1. 会議録本文
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000・会議録情報
昭和六十年三月二十九日(金曜日)
午後一時四分開議
出席委員
委員長 阿部 文男君
理事 石橋 一弥君 理事 大塚 雄司君
理事 白川 勝彦君 理事 船田 元君
理事 佐藤 誼君 理事 馬場 昇君
理事 池田 克也君 理事 中野 寛成君
青木 正久君 赤城 宗徳君
稻葉 修君 榎本 和平君
北川 正恭君 田川 誠一君
中村 靖君 西山敬次郎君
町村 信孝君 渡辺 栄一君
木島喜兵衞君 佐藤 徳雄君
田中 克彦君 中西 績介君
有島 重武君 伏屋 修治君
滝沢 幸助君 藤木 洋子君
山原健二郎君 江田 五月君
出席国務大臣
文 部 大 臣 松永 光君
出席政府委員
臨時教育審議会
事務局次長 齋藤 諦淳君
文部政務次官 鳩山 邦夫君
文部大臣官房長 西崎 清久君
文部大臣官房審
議官 菱村 幸彦君
文部省教育助成
局長 高石 邦男君
文部省教育助成
局長 阿部 充夫君
文部省高等教育
局長 宮地 貫一君
文部省高等教育
局私学部長 國分 正明君
文部省学術国際
局長 大崎 仁君
文化庁次長 加戸 守行君
委員外の出席者
法務省矯正局教
育課長 佐藤 一男君
文教委員会調査
室長 高木 高明君
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委員の異動
三月二十九日
辞任 補欠選任
臼井日出男君 西山敬次郎君
同日
辞任 補欠選任
西山敬次郎君 臼井日出男君
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三月二十九日
私学助成削減反対等に関する請願(木島喜兵衞
君紹介)(第二四三〇号)
私学助成の増額等に関する請願(木島喜兵衞君
紹介)(第二四三一号)
同(貝沼次郎君紹介)(第二四九七号)
同外七件(江藤隆美君紹介)(第二五四三号)
私学助成の大幅増額等に関する請願(小川国彦
君紹介)(第二四三二号)
同(小川国彦君紹介)(第二五四四号)
私学の授業料助成の実現等に関する請願(小川
国彦君紹介)(第二四八二号)
私学助成増額等に関する請願(川崎寛治君紹介
)(第二四八三号)
中学校の租税教育推進に関する請願(奥田敬和
君紹介)(第二五三五号)
同(松野頼三君紹介)(第二五三六号)
同(松野頼三君紹介)(第二五四二号)
は本委員会に付託された。
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本日の会議に付した案件
小委員会設置に関する件
国立学校設置法の一部を改正する法律案(内閣
提出第一七号)
文教行政の基本施策に関する件
————◇—————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/0
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001・阿部文男
○阿部委員長 これより会議を開きます。
文教行政の基本施策に関する件について調査を進めます。
質疑の申し出がありますので、順次これを許します。馬場昇君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/1
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002・馬場昇
○馬場委員 文部大臣の所信に対する質問の前に、文教委員長に要請を申し上げたいことがございます。
我が党は既に委員長に、この文教委員会に臨教審の岡本会長初め各部会長を参考人として招致していただきたいということを申し込んでおるわけでございますが、第一陣の木島委員の質問のときにもおいでになりませんでした。そしてまたきょうもおいでになっていないわけでございますが、木島委員の教育改革の原点ともいうべき意見に対して、臨教審の事務局次長が来ておられましたけれども、委員長も御存じのとおりに全然話がかみ合わないわけでございまして、国権の最高の機関国会、しかも文教委員会で議論をして本質が明らかにならない、国民に十分わからない、これはやはり文教委員会の運営といたしましても、教育改革をするに当たりましても、非常に遺憾なことであろう、私はこういうぐあいに思うわけでございます。
聞くところによりますと、臨教審の作業日程というのは、三月末、今月末まで各部会の報告をまとめて、四月二十四日に審議経過の概要を発表する、六月末には改革提言を含めたところの第一次答申をするという予定で作業が進んでおるようでございます。答申しなければ出ないのだとかなんとかというようなうわさがありますけれども、六月末の答申を考えますと、実は国会は終わっているわけでございます。さらに、四月二十四日の審議経過の概要発表、その後にしたにしても、国会はもう四月二十九日までですから、審議日程がないわけでございまして、国権の最高機関である国会、文教委員会は各種審議会の委員を参考人として呼ぶということは当然の権利があるわけでございますし、さらに、教育改革というのは国政の今日最も重要な課題であるわけでございまして、この教育改革についてこの委員会が問題点を明らかにして議論をする、国民に知っていただくということは我々文教委員の任務でもあろう、実はこういうぐあいに考えるわけでございます、しかし、会長以下来ないということになりますと、今至るところに出ているわけですよね、部会長が出たり委員が出たり、いろいろなことをやっている。そしてまた、各種団体とかを呼んでヒアリングをして、委員が呼んだ団体の長とかなんとかの人に質問もやっている。公聴会もやっている。何でこの審議会をつくった文教委員会、国会に出てこれないのか、全然納得できない問題でございます。
私は、一日も早く招致をして、国民の前で教育改革の議論をしなければならぬ、こういうぐあいに思うわけでして、みずからつくった国会が、自分たちがつくった審議会の人を呼んで意見も聞けない、こういう国会の権威にかかわる問題でもございます。そういうことにつきまして、文教委員長の権限でございますので、実はぜひ岡本会長を初めしかるべき人たちをここの委員会に招致をしていただくということが第一点。
そして、招致をしていただく時期につきましては、これはもう早いにこしたことはないわけですから、今文部大臣の所信に対する質問を行っておりますが、大体各党が一巡いたしましたころ、私は三日には一巡は終わるのではないかと思いますが、そのころにぜひ臨教審の岡本会長を初めしかるべき人たちを呼んでいただきますように、委員長からしかるべく取り計らいをしていただきたいということを御要請を申し上げておきます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/2
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003・阿部文男
○阿部委員長 ただいまの馬場君の御要望につきましては、先般来理事会において極めて熱心な協議が行われたわけでございます。臨教審会長を参考人として本委員会に御出席を願う方向については、各党間の意見の一致を見ているものと判断いたしております。
参考人の出席要求の時期、方法につきましては、委員長といたしましては、さらに理事諸君と協議を重ねて早急に実現できるようにいたしたいと存じます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/3
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004・馬場昇
○馬場委員 ただいま、臨教審の会長を呼ぶ、時期については早急に呼ぶようにするという御回答をいただいたわけでございますが、重ねてお願いしておきたいのは、一巡いたします三日ごろにはそれが実現するように、委員長の格段の御努力を要請申し上げておきたいと思います。
次に、これは委員長にもかかわる問題ですが、文部大臣にもかかわる問題で、臨教審の担当大臣であるわけでございますので、特に臨教審の運営について私は注文を申し上げ、しかるべき措置をとっていただきたいということを申し上げておきたいと思います。
臨教審の委員の方々が、例えば「臨教審だより」というのがここに出ておりますけれども、ここの表紙のところに「画一主義から個性主義へ」と、こうして国民に宣伝をなさっているわけですね。画一主義とは何かということも、私が知る限りにおいては、臨教審でこういう意思統一もなされていない。臨教審は総会中心主義ということをやっておられると聞くのですけれども、個性主義というものを総会で決定されたということも聞いていない。そういう決定もしていないことをこういう宣伝の文書に書いて国民に発表しておる。このことは私は実におかしいと思う、
さらに、今たくさんのことが毎日のように実は出ているわけでございまして、入学試験の改善をどうするとか、共通一次はどうするんだとか、あるいは中高は一貫教育をするんだとか、あるいは教育の自由化論だとか、あるいは九月に入学をやらせるんだとか、とにかくこういうことがあたかも決まったかのように、あるいは宣伝を含めながら至るところで委員の人たちがしゃべっている、こういうことは、個人の意見も含めて打ち上げ花火のように上がっている、宣伝合戦みたいじゃないか。少なくとも国の百年の計を図る教育改革のその委員たるものは、こういうことは軽率だと私は思うのです。こういうことにつきまして、本当は私は、さらにうがって言うならば、何かそういうことを宣伝して一つの世論づくりをする、既成事実をつくる、そういう世論操作的な意図まで含んで発表しておる人がいるんじゃないか、こういうような気さえ実はするわけであります。
そういう点につきまして、ぜひこの運営につきまして慎重に行うように担当大臣として臨教審に申し入れをしていただきたい。これについて文部大臣、いかがでございますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/4
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005・松永光
○松永国務大臣 御指摘の「臨教審だより」というのは、臨教審の委員の皆さん方の自主的な御判断のもとに、意見のまとまりのもとに臨時教育審議会でどういう点が議論をされておるのか、どういうことを広く国民にお知らせすることが教育改革という問題の重要性にかんがみ適当であるという御判断のもとに出されたものと私は理解いたしております。臨教審が自主的になさることでありますから、担当大臣ではありますけれども、臨教審が自主的になさることについて私の方で拘束する立場には実はないわけであります、いずれにせよ、臨教審の審議の概要等につきまして国民にお知らせするということはいいことであると思います。ただいたずらな誤解等を与えるようなことがあるとするならば、その点は臨教審で自主的にお考えいただければありがたい、こつ思うわけでありますが、私は、まだ国民にそう誤解を与えるようなことにはなっていないというふうに思っておりますのですが、今御指摘の問題につきましてはよく考えてみたい、こういうふうに思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/5
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006・馬場昇
○馬場委員 国民がひとしくこの運営について憂えておるというときに、担当の文部大臣が、そこまで私は考えていないとか、これはもう職務怠慢も甚だしい。少なくとも、臨教審は自由にやっていいということでなしに、法律に従って審議しなければならぬわけでしょう。したがって、国会で法律を審議いたしますときに、もろもろの約束を大臣はしたじゃないですか、臨教審はこういうぐあいに運営していくのですとか、こういうぐあいにやるのですとか、約束をして法律を成立させた、そうしてその成立した法律に基づいてやらなければならない。ところが、今はそれを逸脱しておるというのは識者がひとしく認めるところですよ。文部大臣だけがそれを認めないというのだったら、教育改革は行き先は真っ暗ですよ。そういう国民の意見があるということを、最後の段階で、しかるべきことを検討してみたいというようなことを今おっしゃいましたけれども、ぜひそういう点について考えていただきたいということを申し上げておきたいと思うのです。
例えば、そういうことを片一方でやりながら、中曽根総理大臣は委員会で、審議の経過については国会に御報告申し上げます、公開を原則にせいというときに、審議の過程についても国会に報告させます、こういうようなことまで実は約束している。そういうことを片一方で打ち上げ花火みたいにやることは、本当に私は自民党の皆さん方とお話をするときも、それはけしからぬと言われる方が多いのですよ。そういうことも申し上げておきたいと思います。
次に、これはぜひ国会として委員長も考えておいていただきたいのですが、最近、中曽根総理大臣の政治手法というのは、個人とかあるいは内閣に諮問機関をたくさんつくって、何か立法府がチェックできないような諮問機関みたいなのをつくって、たくさん政策を立てておられる。そして、そういう諮問委員会をあの人は多用する政治手法をやっている、こういうことが参議院でも予算委員会で問題になりましたね。実際また審議会を、時にはかつての枢密院みたいなところまで祭り上げようとするような意図さえ感じないこともないわけでございますけれども、参議院の予算委員会では、このことにつきまして、立法府の懸念を表明して、内閣に慎重な対応を要請されました。私はこのことについて、この衆議院の立法府といたしましても、ぜひ本当に慎重な関心、強い関心を持って立法府の運営をすべきだということを考えておりますので、委員長にそのことを意見として申し上げておきたいと思います、
次に、文部大臣にお尋ねをいたしますけれども、これは既に委員会でも何回も議論されたことですので、重なるのですけれども、非常に臨教審について心配がやはりあるわけです。これはもう御存じのとおりに、臨時教育審議会の設置法の目的のところに、もうこれ完全に大臣も御存じですが、「教育基本法の精神にのっとり、その実現を期して各般にわたる施策につき必要な改革を図ることにより、同法に規定する教育の目的の達成」——教育基本法に「規定する教育の目的の達成に資する」、これが今度臨教審をつくった目的でございます。もちろん、臨教審はこの目的に沿って運営されていかなければならないと私は思うのですが、そういう立場から最近いろいろ批判がございます。
そこで、私は結論として申し上げますと、大臣、臨教審は、まず臨教審全体の総会で、この臨時教育審議会は教育基本法を遵守してやるのだ、遵守の決議というようなものを上げて、この目的達成のために忠実にやるのだ、目的に従って忠実にやるのだということを明らかにすれば、国民の心配なんかも少しなくなるのじゃないかと思う。そういうことをするとともに、各委員というのもこの法律に基づいて任命された委員ですから、教育基本法を遵守いたしますという誓約を委員はして審議に参加すべきだ、こう思いますし、そして、そういう立場から言いますと、委員が臨教審内外で、教育基本法の改正をするのだ、こういう軽はずみな発言はすべきではないと私は思うのですが、大臣はいかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/6
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007・松永光
○松永国務大臣 先生のおっしゃるとおり、今次の教育改革は教育基本法の精神にのっとりその実現を期してなされるわけでありますから、そのための臨時教育審議会でありますので、臨教審の審議、そして審議が深まり審議会としての意見がまとまった上で出される答申というものは、教育基本法の精神にのっとった答申が出されるものと私どもは確信いたしております。
なお、委員の先生方の発言の問題をお取り上げになりましたが、私の立場からすれば、委員の先生方の言論の自由に枠をはめるなどという立場ではございません。言論というものは自由濶達になされて結構なんでありますが、しかし、臨教審の設置の目的は先ほど来申し上げておりますようにはっきりしておるわけなんでありまして、審議そのものはその精神にのっとってなされるべきものと私も考えております。
そういうことから、実は臨時教育審議会の委員の選任、そしてその同意が国会でなされた時点で、臨教審の会長さんから、教育基本法の精神にのっとって今後の審議を進めたいという旨の発言がなされておるわけでありまして、誓約書をとれとか決議とかということを先生がおっしゃいましたけれども、そうするまでもなく、委員の先生方どなたもこの設置の目的は御存じでありますし、また良識のある方々でありますから、あえてそういうことをしなくとも、審議そのものは臨教審設置法の規定に従ってなされておるわけでありまして、今後ともそういう審議がなされるものと私は信じております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/7
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008・馬場昇
○馬場委員 今大臣も、委員の自由な言論というようなことをおっしゃいました。かつて中曽根総理大臣も、言論は自由だ、こういうことをおっしゃったわけでございますが、少なくとも、臨教審の委員の人たちが自由な議論をしていいんだったら、議論というものをやった後には必ずそこから結論というものが生まれてくるわけですよね。教育基本法を変えようというような議論をして、結論を得ないような議論をする必要はない、惑わすだけの話ですから。やはり議論をする以上は結論を得たい。そんな改革なんかできないんだから、改正なんかできないんだから。おわかりになっておると私は思うのですよね。そういう意味で、特にまた総理大臣も文部大臣も、これを審議いたしましたときに、教育基本法に基づいて進める、基本法を変える考えはないと言っているのですから、法律にそう書いてあるわけですから、これは良識がある人がいたずらに言う言葉ではない、良識のある審議会委員としての自由な言論を逸脱しておる、こういうぐあいに考えます。
このことは、なぜ私がそれを言うかと言いますと、実は世論がそういうことを見て心配しているのですよ。新聞の名前を言ってこれは恐縮ですけれども、例えば毎日新聞の社説にはこういうぐあいに書いてある。臨教審委員が教育基本法改正をほのめかすことは教育改革について有益とは思えない、このような言動はいたずらにイデオロギー的対立を持ち込むことになるんだ。さらに、朝日の社説を読みますと、教育基本法は準憲法的な性格を持っておる、その見直し論議は護憲か改憲かという鋭い政治的対立に直結している。これを臨教審で論議するということは、憲法をめぐる争いを臨教審に持ち込むことになる。あるいは臨教審と国民の間にそういう争いを持ち込むことになるわけです。だから本当に、時の政治権力が教育の場に政治的な意図を持ち込んだ、そして政治的な対立の中で教育が論じられてきた、これが日本の教育の不幸な点の一つであったと私は思うのです。だから、教育基本法、準憲法的なものの改革を言うことは、教育改革の場にいたずらにイデオロギーを持ち込むことで、国民合意の教育改革というものを進める上にとっては百害あって一利ない。そういう問題を、言論の自由でございますとか、自由に議論しなさいとか。ちゃんとこの法律には、答申が出たら尊重の義務さえ書いてあるのです。そういうことでございますので、教育基本法の論議、臨教審の運営については目的のとおりにやってもらいたい。いたずらに誤解を与えるようなことをやってもらいたくない。そういうことは念には念を入れて臨教審の委員の方々に担当大臣としてはお願いをする、要請をするということを、私はぜひ、今後この改革がうまくいくかいかぬかの基本にかかわるわけですから、この点については、大臣、どうですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/8
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009・松永光
○松永国務大臣 私も教育基本法に触れる発言をなさった方を承知しております、しかし、その発言の中身をよく見てみますと、教育基本法に定めてある教育の目的、「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者」を育成していく、あるいは教育の理念として「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する」、こういった教育基本法の精神がいかぬという議論を私は聞いたことはありません。ただ、委員の人たちのおっしゃることの中には、もう少し詳細に書き加えた方がいいのじゃなかろうか、そのことが教育基本法の精神をさらに明確にすることになるからなどという意見があるのは聞いたことがあります。これはあくまでも教育基本法の精神をもっと広めていきたい、国民にわかりやすくしたい、そういう考え方からだろうと私は推察をするわけであります。これも決して教育基本法の精神に反する議論とは私はとっていないわけであります。
ただ、いずれにせよ教育基本法の精神にのっとって改革はなされるわけでありますから、臨教審の審議、そして審議が深められた結果として出てくる答申というものは、教育基本法の精神にのっとってなされるものと私は期待をし、確信いたしておるわけであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/9
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010・馬場昇
○馬場委員 実は、私がそういう人の発言を聞いてみますと、今大臣言われたようには受け取れない部分が大分あるのです。例えば、名前を言って恐縮ですけれども、有田委員はこういうことを言っておられる。教育基本法に教育の目的として、宗教心、国を愛する心、伝統文化の尊重の三項目をつけ加えるべきである。これは改正ですよ。目的の改正です。そういうことを言っておられる。金杉委員は、これは今大臣が言われたのと少し近いのでしょうけれども、教育の目的に人格の完成だけでは抽象的過ぎるので、教育基本法の見直しが必要だ、見直しというのはまた問題ですけれども、必要だと言っておられる。そして、そのことを臨教審の議論に持ち込むつもりだということを、五十九年十月七日の全日本教職員連盟のシンポジウムで公の場所でおっしゃっているわけです。五十九年十一月七日に総会終了後、教育のあり方、教育理念を取り扱う第一部会長の天谷さんは、教育基本法が二十一世紀を考えた場合にそれにマッチしているかどうか、時代の要請に合っておるかどうか、皆さんの意見をよく聞きたい、臨教審の中で議論したい、そういうことをおっしゃっておる。このことは臨教審設置の目的に反しておると思うのです。これはやはり委員としては越権の発言ではなかろうか。臨教審の委員の身分というのは特別職の国家公務員でしょう。そういうぐあいに給与の方でもなっていますね。そういう身分の人がこういう発言をするというのは行き過ぎだ、やはり注意されなければならないものだ、私はこう思います。
そこで、大臣、一人一人名前を挙げて今質問したからなかなか言いにくいでしょうけれども、教育基本法について、この臨教審設置法の目的に書いてあって、先ほど言われたとおりですが、臨教審はこの目的に沿って運営をしていただくということについては、ひとつ担当大臣としてくれぐれもそれが実現できるように、誤解を受けないように今後とも努力していただくということを要請いたしますが、いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/10
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011・松永光
○松永国務大臣 有田先生の宗教的な情操云々ということですね。これは教育基本法が制定されるときにも議論になったことだそうでありますが、結局教育基本法の規定としては、第九条に「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。」こういう規定が書かれております。これは人間が幸せな社会生活を送っていく上で、表現はどうするかは別といたしまして、やはり宗教に対する寛容といいますか、こういったことは必要なのだということで、教育基本法の第九条に掲げられておるわけでありまして、有田先生の御発言も、この九条の延長線上での御発言だろうと私は思うのでありまして、教育基本法の精神に反する発言とは私は受け取っていないわけであります。
それから、国を愛する心という問題をおっしゃったそうでありますけれども、人格の完成を目指す、あるいは平和的な国家及び社会の形成者となるよう教育しなければならぬなどという第一条の「教育の目的」の中の、今申した事柄は、その事柄から自分の国を愛するといったことも中には含まれておるというふうに解されるわけでありまして、それをもう少しわかりやすくしたらどうかねという有田先生の御意見だろうと思うのでありまして、必ずしもこの教育基本法の精神に反する御発言とは私は受けとめておりません。
それからまた、見直しということもありましたけれども、これは発言者が後で、私の言った見直しという意味は、おやじを見直すというのと同じような意味なんだ、もう一回おやじのよさを見直した、教育基本法のよさを改めて確認するといった趣旨だという発言もあったようであります。その意味で、今までのいろいろな御発言を見ましても、言論は自由でありますけれども、その内容を私自身はそのように理解しておるわけでありまして、そう御心配になるような御発言ではないと受け取ったわけであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/11
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012・馬場昇
○馬場委員 文部大臣、少なくとも教育改革の議論を今しているわけですよ。特に子供というのは大人の後ろ姿を見て育つとか社会を映す鏡だとか、大人の言動というのは物すごく子供に影響を与える。ましていわんや、日本の文教行政を預かる文部大臣が発言されたことは伝わっておるのですよ。国民は皆知っておる。子供も知っている人が多い。そういうときに有田さんが言われたのを、いわゆる宗教心がどうだとかあるいは愛国心がどうだとか、そういう議論を私はここで今提起しているのじゃないのですよ。あの人が言ったのは、宗教心とか、国を愛する心とか、伝統文化の尊重とか、こういう三項目を目的に加えなさい、明文化しなさいということを言っている。その必要性を言っているのじゃないのですよ。目的を変えてそれを加えなさいということを言っている。これが正しい理解ですよ、あの人の言っている言葉のだれでもそう理解しているのですよ。すると、文部大臣はなんですか、全然そう理解していない。こんな理解の仕方で本当の意味の教育改革ができますか。国民が信用しますか。そう言うたな、例えば目的を変えると言ったのは間違いですと、是は是、非は非ということを文部大臣が言い切らないようでは、教育改革なんか信用できませんよ。そのことをあえて申し上げておきたいと思います。
そこで、大臣、これはちょっと外れますけれども、中曽根総理大臣が戦後政治の総決算あるいは戦後教育の総決算というようなことを言っておられますが、あの人が至るところで発表した本とか演説の内容を読んでみますと、行政改革をまずやるのだ、その次には教育改革をやるのだ、さらに砕けた発言を引用するならば、行政改革でお座敷をきれいにするのだ、そして教育改革でさらにお座敷をきれいにするのだ、その上に新しい憲法を安置するのだ、そういうことなんかをどんどん言われておるわけでございますが、その議論はここで大臣にしようとは思いませんけれども、戦後政治の総決算とか戦後教育の総決算ということには、教育基本法の改正ということなんかは。もう何回も言っておられますけれども、考えておられないのだろうと思いますけれども、念のためそのことを次の質問のために質問しておきます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/12
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013・松永光
○松永国務大臣 総理も予算委員会その他国会の場で、教育基本法は改正する意思はありませんと明確に言っていらっしゃいます。私も教育基本法を改正する意思はございません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/13
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014・馬場昇
○馬場委員 国家百年の大計である教育改革ですから、間違いを犯そうというときには厳しく厳しく追及する営みというのが片一方に大きく国民の側からあらなければならない。
そういう意味からさらに質問するのですが、こういう意見が国民の中にあります。これは素直に聞いてください。今度の臨教審は失敗するだろう、こういう意見が出ております。その理由の第一に、委員の人選に大きな誤りを犯したということをまず挙げる人が多いです。大臣はあるいは総理大臣も、国民の各界各層を代表する人の中から選んだとおっしゃる。そう考えて選ばれたにしても、国民の側から見ますと偏っておる。実際に中曽根さんのプレーンが多過ぎるじゃないか、こういう批判が国民の中にございます。さらに言う人は、中曽根さんも宣伝好きだが、今度の臨教審の委員も宣伝好きが多いなと言う人もおります。例を挙げて言いますと、さっき言いましたように、中曽根さんが非常に好んで使われる手法、私的諮問機関で政策づくりなどをやられるのですけれども、そういう私的諮問機関の文化と教育に関する懇談会だとか平和問題研究会だとか、こういう中曽根さんの私的諮問機関の中から十名の委員が選ばれております。財界、経済界から五名、そして官僚OBなどから五名。そして、肝心な教育学者だとか哲学だとか思想関係の専門家は一人もいないのです。さらにひどいことは、大学以外の学校関係。小学校、中学校関係が一人ずつおられます。二名だけです。大臣、私は高枝の教員をしておったから言うわけではありませんけれども、六・三・三の三と三とのつながりぐあい、ここに今の日本の教育の大変な問題があるわけですね。例えば高校入試の問題あるいは大学入試の問題、三・三のつながりにかかわって一番問題を含んでおるその高等学校の代表が一人も入っていない。さらに、三つ子の魂百までと木島委員も言われましたが、それ以下の一つから三歳までの子供も大切です、その上の幼児教育の現場を知る人も一人もいないのです。そしてお母さん、女性の代表が少ない。こういうことを考えてみますと、今度の臨時教育審議会は失敗しやしないかと国民が思うのは私は当然ではなかろうか、こう思います。
大臣、この一つ一つについてお答えになる必要はありません。私が聞きたいのは、教育改革の論議というのは、本当の教育の現実に対する正しい認識、これが不可欠じゃないかと私は思うのです。そういうことから考えますと、現場関係者、教育の現実に対して正しい認識を持っている人の数が少ないというのが国民の批判ですが、どう考えられますか。その部分についてお答えください。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/14
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015・松永光
○松永国務大臣 臨教審の委員につきましては、設置法の規定に基づきまして、人格、識見ともにすぐれた者のうちから任命されたものと私は理解しております。また、専門委員につきましては、審議会の委員構成に関し補充が必要と考えられる分野等を考えまして、高等学校等教育関係者、教育学者、教育行政に学識経験のある者、あるいは人文社会科学関係者、その他教育と社会との関係等に関する学識経験のある者等々を考慮した上で任命されたものと私は理解いたしております。
今、先生のおっしゃいました現場経験者が少ないという御批判でございますが、現場のこと等につきまして審議を深めるために必要な場合には、随時、参考人その他の形で臨教審の方においで願って事情をお聞きするという形で審議がなされておると承知いたしておりますので、実りのある審議がなされ、その答申がいただけるものと私は期待をしておるわけでございます、発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/15
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016・馬場昇
○馬場委員 日本国民全体の教育を考える臨教審だし、文部大臣ですわ。全国民の批判とか心配を代弁して私が質問しているのですけれども、自分たちがやっていることは一つも間違いありません、批判に対してかす耳も持たないというような今の御答弁ですね。そしてまた、血も涙もない、まさに官僚的作文の答弁しか聞けない。私は残念でたまりません。
そこで、今専門委員のことをおっしゃいました。これは、こういう反省を文部省も言っておられるのですよ。臨時教育審議会委員を選んだときに、国民から現場の実情を知っている人が少ないという批判が出た。それに対してあなた方は、本当にそういう批判はあります、専門委員を任命するときにその批判を受けて補強いたします、そういうことを言われたじゃないですか。委員を任命するときにそういう反省もなさっている。ところが、今の答弁から見ると全然反省もない。その専門委員を任命するときに、あなた方文部省の官僚も腹を立てたのじゃないですか。これは文部大臣の意見を聞いて総理大臣が任命することになっていますね。文部大臣が言わなければいかぬ。文部省では二十九人の候補者を官邸に出されたのじゃないですか。その二十九名出された中で、官邸が採用したのは十二名でしょう。そして、あと八名は官邸の方から持ち込んできた、こう伝えられております。そして、その内訳はどうでしょう。大学の先生が七名ですよ。官界OBなんかが四名、マスコミ関係が四名、財界、経済界が二名、そしてここに出てきました、高等学校長が一名、各種学校の理事長さんが一名、婦人の代表が一名、こういうぐあいになってきているのです。全然補強されていないじゃありませんか。
こういうことを見ますと、文部大臣は担当大臣でありながら余り深刻な反省もないようですけれども、国民は何と言っておりますか。もう一遍言いますよ。大体、中曽根さんが自分の考え方に近いような人をふやして、自分の望むような答申を引き出そうとしておるのじゃないか。さらに、公的諮問機関と私的諮問機関を総理大臣は間違えておるのじゃないか、混同しておるのじゃないか、こう言う人さえおるわけでございます。そういうことについては反省がなければ、先ほどのような答弁ならば答弁は要りません。しかし、こういう国民の声というものについて本当に謙虚な受けとめ方をしてこの臨教審の運営に当たらなければ、この臨教審は失敗する、こういうぐあいに思います。これは答弁要りません。
次に移りますが、教育荒廃の原因についてお尋ねいたしたいと思います。
一言で結論的なことを言いますが、今日の教育の荒廃、これはだれも認めているところでありますが、その原因は教育基本法に不備があったから生まれたものであるかどうか、この部分についてどう認識されておりますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/16
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017・松永光
○松永国務大臣 私は、教育基本法に不備があるから教育の荒廃が起こったとは思っておりません。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/17
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018・馬場昇
○馬場委員 私もそのとおりに考えます。今日の教育の荒廃の原因はいろいろあるわけですね。学校にもある、社会にもある、その他経済の発展とか時代の趨勢とか、いろいろあると思いますけれども、その中で最も反省しなければならぬことは、この教育基本法を無視して、教育基本法の精神というのは私は人間尊重の精神だと思うのですよ。この人間尊重の精神から離れたところで教育が行われておる、そういうところに教育荒廃の原因があると思う。だから、本当に教育基本法を忠実に行えば、教育の荒廃は今日のようにはならなかったと私は思います。
大臣も御記憶と思いますけれども、ことしの二月十六日に横浜市の団地の十三階から小学校の五年のオー君が飛びおり自殺をした。このオー君が四年生のときに書いた作文というのがマスコミに出ております。何と書いてあるかといいますと、
紙がくばられた
みんな、シーンとなった
テスト戦争の始まりだ、
ミサイルのかわりにえん筆を持ち
機関じゅうのかわりにケシゴムを持つ
云々と書いて、
テスト戦争は 人生をかえる、
苦しい戦争
こういう作文をこのオー君は自殺する前年の四年のときに書いておったということがマスコミに報じられております。私はこれを見て、平和であるべき教育の中に、学校の中に受験戦争だとか受験地獄だとかという言葉が使われること自体が悲しいのですが、この競争社会に対してこのオー君は非常に抗議をしておると私は思います。
また、登校拒否をした中学二年生の作文を私はマスコミで読ませてもらいました。先生もお父さんも無理に学校に行かせようとする、来させようとする。自分はどうしていいかわからない。そして、自分を捨てて幽霊みたいになって学校に行く。そうしたら先生や父母は喜んで、毎日学校に来ている、人間やれば何でもできるわねと言う。そして、気持ちが悪いぐらいほめられた。死んだように生きるのをほめられて、学校って何だろう、先生って何だろう、競って何だろうと思った。そういう趣旨の登校拒否をしておる中学二年の作文を読みました。
また、小学生の作文でもう一つこういうのを読みました。授業のときに球根をたくさん持ってきて、一つずつとりなさいと先生が言ったから、みんなわっと我勝ちに球根をとりにきた。ところが、ある子は最後にのっそりのっそり来て、一番最後だからくたびれた小さい球根を持っていった。ところが、このことについて先生と親は、あの子は本当に競争に加わらなくて困る、こう言った。しかし、子供はそのとき何と言ったかというと、あの小さいくたばったやつはみんながとるのはいやだろうから僕が最後に行ってとったんだ、しなびた球根だって一生懸命水をやれば、お日様に当てたら花が咲くと思った、僕は育てることを一生懸命やろうと思ってとったんだ。ところが、これについて、あの子は競争力がないとか言って大人はみんな心配する。本当にこういう人間尊重の精神というものがなかったところに教育の荒廃が出てきておる、こういうぐあいに思います。
画一化とか硬直化とか批判が言われておりますけれども、私もずっと戦後教育にタッチしてきまして、やはり政府とか財界とかが教育に介入した。国家主義的な教育とか能力主義、差別主義的な教育、あるいは非常に子供とか先生を管理する教育、これは教育基本法の精神と違うのです。そういうのが行われてきた、こういうぐあいに考えます。
そこで、大臣に質問ですけれども、中教審が四六答申、四九答申を出していますね。これはみんなこの教育改革を、四六答申も、四十九年の答申なんかというのは第三の教育改革だと今も言っています。このときも非常に立派な教育改革と言われた。ところが、何にも実現をしておりませんね。この四六答申や四九の中教審答申の教育改革が何で実現できなかったのかと考えておられますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/18
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019・松永光
○松永国務大臣 四六答申の関係でお答えをする前に、先ほど球根の話がございましたが、私自身一番最後にのっそりとりにくる子供が非常にいい子じゃないかなと、三十人も四十人もの子供に一遍にとりにこさせるというのはいかがなものかな、奪い合ってとるよりは、どうせたくさん来るなら私は後でいいよ、一つ残っているだろうから、そういう気持ちを持った子供というのは、私は大変おおらかな気持ちを持っていていいんじゃないかなというふうに感じます。私のせがれも恐らくそういうせがれじゃないかなと、私は自分の子供をいい子供だと思っているんですが、そういうふうに私は感じました。そういったところに早くとりにいくのが競争に対する対応力があっていいんだというふうには私は思いません。ゆっくりとりにいく子供が案外いい子に育つんじゃないかなと思う点もあるわけでありまして、問題はそういう場合に教師がどういう対応の仕方をするかな、そこが問題だろうというふうに私は思ったわけであります。
なお、本題の四六答申のことでございますが、これは大変すばらしい答申であったというふうに私は評価しておるわけでありますけれども、その中で随分いろいろなことを教育行政の施策に反映をしてきたつもりでありますが、幾つかの点は未実施のままであることも先生御承知のとおりでございます。実施できなかった幾つかの項目につきましては、それぞれそれなりの理由があって実施ができなかったわけでありますが、そういうわけで実施可能なもの、あるいはその当時の政治情勢その他社会の情勢等からいって実施できたものと実施できないものもあったわけでありますが、相当程度四六答申は実施できた、実施できなかったものについてはそれなりの理由があったんだというふうに私は理解をしておるわけであります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/19
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020・馬場昇
○馬場委員 第三の教育改革なんと四九答申なんかのときに言われたのですよね。ところが、今大臣は大抵できたとおっしゃるけれども、ほとんどできていないのですよね。そういうことですが、そのことの議論はいたしませんが、私がここで議論して大臣に考えてもらいたかったのは、この四六答申、四九答申というのは、答申が出たときに国民から物すごく批判が巻き起こったのですよ。ああこれはいい、やろうという気持ちじゃなしに、これはおかしいという批判が巻き起こった。その原因はいろいろあると思いますけれども、私がさっきから言っておるのは、教育の主体というのは今言ったのっそり行く子供ですよね。そして、今言った登校拒否をする子供とか自殺する子供はいろいろ本音を出している。そういう一人一人の子供の心に触れるというのが教育です。だから、そういう意味で教育改革というのは、そこの子供あるいは学校で教えている教師、そしてまた父母、こういうのが教育の主体だけれども、この声がこの答申に余り反映されていなかったというところに教育改革が失敗をした原因があると私は思います。
それから、これは後で少し詳しく議論いたしますが、これはやはり財政が伴わなかったのですよね。例えば、四六答申では六十九兆だとか、四九答申では百兆とか二百兆とかを超える費用が要るような計算もできておったので、財政が負担ができなかった。さらに言うならば、やはり今、入学制度とかあるいは受験教育の頂点にある入学試験とか、受験制度の頂点になるところのいわゆる学歴という信仰、そこが変わらなければなかなか変わらない。そういういろいろなことがあって、あの四六答申、四九答申というのはうまくいかなかった、こういうぐあいに考えます。
そこで、余り時間もないのですが、大臣の気持ちをまたここで聞いておきたいのですが、教育改革というのは、何回でも繰り返して言いますが、私は繰り返して言っても絶対に言い過ぎにならぬと思うから言うのですけれども、教育の改革というのは、今の子供たちがどうなっておるのかということを正しく理解する、子供が何を考えておるのかということを正しく理解する。そして、学校がどうなっているのかということを正しく理解する。その次に、家庭がどうなっているのか、家庭教育はどうなっているのか、あるいは社会教育はどうなっているのか、地域はどうなっているのか、こういう現状をきちっととらえる。そして子供、人間という立場に立った教育改革の議論というのをしなければいけないのだと思う。
そういう意味で、私は、今臨教審が行っておる議論をずっと見ますと、何かこう臨教審は別な次元のところで議論をしておる、教育改革で議論しなければならぬところとそれておるというような感じがしてしようがない。このことは、教育を改革しなければならないというのは事実あるのですから、その中で苦しんでいる子供とかいろいろな者がおるわけですから、そういう者にとっては、今の臨教審の議論というのは非常に不幸な方向に動いているのではないか、こういうぐあいに思えてならないわけでございます。
だから、そういう意味で大臣に聞きたいのは、本当に子供が何を考えているか、どう置かれているか、学校がどうか、そして地域がどうか、こういうことを正しく理解し、そこから教育改革の方向を見出さなければならぬと思うのですが、いかがでしょう。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/20
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021・松永光
○松永国務大臣 我が国の子供は、いろいろな考え方を持ったり、いろいろな条件のもとに育ってきておる子供、種々雑多であると思います。また、子供の育つ、学校に来る前の家庭の環境、それから子供を養育してきた親の養育態度、これもまた種々雑多であると思います。学校にもいろいろな学校があろうかと思うわけでありますが、そういったことを前提にしながら、初等中等教育などいわゆる国が責務として行うべき学校教育については適切な対応ができるような、そういう施策を進めていくのが政府、文部省の務めであろう、こういうふうに私は思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/21
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022・馬場昇
○馬場委員 次に、教育改革と教育財政の問題について御質問申し上げたいと思いますが、中曽根臨調行革路線という言葉がございますが、これはもう行政改革、財政再建ということ、そして今、予算の上ではだんだん削減なさっておるわけでございますが、この教育臨調路線というのは、教育費を削減するという路線で今ずっと教育財政というのは流れてきておるわけです。だから、間違って臨調行革路線、臨調の教育改革路線、これは行政改革というのは財政を再建するために削減するのだ、教育。改革も財政と教育財政を削減するのだ、こういう方向にまさかいくと思いませんけれども、警戒は我々はしておかなければならぬ問題だと思うのですが、そのことをなぜ言うかというと、こういう心配が実は出ているわけですね。
我が国の一般会計に占める教育予算、文部省所管の占める比率を見てみますと、昭和四十年、これは全一般会計に占める教育予算は一三・三%でしたね、文部省所管の予算は。ところが、昭和五十一年、一九七六年一一・四%になりました。それが、昭和五十一年からことしまでずっと下がって、この比率は下がりっ放し。ついに昭和五十六年度、一九八一年には一〇%を割りまして九・六%になっている。そうして、ことしはついに一般会計に占める教育予算、文部省所管の予算の比率は八・五%になっている。昭和五十一年からいいましても、二・九%もマイナスになっております。これを金額にしてみますと、一兆五千億円のマイナスですよ。そしてまた自治体も連動して削減しておりますものですから、国と自治体、結局五十一年からことしまで、五十一年の一一・四%を維持しておれば、に比べて三兆五百億円ぐらい削減されていることになります。だから、私は、教育改革の大前提になるのには、この教育予算というのを少なくとも昭和五十一年度規模一一・四%にする、そういうことにしますことが、教育改革の大前提にならなければいけないのじゃないか、こういうことを考えます。
さらに、日本の公教育のGNPに占める比率、これは一九八四年、去年です。総務庁の統計局の国際統計要覧から抜いたのですが、スウェーデンは九・五%、ノルウェー九・〇%、カナダ七・七%、ソ連七・〇%、アメリカが六・九%、日本は五・八%です。各国の例をずっと見てみますと、各国の例から、公教育費はGNPの七%ぐらいに日本でするのは絶対無理ではない。各国に比べてもそういうのは無理ではない。国の経済的負担でGNPの七%にするためには、経済的負担能力が日本の国はないとは言えないと私は思う。問題は、公教育に対する認識の問題、教育を大切にするかしないかという問題、そこが問題であると思います。
この七%にしたと仮定いたしますと、何と、一九八三年ですが、学校が徴収する父母の教育費負担が四兆四千億ぐらいあります。そうして国と自治体と父母の合計した教育費が一九八三年には十九・四兆円あります。これはちょうどGNPの六・九%なんですよ。だから、GNPの七%に教育予算を組むとしますと、実は自治体と父母の負担というのをゼロにしたっていいという数字になるわけでございます。そうすると、まあ自治体負担ゼロとはしませんけれども、自治体をもう少し下げても、とにかく計算上は、自治体もゼロ、父母も負担をゼロにして教育ができるのだ、こういう格好になるわけでございます。
そういう意味で、大臣にお尋ねしたいのは、やはり教育予算、教育財政というものを、ずっとGNPから、あるいは一般会計に占める予算が一一%あったから、これは一般会計に占める予算、GNPの七%ぐらい、こうしたら、物すごく日本の教育改革の基盤というものができるのじゃないかと思うのですが、この教育財政問題についての御意見を伺いたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/22
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023・西崎清久
○西崎政府委員 教育財政、国の予算における文教予算の問題、先生御指摘多々あったわけでございますが、数字の問題でちょっと申し上げますと、一般会計に占める文教予算の割合につきましては。先生御指摘の数字がそのとおりだと思うわけでございますが、一般会計の中には、先生御案内のとおり、今国債費というものが相当ふえてきております。それから地方交付税の交付金というのがかなりふえてきておりまして、私ども今文教予算のシェアを見る場合には、国の一般歳出の中に占める文教予算の割合というもので見ることが至当ではないかというふうな考え方に立っておりまして、その観点で申しますと、昭和五十五年度でございますが、一般歳出全体の中で文教予算の占める割合は一二・八%でございました。この約一四%という数字は、五十六、五十七、五十八、五十九というふうにほぼ変わっておりませんで、六十年度と五十九年度で申しますと、五十九年度が一四・〇三%でありますところ、六十年度は一四・〇四%になっておるというような姿でございまして、一般歳出に占める文教予算の割合ということからいいますと、文教予算はなかなか頑張っておるというふうに御評価いただけるのではないか。
加えまして申し上げますれば、確かに補助金は減らしているものもございます。しかし、四十人学級その他私学助成等々、六十年度は頑張っておりますので、御評価いただきたいと思うわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/23
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024・馬場昇
○馬場委員 数字をまた言うと時間が余りないものですから、大臣、四六答申、四九答申ができなかった一つの原因というのは、やはり教育財政の面から応じ切れないという点があったから実現できなかった点が非常に多いのです。そういう中から、臨教審で今議論しております点について、臨教審は教育財政を議論しておるのですかということが一つ。
もう一つは、九月入学制度にしますと、半年間当初ずれますね。それで、私立大学の財政欠損が二千五百億円だということが言われております。こういう議論はしたのかどうかということ。
それから、教員の試補制度を設ける、そういたしますと、全面実施すれば千二百億円ぐらい要るんだ。
さらに、個性主義というようなことが今言われておりますけれども、これは個性主義というのを本当にやろうと思えば、いろいろありますけれども、少人数教育というものが一番いいわけですね。各国なんかは大体三十五人、二十五人の一学級規模を目指しておりますね。有田第三部会長も、NHKのテレビで聞いておりましたら、三十五人学級を考えなければならぬだろう、こういうことを言っております。そういたしますと、三十五人にしますとどれだけの金が要るのか、こういうことだってあるわけでございます。
最後の質問ですけれども、後で時間があれば言いますが、問題は、私が心配しているのは、教育の自由化とか民営化とか、さらには商品化と言う人もおるわけですけれども、このことは私は、公費の教育費、こういうのを削減するための一つの方策ではないかとも受け取っておるわけでございます。そういうことの心配もあるものですから、やはり教育改革ということの中で教育財政の占める比率というのは非常に高い、そういう中で、この教育改革を進めるに当たっては教育財政を非常にふやすということ、これが大切ではないかと思うのですが、いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/24
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025・松永光
○松永国務大臣 四六答申の中で実現を見なかった点が、財政上の理由から実現ができなかったのではないかという御指摘でございましたが、その財政問題の前に、大変大きな改革をすべき事項等につきましては、関係者の理解が得られなかったという点があったのではないか。例えば、先導的試行としての幼年学校構想などというものは、やはり幼稚園関係者等大変反対意見が多くて理解が得られなかった。あるいは公立と私立の学校に関する教育行政の一元化の問題も、やはりまだまだ調整ができなかった。それから、幼稚園の設置義務の問題につきましても、これまた保育所との関係でなかなか意見がまとまりにくいという面があった。こういったこともありまして実現しなかったのではないかというふうに思うわけでございます。
なお、現在の臨教審におきまして財政問題についての議論がなされておるのかというお尋ねでございますが、現在までのところ、この財政問題についての議論がなされておるとは承知いたしておりませんが、しかし、改革を進めていく場合には、財政というものもかかわりを持ってくるわけでありますから、いずれそうした議論も臨教審の中でなされることもあり得るというふうに理解をいたしております。
なお、個性主義との関係で、一学級当たりの児童生徒数のことにつきましての御指摘がございましたが、まだ臨教審の方でこの個別的な具体的な改革案についての論議はなされていないわけでありまして、個性主義というのは、今次の改革の一つの基本的な方向としての議論として出てきておる議論だというふうに私は思っております。この個性主義という考え方に基づく教育をどういうやり方でやるのかということは、これからの議論だろうというふうに思っております。
それから、いわゆる自由化とかそういう問題でございますが、これは議論をなさる先生それぞれ、何をどういうふうに自由にしていくのかという点につきましては、論者によって種々さまざまのようでありまして、総じて言えば、硬直し過ぎた現在の教育あるいは画一的に過ぎるという問題等につきまして、それを打破するインパクトとするために唱えられたものだというふうに私は聞いておるわけであります。
その他細かい事柄につきましては、政府委員をして答弁をさせたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/25
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026・馬場昇
○馬場委員 私は、諸外国並みのGNPの七%ぐらいを教育費に使うんだというところが例えば臨教審で出る、それでもってそれを尊重して政府が実施すると、お金だけではいけませんけれども、物すごい教育改革になるというぐあいに思いますから、その辺については頑張っていただきたいと思います。
次に、とにかく最近、教育費貧乏、教育費地獄、増加の一途をたどっておりますのが父母負担の教育費の増加であることはもう御存じのとおりでございまして、家計に占める教育費の割合というのは、一九七三年以来ずっと増加の一途をたどっておるわけでございます。
文部大臣、あなたのところでお調べになった五十八年度の保護者が出した教育費調査によりますと、公立の小学校が十六万五千二百円、中学枝が十九万九千七百円、前年比で五千円アップしております。高校で、公立が二十五万九千七百円、私立が五十四万二千五百円、これは前年比、公立が七千円、私立が八千六百円アップです。幼稚園が、公立が十六万九百円、七千円アップ、私立が三十万千六百円、一万八百円アップと、こういうぐあいに保護者が出した教育費の調査がなっておるわけでございまして、今もう大学とか高校とかに二人出している五十歳から五十四歳の人の家計に占める教育費の比率は五〇%ぐらいになっているという調査さえも実はあるわけでございます。
そういう中で今度は、受験地獄で、学校に出すんじゃなしに、壁とかなんとか学校外に対する教育費、これが五年間で小学校が四・七%、中学校が八・五%、高校が七%、こういうぐあいに伸びておるわけでございまして、経済企画庁の調査でも、八割の人が本当に教育費の支出が非常にひどくなったということを今訴えておるという調査も出ておるわけでございます。もちろんこれは可処分所得の増加あるいは物価の上昇、これをはるかに超えて教育費が上昇しておることは問題でございます。
義務教育費無償の原則にもかかわらず、学校で徴収しておりますのは、年間、小学校で八万円、中学校で十二万四千円、こういう統計も出ておるわけでございまして、物すごい父母負担の増加になっております。大学へ行きますともう話にならぬわけでございまして、まず大学は、四年間で一千万時代だとよく新聞に出ておりますね。大学四年間で一千万円、私立大学は二千万円要るんだ、こう言われる時代になりました。入学時に調べてみますと、国立大学で自宅から通う人が七十二万、下宿する者は百四十一万、私立大学は自宅から行く者が百四万、下宿する者は百七十七万、これは入学時に払う金です。生活費は、自宅の者が月に大体五万三千円、寮が九万二千円、下宿している者は十一万五千円。実は入学時に要る金で、医学歯学系は一千万円をずっと超しております。そうしますと、医学とか歯学とかという学校は、普通の家庭ではもう縁のない学校になってしまっておる、こういうことが出ておるわけでございまして、私はここに大変な問題が起きておると思います。
調べてみますと、親というものは日本でも八三・一%ぐらい大学教育まで受けさせたいという希望をみんな持っている。ところが、一九七六年に短大を含めまして大学は三八・六%の進学率でしたが、それからずっと頭打ちになりまして、八四年、去年は三五・五%になってきたわけでございます。
こういう意味で、経済的にもう大学に行けないというような状態が現在出てきておるわけでございまして、これは統計でもすぐわかります。年収によって大学進学率が全然違ってくるんです。例えば一千万円以上の年収の家庭は八七%大学へ行っておりますけれども、四、五百万の年収のところは五〇%にも達していない。進学率はこういうことになっているわけでございまして、全く最近の大学の進学の機会というのは、家庭の経済力、それから大都市の方が自宅から行けるので多いわけですから、地方と大都市で地域格差がある、こういうことが実は大学進学率に反映しておる、こういうことになっておるわけでございます。
本当に現在問題なのは、本人の意欲とか本人の資質によって大学とか進学が決まるのじゃなしに、親の経済力で若い世代の学習の機会が失われてしまっておる、こういうことが問題ですので、教育改革ということを言うのであれば、この過重な教育費負担を軽減してやる、そして教育の機会均等をつくってやる、これが政府の取り組む教育改革の大きい課題ではないかと私は思うのです。憲法十四条の法のもとに平等、教育を受ける権利がある、教育基本法三条は、経済的に困難な者には国とか地方自治体は奨学の方法を講じなければならぬとなっている。そういうものからいっても、教育費の負担を軽減して教育の機会を与える、これが教育改革の最大の課題の一つではないかと思うのですが、いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/26
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027・松永光
○松永国務大臣 父兄の教育費負担の増加が大変大きな問題であるということは私もよく承知しているところであります。中でも大学の場合に、自宅通学ならまだしも、下宿して大学に通う場合の負担の大きさは大変重要な問題であると思っております。いろいろ数字を見てみますと、これはもとが高いのですから増加率だけで議論しては話にならぬわけでありますが、増加率を見ますと、消費者物価の伸び率よりもやや高い増加率、民間の春闘のベースアップ率よりもやや低い率ということで推移しておるようであります。
文部省としては、各私立学校等に、より一層負担増加にならぬような学校経営のやり方でしっかりやってもらいたいということを指導しておるわけでありますが、しかし、もとが高いわけでありますので、そこで、かねがね文部省は、育英奨学事業の拡充、私学助成の充実等に力を入れてきたわけでありまして、六十年度の予算では、育英奨学事業については総事業量が五十九年度よりは八%増加するという予算になっておりますし、また私学助成の予算は、財政の厳しい状況でありまして、ほかの分野は大体へずられたのでありますけれども、五十九年度と同額の予算が確保できたということであります。これからも、先生御指摘のように、教育費の父兄負担が過大になってまいりますと、その面から教育の機会均等という理念が失われてくることになってまいりますので、父兄負担が過大にならぬように、今申した育英奨学事業あるいは私学助成の充実その他もろもろの施策を進めてまいりまして、そして、教育基本法に言う教育の機会均等の精神が生かされていくように今後とも一生懸命努力をしてまいりたい、こう考えておるところでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/27
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028・馬場昇
○馬場委員 あと、教育の自由化については、さっき言った民間活力論とか民営化論とかこういうところで触れたいのですが、時間がありませんので、最後に、この教育改革というのは二十一世紀に向けてということで、先般のこの委員会でも木島委員の議論の中でも出てきたわけでございますが、私は、二十一世紀に向けた教育改革の理念というものはやはりきちっとしておかなければならないのではないかと思います。これも大臣も御経験のとおりでございまして、十五年戦争、本当に日本の若者を、子供を、国民を死に追い込んだ軍国主義教育の反省の上に憲法、教育基本法ができたのだということは論をまつまでもないわけでございます。恒久の平和、基本的人権、主権在民、憲法のこの三大原理、そして平和と真理を追求する人間の育成、そして平和的な国家、社会の形成者をつくる、これが憲法、教育基本法の理念でございますが、もちろん今次教育改革も、二十一世紀に向けても、この教育理念というのは尊重されなければならない問題だと思います。
二十一世紀論が大分議論になったのですが、二十一世紀はどういう世紀になるのだという木島委員の質問に対しまして、大臣は、高度情報化社会になるのだ、高度技術社会になるのだ、あるいは国際化社会になると思う、高齢化社会は間違いない、こういうふうな答弁をなさっておられたわけでございます。やはりそういう方向に行くであろうと、私も当面はそう思います。しかし、問題は、この高度情報化社会、高度技術社会、国際化社会、高齢化社会というのは、平和がなくしては二十一世紀はないわけです。核戦争でも起こればもう二十一世紀はないのですから、人類もないのですから、だから、すべてこういう社会を想定するにしても、平和であるということがその基盤になっておると思います。さらに、高度情報社会とか高度技術社会とか、こういう社会を考えた場合に、民主主義というものがなければ、例えばだれかが高度情報をひとり占めにしてしまう、そうしたら情報のない者は奴隷になってしまうというようなことだって出てくる、あるいは高度技術のロボットが人間を使う、これでは人間の豊かさ、幸せというのはないわけでございまして、本当に民主主義があって、その基盤の上に立って高度情報社会、高度技術社会にならなければ、あるいは高齢化、国際化社会にならなければ、何の意味もないということは明らかでございます。だから、二十一世紀を語るときには、本当に二十一世紀というのは核兵器の存在しない平和で民主主義の世代にしなければならない、それが基盤であるということは当然過ぎるほど当然でございます。
だから、そのためには、初めて原爆の被曝を受けた日本の国民、そして日本国の教育というものに、憲法、教育基本法にもあるこの平和の理念、民主主義の理念というものが内容的にも制度的にもきちんと現実化していかなければならない、こういうぐあいに思います。今暴力とか非行とか問題にされておりますけれども、戦争というのは最大の暴力でしょう、最大の非行でしょう。それから平和と人権、国際連帯、こういうものが最高の道徳でしょう。そして、国を愛するというのは皆共通の基盤ですよ。だから、最大の非行、暴力である戦争をなくする平和と人権、そういうものが最高の道徳教育、そういうことをやることが国を愛する基盤になるんだ。こういうことを教育の原点にしておかなければいけないのではないか、私はこういうぐあいに思います。
そういうところで、私が申し上げたいのは、教育改革の中で平和教育、民主主義教育、このものを本当に大切にする、そのことが教育改革の原点であり、基盤にしなければならない、こういうことについて、大臣どう思いますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/28
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029・松永光
○松永国務大臣 教育基本法の第一条に「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者」を育成するというふうに我が国教育の理念と目的が明記されておりまして、これが今次教育改革につきましても、この教育基本法に明記されておる精神、これにのっとって改革を進めるということになっておるわけでありますから、教育基本法の理念と精神を踏まえての改革であることは間違いない、またそうしなければならぬ、こういうふうに思っているところでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/29
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030・馬場昇
○馬場委員 今学校現場を見ますと、例えば平和という問題、平和教育あるいは民主主義という政治教育、これはしなければならないと教育基本法になっているのに、平和のことをしゃべると何かイデオロギーを言っているんだ、政治教育をしゃべると選挙運動をしているんだ、こういうような圧力の中で、それをやらないという風潮が今あるんですよ、後退しているという風潮が。だから、私はこの際、平和教育をやりなさい、民主主義教育、政治教育をやりなさいということを教育改革の中で高く打ち上げていただきたいと思います。
なぜまた言うかというと、私が特に心配なのは、中曽根さんは非常に強烈な民族主義者ですね。そして国家主義者でしょう。そして、こう言ってはなんですが、今は憲法を改正せぬとおっしゃるけれども、憲法改正の歌なんかつくって選挙にもずっと出ておられる方なんですよ。そういう心配があるからこそ私はあえてまたそういうことも言うのです。そしてまた、今どんどん臨教審で議論されておりますが、教育改革というのが教育の論理ではかられなくて、経済の論理だとか商品化とかそういう論理で教育改革をはかろうと議論している人もおるわけであります。そういうことは厳に排除しなければならぬと思います。教育というものは競争ではなしに、例えば能力のある者は伸ばす、またおくれた者は特に熱心に教育をしてやる、一人一人の能力、個性を花開かせるというのがエデュケーション、教育でしょう。そういう意味において、本当に人間性を実現する、人の尊厳を確立する教育改革をやらなければならぬということを最後に申し上げまして、時間が参りましたので、私の質問を終わります。以上です。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/30
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031・阿部文男
○阿部委員長 有島重武君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/31
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032・有島重武
○有島委員 第百二国会における文部大臣の所信に対して質疑の時間を与えていただいて感謝をいたしております。
私どもも教育の改革につきまして考えたことがございまして、一冊の本にまとめましたので、この本は中曽根総理大臣にもできた当時に差し上げました。「二十一世紀 日本の教育」ということで「生命が躍動する教育を」、こういう題でございます。副題といたしまして「経済成長を超え人間成長へ」、こういうようなサブタイトルでございます。これは文部大臣に一冊進呈させていただきたいと思います。
本論に入ります前に二、三お尋ねしておきたい問題がございます。所信表明にも関係があることでございますけれども、やや時事的な問題でございます。
最初に、海外との教育交流というようなこと、これは所信表明の上にもたくさん出ておりますけれども、昨年の九月に日本の文部大臣が訪米いたしまして、ワシントンでアメリカの教育長官と会談をした。その中で三つほどの合意事項がございます。その一つは、本年五月東京で国際セミナーを開催する。それから、二年間かけて日米教育についての比較研究を実施する。それから三番目が、アメリカの高校での日本語教育を推進させるために六十年度から毎年十五人アメリカの日本語教員やその養成者を国費留学者として日本に受け入れる。こうしたことが合意された。それからもう一つ、これは懸案事項になっておりましたけれども、日本側も将来は日本の公立学校で英語を教える教員を米国に派遣し、相互交流を図っていきたい。それからもう一つは、文部大臣と教育長官との交流を今後とも継続していきたい。こういうようなことがあったというように伝えられております。このことにつきまして、その後どうなっているのだろうか、その進捗状態を御報告いただければと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/32
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033・大崎仁
○大崎政府委員 昨年の森前文部大臣とアメリカのベル教育長官との合意された事項につきましてのその後の状況でございますが、第一点の日米教育比較研究につきましては、相互に研究グループを組織いたしまして既にそれぞれ基礎的な作業を開始しております。先般アメリカ側の責任者でございますグレーソン博士も来日されまして、日本側は天城文部省顧問がプロジェクトと一応取りまとめの責任に当たっておるわけでございますが、その他の関係者と打ち合わせ等も行っておりまして、順調に軌道に乗っておるということでございます。
それから、アメリカの中学校における日本語教育の協力につきましては、こちらといたしまして正式に申し出をいたしておりまして、現在向こうからの推薦等を待っておるという状況でございます。
それから、国際セミナーの開催につきましては、その後検討の結果、五月というのは準備等の都合もございましてむしろ秋に延ばした方がいいのではないかということで、この秋に開催するということで現在準備を急いでおるという状況にあるわけでございます。
合意事項のその後の状況は以上のとおりでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/33
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034・松永光
○松永国務大臣 去年の九月、森前文部大臣がアメリカを訪問されまして、ベル教育長官と会談をされて意見を交換され、いろいろな成果を上げてこられたわけでありますが、その際、ベル長官を今度は日本の側にお招きする、こういうことが合意されておったわけであります。ところが、その後、ベル長官は御退任になりまして、新しくベネット長官が就任をされたわけでありまして、私どもとしては、近い将来ベネット長官を日本に御招待をして、両国間の交流、協力をさらに深めるようにしてまいりたい、こう考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/34
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035・有島重武
○有島委員 昨年の文部大臣のアメリカ訪問ということについての意味合いですけれども、従来は、国際交流ということについては外務省という一つの枠の中で文化、教育交流というようなことが大体位置づけられる、もちろんストレートのこともございましたけれども、大臣がじきじきにそういったことの折衝に乗り出すということは、一つの時代の流れといいますか、日本の歴史の中で新しい一つの問題じゃないかと思うわけでございます。
それで、今後松永文部大臣は、今のアメリカの長官とはどんどん話そう、こういうことでございますけれども、中国だとかソ連だとか、こういったそれぞれ文教担当の大臣も、大臣といいますか、長官というか、おられるわけですね、あるいはASEAN諸国の文相会議、こういうのもあるわけでございますね。そういったことに対して、どんどん積極的に活動を展開されていかれるべきではないんだろうかと考えますけれども、大臣、御所見いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/35
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036・松永光
○松永国務大臣 実は、ASEANを中心に世界各国の文部大臣あるいは文化担当大臣、最近は年に十人以上日本においでになっております。
また、先生も御承知と思いますが、先般バンコクで第五回アジア・太平洋地域文部大臣会議が開かれたわけでありまして、国会開会中でありましたので私は行きませんでしたが、私の代理として鳩山文部政務次官がかわって出席をいたしました。これはアジア・太平洋地域の文部大臣が一堂に会する会議であったわけでありまして、各国の文部大臣または文化担当大臣との交流が深められたわけであります。
中国につきましては、ことしの秋、河東昌教育部長の来日が実現するよう現在招請を進めているところでありますし、ASEAN諸国の文部大臣につきましても来日の機会があるものと期待しておるわけでありますが、私としても、今後ともASEANを中心に諸外国を私も訪問したり、あるいは先方の大臣がおいでになる場合には、その機会にお会いをいたしまして、そして文化交流あるいは教育の相互協力、こういったことを中心に協力関係を進めてまいりたい、こう考えておるところでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/36
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037・有島重武
○有島委員 これと関連してでございますけれども、いささかまた話の次元がちょっと違った話でもって恐縮でございますけれども、最近、中学校の外国語が週三時間になったといって問題になっておるようであります。
それで、これは昭和五十六年から中学校の外国語、これは選択教科ということでございますけれども、これが年間百五時間ですね、こういうふうになった。これじゃ不足だ、こういうことでもって、反対運動が起こったりなんかしておるのは御承知のとおりであります。それで、これが選択科目百五時間を標準とする、こういうふうに学校教育法の施行規則第五十四条でございますか、出ておる。この「標準とする。」というのは大体プラスマイナスどのくらいの幅があるものでしょうかね。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/37
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038・高石邦男
○高石政府委員 お答え申し上げます。
従来、最低授業時数ということで決めていたわけでございますが、今回は、その最低授業時数を標準というふうに改正したわけです。ただ、標準につきまして、どれくらいの上限があるかということを数量的に今まで申し上げてきていないわけでございます。といいますと、結果的に一割程度であればいいと言えばそれが最高になり、そして、じゃ下の方が一割カットできるかというような形で、非常に文部省が言ったことが、じゃここまでやれそうだとか、ここまでは授業を減らしてよさそうだというような画一的にとられる心配があるので、その標準という意味を理解していただきまして、常識的な範囲内で、しかも合理的な範囲内で、それぞれの設置者ないしは学校で運用していただきたいということで指導してきておりますので、数量的に申し上げるのは、ちょっと今までの指導の経緯もございますので、影響も大きいので御遠慮させていただきたいと思いますけれども。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/38
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039・有島重武
○有島委員 まあここでもって議論していても長くなってしまいますのでこの辺にしますけれども、私立学校なんかじゃ年間二百時間以上やっているところもあるようですね。実態的にどんなふうになっているのだろうかということは、これは掌握しておくべきじゃないんだろうか。これはプラス・マイナスということでもって二百時間ということで、百時間を超えてしまうというと片っ方はやらないということまで起こってくるわけですね。だからそんな、今局長がおっしゃったお心はわかりますけれども。それで、これも実際は本当の海外交流というようなことの基礎になる、そういうような心構えよりも、むしろ受験勉強をおもんばかる余りの心配という方が支配的であるんじゃないかと思っております。
それから、英語は選択科目になっておる。指導要領の中にドイツ語とフランス語が出ております。「その他の外国語」とありますけれども、その他の外国語ということになりますと、これはASEAN諸国、こういうことも起こってくるわけですね。あるいはもっと近く中国、それから韓国、そういったことがみんな入ってくるわけですね。朝鮮ですか、北朝鮮ですか、ソ連というようなこともこれから大きくなるでしょう。こういったことについてはどう対応していくのか、それを望まれたときにはどう対応していくのか、その御用意はあるのでしょうか。これからそういったこともぼつぼつやっていかなきゃならぬなと思っていらっしゃるのでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/39
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040・高石邦男
○高石政府委員 まず中高の段階、中学校の段階で申し上げますと、英語以外の外国語を開設するということは、制度上は開いているわけでございます。それを開設するかどうかは設置者の判断にゆだねるということにしているわけでございます。そして、結果といたしましては、中学校では英語以外の外国語を開設しているところはないというのが現状でございます。
高等学校に参りますと、若干開設しているところがありまして、ドイツ語、フランス語、ロシア語、中国語、朝鮮語、スペイン語、こういうもので、公、私立、数多くありませんけれども、そういう話学をやっておるわけでございます。したがいまして、今後国際化に対応していろいろな外国語の学習が必要になるということになれば、高等学校のレベルではそういう拡大の方向というのは出てくるのではないかと思っている次第でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/40
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041・有島重武
○有島委員 そうすると、今の局長のおっしゃった一番最後のことでございますけれども、これは将来対応していかなければならないという御認識でいらっしゃるのでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/41
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042・高石邦男
○高石政府委員 まず、画一的にこれを、文部省がどの外国語をやったらいいかということを言うことは非常に難しいのですが、今日までの世界の趨勢、我が国の置かれている状況から見ますと、どうしても英語を中心にまず子供たちに教えるということになろうかと思います。したがいまして、高等学校ぐらいのレベルで英語以外のものに力を入れて学習させた方がいいかどうかということは、それぞれの学校の教育方針、設置者の判断にかかるところであるわけでございます。基本的には、外国語としての英語を余りやらないでほかの話学を高等学校のレベルでしっかりやるというのは余りなじまないことになろうかというふうに思うわけでございますけれども、道としては、拡大の方向というものは当然考えていかなきゃならないと思っている次第でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/42
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043・有島重武
○有島委員 次の問題に行きます。
これも時事問題、二つなんですけれども、一つは、松戸市の中学校の一学生が、せんだって高校の受験のときに、高校への願書を中学校でもって一括預かっておって、そしてそれを中学校でもって出し忘れてしまった。それで、そのためにその高校へ入ることができなかった、そういった事件がございました。これは、こういった中学でもって一括で扱うというのは、別に文部省の御指導ではなくて、ならわしになっておるようでありますね。こういったならわしが今後とも望ましいものであるのかどうか。
それからもう一つは、これは、そのお子さんはとうとう松戸市では入学できなかった。もうどんなに頼んでも入れてもらえなかった、それは教育委員会の方でも同意しなかったということですね。大臣もこの事件を御存じでしょうし、それからこれにいろいろな意見、投書なども寄せられていたということもお目にとまっておるのじゃないかと思いますね。これは、一つの事務手続を守るために、そのお子さんの志望といいますか志、入学ということを阻害してしまった、これは助けようがなかった。私たちの感じからいうと、規則とか手続というものは子供たちの勉強を進めていく方向に機能するものだと思っていたわけですけれども、どうもこれが裏目に出たということがあるわけですね。これについて文部大臣としてはどんなふうにお考えになっておるか、お聞かせいただきたい。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/43
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044・松永光
○松永国務大臣 高等学校の入学試験の願書を提出する方法、県によって、全国的に統一されているわけじゃありませんけれども、多くは、中学校を経由して中学校の先生がまとめてお届けするというのが多いようであります。それは、願書を受け付けに行くために個々の生徒が学校を欠席しなくても済む、したがって、中学校の教育が順調になされるという利点、それから個々の生徒よりは少なくとも先生が持っていけばより確実であろう、こういった利点、それから高等学校側の願書受け付け事務がスムーズになされるであろう、こういった点等から、多くの県で中学校で先生がまとめて手続をしに行くというのが多いようでございます。また一方、自分の行きたいという学校にはその子供が持っていくことが意味があるんだという意見もあるようであります。いずれにせよ、それぞれの学校で十分教育的な配慮その他も考えてなさるべきことだろうと思いますが、学校でまとめて提出する場合には、今回のようなミスが起こらぬようなチェックシステムが確立されることが望ましいと思っております、
なお、この間の事件は、これは教師のミスによるものなのでありまして、大変遺憾なことだ、残念なことだったと思っております。今後こういう不幸な事件が起こらぬように、ミスが起こらぬように、先ほども申し上げましたように、中学校の中での、一括して持っていくという場合には、チェックシステムを確立していただきまして、二度とこういう遺憾な事態が起こらぬようにしてもらいたいというふうに考えておるところでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/44
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045・有島重武
○有島委員 そうすると、これは仕方がない、これからそういうことがないように望む、こういうことですね。これによって、中学校で一括するというならわしのようなものはもう一遍検討し直すというようなことはないし、それから、人間のことですからこれからもそういう間違いも起こるかもしれぬ、そういう間違いが起こったときには、それは校長先生の責任でもなければ担任の責任でもない、一生懸命やっているそのお子さんが運が悪かった、おしまい、こういうことでよろしいわけなんですね。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/45
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046・松永光
○松永国務大臣 私は、こういう事故が二度と起こらぬようにすることが大切なことだというふうに思っております。そのために、中学校でまとめて持っていくのがいいのか、個々の生徒が持っていくのがいいのかという問題は、それぞれの学校なりそれぞれの県なりで十分研究してやっていただくべきことだと思います。
なお、学校でまとめて持っていく場合には、先ほど申したとおり、チェックシステムを確立して、二度とこういう不幸な事態が起こらぬようにしていくことが大事なことであると思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/46
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047・有島重武
○有島委員 私の感想を言えば、その学校の先生なり校長さんが、本当に自分の身を張ってでも、これはこっちの誤りだったんだから頼むというようなことができなかったのかなと私は思いますね。これが教育者としてそれでいいのかしらと、私は非常に疑問が感じられてなりません。
それで、次の問題は、先ほども馬場委員からも持ち出された問題でございますけれども、横浜市の団地の十三階から小学校五年生のオー君というのが飛びおり自殺をした。これは二月の十六日だということですね。それで作文を残した。なかなかませたといいますか、ちょっと大人びたといいますか、そういうような筆致であった。こんな子は珍しいのでしょう。それで、これもいろいろな批判がなされておった。これについては何か御感想を持っていらっしゃいますか、大臣。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/47
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048・松永光
○松永国務大臣 横浜市のある小学校五年生の子供の自殺の問題、大変痛ましい、まことに残念な事件であったというふうに思っております。なぜこの子供が自殺をしたのであろうか、これはいろいろな原因その他があろうかと思うのでありますが、要は、それぞれの御家庭で生命を大事にする、そういう心を育てる家庭のしつけや家庭の養育、あるいは学校における教師の生徒に対する生命尊重の心を身につけさせるという教育、あるいは教師と生徒との間の心の触れ合い、つながりをより濃密にしていくという事柄等々、教育の問題としてこの事件は真剣な反省材料として受けとめて、この種の痛ましい事件が二度と起こらぬようにしていくことが極めて大切なことであるというふうに思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/48
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049・有島重武
○有島委員 じゃ、先の問題、もう一つ。奨学金のことは前の国会でもって相当議論をいたしました。ことしも私立大学の七一・二%、二百十五校が授業料を値上げをするというごとですよね。私学に進むと、初年度でもって平均、大学ですと九十一万六千八十六円、これは四・二%のアップ、それから、都内でもって高校に行きますと、六十二万九千二十六円かかる、こういうようなことですね。こういうことで、奨学資金の貸与制度というのは国民にとっては本当になくてはならないことである。それで、この前有利子制度というのが導入されて、これについてはいろいろな疑義があるということを私たちは表明したわけでございますけれども、制度としてそうなりました。それで、その後の状況は、有利子制度の申し込みが非常に少なくて、その枠にまで達しておらない、こういうことであります。
それで、いろいろ細かいことはもう時間がないからあれですけれども、私は、従来の制度で申し込んだ者、それから有利子の新しい制度で申し込んだ者、これが窓口が全然別なところであって、それで、渡りといいますか、これがだめだったらこっちへ回そう、こういうような融通性が必要なんじゃないのだろうか、ひとつそういうような検討もしなければならぬのじゃないだろうか。あるいはされているかもしれませんけれども、こういったことについてはどうですか。どこで答えていただけますか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/49
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050・宮地貫一
○宮地政府委員 お答え申し上げたす。
日本育英会の奨学生の採用状況についてのお尋ねでございますが、この育英会法の全部改正については、さきの国会でいろいろと御論議をいただいた結果、成立をいただいたものでございますが、その第一年度、本年度でございますが、本年度の状況でございますけれども、この新たな有利子の第二種の奨学金の制度は、制度が新しくつくられたものであるということで事務手続の開始が大変例年よりおくれたという状況もございまして、応募状況もやはり低く、結果として、現在まだ年度が終わってないわけでございますけれども、第二種奨学金、いわゆる有利子の奨学生の採用数でございますけれども、採用予定数は全体の約六割程度というような状況になっておるわけでございます。
明年度については、通常の募集時期である新年度早々から在学生の奨学生を募集をすることにしておりますし、また、その制度の周知徹底にもなお一層私どもとしても努力をいたしまして、年度当初からそれらの事業を行えば、私どもとしては予定どおりの採用が行えるものと考えているところでございます。
なお、先生御指摘の第一種奨学金と第二種奨学金の窓口と今言われたわけでございますけれども、それらの点については、この制度を新たにつくった時点から、第一種奨学金の出願時に第二種奨学金の希望の有無もあわせて確認をするということにいたしておりまして、第一種奨学生として採用にならなかった場合に、希望者が第二種奨学金の基準を満たしておりまして、学校長から推薦があれば、第二種奨学生として採用することができるというような形での取り扱いをいたすことにしておりますので、いわば窓口が全然異なっていてばらばらになるというような取り扱いのないように、そこは十分事務的にも対応ができますようなことで考えているところでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/50
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051・有島重武
○有島委員 そうすると、制度的にもっと融通を持たせるようにする、そういうことですね。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/51
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052・宮地貫一
○宮地政府委員 制度的にという形ではございませんで、取り扱いの事務といたしまして、第一種奨学生で出願をいたしました者が不採用になった場合、あらかじめ第二種奨学生として希望するかどうかの希望の有無は確かめまして、第一種奨学生として不採用になりました場合でも、第二種奨学生としての基準を満たしている者については、学校長の推薦があれば、第二種奨学生として採用できるような手だては講ずるようにいたしておるところでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/52
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053・有島重武
○有島委員 いたしておりますというか、来年度からはそうするということですね。そのように受け取ります。それでよろしいですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/53
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054・宮地貫一
○宮地政府委員 六十年度からはそういうような対応をいたしたいということでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/54
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055・有島重武
○有島委員 それは大変結構なことだと思います。
大臣、お聞きのとおりでございますけれども、これから留学生なんかが大量に入ってくるような場合にも、留学生のためのまた奨学資金というようなものが、今も個々いろいろあるようでございますけれども、総合的にまた奨学資金を見直さなければならないときがそろそろくるのではないだろうかと私なんかもちょっと感ずるわけでございますが、何かそのようなお考えはおありになるかどうか。大臣、いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/55
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056・松永光
○松永国務大臣 現在の育英奨学資金の貸付制度でございますが、これは日本育英会法の規定に基づきましてなされていることでございまして、日本育英会法は、その第一条に、この育英奨学事業の目的として、我が国の国家及び社会に有為な人材の育成に資することを目的とする、こうなっております。留学生というのは直接的にはこれに該当しないわけなんでありまして、ただ、外国の人の場合であっても、我が国に永住を認められた者につきましては、これは日本育英会法の育英奨学事業の目的に相当する、こういうふうに認められますので、そういう方々に対する貸し付けは実は既にいたしておるところでございます。ただ、留学生を含めて、そうでない人の場合、その方々の問題、これは将来の検討課題だというふうに思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/56
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057・有島重武
○有島委員 それでは、文部大臣の所信の本論に入りたいと思います。
大変短いページの中でエッセンスのように大臣の所信のほどを述べられておりまして、私も先日伺った。なお、その真意のほどを幾つか質問させていただいて、そして、私ども納得し賛同できることについては当然その推進に御協力申し上げたいし、それからまた、私どもの考えでおるところもございます。そういったことを交えて申し上げる、それをまた御理解いただき、そしてその実現の一つの道を開いていただければ幸いである、そんなふうに考えておりますので、よろしくお願いをいたします。
最初に、臨教審の問題です。ここでは臨教審の審議が円滑に進められるよう担当大臣として最大の努力を払う、それから、結果がまとめられた場合には教育改革の推進に全力を挙げます、こういうことでございます。それで、この両方にかかって、国民合意の形成ということが審議の過程においてもあるいは改革を進めていく上においても非常に大切ではないかというふうに私は申してまいりましたし、今日も思っております川大臣も当然だというふうにおっしゃるかもしれないけれども、その文面の上に、国民合意の形成に大いに留意するとか、これを重視するとかいう文言があらわれておらないですね。これはどういうことなんだろうなと私は素朴に思うわけです。何かお考えがおありだったらば、言っていただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/57
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058・松永光
○松永国務大臣 臨教審の審議がスムーズに進められるようにしていくのが担当大臣である私の責務でございます。なお、審議がスムーズに進められた結果、臨教審の意見の取りまとめがなされて答申が出された場合には、総理大臣がこれを国会に報告するということにもなっております。したがって、その答申につきましては、国会でいろいろな議論がなされるものと私は期待をいたしているわけでございます。同時にまた、答申に基づいて改革を具体的に進めていく場合には、いろいろな制度を改善するという事柄やあるいは立法事項等も出てくるかもしれません。その場合には、当然のことながら、議会制民主主義のもとでございますから、国民各層を代表する各党の皆さん方に御議論をしていただきまして、その結果としていろいろな法律の改正その他もなされるのじゃなかろうか、これは将来のことでございますけれども、そのように考えておるところでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/58
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059・有島重武
○有島委員 これは合意の形成というようなことが非常に大切になるのではないか。ほかの改革と違いまして、教育の改革は、それこそ百年の計とおっしゃいますけれども、非常に息の長いことでもありますし、それから、大勢の人たち、国民全部にかかわりのあることですから、これは、ほかの問題もそれぞれ国民合意の形成が必要であり、国民の合意の形成といったらそれは国会における議決があればそれでもっていいわけですけれども、いいというか、そういった形式をとるわけでございまして、もちろんこれも最終的には国会の議決によるということが起こるでしょう。しかし、それ以前に、本当になるべく大勢の人たちが心から賛同して積極的にそれを一緒にやっていこう、こういうようなことを配慮する。当事者として大臣は、ただ審議会がやっている、それを円滑にやらせましょう、それはそのとおりです。決まったらばそれを実行しましょう、そのためにいろいろ走ります、それも結構です。だけれども、特に国民合意の形成ということについては、御留意があり御苦労もあるんじゃなかろうか、その気構えもおありになるんじゃなかろうか、そういうふうに私は拝察するものでございますけれども、その点いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/59
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060・松永光
○松永国務大臣 臨教審設置法第三条にありますように、「内閣総理大臣は、答申等を受けたときは、これを国会に報告するものとする。」要するに、議会制民主主義のもとにおきましては、国民の各界各層の意見を代表するものは私は政党であろうと思います。その政党の皆さん方の御議論にこれをさらす。その結果具体的な改革をするための制度改革その他がなされていく、これが議会制民主主義のもとにおける国民合意の形成に基づく教育改革、こういうことになるんじゃなかろうか、こう思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/60
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061・有島重武
○有島委員 大体わかりました。ですから、今までの手続きを踏んでいけばそれがそのまま国民の合意の形成になるんだろう、そこで決めたことは、みんなが多少心に不服を持っていてもついてこい、こういうふうにやってぐんぐん引っ張っていけばよろしい、そういうふうに受け取られなくもないような今のお答えなんですね、私の方から言わせれば。これは普通のことと違って、相当注意深くやっていかなければならないのじゃないだろうか、これは丹念にやっていかなければならないのじゃないだろうか、ある場合には、円滑にいかなくても、時間をかけて相当丁寧にやっていかなければならないのじゃないだろうかと思ったものですから、そういうふうに申し上げました。
次に行きます。
第一に、初中局担当の問題ですか、小学校、中学校のことでございます。ここは大体二ページ近くにわたって、道徳教育ないし心の教育ということに関連があるような感じでございますね。それで、あと国際青年の年であるというようなことで、社会教育のこと、関連の家庭教育の充実等のこともございます。従来の知育、徳育、体育というようなことからいけば、知育も体育もまあまあの線になっている、あるいは諸外国からも評価されるような状況になっておる。徳育について、これからの時代を目指し、あるいは現状でいろいろな問題が起こっておるからというふうに私は読むわけでございますけれども、この最初のところでもって、「児童生徒の豊かな人間形成を図ることを基本」にする、これは私はもう大賛成というか、これも私どもが言い続けてきたことでございます。
ところで、「個性、能力に応じた教育」というのも結構なような気もするのですけれども、これも「一層推進」するというのですよね。そうすると、これはいろいろな認識があろうと思うのですけれども、「個性、能力に応じた教育」、今までやってきたのはどういうことをやっていらっしゃったのでしょうか。特に、今画一的だとかなんとかいって批判されておるけれども、そういったことについて、質問というとあれですけれども、答えもしにくいだろうから、先にこっちの考えをちょっと言わしていただきます。
お釈迦さんという人は、あれもやっぱり教育の大家だったと思うのですよね。あの人の行き方は、個性教育というか、十大弟子というのがおりまして、知恵一番というのがあるかと思うと、走りっこ一番というのがあるのですね。物忘れ一番なんというのもいるのですね。いろいろな一番がいた。そういうようなことが言われております。
〔委員長退席、船田委員長代理着席〕
今の画一教育と言われているのは、テレビでもってひところよく言われていたけれども、ある番組があって、「良い子悪い子普通の子」というのがあるのですね。そういうのがあった。それでさっき話題に出ておりました、のろまでもって、サトイモでしたか何かの根を一番最後になってのろのろとっていった、こんな話があった。大臣は、そういう子もいいんじゃないだろうか、だれでもそう思いますよね。ただ、今までは、やはりはしっこい子がいい子で、器用な子がいい子で、それで暗記力がよくて、駆けっこも速い方がいいとか、そういうふうな価値基準が、何かいわゆる模範生的なものがあったのじゃないだろうか。
さっきの十大弟子の原理からいいますと、ゆっくり一番というのもあれば、はしっこい一番もあれば、頑張り一番もあれば、思いやり一番もある、こういうような見方ですね。それからもっと言えば、おしゃべり一番というのもあってもいいんじゃないか。それから無口一番というのがあってもいいんじゃないだろうか。それから甘え一番、しっかり一番、わがまま一番、腕力一番もあれば、やさしさ一番もある。元気一番もあれば、それから物知り一番というのもあれば、暗記一番というのもあれば、応用一番、思いつき一番、礼儀一番、理屈一番、質問一番、工夫一番、常識一番、さっきの五年生のオー君なんかは、これは哲学一番みたいなものでしょうね。たまにも色が変わって、何か思っている人がいる。こういうような何か多様な物の見方で、それぞれにやはりどれかの一番になる、どれかの二番にもなる、せめて三番にはなる。何でも一番というのは、それはグランプリでしょうな。現在あるのは、背の高さ一番とか、体重一番とか、駆けっこ一番。また、ある学校に行きましたらば、縄跳び一番というのをやっていました。これはなかなかの人気で、随分できの悪い子でも、縄跳び一番というところにランクされていると、元気になってやっている。これは一種のゆとりというようなものだと思うのです。
そこで、「個性、能力に応じた教育」といった場合に、二通り考えられると思いますのは、そういうふうな物の見方をしていくゆとりを持ちましょうというふうにいくのと、あるいは今までの物覚え一番の人は全部こっちに集めてその能力に応じてどんどんまたこれは特訓しましょう、物忘れ一番はまたこっちに集めてここはまた別なことをやりましょうというふうに、まさに能力に応じてあるいはその個性に応じてその区分けをして、また画一の中に押し込んでいくようなことをお考えではないでしょうな、そう申し上げておる。いかがでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/61
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062・松永光
○松永国務大臣 人間にはいろんな能力があるわけでありまして、その能力を引き出していくということが教育の上では大事なことだと思います。先ほど先生は、記憶力一番、駆けっこ一番、腕力一番、いろいろなことを申されましたけれども、あの中でわがまま一番というやつはこれはいただけませんね。すばしっこさ一番ならまだようございますけれども、いずれにせよ、その子その子が持っておるいろいろな能力があるわけでありまして、その多様な能力を育てていくということが大切なことだというふうに私は思います。
同時にまた、最近は、教え方によってその子供が興味を示して学習に意欲を燃やす、教え方のいかんによってはなかなか学習に対する興味を持ってくれない、そういう子供もあるようでありまして、そういう子供の場合には、特に教える側の人が工夫をし研究をして、その子が意欲を持つような、そういう方法で教育をする必要もあるというふうに思います。
いずれにせよ、その子供の持っておる多様な能力や特徴、そういったものを十分把握して、どういう教え方、どういう方法がその子供を健全に育てる上で最もいいのかということを考えながら教育は進められなければならぬというふうに思うわけであります。必ずしも点数だけとるのが一番いいんだというのではなくして、それぞれの個性、能力、そういったものに応じた教育がこれからなされていかなければならぬというふうに私は思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/62
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063・有島重武
○有島委員 今の大臣のおっしゃった御見識に私は敬意を表します。そして特に、個性に応じてこう教えていこうということも大切ですけれども、いろいろな個性を評価してあげよう、激励してあげよう、認めてあげようという方向ですね、それがやっぱり一つの大切なポイントになるのじゃなかろうかとも存じます。今も大臣、一番最後におっしゃったのは、今後はそういうふうにしていかなければならないという点ですね。ですから、従来やっていたことを一層進めていくとここには書いてございますけれども、その中にはそういうふうな、さらに今までとちょっと質が違うというか、そういうことが含まれておるんだ、私はここのところをそのように、その御真意はそうであると酌み取らしていただきます。
その先でございますけれども、「特に、道徳教育の充実に加えて、」云々とあって、「心の教育を推進」するように努力する、こうあるわけなんですね。それで、道徳教育ということについては、これは現在の学校教育の体系を見れば、各教科、それで道徳、特活と三本柱があって、真ん中の大柱になっているわけでございますけれども、それで、これについては文部省が昭和三十三年ごろですか、非常に力をお入れになりまして、これはいろいろな異論もあります、疑いもあります。だから、一生懸命手を尽くしていらっしゃることはわかります。そして、学校教育法の中で、既にそういった学校教育法の小学校でやることについても、第十八条の一、二、三なんというのは、まさに道徳、しつけないしは郷土及び国家を愛するというところに通じるようなことがれっきとしてあるわけですね。そして、小学校は二十八、中学校は十六の項目を設けられまして、それに指導書をおつけになり、それからまたさらに手引というのですか、そういった本を印刷もなさって、いろいろな物語を添えられて副教材もつくって、それでさらに今、去年からですか、道徳教育の一つのまた新しい試みとして、家庭と学校との連携といいますか、ブリッジといいますか、そういうようなことも進めておられる、そういうふうに承知をいたしておるわけであります。
そこにもってきて道徳教育というのがある。そこにつけ加えて心の教育を推進する、こうあるわけですね。そうすると、僕の認識だと、ここに書いてある「心の教育」というのは、思いやりであるとか、それから国、郷土、家族を愛するだとか、あるいはしつけの基本的習慣ということは今までの道徳教育の中におさまっている、そういうふうに認識をいたしておりましたけれども、これに加えてこうする、こう言われると、これは一体何だろうな、こう思うわけですね。ここにどういう御真意がおありになるのか、そのことを、大臣のお述べになった御真意のほどをちょっと承りたいのです。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/63
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064・松永光
○松永国務大臣 道徳教育というものは極めて大事なことでありまして、豊かな人間形成を図る上では、道徳教育というものは、今までもやってきたわけでありますけれども、今後もなお一層重要なものとして位置づけて充実をしてまいりたい、こう考えておるわけでございます。
ところで、道徳教育をさらに一層充実するという観点から、一昨年いろいろな調査をしたわけでありますが、その結果、生活をしていく上で必要な基本的ななすべき事柄、生活慣習形成の度合い、こういったものを見てまいりますと、先生方もそうだったと思いますが、案外望ましい生活慣習を身につけていない児童生徒がいるということも実はわかってきたわけでありまして、そういったことを考えると、いろんな工夫をしてそうして正しい生活慣習を身につけさせる、あるいは他に対する思いやりとかいたわりとか、そういう心をより一層育てる教育を進めていく必要がある等々のことを考えまして、そこで、学校と家庭の連携を進める問題、あるいは自然教室推進事業、これは前から、去年からやっておるわけでありますけれども、そういったものをより一層充実していくという問題、いろんなそういう工夫を凝らして、今までも道徳教育の充実に努めてきたところでありますけれども、今後は今言ったような新しいやり方も含めて、より一層強化をしていきたいというのが私の考え方でございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/64
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065・有島重武
○有島委員 そういたしますと、このために予算はどのくらいおつけになったわけですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/65
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066・高石邦男
○高石政府委員 まず、道徳教育の分野で申し上げますと、従来研究指定校というのは学校を単位としてやることが多いわけでございますが、学校・家庭連携推進校ということで、学校、家庭を含めた研究指定校によって、学校で行う道徳教育、そして家庭で行うしっけ教育、そういうものをより一層推進したいということで、五十九、六十年度にわたりまして小中学校九十四校をまず指定したわけでございます。
それから、校長等の指導者の研修、中央においての研修を年間五百人程度、一週間程度の期間を使って研修をする、こういう事業、それから遺徳教育用の郷土資料の研究開発、これは各府県にお願いしまして、その地域の実態に応じました偉人伝であるとかそれから逸話などを取り上げる、こういうことを含めまして道徳教育充実に必要な経費といたしまして一億一千八百万計上したわけでございます。そのほかに自然教室推進事業といたしまして、ことしは四億一千七百万でございましたのを四億八千八百万計上しておりまして、それに利用する施設を、従来の少年青年の家だけではなくして、学校等の廃校利用、そういうものの改修をして使うというような予算も新たに計上する、そのために二億七千万計上しております。それから、都会の子供と田舎の子供とのふるさと交流学習、これを約五百四十万計上しているわけでございます。それから、幼稚園と家庭との連携推進事業を各府県でお願いするということで六千万の予算を計上しております。これはどちらかというと、学校で行う教育的な観点をもうちょっと広げて、子供のしつけ、そして子供たちの持っているいろいろな基本的な生活習慣の育成、そういうものを含めて広い範囲でこれを推進したいということで、道徳教育に加えて心の教育という表現で今申し上げましたようなことを推進するということにしているわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/66
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067・有島重武
○有島委員 きょう私、一つの提案を申し上げたいと思っております。
それは異年齢混成の教育ということでございます。異年齢というのは年違いの人たちがごちゃごちゃいる、こういうことであります。現在の学校教育というのはみんな同年齢のクラスになっているわけです。それがスタンダードになっている、普通になっている。それを、今大臣のお答えの中で、従来いろいろな道徳教育をくみ上げられた組織の中でやっておるけれども、調べてみたならばいろいろな行き渡ってない問題がある、そういうことに気がついてさらにやるのだ、こういうことでございましたね。
私は、思いやりとか責任感とか、そういった問題につきましても、学校教育法の中にも「学校内外の社会生活の経験に基き、人間相互の関係について、正しい理解と協同、自主及び自律の精神を養うこと。」云々とあるわけですけれども、現在の子供たちが学校内外でどのような人間関係を持っておるのだろうかといったことをもう一遍見直してあげなくてはいけないのじゃないだろうかなと思ったわけです。
それで、このことにつきましては、学校教育以外ですと社会教育の方でございます。昭和五十六年五月九日の社会教育審議会答申の「青少年の徳性と社会教育」という冊子の「現代社会と青少年」「青少年の意識・行動の傾向」という分析の中で、「都市化の進行により、空き地、広場など少年の遊び場が少なくなった。かつては、異年齢の青少年たちがそうした場所で共に活動することによって協力、責任、思いやり、ルールの尊重などの意識や態度が形成されていたが、今日では、年長、年少の者が一緒に遊ぶといった光景はあまり見られなくなった。」こういうのがございますね。それから、九ページの「発達課題と教育的配慮」というところの下の方に、「少年期になると、」云々とあって、「今日の少年は、戸外での遊びや異年齢の仲間との活動などが少なくなっているとともに、親の過保護の中で活動性、自発性を発揮する生活体験の幅を狭められている。」こういうことが書いてある。それから、十二ページに参りますと、「社会教育活動の特徴」で、「年齢を異にする仲間が生活を共にし、相互に尊敬や思いやりの心を育てながら家庭や学校では経験しにくい社会生活についての体験学習をする。」こういうようなことです。異年齢というのは私の発明でも何でもないわけでございます。社会教育の方ではこういうことを言っておった。
昨年、これも文部省から出されております「現代の家庭教育」、これは乳幼児期編でございますけれども、この目次の中にも「異年齢集団の形成と子供の成長発達」といった項目がございます。それで、この集団活動というのは、異年齢の子供による集団活動と同年齢の子供による集団活動との二つの中で、「特に幼児にとっては、異年齢の子供による集団活動が必要です。」そんなふうに出ているわけです。ですから、私はそんな珍しいことを言っているつもりはないのです。
提案といたしまして、僕が今考えている、私たちが今議論しております異年齢混成というのは、幼稚園なんかにおいて三歳、四歳、五歳の混成で遊ぶ時間をより多く設けてもらう。そこでいじめられたりかわいがられたり世話を見合ったりといった体験を積んでもらう。
それから、第二番目には、幼稚園、保育園ないしは小学校、中学校におきまして、年長児が年少の子供の世話を進んで見る、こういったこと。これは実はある学校では、入りたての一年生、新入生の子供を最上級生が世話を見る、あるいは給食を一緒にやってあげる、そういうようなことが既に行われております。
三番目、小学校の一年生から六年生まであるいは中学校の一年生から三年生など、いわゆる縦割りのグループの編成をする。これでいろいろ掃除当番とかゲームとか、農園をつくる、あるいは運動会などの学校行事にかかわって活動する。
四番目には、特活——特別活動というのは、大体縦割りでといいますか、異年齢混成でやっていることもありますけれども、今度は進んで各科目の中で、学科の中で、情操科目なんというのはある場合には異年齢混成での授業が可能なんじゃないだろうか。そういったことをもっと考えてもいいのじゃないだろうか。
これがもっと進んでいけば、そういったグループが夏休みの宿題なんかをやり合うというようなことが自発的に起こっていったらいいのじゃないだろうか。
それから、ちょっと質が違ってまいりますけれども、六番目は、高校生が幼稚園ないしは保育所の保育に参加して手伝わせてもらうというようなこと。
それから、七番目、若い母親やある場合には妊婦といった人たちが、幼稚園あるいは保育所の保育に参加して手伝わせてもらう、そこにおいて学習する、母親だけ集めての母親学習ということもあってもよろしいかもしれませんけれども、いわゆる座学というのですか、このごろは黒板じゃなくていろいろ幻灯みたいなものを使ってやっているけれども、実際に保育に参加してそこで教わっていくといったことが効果があるのじゃないだろうか。
最後に、八番目に、高齢者をボランティアとして幼稚園、保育所に参加させていく。これは学校なんということを超えてしまって、受け入れ側は幼稚園ということになりますと相当な年齢の開きになりますけれども、こうしたような異年齢の混成は、昔のことを言えば異年齢が混成しているのが一般の生活でございまして、それが同年齢できちっとなるのは七五三のときだけくらいじゃないでしょうか。それが、僕たちの年代でございますと、まさに家の中に異年齢がございまして、兄弟が、私は五人でございますけれども、うちのおやじは十人兄弟がな、お隣も七人兄弟、それがつき合っていてごちゃごちゃやっているわけです。
そういう中で、これにも既に指摘されていることでございますけれども、これは二つの効果を注目しておかなければならないのではないかと思います。
一つは、人間関係のいろいろな複雑さを経験しておかなかったらば、どんなに徳目を教えても、それは観念論であって身につかないのじゃないだろうか。だから体験させておく。それも一遍、二遍屋外に連れていって一緒に泊まってきたというだけでも、やらないよりはすばらしいことでございますけれども、それを日常的になるべく多くそうしたチャンスをつくって、その中でおのずからの思いやり、あるいはいじめということが今深刻になっておりますけれども、その手かげんといいますかあるいはいじめられ方といいますか、いじめが全部なくなってしまうということはいいかもしれないけれども、そういうことは現実としてはあり得ないでしょうが、そういうようなこと。こうした道徳教育と言われているものを進めていく上でこれは不可欠な基盤ではないのだろうか。それが第一番です。
第二番目は、学校教育というのは心身の発達に応じて行われていかなければならぬということになっておりますけれども、とかく同年齢の輪切り、六歳は一年生、七歳は二年生ということでずっといくということになりますと、さっき言ったのろま一番なんていう人は、その学期の成績あるいはその学年の成績からいうと、これはできの悪い子だということになってしまうわけですね。
〔船田委員長代理退席、委員長着席〕
特徴でもってなかなか評価されないということが現在の学級ではあるわけですね。異年齢の中ではそれが一つの特徴となって、個性となって、やはりこっちが別に頼まなくても子供たちの間で評価されてくる、そういうことがあろうかと思いますね。
それから、もう一つは、親や教師が子供たちを見る場合にも、今一人っ子、核家族、そういうことが一般的になってきている。そうすると、長男、長女ということと同じことであります、あるいは末っ子ということでありまして、そこに過保護状況が起こってくる。過保護というのはその子供しか見えない。その子供を成長過程として見ていくということは、昔はお兄ちゃんもこんなふうだったんだからやがてこうだよ、あるいは隣の子もこうなんだから今はこうだけれどもこうだといって、それほど神経質にならない。いろいろなことが起こっても、それも成長の過程、経過として認識することができた。それを今の親御さんたちは、なかなかそういうことを、テレビや雑誌あるいは書物、あるいは講義なんかでいろいろ聞いても、目に見てない。だから、なるべく長い目で物を見ていく、そういうことでもって、この異年齢の混成ということが非常に大切になってクローズアップされてこなければならないのじゃないかと思うわけです。
説明が長くなってしまいましたけれども、ところで、こんなことは家庭で、社会教育の方で望むべきことでありましょう。ボーイスカウトだとか剣道だとか柔道だとか、そういったことでもってあるいはいろいろな試みがあっていいでしょう。ただ、現実の問題としては、兄弟が少ないから家庭の中に異年齢を求めることは難しいわけですね。それから、社会教育の中でも実際になかなかこれは言うべくして行われない。こうなりますと、先ほど高石局長さんからお話があった家庭と学校との連携、これは今やっていらっしゃることは、家庭でやるべきことを学校に余り持ち込むな、学校でも責任を持ってやっていきなさい、むしろそうやって家庭の教育意欲を促進しようという、そういったブリッジ関係というふうにも受け取られますけれども、そういうことの一環として、学校の中でこの異年齢混成のいろんな試みを光を当ててそして評価していく、あるいはその効果をいろいろと調査を進めていく、こういったことをやってもらえないだろうか、これが提案なんです。
文部省で調べていただきましたところ、清掃活動なんかをやっておりますのは、山形県、茨城県、愛知県、奈良県、香川県、徳島県、ここに六校ほど挙がっております。農作物の栽培活動をやっているのは、ここに二十校ほど出ております。学校給食をやっている、これも相当たくさん数が出ております。それから中学校においてもやっておるようでかります。ここには縦割り活動なんて言っておりますけれども、言葉として縦割りというのは管理者側から言う言葉なので余りいい言葉じゃないんじゃないだろうかと思いますが、ここにお調べいただいたのは、これは実際にお金を得ているものの中ではごくごくわずかで、この五、六倍あるんじゃないだろうか。私が幾つか見ているのは、この名前に挙がっておりませんから。いろんな場合があるようであります。こういったことも既に行われている。
それで、大臣として、ひとつこういったことに御留意をいただいて、光を当ててその効果を少しお調べいただいて、できれば奨励してもらいたい。そのことが、道徳教育といいますか心の教育といいますか、こういったことを展開していく一つの不可欠の基盤になっていくんじゃないだろうか、こういうように御提案申し上げます。いかがでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/67
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068・松永光
○松永国務大臣 先生の提案はまことにユニークな提案で、大いにひとつ参考にしながら、やっていくべき点はやっていく必要があるというふうに思います。学校教育の場で同年齢のグループをつくって教育をしておる。その必要性は、それぞれの教科についての学習、これは同年齢の集団が大原則だろうと思いますが、それ以外の例えばスポーツ活動とかあるいはクラブ活動などの面では、異年齢集団を形成してその中で教育活動をしていくということは大変意味があることだというふうに思います。
先ほど先生の御指摘もありましたが、昔は一軒の家の中に五人も六人も兄弟がおりまして、そり中でもまれて子供は育ってきました。したがって、弟や妹の方は、兄貴や姉の言うことをよく聞いたりあるいはそれを見習ったり、兄貴や姉の方は、弟や妹に対しておのずからいたわりの心をもって接する。まんじゅうが一つあれば、まず弟や妹の方に先に食わせて、自分の方はちょっとで我慢する、こういったことをしながら、家庭の中でいたわりとか思いやりとかあるいは優しさとかそうい保ったものが身についてきておったと思うのです。家の外でも、町の中であるいは山村の小集落の中で異年齢の集団がありまして、そこでいろんな活動を通じて、今で言う心の教育というものがなされておったというふうに思います。
最近は、家庭の中では先生御指摘のとおり一人っ子あるいは兄弟は自分を含めて二人しかいない、そういう家庭の中の変化が大きく起こってきましたし、また家の外でもこの異年齢集団というのはなかなかできがたい状況でありますから、学校活動の中のスポーツ活動やクラブ活動、こういったものの中では、この異年齢集団によるいろいろな活動というものは大変意味のあることだというふうに思います。
小学校や中学校の体育祭などの場合に地区別対抗などというスポーツをやったりしますけれども、あれなどもやはり異年齢集団によるスポーツ活動の一つだと思いますが、そういうこともあるわけでありまして、とにかくこの道徳教育あるいは心の教育等の分野では、異年齢集団による教育活動というものは大変私は意味のあることだと思いますので、今後ともそれが進んでまいりますように、これは努力をしていくべきことだというふうに思うわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/68
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069・有島重武
○有島委員 ありがとうございました。
高石局長さん、何か具体的な措置をとられるような御用意ができますでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/69
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070・高石邦男
○高石政府委員 まず、具体的に今、自然教室、これを一千校五十九年度からやっておりまして、こういうものはやっぱりその異年齢の活動の格好な場所になると思いますので、そういうような学校教育の教育の中で展開するとか、それから給食、清掃、スポーツ活動、そういうもろもろの場でそういうことが推進されるように指導してまいりたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/70
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071・有島重武
○有島委員 私がこの間見てきたのは、一年生から六年生まで十二人でグループをつくらしてやっていって、それが一年に一遍河原に行って飯ごう炊さんをやってくるんですね。それを六年間今まで続けたそうですよ。そうすると、昔一番ちびだったのが今や六年生なんですね。そのグループ長になっている上級生が、はしっこい人だとかのろい人だとか不器用な人、いろいろいるものだから、そのグループはうまくいったり割食ったりいろいろなことがあるわけですね。それを四年生が助けたりいろいろなことをやっていました。それはやはりこれから十年、十五年と二十一世紀まで続いていけば、それが相当な効果を生んでくるのじゃないだろうか。今局長が道徳教育の研究指定校の話をなさいましたけれども、これは二年間ですね。私はその二年以後にその指定校がどういうふうになっているかというのも幾つか聞いてまいりましたけれども、ちょっとくたびれちゃってあれやめちゃいましたというようなことも報告を聞いたことがございます。これは気長くできるようにやってもらいたいと思います。
あと幾つか用意してありましたけれども、もう時間が参りましたので、この辺で私はやめます。あと大学の問題、単位の互換の問題、放送大学の問題、こうしたことについて、それからなお臨教審の問題について、教育基本法の問題について、またチャンスを得て議論をさせていただきたいと思います。きょうはこれで終わります。
ありがとうございました。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/71
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072・阿部文男
○阿部委員長 中野寛成君。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/72
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073・中野寛成
○中野(寛)委員 新しい大臣の所信表明を聞きながら、大変意欲的に日本の教育行政の推進、そしてまた教育改革に取り組もうとする意欲をお示しになられまして、私どもそのことについてでき得る限り国会の立場から御協力もしなければならないと思いますし、同時に、世論を喚起して国民の納得する教育改革をなし遂げていきたいものだと、私どもまた改めて肝に銘じた次第でございます。
さて、その教育改革でありますか、臨教審に関係して一、二お尋ねをしておきたいと思います。
私ども、臨教審につきましては、別に私どもが提唱したからできたなどとは、自分の政党のパンフレットみたいなことは言いたくありませんが、ただ、少なくとも私どもも臨教審の提唱者の一人であったという気持ちで、その臨教審の審議、そしてこれからの答申に至るまでのプロセス、またその答申の内容等に期待もし、その実現を大いに図っていきたい、そういう気持ちに変わりはありません。また、それだけに、臨教審のあり方について私どもなりの強い希望も持っているわけであります。
ただ、最近の臨教審の動きを見ておりますと、委員の皆さんの御発言、確かに自由なのでありますが、その個人プレーに果たして行き過ぎはないのかというふうなことが私どもも時に心配になるわけであります。
論議はその審議会の中で、部会にしろまた総会にしろ大いに闘わせていただきたい、こう思いますけれども、我々が期待しておりますのは、そういう論議が闘わされてそれが集大成をされて、そして国民の納得する答申が生まれる、その答申に期待をしているのであって、臨教審委員の一人一人の個人プレーに期待をしているわけではないわけであります。ゆえに、私どもとしては、臨教審に国民の目を引きつけるという意味でのいろいろな努力は評価をいたしますけれども、その主張、内容等について個人プレーがどんどん行われるということについては若干心配をいたしております。
そこで、本来臨教審とは、答申をまとめるために、私ども今まで臨教審をつくる前から常々申し上げてきたことは、自分の意見を外に向かって発表するのではなくて、国民各階層大多数の皆さんの教育改革に対する意見を聞き、それを集約する役割を果たしてほしい、国民のコンセンサスをその中でつくり上げていく、聞く耳を持った謙虚な姿勢の中でこそ教育改革を論じてほしいということを要望し続けてきたわけであります。ところが、むしろしゃべることの方が多くて、聞くことの方が、公聴会その他はされておりますけれども、形式に流れているということがあるならば、これは大いに注意をしていただきたい、こういう感じがいたします。
そこで、臨教審の事務局の担当者の方から、その辺のことについて、ここでこうして論議をした我々の意思がお伝えいただけるかどうか、まずお尋ねをしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/73
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074・齋藤諦淳
○齋藤(諦)政府委員 臨教審設置法を国会で御審議いただきました議事内容につきましては、逐一委員め先生方にお配りをして、十分その点について、国会で審議された事項について配慮をしていただくような仕方をとっておるわけでございます。
なお、先生が今申されましたことにつきまては、例えば教育改革提案のヒアリング、二月から三月にかけて御案内のように行われたわけでございますが、これは既に五十六団体からの意見をヒアリングをされた。それから、総会なり部会における外部の講師とかいろいろな団体からのヒアリングもあったわけでございますけれども、従来の数で言いますと六十五人並びに十五団体から話を聞いておられるという状況になっておるわけでございます。
なお、そのほかに、御案内のように公聴会の開催等も行われているわけでございますけれども、そういう今先生の御指摘になったようなことは十分踏まえて審議会が運営されているのではないか、こういうように考えているところでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/74
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075・中野寛成
○中野(寛)委員 我々のこういう文教委員会等で論議したことは逐一それを臨教審にお伝えいただくということでありますから、それは子としたいと思います。でき得ることならば、臨教審会長初め部会長等々からそういうことについての御配慮がいただけるということの御返事が何らかの形でいただけるならば、我々としては大変ありがたいと思います。
同時にまた、重ねて申し上げますけれども、その臨教審の審議の内容が公開されることは、最初から、国会の設置法の審議の段階から望まれていたことであります。むしろ公開にしたらどうだという意見、しかし公開はなかなかできない、結局、審議の概要を公表をするということで今日に至っているわけであります。また、その一助としてこの「臨教審だより」等がつくられたとするならば、それはそれで大変意義のあることだと思います。しかし、こういう中で、「教育改革論争シリーズ」などといって、その論議のエキサイティングな部分を意図的にこういうものに載せて、そしてあおろうという、その意思があるかなしかにかかわらず結果を招来するということは、やはり私どもは避けていただきたい、こういう感じも強くするわけでございます。
そういう意味で、臨教審の方々のそういう私どもの希望に対する御返事が何らかの形でいただけるかどうか。そのことによって私どもは、臨教審の——実は先般の予算委員会で、私は、臨教審の会長を参考人として呼んでいただきたいということを申し入れました。しかし、その予算委員会の理事会でそのことがまとまらない状態の中で、残念ながら実現をいたしませんでした。私は、諮問をした総理大臣及び臨教審の会長にお聞きをしたいと思っておったわけでありますが、それは実現をいたしませんでした。しかし、今も私どもが申し上げたようなことがはっきりと臨教審の方々のお気持ちの中に伝わり、そしてそういう気持ちを体してやっていただけるという御意思をお聞きすることができ、そしてそれが実行に移されるならば、答申が出るまでこれ以上何をか言わんやという気持ちがいたしておるわけでありますが、いかがでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/75
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076・齋藤諦淳
○齋藤(諦)政府委員 国会で御審議いただきました事項につきましては、その都度、必要な事項について審議会に私どもの方から事務的にお伝えをするという、できる限りそういう方策を今までもとっているわけでございます。
したがいまして、それにつきまして審議会でどのように御配慮いただくかということにつきましては、ちょっと私の立場からは今言えるわけではございませんけれども、従来から何分注意をして運営されているところでありましょうから、十分その点についても配慮してこの件についても御審議いただけるもの、こういうように考えているところでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/76
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077・中野寛成
○中野(寛)委員 できますれば、こうした公の席上といいますか、この委員会に来ていただいて、今の私の質問についてお答えをいただくということは要求をいたしませんけれども、できれば委員長でもそういうことでお話し合いをしていただければありがたい、こういうふうに思いますので、御要望申し上げておきたいと思います。
それでは、次に、文部大臣にお尋ねをいたしたいと思います。
もちろん臨教審でも、教育基本法のこと、そして教育理念のこと、これらのことについて論議がなされております。もちろん教育基本法の精神にのっとってその臨教審の教育改革案というものはつくられなければならないことは設置法にも明記をされております。時として、教育基本法をも変えなければいけないような、または変えるべきであるかのごとき意見が個々に出されているような印象または報道がなされていることも承知をいたしております。そういう論議は、教育改革を勇気を持って思い切った改革、なすべきことをなすために必要な導入部だというふうに考えたいと思いますけれども、最終的にはきちっと委員各位の良識の中でそのことが消化されるであろうというふうに期待をいたしておりますが、少なくとも、やはり国民に誤解を招くような逸脱した意見表明や論議がなされることは、私どもとしては好ましくない。かえって教育改革というのは余計な混乱を招かないように注意しなければ失敗するものだと思います。
そういう意味で、大臣としてもその辺のことについて十分御留意をいただき、またしかるべき方法を講じていただければと思いますが、いかがでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/77
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078・松永光
○松永国務大臣 臨教審の委員の先生方、専門委員の先生方は、臨教審設置法を十分御承知の上で委員及び専門委員に御就任していただいているのでございます。同時にまた、極めて識見の高い人たちでありますから、当然のことながら、今次教育改革が教育基本法の精神にのっとって行われるものであるということも御承知のところでございます。
ただ、議論の過程におきましてはいろいろな意見も出てくるわけでありますが、例えば、先刻も議論になったわけでありますけれども、教育基本法の九条に「宗教教育」という項目がございます。「宗教に関する寛容の態度」などというものが規定されておるわけでありますけれども、それはどういうことを意味するのだろうか、もっとわかりやすく言えば、宗教的な情操という言葉の方が正しくはないのだろうかなどという御意見を出されたりするわけでありまして、それは、教育基本法九条をよりわかりやすく説明するとすればこういうことではなかろうか、こういう意味だというふうに私は理解をしております。
例えば、一部の委員の人は、国を愛するというようなことが記載されてないじゃないかなどという意見もございますが、教育基本法第一条の「人格の完成」その他教育基本法を流れる理念の中には、やはり自分の国を大切にし、また国家社会の形成者として国の発展のために尽くす、そういう心を培うということもこれは教育基本法の目的の中に入っているというのが、従来からの文部省、政府の考え方であります。だとするならば、もう少しわかりやすくつけ加えてみたらどうか、こういう意見なのでありまして、これも教育基本法第一条の「教育の目的」に反するわけじゃないのですね。
そうしてさらに、教育基本法の見直しという言葉をお使いになった方もありますが、これは、その教育基本法のよさを改めて再確認をしたい、こういう意味であった一おやじを見直すという意味なんだ、こういうことが後で「臨教審だより」の中で記載をされておったわけでありまして、そういうことでありますので、ある意味では、教育改革に関する国民の関心を高めたいというお気持ちがあった上でのことではあったと思いますけれども、総じて言えば、教育基本法の精神を逸脱して議論をなされているとは私には思えません。いずれも教育基本法を御理解の上、また臨教審設置法の規定に基づいて、改革意見を出すべく大変な努力をしていただいているというふうに私は承知しておるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/78
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079・中野寛成
○中野(寛)委員 国民が知る、また私どもが知る場合には、どうしても活字を通じて知る、またはその他の報道を通じて知るわけでありまして、でき得る限り、その刺激的なまたは誤解を招くような言葉というのはお互いに慎まなければいけませんが、今後とも臨教審の委員の方々の良識を期待したい、こう思います。
ただ、大臣が今、教育基本法を見直す、このことについては、おやじを見直すという意味と同じような意味での見直すという言葉の使い方、これは私はやはり言いわけだし詭弁だと思うのです、そのときの本音はね。しかし、私はそれをけしからぬと言って今追及しようとは思いませんし、追及する相手も今ここにいるわけではありません。
しかし、私はそれに関連して、逆に私流に言わせていただければ、こう思います。教育基本法に盛られている教育理念の一層の具体化を図るということ、そして、教育基本法に述べられている言葉の中身をもう少し具体的に掘り下げて、その解釈についてのコンセンサスを得ていこうとする努力、これを見直しと考えたいなと思うわけであります。単に、おやじを見直すという言葉と同じ意味でのほれ直すという見直しは、うーん、きょうはいい料理をつくった、これでおれも女房をまた見直したわい、これではちょっと見直しの意味が余りにも軽過ぎるのではないかという感じがするわけであります。
そこで申し上げたいわけでありますが、教育基本法には、「教育は、」「真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して」行うべきだ、こう述べられているわけであります。しかしながら、「真理」はまあわかるとしても、「正義」とはどういう意味だ、これは人によって正義に対する解釈は随分違います。しかし、そのことについて掘り下げて論議をされたことはないと思います。
また、「個人の価値をたっとびこの「個人の価値」とはどういうことを称して個人の価値と言うのか。例えば個人主義、民主主義、いろいろな言葉がありますけれども、この個人の価値とは何を指すのか。これは解釈のしようによっては極めて利己主義的な解釈もできましょう。しかし、個人の価値とは、本来の意味からすれば他人の価値を認めることでもありましょう。これらのことについて、はっきりとした意思の疎通といいますか、解釈はされていない。
また、人間としての責任、「勤労と責任を重んじ」と書かれておりますが、この「勤労」はわかるとしましても、「責任を重んじこの「責任」とは一体何であるのか。言いかえれば、それは義務という言葉に置きかえることもできるのか、いろいろな解釈の仕方があると思うのであります。
また、愛国心という言葉につきましても、国という言葉につきましても解釈の違いがあります。こういうことについて大臣の御見解をお聞きしたいと思います。正義とは一体何だ、個人の価値とは一体何だ、人間としての責任とは一体何なのか。
もう一つ、「民主的な国家」という言葉が使われております。民主的な国家とは一体どういう国家を指すのであろうか、民主的でない国家とは一体どういう国家を指すのであろうか、これはわかりません。私には私の民主的な国家像があります。しかしながら、統一された見解はありません。それぞれに解釈を違えて主張をお互いにしているわけであります。民主的国家の反対は非民主的国家などという言葉でごまかせる問題ではありません。民主的な国家とは一体何なのか、民主的でない国家とは一体どういう国家なのか、この解釈もまたそれなりに国民のコンセンサスが得られなければならない課題だと私どもは思います。
教育基本法の見直しとは、教育基本法の精神、言葉、そういうものについてもっと具体的に掘り下げて論議をして、そして国民のコンセンサスが得られるというところに、教育改革をスムーズに進めていき、なし遂げていくためのまず基本があると思いますが、大臣はどのようにお考えでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/79
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080・松永光
○松永国務大臣 先生のおっしゃいますように、教育基本法の文言は必ずしも確定的な定義に基づいてみんなのコンセンサスができておるとは限らないと思う。その意味で、先生御指摘のように、この教育基本法の文言について、正しいといいましょうか、そういう解釈をいたしまして、そしてその解釈について国民的なコンセンサスを得られるような、そういう努力をしていくことは極めて大切なことだというふうに私は思います。
なお、個々の事柄でございますが、私は、教育基本法に言う「正義」というのは、一般的に言えば、正しい筋道、人の行うべき正しい道義を意味するというふうに解釈いたしております。
それから、「個人の価値」というのは、各個人が持っておる自然的な資質、能力、個性等を意味すると思います。
それから、「責任」でございますが、これは自分の義務を忠実に果たすということでありまして、その義務の中には、単に法的な義務だけではなくして道徳的なものも含まれておるというふうに私は解釈いたします。
それから、「民主的」という意味は、憲法の定めておる議会制民主主義、そしてまた憲法の定めておる個人の基本的人権を尊重し、そういうことを前提にした民主主義だというふうに私は思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/80
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081・中野寛成
○中野(寛)委員 この質問そのものが酷だったろうとは思いますけれども、大臣の御解釈は決してそれが間違っているとは思いません。おっしゃるとおりだと思います。しかし、今おっしゃられたことで教育現場が、家庭の人たちが、子供がわかるでしょうか。納得するのでしょうか。そこに問題があると思います。今大臣がおっしゃられた言葉をもう一つ解釈するときに、みんなの意見が違ってくるのであります。「民主的」という言葉も、また同じことが言えると思います。そういう意味で、私どもはもっともっとかみ砕いた本当に国民みんながわかりやすいものがあわせて必要なのではないか、こう思うのであります。教育基本法を変えろとかなんとかというのではありません。教育基本法の精神をもっと正しく国民が理解し得る方法が必要なのではないのか、このことを私は申し上げたいわけであります。
また、あわせて、今人間としての責任とは義務を果たすこと、社会的義務を果たすことだと言われた大臣の御答弁、それはそれとして御明確であります。しかし、学習指導要領にそのことが書かれてあっても、果たして教科書にどれだけそのことが述べられているのでしょうか。今日までるる教科書問題を私どもの同僚もやりました。権利については、基本的人権については、どれほど詳しく書かれているかわかりません。しかし、社会的義務を果たすことについては、残念ながら、「義務」という言葉さえ入っていない教科書さえ存在するのであります。
そう考えますと、私どもは、この教育基本法というものの理念が、より具体的に、より国民の統一された、統一されたと言えばまた誤解を招くかもしれませんが、共通の意識の中で解釈をされ、そしてそれが実行に移される、その努力が必要だと思います。臨教審もしなければなりますまいが、当然これは文部省のお仕事であると思いますが、大臣いかがでしょうか。
〔委員長退席、船田委員長代理着席〕発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/81
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082・松永光
○松永国務大臣 教育基本法の解釈についての国民的なコンセンサス、これは大切なことであろうと思います。そしてまた、教育基本法に「責任」という文言がきちっと入っておるのに、具体的な教科書等の中には権利が余りにも多く書いてあるけれども、それに対応する義務とか責任ということが余りにも少ないという御指摘があることも私は承知いたしております。権利の裏側には義務があるわけでありまして、自分の権利を主張するならば自己の責務を果たしていかなければならぬわけでありますし、また同時に、他人の権利を尊重する義務がこちら側にはあるわけであります。そういう意味で、正しい解釈、そしてまたその解釈に基つぐ具体的な学習指導要領なりあるいはそれに基づく教科書等について、公正な教科書等が編成されなければならぬというふうに思うわけであります。それはそうなされるように、法律に基づく仕組みに基づきまして検定その他を通じてやっておるわけでありますけれども、なお足らざる点があるならば、今後ともそういう点については留意をして努力をしていかなければならぬというふうに思うわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/82
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083・中野寛成
○中野(寛)委員 その場合に、教科書の作成、検定、教科書をめぐる問題は今日までも随分多くの論議がなされました。私も幾たびか取り上げました。しかし、その検定も、実は明確な法律に基づいて行われているわけではありません。文部省が検定をすることの合法性はもちろん認めます。しかし、教科書のあり方、つくり方、配付の仕方、検定のされ方、これらのことについて、もっと国民の意思がその中に盛り込まれた、すなわち法律に基づいた裏づけのある検定がなされなければなりますまい。法律に基づいたということは、国会の意思に基づいた、すなわち国民の意思に基づいたという意味であります。そういう意味で私ども——いや、これ以上お調べいただかなくて結構です、ここで教科書の検定方法について論議をしようとしているのではありませんから。そういうことについても前向きの姿勢で御検討なさる御用意がありますかどうか。これは事前に通告した質問の中にはありません。ただ、今大臣がお答えいただいたそういうものを具体化しようと思えばそういう作業も必要になってまいりますが、どうお考えか、一点だけお聞きしておきます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/83
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084・松永光
○松永国務大臣 先生の御意見は貴重な意見として受けとめさせていただきまして、勉強させていただきたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/84
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085・中野寛成
○中野(寛)委員 これ以上追及しますまい。私は本当に真剣に検討していただきたいと思います。
私は新人議員のときにお尋ねしたことがあるのです。大臣の御答弁の中には、勉強いたします、検討いたします真剣に検討いたします。前向きに検討いたします、あの当時に私が一時間ほどの間に数えましたら、答弁の種類が十六個か十七個ありまして、その解釈がさっぱりわかりませんでお尋ねしたことがあったと思います。今の、参考意見として、貴重な意見としてということで、それほど前向きの御答弁ではありませんけれども、しかし具体的に今大臣がお答えになられるということはできないだろうと思います。それを理解しますので、今のお言葉が単に国会における社交辞令的答弁ということにならないことを期待して次に移りたいと思います。
もう一つ、教科書の問題で、教育勅語について、大臣どうお考えでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/85
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086・松永光
○松永国務大臣 教育勅語は、日本が敗戦後、国会においてその廃止の決議がなされたものでありますけれども、教育勅語を読んでみますと、その中には、個々の徳目として今の世におきましても守っていくべき事柄も記載されておるというふうに私は思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/86
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087・中野寛成
○中野(寛)委員 教育勅語は今の時代になぜ合わないのでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/87
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088・松永光
○松永国務大臣 教育勅語の中の個々の徳目につきましては、今の時代でも合っておるものが多々あるというふうに私は思っておるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/88
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089・中野寛成
○中野(寛)委員 教育基本法が昭和二十二年四月一日発効、二十二年まで教育勅語は生きておったかと思います。ゆえに教育基本法は教育勅語にかわって生まれたものではないわけであります。しかし、いずれにせよ教育勅語はその後廃止されました。なぜでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/89
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090・高石邦男
○高石政府委員 教育勅語の中には現代でも十分守っていかなければならない内容がございますが、そのほかに、例えば「一旦緩急アレハ、義勇公ニ奉シ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ。」というような、いわば戦後の平和主義、新憲法に合わないような内容もあり、国会においてこれを廃棄されたわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/90
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091・中野寛成
○中野(寛)委員 文章上読めばそういうことであります。そのことは何を意味するか。私は、国に対する解釈、そして国と国民との関係が終戦前と終戦後では変わったということだと思います。すなわち、戦前は国民を統治する組織を国家の実体と考えて、その最大の統治者が天皇と位置づけられて、そしてその臣民としての位置づけが国民に与えられておったわけであります。そして、その統治組織のために、国家のために臣民である国民が奉仕をする姿勢が基本的にあった。しかし今日は、国家、国という言葉は国民共同体という意味での国家にその解釈が変わったわけであります。すなわち、一定の地域に住む、歴史及び文化を共有することによって共同体意識を持つ人々が、一つの組織のもとで共回生活をしている状態を、今は国家と呼んでいるわけであります。ゆえに、国を愛するという場合には、自分の家族、自分の郷土、自分の出身校、そういうものを愛するのと同じ意味、それがひいては国を愛し人類を愛するという気持ちに発展をしていくわけであります。国を愛することができない人が世界的な人類愛を持つことができるわけはない。家族を愛することができない人が国を愛することができないと同時に、他の国々を愛することだってできっこない。そういう意味で、国民共同体への愛が今の愛国心でありましょう。そういうものがきちっと表現をされておったならば、教育勅語——まあ勅語ですから今の時代にはなじみませんが、しかし、内容的にはそういう精神であるならば問題はなかったでしょう。そこに立場の違いが起こったわけであります。ゆえに、よく最近は教育勅語の見直し、これこそおやじを見直すという意味での見直し論が一部で出ているわけであります。
しかし、私どもは、その教育勅語が列挙している個々の徳目、そういうものは、先ほどの御答弁と同じように私どもも認めますけれども、権力機構としての国家のための手段として、すなわち臣民として人間を認めている教育勅語を認めるわけにはいかない、こういうことでありますから、我々は、これらの現代でもあるべき徳目を人格主義の基本原理に立って再構築しなければなりませんし、それはまさに教育基本法の望んでいるところでもあろうというふうに思います。それをより一層具体的に述べなければいけますまい。
そういう意味で、私どもは、決して第二の教育勅語という意味ではなくて、基本的に国家、国民の意味が変わった今日現在の時点の、すなわち教育基本法の精神にのっとった、より一層それを具体化したわかりやすい、私どもが今日まで数年申し上げ続けた、最近臨教審でもその言葉が取り上げられたそうですが、教育憲章が検討の素材となってもいいのではないかと御提案を申し上げてきているわけであります。
人格とは、正義とは、民主的な国家とは、私がお尋ねしても、大臣の先ほどのような抽象的なお言葉の答弁しか得られないわけであります。それを端的に表現する方法をみんなで考えなければいけないのではないでしょうか。急に私が聞いたから答えられなかったというのではなくて、そういうものに対する具体化する認識をみんな持っていないから、今の大臣の御答弁になったのではないのでしょうか。これらの私どもの考え方について、大臣の御所見をお聞きしたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/91
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092・松永光
○松永国務大臣 我が国の教育の基本的なあり方、理念というものは、教育基本法に定められておりますし、教育基本法を私どもは正確に解釈をし理解をしながら教育を進めていくことによって、我が国の教育は立派になし遂げられていけるものと私は考えておるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/92
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093・中野寛成
○中野(寛)委員 例えば、今月「しつけの定着をはかる 中学校における基本的生活習慣の指導」というのをお出しになりました。そしてまた「現代の家庭教育」、こういうものをお出しになられました。いろいろこうして工夫をされております。
しかし、結局どうしてもこれは手法です。基本的に人間のあり方、教育のあり方、そういうものについてもっと国民が共通して持ち得る認識というものは、もっとわかりやすい言葉で、もっとみんなが共通の言葉で語り合えるような内容で存在しなければいけないのではないでしょうか。教育憲章などというタイトルにこだわりません。むしろ何かそのようなものが必要なのではないのでしょうか。例えば、今病気で寝ておられる方がおつくりになられた五つの大切とかなんとかというのがありました。ああいう形でやられますと、どんなにわかりやすいものでも、その人の選挙対策につくったのかいなみたいなことになってしまいます。「期待される人間像」、こういうものもやはり出し方に問題があります。
ゆえに、つくる過程から大変にこの問題は神経を使わなければいけませんけれども、例えば、今臨教審が一つの活動をしている、そういう状態の中で、臨教審が内容を提唱するのではなくて、例えばこういうものをどうしたらいいかということで国民に呼びかけるという方法から始まったとするならば、私は、一つの大きな世論を喚起することにもなるでしょうし、国民の皆さんの教育に対する認識をもっと強めることにもなるでしょうし、そしてその結果が及ぼす効果は大変大きいと思うのであります。こういうことについてどうお考えでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/93
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094・松永光
○松永国務大臣 先生の言わんとしていらっしゃるところ、私は個人としては理解できる点が多々あるわけでありますが、ただ、今から二十数年前でございましたか、「期待される人間像」といったものを明らかにしてはどうだなどということが起こったことがございました。しかし、それが結局は途中で立ち消えみたいな形になってしまったわけでありますが、教育憲章などという名前にこだわらないという話でございますけれども、要は、どういう事項を盛り込むか、その他いろいろ検討すべきこと、しかも慎重に検討すべき事柄もあるわけでありますし、二十数年前の結局は実らなかったそのいきさつ等もございますので、これは慎重に対処すべき事柄だなというふうに私思うわけです。
私の立場からすれば、現段階におきましては、我が国の教育の根本理念は教育基本法に定められておるという答弁しかできないわけでありまして、御理解を願いたいと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/94
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095・中野寛成
○中野(寛)委員 教育基本法だけではなかなか理解されないからいろんな混乱が生じているでしょうと、まあ随分いろいろなことを先ほど来申し上げて、そして最後にすとんと、教育基本法に書いてありますと、また答弁がもとに戻っちゃうわけで、大臣の表情を見ておれば、決してそんな今のお言葉だけの、しかし言葉だけしか速記録には載りませんので、大臣の顔色、表情までは載らないものですから大変残念でございますが、お気持ちを酌んで、この問題はおいておきましょう。しかし、個人的にはわかるとおっしゃられたその大臣の今後の御工夫、御努力を期待をしたいと思います。
さて次に、教育行政、政治の教育に対するかかわり方についてお尋ねをしたいと思います。
戦後の教育行政改革の基本原理とされたものは、民主化、地方分権化、一般行政からの独立、これが民主的教育行政の基本概念でもまたありました。そしてまた、それは、民主化とは教育行政の法律主義である、地方分権化とは教育委員会制度の創設というような形をとったりいたしました。これは一般行政からの独立においてもという意味でも教育委員会制度の創設という形がとられたりいたしました。しかし、果たしてそれだけで今本当の意味でのこの言葉が機能しているのであろうかという疑問を持ちます。
例えば、一般行政からの独立、本当に独立できるのでしょうか。不可能だと思います。どこかの市の予算、それが苦しくなれば、教育行政も苦しくなるのです。一般行政からの完全な独立なんてできっこありません。本当は、これを正しく言いかえるとすれば、一般行政との調和と総合化というものが今は必要になってきているのではないのでしょうか。
それと、地方分権化。地方分権だけで教育は進められるのでしょうか。地方分権化、正しい言葉だと思います。私もまたそれは必要だと思います。それは中央集権に対する、それを行き過ぎる、または中央集権化することを戒めるための言葉としての意味も含めて、私はそれなりに評価をいたします。しかし本当は、中央と地方の機能分離と協調化が今は必要なのではないでしょうか。そういう意味で、例えば教育の自主性尊重主義も必要であります。
しかし、これは私どもがつくりました政策集からちょっと文章を読みますが、
教育基本法は、教育の専門性と教師の教育権=自主性を規定するとともに、教育行政の目標を教育の目的の遂行に必要な諸条件の整備確立であると規定し、教育の自主性尊重を認めている。教育行政が教育に不当な支配を行うことが厳に戒しめられることは、この見地から当然である。
ただし、行政機関が国民の信託に基づいて行政を執行する以上、教育行政機関が、教育内容、方法について関与することは当然であり、この意味で教師の自主性の保証は有限なものである。「必要かつ合理的と認められる」ときには、教育行政機関は教育内容・方法に介入しうるとする最高裁の判断は、蓋し当然の判断である。
こういうふうに私どもは規定をいたしました。
本当は、今申し上げましたようなことが明確に確立されませんと、これからも教育現場における混乱が生じるわけであります。よく私どもが使いますが、戦後の政治は中央集権化を目指す文部省とそれを崩そうとする日教組との対決の図式の中にというような言葉をよく演説用語として使いますけれども、それも、今申し上げたようなこういう問題がちゃんと整理されていなければなおさら続くでしょうし、ますます混乱するでしょう。
今私が申し上げた教育行政の教育に対するかかわり方について、基本的にどうお考えでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/95
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096・松永光
○松永国務大臣 戦後の我が国の教育行政に関する法令というものは、戦前の国家統制的な中央集権的な教育行政に対する反省の中から、現在の制度、仕組みは生まれてきたというふうに私は理解しております。
それともう一つは、最近はその傾向はやや少なくなったと思いますが、戦後の法律は、戦前の法律に比べますと、やや体系的な面が欠けておるような感じがしないでもありません。そしてまた、戦後の行政に関する法律等は、それに関与する人が良識を持って解釈、運用するという前提でつくられておる法律が多いと私は思っております。で、教育行政に関する法律も、さようなわけで、それに携わる者たちが良識をもって解釈をし運用するという前提でできておる法律だというふうに私は理解をいたしております。戦前の法律は、非常に精巧に組み立てられた誤解の余地のないそういう法体系になっておった。戦後の法律は、それとは別に、良識ある人が良識を持って解釈し運用するという前提でできておる法律だ、そういうふうな感じを私は持っておるわけであります。教育行政に関する法律もさような色彩の法律並びに政令だ、こう思っておるわけでありまして、いずれも関係者の良識に基づく解釈及び運用がなされなければスムーズに運用されないんじゃないか、こういうふうに私は思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/96
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097・中野寛成
○中野(寛)委員 随分文部大臣らしいお言葉で、何か人間は随分良識的な存在ばかりということで御答弁をなさいまして、感心もいたしましたが、しかし本当にそうですか。政治の現場というのはそういう状態の中で本当に運用されているんでしょうか。国民の皆さんの教育現場及び教育行政に対する不信感がこれだけ募っているのはなぜなんですか。今の大臣のそのお言葉だけで済まされるのならば、教育の改革は要りません。問題意識を大臣がお持ちでないのかあるのか。お持ちならば、やはり今おっしゃられたような戦前と戦後の法律の性格について専門家として大臣がそうお考えだとするならば、それはそれで今欠陥が出ているのではないんでしょうか。私はむしろ、大臣がお答えになられたそのときに、ならばどうすると一言お聞きしようかと実は今思ったのです。そのまま放置されるのですか。
今私がいろいろ、幾つか具体的に申し上げました。時代が変わってきて、単なる地方分権化という言葉だけでは済まされません。単なる民主化という言葉だけでは済まされなくなった、こういう新しい時代に対応するためには何らかの方策が必要です。それについてのお答えもありません。それで本当にこれからの日本の教育行政、最高責任者として担当しておられて大丈夫なんですか。
今申し上げたいろいろなことについて、本当は真剣に研究しなければいけない時代を迎えている。真剣にその対策を講じなければいけない時代を迎えている。臨教審もある意味ではそのために生まれたと言って過言ではないでしょう。しかし、文部省の本音は、その臨教審を必要としない、みずからがやろう、やれるというのが基本的な文部省の本音だったと思います。ならば、それなりに文部省としての積極的な姿勢が必要ですが、どうですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/97
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098・松永光
○松永国務大臣 戦前の法律は何々すべしという命令、指揮命令に服しなかった場合には処罰があったり制裁があったりする、そういう形の法律が多かったと私は思います。戦後の法律の中にはそういう規定はない。しかし、権力を持ってやるべき行政の場合には、ある場合が多いでしょう。しかし、教育行政というのは、広い意味の福祉行政みたいなものでありまして、やはりそこにはお互いの良識で解決、処理していく、実はそういう分野の行政なんであります。その意味で、例えば地方の教育委員会の教育行政に対して指導助言ということがあるわけでありまして、指導助言に服しなかった場合にはどうするかなどということについては必ずしも明確な規定はない、こういった点があるわけでありますけれども、それは教育行政の本質から来ているんだろうと思います。実際の教育の現場に携わる人たち、教育行政に携わる人たちの良識というものがそこにあるという前提で戦後の教育行政に関する法令はできておると私は思います。教育行政の本質からいって、命令、命令を聞かない場合には処罰などという法体系はなじまないものだというふうに私は思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/98
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099・中野寛成
○中野(寛)委員 命令、処罰を法律の中に明記しなさいなんて一言も言っておりません。それが教育になじまないことは百も承知。私が申し上げておりますのは、例えば先ほどの教科書の検定でもそうなんです。行政法上の話をしているのです、法律主義というのは。これは法律をつくれということが目的ではないんです。例えば文部省だとか地方の教育委員会だとかまたは特定の機関なり人間なりの恣意によって教育というものが左右されるのではなくて、本当に民主的に能率的に行われていく、そういうことが必要なのではありませんか、こういうことを申し上げたわけであります。
ゆえに、民主化というのは今までの基準としてよく使われた言葉でありますけれども、しかし、私たちは、その民主化を認めるとしても、今申し上げたような明確な国民の共通認識が得られる方法によって行っていく、そういうことが教育をもっと充実した、もっと明るい、もっとみんなが積極的に、いじいじしないで、何かにびくびくするような姿勢ではなくて、もっと生き生きとした教育が進められるために、そういうけじめというか、何か一歩を乗り越えた明確な姿勢というものがその中に必要ではないのか。今日までの何かおろおろとしたような姿勢、そういうふうに私どもの目には映る、しかし、何かのときにはきばをむき出すような印象を持つ、そういう文部省の教育行政姿勢というものに私はいら立ちを覚えてならないわけであります。
そういう意味で、法律主義であるなし、戦前、戦後の法律の性格論を今論じようとしているのではありません。むしろ、この行政の姿勢について大臣はどうお考えなんですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/99
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100・松永光
○松永国務大臣 文部省の教育行政、学校教育法、地方行政組織法等々の法律及びそれに基づく政令等を的確に運用しながら、教育行政の本質にのっとって、まずは的確に対応しながら行政を進めておるというふうに私は思っております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/100
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101・中野寛成
○中野(寛)委員 きょうは余り各論について触れる気持ちはありませんでしたから申し上げませんけれども、こういう今申し上げたような政治のまた行政の教育に対するかかわり方を、もうちょっと大臣、個々の論議だけではなくて、整理しませんと、今後とも教育現場の混乱が相変わらず引き続いて起こるであろう、混乱が起こったときに明確な対応がとれない、そのことだけは申し上げておきたいと思います。
いろいろ申し上げたいことがあったのですが、次に進ませていただいて、以前にも取り上げましたが、色覚異常、色盲色弱の問題についてちょっと、今までと全然問題が違いますが、お尋ねをしたいと思います。
色覚異常という言葉も色盲という言葉も、正直言って余り好きではありません。しかし、これは慣用語ですから、好き嫌いや、またはそれを差別用語だなどとけちをつける気も別にあるわけではありません。しかし、色覚異常といいます、異常とは常ではない、常とは異なるということであります。色盲、これもまた色に関して盲目であるようであります。これもまたちょっと違うのであります。しかし、そういう言葉しか今はありませんからその言葉を使いたいと思いますが、私もまた実は赤緑色盲であります。赤い色と緑の色との区別がつかぬので、交通信号がわかりにくくて、運転免許もとれないで大変不自由をいたしますが、先ほど、大臣、言葉だけではわかりません、ただ大臣の表情や顔色を見てこう解釈しますと私は申し上げたのですが、実は顔色が見えておりません。大臣がお怒りになって、そこで赤い顔になられようと、寝不足で青い顔をして出てこられようと、実はそれは大臣のお顔が赤いとか青いとか私に見えるのではなくて、きょうはちょっと色が黒いとか色が白いとかという感じにむしろ見えるのであります。いろいろな不自由なことがあります。体育の時間に、例えばサッカーだとかラグビーだとか、そういうことをやるとすれば、例えば白とピンクのユニホーム同士でやったとすれば、我々には実は敵味方の区別が大変つきにくくなります。これは服装でもそうです。私自身なかなか中間色を選んで着ることができません。
今回、先般私も指摘をいたしましたし、参議院の方でも御指摘があって、ことしの教科書から図表だとかいろいろなものの色分けをはっきりして、色覚異常者にもわかるようにということの御配慮がなされるようになりました。地図等でもそういう御配慮がなされるようになりました。私も実物を拝見をいたしまして、なるほどこれならおれにもよくわかると思って、大変うれしいニュースでございました。しかしながら、実はもっともっとたくさんの問題があるわけであります。
ここにこうしています、人のことを言ってはいけませんけれども、恐らく、そちらにいらっしゃる方々はどうか知りません、公務員の採用の場合、どういう条件があるのかわかりません。前に座っておられます白川先生も、この話をしておりましたら、実はおれもそうだという話がありました。一つの教室で男の子が二人ぐらいは大体色覚異常者だということですね。全国で三百万人。女性の場合には極めてまれにしか表に出てきませんけれども、色覚異常、色盲遺伝子は男性と変わらない人数持っているのですね。そういう方々の女性を加えると全国で六百万人の人たちがこの問題で不自由をしたり心配をしたりしているわけです。これは実は国会で私はたびたび取り上げたのですが、ほかの委員会なりほかの方々なりが取り上げるとか、また、厚生省がこういうことについて積極的に研究をしているとかと聞いたことがありません。しかし、これは大変な問題なんです。身体障害者ならばいろいろな措置がなされているのです。しかし、色覚異常者は身体障害者の扱いを受けていないのです。だって、生まれながらのものなんですから、病気でもないわけですから。しかしながら、異常と言われるように、そうでない方々のためにつくられたようなこの社会の中では、実は大変不自由をすることが多いのであります。
文教委員会ですから学校の問題を取り上げましたけれども、例えば高校進学のために公立高校を受験しようと思いますと、美術の試験はありません。ペーパーテストならまだ幾らかわかりますけれども、しかし、ありませんが、日常の図工の時間の点数は内申書に書かれているのです。内申書とそして受験のときのペーパーテストの成績と合算して合否が決まるのです。理科の時間に、実験をしましょう、はい、リトマス試験紙が何色か、こうなりましたね、わからぬのです。明確なのはわかります、鮮やかなのはわかりますけれども。そういうハンディを背負っている人たちに対する配慮は今回の教科書改正だけです。
私は、小学校の二年生のとき、図画の時間に、おい中野、おまえは変な色でかくな、そんな間違った色でかくなと注意されました。実は、山を茶色で塗っていました。これも白川先生もおっしゃっていた。おれはクレヨンに茶色とか赤とか書いてあるあの紙を大事に最後まで残すようにした。実は私も同じ経験があります。だって山は、木は緑だとみんなが言うから、緑と書いてあるクレヨンを持って緑でかく。ところが、見たままかこうと思ったら、どれを使ったらいいのかわからないのです。今でもしょっちゅうあることなんです。学校の先生が、おまえ変な色を使うな、間違った色を使っている。友だちは友だちで、ああ、おまえ色盲だったのかと変な目で見る。上の学校へ行こうと思って、例えば大学受験しようと思って、例えば教職員課程を受けようと思ったら、まずそこで引っかかりますね。お医者さん、だめでしょう。最近は文科系だってだんだん窓口が狭くなっていくのですね。就職しようと思ったら、事務系の仕事、職場でさえ最近は書類整理に色紙を使うのですね。だんだん狭くなっていくわけです。しかし何も配慮がないのですよ。受験案内の中にどういうことが書かれているか、これはもう次々全国の大学並べたら本当にいろいろなことが書かれてありますよ。「赤緑色弱及び青黄色盲は各学科とも認めない。」これは水産大学校。姫路工業大学の事例では、「色盲の者は入学に対して別に差し支えないが、就職のときに不利になることがあります。」という注意書きが書いてある。これは今たまたま目についたところだけです。大学の名前とその条件がずらっと羅列されているのです。こういうものに気がついたときの子供のショックというのは大変なものです。学校の教育現場における配慮、点数の問題、いろいろな実験をしたりするときの問題、体育の時間のとき、そして進路指導、あらゆる分野において、例えば教員採用だって、小学校の先生は図画も教えなければいけないから色盲はだめ、こうなるといよいよ狭くなる。しかし、全国には先ほど申し上げたように色覚異常者は三百万人いると言われているのです。これらの問題について厚生省もしっかりした資料をお持ちじゃないのです。しかし、さすが文部省ですね、学童の中に何人、何%色覚異常者がいるかという数字だけはお持ちでした。そして毎日のようにこの本の広告が新聞に載っておりますね。「やっぱり治る色盲色弱」。でも、厚生省に問い合わせても、色弱色盲は治るという証明は恐らくしてくれませんね。この解釈だって、この本を書いた人たちだって、これはうそだとか本当だとかまやかしたとかいろいろな説があります。そういう状態の中で私たちは宙ぶらりんに置かれております。私はいいですよ。私のことを言っているわけじゃない。でも、私の子供を含めてこれからの青少年たちは大変な状態に置かれますよ。これらに対してどういう対応をとられるのでしょうか、お尋ねをいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/101
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102・松永光
○松永国務大臣 色覚異常児の問題は大変大切な問題だと思います。去年の国会で先生の御論議があったそうでありまして、それを受けて文部省もいろいろ対応を考えているようでありますので、そのことについては事務当局から答えさせます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/102
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103・高石邦男
○高石政府委員 先生御指摘のように、教科書につきましては、来年度から使用される教科書から改められるようになります。これを手始めにいたしまして、学校教育の指導の面ないしは評価の面においていろいろ対策を考えていかなければならぬ問題があろうと思っております。そこで、昨年十一月には各都道府県教育委員会の協力を得まして、学校現場における色覚異常の指導上の実態調査、そしてそれぞれの学校においてどういう取り扱いをしているかということを調査研究したわけでございます。そして、指導主事の研究協議会においても、このテーマをもとにして論議を重ねておるところでございます。まだこれから具体的な対応とか研究をもうちょっと進めていかなければなりませんが、いずれにいたしましても、教科書の問題を皮切りに、発端として教育上積極的な対応を考えてまいりたいと考えております。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/103
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104・中野寛成
○中野(寛)委員 やっと腰を上げていただいて、大変評価をしたいと思いますし、その作業ができるだけスピーディーに、しかも正確に進められることを私は期待したいと思います。
同時にまた、この実態について、これは青少年の将来に対する希望の問題にもつながるのですね。そうすると、労働省等を通じてもっと就職等についての窓口も広げられるように、そしてまた厚生省においては、この色覚異常の実態についてもっともっと詳しく掘り下げて研究もしていただかなければいけないと思うのです。そういう意味で、閣僚の一人として大臣から、これをきっかけにしてそういう各省庁にまたがった広域的な色覚異常に対する呼びかけ、そういうものをお願い申し上げたいと思うのであります。
例えば交通信号でも、青、黄色、赤、この青の上に丸をつけて黄色の上に三角をつけて赤の上にバツをつけていただいたら、私でも免許証取れるのです。今、両手両足のない方が自動車を改造して免許を取れるのですな。そういうことについて、これは当事者、とりわけ青少年にとって極めて深刻な問題なものですから、そういう意味で文部大臣が中心になってこの問題解決の音頭をとっていただきたいと思うのであります。いかがでしょうか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/104
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105・松永光
○松永国務大臣 今のお話、まことにごもっともと思いますので、努力してまいります。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/105
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106・中野寛成
○中野(寛)委員 大臣、心から御期待申し上げたいと思います。
続いて、海外子女教育についてお尋ねをいたします。
これは、さきの予算委員会で私もしつこく大臣にお尋ねをいたしましたが、残念ながら、その段階では私の質問について大臣から的を射た御答弁をいただけませんでした。そこで、総理に常識論として基本的にどう思うかというお尋ねをして、常識論としてこれは前向きに努力しなければという抽象的な総理の御答弁をいただいて、その場をおさめました。しかしながら、それでは進まないわけでありまして、改めてきょうお尋ねを申し上げたいと思うのであります。
実は、ことしの春も大変でした。帰国子女の進学、とりわけ高校への進学について私どもにも随分御相談をいただきました。文部省の手も煩わせました。しかし、制度的にまたは施設的に不十分でありますから、文部省の担当の方に個々具体的事例について御配慮いただいたりいろいろ手を尽くしていただいても、なかなか思うようにはまいりませんでした。そういう意味で、これはもっともっと施策として大いに充実をしていただかなければ、これからの日本にとってゆゆしい問題だと思いますし、国際化ということだけではなくて、海外に飛躍する企業もあれば勤められる方々もいる、そういう日本人独自の問題としてでも大変重要な問題、ましてそれが国際交流にも大きな役割を果たすとなりますと、これはますます積極的に取り組んでいただいていい課題だと思うのであります。
そういう意味で、今古い数字しか手元にありませんが、昭和五十八年現在、海外で教育を受けている子供の数が、義務教育年齢層で約三万六千人、帰国子女の数は、小中高等学校在学相当数で昭和五十七年一年間に約九千六百人に上っているわけです。ことしあたりはもっともっとふえているはずであります。現在、海外子女教育ということになりますと、日本人学校、これは昭和五十八年五月現在で全日制七十四校、生徒の数は一万五千人、補習授業校が九十五枝、生徒数が一万二千人、合計百六十九枝で二万七千人ということになっております。もちろん先進国の場合には現地の学校へ行くことも多いのでありますが、開発途上国、発展途上国になりますと、なかなかそういきませんで、やはり全日制の日本人学校の設置が要望されているわけであります。しかし、それが設置されましても、そこを卒業してその国の高校へ行こうと思うと、これが行けない。高校へ行くために日本へ帰ってこなければいけない。帰ってきたけれども、必ずしもそういう地域的ハンディを背負った子供たちが日本の中学生と対等に受験競争というわけにはなかなかいかない。言葉のハンディもある。そう考えますと、よほど受け入れ態勢はしっかりしたものをつくらなければいけますまい。まだまだそのことが実は不十分であります。
もう一つ、現場で中学を卒業した、例えば日本人学校を卒業して、何とかその国の言葉も覚えた、その国の高校へ行きたい、行けるようにしてあげたらどうでしょうか。日本で外国人学校があります。アメリカンスクールその他、これは各種学校扱い。そこを卒業して公立の高校、国立大学へ行けないのですな。
そこで、この前、私が御提案申し上げたのは、外国に住んでいる日本人子女の教育を充実させるためには、まず日本にある外国人学校を公的に認知する。こっちもやりましたのでおたくの国もお願いしますという方法しか相互主義の中でなかろう。こっちが何もしないで、そっちだけとりあえずやってくださいと言ったって、向こうは向こうで国の主権があり、教育方針があり、いろいろな制度があるのですから。しかしながら、こっち側が先にそういうものを改善して進めるということになりますと、相手の国もまた考えざるを得なくなってくるでしょう。みずからの制度、施設の充実とともにそういう問題にも目をつけて御努力をいただけませんか。実態は大臣御存じだと思います。いかがですか。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/106
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107・松永光
○松永国務大臣 海外で働いていらっしゃる方の子供さん方の進学問題、教育問題、非常に深刻な問題であるという認識を私も持っております。特に、海外で働いていらっしゃる方は、ただでさえ国内で働いているよりも苦労が多い場合が多いのでありまして、その上に子供の教育の問題について頭を悩ましあるいは負担をかけるというのは、まことに忍びないことだというふうに思いますので、今先生の御指摘の問題は、これは今後とも真剣に取り組んでいかなければならぬ問題だ、こう思います。
海外でもいろいろ地域地域によって差がございまして、今先生御指摘のように、先進国の場合には教育水準も相当高うございますから、そこで主として向こうの学校に入って、ただ足りない面を補習学校等で補っていく。したがって、先進国の場合には、主として補習学校をいかにして充実していくかという問題が当面の問題ではないかな。しかし、発展途上国の場合には、これは日本人学校の整備充実かな。問題は、その帰国された場合の進学の問題でありますが、今申したようなわけで、補習学校がよく整備され、そして充実をしてきた、こうなればやや問題が解消されてくる。発展途上国の場合の日本人学校、これが整備され、内容が充実されてくれば、これまた問題が少しは軽くなってくる。
その次は、向こうからお帰りになった場合の受け入れ校の問題が実はあるわけでありまして、これは日本の国内で充実していかなければならぬ問題なんでありまして、これの充実も図っていかなければならぬ、こういう問題があるわけであります。
今先生の御指摘は、向こうの学校に進学できないじゃないか、こういう問題でございますが、これもいろいろ種類がございまして、先進国の中では日本が向こうでつくる学校を向こうの法律に基づいて私立学校として位置づけてくれる、そういう国もありますし、そうでない国もあります。いろいろ雑多でございます。
今先生の御指摘は、日本の国内にある言うなれば外国人学校、これを言うなれば学校教育法の一条項的なものに位置づけてくれないかという御指摘かと思いますけれども、これにはまたいろいろな問題がございまして、だとすればその認可はどの役所がするのか、教育課程、学習指導要領あるいは教科書の問題、それからまたそれらに違反することがあった場合の処置をどうするか、大変複雑でかつ難しい問題があるようであります。過去に外国人学校という法律案を出したときに、それが残念ながらできなかった、つくれなかったのも、そこらの大変難しい問題があるからなんであります。
そこで、当面はどういうことかというと、先ほど申し上げましたような外国にある補習学校の充実、日本人学校の充実、そして国内の受け入れ態勢の整備、これは着実に進めていかなければならぬし、飛躍的に増強していかなければならぬというふうに私は思いますが、同時に、大学等の入学資格等の問題の場合には、これは現在臨教審でも大学入学資格の問題についていろいろ議論がなされているようでありますが、それらの問題の一環として検討を加えて解決をするように努力をしていきたいものだ、こう考えておるわけでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/107
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108・中野寛成
○中野(寛)委員 外国人学校を、これは学校教育法の改正かな、それで一たんやられた、そのときはだめだった。それからもう一つ、最初の方で質問をいたしましたときにも、「期待される人間像」か、ああいうのもうまくいかなかったということで、これはなかなか難しい問題。「期待される人間像」ですね、ずっと最初、教育憲章のことで質問いたしましたが、どちらにいたしましても、「期待される人間像」というものはやはりそのときのプロセスが悪かったのですよ。そしてまた外国人学校の問題は、やっぱりその時代になかなか今ほどの、国際感覚だとか時代認識というものが今と違ったわけでしょう。だから、何かに懲りたらもう後はちょっとこれは難しいからやりません、難しいのですということでは進みませんね。私はやっぱり、そういう問題点を克服してそしてやっていこう、変に非民主化するようなことを勇気を持ってやられたのではたまりませんけれども、しかし、なすべきことは思い切って根気強くやっていくという基本的な姿勢が必要だというふうに思います。
その以外のことについては、大臣、大変問題意識をお持ちですし、積極的に取り組まれようということですから。このことについては御要望を改めて申し上げておきます。
ただし、私学の問題だとか、家庭教育と学校教育の関係のことだとかをお尋ねしようと思っておりましたが、時間がなくなりました。御担当の方には失礼ですが、また時期を改めてお尋ねをさせていただきたいと思います。
最後に、矯正教育についてお尋ねをいたします。法務省の佐藤さん、お待たせをいたしまして恐縮です。
例えば、少年非行に陥った青少年、少年院などでいろいろ取り組んでいただいているのですが、これに取り組む機関というのは、家庭裁判所、少年鑑別所、少年院、少年刑務所、地方更生保護委員会、保護観察所、保護司、更生保護会等々いろいろなものがあります。しかし、これはほとんどが法務省の管轄下にある機関なんですね。
実はこの矯正教育、少年院等の中で学校と同じような授業もあるわけなんですが、そこを出ましてもまたもとの学校に戻されるのですね。もとの学校のもとの教室に戻ってきて、友達はその子供をどんな目で見ますか。これからやり直そうと思ったって、そういう雰囲気になりますかしら。何か今までのところ文部省の御答弁は、できません、クラスがえとかまたは校区以外の別な学校へ行くとかというのはなかなかできませんという答えをするのですけれども、実態をわかっているのかしら、その子供の気持ちになって考えているのかしら、正直言って私は疑問に思わざるを得ません。
就職をした、その会社の社長さん、そういう子供たちの更生に大変手を尽くしたということで表彰状を受けておられる。しかし、そこの労働条件を見てみたら、賃金は安くたたき、おまえどうせここをやめたら働くところはないのだからなと言ってこき使う。最悪の労働条件のもとで働かされていたという実態まで出ている。しかし、だれもその子供の言うことを聞かないのです。おまえはどうせ少年院上がりだと言って、言うことを聞いてくれないわけです。
非行を防止することは大事なのです。しかし、そういう子供たちの更生を助けていくことにみんなで手をかすこともなお一層大切なのです。そういうことについて、そういう実態と今後のあり方について法務省と文部省からの御答弁をお願いして、多分これが最後の質問になろうかと思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/108
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109・松永光
○松永国務大臣 御指摘の問題、私いろいろな考え方があろうかと思います。案外、よその学校に行くことによって前がわかってそしていじめられるということもあるかもしれませんが、しかし、普通は別の学校に行った方があるいはいいような感じがいたします。ただ、前の学校に戻って、ああこれは生まれ変わってきたんだ、温かくしてやろうというような雰囲気が一番望ましいと思いますけれども、現実はそうでないと思います。そうすると、学校区というのですか、要するに選択の自由が非常に狭められておる。特別の理由がある場合には指定がえができるということになっておるのだそうでありまして、そこらは教育上の配慮をして、そしてその子がもとの学校ではない別の学校に行くことによっていろんなことの嫌さがなくなって、そして本当の意味で更生していけるということであるならば、指定がえということが制度上ある以上、そういう運用を積極的にやっていった方が望ましいのじゃないかな、私はこういうふうに思います。
ただし、常識的に言えば別の学校に行った方がいいような感じがいたしますが、実際はどうなのかをよく検討して、法務省の意見等もあろうかと思いますので、教育上の配慮を十分すべきであると私は思います。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/109
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110・佐藤一男
○佐藤説明員 法務省教育課長でございます。
ただいま先生御指摘のように、最近の少年非行の低年齢化傾向を反映しまして、少年院新収容者のうち中学生の占める割合は逐年上昇しております。昭和五十八年には五千八百十九人が全国少年院に入っておりますが、そのうち一四%に当たる八百二十五名が中学校在学中の者でございます、
少年院におきましては、学校教育法に基づきまして、主として中学校の課程を履習させるために、中学校学習指導要領等に基づきまして教科教育課程に編入した上で教科教育を実施しているところでございます。
私どもとしましては、復学を要する対象者につきまして、少年院に入院した直後から学校側と緊密な連携をとりまして、復学についての調整を図っております。現に昭和五十八年中の出陳者のうち中学生であった者は全国で百六十七人でございますけれども、全員が出身中学校に復学しているということでございます。その間個々のケースにつきましてはいろいろ調整に難航した事例もございますけれども、少年院側と学校側と緊密な連絡をとった上でそのような調整を図られているということでございます。何しろ中学生でございますので、保護者のもとに返すということを私ども最重点的に考えておりますので。そのような結果になっておるというふうなことでございます。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/110
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111・中野寛成
○中野(寛)委員 時間が来ましたので端的に申し上げますが、その保護者が問題の場合が少年非行の場合非行少年が多いのです。その運用については十分に考えていただきたい。実態をいろいろ同僚議員と調査をいたしますと、やはりそこでまず現実には問題が起こってしまうということが多いのであります。形式論でなかなか済まないということ。それからもう一つは、文部省と法務省とこの問題についてもっと緊密な連絡をとって、一回その今後のあり方、対策を協議していただきたい。今まで私どもが聞いている範囲ではそういう協議というものが必ずしも十分ではないように聞いておるわけであります。これは現場だけではなくて、法務省と文部省のもっともっと緊密なこの矯正教育に対する対策というものが考えられてしかるべきだ、こう思います。
私学に限らず公立高校を含めて、中学校を卒業した子供たちが高校へ入学試験を受けようとしますと、入学試験を断ることはできないのですが、採点の際もしくは入学を認めるか認めないかという判断の際に、少年院出身ははねるのです。私どもが調べた結果、九人を調べた結果九人ともはねられたのです。成績が悪かったのではないのです。私学の校長先生等に聞きますと、そういう方々が入りますと経営が成り立ちません、保護者にも問題がある家庭が多うございますからそういう方々は暗黙のうちに拒否をいたしますというのが校長先生方の本音でございます。こういう問題を放置しておったのでは大変なことです。単によく言われるお役所仕事にならないように、本当に実態を調べて、その中に入り込んで、こういう問題に真剣にメスを入れ対策を講じてください。時間が来ましたから、そのことをお願いを申し上げて終わります。
ありがとうございました。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/111
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112・船田元
○船田委員長代理 この際、内閣提出、国立学校設置法の一部を改正する法律案を議題とし、趣旨の説明を聴取いたします。松永文部大臣。
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国立学校設置法の一部を改正する法律案
〔本号末尾に掲載〕
—————————————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/112
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113・松永光
○松永国務大臣 このたび、政府から提出いたしました国立学校設置法の一部を改正する法律案について、その提案理由及び内容の概要を御説明申し上げます。
この法律案におきましては、鹿児島大学に医療技術短期大学部を併設することといたしております。これは、近年における医学の進歩と医療技術の高度化、専門化に即応して、資質の高い看護婦及びリハビリテーション関係技術者を養成しようとするものであり、本年十月に開学し、昭和六十一年度から学生を入学させることを予定いたしております。なお、これに伴い、同大学医学部附属の専修学校を廃止することといたしております。
このほか、昭和四十八年度以後に設置された医科大学等に係る職員の定員を改めることといたしております。
以上が、この法律案の提案理由及びその内容の概要であります。
何とぞ慎重御審議の上、速やかに御賛成くださいますようお願いいたします。発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/113
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114・船田元
○船田委員長代理 これにて趣旨の説明は終わりました。
————◇—————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/114
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115・船田元
○船田委員長代理 次に、小委員会設置の件についてお諮りいたします。
義務教育諸学校等における育児休業をめぐる諸問題について調査検討するため小委員十五名から成る義務教育諸学校等における育児休業に関する小委員会を設置いたしたいと存じますが、御異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/115
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116・船田元
○船田委員長代理 御異議なしと認めます。よって、さよう決しました。
小委員及び小委員長の選任につきましては、委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/116
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117・船田元
○船田委員長代理 御異議なしと認めます。よって、さよう決しました。
小委員及び小委員長は、委員長が追って指名し、公報をもってお知らせいたします。
なお、小委員及び小委員長の辞任の許可及び補欠選任につきましては、あらかじめ委員長に御一任願いたいと存じますが、御異議ありませんか。
〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/117
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118・船田元
○船田委員長代理 御異議なしと認めます。よって、さよう決しました。
次回は、公報をもってお知らせすることとし、本日は、これにて散会いたします。
午後五時四十分散会
————◇—————発言のURL:https://kokkai.ndl.go.jp/simple/txt/110205077X00419850329/118
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