のねがい」だと思います。そしてこの気持ちは、先生たちやお父さん、お母さんの気持ちでもあると思います。
2 「学校は楽しくて、毎日毎日、だれもが得をして帰れるところでなければならない」と思います。一部の人たちの、その場その場の気分的満足で学校生活が左右され、他の人が迷惑を受けているのではなく、そういう人たちもふくめて、小岩四中生のだれもが損することなく、得をして帰ることができるようなところにしたいとほんとうに思います。
途中を省略をします。
〔委員長退席、理事片山正英君着席〕
最後に「議案書の検討を心をこめてお願いします!」という呼びかけの中で次のように結んでいます。「私たち生徒も自分たちの「二度とは帰ってこない中学校生活」を「本当によかった」といえるようにするためにがんばろうではありませんか!みなさんの気持ちや考えはどうでしょうか?」と呼びかけています。そして、この二十八枚の議案書の中に、各先生方の「君たちに対する期待の言葉」を書きました。そして、地域のお母さん方もこの議案書の中に励ましの言葉を書いています。その中には、この議案書を見て涙が出てとまらなかった、ぜひがんばってほしいというような言葉も書かれています。この中に教師の願いと子供の願いと、それを支えるお母さん方の力を合わせた姿を見ることができるんじゃないかなと思います。
それで、幾つかの取り組みをやりました。時間が限られていますので一つだけお話をしたいと思います。
私たちは子供の自治活動を強めていく中で、クラブ活動も重視しましたけれども、真っ先にやったのはチャイム着席という取り組みです。チャイム着席という言葉は御存じないと思いますので説明します。チャイムが鳴って席に着くということだけです、単純に。ところがチャイムが鳴っても席には着かないのですね。着かないというよりか、授業中にエスケープをして何かを食べるとか出歩く。自転車に乗ったり、授業中にロックコンサートを聞くというようなところがあるわけです。そういう中でチャイム着席の取り組みをやりました。
このときに、私は子供たちにこういう話をしたのです。君たちの中でおトイレへ行っておしりをお母さんにふいてもらっている人はいるかと言ったんです。そうすると子供たちは、そんなばかな話はないという話になったんです。もう一つ言ったんですけれども、男の子でまだお母さんにおふろに入れてもらっている子供はいるかという話をしました。そうすると「ウッソー」なんて言いますけれども、でもいまの中学生ではそういう生徒はいるんですが。それで、何で先生がそういうふうな突拍子もない話をするんだと彼らは考えたのですね。なぜこんな話をするかというと、君たちは本来自分でおしりをふかなきゃいけないのに、お母さんにおしりをふいてもらっていて、ふき方が汚いとかもっといい紙を使えというぐあいに言っているんだよと言ったんです。そうすると子供たちは、そんなことは絶対にないと言ったんですね。わかった、じゃ聞くけれども、授業を考えてほしい。いい授業ができるということはどういうことなのか。先生たちはちゃんと教材研究をやる、そしてきょうはここで終わらしてやろうと、ここですとんと胸に落とすように準備をしてきます。生徒だって予習をしたり復習をしたり、そして忘れ物をしないで、チャイムが鳴ったら席に座って待っている、そういうお互いの努力があって授業は成立するわけですね。そのときに黒板をきれいにして待つということももちろん入れました。ところが、授業がうまくいかなかったときに、あの先生のやり方が悪い、あの先生があれだからということを言っているじゃないか。自分たちが席に着かないで、そして忘れ物をするということを先生のせいにしているじゃないか。おしりをふけないこと、ふき方が悪いことをお母さんのせいにしているのと同じじゃないかという話をしました。
この話に納得した子と納得しない子がありました。でも、大事なのは理屈で納得することでなくて、そういう経験をたくさんやって成功させることの方が教育の中で大事なんです。この取り組みを約六十日近く、二カ月続けることにしたわけです、何月何日何時間目、違反者何名というぐあいに。
〔理事片山正英君退席、委員長着席〕
隣のクラスで見るわけです。これがずっと続いている間、最初のときは学校が落ちついていませんから全然聞いていないのですね。これがだんだん階段を上がっていくようになりました。最初の階段を上がったのは、うるさかったお昼の休みにうわっという歓声が聞こえてくるわけです。それはそのチャイム着席ゼロを達成した子供のそのクラスの歓声なんです。喜びの声なんです。これが階段を一つ上がったわけです。
その中で、うまくやったのは一体何なんだと子供に聞きました。そうしたら、最初はやっぱりうちの先生はこわいからだと言うわけです。ところが、これは君たちのことだから、君たちでやる取り組みだからそれじゃ困る、先生は何を指示したんだという話をすると、注意をしているのは生活委員一人が点検し、一人が声をかけているわけですけれども、そのクラスは学級委員も声をかけているし、班長も声をかけてきている。つまり、ちゃんとやってくださいと言う子供がふえているわけですね。それが大事なんだということで発表をしていきます。
これがだんだん続くと、今度は先生たちが必死になります。先生たちは先に行って悪い子を廊下に正座させたり職員室でしかるわけです。でも、私はこれは先生にやめてくださいと、せっかく子供たちが自分たちのことでやらなきゃいけないことをやっているんだから、援助してくれるのはありがたいけれども、先生が前面に出ないで、どうすれば自分たちでちゃんとできるのかということを指導するのが私たちの仕事ですということでやっていきました。
これがだんだん続いていきますと、階段の最後の近くなんですけれども、子供たちが、先生、私たちは一生懸命やるんだけれども一向に聞いてくれない人たちがいます、どうしたらいいのかということを話したときに、私たちは罰を与えたらと言うのです。私は教育の技術の中で罰そのものは個人的趣味から言うと嫌いなんです。だけれども、さっき言った掃除の場面を思い出したわけです。つまり、まじめにやる部分が片隅にいる、しっちゃかめっちゃかにしているのが大手を振っている中でがんばっている。まじめにやろうという部分が、つっぱっている連中や自分たちの決まりを破る部分に対してそれを許さないという表現なんだ。そこまで自分の好みで削っちゃうのはまずいだろうということで、とにかく実験だ、やってみるということでやったんですね。そうすると子供たちは大きく変わっていきました。
いろいろな罰があったんですけれども、その中に、腕立て伏せ十回、グラウンド十周、あるいは職員室の前で正座三十分というのがあるんですが、つっぱりはこの中で何が一番こわかったかというと、わかりますか、彼らが一番こわかったのはみんなの前で腕立て伏せを十回するというのが一番こわかったんです。彼らはつっぱっているから、みんなの、学校はいやだという教師に対して反抗的な気分を代表していってつっぱってかっこいいわけですね。ところが教師以外の権威の中で、自分たちの決定にひざまずいてみんなの前で腕立て伏せをやっているということは、つっぱりにとってはすごいダメージを受けることなんですね。で、つっぱり連中はやばいと。先生に反抗してそれで怒られて座っているならかっこうは立つけれども、みんなの願いに逆らってそれでその決
定にひざまずいているというのはいやだというのでつっぱりたちが走っていくわけですね。最後に残っていく女のつっぱりに、女のつっぱりなんてかっこ悪いんだよということでとめていく。そういう状況の中で子供たちがたくさん変わっていきます。
たくさんの例があるわけですけれども、教師だけが子供をよくするというのじゃなくて、子供たちが本来持っている批判し励ますということを本当に大事にしました。
それで、あとやった中では、文化活動も重視をしました。文化の中で初めて合唱祭という取り組みを行ったわけです。なぜやったかというと、卒業式のときに歌う曲を何にするんだと言ったら、「いい日旅立ち」を歌おうということになったんですね。あの曲は一人でしんみりと歌うのはいいわけですけれども、みんなが力を合わせ心を合わせて歌うそのすばらしさを持った曲ではないわけです。やっぱり力を合わせることのすばらしさを教えようということで、「いま始まる四中の歌声 みんなでつくろう歌声の伝統」というスローガンを掲げて歌声に取り組んでいきました。運動会も、「燃えろ四中」ということで、生徒が学校に来るのが夢中になれる、楽しくなれるような行事もたくさんつくりました。
そして、ある水準まで来たときに私たちが挑戦したのは、学習に対する取り組みを特に強めました。学習に対する取り組みの話をすると、私たちは運動会のときにがんばるじゃないか、合唱のときもがんばるじゃないか。ところが一番肝心な勉強で力を合わせたり、勉強で友情が育っているのかどうなのかということを生徒会の議案書で呼びかけました。やっぱり勉強でも力を合わせようということを重視したわけです。予想問題をつくったり課題学習を班で取り組んだり、さまざまな助け合い学習を組織することができました。
そういう中で私たちは、学校で問題行動が起こらないというような学校がいい学校だというぐあいに最初から思わなかったわけです。子供たちはいろいろ揺れる、そして問題行動を起こす、しかしそれを教材化し、それを乗り越えることのできるような子供の集団や教師集団がやっぱり非行克服と言える学校じゃないかというぐあいに思っていました。
二番目は、自治活動の次に重視した問題は教師集団の団結の問題です。この部分は内容展開したいわけですけれども時間が限られていますので、もし質問があったらぜひお願いしたいと思います。ただ、二点だけ指摘をしたいと思います。
私たちが重視した言葉は、教育というのは一人一人がやるのではない。もちろんやる部分がありますけれども、チームプレーによって効果が上がるんだというのが私たちの鉄則です。それともう一つは、教師の願いと努力が大切にされる職場こそすばらしい職場だということが私たちのスローガンでした。内容展開することができませんので、その点については質問があればぜひ答えたいと思います。
三番目です。私たちは問題行動を起こす子供たちをどう見たのかという問題です。私たちは、子供たちがやけっぱちになったときには必ずその裏に教師や親や大人に対する期待があるんだというぐあいに思っています。私たちは、つっぱりというのは一体何なんだということを紙上討論で子供たちともやりました。明快に答えたのは、つっぱりというのは自分を捨てていることなんだと。それはあらわれ方はいろいろあります。教師に対してのあらわれ方もありますし、登校拒否という形でもあります。でもいずれも自分を捨てている。本来人間が持っている夢を持ち、そしてそれに近づくための目標を持ってだんだんと努力をしている姿を放棄していることこそやっぱりつっぱりの本質だろうというぐあいに私たちは考え、子供と討議をしました。
もしつっぱりがそうであったとしたらおまえたちはどうするんだ、あの問題行動をどう見るんだというぐあいに見たときに、先生は、あれはもう自分でどうしようもないんだということを助けを求めているSOSだというぐあいに思っている、もちろん教師であるから決まり破りについては注意もするし指導もする。だけれども最も大事なのは、大人や周りに呼びかけているSOSのその悩みを取り除く、あるいは親身になって相談できるような教師やそういう仲間をつくることが最も大事なんだということで今日来ています。それで、教師だけじゃなくて子供たちも批判をし、そして励まし、一緒に悩むことができているということが私たちが誇るところの最も大きいところです。
限られた時間があと五分ですので、現場の中で特に行政にお願いしたいことを最後に言っておきたいと思います。
大きいお願いですけれども、一つは、学校規模、クラスの数と生徒の数の適正化をぜひお願いしたいと思います。
やっぱり私の経験から言いますと、六クラス以上を超えるとかなり困難を伴うことがあるんです。六クラス程度でありますと、同じ学年の先生で全クラスを持つことが可能なんですね。ところが八クラス、十クラスになりますと、同じ学年で全然名前も知らない、そしてふだん接触のない子供がふえていきます。そういう中で一体どうなのかということを考えますと、やはり教育には金をかけていただいて、やっぱり忠生中学校のような学校であれば三つぐらいに分けておけば、もう少し教師の手が、配慮がうまくいったのではないかという気持ちを率直に持っています。
私の学校はいま四クラスから五クラスに変わっています。今度五クラスになる学校です。私はいま一年生と二年生の全クラスの社会科を教えています。ですから学校の中のことはわかるんですね。ある学年やあるクラスが荒れたとしても打つ手があります。小学校と中学校の違いは、一人の教師が教えているんじゃなくて、一クラスを九人の教科の先生が教えています。荒れたときに九人の先生が手だてを打つことができるという点は中学校の持っているすばらしいところです。そういう点では、そのすばらしさが発揮できるためには適正規模であるということが大事だろうと思います。
あと大きい願いの二つ目は、高校増設の問題です。
つっぱりの多くの中で学力のつまずきということがありますけれども、私の経験の中で、小学校三、四年から、僕はみんなと同じバスに乗らないんだと言った子供がいます。同じバスとは何なんだと言うと、みんなミカン狩りに行くバスに乗っている、おれはもう乗らないということを決めたんだと言うんですね。そのバスというのは、子供に言わせれば高校へ進学するということなんですね。だから、小学校三、四年からもう、僕の人生はということで後は捨てている。そのうっせきがまた中学校の区切りの中で出てくるわけです。
そういう中で、東京の中では一万人近い子供が高校に入れなくて、それをかなり先取りして感じるんですね。偏差値がないときには中学校三年の最後の方であがくんですけれども、ところがいま受験競争が激しくて全国に偏差値が行き渡った今日の中では、そのつまずきがもう早い低学年のところからつまずいている。自分を放棄している子供は早いんです。
ここで出されていませんけれども、江戸川の中では校内暴力は鳴りを静めていますけれども、実は小学校で中学校に負けないような状態が起きています。そして、校内暴力というはでなタイプはなくなっていますけれども、女子非行とか、ちょっと表に出ない、教師が気をつけないと出ないような非行がたくさん出ています。ですから、校内暴力がなくなった、警視庁の力で一定効果を上げたと言ったとしても、ではなくなったかというとそうじゃないんですね。そのエネルギーは見えないところで広がってきているというのが僕は現実じゃないかなと思います。
あと大きいお願いの中の三点目は、学級規模、四十名学級の早期実現という点を、これは国会の中で全会派やられたわけですけれども、この早期実施をぜひともお願いしたいと思います。
私はいま四十四名の学級を持っています。去年は学級数の関係で三十四名の学級でした。十名違うということは教師にとっては物すごい負担です。私たちは、勉強のできる子もできない子も、つっぱっている子供もそれを応援する子供も、それをはやし立てる子供も、みんな含めてそのよさを伸ばし不十分さを直していくというのが私たちの仕事なんです。僕の友だちの話によりますと、外国を回ったときに日本の学級の数が話に出て、四十を超えてそれで教育になるんですかと問われて恥ずかしい思いをしたという話を聞きましたけれども、二十五とか三十程度の状況になればもっと教師は目が届くと、それは確信しています。
あと、困難校に対する具体的な提案を行います。
一つは、荒れている学校の教師というのは非常に疲れています。どうしてかというと、空き時間があるわけですけれども、その中で教材研究するわけです。あるいは採点をします。あるいはクラスの仕事をやります。ところが、荒れていますとパトロールをするわけですね。そうするとみんなその方にとられちゃうから、もう心身ともにくたびれている。そういうところに、教員をふやすことは不可能でも時間的な講師をやることによって、教師が追っかけるだけじゃなくてもっと前向きな指導をできるような時間を確保するために、困難校に対する時間講師の配置というような方法も考えていただきたいと思います。
二点目、細かい提案ですけれども、研修の予算のお金を取ってほしいと思います。いま江戸川の中でシンナーというのが広がってきています。それで、私たちが話をするよりかそういう実物のスライドを持ってこようということで、実は小岩警察に電話をかけたんです。たばこはあるけれどもシンナーはないということなんです。警視庁に一本だけあるというんですね。それを保健の授業で使いたいということになったときに、貸し出しすることは不可能だ。卒業式の前にどこでも利用する、ところが授業というのは細切れですから、一日で全部やるということはできませんので貸し出すことはできないというんですね。そういう点では、やはり視覚に訴えるようなスライドをつくっていく必要があると思うんです。そういう点でお金をかける。いま私たちは、子供がこれだけ荒れてきている中で対応できない教師の研修不足を感じ、講師をあっちこっちお願いしました。ところが、講師を呼ぶだけの金はなかなかないんですね。ある大学の教授を一万円程度の金額でお呼びしたわけですけれども、普通の常識的に言いますと金額は少ないんです。そういう点で、そういう講師を呼ぶだけの必要なお金あるいは必要な研修の図書の予算といったところもぜひお願いしたいと思います。
最後に、困難校の教師は慢性的な超勤をやっています。土曜日も日曜日もありませんし、朝昼ありません。そういう中で、ある区では一件につき五百円という手当を出している区もありますけれども、お金の問題じゃなくて、行政がやっぱりそういう努力に報いるということをするには何らかの行政的な措置をとってもらいたい。もしとれるのであれば、その超勤を相殺できるような教師の数をふやすことによってコンディションを整えてもらうというようなことをお願いしたいと思います。
最後に言っておきたいことは、能重先生の方から教師の不十分さを出されましたけれども、私は、日本の教師の中で、丈夫な体を持ちそして賢くそして心の豊かな子供にしたいと願わない教師はいないと思うんです。そして自分の学校であれ子供であれ、問題行動に走ったとき心を痛めていない教師はぼくはいないと思います。そういう中で、荒れた学校に対して周りがどうすることが一番大事なのかということをもう一度真剣に考えていただきたいと思いますし、その部分については教師の連携のプレーのところの中でぜひ述べたいことがありますので、質問があればぜひお願いしたいと思います。
以上で終わります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/25
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026・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) ありがとうございました。
以上で参考人からの意見の聴取は終わりました。
これより参考人に対する質疑を行います。
なお、参考人の皆様には、各委員の質疑時間が限られておりますので、恐れ入りますが簡潔にお答えくださるようお願いいたします。
それでは、質疑のある方は順次御発言を願います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/26
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027・本岡昭次
○本岡昭次君 私の持ち時間も二十分でございますので、よろしくお願いいたします。
いま六人の皆さんから、荒れている子供、突っ張っている中学生、そしてそれにはそれなりにそれを生み出す背景がそれぞれあるわけですが、しかし、そうした背景というものを理由にして逃げることなく、真正面から取り組んでおられますことを心から私は敬意を表したいと思います。そしてまた、多くのことを学ばしていただきましたことをまず感謝を申し上げて質問に入ります。
初めに、沖原参考人と曽我参考人にお伺いしたいのですが、お手元にも資料が行っていると思います、この警察庁の資料でございますが、この警察庁の資料の1のところに「主要刑法犯少年の人員及び人口比の推移」というグラフがございます。これを見ますと、昭和二十六年を一つのピークとして山があり、それから昭和三十九年を一つのピークとしてまた一つの山、波が起こり、そして昭和五十年代の初めから第三の波がずっとこう起こって年々その最高記録を更新しているという状況で、どこまで行けばこれはまた前のように収束の状況になるのかなと、そういう物の見方は皮相的でいかぬのかもしれませんが、このグラフを見る限り果たしていま起こっている子供のこの状況は、第一の波、第二の波のような形で起こっているものなのか、もっと別のものなのかといった、この起こっている状況の分析をひとつお願いしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/27
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028・沖原豊
○参考人(沖原豊君) 私は、二十六年当時は朝鮮動乱とか、あるいはそういうようなむしろ一つの困難な情勢が社会にあったと思うのです。貧しいがゆえに非行に走るという場合もあったかもしれません。三十九年になりますとオリンピックのころじゃなかったかと思うのですけれども、非常に高度経済成長を背景としておる。いまのはやはりそういう高度経済成長も背景にしているけれども、戦後の教育、戦後の社会教育を受けてきた親の子供がいま青少年非行の校内暴力を担いつつある。それはちょっと違うと私はかねて思っているのです。つまりいま学校等で、PTAでお話をしてくれと私もときどき頼まれることありますけれども、最近は校長先生は、子供の育て方じゃなくて親に再教育してくださいという依頼が非常に多いのですね。学校教育についても一々ちょっとしかれば文句を言ってくる親、つまり戦後育った親の子供、極端に言えば。そういうところに現在の違いがあるのじゃないかと思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/28
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029・曽我健
○参考人(曽我健君) これは私の分析ではございませんで警察庁の分析を参考までに申し上げたいと思います。
第一の波は、終戦直後の社会的混乱、それから経済的窮乏の中で起きた波でございまして、当時は窃盗とか強盗とか詐欺といった犯罪が大変多かったというように分析されております。
それから第二の波、これは東京オリンピック前後からの波でございますが、これは急速な経済成長に伴います都市化の発展、都市への人口集中、それから享楽的な風潮が強まってきたという中で起きた波でございまして、このころは少年の凶悪犯、粗暴犯が中心であったというふうに分析されております。これは、当時国民それから警察が一体となりました暴力追放運動とか、あるいは総理府などが中心として進めました青少年健全育成運動というような盛り上がりその他で一たん収束した形になっておりますが、この現在も続いております第三の波、これにつきましては、経済的な豊かさの中で連帯意識が非常に薄れていったこと、それから核家族化が進んだこと、価値観の多様化
が非常に進んだこと、それからそういった風潮を受けまして青少年の間にせつな的な風潮、あるいは自己中心的な考え方が広まっていった。さらに、その少年たちを取り巻く有害な環境が広まっていったことが原因だというふうな分析が行われているようであります。
そして、現在の非行の特徴でございますが、一つは、非常に年齢が下がってきているということ。それからもう一つ、万引きとか自転車の泥棒とかいったような、初発型というふうに言っているようでありますが、こういった非行が多発している。これに加えまして最近の傾向ですが、暴走族あるいは校内暴力といった粗暴型の非行がふえているのがこの二、三年の傾向だというような分析が行われているようであります。
ちなみに校内暴力について申し上げますと、実は全体の件数は、これは件数だけで見ては間違いかと思いますが、全体の件数を見ますとやや鈍りがちでございます。しかし、その鈍りがちの方は高校生の校内暴力件数がずっと減ってきている。中学の方は依然上昇カーブを続けておりまして、むしろ校内暴力にも低年齢化の傾向が見えるというのが現在の状況でございまして、これが将来上昇を続けるかどうかはまさにこれからの対策いかんにかかっているんではないかというふうに思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/29
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030・本岡昭次
○本岡昭次君 次々と質問したいのですが、時間がありませんので非常に不十分なんですが次にいきます。
そこで、沖原先生にお願いしたいのは、先ほど能重先生の発言の中に、いまの子供の世界がとにかく変わっている。現場の教師は新しい子供に対応しておるんだ、だから全く経験のない事柄を一生懸命になってどうすればいいかという新しい教育をまさに創造していっている、その苦労の連続だという話があったんですが、しかし大学として教員養成をやっている立場で、現に子供の世界が変わった、子供が変わったという事柄に本当に対応できる教員養成というものが行われているのかという点について私は疑義を持っているんですが、いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/30
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031・沖原豊
○参考人(沖原豊君) いまの御質問に対しましてはおっしゃるとおりでございまして、教員養成は、戦後開放制がいいというのでどこの学部でも教職員免許法の要求する単位を取れば教員になれるという方式でございましたが、教員が専門職でなければならないということが言われておりますとすれば、たとえば専門職の一つの最たるものは医師、お医者さんだろうと思うのですが、たとえば医者になるのに、医学部を出なくてもどこの学部を出てもなれるというわけでないところに医者というものの専門職というものが非常に確保されていると思うんです。そういう意味で学校の教師も、もちろん文学部を出ても理学部を出てもなれるということについては私は幅広い人材が集まるということはいいんですけれども、余りにも安易になれるということは教育学部は何のためにあるのかということになりますので、まず教師は専門職であれば専門職らしい専門的な教育をする、もっと教育職員免許でも教師として必要なものを要求する。
それから現在はどうかといいますと、現在は確かに教育実習の期間も短いし、教育実習をやるための附属も余裕がありませんし、公立学校等の受け入れもうまくいかないということで、教える内容及び実習等において大変不十分であり、特に今日のような生徒指導、校内暴力に対応する教育というものは、これは世界の各国で対策の一つとして挙げられているわけです。教員になるための養成課程でこういう問題に対応するいろんな教育を施すとか、あるいは校長になるためにもそういうことが必要であるとか、そういうことはなかなかいまのところ十分とは言えないんじゃないかと思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/31
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032・本岡昭次
○本岡昭次君 それではあと、現場で御苦労いただいております鈴木先生、能重先生、真鍋先生に一言ずつ質問をして終わりたいと思います。
それぞれ現場の御苦労をお話しいただいた中で、教職員の連帯あるいは団結という言葉もありましたが、それが一番大事だということでした。そしてまた教師に対する暴力というものが最近の校内暴力の特徴であるということから考えてもそれは当然だと思うんですね。御存じだと思いますが、教師への暴力の増加状況を見てみますと、昭和五十三年に百七十四件であったものが昭和五十七年には八百二十五件というふうに約五倍も増加していますし、被害を受けた教師も二百二十六人から千百二十三人と、五年間でこれも五倍。補導を受けた生徒は二百九十六人から千七百九十人と、実に六倍というふうにずっとここの五年間激増をしておるわけで、その中で私は結論づけて、教師への暴力というのはもう学校教育の破壊だと、こう思っているんです。教師への暴力が学校でまかり通るということは学校教育そのものが存在しない、こう思います。逆にまた、そういう状態を起こしていくその根底に生徒の教師に対する信頼が喪失しておるということになれば、これもまた学校の存在そのものがもうそこで喪失しているという、きわめて重大な問題だという認識を持っております。
そういう意味で教職員の連帯というもの、まとまり、それが一番大事だと思うんですが、しかしそれがなかなかできない。皆さん方の学校の中ではそれをやってきたとおっしゃっているんですが、この教職員の連帯——私は教師だけじゃなくて給食の調理師のあの人たちから含めて学校に働くすべての人が連帯するということについて、いまそれをしにくい状態をつくっているものは何なのかということについて一言ずつひとつお話しいただいて私は終わりたいと、このように思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/32
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033・鈴木誠太郎
○参考人(鈴木誠太郎君) お答えをいたします。
曽我参考人からお話がありましたけれども、こういう状況下でまず校長自身が自分自身腹を据えて何としてもこれをやるという気構えを持つか持たないかがまず一番になると思います。必ずしもその校長の中にはそうでないような校長もいないわけではございませんが、まず第一だろうと思います。
それから、連帯についてそれを阻害しているということは何かということでございますけれども、やはり教師には、言い方はおかしいんですけれども、強い教師あるいは弱い教師という言葉になりますけれども、根差しているところは同じわけですけれども、やはり女の先生からすると体の大きな子供に対しては弱いわけで、つい引き下がりがちでございます。ですから、弱い者は弱い者なりに、強い者は強い者なりに方法は幾らでもあるわけです。女の先生は違うあり方でいきますと男の先生にはできないやり方があるわけですから、そういう方法をやはり解き明かしてやることであるかと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/33
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034・能重真作
○参考人(能重真作君) お答えします。
教師の連帯を妨げている問題として私は二つ考えるのですが、一つはまず教師の持つ専門性というようなことからかなり学級王国的状況というのはかつては見受けられました。つまり自分の専門性に対して他からくちばしを入れられることに大変素直になれないという、特にこれは父母からの批判なんかにも謙虚になれないような弱さを私は教師がかつては抱えていたと、いまでも抱えている部分もかなりあるように思います。したがって、教師間の相互批判というのが非常にしにくいという状況、そういう中で校内暴力が発生してくるわけで、これは教師の専門性とかあるいは教師の誇りなんというものをまさに打ち砕かれる子供の問題提起ということから、教師は非常に危機感を感じまして、胸開いてお互いに話し合い、そして相互批判をしながらお互い手携えて立ち向かっていかなければならぬというところに目覚め始めてきている学校がたくさんあります。そういったところがこの困難な状況の中でも問題解決の兆しが見えた学校だろうというように思います。
さらにはもう一つ、これは残念ながら日本の社会の反映だろうというように思います。思想、信条、立場の違い、これがいろんな形で職場の中に
持ち込まれてきている。私は二十七年教師をやっていて、初め教師になったときに大変牧歌的な職場の雰囲気を感じました。校長先生初めみんな一緒になって教育の問題を語り合うことができました。一緒のテーブルを囲んで一杯飲むこともできたわけですけれども、勤務評定以来どうも職場の中にいろんな亀裂が生じ始めて、そのことが職場だけでなくて地域にもいろんな形で思惑が広がっていきますし、上は上でなかなか日教組と文部省が一つのテーブルについて話し合いができない。たとえば東京都の先生方の中で、いまこの非行の事態の中で一丸になってやっていかなきゃならないということはみんな異口同音に言うわけですけれども、ある催し物が組合主催だというと余り協力しない、同じ映画でも文部省選定あるいは何か推薦がないと学校長は許可しないというような状況があって、中身で、思想、信条、立場の違いがあるのはこれは仕方のないことですが、いま子供の荒廃の状況を憂えるということではあらゆる立場の人は状況を乗り越えて同じ考えに立っていますので、その辺のことをまず私はじみちに下からやっていかなきゃならぬし、それからまた上の方からも、もっと胸襟を開いてお互いに話し合うというようなことの奨励をぜひお願いしたいなというふうに思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/34
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035・真鍋親寛
○参考人(真鍋親寛君) どの程度しゃべっていいんですかね、しゃべりたいことたくさんあるんですが。
一つは、教師自身が連帯、団結をつくるという点で不得手だということがあります。僕は日本の大人もみんなそうだと思うんです。思想、信条が違ったり、やり方が違うにもかかわらず一致してやるということが苦手だという点が一つあります。
限られた時間ですので、一言だけなので、一つは、妨げているのはやっぱり教師の忙しさというのがあります。具体的な話をした方がわかっていただけると思うので話しますけれども、私はいま社会科の授業三十こまの中で二十こま授業をやっております。で、野球部を持って、女子のバスケットの顧問をやって、それで生徒会を担当しております。ですから、土曜、日曜日はもちろんありません。区の大会が春、夏、秋ありますので、やっぱり出るからにはいい成績を上げたいと思いますので、生徒会の仕事が学校全体を支えていますので、ありません。そうすると、なかなか話し合うと言ったってお互いのいいところが見えないと団結しないんですね。人間はどうしても不十分なところばかり見ちゃう。不十分さはすぐ見えるんですね。あの先生若いのにもっとがんばってくれればいいのに、あの先生ベテランなのに何で言ってくれないんだろうというぐあいになっちゃうんですね。ところが、それを克服する方法はあるんですけれども忙しさがすごく妨げているという問題はあります。
あともう一つ、これは教師だけじゃなくて言っておきたいのは、いま、問題行動を起こさない、非行に走るような子供を出さないということがいい学校であったりいいクラスであるように見られているんですね。ですから、もし万引きが出てきて、その現場の教師の生の声、ああ、どうしてうちのクラスだけこんなにいるんだというぐあいな教師も実際いるわけです。みんなスイカ泥棒をしたり、いろいろ親に反抗したり、教師に反抗しながら大きくなったわけですね。それを教材化し、そうでなくてそれを乗り越えることが大切なんだという、そういう問題行動や罪に対する寛容性が社会や大人の中にあったわけですけれども、それがなくなって、ますます外に出さない、自分の指導力量が問われるようなことはやりたくないというような風潮が団結を妨げている原因だと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/35
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036・粕谷照美
○粕谷照美君 「季刊教育法」を読んでみまして、どんなに先生方の心身が消耗しているかということをしみじみ感じたわけですけれども、文部省の統計によりましても、病気休職をしている先生が五十四年には三千七百五、五十五年に四千百六十一、五十六年には四千二百七十五と伸びている一方なんですね。特にその中で精神疾患を持って休職をしていらっしゃる方が五十四年が六百六十四、五十五年が七百八十三、五十六年が八百二十一、ウナギ登りになっているわけであります。いかに先生が心身症になっているかということをこの数字は物語っているというふうに思いますが、警察庁の統計を見ましても、自殺全体で言えば五十四年が二万三百九十八、五十五年が二万二百六十七と減っているのに対して、教師の自殺が五十四年が八十五、五十五年が百十七と一・四倍にも上っているわけであります。大変な状況下に皆さん努力をしていらっしゃるなと、私も元教師だった立場からしみじみそんなふうに思うんです。
沖原参考人のおっしゃるように、昭和二十六年に私はちょっと再就職したんですが、田舎町でしたけれども、ものすごい暴力があるわけです。町田の忠生中学校のトイレがあんなに壊されているとかなんとかなんてものじゃなくて、短刀を持って生徒が学校へ来るとか、あのころはスチールの机がありませんでしたから、木の机、木のいすを教師が来ないうちにたたき壊して、ストーブに入れて暖をとりながら自分たちでたむろをしているなどということが毎日のようにあった時代なわけです。
その時代に日教組の教研集会がありまして、婦人教師だけのですが、千葉県の房総半島の小柴はなこさんという先生がこういうことを言っていらっしゃるわけです。どうもことし入学した一年生は、いままで何回か一年生を担当したけれども、大変暴れて、粗雑で、勉強しないで困るということで、一軒一軒訪ねていらっしゃってその原因を尋ねた。そうしたら、みんな、その当時アメリカのB29が房総半島上空を通過しながら東京へ攻めてくる時期であって、お母さんたちは警戒警報が鳴るたびに防空ごうの中に入って、その中で子供を産んだとか産湯を使わせたとか、不安な毎日を送っていたという事実がはっきりした。そして戦争が終わって、今度は食べることに精いっぱいで、子供の教育どころでなくて、しつけも何もかもほうりっ放しにされていた、こういう報告がありまして、あの時代の子供たちがいまのちょうどそういう年齢の子供たちの親になっているんだということを、いましみじみ思っているわけであります。
そこで、そういうことに対して教師は、こうやって努力をしているということについての努力は認めながらも、やっぱり父母たちはたてまえと本音は違うんですよ。教師に対する不信感というものはいっぱいあるんだと思うんです。そこのところをもうちょっと本音を出して、われわれに向けられている父母の批判に対しては、地域の批判に対してはこうやってこたえていかなければならないんだということをおっしゃっていただきたいと思うのです。
学校の中がなぜ一致団結できないか、勤評が一つの引き金になったというお話もありますけれども、校長先生はリーダーシップを発揮しようとしてもできなかった、非常に困難だという原因は一体どこなのか、現場の教師から言えば一体それは何なのか、ここのところをひとつ能重参考人とそれから鈴木参考人からお答えをいただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/36
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037・能重真作
○参考人(能重真作君) お答えします。
勤評以来、学校の校長先生が、教育者という立場で物を考えるよりは管理者という側面が非常に強くなったということを一つ感じます。それは当然教職員を管理統括して一つにまとめて教育に当たっていかなきゃならない立場でありますけれども、しかし校長先生の教育的信念に基づいて教職員を管理していくという状況ではなくて、どうももう一つ上の方の思惑を大変気にするような状況が現場にはたくさん出ております。僕としてはいいんだけれども、これはどうも教育委員会のお墨つきがないとこういうことはできないと。それは一つの先ほどもお話しした、たとえばすばらしい映画を子供たちに見せたいというような願いがあって担当の先生から提起されても、教育委員会から推薦がないから、文部省の選定がないからと
いうことだけでそれは上映が可能にならないという、この一つに端的にあらわれている問題があるわけです。しかし、それはすべての校長先生ではございません。大変上の思惑を気にしながらも、校長の胸一つでこれはおさめておく、だから思う存分やってくれというような学校が生き生きとした学校教育ができているのではないか。そういう意味では大変校長先生が板挟みになっている状況があるように思います。
たとえば、さっき三十こまのうち二十こま授業をやっていらっしゃるというお話がありましたが、私もちょうど二十こまありまして、さらにそれに企画委員会、それから学年の担任会、学年主任でありますから担任の先生を集めて打ち合わせをしなきゃならぬ。研修委員会、こういったものが時間割りの中に組み込まれておりますから、一週間に一時間あいていればいい方でありまして、その一時間あいた中で雑務をする。あるいはほとんど授業のための準備はそこではできておりません。電車の中あるいは深夜家へ帰ってからやるということになるわけですけれども、そういう状況の中で、教師が本当にお互いに話ができないような状況ができている中で、校長先生が本当に思い切ってやってくれと、たとえばクラブなんかもそうなんですが、クラブはここ三年ほど授業クラブと言われるような、大変奇妙きてれつなクラブだと私は思っておりますが、かつてクラブ活動、部活動というのは、放課後自由に子供たちの興味関心に基づいて行われたわけです。それについてはいろいろ勤務時間の問題等、組合からの突き上げもあったことが原因だとは思いますけれども、授業の時間の中にクラブが繰り込まれました。現在私のところでは水曜日の四時間目にやっておりますが、この五十分の時間、教師は正直言ってもてあましております。
といいますのは、一斉にやりますから施設設備が足りない。体育館なんかもいっぱいのクラブががちゃがちゃやっているわけですね。危険のないようにやるためにはどうしてもままごと遊びになる。だから最初興味を持って参加した子供もだんだん興味を失ってきます。それから、ある人気のあるクラブには百人ぐらい集まりますが、とても運営不可能、そこで抽せんでもってえり分けて三十人だけ残る。あとの七十人は意に沿わない第二希望、第三希望の方に回されますから、一年間ぶらぶらぶらぶら、下手にこれを六時間目に持ってきますと帰宅クラブになってしまう。おまえ何クラブだ、帰宅クラブだと言います。つまり家に帰るクラブなんですね。いまの子供たちは水曜日の四校時やっているために帰れないんです。なぜそこに持ってきたか、大分論議しました。私たちは四時間目に持ってくることで後半の授業に崩れを持たせることに大変危惧を感じました。しかしそれをやる。あえて四時間目に持ってきているのは、給食がある、給食があれば子供は帰らぬだろう。なぜこんなくだらぬことをやらなきゃいかぬのか、希望者でもって放課後いわゆる課外クラブと一体となったやり方をやっている学校もあるではないかと言いますと、いやそれは文部省で決められておりますのでできませんと。これは校長先生をもちろん責めるわけにはいきませんけれども、しかしそういう中でも、教育委員会の目をかすめながら、その部活と一体となった放課後の中で子供たちとそういった活動をさせている校長もあるように聞いております。そういったことがこれからますますしにくい状況になっていくのかなという懸念はあります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/37
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038・鈴木誠太郎
○参考人(鈴木誠太郎君) お答えをいたします。
一番の問題はやはり考え方の違いじゃないかと思います。特に、前からお話がございました小さな出来事のときに芽を摘めばよかったものが、それを摘まないためにだんだん大きくなって校内暴力に広がっていった。その小さいときには、たとえば上履きと下履きの区別をしない生徒がいた場合に、ある先生は、まあまあそのくらいはいいじゃないか、そのうちに気がつくだろう。ある先生の場合には、いや、そうじゃなくてこれがその次の過程になるんだから厳しくしなけりゃいけないんだという違い、わかりやすく申し上げればそういうところにあるわけですけれども、そういう違いが校内暴力の状況になってきますというと、何としても体面をつくらなければならない、先生方も校長も、もうこれ以上は見逃せないとなりますと、一致して上履き下履きの区別はするというようになります。ところがまだそれほど広がらない段階では、考え方が違うということが生徒の指導の上にあらわれて、それが広がる原因に私はなっていると思います。
考え方の違いというのは、それぞれのお持ちになっている考えですからこれはやむを得ないと思いますけれども、いま中学校の先生方は、これが次にどうなるかということがだんだんわかってきております。したがって、こういう状況であるからこれはいけないという初期段階での、たとえば基本的生活習慣をこうつけなきゃいけないということでは了解ができるようになりました。大変残念でございますけれども、教育というのは本来はもっともっと先に目をつけ、そして将来像を描いてやらなければならないものでございますけれども、いまに至って気がついてきたというふうに思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/38
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039・粕谷照美
○粕谷照美君 いまの若い先生はマル・バツ育ちですね。そして偏差値で学校へ上がり、成績優秀な人から順番にA、B、Cなどという点数をつけられて教師になっているわけであります。本当に教師になりたくてやってくるなどというのもありますし、「でもなろうか」「しかなれなかった」というような方々もいらっしゃることも事実でありますけれども、そういう方々も含めて、やっぱり団結をして教育の任に当たらせていくということが非常にいま問われているのではないかというふうに考えているわけですが、こういうことが起きたときに、新聞に○○教育研究所所長などというのがすぐ、いまの母親の教育が悪いからこうだと、こういうふうに言っているわけであります。
そこで塚本参考人、その辺についてのお考えをお伺いしたいと思いますし、またいまの子供たちの中にも残虐な殺しのシーン、いろいろな口では言えないようなシーンをテレビで見たりなんかしまして、目を覆う子供もいますけれどもそういうことに大変引かれる子供たちも多いというときに、マスコミの果たさなければならない役割り、果たしている、いままで行われてきた役割りというようなものについて、曽我参考人はどのようなお考えを持っていらっしゃるか伺いたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/39
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040・塚本千枝子
○参考人(塚本千枝子君) いまの先生がおっしゃったマル・バツ式で育った先生という言葉の中で、私たちも、いつも母親たちが集まって言うことがあるんです。それは、先ほど教育の波とかいう話が出ましたけれども、やはりもちろん十人のうち全部じゃなくて何割かだとは思いますけれども、初めて今度先生になった方たちの中にはいま言った、先ほど私がお話しいたしました過保護的に育った先生が実に多いんじゃないかと思うのです。ですから、実際に親との授業参観というのを、おびえると言っちゃ悪いんですけれども、すごく嫌がるんです。それともう一つは、子供が何かをやったときにすぐ対処できない、すなわち自分が小さいときに経験しなかった、そういった先生がずいぶん多いということを私たちは常に感じているんです。
それで、私がいつも思いますことは、新しく入ってきた先生が、もう少しそれはそれなりに自信を持って父母会や何かにこたえてもらいたいんです。大体が、もちろん謙遜なさるんでしょうけれども、初めて学校に赴任しまして初めての父母会のときにまずおっしゃることが大体同じなんです。何て言うかといいますと、「私は未熟者ですが」、これは昔の親でしたらば謙遜なさっている先生だなと思うんでしょうけれども、いまの親たちは正直に受け取っちゃうんです。ですから、帰りのときにはもう、「ああ、あの先生に当たっちゃって失敗したわ」というのが、私たちげた箱会議と言うんですけれども、授業終わって入り口で履き物をかえるときに、もう親たちがそうい
う話をしているんです。ですから、先入観というのは人間社会においてすごく大切なことだと思うのです。ですから、そういった先生に私はいつも、そんなことを言っては悪いんですけれども、もっと自分をたとえば五の器だったら七つか八つぐらいに大きく親に接してくださいということを申し上げているんです。そういったことがまず親たちが先生に対する不信感を抱く一つの大きな原因。
それから、私からこんなことを申し上げていいのかわからないんですけれども、まずそういった先生が現場をお踏みになるときに、いろんな授業でも何でもすごく緊張なさっていらっしゃるので、それから対処の仕方というのもちょっと悪いんですけれども、あっと思うことも本当にあります。ですから、先生になる前には何週間か研修期間というのがございますね。その研修期間というのは大学を卒業してそしてすぐ現場になるんですね。その前に何かそういった対応策って変なんですけれども、勉強する時間がないのかしらと思うのが親たちの考えでございます。よろしいでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/40
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041・曽我健
○参考人(曽我健君) ちょっとおしかりを受けているようで身が縮む思いがいたします。
マスコミの影響でございますが、これは沖原参考人の調査が実はございまして、世界各国に校内暴力、非行の原因は何かというアンケートをした先ほどの調査でございますが、どこの国も三番目あるいは四、五番目にマスコミの影響という原因が挙げられているようでございます。たとえば今度横浜、町田の事件に続きまして、千葉県の山奥の方でございますけれども、農村部でありますが、女子中学生の生徒会の副会長が同じ女子中学生を中心としたグループに呼び出されて古いカーペットです巻きにされて、しかもたばこをくわえさせられて、そこを写真に撮られたというような事件がございました。これはまだ都市化の波など余り押し寄せていない場所の学校なんですけれども、その校長先生がお話しされた言葉の中に、まず学校自身反省するところはあるんだけれども、やっぱり雑誌とかテレビとかの影響があるのではなかろうか、非常に小さな声で済まなそうに語っておられましたけれども、胸を突かれる思いでその発言を聞いた記憶がございます。
そういう意味で、いま情報化時代ではございますけれども、マスコミが社会に与える影響きわめて大きいところがありますし、その辺はマスコミ人の一人として十分自戒しなければいけないと思います。こういった校内暴力のニュースを取り上げる際にも十分留意してほしいと先ほど能重参考人から指摘がございました。私ども突出した事件の陰に非常に大きなうねりがひそんでいる、あるいは共通の教訓がひそんでいるということで事件を取材するわけでございますけれども、その取り上げられた学校、父兄、父母の立場、生徒の立場、そういったものを念頭に置きながらそういう教訓を引き出していく、あるいはどうしてもその事件中心に偏りがちでございますけれども、りっぱにやっている学校もたくさんあるわけでございまして、そういったところの紹介にも力を尽くすといったようなやり方で、少しでも少年非行、校内暴力対策のお役に立てればというふうに考えます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/41
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042・柏原ヤス
○柏原ヤス君 割り当てていただきました時間が二十分の中で御出席の六人の方に御意見をお聞きいたしたいので、私はそれぞれ先にお聞きしたい点を申し上げて、そしてお一人三分ぐらいの程度でお答えいただければ大変ありがたいと思いますので、先に質問さしていただきます。
まず、沖原参考人にお聞きしたいことは、少年非行、校内暴力の一つの対策として、学力が授業に追いついていけない生徒に対する教育をどうするか、これが重要な問題の一つであると思います。そこで、いわゆる学力遅進児対策として参考になる諸外国の例を教えていただきたいと思います。
それからもう一点は、先生を尊敬している生徒の割合が、わが国の場合は諸外国に比べて非常に低い、こう思っておりますが、その原因をどういうふうに分析していらっしゃるか。
次に、鈴木参考人にお尋ねしたいのですが、学校が荒れるのを表面的に抑えるために、問題のある子供を自宅研修と称して登校させずに出席扱いにする例もふえているようですが、学校が教育を放棄している状況であり、問題があると考えますが、校長のお立場からどういうふうにお考えになっていらっしゃるか。
次に、曽我参考人にお尋ねしたいのは、テレビの暴力場面、殺人場面の洪水、これが非常に悪影響を与えていると言われておりますが、この点どうお考えになっているか。また、NHKとしてこうした調査研究を行っているかどうかという点でございます。
もう一点は、今回の特集「教育・何が荒廃しているのか」、非常に意欲的な取り組みとして拝見いたしましたが、どの現場でも取材拒否の壁の厚さに驚いたというような御意見を伺っておりますが、放映できなかった点で参考になることがありましたらお伺いしたいと思っております。
また、今回の取材に当たっていろいろ御経験なさったその立場から、中学校教育の荒廃の原因あるいは対策、こういうものをどういうふうにお感じになったか、その感じたままの率直な御意見をお聞かせいただきたいと思います。
次に、塚本参考人にお聞きしたいことは、PTAが寄附団体に陥ったり、できる子の親中心の運営、本来の機能を果たすに至っていない例が非常に多いと伺っておりますが、PTAの現状と改善策について御意見がございましたらお聞かせいただきたい。
もう一点は、母親として、少年補導員として、PTAの役員として、あるいは子供会運動を熱心におやりになっているお立場から、家庭教育の重要性というものをどういうふうにとらまえていらっしゃるか。
次に、能重参考人に、中学校では高校進学を前提に授業や学校生活が進められていると思いますが、一握りとはいえ中学校卒業後社会に出る者への配慮、これがなさ過ぎるのが現在の中学校教育ではないかと思いますが、これについての現状と改善策をお持ちでしたらお聞かせいただきたい。
もう一つは、荒廃した中学校教育に失望したり、自信を失ったという教員の退職がふえていると聞いておりますが、この現状はどうなのでしょうか。
真鍋参考人にお聞きしたいことは、真鍋先生が学校経営における教員の年齢構成の重要性ということについて非常に御研究をしていろいろお書きになっていらっしゃいますが、この点について、教育現場の現状とその重要性についてお聞かせいただきたいと思います。
またもう一点は、全人教育を目指しながらも高校入試に照準を合わせざるを得ない教師の苦悩というものはどういうものであり、また御意見があればお聞かせいただきたいと思います。
以上でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/42
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043・沖原豊
○参考人(沖原豊君) お答えいたします。
最初の、学力のおくれた子供に対する対策でございますが、三つ申し上げますが、一つは、フランスでは落第が非常に厳しく行われておりまして、小学校卒業までに三分の一は落第する。中学校は低学年で約半分は落第しておるという状況があります。日本は落第させないから進学のときに一気に皆落としておるわけです。それで受験競争が激しいと、こういう目立つ点もあるわけです。アメリカでは学力の非常におくれた子供に適した教育内容をそれぞれつくってやる、オールターナティブ、代替ですね、かわりのものをそれぞれの者につくってやるというきめ細かい配慮をいたします。
それからもう一つは、これはアメリカでも、特にスウェーデンで実施しておりますが、リカレント教育といいまして、日本では回帰教育。つまり、従来は義務教育は長いほどいいと皆思って戦後延ばしてきたんですが、日本でも青少年非行の一番多いのは十四歳ですから、中学校二年生です。それですから、もうそのあたりで勉強したくない子
供は、現にこの間から新聞その他でも報じられていますように、もうおまえは学校へ来ぬでもいいから働いておれとか、三日に一回来たらいいという措置が現になされているわけですね。もう働かしているわけです。そうしますと、勉強したくない者をいつまでも義務教育で引っ張るのがいいのかという問題になりまして、アメリカの案などでは、大体義務教育は六歳から十四歳までの八年間でいい。ただ、それで切り捨てるのじゃなくて、そのかわり無償教育ですね、ただの教育は二十歳まで保障するから、十四歳で社会へ出たい者は出て働いて、三年たってやっぱり勉強したいというときに学校へ帰ってくる。これを学校はまた試験やって落とすというようなことをしないで、その経験を生かして学校へ返す。そういう、学校で勉強し、社会へ出て働き、また学校へ帰るという、このリカレント教育を繰り返すということを今後の日本の教育制度の改革ではぜひ考慮すべき問題だと思っております。
それから、教師に対する尊敬の問題でありますが、これは、私が申し上げたいと思っていたことを御質問いただいて非常にありがたいのですけれども、校内暴力は、やはり教育に対する基本的な考え方というものを変えていかないとなかなか克服できない。その一つは、先ほど申し上げましたように、自由と規律のバランスを保つということを申しました。もう一つは、やはり教師と生徒の関係をどう考えるかということをもう一度真剣に考えてみる。
従来は縦の関係であったのを、戦後では横の方がいい、教師と生徒は横の関係だと考えられる学校の先生方たくさんおられるようですけれども、中国の例を申し上げますと、校内暴力については誘発要因があります。それを引き起こす要因と、それを抑止する要因とがございまして、誘発する要因はたくさんありますが、抑止する要因として、現在、中国、台湾あるいは韓国でみずから認めているのは儒教ですね、儒教というものが抑止力を持っていると。そういうことでありますので、やはり中国は儒教の思想に基づきまして、教師と生徒の関係は尊師重道——先生を尊敬し、道徳を重んずると。これを文革で徹底的に破壊したわけであります。造反有理というので、先生に反抗し、先生をやっつけるということが文革で行われて、従来の先生を尊敬するというのをぶち壊しました。
ところが、文革が終わりまして、現在の新しい社会主義国中国ではどうなっているかというと、再び尊師愛生という基本に立ち返っているわけですね。尊師というのは先生を尊敬し、先生は生徒を愛する。昔は尊師重道で道徳を重んずるでしたが、尊師、先生を尊敬するという点において、中国においては、あの文革でそれをぶち壊そうとしてもそれが果たせないで再び返ってきているわけですね。ソ連もそうです。ソ連では、労働者としての教師の仕事というものについて敬意を払えという意味で、先生にも敬意を払えということが強調されております。
そういう意味で、戦後、日本がアメリカのいろんないい影響も受けましたが、問題点としては、教師と生徒との関係が横であるのか縦であるのか。もし横であるということが望ましいのなら、いかにして学校の規則を守らすことができるか。まあ私の考えで言いますと、それは契約思想、契約でなきゃ成り立たない。教育委員会、学校当局と親の契約で、こういうことをやれば退学ですよ、こういうことをやれば停学ですよ、こういうことをやれば弁償してもらいますという契約の関係をとるのか、従来のような、先生を尊敬し、先生が真の意味の権威を持っておると、そういう真の意味の権威尊敬の中で教育がうまくいくという、どちらをわれわれとしては今後志向しなきゃいけないかということが非常に大きい問題だと思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/43
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044・鈴木誠太郎
○参考人(鈴木誠太郎君) お答えをいたします。
町田、それから東村山、いずれも学校教育法第二十六条の問題になるかと思いますが、基本的には、たとえば学校あるいは学年、学級で包み込んで、何としても学習権を守るということはやりたい。あるいは個人的に課題を与えて学習させるというようなことも考えられないわけではございませんが、柏原先生がおっしゃられた学校の放棄だけは何としても避けたいというのが現状でございます。ありがとうございました。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/44
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045・曽我健
○参考人(曽我健君) 最初の、テレビの暴力場面、殺人場面の影響でございますが、これは確かに影響があろうかと思います。最近、テレビのチャンネルも大変ふえまして、子供たちのテレビに対する抵抗力もついてはきておりますけれども、かつて高倉健のやくざ映画を見たときに、みんな胸を張って映画館から出てくるというようなことがございましたように、多かれ少なかれそういったシーンが子供たちに影響を与えていることはあろうかと思います。NHKでは、かつて暴力場面を全部追放するといったような時代もありましたけれども、最近は、その辺は抵抗力がついたということもありまして、やや緩んでいる面もあろうかと思います。
それから、こういった暴力場面の影響についてNHKとして分析したことがあるかどうかという御質問でありますが、これは私いま資料を持っておりません。NHKがやったかどうかまでは定かではありませんけれども、最近の暴力場面の出てきたそのシーンの数が幾つあるかどうかとか、それからそれがどんな影響度を与えているか、子供たちが暴力シーンにどんな共感を呼んでいるのかといったような調査はたしかあったように記憶しております。帰りまして、資料が見つかりましたら、柏原先生の方へお届けしたいというふうに思います。
それから、取材拒否があって放映できなかった点というようなことでございますが、もしごらんいただいていればおわかりかと思いますが、あの第二部で放映いたしました「教師が問われている」という学校は、いわゆる校内暴力ということで問題がある学校ではございません。校内暴力はまあ警察で取り上げた件数で教えているのでございますけれども、ごく平均的な学校というふうにお考えいただければと思います。したがいまして、あの学校以外に取材した生徒たちの話そのほかから推測いたしますと、あの場面にあらわれたそれこそ三倍、四倍以上の恐ろしい事態が進行しているというふうにお考えいただきたいと思います。テレビで撮影できる部分には限界がございます。まあ非常にこわい部分のほんの十分の一ぐらいしか出てないというふうにお考えいただきたいと思います。
それから中学教育での原因でございますが、これはたくさん考えられます。私が痛感いたしましたのは、やはり家庭の崩壊がこれもきわめていま先進国並みに近づきつつあるということが一つであります。それから、やはり教師集団のまとまりのなさといいますか、教師が教育に立ち向かう情熱が持てないほど疲れ果てているというような印象を受けました。それから子供たちについて言いますと、これは教師にもかかわってくることですけれども、いまの受験体制、その極端な例を挙げますと、もう五歳の秋から上の学校目指してテスト、テストの繰り返しで追い込まれていくというような、偏差値体制、受験体制、こういった点にも非常に大きな問題があるのではなかろうかという印象を強く持ちました。
以上でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/45
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046・塚本千枝子
○参考人(塚本千枝子君) まず、PTAのことですけれども、現に、PTAは要らないんじゃないかという案はもう何年も前から出ていると思います。もちろんPTAのあり方もありますけれども、まず、悪い方の例をとりますと、学校に口出しが多い。PTAの役員の肩書きを利用いたしまして、何だかんだと、あの先生は悪いから、今度の人事のときはほかへ行かした方がいいんじゃないかとか、そういう口出しが多い親が実に多いんですね。それと、そういうふうに先生の悪口を言っている親が、中三になりますところりと変わりまして、あの先生はいい先生だとか、急に変わるんですね。その原因を見ますと、いわゆる内申
というんですか、それをはっきり言うんです。すごくわあわあ言っていた親が急に変わるので、どうしたのって言うと、あれはあれなのよ、だけれど、自分の子供はどうしても入れたいから、先生にはいい顔しなくっちゃ……。それで陰では言ってるんですけれど、今度先生に会いますと飼われた猫みたいな顔になるんですね。そういった親たちだけでしたらば本当にPTA要らないと思います。
でも、逆に今度はいいところといいますと、いま現にいろんな非行問題が起きておりますけれども、そういったときに先生方と手を合わせていろんな面で生徒と交流する、そういったところでずいぶん生徒が変わった例もいっぱいあるわけですね。
そこで、いろいろまとめてお話ししますと、私も十数年やりました経験上、何か責任転嫁するようで申しわけないんですけれども、PTAの親たちをよくするのも悪くするのも先生方次第と言っちゃおかしいんでしょうか、うまく利用すればいいんじゃないかと思うんですね。やはり先生にも弱い面もあり、それからもちろん親にも弱い面もある。ですけれども、人間的なつながりというのがその前に大切だと思うんです。
先ほどから何回もお話ししておりますけれども、初めに人間的な交流をまず第一に考え、父親と学校の交流というのが先ほど参考人の方からお話が出ましたけれども、うちの方の地域でも、ことに父親というのは余り学校にも出てこない。それから、いろんな教育面にも口出しをしない父親というのが実にいま多いので、夜とか土曜日あるいは日曜日に、先生方とそれから父親を主にして、うちの方では、体を動かそうということで、ソフトボール大会とかバレーとか、そういったことで先生方と交流します。そうしますと、後で親たちと話し合いますと、何だ、子供たちがあの先生はこうだと言ってたけど、案外いい先生じゃないかと言うんですね。やはり親というものはばかなもので、子供の言った話全部正解とは言わなくても、半分以上そうじゃないかと思っちゃうんです。ですから、まずそれを打ち消して、それにはまずPTAの者が、先生のお忙しいのはいまのお話で十分にわかるんですけれども、その一時間のときでも先生方とお話しして交流を続け、お互いに助け合うのが一番いいPTAだと思っております。
それから今度は母親として、家庭教育の主体性ですか、大変むずかしい問題なんですけれども、いま私も補導の関係で大体そのおうちへ行っていろんなお話をするのですけれども、大多数が母子家庭。母子家庭と申しましても母と子の家庭じゃなくて、お父さんがいるのにお父さんの感じも母親と同じ感じの家庭がすごく多いんです。ですから、ここは夫婦そろっていても母子家庭だなと私は思っております。
そして、いまいろんな話で、もう先生方十分おわかりでしょうけれども、いま周りがすごく豊かになりましたけれども、小学校の高学年ぐらいから中学になりますと、ほとんどの親がパートに出ております。それも、どうしても生活に必要だからというのではなくて、おわかりのようにローンとか、それから家庭の食事だっていろいろある程度のものが食べられているのにさらにもう少し、それからまた趣味とかそういったためのパートが多いんですね。ですから、私たちが話し合おうと思っても、パートだからと言うんです。あるひどい例になりますと、万引きをした子を補導いたしまして、母親を呼んだんです。ちょうど十時ちょっと前なんですけれども、いらしてくださいって言いましたら、何とその母親の言うのは、いまパートの時間だから行かれないと言われたんです。子供が大切なのかパートが大切なのか疑ったような次第なんですけれども、そんな例は幾つ挙げても切りがないんです。
まず母親として、私は皆さんによく集まるとき言ってるんですけれども、朝出かけるときと帰ったときは、必ず子供の顔を見て、行ってらっしゃい、お帰りなさいということを、これは必ず言ってくださいと言っております。いまの中学生になりますと、行ってらっしゃいと言ったって、うんて声を出さないであごだけ引いていくことも多いし、帰ってきてお帰りなさいと言っても、何だという顔をする子が多いと思いますけれども、繰り返し繰り返しそれは言うのが母親の務めじゃないかと思っております。そして、どんなに忙しい場合でも必ず手づくりの物、手づくりの品をつくっておくということ、それも母親の役目だと思っております。
それからもう一つ、最後に、これが一番子供との話し合いで大切なことなんですけれども、親がその子の意思を途中で、願い事というんですか、頼まれ事を、いけないと最初言っているのに、最終的には通してしまうこと、これが一番いけないことだと思うんです。よくいまのお子さんたちは小学生、中学生でも大きな金額のものを欲しがるんですね。その場合に、だめよって言うんです、最初は。だめよって言うと、その子は何だかんだとそのたびに、もう中学生になりますとわざとこれ見よがしに物を投げつけたりなんかするような子が多くなるんです。そうしますと、ある程度、一カ月ぐらいたって、絶対だめよって言っている親が、今度その子供に対してかわいそうになって、理屈をつけ出すんです、自分自身で。まずその子供が百点取ってきたからという理由、それからお誕生日だからという理由、何か親が勝手に理由をつけて自分で納得して、その子に最初買ってもらいたいと言ったものを買い与えてしまうんです。そうしますと、その子は親が幾ら理屈をつけても最初に買ってくれと言ったものが買ってもらえるんですから、過程はどっちだっていいわけなんです。要するに買ってもらったということ、わがままがきいたということ、それを通していったら、まず何でも通ると思って、それが、大げさに考えるようですけれども非行の一端になるんじゃないかと思うんです。
ですから、いろんな話がいっぱい出ておりますけれども、まず一番大切なのは母親教育、自分で言うのはおかしいんですけれども、母親という力が一番大切で、まずそういったところから子供との接触、それから今度父親がそれに逃げていたらば、それに対して一生懸命母親が間をとって話すということ、それが一番大切であり、家庭教育は家庭教育、今度は学校の方は学校にお任せするという、そういった姿勢が母親としては大切だと思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/46
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047・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) 恐れ入りますけれども、参考人の方はできるだけお答えを簡潔にお願いしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/47
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048・能重真作
○参考人(能重真作君) 簡潔にお答えしたいと思います。
第一点の、高校進学を前提とした教育ということで、社会に出る子供たちの教育がおろそかにされているんではないか、現状全くそのとおりであります。これは何が原因かと言えば、何といっても九十数%の高校進学率、しかも大変競争の激しい、この中で偏差値教育が学校の中を完全に支配し切っている状況、これを打破する以外に道はありません。私たちもかなりその偏差値あるいは偏差値を打出してくる業者テストに振り回されない、本来の私たち自身のつくったカリキュラムでやる努力はいたしておりますけれども、かつて市販テストをできるだけ学校の中に導入したくないということから、一年間に三年生であっても二度ほどしかやらない時代がありました。しかし、残念ながら今日私の学校でも、十回、毎月テストを行うという状況になっております。これはどこからそうなったかといいますと、父母の圧力であります。これをやらないと熱心な先生ではないとか、それから大変進学について不安であるとか、これは親のそういう要望もまた無理からぬところでありまして、偏差値の出す、そしてコンピューターではじきだす相手の学校の予測、かなり的中するわけであります。
こういう状況の中で教師もやむなくテストを使わざるを得ない。とすれば、そのテストの点数を上げるということで、どうしてもやはり高校進学
を前提とした教育ということが入り込むわけですね。学校の校長先生も、本校を区内何番ぐらいの学校にしよう、来年は三番ぐらいの学校にするんだという、その三番とか五番というのは一体何を基準にするかといいますと、業者テストの方ではじき出す学校偏差値が出てくるわけですが、これは表向き学校の名前は書いてありませんけれども、番号を調べれば必ずどこの学校とわかるようになっているわけです。そしてその点数で、いまは何番目であの学校に負けているというようなことで叱咤激励されるわけですから、どうしてもその辺の弊害を取り除かないといけないということと、改善策については、やっぱり高校三原則でしょうかね。小学区制、そして男女共学、総合制、どの子もやはり地元の学校に入れる、しかし入ったらやはり勉強しない子は出られないような制度、これはぜひ検討していただきたいというように思うわけです。
それから、教師の退職が確かにふえております。私の学校でも、まだ十分働ける若い子持ちの女の先生がやめました。つい最近お会いしたんですが、やめて大変生き生きとした、はつらつとした顔に戻りました。いま学童保育の先生をやっておりますけれども、本当に教師という仕事が喜びを持ってできる仕事でなくなっているというのは事実であります。一年間にある学校では四名、しかも途中で二人ほどやめております。これは東京ばかりじゃありません。先日、仙台へ行ってきましたときも、何人もの若い女の先生、年配の先生から、いつやめるか、やめる潮どきを聞きにこられたりなんかしまして大変困ったわけですけれども、子供を抱えながら、しかも生活に苦しみながら子供と悪戦している教師がたくさんいるということをぜひ強調しておきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/48
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049・真鍋親寛
○参考人(真鍋親寛君) お答えします。
学校経営の年齢構成の問題ですけれども、要するに学校はお兄ちゃんやお姉ちゃんみたいな先生がいて、そして経験もある、見通しもある三十代、四十代がいて、経験豊富な五十代がいる。三十代はちょっと子育てにかかっていますから完全にそうはならないですけれども、その年齢構成がやっぱりバランスがとれるということはすごく大事ですね。もう一つは、そのお互いのよさを教師同士の中で子供の前で光らせるようになっているかどうか、とりわけ校長先生がそういうような雰囲気をつくっているかどうか、そういう校長をバックアップしているかどうかというのはかなり大事です。ただ、現状から言いますと、四十代が少ないというのが率直な現状だと思います。地域によって格差があります。通学の便利のいいところにベテラン教師がたくさんいるとか、区で言いますと江戸川区は若いのばかりとか。そういう困難性がありますので、人事の中では年齢構成がバランスがとれていることが大事だと思います。
あと高校入試の悩みですけれども、これはもう教師にとってすごい悩みですね。たとえば四十四人いて、あのクラスの中に高校へ行けなかったのが何名いるということでその一年間の教師の指導力量を問うような風潮があります。ですから、教師にしてみれば学力を上げるということと、学力に応じて高校を選ぶという仕事があります。そういう点では疲れますけれども、でも私は、やっぱり社会の壁に一番ぶつかるときに、子供がばらばらになるそういうときにこそ生きた教材になるんだとか、離れ離れになるときこそ教えることがたくさんあります。受験生の中で、クラスの中で一人か二人、みんなが受かっちゃって自分だけ滑る夢を見る子がいるんですよ。武田鉄矢じゃないですけれども、人は悲しみが多いほど人にやさしくできるからというのがありますね。そういうときにやっぱり友達に対する配慮を必ず覚えます。お互いに揺れている中でお互いに進路を公開して励ましていこうということもできるわけです。
こういうぐあいに、どうしてばらばらになるのかという中で、こういうような差別がない、格差がないようなためにどうしたらいいのかということを考えさせることもできます。そういう点では非常にしんどくって苦しいですけれども、だからこそやっぱり子供を鍛える絶好の機会だというぐあいに私は思います。ただ、それが実態、すべての学校でそうなっているかどうかはまた別ですけれども、それはやっぱり扱い方によるのではないかと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/49
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050・佐藤昭夫
○佐藤昭夫君 私は、持ち時間が十分ですので全員の方に質問ができないことをお許しをいただきたいと思いますが、まず曽我参考人にお尋ねをいたしますが、先刻のお話で、ニューヨークの学校安全局長のアメリカにおける管理主義中心の失敗を日本では繰り返さないようにというその発言を紹介をされておったわけでありますが、この最近の一連の事件が起きまして、中曽根総理を初め、政府関係者が一連の発言をしている。その内容はここで私が繰り返す必要はないと思いますけれども、こういった発言に対してこれを危惧するマスコミの論調等もありますが、曽我参考人はどのようにお考えになるでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/50
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051・曽我健
○参考人(曽我健君) これは私の個人的な意見でございますけれども、こういった事件の続発に対しまして、力だけで立ち向かっていった場合は必ず失敗するのではなかろうかということを、外国の例、それからこれまでの経験から、これは感じでございますけれどもそういうふうに思っております。力だけではなくて、教師の力、それから先ほど参考人からも指摘がありました生徒たちの力、そういった総合的な力で対処していかなければいけない。これを機会に逆に管理がきわめて厳しくなるといったような方向へ向かっていくといたしますと、やや心配な面があるのではなかろうかというふうに私個人としては考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/51
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052・佐藤昭夫
○佐藤昭夫君 次に、能重参考人にお尋ねをいたしますが、まあ真鍋参考人、どちらでも結構なんですけれども、時間の関係でちょっとお一人にしぼらせていただきたいと思いますが、非行の問題、暴力事件を初めとして教育荒廃の原因について、一部に教師がサボっているといいますか、一定の勤務時間が過ぎると活動しない、日曜日も出てこない、こういうことで教師がサボっている、そこに原因の一つがある、こういう論調といいますか、批判が一部にあろうかと思うんですが、私も京都で学校の教員をしておりましたので、京都の姿を見ても決してそういうことではない、日曜日も返上をしていろんな職場の教職員の方々が努力なさっておると思うんですけれども、あなたの、参考人の学校でも結構ですし、足立区なり、そういう教職員の努力の姿ですね、そんな点を少し御紹介いただけたらと思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/52
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053・能重真作
○参考人(能重真作君) 率直に申し上げまして、そういった教師の問題が全く皆無だとは申し上げられないと思うんです。しかしそういった状況のところは、私がよく訪問したりなんかしてお話しするのは、いまのうちきちっと自分自身を締めてかからないと大変なことになりますよということを申し上げる学校もたまにはありますけれども、いま指摘のあった私の勤務する足立区だけで例にとりましても、そういった学校は皆無だと言っても言い過ぎではありません。
確かに私たちも給料もらって生活している人間ですから、無定限な労働を何か強制的に強いられることについては大変疑問も感じますけれども、しかし相手は生きた子供ですから、本当に勤務時間が過ぎてからむしろ生徒指導が始まると言っても言い過ぎではありません。正規の勤務からいきますと、もう授業を終わり、そして清掃やって、学活やって、はい、さようなら言うと、もうそろそろあと十分か十五分で勤務がおしまいなんです。普通の会社ならそこで明けるわけですけれども、そこから問題の子供の家庭訪問をしたり、呼んで指導したり、そしてその辺からまた子供は外に帰りますから、そうすると団地の、あるたまり場があって、そこで何かたばこを吸っていたという通報が学校に入ります。本来もう地域に帰した子供ですから、地域の方で対処してくれていいわけなんですけれども、しかしどうも、自分の家の庭にボールが飛び込んできて植木鉢が壊されたという苦情まで全部学校に持ち込まれるわけです。それに対して、いや、それは学校の仕事では
ありませんということを言えば、ますます教師不信、学校不信が強まりますので、私たちはもう自転車で飛んでいきます。そして子供を捜したりあるいはおわびをしたり、そしてガラスを入れたりする。場合によっては、集団抗争なんてあれば、うわさだけでも、本当に教師が九時、十時まで待機をして、そして事態に備えたり、あるいは向こうの学校の先生と連絡をとって未然に防ぐとかいうことをやっております。
それから家庭崩壊については大変深刻な問題がありまして、もう親が家に帰らないような家もあります。一戸建ての家ですと心配ですけれども、最近集合住宅がふえておりまして、マンション、アパートですね。頑丈なかぎですから、子供だけ置いておいても親は安心なんでしょうか、仕事と称して帰ってこないことが大変多いわけですね。そこが子供たちのたまり場になって、不純異性交遊あるいはシンナー。ところが家庭訪問しても、頑丈な扉ですから、幾らたたいてもあけてくれない。そういったことで全然指導が行き届かなかったこともあります。家出十日、二十日も繰り返して、そして空き巣をやっているというような状況で、東京の子供が群馬の方で逮捕される。しかし家庭に連絡しても親は忙しくて、あるいはどこにいるかわからなくて迎えに来ない。仕方なしに担任の教師が二時間も三時間もかかって迎えに行く。深夜に及ぶことももう毎日のようです。
ですから、確かに教師の問題ということで、一部にはそういう勤務時間が来ればおれの仕事ではないよというようなことをはっきりとおっしゃって行ってしまう教師もいないわけじゃありません。私の職場にはおりませんけれども、地方に行くとそういう話をよく聞くこともあります。しかし、それが原因で校内暴力が起こっているとするならば、もうとうに学校は崩壊しているんではないか、その学校は。しかし地域的状況がよいために校内暴力が起こっていないというように見受けられることもありますけれども、逆に日夜奮闘しても、しかもなおかつやればやるほど、場合によっては子供の反感を一時的には買うことがありますから、現象的にはそういうことがあり得る。しかしそれはそこのところを突き破って、教師の使命としてお前たちをまともにしたいんだという熱意さえあれば、やがてそれは子供にこちらの気持ちも理解してもらえますから、いまでは私の学校ではそういった心配は全くありません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/53
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054・佐藤昭夫
○佐藤昭夫君 沖原先生、一点お尋ねをいたしたいと思いますが、先刻の最初のお話で、諸外国との比較研究を通して、アメリカを初めいわゆる重症国、ここでは規律、管理の強化、これを第一義にしておる、教育条件整備や、いわゆるわかる授業、こういった問題は余り高い位置づけになっていないようだというお話でありましたが、その際に先生も、もちろん一律に論じられることではないというふうにはされておりますが、日本のように、たとえば四十人学級一つとらえましても先進国と比べてはるかにおくれておる、後進国の中でもおくれておるぐらいという、こういうふうに教育条件がおくれているような日本の場合、あるいは学歴社会が非常に根強いという日本の場合、こういうところでは、こういう教育条件整備の問題だとか、あるいはわかる授業を目指しての学力引き上げの問題だとか、こういった課題というのは日本の場合には非常に重要な課題、非行克服のためにも重要な課題ということではないかというふうに私は思うんですけれども、先生の御所見どうでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/54
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055・沖原豊
○参考人(沖原豊君) お答えいたします。
アメリカでも校内暴力に取り組むアプローチ、取り組み方、二つあるわけですね。一つが人道主義的なアプローチ、ヒューマニタリアンアプローチ、これは先ほどから参考人の御発言の中にもたくさん出ましたけれども、子供を信頼し、子供の自主性を尊重していく、だから余り管理してはいけない、あるいは規則を遵守させるんじゃなくて子供が責任を持って行動することを期待する、学校の中でもですね。そういう考え方でありまして、これでずっとアメリカもやってきたわけです。
それからもう一つは厳罰主義、日本の言葉では厳罰主義的な取り組みですね。だから規律重視、規律に違反した者は厳罰に処する。といっても、やはり校長は理と情とをあわせ持っていなきゃいけないということは言われています。厳罰もするが人情味もなきゃいけないということは言われていますが、要するに厳罰主義、規律重視ですね。
そこで、二つあるんですけれども、アメリカは最初は人道主義的な道を非常に歩んできたことは事実なんです。そして、今日の対教師暴力一年間に七万件、そして全教師の四分の一が暴力におびえている。そして学校、校舎破壊、器物破壊の被害が一年間に六億ドル、全国の小中校の教科書代に匹敵するほどの損害を出しているわけでありますが、ここに至ってやはり国立教育研究所も規律重視という方向を出し、先ほど曽我参考人からもお話を伺ったんですが、最近ニューヨークへ行かれましたらそういう忠告も受けられましたけれども、しかし、やや規律重視のことで鎮静化を当面はしておるということでありまして、いま日本のたとえば子供を信頼する、子供の自主性を尊重していく、子供の自立心、自己統制力を尊重するといっても非常にそれを過信している面があるんですね、そんなに子供にあるのか、小さな子供に。そういう面もありますが、しかし私は、そういうことはあるだろうとも思うんです。
ただ結果論というか、現実は日本は一つもよくなってないです、校内暴力、青少年の非行が。年々悪くなってきている。そうすると、いままでのアメリカで言えば人道主義的なアプローチでこの校内暴力、青少年非行が乗り切れるかという問題、われわれはいまやそれを考え直してみなければいけない。ということは、そのことを私は全部捨てよと言うのじゃないんです。それは大切なことですから引き続きやるけれども、最初に申しましたように、非常に厳しいこの間の町田のあれとか、いろいろなところでは、やはり規律重視という面をあわせ持たないと——あわせ持つということですね、あわせ持たないとやっぱりいけないんじゃないかと、そういう意味のことを申し上げたので、お答えになったかどうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/55
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056・佐藤昭夫
○佐藤昭夫君 ちょっと私の質問とかみ合っていないんです。済みませんが、私も、どのような理由であれ、学校内暴力であれ家庭内暴力であれ、どのような理由の暴力もこれは是認されることではないというのはこれはもう教育の大前提、大原則だと思うのです。そのことを肯定した上で、したがって暴力に対して必要な規律監督を強化する、毅然たる対処をするということは当然のこととして、先生の最初のお話で、教育条件整備の問題とか、あるいは学力の問題といいますか、わかる授業の問題がアメリカでは七番目か八番目に出てきているということであったんですけれども、日本では、これは日本のアメリカと違った社会の現状ですね、学歴社会とか教育条件がおくれているとか、こういう点で重視すべき課題ではないでしょうかというお尋ねなんです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/56
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057・沖原豊
○参考人(沖原豊君) どうもその点につきましては、アメリカの場合はもうそういうことは十分やってみたと、だからいま必要とするものは規律の方が上に上がっているのであって、決して軽視しているわけじゃなくて、それは実際やっているわけですね。いろんなカリキュラム、オールターナティブという、正規のカリキュラム以外に一人一人の子供に、おくれた子供に適したカリキュラムもつくってやっている、それは十分やったという意味でかなり低いのでありまして、日本の場合はその辺は今後とも非常に必要であると私は思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/57
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058・佐藤昭夫
○佐藤昭夫君 終わります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/58
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059・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) この際、沖原参考人に申し上げます。
御都合がおありのようですので退席されて結構でございます。長時間にわたり貴重な御意見をお聞かせいただき、まことにありがとうございました。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/59
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060・小西博行
○小西博行君 それでは、曽我参考人からちょっとお伺いします。
私は実は十分しかございませんので、簡便にひとつお願いしたいと思います。
と申しますのは、最近の何か子供の非行問題をずっと調べておりますと、受験という問題がどうしても大きなウエートを占めているような気がするんですね。たとえば高等学校へ入るのに九九がわからない、それでもどこかの高等学校に入れるという現実がかなりありますね。そういたしますと、やっぱり学校の中でほとんど九九がわからないままに算数やらにゃいかぬという非常におもしろくない授業がずっと続くというようなことで、私はやる気どころじゃなくて、何か自己主張をやるためには校内暴力といいますか、目立つ行為をやっぱりやらなければどうしようもないという悲しさがその子供さんの中にあるんではないかなという感じがしているわけなんです。その辺のことに対して、いろいろ今回のテレビの取材に対しての調査を通してどういうふうにお考えでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/60
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061・曽我健
○参考人(曽我健君) 非常に抽象的な答えになりますけれども、全くおっしゃるとおりだというふうに考えております。
日本は大変画一的な社会でございまして、平等化が進んだ結果、みんな同じレベルで教育をしなければならないというふうにいま思い込んでいるように思います。私どもが取材しました中学校では、授業におくれていた子供に対しまして夜学習、朝学習をやっていると紹介いたしましたけれども、授業をエスケープする子供たちがそういった夜学習には非常に明るい顔で生き生きとして参加してまいります。そういった一つの場面だけを見ましても、そこまでやはり教師が手をかけてやらなければいけない。いま教師が大変疲れていると言われましたけれども、そこまでやっぱり教育の行政が目を広げていかなければならないというふうに痛感しております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/61
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062・小西博行
○小西博行君 関連して能重参考人にちょっとお聞きしたいんです。これ、現場の教師という立場なんでお話をお聞きしたいんですが、私も実は大学で経営工学というのを教えておったわけです、この間まで。そういう意味で、小学校、中学校時代というのは非常に塾へ行ったりなんか大変勉強することにお金をかけ、そして大学へ入ってくるのですが、途端に何か実力がないといいますか、前向きにやろうという、案外金かけたわりにはさっぱりできておらぬなというのが実感なんですね。そこで、大学に来ましても何か劣等感の固まりのような子供さんがたくさんいらっしゃる。だから学生に対して関心をこちらが持って、いつか褒めるといいますか、ショックを与えるといいますか、そういうことをもうベストでやらなきゃいかぬ。これ大体百六十人ぐらい一クラスいるんですけれども、体が大きくて非常にスポーツマンだけれどもさっぱり勉強が嫌だから後ろに座っている、そういう者に対する動機づけですね、これが非常に私は教育にとっては大切じゃないかなというのが実感なんです。
その証拠は、私ども大人にいたしましても、たとえば算数が非常に好きなのはたまたま小学校のときの九九あるいは一足す一が二だということがわかった、それを褒められたという非常にタイミングのいい先生との出会い、これによって非常に算数が好きになるとか学校が好きになる、こういう問題が私はあるんじゃないか、そういう意味で、四十人学級というのが非常に大きな一つの条件になってくると私は思うわけですけれども、その辺のところがこの非行問題についても実は一番大事な大きな要因になるんではないか。そういう意味で、先生の適性化が果たしてどうなのか。いわゆる採用のやり方とか、それから、実際に入ってから一年間ぐらい研修したらどうだ、これは民社党はそういう提起をしているわけですけれども、そういう方法は一体どうなんだろう。こういうことを言っているわけなんですが、その辺に対する考え方はどうでしょう。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/62
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063・能重真作
○参考人(能重真作君) 教師の適性ですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/63
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064・小西博行
○小西博行君 ええ。それからさっきの動機づけと。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/64
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065・能重真作
○参考人(能重真作君) 動機づけのことにつきましては、やはり本質的には本人が何のために学ぶかという学ぶ目的をしっかり自覚できることだろうと思うんですが、残念ながら偏差値学力ということで、通信簿の点数をよくすること、あるいは高校受験というところに偏っていること。その目標を失った子供はもう学習意欲をなくすわけですから、これはどうも勉強嫌いをつくっている私は根本の原因だろうと思うんです。一時間一時間の授業の中で子供がわかっていく喜び、これが連続して一つの学力形成をしていくのだろうと思うんですが、そのように一人一人にわかる喜びを感じさせるようなゆとりある授業ができないということが、やはり指導要領等の問題として一つは指摘されてしかるべきだろうということは考えます。
しかし、その中でも教師たちは大変工夫しております。たとえば私の一つの実践を申し上げますと、5・4・3・2・1という通信簿の点数がオール1の子です。この子に——私は国語の教師で国語の時間を教えているのですが、何もできないわけです。五問テストというのをやっております。これはあらかじめ五問漢字を出しておいて翌日テストをするというやり方なんですが、これを班で集計して、間違いの数を出し合ってお互いに励まし合うということをやっているんですが、その子の場合は班のお荷物になるわけです。しかし、私はその子に特別な指導を入れまして、放課後残して、その子に五問漢字を勉強させる。そのかわり君はほかの勉強は一切しなくていい、とにかく五問のこの漢字を書けることだけに専念せよということで二週間続けました。そうしましたら、できる子は一つ二つ間違えるのに、その子は少し時間をこちらが余裕を与えてじっと待ってあげますと、多少おぼつかない字を書きますが、ほぼ間違いなく漢字を書けるようになる。そのことに自信を得まして、この子は、一学期半ば過ぎあたりからかすかですがこんな感じで手を挙げるようになりまして、ほんの一、二行読ませたら読めるんですね。そして卒業時にはその子は大体通信簿の点数が2と3になるという、つまり一点突破と私は考えているんですが、一つのことに自信を得て、そして自分の力を見直すことができるという、そのことの経験をどう教師が与えていくのか。
それから、競争の中で振り落としていくのではなくて、競争の中でお互いに励まし、引き上げていくという、私はそれを授業の中における遊びの要素と呼んでおりますけれども、これはどの先生もやるわけですね。どの班が一番早くわかったかなとか、どの班が全員手が挙がったかなというようなことをやると、お互いに教え合って、おまえ手を挙げろというようなことをやり合うんですね。そういうまるでままごとみたい、小学校の一年生のやるようなことなんですが、中学でも私は導入しております。それで、大変子供はすさんだ状況にありますけれども、無邪気な面もまだ多分に残っておりまして、そういったことにちゃんと子供は乗ってきまして、一時間一時間授業をおもしろくやってくれます。私は幸いにして毎日授業を楽しくやっているわけです。
それから次の目標のなさということについて言うならば、これはもう生活そのものの目標が、特にこの不況以来なくなっております。かつては中卒は金の卵と言われた、ああいう時代とは違いまして、いま高卒が中卒に資格を落として就職するような状況の中で、大変就職の道も狭くなっておりまして、したがって、子供はもう高校へ行けないということだけで大変大きな人生の失望を持っております。それじゃがんばって高校に行けばいい、あるいは少しでも努力していい会社に入るように勉強すればいいと思うんですが、実際にはその日暮らしというんでしょうか、一日土木の、これは禁じられてることなんですけれども、中学生がやってはいけないような危険な仕事をこっそりやって九千円ももらう。安易にお金が入るような経験を子供はあっちこっちでやっておりまして、先輩も、高校を中退してもそういったことでその日暮らしをしている、ですから早々と人生をあきらめてその日暮らしを決め込んでしまうあたりに
学習の意欲をなくす一つの原因がありはしないかと思います。
それから教師の問題ですけれども、実は教員養成に私は強い要望をしたいわけです。正直に言って役に立ちません、大学で勉強していることのかなりの部分が。やはり生きた人間を扱うということで、もっとやはり子供たちの現場におりてきて、教育実習の期間をひとつ長くしていただきたいということと、それから大学の教官の構成ですね。学問だけでなくて、本当に実際に現場に来て役に立つ現実的な実践の教育をしていただきたい。そのためには、現場経験者をどんどん大学の教員養成の教官に登用するというようなことも考えていただきたいというように考えます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/65
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066・小西博行
○小西博行君 時間がいっぱいになりましたですけれども、質問じゃなくて、特に鈴木先生にお願いしたいわけですが、校長先生の苦悩というのはよく先ほどから聞かしていただきましたが、やっぱり、私は、学校の中でも一つの管理体制がないといかぬという考え方を持っているわけです。先生が三十人とか五十人とか、非常に人数が多い。生徒が千人を超す。そういう態勢になりますと、やはり、私は、管理体制だけは綿密に立てておかなければいかぬと思うんです。大変誤解があるのは、管理というのはコントロールだけだというようなイメージがあるんですが、管理は、御承知のとおり、プラン・ドゥ・シーということでありますから、当然、計画を立てて、実行して、後、結果がどうだったかというこのフィードバックのシステムなんですから、私は、そういう面ではぜひとも校長さんがしっかりしていただいて、学校の中を管理をぴっちりやっていただく。そのことで私は非行問題というのは未然に防げるんじゃないか、そのように考えますので、その辺をお願いして終わりたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/66
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067・前島英三郎
○前島英三郎君 いろいろ参考人の皆さんからお話を聞き、それからいまやりとりをいろいろ伺って、私なりに感じたことは、どうも、受験戦争の一つのひずみがそうした子供たちを生んでいるようにもとらえられるわけですけれども、しかし根本を考えてみますと、私もその一人で今日まで育ってきたのですが、元来、子供というのは非行性があってあたりまえである、非行性のない子供はむしろ将来は期待できないのではないかとさえ私は思うのですが、どうもそれが何か社会悪のような形でいろいろな形で取り上げられている。したがって、子供は親の顔を見ながら親の前での振る舞いをやり、受験戦争期になるとまた親よりもさらにごますりを覚えるような、妙な二面性を待ちながら育っていってしまうというようなことを感ずるわけですけれども、先ほど真鍋先生がおっしゃった言葉の中に、私はやっぱり子供が持っている力、それは、いい力もあるし悪い力もあるし、まさしく大人の社会の乱れをすべてそこに象徴されているような形の中で子供たちは生きているだろうと思うんですね。
そういうエネルギーのうまい引き出し方、これを、ただ管理するというか、あるいは強権をもってとか、あるいはがむしゃらにひっぱたくとか、あるいは自宅学習をせいとかというふうな形に、子供を鋳型にはめてしまうと、いまはベルトコンベヤーから落ちてしまう、ベルトコンベヤーそのものがだんだん狭まってきまして落ちこぼれる。落ちこぼれというようなことは、したがって非常にもう自分自身が自暴自棄になっていってしまうというようなことを考えますと、やはり子供の世界に、何がそのエネルギーを引き出す方法として必要と思われるか。もっと違う形の中で、塚本さんはたとえばボランティア活動みたいなことをおっしゃっておりましたし、真鍋さんはグループ活動みたいなことをおっしゃっておられたのですが、お二人にその辺の子供たちのエネルギーの引き出し方の必要性みたいなものがありましたら伺いたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/67
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068・真鍋親寛
○参考人(真鍋親寛君) お答えします。
一つは、教師が余りくそまじめだとだめですね。やっぱり教師も過ちを犯しながら成長する権利があるわけですし、私たちが聞いたのは、女の先生が毎時間お便所で泣きながら、そうしてお化粧を直して授業をやって、一人前になったという話を聞きました。そういう点では教師もやっぱりしたたかであるということが必要だろうと思います。これが一点。
もう一つは、やっぱり僕は自然の中で、自然が持つチャレンジ精神というのですか、これはちょっとプライベートな話になりますけれども、私の息子は今度小学校に上がるんですけれども、跳び箱が跳べない。跳び箱をする前に跳び箱をおりる練習をするんですね。そのできなかった息子が家内のお産で四国へ帰ったわけです。そうすると、こんな高いところから跳ぶんですね。どうしてかというと、トンボとチョウチョウを追っかけているからですね。やっぱり自然の中で子供が持つたくましさ、チャレンジ精神というものがあるんで、自然に触れる機会をたくさんつくるというのが一点です。
あと、学校の教育の中でやっぱり考えなければならないのは、子供がたくさん出番ができるような行事を組むということだと思います。企画から子供を入れる。そして、運動会だったら運動能力のある子供だけじゃなくて記録係であるとかあるいは装飾をきちっとやるとか、シナリオを書くとか、それぞれたくさんの集団の仕事があるのです。そういう活躍する場、経験する場をたくさんふやすということを教師が持てるか持てないか、そういうシナリオを書くことができるかどうかというのがやはりかぎだと思いますし、子供はやっぱり過ちを犯しながら乗り越えるたくましさと強さを持っているというところを土台に置くかどうかがやっぱり分かれ道だと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/68
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069・塚本千枝子
○参考人(塚本千枝子君) いまお話の中にありましたが、いまの子供は遊びを全然知らないのです。校庭の中の遊びを見ましても、大勢で校庭全体を使った遊び方を上から見ていますと全然してないのです。かたまってちょこちょこと遊んでいる。すなわち、集団的な、グループだけ、同じクラスの五、六人だけの集まりの遊びならできるんです。それではあれですので、やはりいまのお話の中にありますとおり、まず子供が、横じゃなくて、子供会を通じますと幼児も入っているのです。ですから、そういった子に自分が指導的にこうやってあげる、そうしてあげるというと、いままで受け身であった子が目を輝やかせていろいろとその子の世話をしているのです。そういうことをやりましたら、まずみんな私たちは、何でもいいから、小さいことでも見つけたら褒めましょう。褒めましょうという言葉を合い言葉にしているのです。褒めると言いますと皆さんは、幼児だったら褒めるということをお考えになると思うのですけれども、中学高校になっても褒める言葉がきくのです、褒め言葉が。もちろん小さい子は褒めるとにこにことすぐ反応が出ます。ですけれども、中学、高校になると褒めてもにやっと笑って何だという顔をするのですけれども、それがうれしい証拠にちゃんと後でそのことをしてくれるのです。ですから、まず褒めるということ。
それから、子供会を通じて運動会をしたときに、いまの先生のお話にありましたように、いろいろできる子とできない子がいるのですけれども、一番できない子にいろんな記録、子供会だけですから自由にできますので、記録をさせたり、旗を持つだけでもすごく生き生きしてくるんです。たとえば一つのごみを、何々君あれを拾ってきてと言ってもいいのです。捨ってきたら、あらよかったわ、助かったわとこっちが、大人というのは、なかなか日本人というのは褒め上手な人がいないので、私たちはまず褒めること、それから、遊びを縦、横で遊べるようにすること、そういったことを主体に子供のまた別な面というのを引き出すようにしております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/69
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070・前島英三郎
○前島英三郎君 そういう点では学校側の先生方もいろいろと悩んでおられるわけですけれども。
実は私の子供も、いま高校一年、中学二年、小学校五年と非常に曲がり角におりまして、人ごとではなくとらえているのですけれども、きょうのたとえば校長先生、いろいろグループをつくっ
て、本当に捨て身でやれば幾つか非常にいい効果があるというようなことを聞いたわけですけれども、どうもわが学校だけは何とかマスコミに乗らないようにしたいみたいなものが非常に保身術としていまの学校側にありはしないか。
実は私の子供の行っていた学校なんかでも、「校長先生、電話です」というのが校内の合い言葉になっておりまして、外に妙な非行グループが来ると突然校内に、授業中であろうと何であろうと「校長先生、電話です」と。こうなると一切表に顔を出してはいけないみたいな、何か学校のやり方が妙に子供たちを人格的にゆがめているような教育の形態がありはしないか。そして、もうすでに忠生中学の件にいたしましても東村山の件にいたしましても、おまえは卒業証書をあげるのだ、ほかの受験生の邪魔になるから来るなみたいなものがかえって子供たちを追い詰めているようないまの形があると思うんです。そういう点では学校側の、やっぱり先生方の問題というのも大変多いだろうし、それにまた輪をかけた社会全体の、親の非行化、先生の非行化も含めて子供の非行化、あるいはもう全体の非行化ですね、こういうひとつの倫理観の欠除みたいなものがますます子供をそういう場に追い詰めている。一体子供たちをわれわれがしかることができるだろうか、そういうような状況もあるようにも思うんです。
私は、やっぱり思いやりの心、あの横浜の事件で思いましたことは、学校の中に、弱い子供たちも障害を持った子供たちも一緒に学ばせる。そして数学のものすごいできるやつもいる、車いすを押すのがうまい子もいる。そういういろんなつっぱり的な部分にも、何か引き出す、ただ排斥するのではなくて何か引き出していくような心というようなものが教育の中にもっと表現されてもいいんじゃないかというような気がするんです。
神奈川県の串川中学校というところで障害児を迎えるときに、その前に障害児を、ある施設の子供たちを見せましてね、四十人の子供に。そうしたら二十人ぐらいが、なぜああいう子供を生かしておくんだって、そういう率直な意見を述べたそうです。つまり、彼らは人間じゃないと、国のためには殺した方がいいと。子供たちはそのくらいの差別の中から逆な差別の気持ちというものを人間社会のひずみとして持っていると思うんですね。結局その子供が入って、先生があれよあれよという間に登校、下校を順番に、子供たちは子供たちの中でルールをつくって送り迎えをするような形になって、結果的にはそのクラスからは非行が何の心配もなく、そうした統合教育の中で育っていったなんてケースを思いますと、この際、やはりベルトコンベヤーをもっと大きく広げて、受験戦争というような形の中で縛るんじゃない教育制度全般を考えるべきだというような気がするんですけれども、これはまあ私の個人的な見解ですからお答えは結構ですけれども、そういうように思いつつあっという間に十分が過ぎましたので失礼をいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/70
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071・片山正英
○片山正英君 大分長時間になって恐縮でございますが、私は簡単にひとつ御質問をいたしますので、五人の方に本当は御質問したいんですが、すべて行き渡らないと思います。お許しをいただきたいと、こう思っております。
まず第一に鈴木参考人にお伺いいたしますが、校長のリーダーシップが非常に重要だというお話でございます。私もそのように思っておるんですが、そういう態度ではございますが、学校の運営上に何か問題点がありますかどうか、その点一点お伺いをいたしたいと思います。
警察庁の五十七年ですか、新しい調べによりますと、だんだん非行少年というのは高校より中学にずっとなだれ込んでくるように多くなっております、いま中学が一番だということ。そして、お伺いいたしますと、その中学の非行、暴行は、私立と国公立に分けますと私立関係は一人もいない、一校もないという報告を受けて私はびっくりいたしております。すべて国公立の中学だと、こういうことを伺ったわけでございますが、こういう点についてどのようにお考えであるのかお伺いいたしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/71
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072・鈴木誠太郎
○参考人(鈴木誠太郎君) お答えをいたします。
私立に非行がなくて公立には非行があるということにつきまして、そのとおりだと思います。
それで、事実公立中学校離れということが叫ばれておりまして、中学校へ入る段階で私立中学校へと流れております。また、私立の中学において非行を犯した生徒が公立中学校に退学させられて入ってくるわけでございまして、そういう事情の中では公立中学はやむを得ないものとしてそれを引き受けて闘っているわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/72
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073・片山正英
○片山正英君 先ほど言った学校運営上に問題はないのかどうかですね、リーダーシップを発揮する場合に現在で十分であるとお考えなのか、何か問題点があればお聞かせいただきたいと、こう思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/73
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074・鈴木誠太郎
○参考人(鈴木誠太郎君) さまざまなことがございます。
たとえば、家庭に対してあるいは教師に対してあるいは地域に対して、さまざまなことがありますけれども、これは私たちとしてはそれを一つ一つ話し合いをしながら、あるいは打開策を提案しながら解決をしていくわけでございますが、教師の問題は、これは先ほど申し上げましたように、一番大きな阻害条件は考え方の違いだと思います。その考え方の違いを一律にこうだというような出し方をしていけばますます対立を深めるわけでございますので、少しずつ話し合いの形で進めている中で、生徒が非行化する、そして非行に対して対応が違う、だんだんエスカレートして校内暴力、対教師暴力になります。その時点になりますと、これは先生方は一致して校内体制の確立ということになって、大変お恥ずかしい話になるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/74
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075・片山正英
○片山正英君 それでは、先ほど沖原参考人が、御退席になりましたが、言われた中で、アメリカの国民調査の結果、規律、とそれから規則とそれから教師への権威と尊敬、これこそが問題の解決になるという、アメリカ世論の結論がこうだという御報告がございましたが、これについての御所感もちょっとお伺いしたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/75
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076・鈴木誠太郎
○参考人(鈴木誠太郎君) さまざまな要件から現在教師に権威がなくなっていると私は思います。ただ、学校教育においては教師に権威がないならば教育は私は成り立たないと思っております。そのために、規則をあるいは規律を強化すればそれで成り立つものとは思っておりません。やはり教師は研修に努め自己を鍛練し磨くことによって権威を高めていくことだと思いますし、あるいは生徒に対するできるだけ手厚い指導ができるような教師になること、あるいは先ほどから申し上げました変わりつつある子供に対する目ができているのかどうか、そういう先生に成長することであると、そのことによって権威を高めていくことだと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/76
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077・片山正英
○片山正英君 それでは鈴木参考人、もう一点だけ。
よくいろいろな本を見ますと、教科書の問題にあえて触れるわけでもありませんが、ちょっとそれと関係はするんじゃないか。結論から申しますと、いまの教科書というのはどうも暗い面が多いのではないだろうか、子供に何か暗い印象を与えるんじゃないだろうか、こういうふうに指摘する人もありますし、そうでない人もあります。そういう指摘に対して、やはり私は明るい話、人間としての偉業、こういうものがあったんだという日本に対する明るさ、期待、そして自分もそういうものなら場合によったらやれるんだというそういう意欲を燃やすようなあり方、こういうものがないんじゃないか。いまの教科書には非常に暗い面があるんじゃないか、それが一因をなしていやせぬかという人があるんです、いろいろ私本をたくさん読みますと。その点についてどうお考えですかお伺いいたします。
それと、いま先生がおっしゃった教務課程の見直し、改めてほしいという、そういうこととこういうことが関係しておるのかどうか、その点だけお伺いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/77
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078・鈴木誠太郎
○参考人(鈴木誠太郎君) 現在の教科書を全部見ているわけではございませんからわかりませんが、先ほどマスコミの方に申し上げたように、やはり明るいことあるいは成功したこと、そういうことをできるだけ教科書に載せていただいて、それによって生徒を鼓舞していただくことが大切じゃないかというふうに思います。
それから、後のことちょっとわかりかねるんですが、もう一つは。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/78
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079・片山正英
○片山正英君 さっき御説明の中で、たしか教務課程を改めてほしいという、そういう御発言があったように私控えてあるのですが、それは間違いでしたか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/79
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080・鈴木誠太郎
○参考人(鈴木誠太郎君) そういうことは申し上げなかったと思いますが。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/80
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081・片山正英
○片山正英君 そうですか、どうも失礼しました。それじゃ次に移ります。
曽我参考人にちょっとお伺いしますが、端的に伺います。
取材には大変御苦労されておると思いますが、先ほどのお話で、中学校がどうも取材に行っても閉鎖性があって、よくいっていますという校長さんのお話だが必ずしもそうじゃないのではないだろうか。閉鎖性が非常にある、こういうお話を伺ったことと、教育への不信感、これが限界に来ておろうという表現をお使いになりましたが、その不信感とはだれがどのように不信感を持っておるのか、それから閉鎖性というのはどのようにすればいいのか、それをまずお伺いしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/81
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082・曽我健
○参考人(曽我健君) 閉鎖性の問題でございますけれども、これは先ほど来話がございましたように、学校でも家庭でも社会でもそうだと思います。自分の家あるいは自分の社会に悪いことがあったら隠そうとするのが本能かと思います。特にいま学校はそういった面が非常に強いのではなかろうか、その辺その学校の点数にもかかわってくるのではなかろうかというふうにも勘ぐったりするのでありますが、ただ、こういう事態を迎えたとき、やはり学校ができる限り学校の中の状況を表にオープンにする、父母にも語りかけ、それから生徒にも語りかけ、そういった中で学校の再建に努めなければいけないのじゃなかろうかというふうな思いがいたします。そういった点からいたしますと、私どもの取材がすべてよろしいというわけではもちろんございません。警戒される向きも多々あろうかと思いますけれども、やはりなるべく実情を表に出しながら再建に進んでいく形が必要なんではなかろうかというふうに思います。
それから、不信感でありますけれども、これは一番最初に御紹介を申し上げました、私どもの番組に対する反響を見ておりますと、非常にいまの教師、学校に対する不満が強い。NHKがやりました世論調査もございます。およそ父母の六〇%近くが、申しわけないんですけれども、最近の学校の教師は質が低下している、それから教育に対する情熱が足りないというような答えをしております。そういった意味で、また父母と教師の間がちょっと離れているのではないかという感じを持っているわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/82
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083・片山正英
○片山正英君 それから、ちょっとお願いをしたいのですが、NHKでも、暗い面の放送ばっかりじゃなしに、教育問題でもやっぱり明るいところはあるはずです。そういうものをあわせてこれから御報道をいただきたいなと、これはぼくは期待を申し上げる次第であります。
それからもう一つ、アメリカでは、規律なんかつくるよりも、規律なんというものはかえって反抗が強い、失敗であったと、こういうことをおっしゃっておったと思いますが、そこでちょっと私お伺いしたいのは、いろいろな方向があろうと思います。たとえば、偏差値なんというものでがちゃがちゃ報道されるとどうもよろしくない。したがって、もう少し特色のあるもの、おまえは数学が得意だ、おまえは国語が得意だ、そういうものによって人間というものは発展しているんだとか、そういう面が過去にもあったんだろうし、そういう面をもっと強調するとか、そういう行き方があるでしょう。
それからもう一つ、たとえば教育をする場合でも、教師も生徒も親も子供も人格は一緒なんだ、だから横並びなんだ、これが民主主義なんだと、権利は同等、こういうような考え方で教育ができるのかどうか。そう思っている人もいるらしい。しかし、やっぱり教育というものは、教育される者と教育する者、これは明らかに違うんだと。教育される者はそれだけのやはり知識がない、世の中の経験がない、だから教育する者が教えるんだ。したがって、そこに縦の系列という、そこに尊敬の念がある、またいろいろな意味の、いい意味の芽が芽生えるものがあるのだと私は思います。
いま三つばかりの例を引いたんですが、そういう例はお歩きになっていろいろ御体験をされていると思いますが、そういう例とか、あるいはいまNHKではどのようにそういうものを取材し、あるいはお考えになっているのかお聞かせいただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/83
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084・曽我健
○参考人(曽我健君) なかなかむずかしい御質問で、一言ではお答えできませんので、ちょっと答えになるかどうかわかりませんけれども、いま企業とか大学などでは、まだごく一部でございますが、いま先生がおっしゃったような方向に動き出している面があるように思います。私どもが財界その他取材してまいりますと、いまの偏差値人間、成績の順から採用したのでは企業が成り立っていかない、企業の将来が危ないというような認識がかなりのトップの方に行き渡っているようでございます。
それから大学の方でも、いままでのペーパーテスト中心では本当に素質のある学生が採れないという感じを持っている大学も出始めておりまして、たとえばこれは信州大学の例でございますが、この大学では、何か一科目百点をとった学生は入学させるといったような入試方法にことしから改めておりまして、この信州大学の経済学部の場合は、これはおぼろな記憶でございますが、去年たしか一・六倍だった競争率がことしは十倍を超えていたというふうに記憶いたします。まあ学生のニーズもそういう方向へ向かって非常に高くなっている。そういう意味でさまざまの素質を生かそうという方向にいま日本の社会もようやく動き始めているのではなかろうかという面を今度の取材で感じました。
そういった面もこれからの取材、報道の面で生かしていきたいというふうに考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/84
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085・片山正英
○片山正英君 いろいろな面で、ひとつ明るい面も放送していただきたい。これは非常に私は心に安まるものを持つし、そういう落ちこぼれという言葉は悪いんですが、ある面では非常に特色がある人はまた勇気づけられる。そういうような気もいたしますので、ひとつその点はお願いを申し上げておきます。
最後に一点だけ、これは能重さんですか、ちょっとお伺いしたいのでございますが、いま校長さん、あるいは教頭さんも含めまして、全教職員の一致協力が私は最も必要だというふうに思っておるわけでございますけれども、必ずしもこれが十分に行われていない学校もあるのではないかと、こう実は思います。そこで、全教職員の一致協力が行われがたい原因と背景というものがもしあるとするならば何なんでしょう。その点だけお伺いして、どうすればいいのか、これまたお伺いをして私の質問を終わります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/85
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086・能重真作
○参考人(能重真作君) 先ほどの繰り返しになる部分がありますけれども、一点は残念ながら思想、信条、政治的立場の違いが教育現場に持ち込まれているということです。これは、教育の問題というのはやはり政治と全く無縁でもちろんありませんけれども、教育の内容、方法については政治から独立していかなければいかぬということを痛感しております。
それで、このところ大変教師に対する管理統制というのは厳しくなっておりまして、教師の自由な教育の発想がなかなかしにくい。そのことがま
た子供への教師の管理締めつけというような形で悪循環が生まれているのではないかというように思うわけですけれども、校長のリーダーシップということは私も大変大切なことだと思います。先ほど申し上げたように教育者としてのリーダーシップであってほしいというように念願するものでありますが、また教師の側も、管理職とかあるいは校長ということだけでやはり聞く耳持たないような傾向もなきにしもあらずでありまして、校長敵論なんというものもあります。校長はあくまでも敵でありません。同じ職場の中で子供たちの教育に当たる大先輩でありますし、そしてやはり一つの教師集団を統率していくリーダーシップを持った管理者としてしっかりとしたリードをしてほしいというふうに私たちも願っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/86
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087・田沢智治
○田沢智治君 私が最後になりましたが、時間の許す限りお伺いしたいと思います。
ずばり申して、第一に校内暴力事件の発生総件数のうち中学校が九四・四%、それを一〇〇とした場合、中学全体で占める教師への暴力事件が九七・九%、ほとんど先生に対する暴力行為と言って私はいいと思うんです。そのうち、三年生の中学生が教師に暴力をふるうというのは八〇%に近いと、こう言われておるんです。私は、先生が生徒に尊敬されるということよりも、先生ありがとうと言われるぐらいのことを先生がやらないなんというのは考えられない。私はあの大学紛争でその責任にある立場で収拾をしてきたのですけれども、生徒に先生が殴られるなんという現象が起こるということを不思議に思っている。にもかかわらず先生が生徒に殴られる、それが八〇%に近いというこの原因を、ずばり言って何であるかということをちょっとお聞きしたいんですが、能重先生いかがでございますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/87
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088・能重真作
○参考人(能重真作君) 対教師暴力がこれほどふえているという、特に中学が中心になっているという問題については、一つは、中学が義務教育学校であるという問題があります。先ほどの校長先生のお話にもありますように、私立中学を退学させられた子が回されてくる状況等があります。そして子供は、義務教育学校であるためにどんなことをしても退学という処分はないということの甘えがかなり強くあるということも事実であります。高校へ行って少なくなるというのは、必ずしも事件を起こしたらすぐ退学にするわけではありませんけれども、子供たちの方が大変そのことをよく自覚しております。これ以上やったらやばいというような、子供の表現ですけれども、そういったことで自粛するということが一つありますが、本質的には私はそういうことではないと思います。
本質的には中学という年齢が大変むずかしい年齢であるということなんです。高校になりますと、若干の分別がついてきます。体は非常に大きくなって、もう私などをしのぐ三年生が大半であります。それが三人四人、ときには十人、あるいは多いときには五十人もかたまって襲いかかってくる状況があるわけで、体力的にはとても教師の腕力としては太刀打ちできない状況、しかも心理的には非常に幼稚な心理構造でありまして、そして自分の非は棚上げし、教師のちょっとした言葉のミス、そういったところを鋭くついてくるわけですけれども、しかしそれは、私は、子供の問題というよりは、そのように教師に憂さ晴らしをするような状況というのは、実は中学の教師だけの問題ではなくて、小学校一年生からずうっと積み上げられた、教師から抑えつけられ、抑圧された感情のいわば爆発だろうというように思うわけです。
つまり、学校の持つ問題というのは、一つは能力主義、先ほど切り捨てという問題がありました。それからもう一つは、どうしても権力的体質です。それは、子供をきちっと教えるとか、子供と教師の関係は縦の関係であるということ、私は基本的にはそうだと思います。
そのことは否定できない事実でありますけれども、そのことのためについ教師は、子供を本当に人間として大切にするというようなことの視点を失って、どうも腕力で、あるいは権力で抑えつけてしまう。相手が小さければ小さいほど頭ごなしにしかる。これは一番早いことです。たとえば四十五人の子供ががやがや騒いでいるときに、おとなしく注意をしてもなかなか聞きません。大きな声でどなっても聞きません。だから、一人、先頭にいるやつを一発ひっぱたけばぴりっとするわけですね。これでみんなびっくりして座ってしまうわけです。私語をやめます。非常に体罰というのはそういう意味では簡単な方法なんですね。安易な方法です。うっかりすればそういう安易な方法に頼りがちな教育という問題、これらが学校教育の中にまだ根強く私はあると思う。必ずしも殴ったりたたいたりという、そういう問題だけではなくて、たとえば正座させるとか屈辱的なしかり方をするとか、そういった問題の積み上げが、教師に対する反感が、体力が出たあるいはそして集団化してきた中学生になって総反撃に出るという要素も否定できない事実だろう。
したがって、対教師暴力が中学に集中しているという問題は、単なる中学の教師の問題としてだけではなくて、公教育に携わる教師の全体共通にかかわる一つの問題として十分検討をしていきたい。そういう意味では、管理の問題を強化するということの背景に権力的な姿勢がますます強まるとすれば、これは大変疑問である。したがって、教えるべきことは教え、排除すべきことはきちっと教師は排除しながら、同時にやはり基本的には子供の信頼をかち取る努力を、大変遠回りではありますけれども——大変時間もかかります。そういう意味では、中学三年短いかなと、私の実感であります。五年ぐらいじっくり子供とつき合いたいというふうに思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/88
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089・田沢智治
○田沢智治君 私は全く能重先生の考えに賛成です。そこで、また逆も真なりで、私らの体験の中で、あの先生はこの学校にとって必要な人だ、あれは多くの生徒、学生をめんどうを見る、非常におのれを捨てて生徒を大事にしているんだというような先生は殴られていない。ですから、暴力行為を行う生徒のうち、彼らは彼らなりの正義感がどこかにあるはずだ。彼らは、彼らが行動するのは無謀であり、感情的に情緒不安定だから行動を起こすだけで、切り捨てられる部分があるし、また、先ほど皆さん方が申されたように、何か学校に足らぬところ、何かその先生に足らぬところを注意信号ということで、そういう現象で示してくれているんだというとらえ方、私はこれは大事だと思うんです。
そういう意味で、真鍋先生、どうですか、校内暴力を起こす生徒の中にある正義感、私は何かあると思うんですよ。みんなあいつはだめだということとはちょっと違うんじゃないか。あるとすれば、何が彼らの精神的支柱であり彼らの行動を裏づける正義感だと思われますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/89
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090・真鍋親寛
○参考人(真鍋親寛君) 幾つかの例でお答えします。先生が殴られる場合の幾つか私たちもそういう局面にいたわけですけれども、たとえば教師が暴力をふるうと、それが子供の恨みやしこりとして残った場合がありますね。メンツだけで怒っている、都合だけで怒っている、気分だけで怒っているというのを背景にして、いつか大きくなってやってやろうとか。あるいはいい子だけかわいがっていくと、あれはおれたちはもう見捨てているというような場合については、教師に対する反抗心を持っていますから、それを代表してやっているという側面はあるんですけれども、ただ、実際最近これだけたくさん教師がやられていると、単純にそれだけでは処理できない側面が僕はあると思うんです。
どういうことかというと、家庭内暴力で、育ててくれたお母さんに暴力をふるう面がありますね、あれに似た側面がかなり出てきています。というのは、殴ったその先生を尊敬している、好きだと言いながら、みんなの前で、はずみがついて殴らなきゃいけないときってあるんですね。
その子たちの精神構造を分析しますと、自分の頭で自分の体と心をコントロールしますね、大人というのは。デパートだったら、お母ちゃんあ
れ買ってといってだだこねて、それでもだめだったらあばれますね。それは、やっぱり自分の体や心を自分の頭でコントロールする力が弱いときにあらわれるんですけれども、それに近い状況、精神構造があって、緊迫した状況の中で抜き差しならなくて、とにかくみんな嫌いだ、自分の周りに立つ者はみんなぶっちゃうというような、そういう心理構造で教師が殴られるということはあります。ですから、非常に子供のめんどう見ながら立ちはだかってやられた、どうしてあの先生がやられるんだろうというケースもふえているのも事実です。質問のお答えになったかどうかわからないですけれども、そういう事実もふえています。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/90
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091・田沢智治
○田沢智治君 塚本参考人にずばりお聞き申し上げますが、あなたが尊敬できる先生とはどういう教師像をお持ちですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/91
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092・塚本千枝子
○参考人(塚本千枝子君) 先ほどもお話ししておりますとおり、いままで参考人の方からいろんなお話が出ておりますけれども、まず、自分に自信を持っていらっしゃる先生。それと、子供の話をよく聞いてくれる。それに対して、たとえば体罰を加えましても、体罰を加えっぱなしというのは納得できないのは親も子供も同じだと思います。体罰はしていいと思うんです。した後の処理の仕方の上手な先生。それと、やはり全体によく、先ほどから話が出ておりますとおり、よくできる子とできない子、いま四十人が生徒数のあれですね。そうすると、四十人の生徒全体に目を行き届かせるというのはやはり人間わざではちょっと大変だと思うんですけれども、でも、それだけに目立たない子はどうしても、えこひいきするというのではなく、つい声をかけるのを忘れてしまう。これは私たちにも言えることなんですけれども、でも、それをなるべく一つのことでも気を配って、それは先生方も大変だと思うんですけれども、気を配って声をかけてくれる先生、そういった先生を私たちは尊敬したいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/92
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093・田沢智治
○田沢智治君 曽我参考人にお聞きしますが、荒れた中学校の現状を取材される中で共通した問題点とは何であるか、お感じになられましたことがあればお教えいただきたいと思うのです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/93
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094・曽我健
○参考人(曽我健君) 共通した問題ですけれども、これは生徒について言いますと無力感でございます。これは先ほど申し上げましたように、いつの間にかつっぱりグループが台頭してまいりまして、器物破壊、授業エスケープが始まる。それに対して学校側がなすすべもなく対応が遅れる。そういった中で全校の生徒に無力感が行き渡ってしまうというのが生徒の傾向であります。
一方、教師について言いますと、教師がばらばらな対応をやっておるところ、それから非常に閉鎖性といいますか、秘密主義が強くてなかなか問題を表に出さない、それから、ひょっとしたら管理が非常に厳しいのではなかろうかといった感じの学校。それから、父母に言いますと、学校への不信感が非常に強くてその一方で学校任せの部分があるといったようなところが問題校に共通している部分ではなかろうかと思います。こうした問題が爆発点に近づきますと、ようやく教師が危機感からまとまって学校再建へ動き出す。父兄の方も学校批判からPTAの総会などを開きましてようやく連携が始まる。そういった取り組みの中で生徒にも立ち直りの兆しがうかがえてくるといったような流れが、何か共通しているように思います。
そうたくさんの学校を取材したわけではございませんけれども、そんな印象を受けております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/94
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095・田沢智治
○田沢智治君 最後に鈴木参考人にお聞きいたしたいのですが、ちまたに聞くと校長さんというのは三、四年で異動してしまう、転出してしまうのだと。なれたころ次に行ってしまうもので、事件が起きたり何か問題が提起されても、その処理についてわからないうちにどんどんかわっていってしまう。だから事態に対する対応性が即応していない、こういうところに問題があるだろう。私立学校の場合は、校長さんというのはもう十年二十年ずっとやっているわけです。だから、何か問題が起きると、この問題はあの家庭がああでもないこうでもないと、あの先生の教え方がああでもないこうでもないって大体わかるわけ、だからすぐ速効的に有効かつ適切な処置ができる。問題の処理というものがわりあいと早いから大きな問題になるのが少ない。もちろんぐあいの悪い生徒を公立に行かせちゃうからという面もあるだろうけれども、それだけが原因だとは私は思ってないわけです。
ただ問題は、校長がリーダーシップをとるということは、権力をふるうんじゃなくて、その全体の集団の発展のためにわれはいま何をなすかというのがリーダーシップの根底でございますので、そのためにはすぐ三年や五年で次から次へ渡り鳥のように動いていく、転出していくようないまの現行のルール、私はやっぱり行政上にもそういう点の問題があるんじゃないだろうかと、こう思うことと、もう一つは、定年間際になって校長さんになるから、何か問題を起こされると困ると言ってふたしちゃうわけです。だから、教育というものは命がけでやらなきゃならぬものを、自分の都合でふたしちゃったりあけたりするようなあいまいな面もなきにしもあらずじゃないか。だから本質的な次元で校長がリーダーシップをとり適切な処置ができるには、学校全体の教職員、生徒、父兄、地域社会の実態を知るには、やはりかなり長い間その場にいる必要性というものも私はあるんじゃないか。そういうものも含めて行政面でどういうようなことを支えていただくならば、もっとこういう問題に対する対処の仕方があるんだ、リーダーシップがとりやすいんだというようなお考えがあればひとつお述べいただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/95
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096・鈴木誠太郎
○参考人(鈴木誠太郎君) お答えいたします。
私がお仕えした校長さんは、十一年間一つの学校にとどまりまして指導されたわけですが、そうしますと全部の先生が自分で採用された先生です。そうしますとその御家族も子供のことも全部知り尽くしております。ですから、たとえその先生が、校長さんが学校におらなくとも、指示だけで態勢が整えられるということでございます。ただ、現状から申しますと、いわゆるひしめく五十代がございまして、校長になる年齢が五十五あるいは五十六という平均になりつつあります。したがって、いま先生がおっしゃられた、長いといっても五年あるいは六年というのが現状かと思います。私立のように十年二十年やっていれば、いまおっしゃられるようなことができるんじゃないかと思います。
ただ、ちょっとおっしゃられました、臭いものにはふたをして定年を静かに迎えたいという気持ちはないことではないと思います。できるだけそういうことのないように一生懸命努力しているわけですけれども、そういう気持ちがないというふうには言い切れないと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/96
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097・田沢智治
○田沢智治君 終わります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/97
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098・堀内俊夫
○委員長(堀内俊夫君) 以上で本日御出席いただきました参考人に対する質疑は終わりました。
参考人の皆様方に一言お礼を申し上げます。
本日は、長時間にわたり貴重な御意見をお聞かせいただき、まことにありがとうございました。委員会を代表して厚くお礼を申し上げます。
本日はこれにて散会いたします。
午後六時二分散会発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/109815077X00219830303/98
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